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文化財防火デーの消火訓練

 1月26日は文化財防火デーである。昭和24(1949)年1月26日、法隆寺金堂で発生した不審火の火災により、貴重な障壁画等が失われたことを教訓とし、昭和30(1955)年、文化財保護委員会(現在の文部科学省文化庁)と国家消防本部(現在の総務省消防庁)が、この日を「文化財防火デー」に制定した。今年が61回目である。
 三溪園には国指定重要文化財が10棟、横浜市指定文化財が4棟ある。なお全国には文化財保護法(1950年=昭和25年)の指定する重要文化財(建造物)が関西を中心に多数あり、昨年末指定分で4,695棟(うち国宝は271棟)、同じく美術工芸品は10,573件(うち国宝は872件)ある。
 現在の文化財保護法の淵源となる1897(明治30)年の「古社寺保存法」は、明治政府による廃仏毀釈政策で見捨てられる古い神社や寺院を保存しようと、岡倉天心やフェノロサが先導して制定されたもので、原三溪の古建築移築も天心の影響を強く受けていることから、三溪園とは殊のほか深い縁がある。
 三溪園のシンボルタワーとも呼ばれる旧燈明寺三重塔は、室町時代の康生3(1457)年、京都の木津川に建立、明治時代に廃寺となり、100年前の1914(大正3)年、ここに移築され、今は国指定重要文化財となっている。
 今回の消火訓練は「茶店雁音茶屋の裏山で来園者の投げ捨てタバコにより火災発生、火が山上の三重塔に迫っている」と想定したもの。事前に、①山手消防団長あて訓練協力の依頼文発送、②本牧三之谷町会長あてに周知文書の回覧依頼文発送、③園内の茶店3軒に周知文書発送、④来園者への周知掲示を行い、事前訓練を24日(土曜)に行ったうえの、本番の訓練である。
 26日(月曜)は比較的暖かく、9時半過ぎから日が射してきた。午前10時、訓練開始。
 巡回中の警備員が火災発生を発見、大声で「雁音茶屋横で火災発生、三重塔にも火が迫っている。至急、消火活動を始めてください」と叫ぶ。同時に火災報知機と電話で火災発生場所と状況を管理事務所に通報。
 管理事務所は火災受信機の点滅を確認、ただちに川越寛副園長の指示で分担作業に着手。①係員1が119番通報、②係員2が自衛消防隊(その日の在勤職員)招集の園内放送、消火活動を指示、③係員3が来園者の避難誘導、④係員4がエンジンポンプを起動、自動式放水銃の放水開始。
 119番通報では、火災現場や放水準備に必要な情報を簡潔明瞭に伝えなければならない。「こちら本牧三之谷58番の1の三溪園です。訓練火災が発生しました。火が迫っている三重塔は、正門を約100メートル入った山上にあります。地上から20メートルの位置に建ち、塔の高さは約24メートルです。」
 初期消火は、火災発見者が備え付けの消火器3本を放射、ついで園内放送で駆けつけた三溪園自衛消防隊員と警備員が2号式消火栓2基を放射。次にポンプエンジンを起動させ、自動式放水銃3基から放水。
 同時に火災発生場所に近い中央広場付近の来園者を安全な内苑入口付近まで誘導、また負傷者等に対応する救護所を三溪記念館エントランスに設置。
 中消防署の小野和夫署長の下、北方・本牧和田両消防隊20名と消防ポンプ車2台、および山手消防団10名と消防ポンプ車1台が到着、統率の取れた機敏な動きで一斉放水、ついに鎮火と、一連の作業がシナリオ通りに進められた。
 消火訓練を終えて中央広場に集合、中島哲也総務課長の進行で、講評が行われた。園長講評では、消防署と消防団に謝辞を述べ、われわれ職員は貴重な文化財建造物を守る責任を遂行するため、日常的に防災を心がけているが、今後とも消防署と消防団の皆様方にご支援いただきたいとお願いした。
 中消防署長の講評では、500年余の伝統を持つ重要文化財を守る責任の大きさに触れた後、なによりも初期消火が重要であり、現場の自衛消防団の迅速な行動が不可欠と強調された。
 119番通報で消防署及び消防団が到着するまでの約10分間、この間の初期消火が決め手になる、鎮火できないまでも、火勢を弱めることで被害を小さくできる(減災)、とのこと。
 われわれ三溪園の職員一同は、この10分間を肝に銘じなければならない。
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光画と写真

 「エバレット・ブラウン湿板光画展-三溪園をめぐる-」が1月30日から始まる。昨年暮れ、頑丈な三脚に暗幕をつけた、大きな箱型のカメラを構えるブラウンさん(56歳)をよく見かけた。正月からは現像作業にも入り、いよいよ大詰めである。
 三溪園のパンフレット「花と行事」には、次のような説明がある。
 「ブラウンさんはフォトジャーナリスト、いまは「時を超えた日本」の記録をおもなテーマに、写真家として国内外で精力的な活動を展開しています。…湿板写真として生み出された、三溪園に宿る日本の美を紹介します。」
 デジタル写真がすっかり普及したが、その前身をフィルム写真、乾板写真(ガラス乾板)、湿板写真と遡っていくと、1837年にフランス人ダゲールが発明、1839年に公表したダゲロタイプ(daguerreotype、銀板写真)にたどり着く。
 銀板写真機は、早くも1843年、オランダ船で長崎に持ちこまれ、蘭学者の上野俊之丞が機材をスケッチしているが、現物は残っていない。撮影した作品で現在に残る最古のものは、ペリー艦隊(1853~54年)来航に同行したE.M.Brown Jr.の作品20点で、宮崎壽子監訳『ペリー提督日本遠征記』(2014年、角川ソフィア文庫)の上下巻のカバーにも使われた。
 ブラウンさんは、銀板写真に次ぐ湿板写真(コロジオン写真)を使う。1851年、イギリス人F.S.アーチャーの発明したもので、この方がたやすく現像でき廉価なため一挙に普及した。B5版ほどの大きさのガラス板にコロジオンを塗り、硝酸銀溶液に浸して感光させ(これがネガ)、和紙等に何枚も印画することができる。シャッター速度は屋外で約10秒と短縮されたが、室内の襖絵等では数分はかかるとのこと。
 湿板写真機で幕末から明治初期の日本の風景や人物を撮影したのがフェリーチェ・ベアト。横浜開港資料館の公開映像や小沢健志・高橋則英監修『レンズが撮らえたF・ベアトの幕末』(2012年、山川出版社)で見ることができる。外国人の旅行制限が強い開港直後(1859年~)、横浜や東海道の一部等、旅行の許された地域の風景を残す。
 私も歴史史料としてベアト等が残した写真や都市横浜の発展を示す風景、あるいは写真が普及し写真館が生まれる過程等に関心があり、斎藤多喜夫さん(横浜開港資料館)の研究、『幕末明治横浜写真館物語』(2004年、吉川弘文館)や『横浜もののはじめ考』(1988年初版、2010年第3版、横浜開港資料館)等に教えられることが多い。写真資料は、髪型や服装、食べ物や道具類、消失した建物等を一目瞭然に伝える。
  「写真」という語彙は「実際の様子をうつしとる」、「ありのままを描く」の意味で、古くは平安時代から使われてきた。そこに幕末、ダゲロタイプ等に出会うことで、「感光性物質の光化学的変化を利用して物体の画像をつくる技術、また、その画像」にも使われ、現在の「写真」の意味を持った。
 それに対して「光画」(「光の画」)という語彙は、「写真」(「真を写す」)の正確さより、心に映る眼前の世界を描く芸術作品の意味合いが強いように思う。今回の展示では、ブラウンさんの狙いを容れ、「湿板光画展」と銘打っている。
 彼の作業場で、溶液や湿板を前に、調合の難しさや現像時間の微妙な変化について質問を重ねるうちに、私は墨絵の濃淡を整える感覚に似ているようにも感じた。
 ブラウンさんは言う。「薬品の漏れは焼き物の窯変のようです。…この1枚の被写体のなかの焦点部分に目が行くと、その周辺はぼけて見えませんか。実際に見る対象物も、焦点部分と周辺部分は同じピントにはなっていません。見えるままを正直に写すのが光画だと思います…」
 確かにデジカメ写真等は、焦点となる部分のみならず、四隅を含めてすべて均質の解像度である。一方、湿板写真(の近景撮影)の場合は、焦点部分にピントが合えば、その周辺はぼやける。周辺がぼやけることにより、逆に焦点部分がはっきり見える。これを美として表現するのが「光画」ではないか。
 私は「朦朧体」(もうろうたい)という明治後期の日本画の技法を思い出した。美術用語事典類から抄録すれば、「明治時代後半期の没線彩画の手法を用いた日本画の画風。横山大観、菱田春草らが、岡倉天心の指導と、洋画の外光派に刺激されて、伝統的な線描を用いず、絵具をつけない空刷毛を用いてぼかすことにより、空気や光線などを表わそうとした、日本画の新しい表現の試み」であり、当初は悪意と嘲罵で「朦朧体」と呼ばれたが、その後「浪漫主義的風潮を背景に西洋絵画の造形と正面から取り組み、近代日本画に革新をもたらした」と高く評価されるようになる。
 テーマ「時を超えた日本」は、映像の原点へ戻る旅と言い換えられるのではないか。作業場で濡れたガラス板に写る映像を目にしたとき、デジャヴュ(既視感)が目覚め、いつか、どこかで見たような懐かしさを覚えると同時に、新しい美の表現に触れたように感じた。

三溪園の正月行事

 日本庭園の三溪園は、四季折々に相を変える。背後の山々の樹木は自然の遷移に任せるが、古建築・茶室・石造物や各種の植栽は、季節の変化に応じ、それらがもっとも美しくあるように設計・配置されている。
 造園の基本設計は、創始者の原三溪(1868~1939年)その人である。明治後半の1902(明治35)年、鶴翔閣(横浜市指定有形文化財)の完成とともに移り住み、4年後の1906年に外苑を一般公開後、さらに内苑の造園、移築、植栽等を進め、茶室を設計・建造、関東大震災の前年の1922(大正11)年、聴秋閣の移築をもって完成とした。
 内苑と外苑をあわせて総面積17.5ヘクタール(53,000坪)の広大な敷地に重要文化財建造物10棟、横浜市有形文化財3棟を誇る。12月29、30、31日の3日間のみ休園で、あとの362日(閏年は363日)を開園。職員はシフト勤務を組み、限られた人数で最大限の力を発揮しようと工夫をこらす。
 年間行事の計画策定は吉川利一さんが担当、広報もつとめてきたが、新年から事業課長に昇格、事業課長だった中島哲也さんは、退職された長塚光夫総務課長の職に異動、いずれも守備範囲はさらに拡がった。
 新体制をにらみ、新しい試みも重ねる。地図と古建築等の説明が入る4つ折りのパンフレット「三溪園」と、同じく4つ折りのパンフレット「2015年 三溪園 花と行事」の2つで、ほぼ概要を網羅する(なお英語版、中国語版、ハングル版もある)。毎日11時と2時の2回、それぞれ約1時間の、ボランティアによる無料ガイドもある。
 正月行事は、鶴翔閣において行われる。戦後しばらく使われなかったが、修復後の平成13年以来、正月行事はここで開催、今年で15回を数え、今や伝統行事となった。
 今年は元日(木・祝)に筝曲演奏(「アトリエ筝こだま」の児玉寛子さんと設楽瞬山さん)、2日(金)に庖丁式(横浜萬屋心友会よろづやしんゆうかい・興禅寺雅楽会)、3日(土)に北見翼さんによる和妻と呼ばれる日本の伝統的な手品・奇術(手妻ともいう)、4日(日)に能楽(横浜五人囃子の会、謡・和久荘太郎さん、笛・栗林祐輔さん、小鼓・森貴史さん、大鼓・大倉栄太郎さん、太鼓・大川典良さん)が行われた。
 2日の庖丁式については、パンフレット「花と行事」に次の説明がある。
※庖丁式とは式庖丁とも呼ばれ、食材には手を触れず箸と庖丁のみで魚や 鳥をさばく伝統的な儀式。神や天皇に料理を捧げるにあたって、今から1100年ほど前の平安時代にその作法が確立したといわれている。その後公家や武家の間にも広く行われるようになり、今日では調理に対する心構えを磨くたしなみとして、おもに料理人の間に受け継がれている。
 横浜萬屋心友会(会員約20名の料理人の会)は、四条心流(四条流の一流派)である。四条心流が元祖と崇める四条流は、奈良時代の(獣)肉食禁止令(7、8世紀)後、平安時代の9世紀に入り日本料理中興の祖・藤原山蔭(四条中納言)が定めた料理法で、公家の間に流行した。
 時代が下って室町時代の長享3(1489)年(この年に京都で銀閣寺上棟)、『四条流庖丁書』(多治見備後守貞賢の奥書)が作られ(『群書類従』所収)、公家文化を真似た武家社会にも「おもてなし」の流儀として拡がった。四条流のほかに四条園流、大草流、生間(いかま)流、三長流等の流派があり、『大草家料理書』等も残る(『群書類従』所収)。
 『四条流庖丁書』は、檜(ひのき)の俎(まないた)の図(尺寸表記を換算して約85㎝×60cm)を掲げ、その中央に「式」の字、四隅には右上の「朝拝」から時計回りに、「四徳」、「五行」、「宴酔」の文字を配し、ついで「筋(はし)之事」「刀之事」として図や寸法等を記す。今回の庖丁式の道具や作法もこれによるところが多い。
 魚は「上ハ海ノ物、中ハ河ノ物、下ハ山ノ物」と一般則を述べるが、実際には鯉(こい)を最上位に置き、幾種類も出すときは、鯉の後に鯛(こい)等を出すべしとある。
 庖丁式は全国各地で行われ、東京では神田明神や湯島天神等、鎌倉では鶴岡八幡宮等で神事として奉納される。また昔は、鶴や鴫(しぎ)や雉などの鳥類も使われ、例えば正月28日、宮中清涼殿での儀式の絵図も残るが、明治に鶴が保護鳥となってからは行われない。
 三溪園の庖丁式は、港町横浜と初夢にちなんだ“宝船の鯛”(ほうせんのたい)で、鯉を使ったのは一度だけである。
 2日、特別公開の鶴翔閣の楽室棟が、人々で埋め尽くされた。床の間には「四条山陰中納言命」と肖像画等の掛軸3幅が並ぶ。11時、司会者の下、5人の雅楽隊が入場、演奏に導かれて白の直垂(ひたたれ=武家の代表的衣服)に烏帽子(えぼし)姿の後見人(全体の進行を監視する「親方」)が所定の位置に座り、色違いの直垂姿の4人が庖丁や真魚箸(まなばし)等を運び込んだ。
 最後に白の直垂姿の包丁人が登場、俎上の大鯛を、庖丁と真魚箸だけで巧みにさばく。切り身で作った「宝」の字の、左に頭を、右に尾を、それぞれ船首、船尾に見立てて置き、波状に切った身を波頭に整えて“宝船”を完成、約1時間の儀式を終了した。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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