若き学友との対話
ゼミを持たなくなって10余年になる。横浜市立大学長のとき(1998年~2002年)も、学生のパワーを身近に感じたくて、大学院ゼミ(修士・博士課程)だけはつづけさせてもらったが、これが最後のゼミとなった。
それから10余年の間にデジタル化が一挙に進み、メールという通信手段が発達、ウェブ検索の機能も著しく高まった。私自身は1984年からワープロを覚え、パソコンへ移り、情報交流技術=ICT(Information & Communication Technology)の波にかろうじて乗り遅れずに来た。都留文科大学学長ブログを連載、いまもブログを書いているのも、キーボードに慣れていたおかげである。
幸いなことに、最近、大学の教え子でもない、ネット社会のICTを通じて知り合った若い研究者で、いずれも拙著を読んだのがきっかけと言う知人も増えた。これを「若き学友」と呼びたい。
今年5月、村松伸東大教授のメールを介して、西澤康彦名古屋大学教授から30年ぶりに連絡をもらった。当時、大学院生だった村松さんや西澤さんが、建築史家・松村貞次郎東大教授の下、日本近代建築の調査をほぼ終えて、アジア近代建築へと対象を広げた。
その一次成果の刊行をめざした時、アジア近代史を専門とし、都市史にも関心を持つ人物として私に声をかけてくれ、私を編著者として『アジアの都市と建築』(1986年、鹿島出版会)を出版したが、それ以来の縁である。その西澤さんの用件の1つは、陳雲蓮さんという教え子に私のメールアドレスを教えて良いかというものであった。
間もなく陳さんから、「昨年、ケンブリッジ大学の図書館で先生のご著書を何度も拝読して、日本に帰ってから、ぜひ加藤先生にお会いしたいと思っていました。」と完璧な日本語のメールが届いた。
彼女は日本学術振興会の外国人特別研究員PD(ポスドク)として西澤さんが受け入れ、若手研究者海外派遣プログラムにより2012~2014年春まで2年間、ケンブリッジ大学で資料収集の最中、大学図書館で拙著『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年、増補版ちくま学芸文庫 1994年)等、私の研究に出会ったという。
中国の西安大学日本語学部を卒業後、交換協定により京都府立大学大学院で建築史を学び、博士論文を書いた。専門は工学系の建築史・都市史で、近代上海の都市形成史を軸に研究を進めている。
都市地図を経年的に比較する図面や設計図を起こす力があり、建造物や都市のハード面をよく知っている。建築家・建築事務所の細かい作業にも精通しており、内外の都市・建造物の調査経験も豊富にある。
加えて素晴らしい歴史的センスの持ち主で、漢文、英文、日本文(明治期の古い文体が主)の史料を発掘・収集する卓越した勘を持ち、それらを解読して、論文に組み立てる。
ケンブリッジ留学で英語に磨きをかけ、バイリンガルならぬトリリンガルの能力を生かし、史書の翻訳も始めている。それにとどまらず、文学を愛し、茶道の修行中で、ジョギングを欠かさない。一人にこれだけ多彩な能力が備わるものかと感嘆する。
日本語で研究発表をして11年目、専門書『近代の上海−国際競争が作り上げた都市』(仮題)にまとめる草稿の一部を受信したとき、「磨けば玉になる逸材」と直感した。以来、資料の解釈や全体構成等について相談に乗っている。
書名(仮題)が示す通り、建造物(主に商社や港湾施設)・運河・道路等、都市のハード面を精査するうち、その前提となる諸問題、すなわち新しい都市・上海を生み出し作りあげた主体に関心を拡げ、国家間の条約、地域の上海道台と諸国領事との交渉、上海租界の運営主体の構成と機能等のソフト面にも調べを進め、それが副題の「国際競争が作り上げた都市」に込められている。
主としてメールによる意見交換だが、あたかも活発なゼミのようで、たまの面談にも、巧みな表現力(日本語)で論を展開する。
最近の日本の歴史学界では、批判を避けようとするためか、課題を小さく設定する傾向が強いように感じる。歴史学の場合、若い頃にこの悪習に染まると、後々まで大きなマイナスになると痛感していた矢先に、陳さんは驚くほど貪欲に高い目標を設定し、一次資料を渉猟、独自の見解を論文の草稿の形で提示してくる。
博士課程ゼミ以上の真剣勝負である。もちろん私の知らない史実が幾つも含まれる。彼女のいっそうの成長を期待しつつ、私自身もまた成長しつつ、正面から応えていきたい。
それから10余年の間にデジタル化が一挙に進み、メールという通信手段が発達、ウェブ検索の機能も著しく高まった。私自身は1984年からワープロを覚え、パソコンへ移り、情報交流技術=ICT(Information & Communication Technology)の波にかろうじて乗り遅れずに来た。都留文科大学学長ブログを連載、いまもブログを書いているのも、キーボードに慣れていたおかげである。
幸いなことに、最近、大学の教え子でもない、ネット社会のICTを通じて知り合った若い研究者で、いずれも拙著を読んだのがきっかけと言う知人も増えた。これを「若き学友」と呼びたい。
今年5月、村松伸東大教授のメールを介して、西澤康彦名古屋大学教授から30年ぶりに連絡をもらった。当時、大学院生だった村松さんや西澤さんが、建築史家・松村貞次郎東大教授の下、日本近代建築の調査をほぼ終えて、アジア近代建築へと対象を広げた。
その一次成果の刊行をめざした時、アジア近代史を専門とし、都市史にも関心を持つ人物として私に声をかけてくれ、私を編著者として『アジアの都市と建築』(1986年、鹿島出版会)を出版したが、それ以来の縁である。その西澤さんの用件の1つは、陳雲蓮さんという教え子に私のメールアドレスを教えて良いかというものであった。
間もなく陳さんから、「昨年、ケンブリッジ大学の図書館で先生のご著書を何度も拝読して、日本に帰ってから、ぜひ加藤先生にお会いしたいと思っていました。」と完璧な日本語のメールが届いた。
彼女は日本学術振興会の外国人特別研究員PD(ポスドク)として西澤さんが受け入れ、若手研究者海外派遣プログラムにより2012~2014年春まで2年間、ケンブリッジ大学で資料収集の最中、大学図書館で拙著『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年、増補版ちくま学芸文庫 1994年)等、私の研究に出会ったという。
中国の西安大学日本語学部を卒業後、交換協定により京都府立大学大学院で建築史を学び、博士論文を書いた。専門は工学系の建築史・都市史で、近代上海の都市形成史を軸に研究を進めている。
都市地図を経年的に比較する図面や設計図を起こす力があり、建造物や都市のハード面をよく知っている。建築家・建築事務所の細かい作業にも精通しており、内外の都市・建造物の調査経験も豊富にある。
加えて素晴らしい歴史的センスの持ち主で、漢文、英文、日本文(明治期の古い文体が主)の史料を発掘・収集する卓越した勘を持ち、それらを解読して、論文に組み立てる。
ケンブリッジ留学で英語に磨きをかけ、バイリンガルならぬトリリンガルの能力を生かし、史書の翻訳も始めている。それにとどまらず、文学を愛し、茶道の修行中で、ジョギングを欠かさない。一人にこれだけ多彩な能力が備わるものかと感嘆する。
日本語で研究発表をして11年目、専門書『近代の上海−国際競争が作り上げた都市』(仮題)にまとめる草稿の一部を受信したとき、「磨けば玉になる逸材」と直感した。以来、資料の解釈や全体構成等について相談に乗っている。
書名(仮題)が示す通り、建造物(主に商社や港湾施設)・運河・道路等、都市のハード面を精査するうち、その前提となる諸問題、すなわち新しい都市・上海を生み出し作りあげた主体に関心を拡げ、国家間の条約、地域の上海道台と諸国領事との交渉、上海租界の運営主体の構成と機能等のソフト面にも調べを進め、それが副題の「国際競争が作り上げた都市」に込められている。
主としてメールによる意見交換だが、あたかも活発なゼミのようで、たまの面談にも、巧みな表現力(日本語)で論を展開する。
最近の日本の歴史学界では、批判を避けようとするためか、課題を小さく設定する傾向が強いように感じる。歴史学の場合、若い頃にこの悪習に染まると、後々まで大きなマイナスになると痛感していた矢先に、陳さんは驚くほど貪欲に高い目標を設定し、一次資料を渉猟、独自の見解を論文の草稿の形で提示してくる。
博士課程ゼミ以上の真剣勝負である。もちろん私の知らない史実が幾つも含まれる。彼女のいっそうの成長を期待しつつ、私自身もまた成長しつつ、正面から応えていきたい。
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