原三溪の故郷
横浜は150余年の間に急成長した「若い都市」であり、市域を拡げ、いまや人口370万余の最大政令市に発展した。それを築き支えたのが全国各地から集まった人々にほかならない。この問題に以前から関心を抱いていたが、三溪園(1906年開園)の創始者、原三溪(青木富太郎)の故郷を訪れる機会を得た。
三溪は、横浜の生糸輸出(売込)商・養祖父原善三郎の逝去後、承継した会社を原合名会社に改組、絶えざる経営刷新、富岡製糸場等の経営(1902~1938年)、横浜興信銀行(のちの横浜銀行)頭取ほか実業家として腕を揮う。
それにとどまらず、美術教育や文化財保護の先達である岡倉天心を介し、美術品収集(4000点以上)や横山大観・今村紫紅ら日本画家の支援、朽ち果てんとする古建築を自らの設計による日本庭園に移築して三溪園を開園(1906年)、さらに古建築の移築を進め、1922年の聴秋閣(徳川家光・春日局ゆかりの楼閣建築)を最後にその内苑を完成させる。
また自らも筆をとり、その書画は200余点にのぼる。財界の益田鈍翁(孝、20歳年長で三井物産・三井炭鉱社長)、松永耳庵(安左エ門、7歳年少、昭和初期に電力王と呼ばれた)とともに三大茶人と呼ばれた。これらの活動拠点が、いずれも三溪園内にある自宅兼執務室の鶴翔閣(1902年造)、隠居所の白雲邸(1920年造)、それに茶室の春草盧・金毛窟・蓮華院等であった。
三溪の故郷は、岐阜市柳津(やないづ)の佐波(さば)である。折しも岐阜市歴史博物館で特別展「岐阜が生んだ原三溪と日本美術-守り、支え、伝える」(2014年10月10日~11月16日)が開かれ、三溪園からも39件55点の所蔵品を貸出した。各方面からの資料を基に、郷里が誇る偉人の足跡を、説得力ある巧みな構成で展示していた(展示図録を参照)。
この特別展で挨拶とテープカットの後、ひとり佐波を訪ねるつもりでいた。内覧を終えるころ、「原三溪・柳津文化の里構想実行委員会」会長の広瀬曻さん(平成18年の岐阜市合併前の柳津町長)に予定を聞かれ、佐波へ、と漏らすと、副会長の尾関孝彦さんと事務局長の市川春雄さんを紹介してくださった。
同実行委員会は活動4年目、原三溪を軸に「柳津文化の里」を構想するもので、地縁・血縁のつながりも濃い。11月15日には、岐阜市教育委員会との共催で「三溪を育てた郷里・佐波を訪ねる三溪ウォーク」を予定している。
生家のある柳津の佐波まで約10キロ、市川さんの運転で初秋の濃尾平野を走り、広々とした水田と地の利を生かした各種企業の配送センター団地を抜けて、佐波に入る。
三溪(青木富太郎)は、慶応4(1868)年、庄屋青木久衛(久兵衛)・こと(琴)の長男に生まれ、18歳までこの地で育った。明治5(1872)年から近くの寺小屋に通い、明治9年、佐波村尚文小学校入学、明治13年卒業、12歳で日置江の三餘私塾(青木東山の漢学塾)、ついで大垣の鶏鳴塾(儒者・野村藤蔭)で漢籍を学ぶ(いずれも自宅の通学圏内)。また祖父で南画家の高橋杏村の影響もあり、その長男・鎌吉から画を、母方の親戚・高橋寿山から詩を学ぶ。
のち京都の草場船山に私淑して漢学と詩文を学ぶ。明治18年に上京、牛込区福田町に仮寓、東京専門学校(のちの早稲田大学)に入学、法律政治学等を修め、跡見学校に奉職、歴史・漢詩・漢文等を担当する。
明治24(1891)年、同校創設者・跡見花蹊の支援者でもある原善三郎の孫娘で、教え子であった原屋寿(やす)と結婚、原姓となる(三溪は号)。この年、全壊家屋約14万の濃尾地震が起き、佐波復興資金400円を携え駆けつけた。
後年は、実業界の重鎮をはじめ、敬愛した歴史家・徳富蘇峰(国民新聞創刊、『近世日本国民史』の著者)、インドの詩人タゴール等との交流を通じ、さらに思想を深化させる。こうした素養、自己研鑽、そして夫婦協働が、「脱亜入欧」とも異なる「近代の代表的日本人」、三溪その人を作りあげたのではないか。
内苑完成の翌年、関東大震災(1923年)が襲う。自らも壊滅的な打撃を受けつつ、私財を投じ横浜の復興事業に先導尽力する。
常人には及びもつかぬ事績だが、自ら誇示することなく、昭和14(1939)年、明治・大正・昭和にわたる生涯を閉じる(享年70)。
佐波に着いてまず、三溪の生家近くの八幡神社を訪れる。例大祭を終えたばかりの氏子総代の青木平太郎さんから話を聞く。ついで広大な生家の回りを一巡、洪水・冠水の一帯を肥沃な濃尾平野に変えた治水工事に由来する境川、三溪ゆかりの寺子屋があった観音寺、三餘私塾跡(石碑のみ)等を案内していただき、改めて三溪の人格・思想を培った風土の原風景を見たように感じた。
また尾関さんをはじめ親族に残る三溪自筆の書画等の資料(写真)も拝見、新しい知見を教えていただき、会員諸氏の目覚ましい活動に瞠目した。横浜の「原三溪市民研究会」との交流も密である。
いろいろご苦労もあろうが、これまでの「まちおこし」(長良川の鵜飼い等)の範疇を超え、現内閣の重点政策「地方創生」(現国会で法案審議中)の文化創造型モデルを目ざすことをも視野に入れつつ、原三溪と「柳津文化の里」を全国へ広める活動を結実させてほしい。
三溪は、横浜の生糸輸出(売込)商・養祖父原善三郎の逝去後、承継した会社を原合名会社に改組、絶えざる経営刷新、富岡製糸場等の経営(1902~1938年)、横浜興信銀行(のちの横浜銀行)頭取ほか実業家として腕を揮う。
それにとどまらず、美術教育や文化財保護の先達である岡倉天心を介し、美術品収集(4000点以上)や横山大観・今村紫紅ら日本画家の支援、朽ち果てんとする古建築を自らの設計による日本庭園に移築して三溪園を開園(1906年)、さらに古建築の移築を進め、1922年の聴秋閣(徳川家光・春日局ゆかりの楼閣建築)を最後にその内苑を完成させる。
また自らも筆をとり、その書画は200余点にのぼる。財界の益田鈍翁(孝、20歳年長で三井物産・三井炭鉱社長)、松永耳庵(安左エ門、7歳年少、昭和初期に電力王と呼ばれた)とともに三大茶人と呼ばれた。これらの活動拠点が、いずれも三溪園内にある自宅兼執務室の鶴翔閣(1902年造)、隠居所の白雲邸(1920年造)、それに茶室の春草盧・金毛窟・蓮華院等であった。
三溪の故郷は、岐阜市柳津(やないづ)の佐波(さば)である。折しも岐阜市歴史博物館で特別展「岐阜が生んだ原三溪と日本美術-守り、支え、伝える」(2014年10月10日~11月16日)が開かれ、三溪園からも39件55点の所蔵品を貸出した。各方面からの資料を基に、郷里が誇る偉人の足跡を、説得力ある巧みな構成で展示していた(展示図録を参照)。
この特別展で挨拶とテープカットの後、ひとり佐波を訪ねるつもりでいた。内覧を終えるころ、「原三溪・柳津文化の里構想実行委員会」会長の広瀬曻さん(平成18年の岐阜市合併前の柳津町長)に予定を聞かれ、佐波へ、と漏らすと、副会長の尾関孝彦さんと事務局長の市川春雄さんを紹介してくださった。
同実行委員会は活動4年目、原三溪を軸に「柳津文化の里」を構想するもので、地縁・血縁のつながりも濃い。11月15日には、岐阜市教育委員会との共催で「三溪を育てた郷里・佐波を訪ねる三溪ウォーク」を予定している。
生家のある柳津の佐波まで約10キロ、市川さんの運転で初秋の濃尾平野を走り、広々とした水田と地の利を生かした各種企業の配送センター団地を抜けて、佐波に入る。
三溪(青木富太郎)は、慶応4(1868)年、庄屋青木久衛(久兵衛)・こと(琴)の長男に生まれ、18歳までこの地で育った。明治5(1872)年から近くの寺小屋に通い、明治9年、佐波村尚文小学校入学、明治13年卒業、12歳で日置江の三餘私塾(青木東山の漢学塾)、ついで大垣の鶏鳴塾(儒者・野村藤蔭)で漢籍を学ぶ(いずれも自宅の通学圏内)。また祖父で南画家の高橋杏村の影響もあり、その長男・鎌吉から画を、母方の親戚・高橋寿山から詩を学ぶ。
のち京都の草場船山に私淑して漢学と詩文を学ぶ。明治18年に上京、牛込区福田町に仮寓、東京専門学校(のちの早稲田大学)に入学、法律政治学等を修め、跡見学校に奉職、歴史・漢詩・漢文等を担当する。
明治24(1891)年、同校創設者・跡見花蹊の支援者でもある原善三郎の孫娘で、教え子であった原屋寿(やす)と結婚、原姓となる(三溪は号)。この年、全壊家屋約14万の濃尾地震が起き、佐波復興資金400円を携え駆けつけた。
後年は、実業界の重鎮をはじめ、敬愛した歴史家・徳富蘇峰(国民新聞創刊、『近世日本国民史』の著者)、インドの詩人タゴール等との交流を通じ、さらに思想を深化させる。こうした素養、自己研鑽、そして夫婦協働が、「脱亜入欧」とも異なる「近代の代表的日本人」、三溪その人を作りあげたのではないか。
内苑完成の翌年、関東大震災(1923年)が襲う。自らも壊滅的な打撃を受けつつ、私財を投じ横浜の復興事業に先導尽力する。
常人には及びもつかぬ事績だが、自ら誇示することなく、昭和14(1939)年、明治・大正・昭和にわたる生涯を閉じる(享年70)。
佐波に着いてまず、三溪の生家近くの八幡神社を訪れる。例大祭を終えたばかりの氏子総代の青木平太郎さんから話を聞く。ついで広大な生家の回りを一巡、洪水・冠水の一帯を肥沃な濃尾平野に変えた治水工事に由来する境川、三溪ゆかりの寺子屋があった観音寺、三餘私塾跡(石碑のみ)等を案内していただき、改めて三溪の人格・思想を培った風土の原風景を見たように感じた。
また尾関さんをはじめ親族に残る三溪自筆の書画等の資料(写真)も拝見、新しい知見を教えていただき、会員諸氏の目覚ましい活動に瞠目した。横浜の「原三溪市民研究会」との交流も密である。
いろいろご苦労もあろうが、これまでの「まちおこし」(長良川の鵜飼い等)の範疇を超え、現内閣の重点政策「地方創生」(現国会で法案審議中)の文化創造型モデルを目ざすことをも視野に入れつつ、原三溪と「柳津文化の里」を全国へ広める活動を結実させてほしい。
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