全米オープンの錦織圭

 土曜日は私の大好きな早朝テニスがある。まだ暗い中を三々五々とラケットを手に面々が集まる。最近の日の出は5時15分頃、その20分ほど前からボールが見えるので、5時過ぎには数人が集まる。起床は逆算して4時。
 テニスができる喜び、勝敗より怪我を重ねないことが一番、そのための筋トレは欠かさずにきた。9月6日の土曜日、デング熱予防の虫除けスプレーを噴霧すると、ベンチサイドでは全米オープン、ラオニッチ(カナダ)ついでワウリンカ(スイス)に勝利して4強入りを果たした錦織圭(24歳、世界ランク11位)の活躍ぶりに話題が集まった。
 プロの男子テニス界では、身長178センチの錦織は小柄な方で、対戦相手はいずれも長身、高い打点から繰り出す強烈なサーブは時速240キロ超(最速)で、ワイドに鋭角に切り込む。しかし、サーブだけで試合が決まるわけではない。錦織の粘りのストロークは驚異的で、ピンチをチャンスに替え、相手の疲労と焦りを引き出し、2試合とも4時間超のフルセットの末に勝利した。
 IBM による最近5試合の計測結果では、1ポイントを取るための平均移動距離は錦織が15.88mで、フェデラーの17.28m、ジョコビッチの17.80mより短い。短距離の効率的な移動がボールの予測判断と俊足に結びつけば、疲労を抑え、フルセットを戦える体力になる。
 試合後の取材で「もう勝てない相手はいないと思う」と語り、「有言実行」の態度を示す。昨年末からコーチについたマイケル・チャン(42歳、1989年に17歳で全仏を制覇)の「基本の反復と精神力強化」策も奏功したという。
 錦織が対決する次の準決勝の相手は、世界ランク1位のジョコビッチ(セルビア)である。テニス仲間がてんでに語る。「いくらなんでもジョコビッチには勝てまい…」。「いや相手が苛立って、長期戦に持ち込めれば錦織に勝機あり…」。錦織は「逞しくなり」、178(身長センチ)-68(体重キロ)=110で、プロの平均120より少なく、「しっかりと筋肉がついた証拠」との新説?も示された。
 その翌7日(日曜)未明(日本時間)、ジョコビッチと準決勝が行われ、3:1で錦織が快勝した。攻めと粘りの錦織が、スピードのジョコビッチを圧倒した。万歳!日本人初の決勝進出である。
 決勝戦は2日後の9日(火曜)朝6時(日本時間)からチリッチ(クロアチア)が相手(身長198センチ、体重82キロ)。チリッチは長身を生かした「高い打点」からのサーブとベースラインに近い「前の打点」でのストロークにより、凄まじい勢いで圧倒、3セットとも6:3で連取、ストレート勝ちした。
 錦織は試合後の会見で、負けて残念だが、この楽しい2週間に感謝、「来年また来る」と明るい表情で応じた。彼の強い精神力に感嘆、さらなる飛躍を祈念している。
スポンサーサイト

再興第99回院展

 東京都台東区谷中、ここは博物館、美術館、動物園、東京芸術大学等のある上野公園の北西に位置し、明暦の大火(1657年)以降に多くの寺社が移転したため、寺町の別名がある。幕末維新の上野戦争(1868年)で罹災したが、関東大震災や第二次世界大戦の被害は少なく、古い町並みが残る。
 その一角の大泉寺内に、長大な切妻造りを2棟並べたような建物の、公益財団法人・日本美術院がある。その主催で、標題の再興第99回院展が9月2日から15日まで、上野公園にある東京都美術館で開かれている(1年かけて全国13か所で開催)。日本を代表する日本画の公募展覧会(今年は557点)である。
 この日本美術院には紆余曲折があった。創設は1898(明治31)年、美術史家で文化財保護の先駆者、また東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)の2代目校長(1890年就任)であった岡倉天心(1863~1913年)が守旧派により排斥され、それに連帯して辞職した橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草らと協力して作った団体である。
 以降、日本絵画協会と合同で春秋2回、絵画展覧会を開催するが、1900年(明治33年)秋季の展覧会をピークに、資金の欠乏、院の内紛、綱紀の乱れなどにより徐々に沈滞する。
 1905(明治38)年、天心は茨城県の五浦海岸に別荘の六角堂を建て、翌年、日本美術院第一部(絵画)を移転して再起を期す。この頃から天心はボストン美術館中国・日本美術部の仕事も重なり、1910年には部長に就任、多忙をきわめ、体調を崩して翌年帰国、療養先の赤倉温泉で1913(大正2)年に没した。
 翌1914(大正3)年、日本美術院は、天心の遺志を継いだ大観(1868~1958年)を中心に「再興」され、今年、100周年を迎えた(「再興院展」は戦時下の昭和19、20年非開催のため今回が第99回)。なお大観は西洋画法を取り入れつつ独自の没線描法(朦朧体とも呼ぶ)を生み出した改革派の代表である。
 三溪園にも案内をいただき、そのレセプション(参加者約700名?)に出席した。会場は松尾敏男理事長の挨拶「我々は、ひたすら良い絵を描きたい、の一念で来た」を共有する人々の「同窓会」の雰囲気に溢れていた。
 「再興第九十九回院展全作品集」の表紙、松村公嗣(愛知県立芸術大学長)の「ほたる」にまず惹きこまれる。
 冒頭のページに大観の筆になる「日本美術院綱領」(3項目)を置く。第一に「一切の芸術は無窮を趁ふの姿に他ならず 殊に絵画は感情を主とす 世界最高の情趣を顕現するにあり」、そして第三に「日本美術院は芸術の自由研究を主とす 教師なし先輩あり 教習なし研究あり」とある。
 個として立つ画家の自負、画家たちをつなぐ「綱領」の理念、これが100年の伝統を支える根本かもしれない。

ペリー提督日本遠征紀

 1854年3月31日(嘉永七年三月三日)、横浜村(人口約400人、現在の横浜市中区)で日米和親条約が調印され、日本は「鎖国」政策を破棄して「開国」、近代へ歩み始めた。日本側全権は林大学頭(復斉)、アメリカ側はペリー提督である。
 ペリー率いる「黒船艦隊」は、世界最大・最新鋭の蒸気軍艦3隻をふくむ9隻の大艦隊であった。帆船も蒸気軍艦もともに鉄製ではなく木造、防腐剤を塗って黒く見えたため黒船と呼ばれた。
 アメリカは1776年にイギリスから独立して78年目の「新興国」である。当時の「超大国」は言うまでもなくイギリス、そのイギリス海軍でさえ保有しない世界最大・最新鋭の蒸気軍艦(スクリューではなく外輪で動く)をアメリカ海軍は建造・保有し、その大半を日本に投入した。
 これらの経緯について、拙著『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年、ちくま学芸文庫 増補版 1994年)、『黒船異変』(岩波新書 1988年)、『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)等で、私なりの見解を示した。さらに、巨大な黒船艦隊に幕府はどう対応したのか。これに関しても、上掲の拙著で展開した。しかし、「無能無策の幕府」が脅しに屈し、「不平等条約」を強いられたとする説は、残念ながらまだ一部に残ある。
 日米双方には、記録画等の図像資料をふくめ膨大な記録が残されており、なかでもペリー艦隊の2年余にわたる行動の記録は、第一級の史料と言える。開国160年を機に、8月末、宮崎寿子監訳『ペリー提督日本遠征記 上下』が角川ソフィア文庫から刊行された。日米初の条約交渉をアメリカ側から雄弁に物語る名著である。
 本書は、1856年に米国議会上院へ提出された報告書「米国艦隊の中国海域及び日本への遠征記-1852~54年」(”Narrative of the Expedition of an American Squadron to China Seas and Japan, in the year of 1852, 53 and 1854”)全3巻のうちの第1巻である。編者はニューヨークのカルベリー教会牧師で歴史家のホークス、彼は博物学的関心が高く、記述に偏りがない。
 この訳書は、実は3度目のお目見えである。1998年に栄光教育文化研究所から大型本1冊として、ついで2009年に万来舎から上下2冊本として、そして角川ソフィア文庫の本書である。いずれも宮崎寿子(オフィス宮崎)監訳で、解説は私が書いた。
 絶版の土屋喬雄・玉木肇訳『ペルリ提督日本遠征記』(岩波文庫、全4冊、1948年)に代わる新たな本文庫はハンディーで、活字が大きく眼に優しい。ペリーに同行した画家ハイネとブラウンによる多くの挿絵が臨場感を膨らませる。国際政治史の資料にとどまらず、旅行記、日本文化論としても面白い。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
カテゴリ
QRコード
QR