夏の朝に咲く蓮
名勝三渓園(横浜)では、7月19日(土曜)から観蓮会が始まった(8月10日までの土曜日曜と祝日のみ)。ふだんより早い朝6時に開園、早朝に咲く蓮を観ていただく。正門をくぐると、はるか先の山頂に三重塔、右手に大人の背丈ほどに生長した蓮の繁茂する池がある。
夏の短い期間、蓮は明け方からゆっくり開花を始め、6時から9時頃をピークに大輪の花を咲かせる。昼には閉じ、開花5日目にして散る。鮮やかな桃色の花弁と鮮やかな黄色の花托が、大きな緑の葉に護られ、つかの間、幻想的な世界を作りだす。これは「原始蓮」と呼ばれる品種である。
1906年に三溪園(の外苑)を一般公開した原三溪は、蓮をことのほか愛し、晩年には自ら絵筆をとって「蓮華図」(昭和12年頃の連作、花の色は白)を描いている(園内の三溪記念館に展示)。古い写真を見ると、当時の蓮は、現在のものより小ぶりの品種である。
茶人でもある三溪は、みずから設計して茶室を建てている。大正6(1917)年12月完成の茶室は蓮華院と名づけ、天井には蓮の茎を使う凝り様であった。戦火を避けて解体保存され、再建後の現在、以前あった場所には茶室・春草盧(移築、織田信長の弟・有楽の作と言われる)が配され、蓮華院は内苑の竹林の中にある。
先日、都内随一の蓮池、上野の不忍池(しのばずのいけ)へ出かけた。かつては忍川を経て隅田川へと通じる開放池であった。延宝5(1677)年刊の「江戸雀」に「涼しやと池の蓮を見かえりて 誰かは跡をしのばずの池」とあり、これが不忍池の名の由来らしい。
眼前に広がる、いま盛りの品種は、「古代蓮」ないし「大賀蓮」と説明板にある。これは千葉県検見川の遺跡で発掘された2000年ほど前の種子3粒を大賀一郎博士が育て、戦後の昭和27(1952)年に初めて咲かせた蓮の、根分けの子孫で、全国に普及した。
「古代蓮」(「大賀蓮」)は花弁が15~18枚、花径(満開時の花の直径)が24~28センチ、上掲の10品種より、はるかに大きい。鮮桃色の花弁と鮮黄色の花托の組み合わせも、三溪園の「原始蓮」を想起させる。
戦前の昭和10(1935)年、大賀博士の調査では、不忍池に10種の蓮を確認している。いずれも古代蓮より小ぶりの品種で、そのうち蜀紅蓮(しょくぐれん)、浄台蓮(じょうだいれん)、白い花の明鏡蓮(めいきょうれん)と不忍池斑蓮(しのばずいけまだらはす)の4品種の復活栽培に着手しており、数枚の葉が水面に浮かぶ。花をつけるのは来年以降か。三溪の描いた白い花に会えるかもしれない。
夏の短い期間、蓮は明け方からゆっくり開花を始め、6時から9時頃をピークに大輪の花を咲かせる。昼には閉じ、開花5日目にして散る。鮮やかな桃色の花弁と鮮やかな黄色の花托が、大きな緑の葉に護られ、つかの間、幻想的な世界を作りだす。これは「原始蓮」と呼ばれる品種である。
1906年に三溪園(の外苑)を一般公開した原三溪は、蓮をことのほか愛し、晩年には自ら絵筆をとって「蓮華図」(昭和12年頃の連作、花の色は白)を描いている(園内の三溪記念館に展示)。古い写真を見ると、当時の蓮は、現在のものより小ぶりの品種である。
茶人でもある三溪は、みずから設計して茶室を建てている。大正6(1917)年12月完成の茶室は蓮華院と名づけ、天井には蓮の茎を使う凝り様であった。戦火を避けて解体保存され、再建後の現在、以前あった場所には茶室・春草盧(移築、織田信長の弟・有楽の作と言われる)が配され、蓮華院は内苑の竹林の中にある。
先日、都内随一の蓮池、上野の不忍池(しのばずのいけ)へ出かけた。かつては忍川を経て隅田川へと通じる開放池であった。延宝5(1677)年刊の「江戸雀」に「涼しやと池の蓮を見かえりて 誰かは跡をしのばずの池」とあり、これが不忍池の名の由来らしい。
眼前に広がる、いま盛りの品種は、「古代蓮」ないし「大賀蓮」と説明板にある。これは千葉県検見川の遺跡で発掘された2000年ほど前の種子3粒を大賀一郎博士が育て、戦後の昭和27(1952)年に初めて咲かせた蓮の、根分けの子孫で、全国に普及した。
「古代蓮」(「大賀蓮」)は花弁が15~18枚、花径(満開時の花の直径)が24~28センチ、上掲の10品種より、はるかに大きい。鮮桃色の花弁と鮮黄色の花托の組み合わせも、三溪園の「原始蓮」を想起させる。
戦前の昭和10(1935)年、大賀博士の調査では、不忍池に10種の蓮を確認している。いずれも古代蓮より小ぶりの品種で、そのうち蜀紅蓮(しょくぐれん)、浄台蓮(じょうだいれん)、白い花の明鏡蓮(めいきょうれん)と不忍池斑蓮(しのばずいけまだらはす)の4品種の復活栽培に着手しており、数枚の葉が水面に浮かぶ。花をつけるのは来年以降か。三溪の描いた白い花に会えるかもしれない。
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