中学の同期会

 梅雨も休みか、カンカン照りの日、東京学芸大学附属大泉中学校の同期会が有楽町の糖業会館で開かれ、約10年ぶりに出席した。
 小学校からの持ち上がりと、中学から入った者が混じるクラスだったと思う。持ち上がりの多くは、太平洋戦争の末期、東京大空襲後に群馬県勢多郡新里村祥雲寺学寮へ集団疎開に行った。9歳で親元を離れた我々3年生は、半年以上も共同生活する6年生との闘争と空腹との戦いに明け暮れた。
 会場への地図を確認しつつ、顔と名前が一致する旧友が何人いるかと思う。開始が12時、早目に着いたが、すでに話し声が聞こえる。受付に並べられた名札には大きな文字、老眼への幹事の配慮である。
 冒頭、逝去した同期生に黙祷を捧げた。「これで物故者は27名になります」。50名×2クラス、77歳は平均生存率より上なのか下なのか。
 担任の山下政太郎先生(国語)が挨拶に立った。隣のクラス担任の中西晃先生(理科)は奥様の怪我のため欠席とのこと。山下先生の最初の赴任校が我が校で、生徒との年齢差はわずか7歳。今は生徒より若々しく見える85歳である。
 「みなさんに元気そうだと良く言われるし、今日もそう言われたが、すでに立派にボケが始まっており、その最初の症状は年月日の正確な記憶がなくなること……スキーと社交ダンスは今も楽しんでおり、寝る前は睡眠薬代わりに、徒然草、方丈記、西鶴本…」と微笑む。
 女子生徒が「<会議は踊る>の主題歌を先生から原語で教わった。歌わせてほしい」と、カタカナ付きのドイツ語をスクリーンに映して披露する。
 5人の混声コーラスもあった。なんと中学から60余年もつづけている。
 居酒屋を長くやっている旧友の店も確認できた。いつか不意に行って、驚かせてやろう。
 「先生が自分は教育者ではないと言われ、休み時間に麻雀やトランプを教えてくれた。放課後は映画館にも連れていってくれた」と回顧する人。「荒野の決闘」や「自転車泥棒」等に、文芸座や名画座の名が挙がる。
 これに応えて先生は「昭和20年代の中ごろ、教育現場は自由だった。教室と世間の距離も小さかったのではないか」と結ぶ。
 厳しい軍国教育を受け、戦後に価値観の一変を目の当たりにした青年教師と、集団疎開を強いられた生徒との幸運な出会い。
 先生は褒め上手でもあった。私は夏休みに従姉妹と行った父の郷里、新潟県村上の印象を書いた日記を褒められた。多感な中学生は感激し、書く醍醐味に味をしめ、今に至る。感謝!
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2つの研究発表を聴く

 梅雨入りしたばかりで足元は悪かったが、日本文化に関する研究発表を週に2回も聴きに出かけた。第1がIUCの「卒業発表会」、第2が人間文化研究機構と国際日本文化研究センター共催の「世界の中の日本研究-京都から語る-」である。会場は熱気に包まれていた。
 第1のICUとは、横浜にあるInter-University Center for Japanese Language Studiesの省略形で、日本語名が「アメリカカナダ大学連合日本研究センター」。去年秋に創立50周年を祝った、伝統ある世界で唯一の上級日本語教育機関、約1800人もの卒業生を輩出している。アメリカ等の大学で日本語を勉強した学生から約40名が選抜され、毎年、10か月間(40週=10週×4学期)、計700時間におよぶ日本語の集中特訓を受ける。
 その最終日に集大成として行われるのが、例年6月初旬の卒業発表会である。持ち時間は15分、パワーポイントを使い、流暢な日本語で発表する。ジョークを交えるのも忘れない。テーマは多様、若い感性で日本文化を論じ、いずれも興味深い。
 強く印象に残ったのが、ミア・ルイス(スタンフォード大学)の「マンガのなかの文字-表記の選択が示すものー」。日本の漫画に使われる漢字、ルビ、かな、カタカナ、ローマ字の5種と、多様な字体や手書き文字の使い分けの事例を示し、絵と文字の独特のハーモニーを語った。
 第2が、東京有楽町マリオンの朝日ホールで行われた、国際日本文化研究センター(通称は日文研ニチブンケン)の東京講演会である。これは日本研究のプロが、研究のエッセンスを一般聴衆に分かりやすく語る試みである。
 日文研は京都にある国の共同利用機関の1つ、国際性と学際性を掲げる日本文化研究のメッカで、かつて私も客員教授をつとめた。1987年の創設、初代所長は梅原猛さん。2012年に創立25周年を祝った。
 今年の研究発表(講演)は、磯前順一准教授「ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた-<戦後民主主義と高度経済成長>再考」と、パトリシア・フィスター教授「京都の知られざる皇女尼僧像」の2つ。
 磯前さんは少年時代からザ・タイガースのファンらしく、その登場を反ベトナム戦争、大学紛争、高度経済成長、天皇制と絡ませ、社会史として描く。フィスターさんの研究は、皇女尼僧像の補修につながったと言う。研究が社会貢献と結びついた好例である。
 年1回の東京講演会(朝日ホール)を、今後は会場を国際文化会館(六本木)に移し、回数も増やしたい、と小松和彦所長が抱負を述べた。
 全国的な交流がさらに深まることを期待したい。

新しい環境

 学長を退任して2か月、無沙汰つづきの旧友たちと会う機会が増えた。同窓会・同期会、あるいは旧友の個展や演奏会への案内状に目を通す余裕も生まれた。それに20年~30年も前、一緒に研究した内外の仲間とも再会した。こういう時間がほとんどなかったことに改めて気づかされる。
 そして何よりも、歴史研究の「一人だけの職場」が格段に身近になった。この孤独な職場との付き合いは20歳代からで、もう半世紀以上も慣れ親しんでいる。研究者に共通する、尽きぬ喜びの職場である。ここでは誰に命令されるでもなく、自分の着想、関心、能力等を基盤に仕事を進められる。
 歴史研究は対象が広く、方法も多様で、奥が深い。史料収集に文書館や図書館に出撃し、「獲物」に狙いをつける。比喩的に言えば、書斎を中核として、周辺に狩場・漁場・農場としての文書館等が拡がっている。
 先日、30年近く勤めた横浜市立大学の旧文理学部教職員OBの定例会があった。もともとは1980年頃か、若手教員が研究内容を30分程度で報告する教職員懇親会として始まった。1973年着任の私にも、うっすらと記憶にある。
 今年の出席者の最高齢が90歳の北沢義弘さん(英文学)。幹事は本学出身の宮崎忠克さん(英語学)と篠原信好さん(化学)が長く引き受け、毎年5月に案内をくれる。
 冒頭に99歳、96歳、90歳の先輩の訃報が告げられ、黙祷を捧げた。また小冊子「三枝博音 大学と思想」(没後50年記念誌)の紹介があった。三枝さんは哲学、科学技術史の第一人者で、本学創設の貢献者の一人、第4代学長時代(1961年~)に国鉄鶴見事故(1963年)で無念の死を遂げられた。
 各人の近況報告の段になると、一人5分の持ち時間を守る人は少なく、「昔取った杵柄」か、90分授業の習慣から抜けきれない御大も多い。それでも立ち上がるや「時間無制限」の長広舌を揮う大先輩の数は減り、淋しく思う。
 新人OB が、退職後2か月の印象を、生活が大きく変わって不安と語った。大学教員の主な仕事は教育・研究・社会貢献・学務であるが、退職するや教育と学務が急減し、研究の比率が急上昇する。「しめた!やっと自由に研究ができる」と思う反面、新しい環境への適応に時間を要する人もいないではない。
 OB歴の長い人たちは、「やがて分かるよ。大丈夫だよ」と言いたげな表情を見せる。不安は大きなエネルギー源であり、環境の変化はチャンスでもある。
 そろそろ私が若手の励まし役を演じる番であろうか。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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