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ポートランド日本庭園の鳥居ヒューゴさん一行が三溪園へ

 アメリカ西海岸オレゴン州にあるポートランド日本庭園の鳥居ヒューゴさんと言う方から、今年の9月5日、突然のメールをいただいた。
>Date: Tue, 5 Sep 2023 23:19:18 +0000
三渓園
>加藤 祐三様
>初めまして、突然のメール大変失礼いたします。
>ポートランド日本庭園の鳥居ヒューゴと申します。
>先代の内山から庭園の統括責任者を引き継ぐことになり、三渓園にご挨拶に行きたく思っております。
>また、横浜の姉妹都市、サンディエゴ日本庭園の執行役員も一緒させていただければ幸いです。
>私は現在ポートランド在住ですが、出身は横浜の本牧です。
>是非、三渓園との繋がりを継続・深めていければと心から思っております。
>何卒よろしくお願い申し上げます。
>鳥居ヒューゴ
 ここに「先代の内山から庭園の統括責任者を引き継ぐことになり」とあるのは、以前の上席執行役員(日本庭園・文化技術担当) 内山 貞文を指す。

 これに対して私は次のように返信した。
鳥居ヒューゴさま
お便り、ありがとうございます。
本牧のご出身でポートランド日本庭園の管理をされておられるよし、不思議なご縁ですね。
ぜひとも両者の関係を強めていきたいと思います。
ところが私は高齢もあり、今年3月を以て園長を退任しました。
ご来訪の件については、三溪園の山口智之宛てにご連絡ください。
よく話しておきました。
加藤祐三

【7年前、2016年4月11日の記録】
 「横浜の姉妹都市、サンディエゴ日本庭園の執行役員も一緒させていただければ幸い」とあるので、ピンときた。私のメールアドレスをサンディエゴ日本庭園から入手されたのではないか?
 本ブログの古い記事を遡ると、あった。7年半前の2016年4月11日の記事である。今回、鳥居さんと同行予定のサンディエゴ<三景園>(三溪園と同音異字)に属する方の三溪園ご来園の記録である。ご覧いただきたい。

【行き違いを越えて】
 これまで、幾つかの行き違いがあった。
 9月29日、鳥居さんへ私から次の連絡をした。
 鳥居さん
 三溪園の山口智之より連絡があり、鳥居様よりまだ連絡が来ていないので対応のしようがないとのことでした。いかがされたのでしょうか。山口へのメール連絡には、ccで私のアドレスを付してください。よろしくお願いします。
するとすぐ、同じ9月29日、鳥居さんから三溪園の山口智之宛てにメールが来たことをccで知った。

 三溪園 山口 智之様
 初めまして、ポートランド日本庭園の鳥居ヒューゴと申します。加藤祐三様よりご紹介いただきご連絡させて頂いております。まずは、ご紹介をいただいた後にご連絡するのが遅くなり大変申し訳ありません。日本出張の日程が決まらず時間だけが過ぎてしまいました。
 この度、海外の日本庭園と三溪園の関係を少しでも近くにできればという願いで庭園見学を実現したく思っております。現在サンディエゴ日本庭園のスタッフと共に調整している状況ですが、11月中旬にポートランド日本庭園より1名、サンディエゴ日本庭園より1名というかたちでお伺いできればと計画しております。お忙しい中恐縮ですが、何卒よろしくお願い申し上げます。
ポートランド日本庭園
鳥居ヒューゴ
 
こうして同じ情報を複数人が共有する形式を採用して以降、流れがスムーズになった。

【山口智之さんと鳥居さんとのメール連絡】
 以来、三溪園側の連絡主体を山口智之さんに任せ、事態が推移、いよいよ鳥居さんたちの来園される日が11月17日(金曜)と決まったと連絡が入った。手帳を見ると、この日は空いている。「海外の日本庭園と三溪園の関係を少しでも近くにできればという願いで庭園見学を実現したい」とする鳥居さんの情熱に触れて、無性にお会いしたくなり、11月10日に山口さんにメール連絡をした。
山口さん
cc:海野園長
監査準備ですか。
相変わらずご多忙のようで何よりです。
脇役としての参加を許可いただき、ありがとう。
10時40分ころ事務所へ参ります。
迷わずに着けばいいのですが。
加藤祐三
>Date: Fri, 10 Nov 2023 17:12:29 +0900
加藤前園長
>週明けからの監査準備追われ、ご返信遅れ大変失礼いたしました。
>当日是非ご参加宜しくお願いします。
>冒頭のご挨拶をお願いできればと思います。
>当日は11時来園予定ですので20分前頃事務所にお越しいただければと思います。
>山口拝

【2023年11月17日の初対面】
 当日はあいにくの雨模様で、電車が遅れ、時間を気にしながら元町・中華街駅からバスに乗った。桜道駅下車、歩いて三溪園正門に着く。今年3月までは通った道なのに、いかにも久しぶりの印象を受ける。想定外の暑い夏がつづき、秋を飛ばして一挙に冬入りかと思わせる気候変動のせいか。
予定より早い10時半に着き、砂利道を進んで事務所に入る。紅葉には早いようである。三重塔は変わらない姿を見せている。
 鳥居さん一行を鶴翔閣でお迎えすることにしてあった。
鳥居さんは堂々の偉丈夫、サンディエゴ日本庭園からLuanna Kanazawaと Emiko Scudderの二人の女性。氏名のいずれかに日本人の系譜が刻まれているが、Luanna Kanazawaさんは日本語を勉強中で共通語は英語。
 三溪園からは、今富雄一郎副園長、山口智之室長、甲良総務課長、羽田雄一郎事業課課長補佐が参加した。
まず日本流に名刺交換をする。

 私は古い名刺に【前】の一字を手書きしたものをお渡しし、準備した著書『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)と「横浜開港と三溪園」と題するA3の大型年表(左欄=都市横浜の歩み、中欄=青木富太郎(原三溪)と三溪園、右欄=注と参考文献からる)をお渡しした。「230302 中浜万次郎国際協会の講演資料 白雲邸にて」とある園長現役の最後の講演資料である。ゆっくりお読みいただければと思い、詳しい説明は省いた。
 今後の交流強化を確認し、三溪園側は今富副園長が仕切ることとした。 
ここで記念撮影。スマホで撮ったものを後に鳥居さんが送ってくれた。

20231121-1.png
向かって奥の左が今富副園長、その右が鳥居さん、Luanna Kanazawaさん、私(マスク姿)、山口室長、Emiko Scudderさん。手前左が甲良総務課長、右が羽田事業課課長補佐。

終わると、羽田さんが一行3人に鶴翔閣を案内することとなり、私も半年ぶりに付き合った。時折、沛然たる驟雨、それが却って庭石の輝きを増した。ついで雨の中を歩いて臨春閣へ行く。まず外から一望した後、中に入ることとし、一行とは入り口で別れ、「…いずれまた…」と再会を約した。
私は三溪記念館に寄り、企画展「大正12年の原三溪-良きも悪しきも:大師会茶会と関東大震災」 (中村学芸員の企画、9月1日~12月10日)を拝観した。
関東大震災を箱根で体験、4日をかけて三溪園に戻るルートを絵に描き、最後は小舟を雇い、<象の鼻>と呼ばれる湾にそった地点(南門を出た所にある)に帰着した奮闘ぶりに強い感動を覚えた。それから今年が100年である。
ばったり中村さんに会ったので、印象を伝えた。

【鳥居ヒューゴさんの素顔】

 偉丈夫の鳥居ヒューゴさん(英字表記はHugo Torii)は父方の祖父がマカオのポルトガル人で、ヒューゴにその名残がある。1975(昭和50)年、横浜本牧2丁目に生まれた48歳。横浜駅前で花屋を営んでいたが、26歳の時に横浜から京都へ行き、着いて2週間ほどで造園業で名高い植彌(うえや)加藤造園に就職、そこで13年にわたり学んだ。

 植彌加藤造園はまた、京都の岡崎にある無鄰菴を、指定管理者として運営している。なお三溪園でも民間の経営戦略コンサルタントの CDI(コーポレイト・ディレクション)の占部伸一郎さんと芳賀正輝さんを中心に経営学の手法である KPI(Key Performance Indicator=組織の目標を達成するための重要な組織評価の指標)を使って実地訓練を施し、達成状況の定点観測を行ってきたが、その過程で植彌加藤造園を招いて話を聞いたことがある(本ブログ2023年4月3日掲載の「三溪園園長の退任にあたって」)。

 庭師の修行を終えると、鳥居さんは西欧へ行きたいと思い、ドイツで5年を過ごす。ついでふとしたことからアメリカへわたり、西海岸のオレゴン州ポートランド市にあるポートランド日本庭園に入り、いま上席執行役員(日本庭園・文化技術担当)を勤める。

 ポートランド日本庭園の創設者が日本人であること(後述)も、鳥居さんとどこかで繋がった縁であろうか。

【ポートランド日本庭園とは?】
 ポートランド日本庭園(英: Portland Japanese Garden)は、アメリカ合衆国オレゴン州ポートランド市の都市公園ワシントン・パーク(英語版)にある日本庭園である。22,000 m2(5.5エーカー)の面積を構える。

 日本版ウィキペディアによると以下のとおり。
 歴史[編集]


 砂と石の禅庭園
 1963年に造園家の戸野琢磨教授によって設計された後、1967年に開園した。(今年で創建56年を迎える) 米国で発行されている日本庭園の専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』誌(The Journal of Japanese Gardening、略称JOJG)は、アメリカ合衆国において隔月刊 で発行されている、英語の日本庭園・日本建築専門雑誌)は、北米大陸に所在する公共日本庭園約300か所について、2004年以来数年ごとにランキングを作成している(雑誌寄稿者である日本庭園専門家たちが評価に当たる。当該雑誌の項を参照)。

 ポートランド日本庭園は毎回上位に選出されており(2004年ランキングで第2位。2008年も同順位を維持)、2013年版ランキング(2017年末現在最新)では第1位に位置づけられた。

 伝統的な日本庭園が発展し成熟するまで通常数百年の歳月を要するのに対し、ポートランド日本庭園は短時間の西洋的手法と風格のある東洋の表現を融合することで、非常に短期間で発展することに成功した点は特筆に価する。

造園[編集]


下側の出入り口
 伝統的な造園法では、庭園は大地を表現する3つの要素が交わるという。つまり、石は山々の強靭と島々の支持を表し、水は中心にして清浄を表し、植物は自らを質感、色彩と成長で優雅に見せる。主題はポートランドからカスケード山脈に至るまでの地帯と、その地形が織り成す微妙な「見え隠れ」であり、庭園はその全体から自然景観の連続的な移り変わりの運動を描画している。

【「全米一住みやすい街」、西部オレゴン州ポートランド市】
 ごく最近、2013年11月12日の日経ニュースメールが報じた記事「略奪でくすむ「黄金の街」 荒廃するサンフランシスコ」のなかに、ポートランド市について次のような記述があった。
 同じくやり玉に挙がるのは「全米一住みやすい街」だった西部オレゴン州ポートランド市だ。民主党市長のもとで犯罪が増え、人口減に転じたと批判される。だが10月末に足を運ぶと、薬物問題はあるがダウンタウンはにぎわい、以前と変わらない街並みに見えた。
 「危険な地域は全米どの都市にもある。SNSやメディアは一面を切り取り、街全体の間違った印象を与えている」。同市に20年住むキャリーさんは語る。

【ポートランド日本庭園の設計・創設者、戸野琢磨】
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10日)は、日本の造園家、作庭家、ランドスケープアーキテクト。造園分野では日本人で初めてアメリカの大学で学位を取得、帰国後日本ではじめての造園設計事務所・ランドスケープコンサルタントを設立し設計活動を展開した。
 戸野は大阪府で生まれ。父親は開業医で、その後日本庭園の多くが集中する京都に引越す。1910年、旧制京都府立第一中学校を卒業、同年に東北帝国大学予科に入学。 1913年に東北帝国大学の農科大学から改組した北海道帝国大学農学部に園芸学を修めようと進学。1913年、東北帝国大学の農科大学から改組した北海道帝国大学農学部に園芸学を修めようと進学。在学中に旭川松平農場の歴史編纂に関わり農場経営を研究、この成果を卒業論文とし、1916年に卒業。同時期、アメリカ渡航免状を取得。ニューヨーク山中商会に勤める叔父をたよって渡米。
 叔父の勧めにより、コーネル大学のランドスケープ学科に進学、4年生課程を2年で卒業し修士課程に進学。1921年にランドスケープの修士号MLD取得。 同大学で1922年まで、設計演習担当のインストラクターとして在籍。大学では日本庭園の講義も担当した。その間、ノーマン・ニュートンらとヨーロッパ庭園研究の研修派遣を受ける。
 関東大震災が1923年に東京を襲った年、日本に一時帰国。1924年、東京の銀座京橋に自身のデザインスタジオで日本初の造園設計事務所「戸野事務所」(後、戸野建築造園事務所を経て戸野琢磨造園研究室)を開設する。日本で造園と建築の設計をかねて業を開始。
 1925年、雑誌『庭園』に「米国におけるジャパニーズ・ガーデン」を掲載。翌年「ランドスケープ・アーキテクツに就いて」を掲載。同雑誌にいくつか小論を発表。
 1938年発足の日本造園士会に参画し理事に就任。1940年には理事長に就任。終戦直後は病に倒れ一時療養。
 1953年から1969年に退職するまで、東京農業大学で庭園学と海外の造園概要の教鞭をとる。1958年、同校教授に就任。同年、ワシントンDCで開催のIFLA世界大会に日本代表の一員として参加。そのころからアメリカで日本庭園の紹介講演などを行う。
 戦後はアメリカで日本庭園の作庭活動や講演などをとおして日米間のランドスケープアーキテクチェア分野での国際交流にも貢献した。
 1959年に造園家アメリカ協会(ASLA)メンバー・名誉会員に推挙され、米国の庭園デザイン界でも広く名を知られていた。米国大使館などの外国大使館庭園の作品も多く、日本とアメリカ両国でかなりの数の作品を残している。

【ポートランド日本庭園の概況(2018年現在)】
Quick Facts(クィックデータ)
1967 創設 1963 年 / 一般入園開始 1967 年
年間来園者数 45 万 3,000 人
規模 12 エーカー(約5 ヘクタール)、8 つの庭園様式から構成
登録ボランティア数 200 名 スタッフ数 145 人
会員数 2 万 1 千人
年間運営予算 約 13 億 7 千万円(2021 年 10 月末レート)
入園料 (大人) $18.95
展示会・イベント・文化教育プログラム 年間実施数 350
Leadership(幹部) Steve Bloom Chief Executive Officer
上席執行役員(日本庭園・文化技術担当) 内山 貞文
執行役員(日本庭園・文化技術担当) 鳥居 ヒューゴ (以下略)

【19日着のメール】
私からの照会の回答の合間に、鳥居さんは次のように漏らしていた。
「…久しぶりの三渓園は庭園のその美しい風景とそこにある情景を一度に感じることができました。嬉しさと共に懐かしさ、切なさも感じました。横浜を離れ、40年住んだ日本を遠く離れてしまったからでしょうか。…」
鳥居さんへお礼のメールをと思いつつ、時が過ぎてしまった。お会いして2日後の19日(日曜)昼にメールを頂戴した。
加藤 祐三様
この度は大変お世話になりました。
庭園を丁寧にご案内いただき誠にありがとうございます。
短い時間でしたが庭園を通して、また、原三渓という人物を通して、横浜の文化を垣間見ることが出来た気がいたします。
ポートランド日本庭園はこれからも世界に向けて庭園を平和産業として文化外交と文化交流を深めていくミッションを掲げています。
また、横浜に帰郷した際には三渓園を歩きたいと思います。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
改めて、ありがとうございました。
鳥居ヒューゴ
Hugo Torii
Garden Curator
Portland Japanese Garden | Japan Institute
503-542-9376 japanesegarden.org
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辻達也先生を偲ぶ会

 横浜市立大学に永く(1949~1986年の37年間)勤められた歴史学者(日本近世史)の辻達也先生が、2022年9月20日に逝去された。享年96。
 これを偲んで「日本史専攻卒業生の会」が『会報』第8号「特集 辻達也先生を偲んで」(2023.8 大庭邦彦責任編集)を刊行、私も一文を寄せた。「辻達也さんを偲んで」(64~77ページ)で、これに注を付して本ブログ2023年8月3日にも「辻達也さんを偲んで」として掲載した。いずれかをご覧いただきたい。この拙稿を受けて、その続きをこれから記していきたい。少し迂回するかもしれないが…

【辻達也先生を偲ぶ会と八景キャンパス案内】
  『会報』第8号の刊に合わせて「辻達也先生を偲ぶ会」がテクノタワー18階の宴会場グランシャリオで2023年10月21日(土)に開かれることになった。京急線の金澤八景からシーサイドラインに乗り、八景島や市大医学部を経て産業振興センター駅下車、右手先方にある高層ビルの中にある。
 10月10日に大庭さんからリマインド・メールが入った。「…10月21日に予定しております辻先生を偲ぶ会が迫ってまいりました。30名の日本史研究室の卒業生の出席を得て、準備も順調に進んでおります。当日は、御長女喜美子さんと息子さんもご出席くださるとのご返事もいただきました。先生もキャンパスツアーからご参加いただけるとの事、当方もキャンパスツアーの方に参加しきます。…話しが後先しました。お願い事ですが、偲ぶ会にご出席いただけるとのお言葉に甘えて、先生に開会のご挨拶をいただけませんでしょうか。当日、辻先生の在職時代のご同僚は先生おひとりです。ここは加藤先生に開会のご挨拶をお願いするのが一番相応しいのではないか、というのが世話人一同の思いです。不躾なお願いとは重々承知しておりますが、私どもの微意を御汲み取りいただければ幸甚に存じます。」
 辻さんの同僚の出席者は私ひとりらしいので、「…開会の挨拶の件、承知しました」と即答した。
 宴会場グランシャリオの「偲ぶ会」の前に有志が市大瀬戸キャンパスをめぐるキャンパス・ツアーを計画、卒業生の丸茂信行さんの案内でまわった。私の市大在任は1973~2002年の29年間であり、着任して実に50年ぶり、退任して21年ぶりである。
 この間、瀬戸キャンパスに来なかったわけではない。何度かの卒業式や入学式、また山向こうのテニスコートで学生たちと交流試合を行い、弓道場の手前のコートで教職員テニス親睦会の練習をしていた。コロナ禍の4年間は来ていない。
 前掲の拙稿を書くために、私の市大着任時の1973年の『学生便覧』を図書館(情報センター)に頼んで取り寄せると、現在の文化系研究棟のある所に木造平屋立ての将校兵舎があり、そこが教員の研究室、歩くと床が軋む音がした。その奥に(現在のシーガルセンターあたり)に麺類等の軽食を食べさせる店があった。いずれも遠い記憶である。

【大庭さんとの出会い】
 10月21日(土)、すこし早めに瀬戸キャンパスの正門に着いた。三々五々、それらしい人が集まってくる。そのなかに中肉中背で勢いのある歩き方の青年から声をかけられた。「先生、お変わりありませんね」。大庭邦彦さんであった。4年前の2019年9月30日、大庭さんと下記のメール交換をした。
加藤祐三先生
>ご無沙汰しております。市大時代にお世話になりました日本史の大庭です。我が史研の後輩でもある西川亘君をしのぶ会の際には、いろいろお話を伺い、教師としての貴重なアドバイスまでいただき、有意義な時間をいただきました。その節は本当にありがとうございました。あの西川君が、先に旅立つなど、思いもよらないことで、人の世のはかなさ、そしてやりたいこともやり切れずに、中途でその可能性を無残にも奪われてしまうことの残酷さ、無念さを痛感させられました。当日は所属した東洋史の仲間たちも数多く集まり、彼の人柄を彷彿とさせる会となりました。先生が回復の見込みが難しくなった彼に厳しいアドバイスをされたことも伺いました。その時の先生の思いを考えれば、如何ばかりかの思いであったかと、思わずにはおられません。
>ところで、その折にもお話させていただきましたが、当方の勤務先(=聖徳大学)で歴史文化コースの教員が交代で担当している授業で、文化財実地研修という体験型の授業、今期、その担当が回ってきました。日本近代美術史を担当している桑原規子教授と二人が担当で、三渓園の見学を中心に横浜を回る事に決めました。彼女も三渓園を運営する団体の理事を務めている猿渡さんという方(市大出身の方との事です。)と懇意にさせていただいているとの話です。履修学生は、日本史専攻の3年生6人です。彼女たちには事前の座学で三渓園のことについて(園のこと、特に中の文化財群についてはいうまでもなく、園を造った原三渓についても)、事前学習をしっかりさせて、実り多い学習の機会にさせてやりたいと思っております。
>現在の所、11月30日(土曜日)を巡見予定日に組み込みました。当方は個人で以前、と言っても大分昔の話になってしまいますが、訪ねたことがあります。その時は根岸からバスで行ったと思うのですが、余り交通の便が良くなかったという記憶があります。今回も複数の学生を引率しますので、その辺りを確認したく、事前に一度下見に参りたいと思っております。
>先生が、財団の理事はお続けになっているとの事は、ネットで確認させていただきました。先生は現在も園長をお務めになっていらっしゃるでしょうか。先生に特段お手を煩わせることはないか、と思いますが、もし同日、先生が御出勤されているようであれば、是非、ご挨拶に伺いたいと思い、ご連絡を差し上げました。
大庭 邦彦

大庭さん
お便りありがとう。
ご来園、熱烈歓迎です。
いまも園長を務めています。
私もブログで三溪園のさまざまなことを書いています。
http://katoyuzo.blog.fc2.com/
右欄にあるカテゴリのうち三溪園が最多になっています。事前学習にも活用してください。
 西川の件も掲載しました。左欄を下ろすと掲載の年月日があるので、本文に至ることができます。
ところがご来園予定が11月30日(土曜日)とありますが、この日はたまたま横須賀開国史研究会の創立20周年記念シンポジウムと重なっており、三溪園へは行けません。…
加藤祐三

 大庭さんが三溪園に来たときに初めて会ったと思い込んでいたが、とんでもない誤解であった。この時は会っておらず、文中にある「我が史研の後輩でもある西川亘君をしのぶ会」(横浜中華街の一角にある集会所で開催)が最後で、以来7年ぶりである。

【古い刊行物】
 キャンパスツアーの最中、7年ぶりに再会した大庭さんは「先生の授業で使われた参考文献『イギリスとアジア』をよく覚えています」と言う。
 それを聞いて『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年 黄色のカバー)を思い出した。1977年入学の大庭さんが4年生の年、実に43年前の出版である。
本ブログの2017年6月21日掲載「我が歴史研究の歩み(連載)の【25】連載「イギリスとアジア」に記載がある。本書は文部省「在外研究」の成果であり、私の研究の転換点をなした作品で、拙著最長のロングセラーである。
その一部を再録したい。
……連載「紀行随想 イギリスの近代」(世代群評社の『道』誌)を見た木村秀彦さん(岩波書店編集部)が、帰国後の1979年春、声をかけてくれた。連載等を新書にまとめないかと言う。
 イギリスから自宅へ送った大量の史料コピーは、べニア板張りの大型紅茶箱で7箱はあり、開けてみて史料的価値の高さが改めて分かった。これらの史料とメモを駆使すれば、1つの歴史書ができる。欣喜雀躍した。
 ワープロやパソコンが普及する以前で、強い筆圧から来る腱鞘炎に悩まされ、鉛筆を4Bに変え、表面の滑らかなA4サイズの縦書き原稿用紙に向かう。1979年の夏休みは執筆に専念した。能率を上げるため早朝2時に起床してすぐ執筆、11頃までつづけると休憩を入れても8時間は確保できる。昼食後、1時間半の仮眠。午後2時に再開して、晩の10時まで8時間、合わせて16時間の作業ができた。若さゆえである。
 私は書き始めると速いが、推敲には時間をかける。雑誌連載に加えて新たな書き下ろしを組み入れ、『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年1月)は刊行に至った。黄表紙版の108番。偶然とはいえ、この数字が仏教でいう煩悩の数と同じであるのが妙に嬉しかった。……本書は序章「点描」と「おわりに」を除くと、3部9章の構成である。……
「Ⅰ イギリス近代の風景」には、「第1章 村の生活-1790年」、「第2章 人と交通と情報」、「第3章 都市化の波」の3章が並ぶ。……
「Ⅱ 19世紀のアジア三角貿易」は、「第4章 紅茶と綿布」、「第5章 アヘン貿易」、「第6章 アヘン生産」の3章が入る、本書の核心的部分である。貿易統計を活用して、第4章で紅茶と綿布(薄手のインド産綿布と厚手の中国産綿布のイギリスへの輸入から反転して産業革命の工場製綿布のインドへの輸出を示し、第5章では植民地インドから中国・東南アジアへのアヘンの輸出を明らかにし、イギリス・インド・中国を結ぶ「19世紀アジア三角貿易」の実態を明らかにした。第6章にはケシ栽培・アヘン生産の科学的実験例等を加えた。
「Ⅲ イギリスとアジア」は、「第7章 イギリス国内のアヘン」、「第8章 パブと禁酒運動の産物=レジャー」、「第9章 イギリスとアジア」の3章が入る。第7章ではイギリス国内のアヘン消費(主にアヘンをアルコールに溶かした強心剤アヘンチンキの流行)の状況を述べ、第8章は近代化初期のイギリス国内の諸相(酒税歳入が40%を占める等々)と近代スポーツの誕生等を描き、第9章でイギリスのアジアとの関係やアジアに及ぼした影響に触れ、イギリスは清朝中国と戦争による激烈な出会いをしたが、日本とは「おだやかな出会い」をしたと述べる。
「あとがき」(1979年10月付け)では、中国近代史からイギリス史を見ることを中断し、イギリス近代史からアジアとの関係を考える発想の転換にいたった経緯を述べている。……
 新書にしては長めの6ページの参考文献を付け、本文に省略形で入れた注と対応させる方式をとった。……本書は従来の常識とかなり違う内容を含んでいるため、学術書と同様に出典を示し、史料の表記に工夫をこらした。読み進めるための障害を少なくする一方、根拠を知りたい読者には参考文献に到達できる工夫である。新書にこの方式を採用したのは、本書が最初ではないかと思う。
 アヘン戦争(1839~42年)を知らない人は少ないが、戦争の原因となったアヘンの生産と流通に関しては、中国史学界はもとより欧米でも十分な研究がなかったので、本書が初めて明らかにした事実も少なくない。本書は版を重ね、12年にわたり18刷まで刊行、多くの書評を得た。

【史研の後輩、西川亘の最後の頑張り】
 大庭さんの史研の後輩という西川亘の最後の頑張りぶりについては、本ブログ7年前の2016年12月28日掲載の「緩和ケアと友情」に書いた。学生同志の付き合いは広い。この縁から今回、1973年入学の對馬労さん、西村淳一さん、波多野章さんと西川亘の話を通して旧交を温めることができた。
 こちらも少し長いが、関連箇所を再録したい。
……横浜市立大学(以下、市大)文理学部人文課程東洋史の1985(昭和60)年前後の卒業生は仲が良く、卒業後30年余を経ても集まることが多い。教員にも声がかかる。連絡係を買っているのが西野均君(1988年卒業、横浜市職員、いまは市大附属病院勤務)で、彼の地道な努力が友情の輪をつないでいるようだ。先月11月18日(金曜)の朝、西野からメール連絡が入った。
 「昨夜、三田登美子さんから連絡をいただき、西川亘さんが入院中であり、東洋史関係の諸先輩方への連絡を依頼されました。西川さんは、胃がんを患い療養中のところ、先日、強い痙攣発作を発症し、救急入院となり、検査所見から、脳への転移が疑われ、症状が芳しくないとのことです。」
 その日の夕方、埼玉県の病院を尋ねた。私は10年前に受けた大腸癌手術に至るまでの不安な日々に、最近逝去したイギリス人の友人の「緩和ケア」の経過が重なり、動顛する気持ちを押さえて、ベッドに仰臥した西川と対面した。その報告を、西野へ以下のメールで伝える。
 「西川君を病院に見舞い、いま帰宅しました。彼はしっかりとした口調で、<癌が頭に転移し、終末期治療に入っている。先ほど放射線治療を受けてきた…>というので、思い切って<…これから緩和ケアに入るから、健常者には分からない格闘が始まる。もし嫌でなければ言い残しておきたいことをICレコーダーに吹きこんだらどうか>と勧めると、彼は<…そうですね。吹き込んでみたい>と前向きな声が聞かれた。…<緩和ケア>については、旧知のイギリス人の経験があります。下記の私のブログの数回前、10月21日掲載「ディリアの逝去を悼む」に書いたのでご覧ください。私からのこの返信をみなさんへ転送してください。」
 1時間もしないうちに西野からメールが来た。
 「早々にお見舞いに行っていただき、ありがとうございました。<もう面会者と話もできない状況かも知れないから、皆で見舞いに行くのは、西川さんの負担になる>と言われたので、かなり心配していましたが、先生のメールを拝見して、少し気持ちが楽になりました。先生のメールは諸先輩方へ転送させていただきます。…」
 その後、気にしつつ、2度目の見舞いに行けないまま日が過ぎた。12月22日昼、西野から西川の訃報が届いた。見舞いに行った日から33日目である。
 「…西川亘様におかれましては、2016年12月21日、ご逝去されました。…西川さんの生前のご意志により、通夜、告別式は行われませんが、ご出棺前に最後のお別れの場を設けていただきましたので、ご参列お願い申し上げます。…ご家族(弟様)からお預かりしたPDFファイルを添付いたしましたので、ご覧ください。」
 24日(土曜)、斎場に着くと同級生や前後の卒業生たち、それに初めて会う方々が多数集まっていた。奥に安置された西川の遺体に合掌。享年55。穏やかな表情に安堵する。
 弟の次郎さんが「…先生が見舞いに来てくださってから、兄は急に前向きに闘病生活を始めました…」と言う。あのとき話した「…記録を残さないか…」の勧めは西川に良かったのか、不安があった。「…これが兄の書き残したものです…録音する代わりに自分で書きました」とノートを見せてくれた。
 几帳面な字でびっしり書いている。あの状況で、ここまで大量に書くことができるものか。最初が2016.11.19の日付(私が見舞った翌日)。冒頭に「これは、私こと西川亘の終末闘病日記となる。<闘病>というより、緩和Careの中で<生>に関して気付いた見解を綴っておこうという方を主眼としたい…」とある。その気概と整然とした文章に驚嘆した。
 1行空けて、癌の告知からの経過を淡々と綴る。「昨年11月に体調の悪さを自覚して医師の診断を受けると、薄々予期していた通り、胃癌と診断。胃カメラ映像を見ると、もう相当進行しているのが素人眼にも瞭然。既に肝臓にも多数転移。手術はできないとの主治医の言葉。ステージは幾つくらいか、怖くて尋ねることもできなかったが、既に末期段階であったものと後推量する。」
 その約1年後の2016年11月9日、「未明に目が覚めると左手首に痙攣を覚え、独り身では携帯電話での連絡もつけようがないと気づき、この11月9日が、私の第二の人生の初日なのだ…何とか発作が一時収まり、救急車を呼び…16日からガンマーナイフ(放射線照射治療)、知人にもメール連絡を行う。」と記す。
 「18日…、病室の外の廊下に加藤祐三教授の姿が。僕は40年(ママ)も前の教え子だ。…言い残しておきたいことを記せとの有益な提言を戴いた。」とある。
 次ページから最終ページの12月18日(逝去の3日前)に至るまで、見舞いに訪れた多数の友人たちの名前と会話や印象を綿密に記す。学生時代の友人のみならず、俳優(『日本タレント名鑑』にあり、舞台・映画・テレビ等に芸歴を持つ)として共に活躍した人、会社勤務時代の人も含まれる。なんと多彩で豊かな交友か。
 このノートは、人生の最後を濃密に生きた命の記録、死を目前に、生きる今を書いた、かけがえのない記録である。彼の卒業論文「アジア主義者の転向-橘樸の場合をめぐって」(『横浜市立大学学生論集』1986年号に掲載)にも劣らぬ立派な存在証明である。

【辻先生を偲ぶ会の配布資料】
 シーサイドラインの産業振興センター駅下車、テクノタワー18階の宴会場グランシャリオで開かれた辻先生を偲ぶ会に至る。配布資料は、出席者名簿、横浜市立大学校歌、仰げば尊しの歌詞、そして「欠席の方々から寄せられた メッセージ」。(加藤注:2つの表の表記を変えたので、当日の配布物とは見かけが違うが、内容は同じである)

辻達也先生を偲ぶ会 ご出席者
ご来賓
加藤祐三先生
上田喜美子様  上田 知夫様
入学年 お名前(敬称略) 入学年 お名前(敬称略)
1955 関口 一郎 1970  丸浜 昭
1961 山形 真功  1970 三浦 晴子
1964 渡辺 賢二 1971  佐野 菊枝
1965 丸茂 信行 1973 中島浩一郎
1965 丸地 三郎 1973 重松 正史
1966 天下井 恵 1975 對馬 労
1966 大久保英夫 1975 西村 淳一
1966 吉田 俊純 1975 波多野 章
1967 鈴木友萬朗 1977 大庭 邦彦
1968  鎌野 茂 1980 堀江 英夫
1968 染井みどり 1982  池田 雅子
1968 三浦 進 1982 小林 元裕
1970 大内裕見子 1982 桜木 千玲
1955* 吉永貴美子
(故・啓二様奥様)

2023年10月21日 於・横浜テクノタワーホテル

横浜市立大学校歌  
西条八十作詞 古関裕而作曲 1954年

鴎の翼に 朝日は耀よい
沖ゆく黒潮 とこしえ新し
世界の海港に 意気も高らか
あつまる若人 われら われら
ああ 浜大の俊英 われら

若き日みじかし 真理は遙けし
究むる情熱 鉄火もつらぬく
潮風かおる園に 友と仰ぐは
理想の青雲 われら われら
ああ 浜大の俊英 われら

民主と自由の 紅さす曙
みどり明けゆく 歴史の半島
栄ゆる祖国を 息吹も新た
築かん若人 われら われら
ああ 浜大の俊英 われら

仰げば尊し
仰げば 尊し 我が師の恩  
教の庭にも はや幾年    
思えば いと疾し この年月 
今こそ別れめ いざさらば  

朝夕 馴れにし 学びの窓
蛍の灯火 積む白雪
忘るる 間ぞなき ゆく年月
今こそ別れめ いざさらば

 欠席の方々から寄せられたメッセージは個人情報であり、そのまま公開するのはためらわれる。かといって載せないのももったいない。合計32名からで今回参加者30名とほぼ同数である。そこで、お名前の欄を削除して掲載することにした。(加藤注:こちらの表も様式を変えたが、内容は変えていない)

欠席の方々から寄せられた メッセージ

入学年 メッセージ
1952 目下 病気療養中にて残念ながら欠席致します。御盛会をお祈り申し上げます。
1952 出席したいのですが、歩行できませんので、行けません。要介護3です。こゝまで生きた証に最後に何か残したいですが、できますかどうか。皆さんによろしく。
1959 大庭様をはじめ、お世話下さった皆々様に心よりお礼申し上げます。『会報』8号に送付しました原稿、全くの幻想ともいえるもので、お恥ずかしい限りです。女房奉書と旧辻邸とは何の関係もないのに、どこでどう間違えたのか? 認知症が相当に進んでいる証拠のように思えます。2021年4月末に胸椎骨折以来、体重6kg身長9㎝減。目・鼻・歯・耳とすべてに悪くなり、シワシワ背丸の婆さま(当然の老人ですが)。こんな姿になるんやな…というところです。どうぞ皆様呉々も身体を大切になさって、益々のご活躍を祈っております(応挙の老婆にソックリ)。
1961 山形君の稿なつかしく拝読。県立高校退職後も郷土史研究にたずさわり、今も古文書講座など致しております。これもひとえに遠山先生、辻先生のお陰と日々感謝しております。
1962 最近は持病のために長時間の移動が不可能です。残念ながら欠席いたします。
1963 他の会合の先約がありまして、残念ながら欠席します。「辻達也先生」の会報、なつかしく拝読致しました。山形先輩の玉稿に先輩のご活躍を嬉しく読ませていただきました。『会報』8号に添付して大切に保存します。大庭様お世話になりますばかりで、感謝しております。
1964 さまざまな取り組み、本当にご苦労様です。皆様によろしくお伝え下さい。
1964 当日はすでに約束した市民あての歴史講演会が入っており、出席できません。皆様に宜しくお伝え下さい。これで最後と思われる日本史の会に参加できないのは残念です。
1964 都合がつかず欠席します。ご盛会を祈念します。ご苦労様です。
1964 ご連絡ありがとうございました。当日は他用があり、申しわけありませんが欠席とさせていただきます。
1965 最近、体調が本調子ではないので、欠席させていただきます。
1965 会報ありがとうございました。
1965 旅行計画があるため(欠席します)。
1966 大庭様、会報の編集等、長い間、おつかれ様でした。有難うございました。
1967 残念ながら、不都合です。ご参集のみなさんのご健勝を祈念いたします。
1967 大庭様はじめ皆様のご健康とご活躍を祈念しております。同年代の友人も少なくなってまいりました。ずっと横浜市に住み続け既に後期高齢者となっております。先月24日にコロナに感染し、大変な思いをしました。今は、しばらく人の集まりには失礼をしております。
1970 日本史研究からも、歴史教育からも遠ざかる一方の教職生活でしたが、研究室での刺激的な出会い、そこで培われた感性や物の見方から、生涯、逃がれ得ずに来たことの意味を自らに問う昨今です。
1970 大変残念ですが、珍しく ひまな老人 予定が入っており、欠席させていただきます。毎日のんびり、何もせず無為に暮らしているのに予定があるのは本当に珍しいのですが、すいません。皆様によろしくお伝えください。
1971 世話人会の皆様にはいつもお世話になっております。21日は、孫の成人式の写真撮影があり、欠席させていただきます。
1971 いつもお世話になっております。10月22日、宮城県議会議員選挙が予定されており、それに関連する所用があるため出席できません。卒業生の皆様によろしくお伝えくださいませ。
1973 できの悪い学生であった私は そのまま大した成長もせずに教員になり、退職し、69歳になってしまいました。その穴埋めの如く、いま週2・3日のパートに加え、アレコレ動き回っています。頭の身体もなかなかうまく働いてくれない状態ですが、もうしばらく頑張るつもりです。ご出席のみなさまのご健康とご活躍を祈っています。
1973 今年に入って脊柱管狭窄症を患い、長い歩行や階段の昇降が辛くなっており、欠席いたします。そろそろ手術が必要かも。当日は一人で、先生を偲びます。
1973 母の介護で忙しいですが、何とか出席したいと思いましたが、やはりやめます。返信が遅くなってすみません。実は脚が痛くて、杖を頼りに歩いています。長距離は無理かな、と思いなおしました。
1973 会報第8号のご編集作業他、さまざまなご活動、ご苦労さまでございます。
1973 会報の編集・出版ありがとうございました。特に何も活動はしていませんが、「歴史は何のために学ぶのか」という視点は、現代の事象を考えるうえで私の原点になっています。
1975 締切りを過ぎてしまいました。申し訳ありません。どうしても都合ががつかず、偲ぶ会を欠席します。大庭さん、いつも連絡ありがとうございます。
1976 いつもお世話下さりありがとうございます。辻先生を偲んでの会報はとても充実した内容でした。ずっと辻先生には近況を報告していましたが、昨年訃報に接し、改めてお礼とお別れの手紙を書きました。子どもたちへ『学習まんが 人物日本の歴史 徳川吉宗』を送ってくださる先生でした。
1976 大東文化大は退職しましたが、全日本柔道連盟はやめられず、全国を旅する日々です。10月21日は仕事のため参加できません。皆様のご多幸をお祈り致します。大庭昭彦様いつもありがとうございます。
1977 ご案内ありがとうございました。欠席させて頂きますが、皆様の集いに、先生も喜んで下さることと思います。皆様のご健康をお祈りいたします。
1980 ご案内ありがとうございます。現在、再任用教諭3年目に入り、母校の定時制に勤務しております。休日等なにかと所用があり、出席が叶いません。皆様によろしくお伝え下さい。
1981 「辻達也先生を偲ぶ会」のご案内状ありがとうございました。参加したかったのですが、模試の日と重なり、やむを得ず不参加となってしまいました。このような機会に是非懐かしい方々とお目にかかりお話ししたかった…。どうぞ皆様によろしくお伝えください。大庭さん、今回も色々とご準備をありがとうございました。市大へも40年?!ぶりに足を運びたいところですが…。お元気でご活躍ください。
1982 大庭さん、いつもありがとうございます。辻先生からは毎年お年賀状をいただいていたので、寂しく思っています。

【開会の挨拶】
 大庭さんの司会で「偲ぶ会」が始まった。「開会の挨拶」に立つ。ぼんやりと浮かぶ氏名と顔が何人か程度である。市大に着任した1973年から50年、退職した2022年から21年、参集した面々に知った顔はほとんどない。
 それに私は人文課程の東洋史専攻の担当教員であり、ここにいるのは日本史専攻の卒業生だから、日常の接触はさほど頻繁ではなかった。辻達也さんから得た学恩に報いるためで、そのあたりは『学報』第8号の64ページら77ページにわたり、長めに書いてある。
 考えあぐねた結果、次のように話し始めた。
……長いこと大学に勤め、若い子を相手にしていると、自分は年を取るが、学生は毎年同じ18歳の新入生から20代の大学院生までと変わらないため、不思議な感覚を抱く。
 そこで4月の入学式と3月の卒業式の式辞で、自戒の意味を込めた人生訓を<三訓>として話してきた。聴いた覚えのある方はいないでしょう。私が学長を勤めたのは1998年から2022年までですから、該当する方はおられないようです。
<三訓>とは、
(1) アシコシツカエ(足腰使え)
(2) ツキイチ コテン(月一古典)
(3) セカイヲミスエ モチバデウゴカム(世界を見据え、持ち場で動かむ)
このうち(1)はスポーツ礼賛とも受けとれるが、スポーツ嫌いな学生には散歩礼賛でもいい。とにかく足腰を使うことの大切さを伝えたかった。
 私の場合、具体的には、還暦を機に開発した朝トレ(朝トレーニング)を約1時間、散歩(ウオーキング)を1時間半から2時間、それに週に2~3回のテニス、合わせて1日に3~4時間、肉体を使う。
 おかげで長い睡眠時間が必要になる。その分だけ知的作業の時間が減るが、そこは工夫のしどころ…として曖昧にした。
 (2)は、月に一度は古典に触れて感動を得てほしいの意味である。古典とは「長い時間を経て現在に残るもの」の意味で、名曲・名作等の偉人の作品にとどまらず、巨木・巨石など自然の恵みを意味する。
 「月一古典」は、私のブログ http://katoyuzo.blog.fc2.com/のタイトルで使っている。こうしてみると、ブログは折に日記の代わりにもなる。
 最後の(3)セカイヲミスエ モチバデウゴカム(世界を見据え、持ち場で動かむ)は、日々、事あるごとに、肝にじ、自分に言い聞かせている。

【献杯のことば】
 ついで最年長の関口さんが献杯の音頭をとった。席が隣りだったのでお年を聞くと昭和10年とのこと、私の1歳年長である。キャンパス・ツアーから一緒だった。

【卒業生が思い出を語る】
 司会の大庭さんが「ついで独断と偏見で私から指名しますので、思い出を話してださい」と進める。思い出の(1)は1965年入学の丸地三郎(敬称略、以下同じ)、(2)が1968年入学の鎌野茂、(3)が1964年入学の渡邉賢二、(4)が1982年入学の池田雅子、(5)が1971年入学の中島浩一郎、(6)が1966年入学の天下井 恵、(7)が1961年入学の山形真功の計7人。
 みなの思い出に共通するのは<古文書合宿>である。古文書を読み解く昼間の格闘が終わると宴会になる。酒豪の辻さんは、酒が切れると学生に買いに行かせる。その<陰陽の差>とも言うべき姿が微笑ましい。
 天下井 恵さんが「思い出の写真集」を制作して披露した。映像は具体的であり、思い出をさらに深くする。視聴する側も、何十年も前の青春に引き釣りこまれる。
 最後の山形真功さんは入学年では関口さんに次ぐ2番目である。彼とはシーサイドラインの車中から一緒だったが、中央公論社『世界の歴史』25巻『アジアと欧米世界』(川北稔との共著)でお世話になったのに、ご挨拶を受けるまで気が付かず、申し訳ないとをした。

【辻先生の長女・上田喜美子様の思い出】
 喜美子さんが、ご尊父のいかにも優しい日常の姿を話された。隣の席だったので、ご遺影はお幾つの時の者ですかと尋ねると卒寿(90歳)のお祝いのときのものとのこと。私の記憶に残る辻さんの風貌そのものである。
 私は拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)を「…遅くなりましたがご墓前に…」と謹呈した。

【校歌と仰げば尊しの斉唱】
 最後は校歌と仰げば尊しの斉唱である。入学式・卒業式では学生の管弦楽団が伴奏、応援団長が高々と大声をあげ、手振りでリードする。これを思い出しながら歌った。これが市大生の共通項であろう。

【これから…】
 『会報』第8号に辻達也さんからの学恩を綴ったことで、日本史専攻の卒業生の多くと知り合うことができた。
 これから改めて『会報』第8号に触れたい。まず辻さんの「略歴」(7~11ページ)、「著作目録」(13~36ページ)、「辻達也教授 横浜市立大学最終講義 日本史上における江戸時代の意味」(37~62ページ)である。
 ついで教え子たちが書いた文章。大庭邦彦「晩年の辻先生」(同誌89~94ページ)や卒業生25名による「思い出と現況」(同誌95~180ページ)、丸茂信行「追悼 阿津坂さんを偲んで」(同誌168~174ページ)、それに辻さんが市大退職後に勤めた専修大学の卒業生3名の「思い出と現況」がある。
 また1966年入学の『吉田俊純論文集 第1号』(私家版 2本の「会沢正志斎」論)を頂戴した。また古代日朝関係について研究している1965年入学の丸地三郎さん(古代史ネットワーク会長)と意見交換をする時間もあった。
  「辻先生を偲ぶ会」に声をかけていただいたことに深く感謝する。ありがとう。

朋あり遠方より来る

 ふっと「朋(とも)有(あ)り遠方(えんぽう)より来(きた)る」が念頭に浮かんだ。正しくは「子曰、学而時習レ之、不二亦説一乎。有レ朋自二遠方一来、不二亦楽一乎。…〔子(し)曰(いわ)く、学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有(あ)り遠方より来(きた)る、亦た楽しからずや。…〕
 孔子『論語』の冒頭のことば。正確には2つ目に出てくる。初めの「学びて時にこれを習う」は独りの行為なのに対し、二番目の「朋(とも)有(あ)り遠方より来(きた)る」とは、相手が必要で、久しぶりに朋(友)と会える喜びと感動を語っている。

【遠方からの友】
 ここで2023年7月8日のメール交換を引こう。
2023年7月8日 10:05
加藤先生へ、
近藤です。6月に大学教育質保証・評価センターの代表理事に就任し、8月に理事仕事で福島大学で開催される「高等教育質保証学会」で話をすることになりました。その折虎ノ門事務局へ出かける予定です。少し先の話ですが先生の都合がつけば何とかその折に時間を作りお会いしたいと思います。センター発足の折には「設立記念シンポジウム」(2019年10/11)が開催されました。その前日(10/10)夕刻二人で飲みながら私の発表プレゼンを聞いていただいたこと思い出しています。シンポジウムのあらましは、加藤ブログに留めていただき感謝もしています。日程等具体的になりましたらまたメール連絡します。
今日は晴耕なしの雨読です。浅田次郎「流人道中記」です。ではまた。

2023年7月8日 10:59
近藤さん
6月に大学教育質保証・評価センターの代表理事に就任されたよし、世の中は逸材を忘れませんね。8月の福島大学での講演が予定され、その折に公大協事務局へ顔を出されるよし、その具体的な時間が決まり次第、お知らせください。
加藤祐三

2023年7月8日(土) 11:24
加藤先生へ、
近藤です。8月、東京での行動予定をお知らせします。8/27(日)福島での学会セッション終了後、夕刻から東京です。予定では、東京駅15:24着(以後フリー)、その日は東京泊です(田町:ホテルグレースリー田町)。先生の予定が可能ならば8/27夕刻お会いできればと思いますがいかがでしょうか? ご検討ください。翌8/28(月)は午前中虎ノ門事務局で打合せ、夕刻羽田より福岡へ戻ります。猛暑の東京、御身大切にお過ごしください。暑中のお見舞いです。

2023年7月8日(土) 12;39
加藤先生へ、
近藤です。返信メールありがとうございます。8/27(日)ホテルチェックイン後としたいので、時刻は午後4時半―5時あたりで、東京不慣れな私としてはJR田町駅のどこかでしょうか? 東口(芝浦口)のペデストリアンデッキ(改札口フロアー)あたりでしょうか。いかがでしょう。

 この近藤さんとは、近藤倫明(みちあき)さん、前北九州市立大学長。1952(昭和27)年生まれで、1936(昭和11)年生まれの私とは16歳も違う。専門は心理学。本ブログ(http://katoyuzo.blog.fc2.com/)に何度か登場している。

【本ブログに合計380回掲載】
 本ブログの右欄にカテゴリの欄があり、本日の段階で、歴史研究(130)、大学問題(14)、三溪園(120)、我が歴史研究の歩み(43)、交遊録(39)、未分類(34)とあり、合わせて380回を掲載してきたことが分かる。ネーミングは自由で、複数の分野に跨るときは比重の重い方に入れる。
 近藤さんとの出会いは交遊録にあるに違いないと思い、ここをクリックすると回を追って本文が出てくる。故人を偲ぶ記事、いまも年2回つづけている清談会の報告、中学の同期会の記事などがつづくが、近藤さんの記事がないと思っていた矢先、やっと1本(1回分)を発見した。
ここに次のようにある。

【2016年10月13日掲載の「江戸散策」】
 北九州市立大学長の近藤倫明さんと初めてお会いしたのは、10年ほど前であったか、その頃は同大学の副学長で、「若きプリンス」の趣があった。学長に就任したのは2011年、今年度で6年の任期を満了する。
 公立大学協会(全公立大学長が会員、以下、公大協)の5月総会や秋の学長会議では、冗談を交えてよく歓談した。私は横浜市立大学長(1998~2002年)の後に、公大協相談役、また都留文科大学長(2010~2014年)を経て、再び相談役に復帰し、毎回出席している。
 今年10月の学長会議は北九州市立大学で開催と決まり、再会を期していたが、急の所用で出席できなくなった。私の欠席は初めてで、お詫びもしたいと思い、「…貴学へ伺えない代わりに、大兄が東京に来られるさい、数時間、江戸をご案内します。…」とメールすると、二つ返事で「…江戸へのご招待ありがたくお受けしたく…」とあった。
 近藤さんとは親子ほどの年齢差がある【すこし大げさか?】が、どこか波長が合う。心理学(認知科学、視知覚の研究)の研究者で、歴史学の私とは同じ人文科学という共通項もある。
 台風18号が沖縄(とくに久米島)を襲い、五島列島あたりを北上して速度を上げるという。飛行機が飛ばなければ断念するしかない。幸い直撃はなく、10月6日(木曜)の昼過ぎ、会議を終えた近藤さんと文部科学省東館の玄関前で会うことができた。
 10月というのに真夏日。太陽が照りつけ、案内先の変更も考えないではなかったが、「昼食は店が空く1時過ぎとし、まず江戸でいちばん高い場所へ」と、愛宕山(標高25.7メートル)の急階段を一気に登った。ここから江戸湾に入る舟が一望できる。舟はこれを航路の目印とした。1925年、電波を送る適地として東京放送(NHKの前身)が陣取る。
 愛宕山から西新橋へ向かい、かつて公大協が初代の事務所を置いた吉荒ビルを案内し、内堀通りの裏側の小路を抜けて、行きつけだった蕎麦屋をめざすが、再開発のため休業の張り紙。やむなく表通りに戻りステーキ屋を発見、これからの強行軍に備えて筋肉に栄養を補給した。
 暑さを避けて、再建なったイイノビル敷地内にある緑地帯のベンチに座り、水を噴霧する空冷装置の下で、CD-ROM『江戸東京重ね地図』(菁映社 2001年刊)のコピー6通分12枚を開く。これは高校時代の友人・今西久雄が大の池波正太郎ファンで、それが嵩じ通産省(当時)の助成事業を活用して作った勝れ物である。安政3(1856)年の江戸切り絵図と現在の地図を照合できる。
 中央省庁街の南端に文部科学省、ここは幕末には内藤能登守政義日南延岡藩七万石の所領(坪数も記載)、その東側に真田信濃守幸教十万石、北の外務省は筑前福岡藩松平美濃守(黒田)五二万石、新丸ビル一帯は老中備後福山藩阿部伊勢守正弘十一万石(以上はいずれも上屋敷)等と、一目瞭然である。
 これからの行程を確認すると、話題は<オートファジー>でノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典さんに及ぶ。生命活動の基本を解明した自食作用の理論の背後に「人間も自然や生命体の一つで、それに生かされている」という大隅さんの思いがある。近藤さんは「…140億個の脳細胞と60兆個もある全身の細胞数のうち、(心理学や認知科学)は140億個に重点を置きすぎ、60兆を忘れていたのではないか」と言う。
 日比谷公園野外音楽堂の脇を通り、図書館と日比谷公会堂を右手に松本楼の脇を抜け、私の一番好きな場所のテニスコートへ。このあたりも広い大名屋敷の跡で、長門萩藩松平大膳大夫(毛利)三十七万石と肥前佐賀藩松平肥前守直正(鍋島)三十五万石等の領地。そして公園を出てからは桜田門や警視庁を左手にして進む。右側には、よく手入れされた松林(皇居前広場)の先に、日比谷-丸の内-東京駅前-大手町とつづく高層ビル群が聳える。
 二重橋前を抜け、いよいよ大手門から皇居東御苑に入る。ここが江戸城の本丸である。両側に樹木、中央に芝生の広場。この大奥一帯の奥(北)に天守閣があったが、明暦の大火(1657年)で焼け落ち、わずか19年間の生命を終えた。その天守台が巨大な石組に支えられて現存する。
 明暦の大火の火元は本郷丸山(文京区)の本妙寺等の説があるが、冬の北風にあおられて炎は江戸城や深川の芭蕉庵あたりまで及び、3万とも10万とも言われる多数の死者を出した。だが、その復興過程で江戸は急膨張、全国から人々が流入し、人口はやがて100万人を数え(1800年頃)、ロンドン・北京と並ぶ「世界繁盛の三都」の1つとなった。
 歴史認識は時空を超えても、「世代差は超えられない?」。18歳で入学する学生と教職員との年齢差(最長で約50歳)・体験差による価値観の相違、教職員間の同じ問題に大学は追いついていないのではと言うと、近藤さんは現役学長らしく、「それを新しい社会人大学(学部)の構想として煮詰めているところです。…<多世代共学>による新たな<知の展開>…」と心強い答えが返ってきた。
 北桔橋門から出て右折すると、いつものように皇居周走(1周5キロ)のランナーたちに出会う。桜田門近くの広場を出発し、反時計回りで走る。そのいくつかの理由から、近藤さんの一説。対象を見る時、眼球は左下から右上へ動く(グランスカーブ)ため、反時計周りでは常に堀や城が見え、逆だと流れる車列しか目に入らない、と。なるほど!
 神保町の古書店街を回り、ウィンドーの奥に掛かる大きな古地図で、江戸が「の」の字を描く(時計回り)ように造られた街であることを再確認。居酒屋で乾いた喉を潤し、尽きぬ議論を次に残して解散した。スマホの歩数計には15000余とあり、距離にして14キロほど、7時間の楽しい道行であった。

【近藤さんの目の付け所】
 この日は「10月というのに真夏日」だったらしい。そのなかを15000歩、14キロも歩き通した。7年前だから、私が79歳、近藤さんが64歳である。
近藤さんらしい目の付け所の鋭さを示すものを3つ再掲したい。
1 「…140億個の脳細胞と60兆個もある全身の細胞数のうち、(心理学や認知科学)は140億個に重点を置きすぎ、60兆を忘れていたのではないか」
 2 「対象を見る時、眼球は左下から右上へ動く(グランスカーブ)ため、反時計周りでは常に堀や城が見え、逆だと流れる車列しか目に入らない」
 3 「それを新しい社会人大学(学部)の構想として煮詰めているところです。…<多世代共学>による新たな<知の展開>…」

【余話】
 「江戸散策」についで「横浜散策」を2回、2019年6月4日と8月2日、本ブログに掲載している。カテゴリが<歴史研究>となっているのは、横浜を散策しながら、近藤さんのスコットランド留学の経験を踏まえ、彼の認知科学の理論展開を私の歴史研究に活かせないかと考えたためだと思う。
 今回は詳述を避けるが、いずれまた触れることがあると思う。

【2019年10月18日掲載の「新たな大学評価機関」】
 本ブログの掲載380回のうち、カテゴリ別にもっとも少ないのが大学問題(14)である。少ない理由はないでもない。私のブログはこれが2回目であり、第1回は2011年3月11日の東日本大震災の翌日から始めた『(都留文科大学)学長ブログ 2011~2014』である。
 学長退任にともない、本ブログを2014年4月から開始したため、大学問題には手が回らなかった。
 ところが近3年に及ぶコロナ禍のなかでデジタル化が一挙に進み、ついで1年半にわたるロシアのウクライナ侵攻で戦争と兵器面でもデジタル化が急速に進行している。その波は政治経済文化の全域に波及。教育面では幼児から初等・中等・高等教育の全域に及んでいる。無関心ではいられない。
 少ない大学問題のなかに、2019年10月18日掲載の「新たな大学評価機関」という記事がある。その冒頭に次のように記されている。
 「一般社団法人大学教育質保証・評価センター(以下、本センターとする)は、公立大学長を会員とする一般社団法人公立大学協会(以下、公大協とする)により設立されたもので、既存の公益財団法人大学基準協会(2004年認証)、独立行政法人大学評価・学位授与機構(2005年認証、現在は大学改革支援・学位授与機構)、公益財団法人日本高等教育評価機構(2005年認証)につぐ、第4の大学評価機関として、実に14年ぶりに誕生した。…」
 なお「本センターは公大協により設立された機関であるが、公立大学のみならず国立・私立の大学に広く門戸を開いており、制度本来の趣旨である「多元的に評価を受けられる」1つの旗艦として位置づけられる。…」
 「本センターの役員は、奥野武俊代表理事(元大阪府立大学長)、近藤倫明理事・認証評価委員会委員長(前北九州市立大学長)ほか6氏」とあり、今回、奥野氏の退任にともない近藤氏が代表理事を担うこととなったのも理にかなっている。

【近藤さんから事前に講演の私的覚書を送ってもらう】
 頼みの綱は、今回もまた近藤さんである。
 福島大学で開かれる今年の第12回大会での彼の講演の私的覚書を送ってもらい、会議の狙いを事前に把握、それを踏まえて講演後に東京の三田で会う時の参考にしようと、無理を承知で頼んだ。
 さっそくメールで送ってくれたのが、8月8日つけの「講演の私的覚書き」である。そこには次のように記されていた。その要旨を私の言葉で抜粋する。
1 今回参加する「高等教育質保証学会」は、「高等教育質保証」の研究領域の確立、研究者の育成、専門職員の養成などを目的として2010年に設立した学会。
2 今年の第12回大会のメインテーマは、『データサイエンス・AI時代の高等教育の質保証―データとの対話』。
3 この中で「認証評価セッション:4巡目に向けた認証評価の現状と課題」にパネリストとして招待されている。このセッションの発表者は5人で、機関別認証評価機関(日本に5ある機関別認証評価機関)から参加している。
・松阪顕範(大学基準協会)
・土屋俊(大学改革支援・学位授与機構)
・志賀啓一(大学・短期大学基準協会)
・小林澄子(日本高等教育評価機構)
・近藤倫明(大学教育質保証・評価センター)
4 今回本センターは学会より招待を受け初めての参加。そこで講演目的の一つは(テーマに沿った内容もさることながら)本センターの紹介。
5 センターの設立シンポで基調講演をお願いした小林雅之氏(桜美林大学)は、学会でも初日に基調講演を行う。その司会は工藤潤氏(大学基準協会)、彼もシンポに来賓として参加していた。シンポで来賓挨拶をされた長谷川寿一氏(学位授与機構)は、開会挨拶と司会を担当。同じセッションで発表される小林澄子氏も、センターシンポに参加していた。 
6 私が6月にセンターの代表理事をお引き受けするときに明言したことです。本センターの人事・予算は事務局長に任せる。私の仕事は2つ、SD(staff development)とセンターのプレゼンスの向上。SDは 事務職員の皆さんの成長です。センターは新しい組織なので職員の育成が急務。…他の認証機関の多くが2004,2005年の設立ですので層の厚み経験が違う。本センター職員は委縮しがちで、自信をつけるために実力をつける必要がある。日々の会話の中で少しでも実力をつけるよう接している。
7 同時にセンター職員の誇りの醸成を考えている。…代表理事として外部団体との交流に積極的に参加しプレゼンスの向上を目指し、プレゼンスの向上によって職員の皆さんにセンターへの誇りを持ってほしい。今回の学会発表もこの一環。
8 講演のポイントは、他の認証機関とは違う点、異なる点、独自な特色をアピールすること。本センターは4年前、3巡目の途中からの業務開始ですから、既存の機関と異なる点を強調したい。
9 特色は2点。既存の機関は受審大学より提出された自己評価書の内容を機関が定める大学評価基準に照らして評価する。センターでは自己評価書を簡素化した「点検評価ポートフォリオ」を受審大学に求め、自己評価書をまとめたものを記載する形式です。これが1つ目の特色です。既存の機関の自己評価書だとゆうに100頁を越えるが、センターの場合は52頁ほどに収まる。大学評価基準はシンプルに基準1,2,3と3つです。但し内容はいい加減なものではありません。既存の評価機関が基準として挙げている内容を全て基準1に含んでいます。これが法令順守のチェックです。センターでは基盤評価と呼んでいます。最低限の認証評価はこれをクリアすれば法的には十分です。
10 センターはさらに基準2で、内部質保証の具体例(学習成果など)を求めます。文部科学省により2巡目、3巡目で強調されている視点です。
11 さらに基準3(特色評価)は大学の設置理念に沿った特色の進展を評価する目的で設定している。大学が自らをアピールする積極的な基準でもあり、この基準3に関連して新たな評価のあり方を「評価審査会」という実地調査における評価の形で導入している。この新たな評価の形が2つ目の特色です。
12 これら2つの特色に関して過去3年間の実績を通して自己点検するためにアンケートを取っている。それに対してポジティブな評価を頂いたと自負している。  
13 最後にこのセッションのテーマについての本センターの見解をまとめている
14 今回の学会で掲げられているセッションテーマは、参考文献の3つ目に挙げている中教審の審議まとめ(令和4年3月)に基づくもの。基本的見解は、すでに4巡目への対応ができるように、本センターの現行評価の中に内在化しているとうのが主張です。(少し言い過ぎかもしれませんが)

【東京三田での会食】 
会場の福島から新幹線で東京駅まで来て、JR線田町駅近くのホテルにチェックインした近藤さんをJR田町駅の改札ちかくで出迎えた。ここで落ち会うのも初めてではない。そして思い出深い慶応通りへ繰り出す。
前述したとおり、近3年に及ぶコロナ禍のなかでデジタル化が一挙に進み、ついで1年半に渡るロシアのウクライナ侵攻で戦争と兵器面でもデジタル化が急展開している。今回の学会のメインテーマがまさに『データサイエンス・AI時代の高等教育の質保証-データとの対話』である。
 そろそろ店も開く頃かと移動し、青森県産の馬肉屋<馬並み屋>に落ち着いた。近藤さんは自ら魚を選び、さばくほど、料理に強い関心を持っているという。
互いに自慢の料理の腕をひとしきり披露しあった。
 すると近藤さんが「一日三食となったのは江戸時代から?」と鋭い質問、私は「江戸中期ころではなかろうか」と苦し紛れの返答をした。根拠は都市化の進行と胃袋の縮小である。
 それでは<衣食住>と言い始めたのは何時ころから?と私が質問。食いしん坊で料理好きの二人には、重要度で並べると<食衣住>ではないか。
しばらくして<衣食住>は、いろは順、かつ五十音順に並べたのではないかと気づいた。確かに落ち着きが良い。しかし確証はない。ご存じの方は教えてほしい。

【朝トレ】
 そこに「いまも朝トレをやっておられますか?」と近藤さん。
 朝トレとは私が還暦を機に始めたトレーニングのことで、床の上で上向きになって5つのポーズ、ついでうつ伏せになって6つのポーズ、また上向きに戻り7つのポーズ、主に体幹を鍛える運動である。全部を終えると1時間を越える。
 この特技を私は誰にでも披露する訳ではない。近藤さんなら受取ってくれるかもしれないと思い、お伝えした。その話題が冒頭から出てくるとは!?
 「私もやっています。朝だけではなく夕方も…それから家内と一緒に散歩に出ます。朝トレより夕トレの方が多いかもしれない…」
 「朝に拘らず夕トレという手もあるのか!!」 近藤さんの柔軟な対応に驚かされた。
 26年間、欠かさずやってきた。体調が悪い日は回数を減らすが、やらない朝はない。この間に目が覚め、次々とアイディアが湧いてくる。バカの一つ覚えである。朝と夕に分ける手を知って愕然とした。「近藤さん、ありがとう!」

【コロナ禍を通して】
 コロナ禍で世界が変わった。良くも悪くも大きく変わりつつあり、その行く先が見えない。私個人の経験で特筆すべき変化は、家内の提案にそって自転車を処分し、二足直立歩行に戻った点である。散歩というかウォーキングというか。
スマホの記録を見ると、今年8月の平均歩数が一日あたり7515歩と出た。所要時間は1時間半から2時間半。ついでの買い物や書店等の見物、ウィンドーショッピングも含めての時間である。うち家内と同道の時間が夕方の約半分を占める。
 こうして肉体を駆使する時間が増えた。その分だけ睡眠時間が長く必要となり、ますます知的営為に使える時間が減少する。困ったと思うが、アチラ立てればコチラ立たずである。朝トレや夕トレの間に「次々とアイディアが湧いてくる」ことの効用に期待するしかない。

【初動の大切さ、<違和感>を大切に!】
 対面の雑談を通して、「朋(とも)有(あ)り遠方より来(きた)る、亦た楽しからずや」を実感する。遠回りした末に、やっと今回の学会のメインテーマ『データサイエンス・AI時代の高等教育の質保証-データとの対話』に戻った。
 個別の内容に踏み込むには二人の立場があまりにも異なる。講演を行った近藤さんに比べて、私は会議そのものに参加しておらず、どのような意見が出たかも知らない。そこで少し異なる話題に移した。初動の重要性についてである。
 「変だぞ!」という<違和感>。<違和感>は、永い経験を持つ年長者の方が敏感ではないのか。その<違和感>を表明することに年長者の存在意義があるのではないか。若い人たちの勢いを尊重しつつも、彼らの暴走に注意を喚起し、あるときは歯止めをかけるのが大切ではないか。
 もっとも年長者には個体差が大きい。若い人の場合、平均値に集中しやすい傾向があるのに比べ、年長者は極端に個体差が出がちである。機に応じて、強い<違和感>を発信する存在でありたい。これが二人の今日のまとめである。
 次回にまた続きを語ろうと約束した。

辻達也さんを偲んで

 この「辻達也さんを偲んで」は、横浜市立大学日本史専攻卒業生の会『会報』第8号 特集 辻達也先生を偲んで に寄せた拙稿である。
 『会報』は、その第1号が遠山茂樹教授の退官を記念して44年前の1979年に創刊され、今に至る(第8号の編集後記による、記・對馬労)。世話人(第8号では10人の卒業生)による息の永い集団作業を通じて継承してきた。頭が下がる。
 世話人の一人で、編集・発行を担う大庭邦彦さんから執筆依頼を受けたのが今年5月だったか。私自身は日本史専攻ではなく東洋史専攻として1973年に横浜市立大学に着任した。
 本稿に記したように私は研究範囲をじょじょに拡げていた。1842年の天保薪水令(アヘン戦争の南京条約締結の1日前)公布により、幕府は対外関係の基本を<交渉>に置き、<戦争>を回避する政策を採用した。その延長上に1853年のペリー来航と翌54 年の日米和親条約の締結(=日本の開国)がある。
 幕末の対外関係に関する日本側の研究蓄積と基本的な文献をご教授くださったのが、ほかでもない辻達也さんであった。さまざまに受けた<学恩>の一部を書いたのが、本稿「辻達也さんを偲んで」である。
 このあたりを見抜いていたと思われる大庭邦彦さんの執筆依頼にうかうかと乗ってしまったが、後の祭りである。彼とのご縁や上掲の『会報』世話人たち、そして予定されている「偲ぶ会」の様子など続報を期待されたい。


 横浜市立大学(以下、市大と略称)には、日本近世史の辻達也さん(1926~2022年)、日本近代史の遠山茂樹さん(1914~2011年)、日本政治史の今井清一さん(1924~2020年)、東洋史(中国近代史)の小島晋治さん(1928~ 2017年)、国際関係史の山極晃(1929~)さんなど、著名な先輩たちがそろっていた。
 なかでも遠山茂樹、藤原彰、今井清一の共著として岩波新書の形で1955年に発刊された『昭和史』は当時の一大ベストセラーとなり、初版2万5千部は即日品切れ、増刷は11万3千部に上ったという。読者カードから見る限り、読者には30代もいたが、20代の若者が圧倒的に多かった。
 こうした時代の潮流を表す代表的発言として、銘建工業株式会社の中島浩一郎代表取締役社長が次のように回顧している。「歴史学者で日本近代史の専門だった遠山茂樹先生の著書に感銘を受け、『大学で遠山先生に教わりたい』との思いでYCU(横浜市立大学)に入学しました。……当時は日本近世史の辻達也教授、中国近代史の小島晋治助教授など錚々たる顔ぶれの歴史学の先生が教鞭をとっていました」。
 1973年の『学生便覧』によると、市大の文理学部は文科と理科に別れ、文科には外国語課程、国際関係課程、人文課程、社会課程の4課程があったものの、教員の所属課程にかかわらず、学生たちは課程の枠を越え、かなり自由に科目を履修することができた。
 やがて小島晋治さんが東京大学教養学部へ移籍、その後任として1973年、私が赴任することになった。1936年生まれの私には、最年少の山極さんが7歳、ついで小島さんが8歳、辻さんが10歳、今井さんが12歳年長の兄貴分で、遠山さんは22歳年長、若い父親ほど離れていた。
 種々の要因が重なる転職であったが、新しい職場で先輩方から学問の面でも、生き方の面でも、また意図的な論争を介する面でも、多大な影響を受けた。
 なお、そのころの大学では1学年上の先輩から指導教授までを「さん」付けで呼び、同学年以下を呼びつけとしていたため、本稿も表題をふくめ「さん付け」で進めたい。

【20年前の記録から】
 かなり昔のことであり、あいまいな記憶から生じる誤りを少しでも避けるため、私の市大退職時(2002年)に書いた「史観と体験をめぐって」(『横浜市立大学論叢』第54巻、加藤祐三教授退官記念号 人文科学系列 第1・2・3合併号 2003年、37~88ページ)から、その「はじめに」の一部を引こう。本稿には、略歴(1ページ)、著作目録(2~35ページ)も付してある。
「平成14(2002)年4月末、学長任期を終え、横浜市立大学を退職した。 市大に職を得たのが1973年であるから、在職期間は29年と1ヶ月。
 大学教員としての生活は、7年間の東京大学東洋文化研究所の助手時代を含めて、約36年になる。大学教員の仕事は、教育、研究、社会貢献(学内運営への参加等)の3つが主であり、これは大学教員の誰もが同じだが、その自覚の程度や比重の置き方は、各人により、また年齢や役職などにより異なるであろう。
 私の場合、大学教員前半の約20年間は、授業をこなし、研究論文を書き、学会活動に参加することで役割は果せると思っていた。研究成果を、その着想・調べ・表現の過程を含めて学生に伝えることが教育であり、学内運営は自分とは縁遠いことだと考えていた。いわば個人営業に近い意識で、「己の欲するままに」、「矩を超えて」いた。
 大学の役割を踏まえて、教育、研究、社会貢献の3つにどうかかわるべきかを自覚しはじめたのは、後半の10数年、教授になった(1982年)ころからである。個々の教員からすれば、「己の欲するままに」個人営業の意識で仕事ができ、大学という組織に問題が起きなければ、それにこしたことはない。十二分に自己満足できる制度である。
 しかし、そのような虫の良い話はない。入試にせよ、各種の委員会にせよ、大学運営の多くが組織的な活動である。担当コマの授業をこなし、それに必要な研究を進める「個人営業」だけでは、大学は動かない。とくに激動期においては、明確な将来像を持つ必要があり、そのためには大学の組織全体にまで視野を拡げなければならない。
 「個人営業」の幻想にしがみつくことは、他人に負担を転嫁し、自分の狭いエゴを主張するに過ぎない。この点に気づいてから、私も遅ればせながら大学教員の役割を少し広い観点から再考するようになった。
 学内での議論の場は、学科会議、学部教授会、全学の将来構想委員会、評議会などであった。そして最初にして最大のテーマが、先行設置した理系大学院の総合理学研究科(修士課程は1990年開設)に続いて、国際文化研究科の設置(修士課程は1993年開設)、そして永年の懸案であった文理学部を改組して国際文化学部と理学部を設置する作業(1995年開設)である。
 この作業にかかわるなかで、予算とは「カネではなく政策である」と幹部職員から初めて教えらるなど、いろいろなことを学んだ。教員と職員との意識の断絶も痛感した。大学は教員・職員・学生の3者が息を合わせて動く組織である。既得権益を守るだけの反対論者が、最終バスが出るとなれば見事に豹変し、人を押しのけてまで乗り込むのも見た。世間離れしていると言われる「象牙の塔」の内側は、とても人間くさい小社会であることも分かった。 
 自分の関心に沿って、アジア近代史を主体とする教育・研究に没頭してきたことを誤りとは思わない。だが、分野の違う同僚たちと議論するなかで、自身の研究分野が学問全体のなかで占める位置を考え抜くうち、独りよがりの個人営業ではやっていけないことが分かった。
 学部単位の改革を進めた後は、全学的な問題である。市大の個性や独自性はどこにあるのか。日本の大学全体のなかに市大を位置づけると、市大は中規模総合大学で、分野のバランスも決して悪くはない。総合大学の総合たる所以は、多様な学問分野を擁し、それぞれが有機的に連動することである。たんに多様な学問分野が網羅されているだけでは「生ける屍」である。総合大学として活力を発揮し、学生や社会にとって魅力ある大学に変えるにはどうすれば良いか。
 市大の個性とは、他大学との比較優位である。既に700大学もの規模となった全国の国公私立大学、さらには広く世界の大学にも注目せざるを得ない。公立大学の特性を国立大学や私学との関係のなかで、どう位置づけるか。……
 その一方で、溜まった「筆債」を返すために、歴史書の執筆も再開した。書きたいテーマは山積しており、まず『黒船と開国』(仮題)を第1に選んだ。開国150周年(1854年3月の日米和親条約締結から)が1年半後に迫っている。日米和親条約はその4年後の修好通商条約の前提となり、これによって横浜が開港した(1859年)。横浜の都市化の起源は開港にあり、その前提に開国があり、それはまた近代日本の起源でもある。開国150周年……これは横浜から発信すべき課題である。
 この問題をめぐってはまだ誤解がかなり多い。誤解の構造は、①無能無策の幕府に、②アメリカの強大な軍事的圧力が加わり、結果として③極端な不平等条約となった、とするものである。歴史的事実に基づいて、こうした誤解を解きたい。
 2つの条約はいずれも戦争を伴わない「交渉条約」である。これは基本的に重要な点であり、その諸要因を国内的・国際的な側面から再確認したい。それは同時多発テロ以降の世界の「戦争と外交」を展望することにもつながるはずである。
 そこで平板なことを承知のうえで、「横浜市立大学時代の思い出」と題するエッセーを書こうと試みた。
 歴史家はたんなる書斎人からは生まれないと思っている。偉大な歴史家である司馬遷やイブンハルドゥーンの例を引くのは躊躇するが、少なくともある程度の社会体験が必要である。一方、社会体験に埋没していても歴史家にはなれない。市大に在職していなかったとすれば、教育も研究も行えず、学内運営などに参加する社会体験もなく、傍観者として歴史を眺めるだけであったかもしれない。私にとって、かけがえのない貴重な体験を、市大が与えてくれたという意味で、この題名は真実を突いている。
 ところが、少し書き始めて、大きな齟齬が生じた。市大に在職の機会を得たのが37歳である。この年齢以降の社会体験はきわめて貴重には違いないが、若い頃の体験、あるいは幼少期の体験などの方が、後に及ぼす影響はさらに強烈かもしれない。
 そこでもう少し一般化できないかと考え、本エッセーの題名を「史観と体験をめぐって」とした。「史観」の定義は難しいが、歴史学は客観性と主観的個性の両者を必要とすると考えている私には、どうしても避けて通れない。ここではとりあえず、史観とは「個々の歴史家にとって本質的な基盤」としておこう。また体験には受動的なものも能動的なものもある。両者の区別も難しい。体験が史観にどう影響するのか。気にしてはいたが、目先のことに紛れ、本格的な論述にも出会わなかった。
 歴史学の対象は、大げさに言えば「古今東西 森羅万象」である。自分の歴史学として、いかなる課題を設定するか、その最初の課題設定から資料収集の仕方、叙述における重点の置き方などすべてが個々の歴史家に任されている。したがって、歴史家に  とって史観は、それなくしては課題設定そのものさえ不可能なほど重要である。
 哲学・歴史・文学など人文科学と呼ばれる分野は、個性記述型という本来的な属性を持っているばかりか、個々の作品自体が個性的であり、特異な才能の産物という面が強い。その根底にあるのが、歴史学の場合は、史観である。しかし、史観は個性的であると同時に、普遍性を持たなければならない。
 個性記述型の学問方法にたいして、法則定立型の学問がある。自然科学や社会科学の属性だと考えられており、反論に耐えられる論理(反論不能性)が求められ、ひとたび認知された法則は誰が使おうと普遍的に共通(反復可能性)で、例外があってはならない。社会科学の法則(理論)は主に実務面で証明され、自然科学のそれは主に実験によって証明される。
 歴史学界という同業者の団体内においては、論文を発表する場合、一定の共通ルールを守りさえすれば、筆者がいかなる史観を有しているかは不問に付されがちである。
 言い換えれば、技術的な共通ルールさえ踏み外さないかぎり、史観に言及せず、それを与件として本論に入ることができる。そのほうが良い論文であるとの評価さえ受けやすい。ここで言う技術的な共通ルールとは、先行研究のなかでの自分の課題設定を明示し、実証性、論旨展開の論理性(起承転結)、事実と意見の区別など、一定要件を満たすことである。
 この限りでは、きわめて正当な評価基準であり、とくに若手の学界参入の基準としては申し分ない。しかし登竜門としての「入口」評価基準を通過してからも、依然として同じ基準に依拠するならば、これは大問題である。
 共通ルールは重要な要件であるが、それ以上でも以下でもない。その技術を駆使して、歴史の何を語ろうとするか。この問題は、 最近の歴史学界では対象になりにくい。
 この点で歴史家は作家や芸術家と共通する面がある。作家や芸術家は自分の感性に依拠して作品を創る。それが創造力の源泉であり、作品の質を分ける基準である。但し、歴史家が作家や芸術家と決定的に異なるのは、資料のないことを想像によって描くことができない点である。これは「歴史家が守るべき第一法則」である。この制約にもどかしさを感じることがあるが、それを直視しつつ、その制約の中で史観を確立するのが歴史家である。制約を逸脱する時は、自覚的に「二足の草鞋を履く」ことが大切だと思う。
 では、史観はどのように作られ、何を史観形成の源泉とするのか。この問題に関しても一義的な回答は困難である。これまでの歴史学の歴史、つまり史学史から学ぶ方法が1つある。また尊敬する歴史家の個別事例を探る方法がある。それに加えて、自分の体験を客観化し、その体験と自分の史観を付き合わせる方法があるはずである。
 史観と体験をつきあわせる方法は、「両刃の剣」で危険性を包含している。その人だけが知る実証性の乏しい世界を語るため、安易な自己証明に陥りかねない。史観の源泉を自分の体験に求めるのは、1つの方法、1つの作業過程に過ぎない。このことを念頭において、エッセー風に本稿を進めていきたい。エッセーに注は不要だが、別掲の著作目録と関連させて、A2とかB18など、注らしきものを幾つか入れた。
 繰り返しになるが、歴史学は、最初の課題設定、膨大な量の資料収集、その取捨選択の仕方、叙述における重点の置き方など、すべてが個々の歴史家に任されている。歴史家は客観性と主観的個性の両者を併せ持つため、その主観的個性を支える史観を絶えず問いつづける責務がある。
 そのための1つの過程として、私にとってきわめて大切な発想の原点が、どのような体験を基盤として生まれたか、現段階で思い出せるものに限って挙げてみたい。便宜上、2期に大別する。第1期を横浜市立大学就職以前(37歳まで)とし、第2期を市大に在職した約30年間とする。」

【研究テーマの拡大】
 長々と再録したが、以上が「史観と体験をめぐって」の「はじめに」の一部である。このエッセーの「横浜市立大学時代」の部に次のようにある。
 「…今の文科系研究棟の少し南にあった研究棟は木造2階建てで、以前の将校兵舎、無垢の一枚板を使ったムクノキの廊下は歩くと軋んだ。天井が高く、広めの研究室だったが、冬の隙間風はさすがにこたえた。その近くの俗称「カマボコ兵舎」ではソバやラーメンなどの軽食を食べることができた。なお『学生便覧』(1973年)の255ページにある「横浜市立大学校舎配置図」を参照。
 全共闘運動の継続を主張し、「大学封鎖」を叫ぶ学生たちがいて、その多くが私の東洋史の所属で、自主ゼミと称して一緒に中国語文献や歴史哲学(本稿で言う史観)などを読んだ。
 その頃、私の研究テーマは多岐に拡大していた。37歳という年齢にふさわしいというべきか、それとも、青二才の無謀というべきか。収拾がつかなくなる危惧よりも、情熱が先を走った。
 第1が中国農村史の延長上に時代を遡って中国農業史をまとめること
 第2が中国近代史の通史を書くこと
 第3が中国にとどまらず日本をふくめたアジア近代史を書くこと、そのためには近代が世界史の時代である以上、地域に限定しては歴史が描けないと考え、
 第4に近代世界史を書くこと
 第5に歴史の本質とは何か、歴史哲学あるいは本稿でいう史観や歴史学方法論を書くことへと拡がっていた。
いま思えば、このうちの何分の1も実現していない。わずかに第1テーマがB11、12などになり、第2テーマがA7、A11などに結実、第3テーマはA2、A15、A16などに発展しつつあり、第4テーマがA2、A6、A16などに結実、第5テーマをB4、B36などで展開してはいる。
 とても満足できるものとは言えない。もともと過大な夢を抱いたのだから、実現できないのは当然だと言う自分がいる。しかし自身が抱いた夢である。行き続けてみようと思う。…」

【中国農業史から「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」へテーマ拡大】
 ここに「私の研究テーマは多岐に拡大…していた」とあるように、あまり具体的な形ではなく、多方面に拡大していた。それが一定の形を取り始めるのは、しばらくしてからである。
 教員の業績は上掲のとおり、A=著書、B=論文、Ç=その他、の3つに分類して学部改組や大学院開設のさいに提出し、評価を受ける。前出の『紀行随想 東洋の近代』(朝日新聞社 1977年)は、『中国の土地改革と農村社会』(アジア経済出版会 1972年)に次ぐ著作である。
 ついで私の主な著書を掲げたい。書名から読み取れるように、「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」をテーマに井上一学部長の英断により、在外
研究でイギリスへ行くこととなり、研究範囲が拡大していったことが分かる。
 『イギリスとアジア-近代史の原画』(1980 年 岩波新書)、『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店)、『東アジアの近代』(ビジュアル版『世界の歴史』第17巻 1985年 講談社)、『黒船異変-ぺりーの挑戦』(1988年 岩波新書)、加藤祐三編 Yokohama Past and Present 1990 横浜市立大学、『地球文明の場へ』(『日本文明史』第7巻 角川書店 1992年)、『世界繁盛の三都』(1993年 NHKブックス)、『アジアと欧米世界』(川北稔と共著 1998年 中央公論社『世界の歴史』第25巻)。
次は市大退任後の著作。『幕末外交と開国』(2004年 ちくま新書)、『開国史話』(2008年 神奈川新聞社)、『幕末外交と開国』(増補版 2012年 講談社学術文庫)
 あまりにも目まぐるしく展開しているようで一定の整理が必要と考え、下記のブログに「我が歴史研究の歩み」と題して38回にわたり連載した。
加藤祐三Blog(ツキイチコテン)  http://katoyuzo.blog.fc2.com/
 2015年6月30日掲載の【1】連載「新たな回顧」、【5】「初めてのアジア」(2015年10月31日掲載)、【6】「キューバ危機」(2015年11月16日掲載)、【7】「アウシュビッツ到着」、【11】「専門書の出版」(2016年4月11日掲載)、【12】「2度目のアジア旅行」(2016年5月16日掲載)、【14】「研究課題の拡がり」(2016年7月11日掲載)、【15】「東南アジア紀行」(2016年8月10日掲載)、【17】「横浜市大での新生活」(2016年12月5日掲載)、【18】「イギリス在外研究」(2016年12月20日掲載)、【19】「文字史料と図像史料」(2017年1月13日掲載)、【20】「中国紅茶の呪縛」(2017年2月7日掲載)、【21】「紅茶からアヘンへ」(2017年2月23日掲載)、【23】「インド産アヘン」(2017年4月21日掲載)、【24】「19世紀アジア三角貿易」(2017年5月24日掲載)、【25】「イギリスとアジア」(2017年6月21日掲載)、【27】「植民地インドのアヘン専売制」(2017年7月28日掲載)、【29】「黒船前後の世界」(2017年8月21日掲載)、【30】(一)ペリー艦隊の来航」(2017年9月8日掲載)等を経て、【38】連載(完)「日米和親条約への道」(2020年8月12日掲載)まで5年余を費やし、あわせて38回にのぼる。それぞれに私なりの論の展開に根拠のあることを述べようと試みている。

【辻達也さんから教えられたこと】
 辻 達也(つじ たつや、1926年7月3日 - 2022年9月20日)さんは日本の歴史学者、横浜市立大学名誉教授。専門は日本近世史。幕府政治史を中心に研究した。
 辻善之助の次男として東京に誕生。東京大学国史学科卒。1962年「享保改革の研究」で東大文学博士。横浜市立大助教授を経て1968年教授。1986年定年退官、名誉教授。専修大学教授、1997年退任。
 なお、主な著書と主な校訂・共編については別掲の通りである。として
• 『徳川吉宗 人物叢書』吉川弘文館 1958、新装版1985
• 『享保改革の研究』創文社 1963
• 『大岡越前守 名奉行の虚像と実像』 中公新書 1964
• 『日本の歴史 16 江戸開府』中央公論社 1966、中公文庫 1974 改版2005
• 『江戸時代を考える 徳川三百年の遺産』 中公新書 1988 
• 『近世史話 人と政治』悠思社 1991
• 『江戸幕府政治史研究』続群書類従完成会 1996
 また主な校訂・共編として
• 『撰要類集』第1-3 校訂 続群書類従完成会 1967-79
• 『新稿一橋徳川家記』編 徳川宗敬 1983
• 『大岡政談』全2巻 編 平凡社東洋文庫 1984、ワイド版2005
• 『享保通鑑』校訂 日本史料選書:近藤出版社 1984
• 荻生徂徠『政談』校注 岩波文庫 1987
• 『辻善之助 江戸時代史論』悠思社 1991。講演録の編著
• 『日本の近世』全18巻、朝尾直弘共編 中央公論社 1991-1994
『2 天皇と将軍』、『10 近代への胎動』 1991-1993 を担当
• 『徳川吉宗とその時代 NHK文化セミナー・歴史に学ぶ』 日本放送出版協会 1995。放送テキスト
• 『一橋徳川家文書 摘録考註百選』編著 続群書類従完成会 2006
 
 私の研究が『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店)、『東アジアの近代』(1985年 講談社)、『黒船異変-ぺりーの挑戦』(1988年 岩波新書)と、幕末日本に近づくにつれ、辻さんのご専門の幕府政治史に頼らざるを得ない。
 『学生便覧』(1973年版)の、辻さんの担当する文化史Ⅲの解説に、「荻生徂徠の「政談」を購読しつつ江戸時代を中心とする、日本の思想、文化、制度等の諸問題を考察する演習」との説明がある。演習とはいえ学生にも本気を求める高度な内容である。なお「文化史Ⅱ」(辻達也、遠山茂樹)は「卒業論文を日本史で作成しようとする第4年次生のみを対象とする演習」と記されている。
辻さんから紹介していただいた著作のうち今も記憶に残るのが、田保橋潔『近代日本外国関係史』(刀江書院 1930年 原書房 1976年)、井野辺茂雄『幕末史の研究』(雄山閣 1927年)、石井孝『日本開国史』(吉川弘文館 1972年)等の基本的な先行研究であった。
 一次史料は、東京大学史料編纂所編『大日本古文書』シリーズ内の『幕末外交関係文書』にあり、1853年のペリー来航から翌年の日米和親条約の締結に関係する文書は、その一から五まで(1910~14年刊)に収められ、附録(1913年~刊行) にも本編の補遺に当たる貴重な史料がふくまれている。ペリー艦隊来航以前の異国船到来については、『通航一覧』や『通航一覧続輯』 等に詳細な記録がある。
 辻さんにとっては何でもない、日常茶飯事であったに違いないが、私にとっては青天の霹靂に近いものがあった。
これらの研究に導かれ、関連資料を読むうちに、私自身の見方が徐々に形成されていった。『思想』誌連載の題名を考えているとき、黒船来航前後で変わる日本史を象徴的に語る服部之総『黒船前後』(1933年)からヒントを得て、私は「黒船前後の世界」と着想し、それに決めた。
 それにはアメリカ議会文書(上院と下院)が不可欠である。そう思っていた矢先、偶然にもその全文書が東京国会図書館で公開された。
 「日本の外交」という視点に留まらず、「世界政治のなかの日本外交」の大切さを明らかにしたい。
 前掲の在外研究でのイギリス行きの成果の一つ、『イギリスとアジア-近代史の原画』(1980 年)で明らかにした「19世紀アジア三角貿易」(中国からイギリスへの紅茶、英植民地インドから中国へのアヘン、イギリスからインドへの機械製綿布の3商品で構成)の延長上に、第1次アヘン戦争(1839~42年)と第2次アヘン戦争(1856~60年)が展開されていた。
 その戦争情報を入手・分析することを通じて、幕府は天保薪水令(南京条約締結の1日前、1842年8月28日発布)に切り替え、<避戦>を貫き通した。その12年後の1854年にペリーと日米和親条約を結び、さらに17年後の1959年に横浜開港が実現する。
 こうした天保薪水令(1842年)、日本開国(1854年の日米和親条約締結)、横浜開港(1859年)に至る過程が、第1次アヘン戦争(1839~42年)、第2次アヘン戦争(1856~60年)と同時並走していた厳然たる事実が明らかになった。


【敗戦条約と交渉条約の比較一覧】
 遠山さんが市大を退職されて横浜開港資料館館長であったころ、私は「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸条項を中心として」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1982年)を書いた。
 本論文は題名にある通り、日本史ではあまり取り上げられることのない日米修好通商条約(1858年)のアヘン禁輸条項を主題とし、ほぼ同時期のアロー号戦争に始まる第2次アヘン戦争(1856~60年)と対比しつつ論じている。従来の基本的研究、石井孝『日本開国史』(吉川弘文館 1972年)を補うものである。
 遠山さんは本誌創刊によせて「…横浜という地域の考察にとどまらず …世界近代史と日本近代史との相互影響・ 相互対立の接触面を代表し…館外研究者の成果も本誌に反映させたい…」と述べ、拙稿がこの創刊号の巻頭論文となった。
 石井孝『日本開国史』は、同じ1858年に結ばれた安政条約(日米)と天津条約(中英)の比較のなかで、①内地旅行権、②関税行政への外国人の介入の有無等を挙げている。
 これに対して私は、天津条約が第2次アヘン戦争の中途で結ばれたもので、この戦争の最終条約である北京条約(1860年)と一体のものと考えるべきとしたうえで、さらに
ア)賠償金の有無
イ)アヘン条項の有無
ウ)開港場における外国人側の自治権の有無等を追加し、なかでもアヘン条項の重要性を論じた。
うちア)賠償金の有無とは、「敗戦条約」には敗者が勝者へ支払いが義務づけられるが、「交渉条約」にはそもそも賠償金の概念はなく、両者は基本的に違う。
 安政条約締結の直前、ハリス米総領事(のち公使)は、米国と通商条約を結べば多くの利点があるとする演説「日本の重大事件に就いて」(1857年12月12 日)を江戸城で行い、その一つとしてアヘン禁輸を強調した。
 「条約一覧」に示した通り、米シャム条約(1833年)、米中望廈条約(1844年)以来の米国外交のアヘン禁輸策を踏襲した主張である。アヘン問題をめぐって、アメリカとイギリスは決定的に対立していた。
条約一覧-とくにアヘン条項をめぐって
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 出典:拙著『黒船前後の世界』(増補版 ちくま学芸文庫 1994年)411ページ。
 左から「合法化」、「記載なし」、「禁輸」、「備考」と並べ、イギリス植民地ペナンでの合法化(1784年)と米=シャム条約(1833年)の「禁輸」、ついで英清南京条約(1842年)の「記載なし」と米清望厦条約(1844年)の「禁輸」へとかわる、複雑な過程を一覧表にまとめた。
 最終的には第2次アヘン戦争の最中の英清天津条約(1858年6月26日)において「洋薬」と名前を変え、アヘン貿易は「合法化」された。一方、日米修好通商条約(1858年7月29日)ではアヘン「禁輸」が明示される。
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【結びにかえて】
 約20年前に書いた「史観と体験をめぐって」に、「……溜まった「筆債」を返すために歴史書の執筆を再開した。書きたいテーマは幾つもあったが、まず『黒船と開国』(仮題)を第1に選んだ。開国150周年(1854年3月の日米和親条約締結から)が1年半後に迫っている」と述べた。
 その私なりの一つの回答が拙著『幕末外交と開国』(ちくま新書 2004年)であり、その増補版が『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)に他ならない。しかし本書は1854年締結の日米和親条約で終わっている。
都市横浜の起源となる横浜開港は、日米和親条約の締結からさらに5年後の1859年6月2日である。戸数100戸(人口約500人)の横浜村(日米和親条約の交渉・調印の地)が横浜町となり、30年後の1889年に横浜市となった。
いま横浜市は人口337万を数える日本最大の都市(政令市)である。その成長の過程、要因、条件等々を描く仕事が眼前にある。それを成し遂げるまで、しばらく目を離すことができない。

久しぶりの市大テニス

 コロナ禍のため中断していた横浜市立大学(以下、市大)の教職員テニス親睦会と市大硬式庭球部との親善交流試合が八景キャンパス内のコートで開催された。これを「市大テニス」と略称する。今年3月の親善交流試合には出席できず、今回が私にとって数年ぶりの参加である。
 5月2日、坂智広さんから教職員テニス親睦会の面々宛にメールが来た。
「先月、4月4日付けで親睦会会長の上村先生から、2023年度(春季)の硬式庭球部との交流テニス(5月20日/土曜日開催)のお誘いをお送りしました。
上村さんが体調を崩され療養されているので、私がフォローアップを命じられております。交流テニスに向け、上村さんの早期の回復を祈っております。
5月20日(土)2023年度硬式庭球部との交流テニスにつきまして、前回のご案内に何名かの方からご参加の意向をお返事いただいておりますが、改めて出席につきご回答をお願い申し上げます。(2022年4月11日に案内をお送りした方々のアドレスにご案内しております。)
次の内容を、このメールに返信でお知らせください。」
 私は、その日のうちに、以下の返信をした。
「坂さん
上村さんの体調不全、心配ですね。
私は…その後の体調不全は徐々に回復、4月5日の入学式に出席しました。テニスにも復帰しました。
瀬戸遠征も可能かと考えています。テニス参加は無理でも、みなさんのお顔を見たく思います。」

【5年前のブログ記事を発見、再録する】
 以前に本ブログに書いた記憶があるので調べてみると、5年前の2018年6月1日掲載の「大学のスポーツ」があった。題名をこうしたのは意味がある。「大学のスポーツ」の一つの在り方を考えたいとの思いから、そう名づけた。いささか長文であるが、思い切って全文を、以下に再録しよう。

 (2018年)5月26日(土曜)、古巣の横浜市立大学(市大)へ行く。キャンパスの北側一帯には横浜の地形の特徴である谷戸(やと)がそのまま残り、常緑広葉樹(照葉樹)の多い混合林に踏み入ると、夏でもひんやりとした爽やかな空気に包まれる。石段を9つ上ると「第2グランド 196段 5分」と手書きの小さな木製案内板。
 第2グランドにはテニスコートと多目的グランド(ホッケー、サッカー等)がある。この急坂の林をなんど往復したことか。思索のために、学生たちとのテニスのために、そして夕映えの富士山を見るために。

 関東学生テニス連盟男子は最強の1部から6部まで各6校が入り、それ以外の約60校が7部に属す。10年前(2008年)、5部にいた市大と6部で優勝した東大との入れ替え戦がここで行われ、雨のため2日にわたる熱戦の結果、市大が勝利(防衛)した。両校にはスポーツ推薦入試もなく、高校時代にテニスをした者も多くない。その二者の、今も心に残る大試合であった。

 階段を上り切って平らな道をすすみ、しばらく下って鉄製の急階段が第2グランドへとつづく地点で、木々の間から視界が開け、遠くに山並みが見える。その先は富士山だが、今日は見えない。下のテニスコートから、「おはようございま~す」と大声が響いた。手を振って答える。

 教職員テニス親睦会(以下、親睦会)と硬式庭球部員との、年に一度の親善交流試合の日である。階段を下り切ったところで、男子部主将(軒野秀則)と女子部主将(斉藤玲乃)が出迎えてくれた。部員は男子22名、女子10名、男子に1年生が多いと言う。親睦会からは、仕事で出られない人もおり、男女合わせて9名が参加。
 椎の木の若葉がきらきら光り、薫風が吹き抜ける。曇りがちで少し蒸すが、絶好のテニス日和である。昨年の補修工事で、ハードコートからオムニコートとなり、足腰にかかる負担が減った。ありがたい。

 親睦会は創設が1980年頃なので、40年近く経っている。呼びかけの張本人が私で、初代の会長をつとめた。そのころ第2グランドのテニスコートが学生の部活専用として完成した。本キャンパスのコートは、私の記憶では今の図書館東側にあったクレーコート、ついで今のシーガルホール横の運動部部室あたりのコート、今の理科系研究棟あたりのコート(ここからオムニ)と移り、現在は谷戸の谷間にある弓道場の手前にある。

 現在の親睦会会長は随清遠さん(金融論)、学問に厳しく人に優しい。硬式庭球部の部長も兼ね、学生の信頼を集める。
 副会長の坂智広さん(農学)は左腕の剛速球。毎土曜の朝、季語や農暦を盛り込んだ、味わい深い名文の練習呼びかけメールをくれる。

 親睦会は会員の高齢化が進んで、20代から40代にかけての教職員がほとんどいない。子どもの頃の運動量(時間)が急減し、交通機関への依存度が高まった時代に育ち、運動習慣を持たない人が増えたのであろうか。

 「大学のスポーツ」と言えば、ふつうは学生スポーツを意味する。どの大学にも部活としてのスポーツがあり、スポーツ同好会も盛んである。部活は競技種目ごとに地域単位や全日本規模のリーグ戦、大学間の定期戦を行っている。

 学生生活におけるスポーツの役割を私は高く評価し、長く応援してきた。文章で表現したものは少ないが、ブログという新しい媒体が生まれてからは、『都留文科大学学長ブログ-2011~2014』(このブログのリンクにあり)等で折に触れて述べてきた。

 もともと「気晴らし」の意味であった英語のスポーツが、現在のようにラグビー、サッカー、野球、テニス等のゲームを意味する「近代スポーツ」として誕生したのは19世紀中頃である。近代スポーツの誕生は、都市化の進行と肉体労働の減少という近代史の特性と密接に関係している(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』岩波新書、1980年、第3章)。とくに高校・大学の若者たちが新生スポーツを先導してきた意義は大きい。

 そこに最近、忌わしい事件が起きた。関西学院大学(関学)と日本大学(日大)とのアメフトの定期戦(5月6日)で、日大の選手がボールを持たない関学の選手(QB)を後方からタックルして怪我を負わせた。

 それから2週間余の5月22日、危険(反則)タックルをした日大の選手が勇気ある謝罪会見をした。翌23日晩、雲隠れしていた日大の内田(元)監督と井上(元)コーチが記者会見を行ったが、反則タックルの指示はしていない等、選手と正反対の発言に批判が集中した。

 球技のなかでタックル等の接触プレーが多いのがアメフトで、次がラグビー。スポーツマンシップに基づくタックルは、かける方もかけられる方も爽快で、私もそれに魅せられてラグビーをした経験がある。だがタックルは取り返しのつかない怪我や死亡事故と紙一重であり、ルール厳守、フェアプレー精神(競技相手への敬意)の徹底が不可欠である。

 今回の事件は、スポーツ競技の例外的な不祥事にとどまらず、広く「大学のスポーツ」、「教育指導における主体性の尊重」等の問題を浮き彫りにし、日大執行部の体質等、根の深い課題をも露呈させた。

 この事件が念頭を去らぬまま、テニスコートまで来た。今回の交流試合は、1992年以来27回目であろうか。学生たちがプログラムを組み、審判やボーラーもつとめる。賑やかに声援が飛び交うなか、教職員と学生がペアを組み、4ゲームオール(第5ゲームあり)の試合を5セットこなした。

 歴代の庭球部部長が勢ぞろいしたのも嬉しい。年齢順に柴田梧一さん(経営学)、岡眞人さん(社会学)、随清遠さん(前掲)。柴田さんは今春に叙勲を受けた年齢だが、まだまだテニスは現役である。「若い」団塊世代の岡さんは、着実にテニスの腕を上げている。

 溌剌とプレーに打ち込む学生たちにつられ、私はいささか張り切りすぎた。学生が異世代と交流試合をする、これもまた「大学のスポーツ」の一つの姿であろう。

【今回の教職員の参加者】
 以上が5年前のブログ記事「大学のスポーツ」の全文である。 
読み返すと、意外に今年との類似点があったり、参加者等に変化もある。実名の出ている教職員に違いも目立つ。
5月2日の随清遠さんからのメールが、坂さんから転送されてきた。案内を送るべき親睦会メンバーの一覧である(敬称略)。
加藤 祐三、柴田 悟一、小島 謙一、木下 芳子、横山 晴彦、岡 真人、坂 智広、 青 正澄、上村 雄彦、鞠 重鎬、太田 塁、羽木さん、尾崎 正孝、佐藤 信裕、倉持 和雄、紺野 エミ、黒川 修司、林 正寿、足立 典隆の計19名。のち鞠 重鎬さんから鈴木さんに参加を求めて良いかとあり、鈴木さんの参加が決まり、計20名。
以上20名のうち、今回の出席者は下記のとおり。
加藤 祐三、柴田 悟一、倉持 和雄、林 正寿、佐藤 信裕、横山 晴彦、鞠 重鎬、鈴木さん、坂 智広の9人。

 開催予定日の5月20日(土)が近づくにつれて、気持ちが高ぶってくる。
12日、硬式庭球部副将の小笠原君から「この度は交流試合の閉会式における年長者挨拶をお願いしたい…」とメールが入り、すぐに下記のように返信した。木嶋君(女子)が主将のようである。
小笠原 碧斗君
cc 木嶋 未海 君
交流試合 閉会式の年長者挨拶について、承知しました。
数年ぶりの参加を楽しみにしています。
加藤祐三

【山を越えるのに自信なく、坂さんに車で搬送してもらう】
 5年ぶりの市大テニス。高ぶる気持ちの半面、はたして構内から山道を越えていけるかと不安もよぎる。5年前のブログに「第2グランド 196段 5分」と手書きの小さな木製案内板」があると書いてあるのを思い出した。「196段 5分」は若者の基準である。196段を登りきることが可能であろうか。
 迷っていても始まらない。18日のうちに坂さんにメールで依頼した。「12時半に市大正門に着くので、そこから車で第2グランド背面の入り口まで搬送していただきたい」
 いよいよ当日の5月20日、正門を入ると柴田さんがいる。彼もまた腰痛のため山越えに自信がないと言う。相乗りがいて、5年ぶりの久闊を叙した。

【若々しい学生諸君の挨拶に感激】
 第2グランドの光景が数年前、いな数十年前の記憶を呼び覚ます。
 三々五々、学生が挨拶に来てくれた。氏名、所属学部・学科、何年生かを述べる。そのなかにマユという名の女子がいることに気づき、「私の娘もマユ」と言うと、「…嬉しい!」と言う。驚くべきことに、もう一人、マユがいた。
 字こそ違うが、これで3人のマユがそろった。開港横浜を支えた最大の輸出品がマユの生み出す生糸ある。縁起が良いぞ!

【3セットをこなす】
 午前中は雨が降り、午後から参加の私が偶然にも正解であった。紅白に別れ、教職員と学生がペア―を組む。試合形式は4ゲームオール(2オールの場合に第5ゲームあり)で5年前まえ変わらない。ただし5年前は5セットこなしたが、今回は3セットが限度であった。
 最後の試合は1年生男子とペア―になった。カミサトという名字の初々しい人物、審判とボーラーを先輩が勤めてくれたせいか、すこし小さい声で「楽しかった」と印章を語った。私も同感である。

【年長者挨拶】
 いよいよ閉会式である。依頼を受けていたので、一言述べると同時に著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2014年)を謹呈する準備をしていた。
 「86歳、最年長者の加藤祐三です。…市内出身者は6月2日のて港記念日をよく知っているはず。1859年6月2日である。ペリー来航や黒船来航についてはどうかな? 戦争を回避し、話し合い通して条約を結ぶことができた。それが後の都市横浜の発展につながる。幕府の外交能力の高さを認識してほしい。
 おりしもウクライナのゼレンスキー大統領も参加するG7広島サミットが開かれるのも一つのご縁かもしれません。
 本書は、日米和親条約(1854年)の締結までを主にしているが、これを基準に5年後の1859年の横浜開港にいたる。硬庭部員たる者、この大筋だけはぜひ理解してほしい」
 年長者挨拶で、まさかの<お説教>を食らうとは想定外であったに違いない。それでも微笑を浮かべつつ、耳を傾けでくれた硬庭部員のみなさん、ありがとう!
 来年もまた3セット参加できるよう、日々の鍛錬を怠らないよう努めます。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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