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第8回ジョン万サミットin東京

 標記の会合が11月9日(土曜)、東京都文京区は本駒込の東洋文庫で開かれ、初めて出席した。ジョン万とはジョン万次郎あるいは中浜万次郎の愛称で、サミットは全国各地にある万次郎顕彰会の連携・親善をはかって開かれるという。

 東洋文庫は土佐出身の三菱財閥三代目の岩崎久彌(1865~1955年)が1924年に創設した東洋学の研究図書館で、学生時代にたいへん世話になった。旧来の閲覧室に加えてミュージアム機能を強化、カフェを併設して大改装、見違える姿に驚きつつ、2階の講義室へ向かう。

 話は半年ほど遡るが、今年5月、江東区文化センターで「NPO法人・中浜万次郎国際協会」(東京都認可、北代淳二理事長)の創立総会があり、その記念講演として「ペリー応接と万次郎」を語る機会をいただいた。漂流民となり11年後に日本に強行帰国を果たした土佐の漁師・万次郎が、ペリー来航と幕府のペリー<応接>(現在の<交渉>に該当)にいかなる影響を与えたかを主題とした(2019年7月10日掲載「ペリー応接と万次郎」参照)。

 江東区文化センターの近くに土佐藩の下屋敷があり、万次郎が11年間住んでいた。それに因み10年前に落合静男さん(当時、江東区北砂小学校長)や幅(はば)泰治さんたちが立ち上げた地域密着型の「ジョン万次郎・江東の会」(その創立記念講演は日野原重明医師)を、2014年に全国型の「中浜万次郎の会」とし、今回「NPO法人・中浜万次郎国際協会」に改組した。また幅事務局長たちの尽力により、地道な調査研究活動の成果を「研究報告」誌として刊行、すでに第9集を数える。

 講演のご縁から牧野有通さん(日本メルヴィル学会会長)と知り合い、9月8日(日曜)、中央大学駿河台記念館で開かれた「第7回日本メルヴィル学会年次大会」を聴きに行った。それというのも、15年前、私が神奈川新聞に「開国史話」を連載(月水金の週3回、計200回、のち2008年に単行本『開国史話』として同社より刊行)、そのなかに「メルビル『白鯨』の世界」として一文(2004年6月2日)を書いていたからである。

 牧野会長は挨拶で、(1)今年がアメリカ人作家メルヴィルの生誕200年にあたり、(2)6月にニューヨークで国際メルヴィル学会に出席して日本メルヴィル学会の活動を報告、(3)思えば30年前のシンポジウムで「メルヴィルと万次郎」を発表して以来の研究課題であり、(4)メルヴィルとジョン万次郎は2~3度、太平洋上の島々で実際にすれ違っており、両者は1840~50年代という<近代>の入口で生きた日米両国の同時代人である、と語った。

 この年次大会の特別講演は作家の夢枕獏「白鯨とジョン万次郎」で、高知新聞等に連載中の「白鯨とジョン万」の執筆構想や苦労話をからめて壮大な話をされたが、そこで北代さんや幅さんたちと再会した(本ブログ2019年9月13日掲載「メルビル『白鯨』の世界」)。

 そして今回の「第8回ジョン万サミットin東京」である。いただいた平田潔事務局長からのメールには、11月9日(土)のサミットが東洋文庫で、その記念講演は夢枕獏先生、11月10日(日)の万次郎忌は例年通り雑司ヶ谷霊園で行った後、追悼昼食会も例年通り万次郎終焉の地である銀座で、ご子孫(万次郎から四代目)の中濱慶和氏をお迎えして、とあった。

 5月、9月につづき短期間に3度目の再会となったのが北代さん、幅さん、牧野さんで、夢枕さん、落合静男さん、塚本宏さんとは2度目である。万次郎が引き合わせてくれたのであろう。

 ここで万次郎の略歴の一部を再確認しておきたい。文政10(1827)年、現在の高知県土佐清水市中浜(なかのはま)で半農半漁の貧しい漁師の次男として生まれた。9歳のとき父が亡くなり、母と兄が病弱であったため、幼い頃から働いて家族を養い、寺小屋へ通う余裕もなかった。

 天保12(1841)年、鯵鯖漁船の炊係(炊事と雑事を行う係)となる。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳、のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、その弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)、もう一人の櫓係の寅右衛門(26歳)、そして最年少の万次郎(14歳)である。

 寒中に船出し、足摺岬の沖合で操業中に突然の強風で航行不能となって数日間の漂流後、伊豆諸島の無人島、鳥島にたどり着いた。この島でわずかな溜水と海藻や海鳥を口にしながら143日間を生き延びる。5月9日(1841年6月27日)、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料を求めて島に立ち寄った際に発見され、救助される。
 鎖国の日本に帰国はかなわず、5人はそのままアメリカへ。翌1842(天保13)年、ハワイのホノルルに寄港。4人は下船、万次郎だけが希望してアメリカ本土を目指す。ホイットフィールド船長に気に入られ、乗組員から「ジョン・マン (John Mung)」の愛称で呼ばれた。

 ジョン・ハウランド号は、1842年、船長の故郷で捕鯨船の一大拠点のマサチューセッツ州ニューベッドフォード(フェアヘブンの隣町)に帰着、万次郎は船長の養子に迎えられ、1843(天保14)年、オックスフォード学校、1844(弘化元年)年、バートレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。寝る間も惜しんで勉学に励み、首席となり、民主主義や男女平等等、眼を見張る概念に触れる一方、人種差別も経験する。

 卒業後は捕鯨業に従事、投票で副船長に選ばれる(投票では2人が1位になったが、年長者に船長の地位を譲った)。1850(嘉永3)年5月、日本に帰る意志を固め、資金調達のためゴールドラッシュに沸くカリフォルニアへ。サクラメント川を蒸気船で遡上、鉄道で鉱山に向かう。数ヶ月間の金鉱採掘で600ドルを得ると、ホノルルに渡って昔の仲間を誘い、1850年12月17日、上海行きの商船に購入した小舟「アドベンチャラー号」を搭載して日本を目ざした。

 1851年3月4日(嘉永4年2月2日)、帰国禁止(鎖国)の掟を破り、アドベンチャラー号で薩摩藩に服属していた琉球に上陸、番所で尋問を受けた後、薩摩本土に送られた。薩摩藩で取調べを受けるも厚遇され、西洋文物に興味のあった開明的な藩主・島津斉彬から海外情勢や文化等について問われる。
 薩摩から長崎への移送後は、長崎奉行所から長期間の尋問を受け、絵踏みにより非キリスト教徒の証明をさせられ、さらに外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩からの迎えの役人とともに土佐に向かう。

 高知城下では吉田東洋らによる藩の取り調べを受け、万次郎を同居させて聞き取りに当たった河田小龍が、その記録を『漂巽紀畧』として刊行した。

 拙著『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)の第1章「1853年 浦賀沖」の「5 ジョン万次郎の語るアメリカ」では、取調べに答えた発言6点を引用した。①歴史と地理について、②食事と酒について、③アメリカ人について、④大統領について、⑤日本に関する評判、⑥江戸の評判。

 この⑥で「江戸は世界中でもっとも繁盛の所と評判が高く、彼国の人びとは見物したがっている。江戸・北京・ロンドンの三都は世界第一の繁盛の地である」と述べている。これから大きなヒントを得て、私は『世界繁盛の三都-ロンドン・北京・江戸』(1993年、NHKブックス)を刊行した。

 万次郎はペリー2回目来航直前の1854年1月、20俵取りの御普請役として召し抱えられる。史上初の日米交渉については、上掲の拙著『幕末外交と開国』や『開国史話』ならびに本ブログ(2019年7月10日掲載「ペリー応接と万次郎」)等を参照していただきたい。ただ、交渉の場で果たした万次郎の役割については史料が少なく、今後の解明が待たれる。
 
 その後の万次郎の活躍について、簡単に挙げておきたい。1860年、日米修好通商条約の批准書交換の遣米使節通訳として渡米、ついで幕府の軍艦操練所教授(1862年)、土佐藩の開成館教授(1866年)となり、英語、航海術、測量術などを教える。明治政府により1869年、開成学校(東京大学の前身)の英語教授に任命される。著書に英会話書『英米対話捷径』(1859年)がある。

 東洋文庫の「第8回ジョン万サミットin東京」では、開会の挨拶に司会の平田潔事務局長、歓迎の挨拶に「NPO法人・中浜万次郎国際協会」の北代理事長、そして各地域の活動が報告された。

1 台湾 陳新炎氏(中国語で『約翰・万次郎傳奇一生』を刊行、紹介)
2 沖縄県 豊見城市沖縄ジョン万会 赤嶺秀光会長
3 沖縄県 糸満市万次郎上陸記念碑期成会 徳元秀雄会長
4 高知県 土佐清水市ウェルカムジョン万の会 田中慎太郎会長
5 高知県 高知市 土佐ジョン万会 アーサー・デイビス理事
6 大阪府 ホイットフィールド万次郎の会 上野貴與之会長
7 東京都 中浜万次郎国際協会 北代淳二理事長
8 秋田県 秋田市 佐藤宗久氏
9 熊本県 熊本市 吉岡七郎氏
10 特別報告 沖縄県 神谷良昌氏(沖縄ジョン万次郎会・理事、糸満市万次郎上陸記念碑期成会・理事)
和田達雄氏(糸満市万次郎上陸記念碑期成会副会長)

 記念講演会 夢枕獏氏「白鯨とジョン万」

 配布資料は(順不同)、(1)「中濱万次郎家系図」、(2)「NPO法人ジョン万次郎上陸地記念碑建立期成会の活動状況について」、(3)「(中浜万次郎国際協会の佐藤宗久氏による)今後の活動計画(案)」、(4)「第30回 日米草の根交流サミット2020 フィラデルフィア大会」のチラシ(「公益財団法人 ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根センター」(小沢一郎会長、略称はCIE)の第30回大会で、北代さん、平田さん、後述の中濱京さんが評議員、青木千佳さんが理事兼事務局長)、そして(5)『第14回沖縄ジョン万次郎会講演会』(全21ページ)である。

 これらのうち(5)『第14回 沖縄ジョン万次郎会講演会』所収の幅泰治「ジョン万次郎はどのようにして知られて行ったのか」と塚本宏「ジョン万次郎と長男東一郎の日米親善」の2つを紹介したい。

 幅さんは1937年、名古屋生まれ。学習院大学政治経済学部卒、千葉大学で工業デザインを、早稲田大学で生産工学を学び、日立化成工業で開発設計を担当。定年退職後、文化財や地域史に関心を持ち、万次郎ゆかりの土佐藩下屋敷近くに居を得た縁から、10年前に上掲「ジョン万次郎・江東の会」を落合さんたちと立ち上げ、事務局長を務めた。現在は中浜万次郎国際協会理事。

 ジョン万の生涯を追いつつ、彼が世に知られるようになった経緯を、①取調べ調書、②流布本、③本人の記録、④伝記、⑤歌舞伎・講談・演劇、⑥小説・絵本、⑦教科書、⑧TV番組・新聞、⑨解説・評論・読物、⑩研究、⑪資料館・イベント、⑫その他、に分けて収録し、的確な解説を付す。

 人間・万次郎について、幅広く全分野を網羅するほどに目が行き届いている。例えば⑤歌舞伎・講談・演劇では、明治21年新富座で公演の歌舞伎「土佐半紙初荷鑑」から現代の劇団四季「ミュージカル・ジョン万次郎の夢」まで、⑥小説・絵本では井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』(1937年)を筆頭に多数、また⑦教科書での取り上げられ方の変遷、そして⑩内外の諸研究では20数点を渉猟している。

 幅さんから頂戴した冊子「歌舞伎になった万次郎」は、上掲の竹柴其水作「土佐半紙初荷艦」(とさはんしはつにのおおふね)の台本の解説と抄訳からなり(A4×30ページの仮綴じ)、万次郎と親方の2役を演じるのが市川左団次と知ればさらに興味が尽きない。

 塚本さんは1932年、大阪生まれ。大阪大学医学部卒、明治生命保険(相)で医務部長、取締役を歴任。この経験と知見を基に万次郎と長男・東一郎(1857~1937年)についてまとめる。中浜万次郎国際協会監事。
 
 万次郎30歳の時、芝新銭座で授かった東一郎は、東京大学医学部の3回生。万次郎が3人のアメリカ大統領(28代のT.W.ウィルソン、30代のJ.C.クーリッジ、32代のF.D.ルーズベルト)から評価されていること、また万次郎に感銘を受け、東一郎と親交のあった石井菊次郎が、駐米大使時代にフェアヘブンの日本刀献呈式典に参加するなど日米親善に努めたこと、東一郎をはじめ現在の五代目に至るまで子孫たちが民間の草の根交流に努力してきたこと等を挙げる。
 
 そして「…中浜家が、先祖の万次郎への篤い敬慕の気持ちと、アメリカの二人の恩人(ホイットフィールド船長とデーモン牧師)に対する深い感謝の念に裏打ちされて、民間の草の根交流を続けてきたことは感動的というしかない。」と述べる。しっかり典拠も示されている。
 
 夕食会は東洋文庫の敷地の奥にあるオリエント・カフェで行われた。乾杯の音頭は万次郎から数えて五代目に当たる中濱京さん、富士通勤務のかたわら講演やTV等を通じて万次郎の広報に取り組み、また「公益財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念 国際草の根交流センター」の評議員を務める。
 
異なる経歴・職業の老若男女60名ほどが、立食の場を行き来しつつ歓談。稀有の傑物ジョン万に惹かれて集まった人びとの賑やかな宴であった。
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中学校の同期会

 久しぶりに中学校の同期会に顔を出した。9月22日(日曜)午後、西武池袋線・大泉学園の駅ビルの一室が会場の、新制3期生の集まりである。

 参加は何年ぶりか、古い記録を見る。本ブログの2014年6月16日掲載「中学の同期会」が見つかった。5年前、有楽町の糖業会館で開催、約10年ぶりの出席と書いてある。この15年間にたった2回だけの出席である。

 呼びかけのメールには「毎年母校のホームカミングデーに併せて大泉近辺に集まりお喋りしようという趣旨です。今までの格調高い同期会ではなく気楽な集まりです」とあり、その末尾に「中西、山下両先生にはお声をかける予定です。永久世話役(いつまで続くかわかりませんが)を仰せつかった近藤 平野 藤原 山元」と、懐かしい名前が並ぶ。

 世話役諸氏への感謝、身罷った友への想い…。「出席します。あの頑強そうに見えた小西が逝き、このあたりでみなさんのお顔を拝む気になりました。…」と返信する。

 大泉学園駅は西武池袋線の始発池袋駅から9つ目の駅(後に1駅増設)で、そこから南へ徒歩5分のところにある東京学芸大学大泉附属中学校、ここが附属小学校から持ちあがりの、私の通った学校である。 

 大泉学園駅の3駅手前の中村橋駅から、当時は珍しい電車通学をしていた。駅の近くには木炭を燃料に走るバス(木炭バスと呼んでいた)の待機所があり、憧れの運転手さんにサツマイモを預けておくと、下校時にホカホカの焼きあがりを返してくれた。

 入学は1943(昭和18)年、当時の校名は、東京第三師範大泉附属国民学校。3年生になってすぐ群馬県勢多郡新里村の祥雲寺学寮へ集団疎開。戦後の学制改革で東京学芸大学附属小学校と改名されるが、私はすでに中学校へ進学していた。

 参加者は18名、配られた名簿によると、山下先生、飯倉、加藤、金子、近藤、田村、戸塚、室田、八木、山元、横山、岡野、大橋、永池、藤原、平野、本道、野中。男子は互いに呼びつけで、あだ名でも呼びあい、女子にはさん付けであった。

 欠席の返事は16名、中西先生、生野、持田、菅家、長畑、安岡、市川、今泉、宮下、西田、相良、白戸、松本、尾形、飯田、小藤田である。

 出欠を知らせてきた34名のうち15名がメールアドレスを持つ。82~83歳のグループでパソコンを駆使するデジタル人間が半数は悪くない。

 席順は籤で決める。運よく長テーブル中央の山下政太郎先生(国語、クラス担任)の隣を引き当てた。90歳とは思えぬ若々しい風貌と話しぶりである。

 まず幹事の山元の報告。「…昨年以来の物故者は2名です…。黙祷を捧げます。…」

 のち山元と藤原さんに問い合わせると、5年前、「物故者は27名…」と記した私のブログは誤りで、29名が正しいとのこと。したがって、この5年間の8名を加えると、物故者の総計は37名となる。なお卒業時の生徒数は2クラス合計で109名と山元は推定しているよし。

 冒頭の先生の挨拶が堂々としている。「…酒、タバコ、運転、いずれも止めておらず現役です。運転は一日に300キロは平気…」

 5年前の挨拶は次の通り。「みなさんに元気そうだと良く言われるし、今日もそう言われたが、すでに立派にボケが始まっており、その最初の症状は年月日の正確な記憶がなくなること……スキーと社交ダンスはいまも楽しんでいます。寝る前は睡眠薬代わりに、徒然草、方丈記、西鶴本を…」とにっこり。

 5年前より過激?、あるいは一種の諦観? 「85歳くらいを境にガタっと弱る。…」とつぶやかれたが、それでも、この勢い!

 ついで、久しぶりの参加という理由で、突然、私に近況報告が振られた。先生の挨拶に圧倒されて、まとまりもないままに話し始める。

 「私はタバコを止めて14年、運転免許を返納して5年となりました。以前は時おり、夢のなかで細巻葉巻のキャプテンブラックを美味そうにくゆらす自分に会いましたが、今はそれもありません。ここは恩師と大違いです。…
しかしながら恩師の教えを守っていることが2つあります。第1が中学2年の夏休みの作文を褒められて書く喜びを知り、以来、70年にわたり書きつづけていること。
 第2がテニスです。先生に教えていただいた放課後の軟式テニスの面白さを忘れられず、硬式テニスを30代後半から始めて40余年が経ちました。いまも現役で、週に数時間はプレーしています。…」

 最後の一言にどよめきが湧いたので答えた。「…世に言う<好きこそものの上手なれ>、そして<下手の横好き>。…私がどちらかは想像に任せます。…」

 先生が話しかけてきた。「…君の作文のどこを褒めたか覚えていないなあ…」。それに私は答える。「私も教員生活が長かったので、学生のレポートや論文に書いたコメントを一つ一つは覚えていませんが、良い所を見つけて褒めてきました。内容に欠陥があるのは当然で、それだからこそ教育の役目がある…」

 先生は深く頷く。たった7歳違いであっても、14歳の生徒にとって21歳の先生は大きな存在であり、頼もしい兄貴であった。70年ほどを経てやっと教員として同じ目線に立てたような気がする。

 平野さんが書類を手に話し始めた。「…<終活>のつもりで身辺整理をしていたら、いわゆる<通信簿>が3年分まとまって出てきました。1年生の昭和24(1949)年度のものは何と書いてあるでしょう?」 答えは「…縦書きの<通告票>です」。

 <通告票>と言っていたのか! 誰も正確に覚えてはいなかったが、期末に手にした緊張の通信簿で盛り上がる。戦時中の<通告票>を承継して、新制中学の発足時に、そのまま使ったに違いない。国民学校3年生の集団疎開先で<玉音放送>(昭和20年8月15日、日本の敗戦を伝える昭和天皇のことば)を聞いた世代の共通の記憶が蘇る。

 昭和25(1950)年度から横書きの<通知表>となった。B5版二つ折りの真ん中に成績欄、裏面が<修業証書>。つづく昭和26(1951)年も同じ形式である。どうやら昭和25(1950)年度が現在につづく新制中学への実質的な転換期だったのではないか。

 最後に校歌斉唱。「-東京学芸大学附属大泉中学校-校歌 緑陰深き」の歌詞・楽譜が配られた。作詞:山下政太郎、作曲:笹谷栄一朗。

1 緑陰深き森かげに 若草もゆる泉あり つきせぬかおりうちにひめ そとえいえいとわきこぼつ ああ大泉その名ぞ母校 われらつどいぬ菊の葉のもとに
2 はしき心と強き手を くみてすくわんこのいずみ 高き理想と堅き意志 かかげうつさんこのいずみ ああ大泉その名ぞ母校 われら学ばん菊の葉のもとに
3 今東雲(しののめ)の空高く 伸びゆくいのち四百余 泉よ菊よとことわに われらが胸にかおれかし ああ大泉その名ぞ母校 われら歌わん菊の葉のもとに

 先生によれば、作ったときはまだ<校歌>ではなく、小学校では校歌を運動会等で歌っているのに中学にないのは寂しいと言われ、「…戯れに作詞して、…それが後に<校歌>と呼ばれるようになった。…」とのこと。

 中学の校歌は暗記していない。<校歌>になりかけの時期で歌う機会が少な
く、記憶に刻まれなかったようだ。

 先生が誰にともなく「…90歳になった今年を最後の出席にしたい…」と言われる。私は聴こえないふりをして、代わりに「紅葉の三溪園へぜひお越しください。12月初旬が良いと思います。…」と、電話番号の入った名刺をお渡しした。

医療の近未来

 これまでも本ブログで取り上げてきた<清談会>という名の、年2回の談笑の場がある。昨年12月28日開催の第27回清談会を記録したのが2019年1月7日掲載の「10年後の歴史学」で、私の報告とその後の議論をまとめた。

 清談会とは、横浜市立大学(以下、市大)で同じ釜の飯を食った元教員の集まりで、現メンバーは敬称略・年齢順に、穂坂正彦(医学)、私(歴史学)、丸山英気(法学、民法)、小島謙一(物理学)、山本勇夫(医学)、浅島誠(生物学、発生学)。

 今回は第28回。報告は山本勇夫「医療の近未来」である。山本さんが若い方から2番目、と言っても、メンバー全員が70歳を超えている。

 この日、私は会場直行ではなく、先に横浜美術館を訪れ、「原三溪の美術 伝説の大コレクション」展(9月1日まで)に出品中の、三溪17歳の作品「乱牛図」(らんぎゅうず)に改めて惹きこまれた。なだらかな山の裾野に60~70頭の牛が放たれている。子牛がおり、牧童たちの戯れるような姿も見える。のどやかで、どこか懐かしい。

 つづけて今回の展示のチームリーダーで主任学芸員の内山淳子さんが司会進行する2つの講演、清水緑(元三溪園学芸員、松涛美術館学芸員)「三溪の古美術収集と美術家支援」と、三上美和(京都造形大学)「原三溪と近代美術-資料から見えてきたこと」を堪能した。

 その贅沢な興奮のままに清談会の会場に着くと、すでに穂坂さんと小島さんが来ていて、物理学者の小島さんが縄文土器の話を始めた。中学生時代、先生が歴史は時代とともに進歩するから、土器も縄文より弥生の方が進んでいると説明したことに納得できず、「…この前、縄文土器展を見てきて、ある法則を見つけた…」と言う。

 専門外の趣味がどれだけ専門研究に寄与するか、どれだけ人生を豊かにするか、小島さんの嬉しそうな話しぶりに、私は「力強い美しさは確かに弥生より縄文が上だな~」と受けた。彼の見つけた法則については、ご当人がなんらかの形で公表するまで口外しないこととする。

 メンバーが揃い(丸山さんは欠席)、山本さんの「医療の近未来」が始まる。論旨明快、テンポよく、聴いていて心地良い。1992年から市大の脳外科教授、定年退職して名誉教授、現在は横浜市立脳卒中-神経脊椎センター名誉病院長と、名古屋の並木病院病院長を引き受け、毎週、横浜=名古屋を往復している。

 一人の臨床医として長い経験を持つと同時に、医師の相互研鑽の場である「日本脳卒中の外科学会」、「日本脊椎外科学会」、「日本頭蓋底外科学会」の会長を務め、医学の進歩に貢献してきた。また病院経営の難しい局面にも通じている。

 報告内容は次の5点と、A4×1枚のスッキリした配布レジメにある。大項目だけを再掲すると、以下の通り。これにそって概要をまとめたい。

1 医療ニーズの変化
2 診断
3 治療
4 疾病構造の変化
5 最悪のパターン

 1「医療ニーズの変化」の強調点は、「治す医療」から「支える医療」へと変わってきたとする点であり、言い換えれば「治療中心の医療から、治すだけでなく、病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療への変遷(移行)」、この現実をいかに認識して今後の医療に活かすか、ここに問題の焦点があると言う。

 「治す医療」から「支える医療」への「医療ニーズの変化」の背景として、ニューテクノロジーの導入がある。具体的にはAI(人工知能)、ゲノム編集、ナノテクノロジーの3つ。

 この点をめぐっては、本清談会の第25回(2017年12月28開催、本ブログ2018年1月5日掲載の穂坂報告「AIと医療、その10年後」)と、第26回(2018年8月8日開催、2018年8月17日掲載の浅島報告「生命科学の行方」)でも報告され、議論になった重要問題の一つである。

 3つのニューテクノロジーの急速な進歩により、診断の高度化・高速化はいちじるしく向上した。これに伴い、個々の医師、組織としての病院のあり方が大幅に変わり、我国の誇る国民皆保険制度の見直しさえ迫られている。

 さらに少子高齢化に合わせた医療従事者の育成や医療施設の見直しも必要になる。外科系、内科系等の分け方、脳外科、腎臓内科等の臓器別の専門医制度も通用しなくなりつつある。

 ついで「2 診断」では、ゲノム医療(遺伝子診断)やナノ診断機器の進化により、個々の患者レベルで最適な治療方針を選択、実施することが可能となった(precision medicineあるいは personalized medicineと呼ばれる)。言い換えれば医師は、これらの診断補助システムの恩恵を受け、正確なエビデンスに基づく医療行為が可能となる(医療行為の均霑化)。

 「3 治療」でも種々の進化が見られる。患者に合わせた治療法として、ゲノム医療(遺伝子治療)、免疫療法、再生医療、低侵襲手術(ロボット支援手術、薬を的確に届けるdrug delivery system等)が可能になりつつある。

 「4 疾病構造の変化」には「がん、循環器疾患、感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」が並ぶ。これは冒頭にある「治療中心の医療から、治すだけでなく、病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療への移行」に伴う今後の重要問題である。

 言い換えれば、3つのニューテクノロジーの急速な進歩による診断の高度化・高速化のメリットと、それがもたらすデメリットの両面をどう考えるかの問題である。医師は上掲のメリットを活用し、その活用で得た時間を他の側面に力を注ぐべしとして、「…感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」を挙げたものと思われる。

 ここで前々回の報告者の浅島誠さんが発言する。「…AIの進歩が治療に役立つことは確かだが、そろそろAIに歯止めをかける議論が必要になってきたのではないか…」と。彼は生物の胚発生の分化誘導物質アクチビンを1988年、世界で初めて同定した。生命の本質解明技術の進化がもたらす否定的側面を無視できないのであろう。

 穂坂さんが「未知への挑戦が研究者の第一要件だが、その結果が悪用される危険性のいちばん大きい分野が今や生命科学ではないか」と受け、さらに「…物理学が核研究の果てに原子爆弾の開発にいたった悪夢の過去がある。次の悪夢こそ生命科学である」とつづける。

 浅島さんが「…技術進歩のもたらす生命の破滅の、より具体的なものは、人の目に見えない新たな感染症ではないか」と言う。そこに小島さんが「…その点が次の5に書いてある…」と。

 「5 最悪のパターン」は、深刻な課題ないし事態を明示する。巨大国家のエゴ、国連やWHOの機能低下が予測され、それが招来する環境悪化、すなわち感染症の増加が懸念される、と述べる。この結びの言葉は「医療の近未来」を技術の進化を基に明るく語る意見の対極にある。長く医療に従事し、いまなお新たな挑戦をする山本さんの危機感の表明である。

 「…感染症にはヒトは勝てない。現在の医療体制は既存の感染症には何とか対処できているが、自ら生み出す未知の感染症には対処できない。…」

 山本報告が一段落したところで、山本さんの著書『健康長寿の脳科学』(経営者新書 幻冬舎 2014年)に話題が移った。5年前の刊行だが斬新さを失っていない。

 本書の「はじめに」は「…80歳を過ぎても元気な方には、脳の刺激の仕方に共通点があることに思い至り、…脳の機能をいかに保ちつづけるか。…」と狙いを述べる。
 
 第1章は、長寿願望、健康願望は古今東西に共通するとして、貝原益軒が逝去前年の84歳に残した『養生訓』や、『解体新書』で著名な杉田玄白の「養生七不可」を語るとともに、健康に生き、過剰な医療を招来しないことが次世代の負担を減らし、社会の好循環に寄与すると述べる。

 第2章では「人は老いて当たり前、老いとは何かを知る」に始まり、皮膚や脳など各臓器の仕組み、<生理的老化>と<病的老化>の違いを述べる。

 つづけて第3章「健康長寿を実現する脳の活性法」、第4章「脳を活性化すれば、何歳になっても人は輝く」へと展開。好評により版を重ねているので、ぜひお読みいただきたい。

 そして現在、次の著書を構想中という。主なテーマは「忘れることの大切さ」=「忘却の効用」。半年後の第29回清談会までには刊行済、を期待している。

伊波洋之助さんを偲ぶ

 伊波洋之助さんが逝去されて5カ月になる。9月6日、三溪園の中島哲也総務課長と参列した斎場は長蛇の列であった。入口に伊波さんの笑顔の写真、傍らに大きなかわはぎの魚拓が添えられている。寸長34.7㎝、重量780g、昭和58年7月10日、剣崎沖、釣人伊波洋之助とあった。

 年が改まり、ご子息の俊之助さんが伊波洋之助著『平成に活きた市会議員 伊波洋之助小伝』を届けてくださった。奥様の宣子さんの「感謝」と題する一文が同封されている。「またたく間に月日は流れ、日に日に淋しさがつのります。葬儀の際は多くの方々に主人との別れを惜しんで頂き、心より感謝申し上げます。…」。

 横浜市会議員を引退されて2年後の、2017年9月25日刊行である。版元は株式会社リテラル、B5版、105ページ、販価1200円。カバーに大桟橋の遠景写真。最初のページには、旭日小授章を胸にモーニング姿の伊波さんと和装の奥様の写真が収められている。

 「<平成>に生き、燃焼した伊波洋之助です」と始まる。「私伊波洋之助は今からざっと三十年近く前の、平成元(1989)年1月28日、45歳のときに横浜市会議員に初めて当選させていただきました。中区の補欠選挙でした。平成になって全国で初めて公職選挙で当選して議員になったのが私でした」。

 文末に付されたプロフィールによれば、昭和18年、横浜市中区本牧三之谷(三溪園と同じ地名)出生とあり、私の7歳年少であることを初めて知った。拓殖大学商学部貿易学科スペイン語専攻に在学中、南米総合調査団団長として南米に1年滞在している。

 昭和45年、松村株式会社入社、市会議員の松村千賀雄の秘書を18年つとめ、平成元年の補欠選挙で初当選、以後7期28年勤続、市会の各種委員を歴任、平成17年に第40代横浜市議会議長となり、平成27年3月、議員を引退された。

 「地方議員の仕事とは」では「次の時代によりよい横浜を残すこと」に尽きると断言、また「市議は駅伝ランナー」とも言う。具体的には秘書時代に奔走した「本牧の米軍接収地の解除の前夜について」、市議時代の大気汚染に関する「<魚釣り>で見つけた石炭火力の横暴」、高齢者や身障者のため坂道の多い地区を走る「市バス222系統」の新設運動、「山手・石川町両駅のバリアフリー化の促進」等の業績から、浜っ子の心意気と<横浜愛>が伝わってくる。

 また「ガス燈」については、「日本におけるガス燈の発祥の地は横浜です。初めての点燈は、明治五年九月でした。東京では銀座が名誉あるガス燈第一号の地となりましたが、それも明治七年の話で、横浜のほうが二年早かったのです。安政六(1859)年に横浜村が世界に向けた開港の場に選ばれ、…さまざまな欧米の文化が横浜を玄関口として日本に入り、横浜から全国へと拡がっていきました。…」。ガス燈は伊波さんたちの奮闘のおかげで再建され、いま山下公園前の道路でほのかな光を放っている。

 「節目の年齢、そのとき私は」が本書の神髄であろうか。20歳、30歳、40歳、50歳、60歳、70歳の節目を振り返る。「…70代、長男俊之助に議員の仕事を委ね、…毎朝5時に起き、6時から新本牧公園に登り、ゴミを分別する<ゴミおじさん>をし、ついでラジオ体操…、一日10,000歩から13,000歩を歩き…」と近況報告で結ぶ。本書は市販されているので、ぜひお読みいただきたい。

 伊波さんと初めてお会いしたのは、平成4(1992)年頃である。伊波さんが市会の大学教育委員となられ、私が市大の高井修道学長の下、教養部長として市会に出席した時である。

 しばらくして伊波さんから、拙著をテキストに個人的な勉強会をしたいという要請をいただき、二つ返事でお受けした。最初は19世紀中頃の世界史を描いた『イギリスとアジア-近代史の原画』(1980年、岩波新書)を取り上げた。中国から英国への茶、英国植民地インドから中国へのアヘン、英国からインドへの産業革命の産物の機械製綿布、これら三大商品からなる「19世紀アジア三角貿易」を解明したもの。商学部貿易学科出身の伊波さんの得意分野で、議論が盛り上がり、多くの示唆を得た。

 次に取り上げたのが『黒船異変』(1988年、岩波新書)だったと思う。1853年7月8日、浦賀に来航したペリー艦隊と浦賀奉行所の、最初の接触に始まる日本開国を描いたもの。とくに横浜村における日米交渉に焦点を絞り、幕府代表の林大学頭とペリー提督との対話(1854年3月8日)から3月31日の条約調印までの過程を描いた。日米初の条約である日米和親条約(1854年)は、<避戦策>に徹した幕府と、ペリー側の漂流民相互救助・国交樹立の目的を合致させ、平和裏に結ばれた<交渉条約>であると述べた。

 それまで<不平等条約>説が過度に強調され、横浜は<不平等条約>の落し子という根拠のないイメージさえあったが、それを払拭し、都市横浜の起点が幕府外交の勝利の賜物であることを示した。これが市政公布100周年・開港130年を記念する大イベントである1989年の横浜博覧会(略称はyes’89)の「黒船館」の基本コンセプトに採用された。本書は絶版だが、後継本が『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)として市販されている。

 この横浜博覧会を機に、みなとみらい地区の開発が進み、はや30年が経った。桜木町駅から<汽車道>を通り、左手に日本丸、観覧車、聳え立つランドマークタワーからクィーンズ・パシフィコ横浜へと散策するたびに伊波さんを想う。

 また横浜博覧会の関連事業として、市大で横浜の歴史と現在を海外に伝える英文の本を編集・刊行することになった。書名を”YOKOHAMA Past and Present”とし、編集委員長に私が指名され、学内外56名の筆者による134編の論考(1編が見開き2ページ)、300ページの本が出来あがる。類書は東京都や京都市等にもなく横浜が一番乗りで、そのことを伊波さんは殊のほか喜んでくれた。さらに市会から、市民のために日本語版もとの要望が出て、『横浜 いま/むかし 日本語補助版』(1980年)も刊行した。

 伊波さんは横浜をなによりも愛する<市民派>の市議であるが、学生時代に南米調査団長をつとめたように、広く世界に関心を持つ<国際派>でもあった。私は日本史と世界史の双方から歴史を考えており、意気投合した。

 後年、伊波さんが2015年に市議を引退され、私が三溪園園長となって再会する。伊波さんは、戦後直後の三溪園の苦難の時代(古美術商のご尊父から伝えられたこと)や戦後の三溪園が腕白盛りの一番の遊び場だったこと等を語られた。その奥には、初代市会議長の原善三郎(三溪園の土地を取得し、別荘の松風閣を建てた三溪の義祖父)への敬愛の念が窺われた。

 『伊波洋之助小伝』は次の言葉で結ばれる。「皆さんどうもありがとう、そして大好きなヨコハマ‼ この街に、三溪園に、港に感謝して、この本を締めくくりたいと思います。皆さんどうもありがとう‼」 

 横浜をこよなく愛した人
伊波洋之助さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

丘のダヴィンチたち

 9月4日、台風21号が昼に四国・近畿に上陸との気象情報を気にしつつ、時おりの強風にあおられて帰宅すると、留守電が入っていた。都立武蔵丘(むさしがおか)高校の後輩で、同校元教員の佐藤秀子さん(昭和35年卒の12回生)という方からで、ファックスを送るとある。

 武蔵丘高校は1940(昭和15)年に東京府立第二十一中学校として発足、戦後1948(昭和23)年に都立武蔵丘高校となった。私は1952(昭和27)年に入学した7回生で、勉学と交友と放課後のラグビーもどきの遊びに専念、人気の野球部には入らず、町道場で柔道を習っていた。

 学校は中野区の練馬区寄りにあり、西武新宿線の鷺ノ宮駅や下井草駅から通学する友人が多かった。私は西武池袋線の中村橋駅から徒歩5分のところにある家から、徒歩通学をしていた。

 朴歯の高下駄、学生服に破れ学帽、腰に手拭いをぶら下げ、冬も素足で霜柱をザクザク踏んで登校、文学青年を気取った時期から哲学青年に変わる2~3年生にかけて、これが憧れた私の旧制高校生ファッションであった。「高歯の下駄では、喧嘩を売られても逃げられないぞ」と先生に言われたが、下駄は脱げば立派な武器になる、と密かに思っていた。

 柔道場のある練馬駅近くの古書店に入り浸り、仕入れた本をズックの肩かけ鞄に詰め込んで帰った。「新書100冊を読破」等を目標に掲げ、手当たり次第に読んだ。とくに体験や直感を重視するニーチェやショーペンハウエルの「生の哲学」にかぶれていた。

 木曜が休みで土曜が全日授業という学校だったので、木曜になると近場の奥多摩や秩父の山々を単独行した。事前に5万分の1地図の等高線を眺めて山の立体的な姿を脳裏に浮かべ、それが眼前に拡がるのが楽しみだった。山では、いやおうなく自己と向き合う。自分という存在をとても小さく感じた。

 さて、佐藤さんから届いたファックの用件名は<丘のダヴィンチたち>。2年前に中西進先生(旧制府立中学2回生)の発案で発足、それについて同窓会誌「銀杏」(2017)に六角鬼丈先生(12回生、建築家)が、ついで「銀杏」(2018)に三田村有純先生(20回生、漆芸作家)が書かれていると、添付してあった。

 そして「昨日、中西進先生からご連絡があり、加藤祐三先生にもご賛同いただきたいとのことでした」とある。中西先生とはどなたか、すぐには思い出せない。以前に初対面で「武蔵丘高校のご出身でしょう」と言われて驚いたことがあった、その方か。

 中西さんは1929(昭和4)年生まれ、米寿(88歳)を迎えた国文学者(万葉学者)で文化勲章受章(2013年)の大家と分かった。多彩な職歴のなかに、2004年、京都市立芸術大学長があり、お会いしたのは公立大学協会(公立大学学長からなる社団法人)の総会であろう。それにしても15年前に一度会っただけの私を覚えておいでとは。

 佐藤さんからは「来週の9月14日、中西先生が講演のため京都から出てこられるのに合わせて、打合せを予定しています」とも。

 添付資料によれば、母校は2020年に創立80周年を迎える。それに向けて、あらゆる分野で活躍する卒業生が、「世代を超えて異分野を学ぶ会」として<丘のダヴィンチたち>を結成(三田村有純「銀杏」(2018))、それから2年が経つという。<丘のダヴィンチたち>の名前の由来は、ルネサンス期イタリアの芸術家レオナルド・ダヴィンチ、<丘>は言うまでもなく武蔵丘高校である。

 この2年前に発足した当会とは別に、2年前に解散した同校の同期会がある。本ブログ2016年10月26日の「高校同期会の解散」で述べたが、昭和30年卒の6クラスあったうちの2クラスを中心に、45年もつづいた<ぬぎの会>である。最初から最後まで牽引した名幹事の勝田賢の宣言、「80歳が会の終わり」で解散した。

 その代わりのように、<丘のダヴィンチたち>からのお誘いである。打合せの当日、せっかくなら65年前の通学路を歩いてみようと早めに家を出た。中村橋駅から旧居へ、そして母校へ。麦畑の拡がる風景が瀟洒な住宅街に一変したのは当然で、地付きの人のものであろう風情ある古い屋敷と椎の大樹が、過ぎ去った歳月を偲ばせる。

 母校は翌日の学園祭の準備中で、先生や生徒が忙しそうに行き来していた。許可を得て構内を一巡。建て替えにより校舎や校庭の位置が大きく変わって戸惑う。校歌にある櫟(くぬぎ)の樹は変わらず、同じ場所に髙く聳えていた。そこから記憶をたどりつつ鷺ノ宮駅まで歩き、バスでJR阿佐ヶ谷駅まで出た。

 <丘のダヴィンチたち>の会場は、予定の喫茶店では入りきれず、急遽、四ツ谷駅に近い槙枝一臣さん(16回生)の東京フレックス法律事務所となった。5時開始、参加者は32名中17名、挨拶と近況報告が一巡し、最後が中西さんで、情熱をこめて母校の若人を応援したいと結んだ。

 母校や同窓会等との連絡を密にするとともに、まずは<丘のダヴィンチたち>の想いを伝える文集を作ろうと提案があり、印刷物ではなく、ネット世代が近づきやすいデジタル版はどうかとの意見等も出た。2年後の創立80周年に向けた具体的な一歩である。

 司会をつとめた三田村さんが文集の範例を作ると言い残して所用のため早退、内山園子さん(10回生)が引き継ぎ、最後に次回の日程を決めた。中西さんは、これから京都へ帰宅の強行軍、その達者ぶりに驚かされる。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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