ポートランド日本庭園の鳥居ヒューゴさん一行が三溪園へ
アメリカ西海岸オレゴン州にあるポートランド日本庭園の鳥居ヒューゴさんと言う方から、今年の9月5日、突然のメールをいただいた。
>Date: Tue, 5 Sep 2023 23:19:18 +0000
三渓園
>加藤 祐三様
>初めまして、突然のメール大変失礼いたします。
>ポートランド日本庭園の鳥居ヒューゴと申します。
>先代の内山から庭園の統括責任者を引き継ぐことになり、三渓園にご挨拶に行きたく思っております。
>また、横浜の姉妹都市、サンディエゴ日本庭園の執行役員も一緒させていただければ幸いです。
>私は現在ポートランド在住ですが、出身は横浜の本牧です。
>是非、三渓園との繋がりを継続・深めていければと心から思っております。
>何卒よろしくお願い申し上げます。
>鳥居ヒューゴ
ここに「先代の内山から庭園の統括責任者を引き継ぐことになり」とあるのは、以前の上席執行役員(日本庭園・文化技術担当) 内山 貞文を指す。
これに対して私は次のように返信した。
鳥居ヒューゴさま
お便り、ありがとうございます。
本牧のご出身でポートランド日本庭園の管理をされておられるよし、不思議なご縁ですね。
ぜひとも両者の関係を強めていきたいと思います。
ところが私は高齢もあり、今年3月を以て園長を退任しました。
ご来訪の件については、三溪園の山口智之宛てにご連絡ください。
よく話しておきました。
加藤祐三
【7年前、2016年4月11日の記録】
「横浜の姉妹都市、サンディエゴ日本庭園の執行役員も一緒させていただければ幸い」とあるので、ピンときた。私のメールアドレスをサンディエゴ日本庭園から入手されたのではないか?
本ブログの古い記事を遡ると、あった。7年半前の2016年4月11日の記事である。今回、鳥居さんと同行予定のサンディエゴ<三景園>(三溪園と同音異字)に属する方の三溪園ご来園の記録である。ご覧いただきたい。
【行き違いを越えて】
これまで、幾つかの行き違いがあった。
9月29日、鳥居さんへ私から次の連絡をした。
鳥居さん
三溪園の山口智之より連絡があり、鳥居様よりまだ連絡が来ていないので対応のしようがないとのことでした。いかがされたのでしょうか。山口へのメール連絡には、ccで私のアドレスを付してください。よろしくお願いします。
するとすぐ、同じ9月29日、鳥居さんから三溪園の山口智之宛てにメールが来たことをccで知った。
三溪園 山口 智之様
初めまして、ポートランド日本庭園の鳥居ヒューゴと申します。加藤祐三様よりご紹介いただきご連絡させて頂いております。まずは、ご紹介をいただいた後にご連絡するのが遅くなり大変申し訳ありません。日本出張の日程が決まらず時間だけが過ぎてしまいました。
この度、海外の日本庭園と三溪園の関係を少しでも近くにできればという願いで庭園見学を実現したく思っております。現在サンディエゴ日本庭園のスタッフと共に調整している状況ですが、11月中旬にポートランド日本庭園より1名、サンディエゴ日本庭園より1名というかたちでお伺いできればと計画しております。お忙しい中恐縮ですが、何卒よろしくお願い申し上げます。
ポートランド日本庭園
鳥居ヒューゴ
こうして同じ情報を複数人が共有する形式を採用して以降、流れがスムーズになった。
【山口智之さんと鳥居さんとのメール連絡】
以来、三溪園側の連絡主体を山口智之さんに任せ、事態が推移、いよいよ鳥居さんたちの来園される日が11月17日(金曜)と決まったと連絡が入った。手帳を見ると、この日は空いている。「海外の日本庭園と三溪園の関係を少しでも近くにできればという願いで庭園見学を実現したい」とする鳥居さんの情熱に触れて、無性にお会いしたくなり、11月10日に山口さんにメール連絡をした。
山口さん
cc:海野園長
監査準備ですか。
相変わらずご多忙のようで何よりです。
脇役としての参加を許可いただき、ありがとう。
10時40分ころ事務所へ参ります。
迷わずに着けばいいのですが。
加藤祐三
>Date: Fri, 10 Nov 2023 17:12:29 +0900
加藤前園長
>週明けからの監査準備追われ、ご返信遅れ大変失礼いたしました。
>当日是非ご参加宜しくお願いします。
>冒頭のご挨拶をお願いできればと思います。
>当日は11時来園予定ですので20分前頃事務所にお越しいただければと思います。
>山口拝
【2023年11月17日の初対面】
当日はあいにくの雨模様で、電車が遅れ、時間を気にしながら元町・中華街駅からバスに乗った。桜道駅下車、歩いて三溪園正門に着く。今年3月までは通った道なのに、いかにも久しぶりの印象を受ける。想定外の暑い夏がつづき、秋を飛ばして一挙に冬入りかと思わせる気候変動のせいか。
予定より早い10時半に着き、砂利道を進んで事務所に入る。紅葉には早いようである。三重塔は変わらない姿を見せている。
鳥居さん一行を鶴翔閣でお迎えすることにしてあった。
鳥居さんは堂々の偉丈夫、サンディエゴ日本庭園からLuanna Kanazawaと Emiko Scudderの二人の女性。氏名のいずれかに日本人の系譜が刻まれているが、Luanna Kanazawaさんは日本語を勉強中で共通語は英語。
三溪園からは、今富雄一郎副園長、山口智之室長、甲良総務課長、羽田雄一郎事業課課長補佐が参加した。
まず日本流に名刺交換をする。
私は古い名刺に【前】の一字を手書きしたものをお渡しし、準備した著書『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)と「横浜開港と三溪園」と題するA3の大型年表(左欄=都市横浜の歩み、中欄=青木富太郎(原三溪)と三溪園、右欄=注と参考文献からる)をお渡しした。「230302 中浜万次郎国際協会の講演資料 白雲邸にて」とある園長現役の最後の講演資料である。ゆっくりお読みいただければと思い、詳しい説明は省いた。
今後の交流強化を確認し、三溪園側は今富副園長が仕切ることとした。
ここで記念撮影。スマホで撮ったものを後に鳥居さんが送ってくれた。
向かって奥の左が今富副園長、その右が鳥居さん、Luanna Kanazawaさん、私(マスク姿)、山口室長、Emiko Scudderさん。手前左が甲良総務課長、右が羽田事業課課長補佐。
終わると、羽田さんが一行3人に鶴翔閣を案内することとなり、私も半年ぶりに付き合った。時折、沛然たる驟雨、それが却って庭石の輝きを増した。ついで雨の中を歩いて臨春閣へ行く。まず外から一望した後、中に入ることとし、一行とは入り口で別れ、「…いずれまた…」と再会を約した。
私は三溪記念館に寄り、企画展「大正12年の原三溪-良きも悪しきも:大師会茶会と関東大震災」 (中村学芸員の企画、9月1日~12月10日)を拝観した。
関東大震災を箱根で体験、4日をかけて三溪園に戻るルートを絵に描き、最後は小舟を雇い、<象の鼻>と呼ばれる湾にそった地点(南門を出た所にある)に帰着した奮闘ぶりに強い感動を覚えた。それから今年が100年である。
ばったり中村さんに会ったので、印象を伝えた。
【鳥居ヒューゴさんの素顔】
偉丈夫の鳥居ヒューゴさん(英字表記はHugo Torii)は父方の祖父がマカオのポルトガル人で、ヒューゴにその名残がある。1975(昭和50)年、横浜本牧2丁目に生まれた48歳。横浜駅前で花屋を営んでいたが、26歳の時に横浜から京都へ行き、着いて2週間ほどで造園業で名高い植彌(うえや)加藤造園に就職、そこで13年にわたり学んだ。
植彌加藤造園はまた、京都の岡崎にある無鄰菴を、指定管理者として運営している。なお三溪園でも民間の経営戦略コンサルタントの CDI(コーポレイト・ディレクション)の占部伸一郎さんと芳賀正輝さんを中心に経営学の手法である KPI(Key Performance Indicator=組織の目標を達成するための重要な組織評価の指標)を使って実地訓練を施し、達成状況の定点観測を行ってきたが、その過程で植彌加藤造園を招いて話を聞いたことがある(本ブログ2023年4月3日掲載の「三溪園園長の退任にあたって」)。
庭師の修行を終えると、鳥居さんは西欧へ行きたいと思い、ドイツで5年を過ごす。ついでふとしたことからアメリカへわたり、西海岸のオレゴン州ポートランド市にあるポートランド日本庭園に入り、いま上席執行役員(日本庭園・文化技術担当)を勤める。
ポートランド日本庭園の創設者が日本人であること(後述)も、鳥居さんとどこかで繋がった縁であろうか。
【ポートランド日本庭園とは?】
ポートランド日本庭園(英: Portland Japanese Garden)は、アメリカ合衆国オレゴン州ポートランド市の都市公園ワシントン・パーク(英語版)にある日本庭園である。22,000 m2(5.5エーカー)の面積を構える。
日本版ウィキペディアによると以下のとおり。
歴史[編集]
砂と石の禅庭園
1963年に造園家の戸野琢磨教授によって設計された後、1967年に開園した。(今年で創建56年を迎える) 米国で発行されている日本庭園の専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』誌(The Journal of Japanese Gardening、略称JOJG)は、アメリカ合衆国において隔月刊 で発行されている、英語の日本庭園・日本建築専門雑誌)は、北米大陸に所在する公共日本庭園約300か所について、2004年以来数年ごとにランキングを作成している(雑誌寄稿者である日本庭園専門家たちが評価に当たる。当該雑誌の項を参照)。
ポートランド日本庭園は毎回上位に選出されており(2004年ランキングで第2位。2008年も同順位を維持)、2013年版ランキング(2017年末現在最新)では第1位に位置づけられた。
伝統的な日本庭園が発展し成熟するまで通常数百年の歳月を要するのに対し、ポートランド日本庭園は短時間の西洋的手法と風格のある東洋の表現を融合することで、非常に短期間で発展することに成功した点は特筆に価する。
造園[編集]
下側の出入り口
伝統的な造園法では、庭園は大地を表現する3つの要素が交わるという。つまり、石は山々の強靭と島々の支持を表し、水は中心にして清浄を表し、植物は自らを質感、色彩と成長で優雅に見せる。主題はポートランドからカスケード山脈に至るまでの地帯と、その地形が織り成す微妙な「見え隠れ」であり、庭園はその全体から自然景観の連続的な移り変わりの運動を描画している。
【「全米一住みやすい街」、西部オレゴン州ポートランド市】
ごく最近、2013年11月12日の日経ニュースメールが報じた記事「略奪でくすむ「黄金の街」 荒廃するサンフランシスコ」のなかに、ポートランド市について次のような記述があった。
同じくやり玉に挙がるのは「全米一住みやすい街」だった西部オレゴン州ポートランド市だ。民主党市長のもとで犯罪が増え、人口減に転じたと批判される。だが10月末に足を運ぶと、薬物問題はあるがダウンタウンはにぎわい、以前と変わらない街並みに見えた。
「危険な地域は全米どの都市にもある。SNSやメディアは一面を切り取り、街全体の間違った印象を与えている」。同市に20年住むキャリーさんは語る。
【ポートランド日本庭園の設計・創設者、戸野琢磨】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10日)は、日本の造園家、作庭家、ランドスケープアーキテクト。造園分野では日本人で初めてアメリカの大学で学位を取得、帰国後日本ではじめての造園設計事務所・ランドスケープコンサルタントを設立し設計活動を展開した。
戸野は大阪府で生まれ。父親は開業医で、その後日本庭園の多くが集中する京都に引越す。1910年、旧制京都府立第一中学校を卒業、同年に東北帝国大学予科に入学。 1913年に東北帝国大学の農科大学から改組した北海道帝国大学農学部に園芸学を修めようと進学。1913年、東北帝国大学の農科大学から改組した北海道帝国大学農学部に園芸学を修めようと進学。在学中に旭川松平農場の歴史編纂に関わり農場経営を研究、この成果を卒業論文とし、1916年に卒業。同時期、アメリカ渡航免状を取得。ニューヨーク山中商会に勤める叔父をたよって渡米。
叔父の勧めにより、コーネル大学のランドスケープ学科に進学、4年生課程を2年で卒業し修士課程に進学。1921年にランドスケープの修士号MLD取得。 同大学で1922年まで、設計演習担当のインストラクターとして在籍。大学では日本庭園の講義も担当した。その間、ノーマン・ニュートンらとヨーロッパ庭園研究の研修派遣を受ける。
関東大震災が1923年に東京を襲った年、日本に一時帰国。1924年、東京の銀座京橋に自身のデザインスタジオで日本初の造園設計事務所「戸野事務所」(後、戸野建築造園事務所を経て戸野琢磨造園研究室)を開設する。日本で造園と建築の設計をかねて業を開始。
1925年、雑誌『庭園』に「米国におけるジャパニーズ・ガーデン」を掲載。翌年「ランドスケープ・アーキテクツに就いて」を掲載。同雑誌にいくつか小論を発表。
1938年発足の日本造園士会に参画し理事に就任。1940年には理事長に就任。終戦直後は病に倒れ一時療養。
1953年から1969年に退職するまで、東京農業大学で庭園学と海外の造園概要の教鞭をとる。1958年、同校教授に就任。同年、ワシントンDCで開催のIFLA世界大会に日本代表の一員として参加。そのころからアメリカで日本庭園の紹介講演などを行う。
戦後はアメリカで日本庭園の作庭活動や講演などをとおして日米間のランドスケープアーキテクチェア分野での国際交流にも貢献した。
1959年に造園家アメリカ協会(ASLA)メンバー・名誉会員に推挙され、米国の庭園デザイン界でも広く名を知られていた。米国大使館などの外国大使館庭園の作品も多く、日本とアメリカ両国でかなりの数の作品を残している。
【ポートランド日本庭園の概況(2018年現在)】
Quick Facts(クィックデータ)
1967 創設 1963 年 / 一般入園開始 1967 年
年間来園者数 45 万 3,000 人
規模 12 エーカー(約5 ヘクタール)、8 つの庭園様式から構成
登録ボランティア数 200 名 スタッフ数 145 人
会員数 2 万 1 千人
年間運営予算 約 13 億 7 千万円(2021 年 10 月末レート)
入園料 (大人) $18.95
展示会・イベント・文化教育プログラム 年間実施数 350
Leadership(幹部) Steve Bloom Chief Executive Officer
上席執行役員(日本庭園・文化技術担当) 内山 貞文
執行役員(日本庭園・文化技術担当) 鳥居 ヒューゴ (以下略)
【19日着のメール】
私からの照会の回答の合間に、鳥居さんは次のように漏らしていた。
「…久しぶりの三渓園は庭園のその美しい風景とそこにある情景を一度に感じることができました。嬉しさと共に懐かしさ、切なさも感じました。横浜を離れ、40年住んだ日本を遠く離れてしまったからでしょうか。…」
鳥居さんへお礼のメールをと思いつつ、時が過ぎてしまった。お会いして2日後の19日(日曜)昼にメールを頂戴した。
加藤 祐三様
この度は大変お世話になりました。
庭園を丁寧にご案内いただき誠にありがとうございます。
短い時間でしたが庭園を通して、また、原三渓という人物を通して、横浜の文化を垣間見ることが出来た気がいたします。
ポートランド日本庭園はこれからも世界に向けて庭園を平和産業として文化外交と文化交流を深めていくミッションを掲げています。
また、横浜に帰郷した際には三渓園を歩きたいと思います。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
改めて、ありがとうございました。
鳥居ヒューゴ
Hugo Torii
Garden Curator
Portland Japanese Garden | Japan Institute
503-542-9376 japanesegarden.org
>Date: Tue, 5 Sep 2023 23:19:18 +0000
三渓園
>加藤 祐三様
>初めまして、突然のメール大変失礼いたします。
>ポートランド日本庭園の鳥居ヒューゴと申します。
>先代の内山から庭園の統括責任者を引き継ぐことになり、三渓園にご挨拶に行きたく思っております。
>また、横浜の姉妹都市、サンディエゴ日本庭園の執行役員も一緒させていただければ幸いです。
>私は現在ポートランド在住ですが、出身は横浜の本牧です。
>是非、三渓園との繋がりを継続・深めていければと心から思っております。
>何卒よろしくお願い申し上げます。
>鳥居ヒューゴ
ここに「先代の内山から庭園の統括責任者を引き継ぐことになり」とあるのは、以前の上席執行役員(日本庭園・文化技術担当) 内山 貞文を指す。
これに対して私は次のように返信した。
鳥居ヒューゴさま
お便り、ありがとうございます。
本牧のご出身でポートランド日本庭園の管理をされておられるよし、不思議なご縁ですね。
ぜひとも両者の関係を強めていきたいと思います。
ところが私は高齢もあり、今年3月を以て園長を退任しました。
ご来訪の件については、三溪園の山口智之宛てにご連絡ください。
よく話しておきました。
加藤祐三
【7年前、2016年4月11日の記録】
「横浜の姉妹都市、サンディエゴ日本庭園の執行役員も一緒させていただければ幸い」とあるので、ピンときた。私のメールアドレスをサンディエゴ日本庭園から入手されたのではないか?
本ブログの古い記事を遡ると、あった。7年半前の2016年4月11日の記事である。今回、鳥居さんと同行予定のサンディエゴ<三景園>(三溪園と同音異字)に属する方の三溪園ご来園の記録である。ご覧いただきたい。
【行き違いを越えて】
これまで、幾つかの行き違いがあった。
9月29日、鳥居さんへ私から次の連絡をした。
鳥居さん
三溪園の山口智之より連絡があり、鳥居様よりまだ連絡が来ていないので対応のしようがないとのことでした。いかがされたのでしょうか。山口へのメール連絡には、ccで私のアドレスを付してください。よろしくお願いします。
するとすぐ、同じ9月29日、鳥居さんから三溪園の山口智之宛てにメールが来たことをccで知った。
三溪園 山口 智之様
初めまして、ポートランド日本庭園の鳥居ヒューゴと申します。加藤祐三様よりご紹介いただきご連絡させて頂いております。まずは、ご紹介をいただいた後にご連絡するのが遅くなり大変申し訳ありません。日本出張の日程が決まらず時間だけが過ぎてしまいました。
この度、海外の日本庭園と三溪園の関係を少しでも近くにできればという願いで庭園見学を実現したく思っております。現在サンディエゴ日本庭園のスタッフと共に調整している状況ですが、11月中旬にポートランド日本庭園より1名、サンディエゴ日本庭園より1名というかたちでお伺いできればと計画しております。お忙しい中恐縮ですが、何卒よろしくお願い申し上げます。
ポートランド日本庭園
鳥居ヒューゴ
こうして同じ情報を複数人が共有する形式を採用して以降、流れがスムーズになった。
【山口智之さんと鳥居さんとのメール連絡】
以来、三溪園側の連絡主体を山口智之さんに任せ、事態が推移、いよいよ鳥居さんたちの来園される日が11月17日(金曜)と決まったと連絡が入った。手帳を見ると、この日は空いている。「海外の日本庭園と三溪園の関係を少しでも近くにできればという願いで庭園見学を実現したい」とする鳥居さんの情熱に触れて、無性にお会いしたくなり、11月10日に山口さんにメール連絡をした。
山口さん
cc:海野園長
監査準備ですか。
相変わらずご多忙のようで何よりです。
脇役としての参加を許可いただき、ありがとう。
10時40分ころ事務所へ参ります。
迷わずに着けばいいのですが。
加藤祐三
>Date: Fri, 10 Nov 2023 17:12:29 +0900
加藤前園長
>週明けからの監査準備追われ、ご返信遅れ大変失礼いたしました。
>当日是非ご参加宜しくお願いします。
>冒頭のご挨拶をお願いできればと思います。
>当日は11時来園予定ですので20分前頃事務所にお越しいただければと思います。
>山口拝
【2023年11月17日の初対面】
当日はあいにくの雨模様で、電車が遅れ、時間を気にしながら元町・中華街駅からバスに乗った。桜道駅下車、歩いて三溪園正門に着く。今年3月までは通った道なのに、いかにも久しぶりの印象を受ける。想定外の暑い夏がつづき、秋を飛ばして一挙に冬入りかと思わせる気候変動のせいか。
予定より早い10時半に着き、砂利道を進んで事務所に入る。紅葉には早いようである。三重塔は変わらない姿を見せている。
鳥居さん一行を鶴翔閣でお迎えすることにしてあった。
鳥居さんは堂々の偉丈夫、サンディエゴ日本庭園からLuanna Kanazawaと Emiko Scudderの二人の女性。氏名のいずれかに日本人の系譜が刻まれているが、Luanna Kanazawaさんは日本語を勉強中で共通語は英語。
三溪園からは、今富雄一郎副園長、山口智之室長、甲良総務課長、羽田雄一郎事業課課長補佐が参加した。
まず日本流に名刺交換をする。
私は古い名刺に【前】の一字を手書きしたものをお渡しし、準備した著書『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)と「横浜開港と三溪園」と題するA3の大型年表(左欄=都市横浜の歩み、中欄=青木富太郎(原三溪)と三溪園、右欄=注と参考文献からる)をお渡しした。「230302 中浜万次郎国際協会の講演資料 白雲邸にて」とある園長現役の最後の講演資料である。ゆっくりお読みいただければと思い、詳しい説明は省いた。
今後の交流強化を確認し、三溪園側は今富副園長が仕切ることとした。
ここで記念撮影。スマホで撮ったものを後に鳥居さんが送ってくれた。

向かって奥の左が今富副園長、その右が鳥居さん、Luanna Kanazawaさん、私(マスク姿)、山口室長、Emiko Scudderさん。手前左が甲良総務課長、右が羽田事業課課長補佐。
終わると、羽田さんが一行3人に鶴翔閣を案内することとなり、私も半年ぶりに付き合った。時折、沛然たる驟雨、それが却って庭石の輝きを増した。ついで雨の中を歩いて臨春閣へ行く。まず外から一望した後、中に入ることとし、一行とは入り口で別れ、「…いずれまた…」と再会を約した。
私は三溪記念館に寄り、企画展「大正12年の原三溪-良きも悪しきも:大師会茶会と関東大震災」 (中村学芸員の企画、9月1日~12月10日)を拝観した。
関東大震災を箱根で体験、4日をかけて三溪園に戻るルートを絵に描き、最後は小舟を雇い、<象の鼻>と呼ばれる湾にそった地点(南門を出た所にある)に帰着した奮闘ぶりに強い感動を覚えた。それから今年が100年である。
ばったり中村さんに会ったので、印象を伝えた。
【鳥居ヒューゴさんの素顔】
偉丈夫の鳥居ヒューゴさん(英字表記はHugo Torii)は父方の祖父がマカオのポルトガル人で、ヒューゴにその名残がある。1975(昭和50)年、横浜本牧2丁目に生まれた48歳。横浜駅前で花屋を営んでいたが、26歳の時に横浜から京都へ行き、着いて2週間ほどで造園業で名高い植彌(うえや)加藤造園に就職、そこで13年にわたり学んだ。
植彌加藤造園はまた、京都の岡崎にある無鄰菴を、指定管理者として運営している。なお三溪園でも民間の経営戦略コンサルタントの CDI(コーポレイト・ディレクション)の占部伸一郎さんと芳賀正輝さんを中心に経営学の手法である KPI(Key Performance Indicator=組織の目標を達成するための重要な組織評価の指標)を使って実地訓練を施し、達成状況の定点観測を行ってきたが、その過程で植彌加藤造園を招いて話を聞いたことがある(本ブログ2023年4月3日掲載の「三溪園園長の退任にあたって」)。
庭師の修行を終えると、鳥居さんは西欧へ行きたいと思い、ドイツで5年を過ごす。ついでふとしたことからアメリカへわたり、西海岸のオレゴン州ポートランド市にあるポートランド日本庭園に入り、いま上席執行役員(日本庭園・文化技術担当)を勤める。
ポートランド日本庭園の創設者が日本人であること(後述)も、鳥居さんとどこかで繋がった縁であろうか。
【ポートランド日本庭園とは?】
ポートランド日本庭園(英: Portland Japanese Garden)は、アメリカ合衆国オレゴン州ポートランド市の都市公園ワシントン・パーク(英語版)にある日本庭園である。22,000 m2(5.5エーカー)の面積を構える。
日本版ウィキペディアによると以下のとおり。
歴史[編集]
砂と石の禅庭園
1963年に造園家の戸野琢磨教授によって設計された後、1967年に開園した。(今年で創建56年を迎える) 米国で発行されている日本庭園の専門雑誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』誌(The Journal of Japanese Gardening、略称JOJG)は、アメリカ合衆国において隔月刊 で発行されている、英語の日本庭園・日本建築専門雑誌)は、北米大陸に所在する公共日本庭園約300か所について、2004年以来数年ごとにランキングを作成している(雑誌寄稿者である日本庭園専門家たちが評価に当たる。当該雑誌の項を参照)。
ポートランド日本庭園は毎回上位に選出されており(2004年ランキングで第2位。2008年も同順位を維持)、2013年版ランキング(2017年末現在最新)では第1位に位置づけられた。
伝統的な日本庭園が発展し成熟するまで通常数百年の歳月を要するのに対し、ポートランド日本庭園は短時間の西洋的手法と風格のある東洋の表現を融合することで、非常に短期間で発展することに成功した点は特筆に価する。
造園[編集]
下側の出入り口
伝統的な造園法では、庭園は大地を表現する3つの要素が交わるという。つまり、石は山々の強靭と島々の支持を表し、水は中心にして清浄を表し、植物は自らを質感、色彩と成長で優雅に見せる。主題はポートランドからカスケード山脈に至るまでの地帯と、その地形が織り成す微妙な「見え隠れ」であり、庭園はその全体から自然景観の連続的な移り変わりの運動を描画している。
【「全米一住みやすい街」、西部オレゴン州ポートランド市】
ごく最近、2013年11月12日の日経ニュースメールが報じた記事「略奪でくすむ「黄金の街」 荒廃するサンフランシスコ」のなかに、ポートランド市について次のような記述があった。
同じくやり玉に挙がるのは「全米一住みやすい街」だった西部オレゴン州ポートランド市だ。民主党市長のもとで犯罪が増え、人口減に転じたと批判される。だが10月末に足を運ぶと、薬物問題はあるがダウンタウンはにぎわい、以前と変わらない街並みに見えた。
「危険な地域は全米どの都市にもある。SNSやメディアは一面を切り取り、街全体の間違った印象を与えている」。同市に20年住むキャリーさんは語る。
【ポートランド日本庭園の設計・創設者、戸野琢磨】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10日)は、日本の造園家、作庭家、ランドスケープアーキテクト。造園分野では日本人で初めてアメリカの大学で学位を取得、帰国後日本ではじめての造園設計事務所・ランドスケープコンサルタントを設立し設計活動を展開した。
戸野は大阪府で生まれ。父親は開業医で、その後日本庭園の多くが集中する京都に引越す。1910年、旧制京都府立第一中学校を卒業、同年に東北帝国大学予科に入学。 1913年に東北帝国大学の農科大学から改組した北海道帝国大学農学部に園芸学を修めようと進学。1913年、東北帝国大学の農科大学から改組した北海道帝国大学農学部に園芸学を修めようと進学。在学中に旭川松平農場の歴史編纂に関わり農場経営を研究、この成果を卒業論文とし、1916年に卒業。同時期、アメリカ渡航免状を取得。ニューヨーク山中商会に勤める叔父をたよって渡米。
叔父の勧めにより、コーネル大学のランドスケープ学科に進学、4年生課程を2年で卒業し修士課程に進学。1921年にランドスケープの修士号MLD取得。 同大学で1922年まで、設計演習担当のインストラクターとして在籍。大学では日本庭園の講義も担当した。その間、ノーマン・ニュートンらとヨーロッパ庭園研究の研修派遣を受ける。
関東大震災が1923年に東京を襲った年、日本に一時帰国。1924年、東京の銀座京橋に自身のデザインスタジオで日本初の造園設計事務所「戸野事務所」(後、戸野建築造園事務所を経て戸野琢磨造園研究室)を開設する。日本で造園と建築の設計をかねて業を開始。
1925年、雑誌『庭園』に「米国におけるジャパニーズ・ガーデン」を掲載。翌年「ランドスケープ・アーキテクツに就いて」を掲載。同雑誌にいくつか小論を発表。
1938年発足の日本造園士会に参画し理事に就任。1940年には理事長に就任。終戦直後は病に倒れ一時療養。
1953年から1969年に退職するまで、東京農業大学で庭園学と海外の造園概要の教鞭をとる。1958年、同校教授に就任。同年、ワシントンDCで開催のIFLA世界大会に日本代表の一員として参加。そのころからアメリカで日本庭園の紹介講演などを行う。
戦後はアメリカで日本庭園の作庭活動や講演などをとおして日米間のランドスケープアーキテクチェア分野での国際交流にも貢献した。
1959年に造園家アメリカ協会(ASLA)メンバー・名誉会員に推挙され、米国の庭園デザイン界でも広く名を知られていた。米国大使館などの外国大使館庭園の作品も多く、日本とアメリカ両国でかなりの数の作品を残している。
【ポートランド日本庭園の概況(2018年現在)】
Quick Facts(クィックデータ)
1967 創設 1963 年 / 一般入園開始 1967 年
年間来園者数 45 万 3,000 人
規模 12 エーカー(約5 ヘクタール)、8 つの庭園様式から構成
登録ボランティア数 200 名 スタッフ数 145 人
会員数 2 万 1 千人
年間運営予算 約 13 億 7 千万円(2021 年 10 月末レート)
入園料 (大人) $18.95
展示会・イベント・文化教育プログラム 年間実施数 350
Leadership(幹部) Steve Bloom Chief Executive Officer
上席執行役員(日本庭園・文化技術担当) 内山 貞文
執行役員(日本庭園・文化技術担当) 鳥居 ヒューゴ (以下略)
【19日着のメール】
私からの照会の回答の合間に、鳥居さんは次のように漏らしていた。
「…久しぶりの三渓園は庭園のその美しい風景とそこにある情景を一度に感じることができました。嬉しさと共に懐かしさ、切なさも感じました。横浜を離れ、40年住んだ日本を遠く離れてしまったからでしょうか。…」
鳥居さんへお礼のメールをと思いつつ、時が過ぎてしまった。お会いして2日後の19日(日曜)昼にメールを頂戴した。
加藤 祐三様
この度は大変お世話になりました。
庭園を丁寧にご案内いただき誠にありがとうございます。
短い時間でしたが庭園を通して、また、原三渓という人物を通して、横浜の文化を垣間見ることが出来た気がいたします。
ポートランド日本庭園はこれからも世界に向けて庭園を平和産業として文化外交と文化交流を深めていくミッションを掲げています。
また、横浜に帰郷した際には三渓園を歩きたいと思います。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
改めて、ありがとうございました。
鳥居ヒューゴ
Hugo Torii
Garden Curator
Portland Japanese Garden | Japan Institute
503-542-9376 japanesegarden.org
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