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生命科学の行方

 清談会は夏と冬の年2回、定例の会合を重ねて13年目に入った。今回の8月9日が第26回目である(7月28日の開催予定が台風12号のため延期)。本ブログの「清談会の定例会」(2018年1月5日)で述べたが、横浜市立大学時代の教員仲間で今でも志を共有する6名。自他ともに認める幹事の小島謙一さん(以下、敬称略)のおかげで、長くつづいている。

 前回以来、小島の提案で新しい共通テーマを「各専門分野の10年後を予測する」とし、言い出しっぺの小島が「自然界の4つの力」を、穂坂正彦が「AI(Artificial Intelligence人工知能)と医療、その10年後」を発表した。学界トップクラスの専門家が分かりやすく語る。知らない世界の扉が開く。初歩的な質問も含め談論風発、次第に共通問題としてAI(人工知能)の占める役割が中心となった。

 今回は浅島誠「自然を知り、生き物に学び、ヒトの立ち位置を考える」である。浅島は発生生物学の研究で1988年、胚発生における分化誘導物質<アクチビン>を世界で初めて同定(ノーベル賞級の成果)、2001年に紫綬褒章を受けた。また大学運営・学務面でも積極的に活躍、東京大学教養学部長(2003~2005年)、東京大学副学長(2007~2008年)を務め、2017年に瑞宝重光章を受章した。市大在任中(1974~1993年)のニックネームは<青年将校>、いまも勢いはそのままの、我らが清談会の最年少である。

 パワーポイント用スライド計16枚を印刷・配布し、意見を開陳した。私が理解できた範囲では、(1)人口増と地球環境、(2)生命科学発展の経緯、(3)生命科学の行方、の3つに大括りできる。順に概要をまとめ、私見を述べたい。

人口増と地球環境
 生命(単細胞生物)の誕生から今日までを1日24時間とすると、人類の歴史はわずか30秒、ヒト(ホモサピエンス)の歴史は1秒に過ぎない。ヒトは地球上の新種である。19世紀以来の約200年、人口が幾何級数的に急増し、1950年の25億人が現在70億人を突破、2050年には91億人と推計され、炭酸ガスが平行して増加、地球の扶養力(自然の恵みであるエネルギー、資源、水、空気、食糧等の持続可能な水準)をすでに突破している。

 高齢化・少子化の進展も危険要因である。なかでも医療費の増大は財政負担を圧迫し経済発展を抑止している。日本の場合、国家予算98兆円(2017年)のうち半分の47兆円を医療費が占める。

生命科学の発展
 20世紀後半から21世紀にかけて、生命科学の発展は著しいとして、13の事例を挙げる。これが本論と思われる。すなわち、①遺伝子改変技術(1989、ノックアウトマウス)とゲノム編集技術、②タンパク質立体構造解析と医薬品設計、③哺乳類クローン胚作成技術と染色体工学、④脳高次機能解析技術の発達とAI(人工知能)、⑤ヒトゲノム解読完了(2003)と個別化医療、⑥バイオイメージングの進歩と可視化(学際的分野の進展)、⑦生体や特定の分子の可視化とシグナル伝達機構の解明、⑧RNA新機能発見と遺伝子制御、⑨再生医療と遺伝子治療技術、⑩次世代コンピュータによる多量な情報処理(バイオインフォマティクスの必要性とビッグデータとシミュレーション科学)、⑪遺伝子・細胞診断技術と生殖医療、⑫人工生命作成(2010、マイコプラズマ)、⑬炎症と免疫・アレルギーの新たな展開。下線部は最近約10年間の研究成果を指す。

 具体的な内容は私の理解を越えるが、門外漢には次の3分類が分かりやすいと思う。ア)基礎となる発明・発見が①、④、⑦等、イ)医療関係が②、⑤、⑨、⑪、⑬等であり、ウ)今後予想される多方面への展開がが④、⑩等である。

 このうちア)について次のように言う。ゲノム解読に7年かかり(1997年~2003年まで)、約800億円の経費がかかったが、現在は一人のゲノム解読が1時間、10万円で可能となった。その速度と費用の両面で500億倍以上の進化を遂げたことになる。それだけ安価に誰でも使えるようになったことの弊害、あるいはその悪用による被害をどう防止できるか(すべきか)。言い換えれば、生命科学の急激な進歩自体が生命倫理を忘れた<暴走>の結果という部分もあり、その延長上に生命科学の膨大な蓄積が生命(人類を含む)に対して牙を剥いている可能性がある。科学と倫理観の関係をどう再構築するか。

 つぎのイ)医療関係の②、⑤、⑨、⑪、⑬等については、AIが補助的ないし主体的に作動する、ないし活躍する。少子高齢化に突入して極端な人手不足が見込まれる日本では<救世主>とも見られる。生産過程や流通、司法や医者の分野では従来の仕事をAIが代替すると述べる。

 なかでも医療分野では<先制医療>(発症前の診断技術により、発症を遅延・防止すると同時に、発症前介入を行う医療)が癌治療の分野で進む可能性が高い。遺伝子と環境の与える影響、それが子孫に伝わる可能性を分析するエピジェネティックス解析が進んでいる。

 最期のウ)多方面への展開が今後予想される④、⑩等の分野では、科学の<独走><暴走>を抑止する現代の<倫理観>をいかに構築するかである。高速演算能力を高める量子コンピュータの発展により、生命科学はさらに進歩し、AIが自己創造力を発揮すればするほど<倫理観>の置き去りが危惧される。

生命科学の行方 
 浅島は「生命科学の発達が…人類の脅威になることは英智を持って避けなくてはならない。その英智とは何か。今こそ生命科学に問われている」と悲鳴をあげつつ、生命科学者としての一つの回答を、「生物がもつナチュラルヒストリーと多種多様性から学ぶことが必要」として次の4点を提起する。

 それぞれ数行の文章で述べられているが、私なりに整理すると、①地球上に存在する1000万種もの多様な生物の「美しい姿(構造と機能)」、②遺伝子等のように精緻な機械に似た「芸術品」、③4つの文字で表現される遺伝子から作られるアミノ酸は20種類だが、それで構成される蛋白質は数百万~数千万であり、生物は単純で複雑、④現代の科学技術は生物の形態や機能から得た生物モデル(ロボット、飛行機、創薬、AI等)の4つである。いずれも生き物(とくに彼の研究素材であるイモリ)への根源的な感動と畏敬の念を呼び起こす。

 ここまできて、演題「自然を知り、生き物に学び、ヒトの立ち位置を考える」の意味が鮮明になった。この根源的な感動と畏敬の念を共有する若手研究者を増やす活動こそ、これからの浅島に期待してやまない。
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原範行さんのお別れ会

 2018(平成30)年4月23日(月曜)早朝、原範行(はら のりゆき)さんが肺炎で亡くなられた。享年89。四十九日に当たる6月18日(月曜)の「故 原範行 お別れの会」案内が、ご子息(女婿)の原信造「ホテル、ニューグランド」会長(正式名はホテルの後に点を付す。以下ニューグランドと略称)と濱田賢治社長名で届いた。ニューグランド2階のフェニックスホールには、優しい笑顔の遺影が掲げられ、数えきれない白い花が捧げられた。

 原範行さん(以下、範行さん)は1929(昭和4)年、外交官の吉岡範武の次男として任地のフランス・パリに生まれ、1953(昭和28)年、東京工業大学金属工学科卒業、日産自動車株式会社に入社し1967(昭和42)年に退社。1971(昭和46)年、原地所株式会社(原合名会社地所部を承継した会社)の代表取締役社長。1983(昭和58)年、ニューグランド代表取締役社長、2003(平成15)年、同代表取締役会長。また横浜商工会議所副会頭、社団法人日本ホテル協会会長、三溪園保勝会理事等の公職を歴任した。

 たどれば、範行さんは原富太郎(原三溪)から数えて3代目の原家当主(女婿)であられる。富太郎は岐阜県生まれ、開港横浜の第一世代で埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎の孫娘・屋寿の女婿であり、1906(明治39)年、三溪園(外苑)を一般公開した。

 戦後の1953年、三溪園は横浜市に譲渡・寄贈され、財団法人三溪園保勝会(理事長は歴代市長、2004年より内田弘保)が管理に当たり、2007年に国指定名勝、2012(平成24)年に公益財団法人三溪園保勝会となる。園内に国指定重要文化財の建造物10棟を有す。

 亡くなられた後の6月12日に開かれた三溪園理事会では、議事に先立ち、一同、範行さんへの深い謝意を表し、黙祷を捧げた。「原様には昭和41(1966)年4月本財団理事にご就任いただき、平成24(2012)年の公益認定後は評議員として、実に50年にわたり多大なご支援とご協力をいただきました。原三溪の業績や人となりを伝える「三溪記念館」の建設や「鶴翔閣」の整備も原様のご尽力なくしては成しえませんでした。…三溪記念館のオープン(平成元(1989)年)にあたってご寄贈いただいた貴重な美術品や資料は、今日展示や研究において欠くことのできないものであり…国内外からの賓客おもてなしについては、特に昭和59(1984)年の皇太子殿下ご夫妻ご来園において大変なお骨折りをいただいたと伺っております。…」

 ニューグランドは、山下公園の真向かい、横浜中華街へ通じる横道沿い1区画を占め、横浜における主要なランドマークの一つである。関東大震災(1923=大正12年)後、官民一体の震災復興計画の一環として(今日の第三セクター)、旧フランス海軍病院跡地に設立、倒壊廃業の外国ホテル「グランドホテル」(明治3年(1870年)に海岸通りの20番、山手に一番近い場所に開業)の後継館として、1927年(昭和2年)12月に開業した(『ホテル、ニューグランド八十年史』2008年等を参照)。今年で91年になる。

 現在の本館は渡辺仁の設計になるクラシックホテル。渡辺は上野の東京国立博物館(旧東京帝室博物館)、銀座の和光(旧服部時計店)、有楽町の旧日劇(日本劇場)やGHQが置かれた東京丸の内の第一生命ビルを設計している。

 ニューグランドの初代会長・井坂孝は東洋汽船出身。ホテルの主要業務であるサービス・宿泊・飲食に関する知識に明るく、総支配人としてパリからアルフォンゾ・デュナンを招聘、新生ホテルの目玉として「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」を旗印にレストランに力を注ぎ、ドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど後に広く知られる料理を生み出した。ここからホテルオークラ初代総料理長となる小野正吉をはじめ数々の名店の料理長を輩出、日本の食文化に大きく貢献する。

 開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や、チャーリー・チャップリンなど著名人も多数来訪し、1937年に新婚旅行で宿泊したD・マッカーサーは、1945年にSCAP(連合国軍最高司令官)として来日直後、315号室に宿泊した。

 範行さんの社長時代の1991(平成3)年、18階建て(高さ73m)のタワーが開業、その3階に <ペリー来航の間>(250~400名収容可の広間) が設けられた。山下公園と港を一望するこの大広間に、原家所蔵の仮ハイネ油彩画「ペルリ提督横浜上陸の図」(のち横浜美術館へ寄贈)から起こしたネガで布地にカラー印刷した幕が配されている。ここがお別れ会の懇親会会場となった。

 私事にわたるが、範行さんと初めてお会いしたのが、この広間で「ペリー来航と開国」と題する講演をした時である。ここを<ペリー来航の間>と名づけた理由を伺う機会を失したが、その2年前の1989年に開かれた横浜市政公布100年・開港130周年・横浜博覧会YES’89と、みなとみらい地区開発と無縁ではなかろう。

 YES’89での「黒船館」の基本コンセプトとして、拙著『黒船異変』(岩波新書 1988年)や『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)で展開した<交渉条約>説が採用された。永らく続いた「日米和親条約(1854年)=不平等条約」説を否定し、老中阿部正弘の主導により、横浜村で開かれた林大学頭とペリー提督との論戦を皮切りに交渉を重ね、ほぼ対等な内容の条約が結ばれたとする内容である。この条約が後の日米修好通商条約(1858年)につながり、横浜開港(1859年)の礎となった。

 幕府は国際情勢をよく分析、インドがイギリス植民地、インドネシアがオランダ植民地となり、立法・司法・行政の国家三権すべてを失ったこと、また清朝中国がイギリスと2年にわたるアヘン戦争の末に結んだ<敗戦条約>の南京条約(1842年)により、「懲罰」として領土割譲と賠償金支払いを余儀なくされたこと等を分析し、それを「他山の石」(教訓)として、<避戦>に徹し<交渉条約>を導き出した。<交渉条約>にはそもそも「懲罰」の概念がない。現代から見て不平等な面は、アメリカ外交官の下田駐在を認め、日本の外交官のアメリカ駐在を決めていない<双務性の欠如>であろう。

 27年前の講演でも、ニューグランドのすぐ近く、大桟橋の付け根の開港広場、開港資料館、神奈川県庁の辺りに設けた応接所で締結した日米和親条約の意義を強調、今の横浜の発展はここに起源すると話した。なお上掲の拙著は品切れで、その後継補正版が『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)である。

 お別れ会にはさまざまな人が集い、実業界にとどまらぬ範行さんの豊かな人脈を表していた。原三溪市民研究会(廣島亨会長)顧問の猿渡紀代子さん(横浜美術館元学芸員)もその一人。三溪園が保管する稿本・藤本實也「原三溪翁伝」(1945年8月16日脱稿)を、多数の人と協力して『原三溪翁伝』(思文閣出版、2009年11月)の刊行にこぎつけた折の主要メンバーである。原三溪市民研究会は、今年の三溪生誕150周年事業においても重要な一端を担っている。

佐藤行通ジー逝去

佐藤行通上人(俗名は弘)が白寿を迎え、お会いしたいと思っていた矢先、今年の3月1日、肺炎で亡くなられた。1918(大正7)年12月5日、秋田県生まれ、99歳と3か月。

我々は佐藤上人(しょうにん)と呼ぶ代わりに、尊敬と愛情を込めて佐藤ジーないし、ただジーと呼んでいた。ジーはインド語(ヒンディー語)で、男性につける尊称であり、「爺」の意味ではない。

すぐに梶村慎吾とニューヨーク在住の山崎友宏へメールを送った。後述の通り、56年前(1962年)、「広島アウシュビッツ平和行進」で33カ国を巡った仲間である。
「慎吾兄 友宏兄
佐藤ジーとお会いしたかったですね。ただただナムミョウ~ホ~レンゲキョ~。良い季節に西方浄土へ旅立たれたと考えましょう。…」

 ナムミョウ~ホ~レンゲキョ~とは南無妙法蓮華経。ジーの属していた日本山妙法寺で私の耳に深く刻まれ、折々に信者ではない私の口をついて出てくる。

ジーは陸軍航空士官学校を首席で卒業、訓練中に目に被災してパイロットの道を断念、陸軍航空通信学校に入り、のち東北帝国大学で学ぶ。1945年8月の終戦時に27歳、「降伏文書」の調印(9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号)を阻止せんと画策したが、失敗。茫然自失の日々のなか、藤井日達上人に出会い、出家した。

藤井日達上人(1885~1985年)は日本山妙法寺の創設者であり、最近の新聞で山折哲雄さん(宗教学)が書いている。「…日蓮宗左派過激派のリーダー、藤井日達上人…は、昭和6(1931)年、単身でインドに渡り、題目を唱える伝道をはじめて、ついにガンジーとの会見にこぎつけた破天荒の荒僧だった。近代の日本宗教史の上では、まさに異端中の異端児で…」(山折哲雄「私の履歴書」㉕ 日本経済新聞2018年3月25日)。

藤井上人やジーと初めてお会いしたのは1960年。安保反対闘争、原水禁運動、平和運動に邁進、カーキ色の法衣を纏い、団扇太鼓を叩きながら街頭行進する雄姿があった。

そこで知り合った林達聲上人、渋谷保教上人、菊池行広庵主ほか、多様な背景・前歴を持つ僧尼たちの、大学や学者の世界にはない考え方や感性に触れたことも、私のかけがえのない財産となっている。

安保闘争の敗北の中から「広島アウシュビッツ平和行進」が組織された。藤井上人の計らいにより、連絡事務局とした東京九段の日本山妙法寺に友人・知人が詰めて、連絡や広報活動に当たった。

掲げたスローガンは、「広島は核戦争を阻止するための象徴であり、アウシュビッツは戦争による非人道的行為をくり返さないための象徴である。広島とアウシュビッツは平和への道標である。No more Hiroshima, never again Auschwitz」。

アウシュビッツをめざす平和行進の団長がジーで、出発時(1962年)に44歳。他のメンバーは年齢順に、私(特定の宗教を持たない)が26歳、山崎友宏(カトリック)が24歳、梶村慎吾(プロテスタント)が23歳であった。終戦時は小学生と未就学児で、ジーとは親子ほどの年齢差である。この四人組は、父親と三人のドラ息子のような関係でもあったが、よく「三蔵法師と三匹の従者」に譬えられた。

1962年2月6日に広島を出発、上掲のスローガンを掲げて、アジア・東欧を行進、翌1963年、1月27日のアウシュビッツ解放記念日に収容所跡地に到着した。その後、西ヨーロッパまで足を伸ばし、ソ連・中国、計33ヵ国を経て帰国したのは、16ヵ月後の1963年6月である。準備過程から出発、帰国までの約3年間、我々四人は文字通り寝食と苦楽を共にした。

歴訪中、会計担当は山崎、写真撮影は梶村、記録をとり記事を書くのは主に私で、電送手段がなく、各地で印画した写真と記事を航空便で送り、これが連絡事務局経由で新聞社等に配信、掲載された。
帰国後、この体験の一部を加藤祐三・梶村慎吾『広島・アウシュビッツ-平和行進青年の記録』(弘文堂 フロンティアブックス 1965年)として公刊した。

4月18日(水曜)、茨城県鉾田市のジーの庵で行われる四十九日の法要に梶村と共に参列した。あいにくの冷たい雨の中、最寄りの駅まで佐藤昭子庵主が迎えにきて下さり、到着すると、なんと酒迎(しゅげい)天信上人がおられる。あの56年前、インドの日本山妙法寺の仏舎利塔のある王舎城(ラージギール)でお会いし、コルコト(カルカッタ)を経て南インドへ向かう平和行進を共にした。

祭壇中央の仏像のもとに「白寿 藤井日達 昭和59年」と記したジーの師の色紙と写真、立派な目鼻立ちのジーの遺影と位牌、そして酒迎上人の筆になる「佐藤行通院日弘上人位」の文字。

法要は、酒迎上人と昭子庵主が執り行った。上人は別府道場(寺)を守りつつ全国を飛び回る、矍鑠たる92歳。この日も慌ただしく一人で札幌へ向かわれるという。 

庵主と梶村の三人で、ジーの社会的功績や人間的魅力を語り合った。奇しくも藤井上人と同じ数え百歳で逝ったジーの人生には、目ざす理想と揺るぎない信念があった。

30余年にわたりジーと生活を共にし、最後を看取られた庵主の言葉が心に残る。「…慌ただしく旅立たれ、海外に出かけるときも同じでしたから、いまにも帰ってくるような気がします。…」

新刊書の紹介

 ずっしりと重い本が届いた。陳雲蓮『近代上海の都市形成史-国際競争下の租界開発』(風響社 2018年)である。帯に「世界有数の港湾都市はいかにして生まれたのか。東アジア開港場の一つとして出発した上海は、列強の租界を包含しながら都市インフラ、そして港湾を建設していく。政治経済のうねりと生活空間形成の変転を見つめた建築史の新たな挑戦」とある。

 建築史の研究者が、「政治経済のうねりと生活空間形成の変転を見つめた建築史の新たな挑戦」とあるのに目が行く。建築史が個々の建造物やデザイン等の研究に傾くなか、本書はいささか違うようだ。

 本書のいう「生活空間」は、個々の建造物、都市の区画、さらに都市全体を包含する。したがって巨大資本や国際政治・経済がからんでくるのは当然である。その解析には貿易のための港湾建設を軸として「政治経済のうねり」を掌握しなければならない。

 著者の陳さんとお会いして3年ほどになる。本ブログの「若き学友との対話」(2014年12月23日)に登場する。彼女が面識のない私に、知人二人を介して日本文のメールを送ってきた。「昨年、ケンブリッジ大学の図書館で先生のご著書を何度も拝読し、日本に帰ってから、ぜひ加藤先生にお会いしたいと思って…」。

 ケンブリッジ大学図書館を懐かしく思い出す。40年も前になるが、在外研究でリーズ市を生活拠点としたが、史料収集にはリーズ大学図書館や地域の文書館だけでは足りず、ケンブリッジ大、ロンドンの公文書館、ロンドン大学SOAS校等にたいへん世話になった。

 その成果の一つ、『思想』誌(岩波書店)に「黒船前後の世界」を連載(1983年7月~1984年7月の計8回)、その他の論考を含めて『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年、増補版ちくま学芸文庫 1994年)を刊行した。陳さんがケンブリッジ大学図書館地階の書庫で出会ったのが本書である。

 ブログ「若き学友との対話」では彼女を次のように紹介した。「都市地図を経年的に比較する図面や設計図を収集し、建造物や都市のハード面をよく知っている。建築家・建築事務所の細かい作業にも精通しており、内外の都市・建造物の調査経験も豊富にある。…加えて素晴らしい歴史的センスの持ち主で、漢文、英文、日本文(明治期の古い文体が主)の史料を発掘・収集する卓越した勘を持ち、それらを解読、論文に組み立てる。…ケンブリッジ大への留学で英語に磨きをかけ、トリリンガルの能力を生かし、史書の翻訳も始め、…それにとどまらず、文学を愛し茶道の修行中、ジョギングも欠かさない。…日本語で研究発表をして11年目、専門書『近代の上海−国際競争が作り上げた都市』(仮題)にまとめる草稿の一部を受信、<磨けば玉になる逸材>と直感した」と。

 それから3年余、上記の専門書の刊行に至った。岡山大学の専任講師(特任)の職も得た。冒頭のグラビアや本文中にある多数の古地図、巻末の論文初出一覧、あとがき、引用文献一覧、索引、写真・地図・図表一覧と、専門書らしい要件をすべて備えた354ページの大著である。この若さで、それも母語ではない日本語で、よくここまで書き上げたと感嘆を禁じ得ない。

 前掲のブログで「最近の日本の歴史学界では、批判を避けようとするためか、課題を小さく設定する傾向が強いように感じる。歴史学の場合、若い頃にこの悪習に染まると、後々まで大きなマイナスになると痛感していた矢先に、陳さんは驚くほど貪欲に高い目標を設定し、一次資料を渉猟、独自の見解を論文の草稿の形で提示…」と書いたが、その成果が本書に見事に結実している。

 目次は、序論、1部に4章、Ⅱ部に4章の計8章と終章の構成で各章に3~4つの節と小項目、これで全体の流れを明示しており、部と章のタイトルだけでも本書の核心が分かる。

 「序論 上海ー近代東アジア開港場の起点」では先行研究を総括して本書の課題、視点、構成等を示す。以下、2部8章と終論を付す。

 「Ⅰ部 上海の建設とインフラストラクチャーは、「1章 都市整備制度と土地章程」、「2章 旧来の水路と集落」、「3章 水路と街路の複層化」、「4章 国際的港湾の造成」の4章。ここでは国際政治と土地章程という法的枠組を前提として、圧倒的に豊富な収集史料に基づき、インフラ整備(主に水路と港湾)の過程を解明する。その分析と叙述の展開には確かな臨場感がある。

 「Ⅱ部 上海都市空間の形成と英日中」は、「5章 外国租界の都市空間と居住形態」、「6章 日本郵船による虹口港の建設」、「7章 日本の上海進出と都市開発」、「8章 北四川路の日本人住宅地と英日中」の4章。ここの主要テーマは、虹口港、日本人住宅地等の「都市空間」の形成とその特質の分析である。文献史料にとどまらず、現地調査や聞き取り調査の結果も活かされている。

 「終論 上海から東アジアへ」の2「研究展望:支配制度と生活空間の形成」において、今後の課題として3つを挙げ、「支配制度の移植」、「西洋人による生活空間の移植」、「近代の都市と建築の研究には中世・近世のそれとの接点を探る必要」を指摘し、今後の研究対象と手法を暗示している。

 カバーデザインも良い。図書館に入るとカバーは外されるのが一般的だが、本書のハードカバー部分は書庫など暗い所でも映えるに違いない。出版社の心遣いが感じられる。

  「あとがき」には、著者を支えてきた豊富な人脈(主に年長者)への謝辞が描かれている。これまでの恵まれた研究生活と同時に、就職に苦闘してきたことも読み取れる。後につづく多くの若手研究者にとって、彼女の歩みは一つの希望にも指針にもなるであろう。陳さんのさらなる<挑戦>を期待したい。

善四郎とペリー饗応の膳

 日米最初の公式会談は、164年前の1854年3月8日(嘉永七年二月十日)に開かれた。幕府全権は林大学頭(復斎)、アメリカ側はペリー米東インド艦隊司令長官、場所は横浜村駒形に建てた仮設の横浜応接所、現在の横浜関内の、神奈川県庁と日本大通り突き当り一帯である。

 応接所へとペリー一行を先導するのは与力の香山栄左衛門、つづいてマスケット銃を持つアメリカ兵400余名が上陸、うち50余名が屋内に入った。ペリーや将校はサーベルに短銃の正装で椅子に座り、幕府側は台座上に正座して脇差を左脇に置き、大刀は後ろに構える家来が捧げ持つ。

 挨拶の後、双方の首脳各5名が隣室に移り、茶菓が出て会談となった。森山栄之助とポートマンによるオランダ語を介した二重通訳である。林が大統領国書への回答を述べると、ペリーは、まず病死した艦隊員の埋葬を要請した。そこで林が、この件を当方で協議する間に食事を、と勧める(「饗応の膳」)。ペリーは「食事を共にするのは友情の証」と快諾、ここで緊張が一気にほぐれた。

 この日米和親条約締結(1854年)に至る歴史は、拙著『幕末外交と開国』(ちくま新書、2004年1月、のち講談社学術文庫 2012年)及び拙著『開国史話』(2004年3月~2005年7月まで神奈川新聞連載、同社より2008年刊)に述べた。いずれも日米和親条約締結150周年の2004年前後に書いたものだが、後者は日常の情景や人々の動き等にも可能な限り言及した。

 幕府は300人前の「饗応の膳」(これに予備の200人前)を用意した。応接所の配置図には「御賄所御料理所」(2間×10間)が描かれている。料理の担い手は誰か。私は前掲の『開国史話』で、「…幕府御用達の百川(ももかわ、日本橋浮世小路)とする説と、百川で修行し後に浦賀宮ノ下で開業した岩井屋とする説がある。…与力のメモに浦賀奉行所御用達の(岩井屋の)富五郎と善四郎に請け負わせたとあり…」と書いた。

 本稿から十数年を経た昨年、齊藤淳一さんという方からの手紙が版元の神奈川新聞社から転送されてきた。上掲の「富五郎と善四郎に請け負わせた」の史料の出典を問う内容である。お手紙にあるメールアドレスへ、東京大学史料編纂所編『幕末外国関係文書』(『大日本古文書』シリーズのうち)の附録之一の史料番号八「(「亜米利加応接掛町奉行支配組与力)浦賀御用日記」(605ページ末)とお伝えした(2017年9月27日)。

 これが齊藤さんとの交流の始まりで、以来、幾度かのメール交換の後、10月29日、「ペリー黒船艦隊への饗応料理と『八百善』との関り研究(その後)」と題する一文をいただいた。私の挙げた史料を横浜市中央図書館で確認し、八百善の関りを示唆する「証拠」を得た。この「善四郎」の3文字は、江戸にあった八百善六代目栗山善四郎を示すもので、現在の当主・十代目善四郎氏(66歳)と嗣家・雄太郎氏(40歳)は「謎」の163年間に終止符を打てたと大変に喜んでおられる、ともあった。

 年が替わって2月12日、齊藤さんから招待状が届いた。創業301周年を迎えた江戸料理の老舗『割烹家 八百善』で、40年に渡り当主であられた十代目善四郎さんの引退と長男・雄太郎さんの十一代目栗山善四郎襲名披露宴、及びペリー提督饗応の膳(再現)への招待である。

 八百善の歴史は、享保2(1717)年、浅草山谷での創業に始まる。八百屋から寺への料理の仕出し屋、そして料理屋と業態を拡げ、将軍のお成り(来店)を得る一方、大田南畝(蜀山人)、谷文晁、葛飾北斎ら文人墨客を魅き寄せ、その協力を得て、四代目は『江戸流行料理通』を出版(文政5年=1822年)する。

 明治維新(1868年)後は新政府の政治家をはじめ各界の名士が来店、『海舟語録』等にもよく出てくるという。八代目(1905年に襲名)は茶道と古器物鑑定にも力を入れた。その後、関東大震災(1923年)で壊滅的打撃を受け、幾度もの波を乗り越えて300年、今なお和食の伝統を堅持する唯一の割烹である。

 暖かな花曇りの3月19日(月曜)、神奈川県鎌倉市十二所33-2(明王院境内)にある八百善へ向かう。この店は5年目という。鶯の鳴く明王院(真言宗)境内を散策後、門をくぐり庭石を踏んで、茶室に似た木造二階建て(大正14年築)の入り口に至る。板戸が開いて十代目善四郎さんが迎えてくださった。

 十代目善四郎さんは大学で国文学を学び、随筆・日記類にも精通する読書家で、昨年『江戸料理大全』(誠文堂新光社、2017年1月)を刊行した。また八代目(祖父)の影響か陶磁器等の目利きでもある。八代目から聞いたことを鮮明に記憶され、運ばれる料理の特徴や盛付けの器の由来、所蔵の貴重な古記録の一部を惜しげもなく披露、これは襲名の儀式でもあった。

 十代目によると、ペリー饗応の膳にかかわった六代目善四郎はそのとき26歳、若すぎて荷が重かったのでは、と。

 客は10名、テーブルは3つ、私は神戸から来られた常連のご夫妻と同席となり、同じ開港都市の横浜と神戸の比較論等を楽しんだ。祝い膳は、鰤、蛤、鮭、鰆、浅利、白子(シラス)に旬の野菜をふんだんに使った二汁五菜に、丼と汁、最後に抹茶。なかでも「ぶた煮」という葛粉の団子を油で揚げて豚肉に見立てた普茶料理が、この店ならではのものだと言う。舌と目と耳を肥やし、香りと手触りを楽しむ、瞬く間の4時間であった。

 宴の半ばで齊藤さんが挨拶に来られた。メールでは当日は厨房に入るとあり、お会いするのは初めてである。訊くとアメリカの大学で長く化学を教えておられたが、諸般の事情から帰国、八百善の料理教室で学ぶうちに、料理にはまり込んだとのこと。

 宴の終わりに、六尺豊かな偉丈夫の十一代目が挨拶に立った。趣味のロックバンドはしばらくお預けとし、八百善301年の伝統を守り発展させることに全力を注ぎたいと、覚悟のほどを述べる。談笑のさいに料理人としての齊藤さんはと尋ねると、「いまや私の右腕」とほほ笑んだ。

 齊藤さんは、六代目善四郎やペリー饗応の膳に関して解くべき「謎」がまだあり、店に残る大福帳や幕閣・政商・料理屋の関係、顧客記録やペリー側の英文史料等を使い、仮説の検証を進めると言う。日米の文化体験と理系の緻密な論理・実証法に料理人の勘を駆使した謎解きを、心から期待している。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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