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伊波洋之助さんを偲ぶ

 伊波洋之助さんが逝去されて5カ月になる。9月6日、三溪園の中島哲也総務課長と参列した斎場は長蛇の列であった。入口に伊波さんの笑顔の写真、傍らに大きなかわはぎの魚拓が添えられている。寸長34.7㎝、重量780g、昭和58年7月10日、剣崎沖、釣人伊波洋之助とあった。

 年が改まり、ご子息の俊之助さんが伊波洋之助著『平成に活きた市会議員 伊波洋之助小伝』を届けてくださった。奥様の宣子さんの「感謝」と題する一文が同封されている。「またたく間に月日は流れ、日に日に淋しさがつのります。葬儀の際は多くの方々に主人との別れを惜しんで頂き、心より感謝申し上げます。…」。

 横浜市会議員を引退されて2年後の、2017年9月25日刊行である。版元は株式会社リテラル、B5版、105ページ、販価1200円。カバーに大桟橋の遠景写真。最初のページには、旭日小授章を胸にモーニング姿の伊波さんと和装の奥様の写真が収められている。

 「<平成>に生き、燃焼した伊波洋之助です」と始まる。「私伊波洋之助は今からざっと三十年近く前の、平成元(1989)年1月28日、45歳のときに横浜市会議員に初めて当選させていただきました。中区の補欠選挙でした。平成になって全国で初めて公職選挙で当選して議員になったのが私でした」。

 文末に付されたプロフィールによれば、昭和18年、横浜市中区本牧三之谷(三溪園と同じ地名)出生とあり、私の7歳年少であることを初めて知った。拓殖大学商学部貿易学科スペイン語専攻に在学中、南米総合調査団団長として南米に1年滞在している。

 昭和45年、松村株式会社入社、市会議員の松村千賀雄の秘書を18年つとめ、平成元年の補欠選挙で初当選、以後7期28年勤続、市会の各種委員を歴任、平成17年に第40代横浜市議会議長となり、平成27年3月、議員を引退された。

 「地方議員の仕事とは」では「次の時代によりよい横浜を残すこと」に尽きると断言、また「市議は駅伝ランナー」とも言う。具体的には秘書時代に奔走した「本牧の米軍接収地の解除の前夜について」、市議時代の大気汚染に関する「<魚釣り>で見つけた石炭火力の横暴」、高齢者や身障者のため坂道の多い地区を走る「市バス222系統」の新設運動、「山手・石川町両駅のバリアフリー化の促進」等の業績から、浜っ子の心意気と<横浜愛>が伝わってくる。

 また「ガス燈」については、「日本におけるガス燈の発祥の地は横浜です。初めての点燈は、明治五年九月でした。東京では銀座が名誉あるガス燈第一号の地となりましたが、それも明治七年の話で、横浜のほうが二年早かったのです。安政六(1859)年に横浜村が世界に向けた開港の場に選ばれ、…さまざまな欧米の文化が横浜を玄関口として日本に入り、横浜から全国へと拡がっていきました。…」。ガス燈は伊波さんたちの奮闘のおかげで再建され、いま山下公園前の道路でほのかな光を放っている。

 「節目の年齢、そのとき私は」が本書の神髄であろうか。20歳、30歳、40歳、50歳、60歳、70歳の節目を振り返る。「…70代、長男俊之助に議員の仕事を委ね、…毎朝5時に起き、6時から新本牧公園に登り、ゴミを分別する<ゴミおじさん>をし、ついでラジオ体操…、一日10,000歩から13,000歩を歩き…」と近況報告で結ぶ。本書は市販されているので、ぜひお読みいただきたい。

 伊波さんと初めてお会いしたのは、平成4(1992)年頃である。伊波さんが市会の大学教育委員となられ、私が市大の高井修道学長の下、教養部長として市会に出席した時である。

 しばらくして伊波さんから、拙著をテキストに個人的な勉強会をしたいという要請をいただき、二つ返事でお受けした。最初は19世紀中頃の世界史を描いた『イギリスとアジア-近代史の原画』(1980年、岩波新書)を取り上げた。中国から英国への茶、英国植民地インドから中国へのアヘン、英国からインドへの産業革命の産物の機械製綿布、これら三大商品からなる「19世紀アジア三角貿易」を解明したもの。商学部貿易学科出身の伊波さんの得意分野で、議論が盛り上がり、多くの示唆を得た。

 次に取り上げたのが『黒船異変』(1988年、岩波新書)だったと思う。1853年7月8日、浦賀に来航したペリー艦隊と浦賀奉行所の、最初の接触に始まる日本開国を描いたもの。とくに横浜村における日米交渉に焦点を絞り、幕府代表の林大学頭とペリー提督との対話(1854年3月8日)から3月31日の条約調印までの過程を描いた。日米初の条約である日米和親条約(1854年)は、<避戦策>に徹した幕府と、ペリー側の漂流民相互救助・国交樹立の目的を合致させ、平和裏に結ばれた<交渉条約>であると述べた。

 それまで<不平等条約>説が過度に強調され、横浜は<不平等条約>の落し子という根拠のないイメージさえあったが、それを払拭し、都市横浜の起点が幕府外交の勝利の賜物であることを示した。これが市政公布100周年・開港130年を記念する大イベントである1989年の横浜博覧会(略称はyes’89)の「黒船館」の基本コンセプトに採用された。本書は絶版だが、後継本が『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)として市販されている。

 この横浜博覧会を機に、みなとみらい地区の開発が進み、はや30年が経った。桜木町駅から<汽車道>を通り、左手に日本丸、観覧車、聳え立つランドマークタワーからクィーンズ・パシフィコ横浜へと散策するたびに伊波さんを想う。

 また横浜博覧会の関連事業として、市大で横浜の歴史と現在を海外に伝える英文の本を編集・刊行することになった。書名を”YOKOHAMA Past and Present”とし、編集委員長に私が指名され、学内外56名の筆者による134編の論考(1編が見開き2ページ)、300ページの本が出来あがる。類書は東京都や京都市等にもなく横浜が一番乗りで、そのことを伊波さんは殊のほか喜んでくれた。さらに市会から、市民のために日本語版もとの要望が出て、『横浜 いま/むかし 日本語補助版』(1980年)も刊行した。

 伊波さんは横浜をなによりも愛する<市民派>の市議であるが、学生時代に南米調査団長をつとめたように、広く世界に関心を持つ<国際派>でもあった。私は日本史と世界史の双方から歴史を考えており、意気投合した。

 後年、伊波さんが2015年に市議を引退され、私が三溪園園長となって再会する。伊波さんは、戦後直後の三溪園の苦難の時代(古美術商のご尊父から伝えられたこと)や戦後の三溪園が腕白盛りの一番の遊び場だったこと等を語られた。その奥には、初代市会議長の原善三郎(三溪園の土地を取得し、別荘の松風閣を建てた三溪の義祖父)への敬愛の念が窺われた。

 『伊波洋之助小伝』は次の言葉で結ばれる。「皆さんどうもありがとう、そして大好きなヨコハマ‼ この街に、三溪園に、港に感謝して、この本を締めくくりたいと思います。皆さんどうもありがとう‼」 

 横浜をこよなく愛した人
伊波洋之助さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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丘のダヴィンチたち

 9月4日、台風21号が昼に四国・近畿に上陸との気象情報を気にしつつ、時おりの強風にあおられて帰宅すると、留守電が入っていた。都立武蔵丘(むさしがおか)高校の後輩で、同校元教員の佐藤秀子さん(昭和35年卒の12回生)という方からで、ファックスを送るとある。

 武蔵丘高校は1940(昭和15)年に東京府立第二十一中学校として発足、戦後1948(昭和23)年に都立武蔵丘高校となった。私は1952(昭和27)年に入学した7回生で、勉学と交友と放課後のラグビーもどきの遊びに専念、人気の野球部には入らず、町道場で柔道を習っていた。

 学校は中野区の練馬区寄りにあり、西武新宿線の鷺ノ宮駅や下井草駅から通学する友人が多かった。私は西武池袋線の中村橋駅から徒歩5分のところにある家から、徒歩通学をしていた。

 朴歯の高下駄、学生服に破れ学帽、腰に手拭いをぶら下げ、冬も素足で霜柱をザクザク踏んで登校、文学青年を気取った時期から哲学青年に変わる2~3年生にかけて、これが憧れた私の旧制高校生ファッションであった。「高歯の下駄では、喧嘩を売られても逃げられないぞ」と先生に言われたが、下駄は脱げば立派な武器になる、と密かに思っていた。

 柔道場のある練馬駅近くの古書店に入り浸り、仕入れた本をズックの肩かけ鞄に詰め込んで帰った。「新書100冊を読破」等を目標に掲げ、手当たり次第に読んだ。とくに体験や直感を重視するニーチェやショーペンハウエルの「生の哲学」にかぶれていた。

 木曜が休みで土曜が全日授業という学校だったので、木曜になると近場の奥多摩や秩父の山々を単独行した。事前に5万分の1地図の等高線を眺めて山の立体的な姿を脳裏に浮かべ、それが眼前に拡がるのが楽しみだった。山では、いやおうなく自己と向き合う。自分という存在をとても小さく感じた。

 さて、佐藤さんから届いたファックの用件名は<丘のダヴィンチたち>。2年前に中西進先生(旧制府立中学2回生)の発案で発足、それについて同窓会誌「銀杏」(2017)に六角鬼丈先生(12回生、建築家)が、ついで「銀杏」(2018)に三田村有純先生(20回生、漆芸作家)が書かれていると、添付してあった。

 そして「昨日、中西進先生からご連絡があり、加藤祐三先生にもご賛同いただきたいとのことでした」とある。中西先生とはどなたか、すぐには思い出せない。以前に初対面で「武蔵丘高校のご出身でしょう」と言われて驚いたことがあった、その方か。

 中西さんは1929(昭和4)年生まれ、米寿(88歳)を迎えた国文学者(万葉学者)で文化勲章受章(2013年)の大家と分かった。多彩な職歴のなかに、2004年、京都市立芸術大学長があり、お会いしたのは公立大学協会(公立大学学長からなる社団法人)の総会であろう。それにしても15年前に一度会っただけの私を覚えておいでとは。

 佐藤さんからは「来週の9月14日、中西先生が講演のため京都から出てこられるのに合わせて、打合せを予定しています」とも。

 添付資料によれば、母校は2020年に創立80周年を迎える。それに向けて、あらゆる分野で活躍する卒業生が、「世代を超えて異分野を学ぶ会」として<丘のダヴィンチたち>を結成(三田村有純「銀杏」(2018))、それから2年が経つという。<丘のダヴィンチたち>の名前の由来は、ルネサンス期イタリアの芸術家レオナルド・ダヴィンチ、<丘>は言うまでもなく武蔵丘高校である。

 この2年前に発足した当会とは別に、2年前に解散した同校の同期会がある。本ブログ2016年10月26日の「高校同期会の解散」で述べたが、昭和30年卒の6クラスあったうちの2クラスを中心に、45年もつづいた<ぬぎの会>である。最初から最後まで牽引した名幹事の勝田賢の宣言、「80歳が会の終わり」で解散した。

 その代わりのように、<丘のダヴィンチたち>からのお誘いである。打合せの当日、せっかくなら65年前の通学路を歩いてみようと早めに家を出た。中村橋駅から旧居へ、そして母校へ。麦畑の拡がる風景が瀟洒な住宅街に一変したのは当然で、地付きの人のものであろう風情ある古い屋敷と椎の大樹が、過ぎ去った歳月を偲ばせる。

 母校は翌日の学園祭の準備中で、先生や生徒が忙しそうに行き来していた。許可を得て構内を一巡。建て替えにより校舎や校庭の位置が大きく変わって戸惑う。校歌にある櫟(くぬぎ)の樹は変わらず、同じ場所に髙く聳えていた。そこから記憶をたどりつつ鷺ノ宮駅まで歩き、バスでJR阿佐ヶ谷駅まで出た。

 <丘のダヴィンチたち>の会場は、予定の喫茶店では入りきれず、急遽、四ツ谷駅に近い槙枝一臣さん(16回生)の東京フレックス法律事務所となった。5時開始、参加者は32名中17名、挨拶と近況報告が一巡し、最後が中西さんで、情熱をこめて母校の若人を応援したいと結んだ。

 母校や同窓会等との連絡を密にするとともに、まずは<丘のダヴィンチたち>の想いを伝える文集を作ろうと提案があり、印刷物ではなく、ネット世代が近づきやすいデジタル版はどうかとの意見等も出た。2年後の創立80周年に向けた具体的な一歩である。

 司会をつとめた三田村さんが文集の範例を作ると言い残して所用のため早退、内山園子さん(10回生)が引き継ぎ、最後に次回の日程を決めた。中西さんは、これから京都へ帰宅の強行軍、その達者ぶりに驚かされる。

生命科学の行方

 清談会は夏と冬の年2回、定例の会合を重ねて13年目に入った。今回の8月9日が第26回目である(7月28日の開催予定が台風12号のため延期)。本ブログの「清談会の定例会」(2018年1月5日)で述べたが、横浜市立大学時代の教員仲間で今でも志を共有する6名。自他ともに認める幹事の小島謙一さん(以下、敬称略)のおかげで、長くつづいている。

 前回以来、小島の提案で新しい共通テーマを「各専門分野の10年後を予測する」とし、言い出しっぺの小島が「自然界の4つの力」を、穂坂正彦が「AI(Artificial Intelligence人工知能)と医療、その10年後」を発表した。学界トップクラスの専門家が分かりやすく語る。知らない世界の扉が開く。初歩的な質問も含め談論風発、次第に共通問題としてAI(人工知能)の占める役割が中心となった。

 今回は浅島誠「自然を知り、生き物に学び、ヒトの立ち位置を考える」である。浅島は発生生物学の研究で1988年、胚発生における分化誘導物質<アクチビン>を世界で初めて同定(ノーベル賞級の成果)、2001年に紫綬褒章を受けた。また大学運営・学務面でも積極的に活躍、東京大学教養学部長(2003~2005年)、東京大学副学長(2007~2008年)を務め、2017年に瑞宝重光章を受章した。市大在任中(1974~1993年)のニックネームは<青年将校>、いまも勢いはそのままの、我らが清談会の最年少である。

 パワーポイント用スライド計16枚を印刷・配布し、意見を開陳した。私が理解できた範囲では、(1)人口増と地球環境、(2)生命科学発展の経緯、(3)生命科学の行方、の3つに大括りできる。順に概要をまとめ、私見を述べたい。

人口増と地球環境
 生命(単細胞生物)の誕生から今日までを1日24時間とすると、人類の歴史はわずか30秒、ヒト(ホモサピエンス)の歴史は1秒に過ぎない。ヒトは地球上の新種である。19世紀以来の約200年、人口が幾何級数的に急増し、1950年の25億人が現在70億人を突破、2050年には91億人と推計され、炭酸ガスが平行して増加、地球の扶養力(自然の恵みであるエネルギー、資源、水、空気、食糧等の持続可能な水準)をすでに突破している。

 高齢化・少子化の進展も危険要因である。なかでも医療費の増大は財政負担を圧迫し経済発展を抑止している。日本の場合、国家予算98兆円(2017年)のうち半分の47兆円を医療費が占める。

生命科学の発展
 20世紀後半から21世紀にかけて、生命科学の発展は著しいとして、13の事例を挙げる。これが本論と思われる。すなわち、①遺伝子改変技術(1989、ノックアウトマウス)とゲノム編集技術、②タンパク質立体構造解析と医薬品設計、③哺乳類クローン胚作成技術と染色体工学、④脳高次機能解析技術の発達とAI(人工知能)、⑤ヒトゲノム解読完了(2003)と個別化医療、⑥バイオイメージングの進歩と可視化(学際的分野の進展)、⑦生体や特定の分子の可視化とシグナル伝達機構の解明、⑧RNA新機能発見と遺伝子制御、⑨再生医療と遺伝子治療技術、⑩次世代コンピュータによる多量な情報処理(バイオインフォマティクスの必要性とビッグデータとシミュレーション科学)、⑪遺伝子・細胞診断技術と生殖医療、⑫人工生命作成(2010、マイコプラズマ)、⑬炎症と免疫・アレルギーの新たな展開。下線部は最近約10年間の研究成果を指す。

 具体的な内容は私の理解を越えるが、門外漢には次の3分類が分かりやすいと思う。ア)基礎となる発明・発見が①、④、⑦等、イ)医療関係が②、⑤、⑨、⑪、⑬等であり、ウ)今後予想される多方面への展開がが④、⑩等である。

 このうちア)について次のように言う。ゲノム解読に7年かかり(1997年~2003年まで)、約800億円の経費がかかったが、現在は一人のゲノム解読が1時間、10万円で可能となった。その速度と費用の両面で500億倍以上の進化を遂げたことになる。それだけ安価に誰でも使えるようになったことの弊害、あるいはその悪用による被害をどう防止できるか(すべきか)。言い換えれば、生命科学の急激な進歩自体が生命倫理を忘れた<暴走>の結果という部分もあり、その延長上に生命科学の膨大な蓄積が生命(人類を含む)に対して牙を剥いている可能性がある。科学と倫理観の関係をどう再構築するか。

 つぎのイ)医療関係の②、⑤、⑨、⑪、⑬等については、AIが補助的ないし主体的に作動する、ないし活躍する。少子高齢化に突入して極端な人手不足が見込まれる日本では<救世主>とも見られる。生産過程や流通、司法や医者の分野では従来の仕事をAIが代替すると述べる。

 なかでも医療分野では<先制医療>(発症前の診断技術により、発症を遅延・防止すると同時に、発症前介入を行う医療)が癌治療の分野で進む可能性が高い。遺伝子と環境の与える影響、それが子孫に伝わる可能性を分析するエピジェネティックス解析が進んでいる。

 最期のウ)多方面への展開が今後予想される④、⑩等の分野では、科学の<独走><暴走>を抑止する現代の<倫理観>をいかに構築するかである。高速演算能力を高める量子コンピュータの発展により、生命科学はさらに進歩し、AIが自己創造力を発揮すればするほど<倫理観>の置き去りが危惧される。

生命科学の行方 
 浅島は「生命科学の発達が…人類の脅威になることは英智を持って避けなくてはならない。その英智とは何か。今こそ生命科学に問われている」と悲鳴をあげつつ、生命科学者としての一つの回答を、「生物がもつナチュラルヒストリーと多種多様性から学ぶことが必要」として次の4点を提起する。

 それぞれ数行の文章で述べられているが、私なりに整理すると、①地球上に存在する1000万種もの多様な生物の「美しい姿(構造と機能)」、②遺伝子等のように精緻な機械に似た「芸術品」、③4つの文字で表現される遺伝子から作られるアミノ酸は20種類だが、それで構成される蛋白質は数百万~数千万であり、生物は単純で複雑、④現代の科学技術は生物の形態や機能から得た生物モデル(ロボット、飛行機、創薬、AI等)の4つである。いずれも生き物(とくに彼の研究素材であるイモリ)への根源的な感動と畏敬の念を呼び起こす。

 ここまできて、演題「自然を知り、生き物に学び、ヒトの立ち位置を考える」の意味が鮮明になった。この根源的な感動と畏敬の念を共有する若手研究者を増やす活動こそ、これからの浅島に期待してやまない。

原範行さんのお別れ会

 2018(平成30)年4月23日(月曜)早朝、原範行(はら のりゆき)さんが肺炎で亡くなられた。享年89。四十九日に当たる6月18日(月曜)の「故 原範行 お別れの会」案内が、ご子息(女婿)の原信造「ホテル、ニューグランド」会長(正式名はホテルの後に点を付す。以下ニューグランドと略称)と濱田賢治社長名で届いた。ニューグランド2階のフェニックスホールには、優しい笑顔の遺影が掲げられ、数えきれない白い花が捧げられた。

 原範行さん(以下、範行さん)は1929(昭和4)年、外交官の吉岡範武の次男として任地のフランス・パリに生まれ、1953(昭和28)年、東京工業大学金属工学科卒業、日産自動車株式会社に入社し1967(昭和42)年に退社。1971(昭和46)年、原地所株式会社(原合名会社地所部を承継した会社)の代表取締役社長。1983(昭和58)年、ニューグランド代表取締役社長、2003(平成15)年、同代表取締役会長。また横浜商工会議所副会頭、社団法人日本ホテル協会会長、三溪園保勝会理事等の公職を歴任した。

 たどれば、範行さんは原富太郎(原三溪)から数えて3代目の原家当主(女婿)であられる。富太郎は岐阜県生まれ、開港横浜の第一世代で埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎の孫娘・屋寿の女婿であり、1906(明治39)年、三溪園(外苑)を一般公開した。

 戦後の1953年、三溪園は横浜市に譲渡・寄贈され、財団法人三溪園保勝会(理事長は歴代市長、2004年より内田弘保)が管理に当たり、2007年に国指定名勝、2012(平成24)年に公益財団法人三溪園保勝会となる。園内に国指定重要文化財の建造物10棟を有す。

 亡くなられた後の6月12日に開かれた三溪園理事会では、議事に先立ち、一同、範行さんへの深い謝意を表し、黙祷を捧げた。「原様には昭和41(1966)年4月本財団理事にご就任いただき、平成24(2012)年の公益認定後は評議員として、実に50年にわたり多大なご支援とご協力をいただきました。原三溪の業績や人となりを伝える「三溪記念館」の建設や「鶴翔閣」の整備も原様のご尽力なくしては成しえませんでした。…三溪記念館のオープン(平成元(1989)年)にあたってご寄贈いただいた貴重な美術品や資料は、今日展示や研究において欠くことのできないものであり…国内外からの賓客おもてなしについては、特に昭和59(1984)年の皇太子殿下ご夫妻ご来園において大変なお骨折りをいただいたと伺っております。…」

 ニューグランドは、山下公園の真向かい、横浜中華街へ通じる横道沿い1区画を占め、横浜における主要なランドマークの一つである。関東大震災(1923=大正12年)後、官民一体の震災復興計画の一環として(今日の第三セクター)、旧フランス海軍病院跡地に設立、倒壊廃業の外国ホテル「グランドホテル」(明治3年(1870年)に海岸通りの20番、山手に一番近い場所に開業)の後継館として、1927年(昭和2年)12月に開業した(『ホテル、ニューグランド八十年史』2008年等を参照)。今年で91年になる。

 現在の本館は渡辺仁の設計になるクラシックホテル。渡辺は上野の東京国立博物館(旧東京帝室博物館)、銀座の和光(旧服部時計店)、有楽町の旧日劇(日本劇場)やGHQが置かれた東京丸の内の第一生命ビルを設計している。

 ニューグランドの初代会長・井坂孝は東洋汽船出身。ホテルの主要業務であるサービス・宿泊・飲食に関する知識に明るく、総支配人としてパリからアルフォンゾ・デュナンを招聘、新生ホテルの目玉として「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」を旗印にレストランに力を注ぎ、ドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど後に広く知られる料理を生み出した。ここからホテルオークラ初代総料理長となる小野正吉をはじめ数々の名店の料理長を輩出、日本の食文化に大きく貢献する。

 開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や、チャーリー・チャップリンなど著名人も多数来訪し、1937年に新婚旅行で宿泊したD・マッカーサーは、1945年にSCAP(連合国軍最高司令官)として来日直後、315号室に宿泊した。

 範行さんの社長時代の1991(平成3)年、18階建て(高さ73m)のタワーが開業、その3階に <ペリー来航の間>(250~400名収容可の広間) が設けられた。山下公園と港を一望するこの大広間に、原家所蔵の仮ハイネ油彩画「ペルリ提督横浜上陸の図」(のち横浜美術館へ寄贈)から起こしたネガで布地にカラー印刷した幕が配されている。ここがお別れ会の懇親会会場となった。

 私事にわたるが、範行さんと初めてお会いしたのが、この広間で「ペリー来航と開国」と題する講演をした時である。ここを<ペリー来航の間>と名づけた理由を伺う機会を失したが、その2年前の1989年に開かれた横浜市政公布100年・開港130周年・横浜博覧会YES’89と、みなとみらい地区開発と無縁ではなかろう。

 YES’89での「黒船館」の基本コンセプトとして、拙著『黒船異変』(岩波新書 1988年)や『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)で展開した<交渉条約>説が採用された。永らく続いた「日米和親条約(1854年)=不平等条約」説を否定し、老中阿部正弘の主導により、横浜村で開かれた林大学頭とペリー提督との論戦を皮切りに交渉を重ね、ほぼ対等な内容の条約が結ばれたとする内容である。この条約が後の日米修好通商条約(1858年)につながり、横浜開港(1859年)の礎となった。

 幕府は国際情勢をよく分析、インドがイギリス植民地、インドネシアがオランダ植民地となり、立法・司法・行政の国家三権すべてを失ったこと、また清朝中国がイギリスと2年にわたるアヘン戦争の末に結んだ<敗戦条約>の南京条約(1842年)により、「懲罰」として領土割譲と賠償金支払いを余儀なくされたこと等を分析し、それを「他山の石」(教訓)として、<避戦>に徹し<交渉条約>を導き出した。<交渉条約>にはそもそも「懲罰」の概念がない。現代から見て不平等な面は、アメリカ外交官の下田駐在を認め、日本の外交官のアメリカ駐在を決めていない<双務性の欠如>であろう。

 27年前の講演でも、ニューグランドのすぐ近く、大桟橋の付け根の開港広場、開港資料館、神奈川県庁の辺りに設けた応接所で締結した日米和親条約の意義を強調、今の横浜の発展はここに起源すると話した。なお上掲の拙著は品切れで、その後継補正版が『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)である。

 お別れ会にはさまざまな人が集い、実業界にとどまらぬ範行さんの豊かな人脈を表していた。原三溪市民研究会(廣島亨会長)顧問の猿渡紀代子さん(横浜美術館元学芸員)もその一人。三溪園が保管する稿本・藤本實也「原三溪翁伝」(1945年8月16日脱稿)を、多数の人と協力して『原三溪翁伝』(思文閣出版、2009年11月)の刊行にこぎつけた折の主要メンバーである。原三溪市民研究会は、今年の三溪生誕150周年事業においても重要な一端を担っている。

佐藤行通ジー逝去

佐藤行通上人(俗名は弘)が白寿を迎え、お会いしたいと思っていた矢先、今年の3月1日、肺炎で亡くなられた。1918(大正7)年12月5日、秋田県生まれ、99歳と3か月。

我々は佐藤上人(しょうにん)と呼ぶ代わりに、尊敬と愛情を込めて佐藤ジーないし、ただジーと呼んでいた。ジーはインド語(ヒンディー語)で、男性につける尊称であり、「爺」の意味ではない。

すぐに梶村慎吾とニューヨーク在住の山崎友宏へメールを送った。後述の通り、56年前(1962年)、「広島アウシュビッツ平和行進」で33カ国を巡った仲間である。
「慎吾兄 友宏兄
佐藤ジーとお会いしたかったですね。ただただナムミョウ~ホ~レンゲキョ~。良い季節に西方浄土へ旅立たれたと考えましょう。…」

 ナムミョウ~ホ~レンゲキョ~とは南無妙法蓮華経。ジーの属していた日本山妙法寺で私の耳に深く刻まれ、折々に信者ではない私の口をついて出てくる。

ジーは陸軍航空士官学校を首席で卒業、訓練中に目に被災してパイロットの道を断念、陸軍航空通信学校に入り、のち東北帝国大学で学ぶ。1945年8月の終戦時に27歳、「降伏文書」の調印(9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号)を阻止せんと画策したが、失敗。茫然自失の日々のなか、藤井日達上人に出会い、出家した。

藤井日達上人(1885~1985年)は日本山妙法寺の創設者であり、最近の新聞で山折哲雄さん(宗教学)が書いている。「…日蓮宗左派過激派のリーダー、藤井日達上人…は、昭和6(1931)年、単身でインドに渡り、題目を唱える伝道をはじめて、ついにガンジーとの会見にこぎつけた破天荒の荒僧だった。近代の日本宗教史の上では、まさに異端中の異端児で…」(山折哲雄「私の履歴書」㉕ 日本経済新聞2018年3月25日)。

藤井上人やジーと初めてお会いしたのは1960年。安保反対闘争、原水禁運動、平和運動に邁進、カーキ色の法衣を纏い、団扇太鼓を叩きながら街頭行進する雄姿があった。

そこで知り合った林達聲上人、渋谷保教上人、菊池行広庵主ほか、多様な背景・前歴を持つ僧尼たちの、大学や学者の世界にはない考え方や感性に触れたことも、私のかけがえのない財産となっている。

安保闘争の敗北の中から「広島アウシュビッツ平和行進」が組織された。藤井上人の計らいにより、連絡事務局とした東京九段の日本山妙法寺に友人・知人が詰めて、連絡や広報活動に当たった。

掲げたスローガンは、「広島は核戦争を阻止するための象徴であり、アウシュビッツは戦争による非人道的行為をくり返さないための象徴である。広島とアウシュビッツは平和への道標である。No more Hiroshima, never again Auschwitz」。

アウシュビッツをめざす平和行進の団長がジーで、出発時(1962年)に44歳。他のメンバーは年齢順に、私(特定の宗教を持たない)が26歳、山崎友宏(カトリック)が24歳、梶村慎吾(プロテスタント)が23歳であった。終戦時は小学生と未就学児で、ジーとは親子ほどの年齢差である。この四人組は、父親と三人のドラ息子のような関係でもあったが、よく「三蔵法師と三匹の従者」に譬えられた。

1962年2月6日に広島を出発、上掲のスローガンを掲げて、アジア・東欧を行進、翌1963年、1月27日のアウシュビッツ解放記念日に収容所跡地に到着した。その後、西ヨーロッパまで足を伸ばし、ソ連・中国、計33ヵ国を経て帰国したのは、16ヵ月後の1963年6月である。準備過程から出発、帰国までの約3年間、我々四人は文字通り寝食と苦楽を共にした。

歴訪中、会計担当は山崎、写真撮影は梶村、記録をとり記事を書くのは主に私で、電送手段がなく、各地で印画した写真と記事を航空便で送り、これが連絡事務局経由で新聞社等に配信、掲載された。
帰国後、この体験の一部を加藤祐三・梶村慎吾『広島・アウシュビッツ-平和行進青年の記録』(弘文堂 フロンティアブックス 1965年)として公刊した。

4月18日(水曜)、茨城県鉾田市のジーの庵で行われる四十九日の法要に梶村と共に参列した。あいにくの冷たい雨の中、最寄りの駅まで佐藤昭子庵主が迎えにきて下さり、到着すると、なんと酒迎(しゅげい)天信上人がおられる。あの56年前、インドの日本山妙法寺の仏舎利塔のある王舎城(ラージギール)でお会いし、コルコト(カルカッタ)を経て南インドへ向かう平和行進を共にした。

祭壇中央の仏像のもとに「白寿 藤井日達 昭和59年」と記したジーの師の色紙と写真、立派な目鼻立ちのジーの遺影と位牌、そして酒迎上人の筆になる「佐藤行通院日弘上人位」の文字。

法要は、酒迎上人と昭子庵主が執り行った。上人は別府道場(寺)を守りつつ全国を飛び回る、矍鑠たる92歳。この日も慌ただしく一人で札幌へ向かわれるという。 

庵主と梶村の三人で、ジーの社会的功績や人間的魅力を語り合った。奇しくも藤井上人と同じ数え百歳で逝ったジーの人生には、目ざす理想と揺るぎない信念があった。

30余年にわたりジーと生活を共にし、最後を看取られた庵主の言葉が心に残る。「…慌ただしく旅立たれ、海外に出かけるときも同じでしたから、いまにも帰ってくるような気がします。…」
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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