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清談会(2020夏)

 清談会(せいだんかい)は横浜市立大学教員OBの小さなグループで、夏と冬の2回、議論と懇親の会を開いている。現在のメンバーは、敬称略の年齢順に穂坂正彦(医学)、私(歴史学)、丸山英氣(法学)、小島謙一(物理学)、山本勇夫(医学)、浅島誠(生物学)の計6名、全員が昭和10年代生まれである。詳細は本ブログの「清談会(2019冬)」(2019年1月6日)や「清談会の定例会」(2018年1月5載)を参照されたい。

 全員が専門を異にする。共通するのは(1)専門分野にとどまらず広い知的関心を持っていること、(2)大学という学問の府をいかに自由闊達な知の展開の場にするかに情熱を持ち、(3)地域・国・人類と地球の未来に思いを馳せていること、あたりであろうか。

 最初の会合は2005年12月。以来15年、今回が記念すべき30回目である。そのつど事前に話題提供者を決め、食事と酒の合間に耳を肥やし、やがて侃々諤々、時に脱線の議論へ。

 今回は新型コロナウィルスのため外出自粛がつづき、予定の6月20日(土曜)の開催が危ぶまれたが、徐々に解除の方向へ進み、政府も都知事も、6月19日(金曜)以降の休業要請を全面解除すると発表していた。

 偶然とはいえ、開催予定日の1日前の自粛解除である。私もそうだが、メンバーにとっても3か月半ぶりの会食・談笑の機会であったようだ。10余人座れる大きな円卓に半分の6人、部屋も大きく、換気も良い。

 清談会の命名者で永年幹事の小島さんが、日程調整から場所の決定、会計までを担ってくれる。今回は前日のうちに、「明日の清談会ですが、念のため家を出る前に検温をおねがいします。37.5℃以上の方はご連絡ください。よろしくお願いいたします」とメールが来た。

 2017年冬の第25回からは新しいテーマ「各専門分野の10年後を予測する」と定め、小島、穂坂、浅島、私、山本、丸山と一巡、30回目の今回からは話題提供者だけを事前に決め、テーマは本人に任せる従前のルールに戻った。トップが最年長の穂坂さんである。

 配布資料によるとテーマは<死生学>。全メンバーに避けて通れぬテーマである。丁寧なA4×4ページのレジメと5ページ目の参考文献(著書)が16点、医学研究者・臨床医としての鋭い学問的アプローチである。

 穂坂さんは、横浜市大で医学教育の一環として<死生学>に関心を持ち、泌尿器科の専門医、医学部長等の経験を重ねて、その後は船医として多数の患者を診てきた(2017年1月6日掲載「船医、この10年」)。こうした体験にも裏打ちされた<死生学>である。

 次のように始まる。

 死を意識することが自己確信を通じて「良く生きる」ことを導く。すなわち死について学ぶことにより、同時に「生きる尊さ」が再発見される。
 死についての探求は、学問としても哲学や宗教学のみならず、生物学、医学、法学、工学の様々な分野で独自に行われきた。死生学は、これまでにない範疇で死を考察するものではない。むしろ、その範疇を取り去り、限定のない、あるがままの現実の死を考察するものである。

 ついで先行研究をたどる学説史を、研究者別・時代別に8つ掲げる。それに付した穂坂さんの説明から一部を引用しつつ紹介したい。
 (1)エリー・メチニコフ(Ilya Mechnikov)、ロシアの微生物学者、動物学者。生命科学を補完する学問としてThanatology(ギリシャ語のタナトス=死と、ロゴス=学問を結びつけた造語)を提唱、研究対象として死者のみならず、死に行く者、老い行く者の生命研究を試みる。“The Nature of Man”1903を刊行。「腸内の腐敗菌増殖が老化を促す」という仮説を立て<ヨーグルト不老長寿説>も唱えた。
 (2)ロズウェル・パーク(Roswell Park)が1912年、「Thanatologyは生の本質と原因に関する確かな考察」と定義する。
 (3)ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)。オーストリアの精神医学・精神病理学者。『戦争と死に関する時評』(1915年)、『死別悲嘆の研究』(1917年)、『幻想の未来』(1927年)、『精神分析概説』(1940年)等。
 (4)マザー・テレサ(Mather Teresa)。インドのコルコト(カルカッタ)に1952年、<死を待つ人の家>を設立した。
 (5)ソンダース(C.M.S.Saunders)。1967年、現代ホスピスの始まりとなるSt.Cristopher’s Hospiceを設立。
 (6)P・アリエス(Philippe Aries)。フランスの歴史家。『死の五つのモデル』(1977年)、成瀬駒男訳『死を前にした人間』(1990年 みすず書房)等。
 ① ギリシャ・ローマから12世紀頃までの<飼いならされた死>、②ルネサンス時代の<自分自身の死>、③その後の<遠くて近い死>、④18~19世紀の<他者の死>、<美化された死>、⑤死を医療従事者という他者に委ねた20世紀の<死のタブー化>。
 (7)キューブラ・ロス(E.Kubler-Ross)、精神科医として牧師とともに終末期患者200名以上をインタビューし、死に行く人に関わる周囲の者の取るべき態度を考察した。”On Death and Dying”1969.(鈴木晶訳『死ぬ瞬間 死とその過程について』中公文庫 2001年)を発表。
 死の5段階説=①否認、②怒り、③取引、④抑鬱、⑤受容。
 (8)フランクル(V.E.Frankl)。精神医学・心理学者でフロイトの弟子。自身もアウシュビッツに収容され、<死を意識せざるを得ない人々>を描いた『夜と霧-ドイツ強制収容所の体験記録』(1947年)を発表。

 これらのうち(6)P・アリエス『死の五つのモデル』は歴史のなかの<死の概念>や歴史のなかで変化する<死生観>を探る。5段階のうち⑤死を医療従事者という他者に委ねた20世紀の<死のタブー化>の現代においては、「死の瞬間あるいは死に行く過程の持続期間を、神や病、自然に任せるのではなく、医療が決定する義務を負う事態となった」と述べる。

 つづけて<死の定義>の変遷に触れ、「<脳死>は社会的合理性を考慮し必要性に導かれて決定された<死の定義>である。すなわち臓器移植のための新たな<死の定義>である。それゆえ今後、再生医療等の発展により脳死の考察は不要となり、<新たな死の定義>が必要となる可能性がある」と述べる。

 ついで(7)のキューブラ・ロスは、「死を語れる者は生きている人間のみである。<死に行く者><死を意識せざるを得ない者>の心理を精神医学的に語る。死に行く人がたどる<死の5段階説=①否認、②怒り、③取引、④抑鬱、⑤受容>を明らかにすることにより、周囲の者(家族や医師・看護師等)が取るべき態度を考慮した死の語りや適切なケアーが、死に行く者を成長させる」と主張する。

 5段階の最後の<受容>とは、「死が避けられないという事実を率直に受け入れる態度。絶望からの諦めではなく、為すべきことは為し終えた休息の時。…<受容>の段階で得られるものは<落ち着き><安らぎ><威厳>であり、変容した価値観による新たな生の意味である。大多数の患者はこうして恐怖や絶望のない<受容>のうちに死に至る」。

 さらにキューブラ・ロスは次のようにも言う。「自らの信仰によって救われる人は真の無神論者と同じくらい、ほとんどいなかった。何らかの信仰を持ちつつも、その信仰は葛藤や恐怖を取り除くには十分とは云えない」。これは意味深長である。

 穂坂さんが一瞬沈黙したのを見計らって、さっそくメンバーが口を開く。「世代・宗教等で死生観は異なるのではないか」。「死の恐怖は<予告死>と<突然死>とでは違うのか」。「死生学とは医学としての関心であり、個々の死生観と同じではないと理解して良いか」…「医学の進歩(ロスの言う時代の変化)で死生観は変わると思う。<再生医療>とはパーツ(部品=一部の臓器)を新しいものと交換する医療で、オランダでは90歳以上には治療しないことにしている。…自分はピンピンコロリを望んでいたが、家内の死を体験して以来、<予告死>を望むようになった」等々。

 5ページの参考文献16点のなかに異色なものが1点、梅原猛『日本人の「あの世」観』(1993年 中公文庫)である。「この本は?」と問うと、私から教えてもらったと答えた。本書は縄文時代以来の日本人に底通する死生観を描いている。簡潔に言えば<この世>と<あの世>の間の<自由往来>説で、私には強く印象に残る1冊であった。

 各人各様、通底するものはありつつ、意見・見解・感想が飛び交う。そこに小島さんが切り込んだ。「穂坂先生の講話をめぐる議論は際限がない模様なので、メールで事前にお知らせしたとおり、この間の新型コロナウィルス感染の影響やら感じ方について話してほしい。お隣の山本先生から時計まわりで…」

 山本さんは開口一番「去年の話題で取り上げた感染症が、これほど早く迫ってくるとは思わなかった」と言う。昨年夏の山本報告は「医療の近未来」。記憶では「治療中心から、治すだけでなく病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療へ移行」という内容であった。

 改めて昨年の記録(本ブログ2019年7月29日掲載「医療の近未来」)を見ると、目次に次の5項目が掲げてある。(1)医療ニーズの変化、(2)診断、(3)治療、(4)疾病構造の変化、(5)最悪のパターン。この(4)には「がん、循環器疾患、感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」が並ぶ。
 
 山本さんによれば、医師は(2)と(3)の分野でのテクノロジーのメリットを活用し、その活用で得た時間を他の側面に力を注ぐべしとして、筆頭の「がん、循環器疾患」は治療法が確立したため除き、残る難題の「感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」に注力すべしと言う。

 次が私の番である。「新型コロナウィルスの感染防止の手順と方法は国により異なることを前提として、外出自粛やロックダウンと次々に手を打ってきたが、経済の回復とのバランスが大切として世界的に規制緩和の方向へ向かい始めているが、私の見るかぎり、これからの方がはるかに難しいのではないか」。
 
 「その一つが<水際対策>と呼ばれる国家間の移動の禁止、すなわち入国制限=<閉国>である。これは事実上の国交断絶に等しく、歴史用語の<鎖国>ではなく、史上初の世界規模にわたる<閉国>と呼ぶに相応しい。いま日本は世界111カ国からの入国禁止(<閉国>)を実施している。そして近い将来の入国制限緩和(<開国>)の対象国としてタイ、ベトナム、オーストラリア、ニュージーランドの4ヵ国が挙がっているが、相手国の合意まで紆余曲折が予想される」と述べた。

 メンバーの談笑はまた拡散し、「<個人は死ぬも法人は死なず>というが、個人の死と国家・民族等の<集団の死>をどう考えるか」へ移り、はたまた世界史の教科書に引用されている<愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ>へ飛ぶ。これはドイツの宰相オットー・フォン・ビスマルク(1815年-1898年)が「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む」と述べたものを、日本人好みの格言らしく改造したものである等々。<百家争鳴>ならぬ<六家争鳴>!。
 
 3時間が瞬時に過ぎ去る。<新型コロナウィルス>に関する発言は私の番でお開きの時間となった。恒例の集合写真を撮る。<生と死>を見据えつつ、また元気で再会したい。
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小林學さんの想い出

 小林學(こばやし まなぶ)さんが、令和元(2019)年11月24日(日曜)、ご自宅で逝去された。享年87。在横濱ルーマニア名誉領事でもあられた。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 喪主は静子夫人。通夜が11月30日(土曜)、告別式は12月1日(日曜)、関内ほうさい殿(横浜市中区)で執り行われ、私は告別式に参列した。

 小林さんと初めてお会いしたのは2000(平成12)年ころ。横浜市立大学の学長室にお見えになり、市大の英語の教材開発等にかかる経費をひきつづき支援したい、と言われた。大学に思いを寄せてくださるのは大変に有難い。支援は理系・医系の教員に企業等から入るのが一般的で、個人による英語教材開発のためという趣旨は珍しい。

 「…これからの時代、学生さんたちが社会に出てから英語で苦労しないように、学生時代にしっかり教えてほしい、その一助になれば…」と。

 私は戦後半世紀以上も経ってなお英語教育とその教材開発があまり進んでいない現状を痛感、大学の実情や役割について考え直すきっかけをいただいた。

 2002年、学長を退任した私は時間の余裕を得て歴史研究に完全復帰、2004年3月から神奈川新聞に「開国史話」の連載を始めた(滝とも子さんの挿絵入り)。執筆にあたり歴史の現場をこの目で見たいと、横浜や横須賀の各地を歩き、その延長上に小林さんの印刷工場も見せていただいた。印刷に大量の紙を使うため紙資源の循環にはとくに気を使っていると話された。

 それから10年ほど後の2014年、私は三溪園の園長に就任、近くの住宅に小林學の表札、その横に<在横浜ルーマニア名誉領事>とあるのに気づいた。さらに驚いたのは、もう一つ並ぶ表札に伊波俊之助とある。まさか。

 伊波俊之助(いなみ としのすけ)とは、旧知の横浜市会議員・伊波洋之助さんと一字違いである。三溪園で聞いて、洋之助さんのご子息が俊之助さん(現横浜市会議員)で、小林さんの女婿と分かった。

 その3年後の2017年、俊之助さんが伊波洋之助著『平成に活きた市会議員 伊波洋之助小伝』を届けてくださった。横浜市会議員を引退されて2年後、の刊行で、市議7期28年を務めた記録と回想である。

 同じ2017年、在横浜ルーマニア名誉領事館 伊波美緒の名で入ったメールに「…三渓園に寄贈したいものがあり、そのお願いです。…父が私の生まれたときに用意してくれた、とても高価な七段飾りの雛人形です。サイズが従来のものより大きめの人形とあって、家に飾るのはそれなりのスペースが必要なため、大切に飾っていただけるところがあればお渡ししたいと考えております。…もし可能であれば、備品をこちらで買い換えたうえで寄贈させていただければ有難いのですがいかがでしょうか。外国人観光客も日本の文化に喜ばれると思います。」と有難い申し出である。美緒さんは小林さんのご息女で、伊波俊之助夫人である。

 すぐ園内で検討したが、三渓園には雛人形が5セットあり、収蔵スペース等の都合もあり、残念ながら頂戴するのは難しいとの結論になった。すると「…4月に父がルーマニアへ行く予定をしておりますので、ブカレスト大学の日本語学科へ寄贈しようかと思います。…日本の文化に感動してくださることでしょう。」とのお返事。最適の寄贈先であったと思う。

 また小林家がルーマニア新任のヨシペル大使(女性)ご一行を三渓園へ連れてこられたことがある。当日は、小林さん自らが先導し、豊富な知識を交えて誇らしげに三溪園を語ってくださった。

 「…1859年に開港した横浜(村)には全国から人びとが集まり、新しい街を築きました。その一人が埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎で、生糸輸出で富を得て、街づくりに貢献します。獲得した貴重な外貨は、お雇い外国人雇用の財源とすることもでき、たんに横浜だけでなく、日本の近代化にも貢献しました。善三郎の孫娘と結ばれたのが、三溪園を創った原富太郎(三溪)。…

 …善三郎が埼玉出身、富太郎が岐阜出身です。<三代住めば江戸っ子>と言われますが、横浜は<三日住めばハマッコ>と言います。こうして<進取の気性>に富む人たちが横浜を創ります。三溪園造りにかけた三溪さんの情熱はもちろん、その類まれな美的センスに感服しています。…」

 ヨシペル大使は小林さんの話に目を輝かして頷いておられた。大使には翌2018年3月にも再会することができた(本ブログ2018年3月12日掲載「女性駐日大使ご一行の三溪園案内」)。女性駐日大使のなかでヨシペル大使の三溪園観は群を抜いており、小林さんの献身的な友好事業がルーマニアとの貴重な架け橋となっていることを深く思った。

 三溪園の近くで小林さんと行き会うこともあり、買い物へ行かれたのか、手に袋を下げ、悠然と歩いておられた。ちょっと立ち話。

 小林さんが私の5歳年長で、敗戦時に中学2年生だった軍国少年が民主教育とどう折り合いを付けたかを語られ、私の方はまだ国民学校(小学校)3年生で、群馬県への学童集団疎開からやっと東京の親元に戻れたものの、食糧難で、素人農業を始めた父を手伝った日々を語る展開になったことも。

 またルーマニアの近況についての時だったか、私は1963年にルーマニアを訪れていて、首都ブカレストの変貌、また<東欧>と一括される地域の多様性について等々の長話になったことも。

 そして2019年、小林さんの訃報。知らせてくださったのは、前年に洋之助さんを彼岸へ見送ったばかりの俊之助さんであった。(本ブログ2019年2月6日掲載の「伊波洋之助さんを偲ぶ」)

 美緒さんにお願いして、『タウンニュース 中区・西区版』2014年12月4日号を送っていただいた。小林さんを「…中世の面影を残す世界遺産や美しい自然に囲まれた東欧の国、ルーマニア。同国政府から2001年に在横浜名誉総領事に任命された。」と伝えている。

 同紙のインタビューに答えて、「実はルーマニアは大変な親日国でね。日本でルーマニアといえば、ドラキュラが有名ですが、友情に厚く、ラテン的な情熱も持った素晴らしい国ですよ」と、温和な語り口でかの国での思い出を懐かしげに語る。同紙はまた小林さんの人生を次のように報じている。

 〇…生まれは横浜市鶴見区。理系大学を目指していたが、高校時代に結核にかかり4年間床に伏せた。「人生のレールから外れることになり、これで終わりかなと諦めかけた」。そんな折、アメリカから輸入された空き瓶を再利用するために洗うアルバイトで発見したのがシリコン樹脂。「これを建物の防水・防腐の塗布剤として使えたら」と研究開発し、会社を設立。これが成功し、その後も機械製造や輪転印刷、映像制作、学習教材の製作販売など多くの事業を手掛けてきた。」

 そしてルーマニアとの出会いについて次のように言う。

  ○…ルーマニアとの出会いは1990年。代表を務めていた映像制作会社で前年に起きたルーマニア革命を追うドキュメンタリー番組を制作。革命後の取材は混迷を極めた。しかし、国営放送のトップに紹介なしで飛び込み協力を得るなど、のちに続く人脈を築き日本のメディアが伝えられなかったルーマニアの真の姿を報じた。これまで約10本のルーマニアに関するドキュメンタリー番組を制作したほか、同国での国際音楽祭の審査員や大学での講師、孤児院での奉仕活動など長年の貢献が認められ名誉総領事に選ばれた。

 告別式では、ご家族との心温まるスナップ写真が次々と放映された。

 ここに頂戴した「懸命に歩んだ父の道のりを偲んで」と題する<家族一同>の「感謝」の一文がある。

 若かりし頃に戦争を経験し 大学入学の時期に結核を患った父 周りが進学していく中 病床にあって何も出来なかった 当時のもどかしさが 父の気概溢れる行動力と高い志を築き上げたのかもしれません その後 何もないところから印刷会社を立ち上げ ご縁を大切にし 杜を守りつつ 様々な分野に挑戦し続けてきた幾歳月 ルーマニアとの縁もその一つでした 歴史的背景から交流が困難だったルーマニアとの架け橋になりたいと名誉領事となってからは より一層友好関係に尽力しておりました 人が好きで どこへ行っても皆に親しまれる父の人柄もあってか 現地でも多くの方々に慕って頂いたものです 確固たる意思と強い向上心を胸に 時に周りを巻き込みながら 新しい風となって道を切り開いた そんな父を心から誇りに思います 全力で駆け抜けたその人生を讃えて 今は感謝の気持ちで見送ります  ~家族一同

 ついで静子夫人の挨拶。

 夫 小林學は 令和元年十一月二十四日 八十七歳にて その生涯に幕をおろしました。
 人生の途上で出逢い お力添えくださった皆様へ 賜りましたご厚情に厚く感謝申し上げます 本日はご多用の中 ご会葬を頂き誠に有難うございました 略儀ながら書状をもってお礼申し上げます    

 小林學さんと伊波洋之助さんを偲びつつ、謹んで小林・伊波ご両家のご多幸をお祈り申し上げる。

清談会(2019冬)

 清談会とは、横浜市立大学教員OBの団体で、夏と冬の2回、議論と懇親の会を開いている。最初が2005年12月、永年幹事の小島謙一(敬称略、以下同じ)が作成した「清談会の開催日時」によれば、毎年夏と冬に会合を持ち、今回の2019年12月29日開催が29回目になる。

 そのつど事前に話題提供者を決め、食事と酒の合間に耳を肥やし、やがて侃々諤々、時に脱線の議論がつづく。現在のメンバーは6名、年齢順に以下の通りである。

 穂坂正彦 医学・泌尿器科専門医、元医学部長、退職後に船医を10年つとめた。昭和11年東京生まれ。
 加藤祐三 歴史学・アジア史、元国際文化学部長、元学長、前都留文科大学長、現国指定名勝三溪園園長、昭和11年東京生まれ。
 丸山英氣 民法・区分所有法、千葉大学へ移籍、同大で学部長、のち中央大学法科大学院教授、2004年より弁護士、昭和13年長野県生まれ。
 小島謙一 物理学、元理学部長、現横浜創英大学学長、昭和16年群馬県生まれ。
 山本勇夫 医学・脳外科、元市民総合医療センター病院長、横浜市立脳卒中・神経脊椎センター院長を経て、現木病院長(名古屋)、昭和18年静岡県生まれ。
 浅島誠 生物学・発生学、1993年に東京大学教養学部へ移籍、同大で学部長・副学長、東京理科大学副学長を経て、帝京大学学術顧問・特任教授。昭和19年新潟県生まれ。

 全員が専門を異にする。共通するのは(1)専門分野にとどまらず広い知的関心を持っていること、(2)大学という学問の府をいかに自由闊達な知の展開の場にするかに情熱を持ちつづけ、(3)地域・国・人類と地球の未来に思いを馳せること、あたりであろうか。

 第25回からは新しいテーマ「各専門分野の10年後を予測する」を定めたので、これ以降は本ブログで欠かさず記録を掲載してきた(本ブログの2018年1月5日掲載「清談会の定例会」)。これからも<主観的議事録>をなるべく客観的に綴っていきたい。

 第25回の報告は、言い出しっぺの小島「自然界の4つの力」と穂坂「AI(Artificial Intelligence人工知能)と医療、その10年後」である。これ以来、第26回が「生命科学の行方」(2018年8月17日掲載、浅島報告)、第27回が「10年後の歴史学」(2019年1月7日掲載、加藤報告)、第28回が「医療の近未来」(2019年7月29日掲載、山本報告)とつづいた。

 今回が丸山英氣「マンション問題の現在と課題」である(明示的に書かれたテーマ名ではないが、内容から判断して私が命名した)。参考として資料(1)丸山英氣「マンションは生き残れるか!?-マンション問題を斬る-」(『Evaluation』誌No.70)、資料(2)神戸における丸山の講演レジメ「マンション法の現段階」の2点が配られた。

 資料(1)は、最近のマスコミ報道で都市、不動産、マンションの将来に関する不安の声を取り上げる。例えば日本経済新聞社編『限界都市-あなたの街が蝕まれる』(日本経済新聞社、2019年)、朝日新聞社取材班『負動産-マイナス価格となる家と土地』(朝日新聞社、2019年)等。

 都市住宅の代表であるマンションについて、いちはやく問題提起したのが米山秀俊『限界マンション-次に来る空き家問題』(日本経済新聞社、2015年)で、進む建物の老朽化、住民の高齢化、その放置によるスラム化を挙げる。

 具体的には二つの<老い>、すなわち①建物の老い、そこから生じる賃貸化、空室化と、②区分所有者の老い、そこから生じる管理の困難を指摘し、その先にはマンションにも空き家が増大し、<限界マンション>の状況に達し、建替えはできず、このまま放置すると区分所有という制度は崩壊すると述べる。

 さらに山岡淳一郎『生きのびるマンション-二つの老いを越えて』(岩波新書、2019年)を紹介し、所有者の所在不明、連絡先不通(空き家)、そして団塊の世代が75歳の後期高齢者となる<2025年問題>を取り上げる。ほかに浅見泰司・齊藤広子編『マンションの終活を考える』(プログレス、2019年)等を掲げる。

 こうした最近の<悲観論>的な論調に対して、丸山は言う。「マンションという仕組みは不合理で悲観につながるか、…マンションに代わる仕組みはあるのか、…マンションの将来は悲観に満ちているのか?」

 本稿「マンションは生き残れるか!?」は、上記の「1 問題の所在」についで、「2 マンションの誕生と生成、「3 建物の老い」、「4 区分所有者の老い」、「5 空き家の増加、「6 借地権マンション」、「7 小規模マンション」とつづく。

 このなかから重要と思われる点をいくつか取り出して掲げたい。
 (1) 我が国でマンション(集合分譲住宅)が出現した昭和25(1950)年ころ首都圏の人口は約1000万人であったが、その65年後の平成27(2015)年には3800万人と4倍近くに増えた(「土地はだれのものか」研究会編『土地はだれのものか-人口減少時代に問う』(白揚社、2019年)。その受け皿がマンションであり、1950年に住宅公団が設立され、当初は賃貸が主であったが、1960年からは分譲マンションが主体となった。
 (2) 1962年に区分所有法が制定され、1970年には住宅金融公庫による公的融資が利用できるようになる。ディベロッパー(民間分譲業者)も成長し、都市銀行等も住宅ローンに参加するようになる。2017年現在、マンションは644万戸、その居住人口は1500万人余。マンション居住者は全国民の約10%、首都圏では22%、東京では27%にあたる。
 (3) 区分所有という制度の核心は、建物の一部に所有権を附与し、そこに抵当権等の担保権をつけることができ、そこから金融を得られるということであり、公団の設立は、この視点から評価すべきとする。戦前までの借家制度に代わり、若い人たちの地方から都市への移住の受け皿となったのがマンションである。(ここから外国との比較が述べられるが、ここでは省略する)
 (4) 戦後に誕生したマンションの生成のなかで、問題の発生は次の4段階を踏んだ。①日照問題、②瑕疵問題、③管理問題、④建替え問題(敷地売却問題)。なかでも最近のマンション戸数644万戸のうち旧耐震基準に基づくものが104万戸、そして築40年超が73万戸で、20年後には約5倍になる。それにもかかわらず、今まで立替を実現したマンションはなんとわずか237件(戸数は不明)に過ぎない。
 (5) それには容積率の不足(既存不適格)、相続等による所有者の確定が困難、建替え議決(5分の4以上)の難しさが伴うからである。そこで建替えに代わって敷地売却制度があるが、特定行政庁による売却の必要性の確定(建替え円滑法の101条第1項)を受けなければならず、そのハードルは徐々に低くなるとはいえ、困難にはちがいない。

 だんだんに法律の専門性の方向へ入りこむ。法学者であり弁護士としては当然であろう。しかし素人にはかなり難しい。そこに医者の山本が一般には聞き慣れない<ジェントリフィケーション>という単語を使った。アメリカでよく見られる貧民街の高級住宅化(gentrification)を意味する。これは個々のマンションの建替えとは異なり、都市再開発の一形態で、貧しい人を追い出すことから大きな社会問題となっている。

 議論が迷路に入りこみそうになったと思い、私は単刀直入に尋ねた。標題が示す「マンションは生き残れるか!?」の結論は端的にイエスなのかノーなのか、と。丸山は答えた。「イエス、生き残れる。そのための手法を開発するよう知恵を働かせなければならない」。

 マンションが生き残るための具体策の一つとして丸山が提案するのは、マンション管理の仕方である。管理組合が管理するのが一般的な仕組みであるが、理事等の役員の高齢化により、なり手がなくなれば管理は危機に瀕する。それに総会出席率は平均で10%ほどときわめて低い。

 そこで丸山は提案する。「管理を専門家にまかせ、区分所有者はその監視をするということに切り替えたらどうであろうか。このことにより、管理は長期的視野に立ち、厳格に行うことができる」と。

 この提案は思いつきではなく、種々の法的根拠を挙げる。とくに丸山の講演レジメである「資料(2)マンション法の現段階」がそのために用意されたものだが、マンション法の変遷を整理し、①昭和37年区分所有法にはじまり、②昭和58年区分所有法、③昭和58年中高層共同住宅標準管理規約、④平成12年管理適正法、⑤平成14年区分所有法、⑥平成14年建替え円滑法、⑦平成27年建替え円滑法のそれぞれの特徴を掲げる。

 さらに<被災区分所有法>と<損害賠償請求>とつなげ、「5 管理組合による管理の反省」のなかで<第三者管理の導入>を提案する。いっそう深く法の森に迷い込みそうである。

 議論は「マンション問題の現在と課題」にとどまらず、第2部ともいうべき課題に入って行き、久しぶりに3時間を超え、9時過ぎに解散した。

 第2部の課題は大別して、(1)従前からの継続である「AIの進化とその暴走をいかに阻止するか」であり、(2)「日本の人口減少をどう考えるか」である。

 第1の「AIの進化とその暴走をいかに阻止するか」は、一筋縄では対処できない。清談会のメンバーだけでは限界があり、外から専門家を呼ぶ必要も出てくるかもしれない。あるいは従来のままの親睦会の性格を継承するか。

 第2の「日本の人口減少をどう考えるか」については、生命科学の浅島が日本の人口減少を嘆くばかりでなく、現在の総人口1億2615万人から、今後の目標値を8000万あたりに置くとする見解を示した。時間が足りず、その根拠を聞くことができなかったが、次回に期待しよう。

 私は浅島の発言から、石橋湛山(1884~1973年)の「小日本主義」(増田弘編『石橋湛山外交論集』草思社、1984年5月所収)を想起した。石橋は、戦前『東洋経済新報』により、一貫して日本の植民地政策を批判して台湾・朝鮮・満州の放棄とそれに代わる加工貿易立国論を唱え、大正デモクラシーを先導した。戦後直後に論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」において科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べている。その後も「日中米ソ平和同盟」を主張して政界で活躍した。1956(昭和31)年、保守合同後初めて本格的に実施された自民党総裁選挙を制して第55代総理大臣となった。

 ともあれ、<闘う法学者弁護士>の丸山。80歳を越えて意気天を衝くである。

シェフ秀樹

 テニス仲間には様々な職業の人がいる。テニスをしていなければ出会えなかったに違いない人、その一人がシェフ秀樹、フレンチシェフの浅川秀樹さんである。

 いつも最後まで疲れ知らずのプレーをするので、<鉄人>の異名を持つ。合間にベンチで交わす会話も楽しみの一つ。相手かまわず自分のことだけをしゃべりまくる人もいるが、シェフ秀樹はボケもツッコミも秀逸、会話(対話)の達人である。

 テニスの鉄人、極上料理の創出人、加えて会話の達人、三拍子そろったシェフ秀樹は、テニス仲間にも多い団塊の世代である。私と干支でひと回り違う。大人になってのひと回りは大差ないが、私が大学生のころは、まだ6~7歳で、棒切れを持って走り回っていた。この年齢差は決定的である。

 彼は文京区本郷で育ち、東大構内を我が庭と心得、ワルをしては守衛さんに追い回されていた。ひょっとして私ともすれ違っていたかもしれない。

 2年前のテニス仲間の忘年会で、彼の開発したフランス料理の冷凍ダシが話題となった。とくにフォン・ド・ヴォー(Fond de Veau、子牛のダシ汁)の売れ行きが好調とのこと。ついでカナダ産オマールエビの頭(これまで廃棄されていた)から採るフォン・ド・オマール(Fond de homard)も売れ行きを伸ばしている。

 ダシは感性で創り出し、商品化は食品会社勤務の経験等を活かして材料の豊富なニュージーランドの工場を使い、販路はシェフ・ネットワークを駆使して日本各地をはじめドバイ、シンガポール、バンコック、上海、ニューヨーク、ロサンゼルスと拡げて、いよいよフランス本土を攻略中とか。

 いまや各料理店で時間と手間をかけてダシを作る時代は終わりつつあり、骨等の廃棄環境も厳しくなっている。彼の創ったダシの需要はいっそう高まるであろう。

 シェフ秀樹は、若くして料理人を志し、フレンチ・レストランの見習いから、ひょんなことでスイスへ留学、修業を重ねた。

 霞が関ビル(1968年にオープンした日本最初の超高層ビル、地上36階)のレストランで皿洗いをしている時、太ったオジサンがやって来て「坊主、大変そうだから手伝ってあげようか?」と言う。

 手伝ってもらったが、狭いのでそのうち「オジサン邪魔だからどいてくれない?」と言った。とたんに調理場の空気が凍りつき、料理長が青ざめて、「坊主、この方をどなただと思っている!」の顛末に。

 「その方は当時の天皇陛下の料理長で斎藤文次郎さんでした。水曜日になると私のところに来られる。なぜ来るのか聞いたところ、お前と話していると時代の流れが良く分かる」と言われた。

 なお斎藤氏は1965(昭和40)年に株式會社司厨士會館を設立、後継者養成に乗り出し、代表取締役に就任している。ちなみに<西洋料理>を専門にする料理人を、業界の方々は<司厨士>と呼んでいる。

 そうこうするうち、なぜお前はヨーロッパに修業に行かないのかと聞かれ、逆に「どうしたら行けるのですか?」と尋ねると、斎藤さんが「俺が推薦状を書けば行ける」。「それなら書いてください!」で、あっさりヨーロッパ行きが実現。

 当時、スイスには50人ほどが修業に行っていたが、うち45人はドイツ語圏のチューリッヒやベルンなどで、ドイツ語圏ではフレンチもドイツ風になる。「お前はフランス語圏に行けるようにしておいた」と言われ、スイス西部、レマン湖畔のモントルーに送り出された。モントルーで1年、モナコで1年ほど修行して、30歳目前に帰国。

 料理人を目指すつもりが、元の会社の総料理長から「料理ができて、いろいろなことを知っている人間を紹介してくれと、食品メーカーから頼まれている。面接だけでも良いから行って」と頼まれた。

 そこで自転車にノーネクタイで気楽に行ったら、いかめしく社長、役員などがずらりと待ち構えていた。話しているうち、製品開発のアイデアが尽きていると分かり、そこにあった白板を使って約1時間、時代の変化や今後に必要な製品の説明等をして帰ってきた。

 その後、すっかり忘れていたが、採用の電話が来た。入るつもりがないと伝えると、担当者は、今更そんな事を言われても困ると粘る。仕方がないので、ひとまず入社し、半年もしたら調理場に戻ろうと考えていた。

 ところが面接の時に話した新製品の材料買付などが始まり、辞めるに辞められなくなった。加えて、営業マンの教育、営業などに関わるうち、赤字会社は儲かる会社へと変わっていく。

 その後、別会社へ移り、ここでも赤字の黒字転換に成功。ついで食材輸入販売会社に転職。広くフランスの生産地、レストラン、ホテルなどを回り、実地で得た食の知識や情報を伝えながら販売しているうちに名前を知られるようになる。

 修業中の料理人は料理の勉強だけで精一杯で、近くに有名な産地などがあっても行く暇がない。そこで食材の背景や見分け方などを料理人に教えることを通じて、さらに人脈が拡がった。

 「料理人、食品メーカー、製品開発、業務食材営業、業務用食材の販売ルート作り等に精通するには総合的な知識が必要です。…」

 シェフ秀樹の熱弁にさらに熱が入る。「海外では、外資系企業や価値観の違う人たちと知り合う機会が多く、人間形成にも大きく影響する。また一人の力で時代の流れは変えられないにしても、いかに変化を感じ取り、先を読むかを忘れてはならないと思います。…」

 65歳を機に退職して5年、ダシの開発・生産・販路拡大・流通を軌道に乗せるまでになった。

 今年の忘年会もダシが話題になった。横浜の老舗ホテル、ニューグランドでも採用されたと朗報が入ったからである。そのホテル新館3階の大広間<ペリー来航の間>で、私は30年ぶりに横濱ロータリークラブの卓話(テーブルスピーチ)「横浜の夜明け-条約交渉と都市横浜の起源」を行ったが、それがなんと朗報が来た日と重なっていた。

 さて、テニスプレーヤーとしての彼は、トップクラスの実力。だが太ももの裏を痛めて、2年近く踏み出しが利かずにいたことがある。それを皇居周辺のマラソン等を根気強くつづけて、自力で修復。いまはサーブ&ボレーも平気なまでにした。

 テニスの区民大会をはじめ、広い人脈を活かして他流試合を企画、こまごまとした作業も厭わない。そんな時は、お手製のスイーツをお伴に連れて来る。

 また我々の使う何カ所かのテニスコートの一つは、折々の自主管理が必要で、夏はフェンスに伸びる蔓切りや草取り、秋にはコートに積もるイチョウの落葉掃きを全員総出で行う。

 そして冬の午後からの降雪には、コートが凍り付く前に雪かきをしなければならない。いつ出動するか、その判断はシェフ秀樹の経験と勘にかかっている。

第8回ジョン万サミットin東京

 標記の会合が11月9日(土曜)、東京都文京区は本駒込の東洋文庫で開かれ、初めて出席した。ジョン万とはジョン万次郎あるいは中浜万次郎の愛称で、サミットは全国各地にある万次郎顕彰会の連携・親善をはかって開かれるという。

 東洋文庫は土佐出身の三菱財閥三代目の岩崎久彌(1865~1955年)が1924年に創設した東洋学の研究図書館で、学生時代にたいへん世話になった。旧来の閲覧室に加えてミュージアム機能を強化、カフェを併設して大改装、見違える姿に驚きつつ、2階の講義室へ向かう。

 話は半年ほど遡るが、今年5月、江東区文化センターで「NPO法人・中浜万次郎国際協会」(東京都認可、北代淳二理事長)の創立総会があり、その記念講演として「ペリー応接と万次郎」を語る機会をいただいた。漂流民となり11年後に日本に強行帰国を果たした土佐の漁師・万次郎が、ペリー来航と幕府のペリー<応接>(現在の<交渉>に該当)にいかなる影響を与えたかを主題とした(2019年7月10日掲載「ペリー応接と万次郎」参照)。

 江東区文化センターの近くに土佐藩の下屋敷があり、万次郎が11年間住んでいた。それに因み10年前に落合静男さん(当時、江東区北砂小学校長)や幅(はば)泰治さんたちが立ち上げた地域密着型の「ジョン万次郎・江東の会」(その創立記念講演は日野原重明医師)を、2014年に全国型の「中浜万次郎の会」とし、今回「NPO法人・中浜万次郎国際協会」に改組した。また幅事務局長たちの尽力により、地道な調査研究活動の成果を「研究報告」誌として刊行、すでに第9集を数える。

 講演のご縁から牧野有通さん(日本メルヴィル学会会長)と知り合い、9月8日(日曜)、中央大学駿河台記念館で開かれた「第7回日本メルヴィル学会年次大会」を聴きに行った。それというのも、15年前、私が神奈川新聞に「開国史話」を連載(月水金の週3回、計200回、のち2008年に単行本『開国史話』として同社より刊行)、そのなかに「メルビル『白鯨』の世界」として一文(2004年6月2日)を書いていたからである。

 牧野会長は挨拶で、(1)今年がアメリカ人作家メルヴィルの生誕200年にあたり、(2)6月にニューヨークで国際メルヴィル学会に出席して日本メルヴィル学会の活動を報告、(3)思えば30年前のシンポジウムで「メルヴィルと万次郎」を発表して以来の研究課題であり、(4)メルヴィルとジョン万次郎は2~3度、太平洋上の島々で実際にすれ違っており、両者は1840~50年代という<近代>の入口で生きた日米両国の同時代人である、と語った。

 この年次大会の特別講演は作家の夢枕獏「白鯨とジョン万次郎」で、高知新聞等に連載中の「白鯨とジョン万」の執筆構想や苦労話をからめて壮大な話をされたが、そこで北代さんや幅さんたちと再会した(本ブログ2019年9月13日掲載「メルビル『白鯨』の世界」)。

 そして今回の「第8回ジョン万サミットin東京」である。いただいた平田潔事務局長からのメールには、11月9日(土)のサミットが東洋文庫で、その記念講演は夢枕獏先生、11月10日(日)の万次郎忌は例年通り雑司ヶ谷霊園で行った後、追悼昼食会も例年通り万次郎終焉の地である銀座で、ご子孫(万次郎から四代目)の中濱慶和氏をお迎えして、とあった。

 5月、9月につづき短期間に3度目の再会となったのが北代さん、幅さん、牧野さんで、夢枕さん、落合静男さん、塚本宏さんとは2度目である。万次郎が引き合わせてくれたのであろう。

 ここで万次郎の略歴の一部を再確認しておきたい。文政10(1827)年、現在の高知県土佐清水市中浜(なかのはま)で半農半漁の貧しい漁師の次男として生まれた。9歳のとき父が亡くなり、母と兄が病弱であったため、幼い頃から働いて家族を養い、寺小屋へ通う余裕もなかった。

 天保12(1841)年、鯵鯖漁船の炊係(炊事と雑事を行う係)となる。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳、のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、その弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)、もう一人の櫓係の寅右衛門(26歳)、そして最年少の万次郎(14歳)である。

 寒中に船出し、足摺岬の沖合で操業中に突然の強風で航行不能となって数日間の漂流後、伊豆諸島の無人島、鳥島にたどり着いた。この島でわずかな溜水と海藻や海鳥を口にしながら143日間を生き延びる。5月9日(1841年6月27日)、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料を求めて島に立ち寄った際に発見され、救助される。
 鎖国の日本に帰国はかなわず、5人はそのままアメリカへ。翌1842(天保13)年、ハワイのホノルルに寄港。4人は下船、万次郎だけが希望してアメリカ本土を目指す。ホイットフィールド船長に気に入られ、乗組員から「ジョン・マン (John Mung)」の愛称で呼ばれた。

 ジョン・ハウランド号は、1842年、船長の故郷で捕鯨船の一大拠点のマサチューセッツ州ニューベッドフォード(フェアヘブンの隣町)に帰着、万次郎は船長の養子に迎えられ、1843(天保14)年、オックスフォード学校、1844(弘化元年)年、バートレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。寝る間も惜しんで勉学に励み、首席となり、民主主義や男女平等等、眼を見張る概念に触れる一方、人種差別も経験する。

 卒業後は捕鯨業に従事、投票で副船長に選ばれる(投票では2人が1位になったが、年長者に船長の地位を譲った)。1850(嘉永3)年5月、日本に帰る意志を固め、資金調達のためゴールドラッシュに沸くカリフォルニアへ。サクラメント川を蒸気船で遡上、鉄道で鉱山に向かう。数ヶ月間の金鉱採掘で600ドルを得ると、ホノルルに渡って昔の仲間を誘い、1850年12月17日、上海行きの商船に購入した小舟「アドベンチャラー号」を搭載して日本を目ざした。

 1851年3月4日(嘉永4年2月2日)、帰国禁止(鎖国)の掟を破り、アドベンチャラー号で薩摩藩に服属していた琉球に上陸、番所で尋問を受けた後、薩摩本土に送られた。薩摩藩で取調べを受けるも厚遇され、西洋文物に興味のあった開明的な藩主・島津斉彬から海外情勢や文化等について問われる。
 薩摩から長崎への移送後は、長崎奉行所から長期間の尋問を受け、絵踏みにより非キリスト教徒の証明をさせられ、さらに外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩からの迎えの役人とともに土佐に向かう。

 高知城下では吉田東洋らによる藩の取り調べを受け、万次郎を同居させて聞き取りに当たった河田小龍が、その記録を『漂巽紀畧』として刊行した。

 拙著『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)の第1章「1853年 浦賀沖」の「5 ジョン万次郎の語るアメリカ」では、取調べに答えた発言6点を引用した。①歴史と地理について、②食事と酒について、③アメリカ人について、④大統領について、⑤日本に関する評判、⑥江戸の評判。

 この⑥で「江戸は世界中でもっとも繁盛の所と評判が高く、彼国の人びとは見物したがっている。江戸・北京・ロンドンの三都は世界第一の繁盛の地である」と述べている。これから大きなヒントを得て、私は『世界繁盛の三都-ロンドン・北京・江戸』(1993年、NHKブックス)を刊行した。

 万次郎はペリー2回目来航直前の1854年1月、20俵取りの御普請役として召し抱えられる。史上初の日米交渉については、上掲の拙著『幕末外交と開国』や『開国史話』ならびに本ブログ(2019年7月10日掲載「ペリー応接と万次郎」)等を参照していただきたい。ただ、交渉の場で果たした万次郎の役割については史料が少なく、今後の解明が待たれる。
 
 その後の万次郎の活躍について、簡単に挙げておきたい。1860年、日米修好通商条約の批准書交換の遣米使節通訳として渡米、ついで幕府の軍艦操練所教授(1862年)、土佐藩の開成館教授(1866年)となり、英語、航海術、測量術などを教える。明治政府により1869年、開成学校(東京大学の前身)の英語教授に任命される。著書に英会話書『英米対話捷径』(1859年)がある。

 東洋文庫の「第8回ジョン万サミットin東京」では、開会の挨拶に司会の平田潔事務局長、歓迎の挨拶に「NPO法人・中浜万次郎国際協会」の北代理事長、そして各地域の活動が報告された。

1 台湾 陳新炎氏(中国語で『約翰・万次郎傳奇一生』を刊行、紹介)
2 沖縄県 豊見城市沖縄ジョン万会 赤嶺秀光会長
3 沖縄県 糸満市万次郎上陸記念碑期成会 徳元秀雄会長
4 高知県 土佐清水市ウェルカムジョン万の会 田中慎太郎会長
5 高知県 高知市 土佐ジョン万会 アーサー・デイビス理事
6 大阪府 ホイットフィールド万次郎の会 上野貴與之会長
7 東京都 中浜万次郎国際協会 北代淳二理事長
8 秋田県 秋田市 佐藤宗久氏
9 熊本県 熊本市 吉岡七郎氏
10 特別報告 沖縄県 神谷良昌氏(沖縄ジョン万次郎会・理事、糸満市万次郎上陸記念碑期成会・理事)
和田達雄氏(糸満市万次郎上陸記念碑期成会副会長)

 記念講演会 夢枕獏氏「白鯨とジョン万」

 配布資料は(順不同)、(1)「中濱万次郎家系図」、(2)「NPO法人ジョン万次郎上陸地記念碑建立期成会の活動状況について」、(3)「(中浜万次郎国際協会の佐藤宗久氏による)今後の活動計画(案)」、(4)「第30回 日米草の根交流サミット2020 フィラデルフィア大会」のチラシ(「公益財団法人 ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根センター」(小沢一郎会長、略称はCIE)の第30回大会で、北代さん、平田さん、後述の中濱京さんが評議員、青木千佳さんが理事兼事務局長)、そして(5)『第14回沖縄ジョン万次郎会講演会』(全21ページ)である。

 これらのうち(5)『第14回 沖縄ジョン万次郎会講演会』所収の幅泰治「ジョン万次郎はどのようにして知られて行ったのか」と塚本宏「ジョン万次郎と長男東一郎の日米親善」の2つを紹介したい。

 幅さんは1937年、名古屋生まれ。学習院大学政治経済学部卒、千葉大学で工業デザインを、早稲田大学で生産工学を学び、日立化成工業で開発設計を担当。定年退職後、文化財や地域史に関心を持ち、万次郎ゆかりの土佐藩下屋敷近くに居を得た縁から、10年前に上掲「ジョン万次郎・江東の会」を落合さんたちと立ち上げ、事務局長を務めた。現在は中浜万次郎国際協会理事。

 ジョン万の生涯を追いつつ、彼が世に知られるようになった経緯を、①取調べ調書、②流布本、③本人の記録、④伝記、⑤歌舞伎・講談・演劇、⑥小説・絵本、⑦教科書、⑧TV番組・新聞、⑨解説・評論・読物、⑩研究、⑪資料館・イベント、⑫その他、に分けて収録し、的確な解説を付す。

 人間・万次郎について、幅広く全分野を網羅するほどに目が行き届いている。例えば⑤歌舞伎・講談・演劇では、明治21年新富座で公演の歌舞伎「土佐半紙初荷鑑」から現代の劇団四季「ミュージカル・ジョン万次郎の夢」まで、⑥小説・絵本では井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』(1937年)を筆頭に多数、また⑦教科書での取り上げられ方の変遷、そして⑩内外の諸研究では20数点を渉猟している。

 幅さんから頂戴した冊子「歌舞伎になった万次郎」は、上掲の竹柴其水作「土佐半紙初荷艦」(とさはんしはつにのおおふね)の台本の解説と抄訳からなり(A4×30ページの仮綴じ)、万次郎と親方の2役を演じるのが市川左団次と知ればさらに興味が尽きない。

 塚本さんは1932年、大阪生まれ。大阪大学医学部卒、明治生命保険(相)で医務部長、取締役を歴任。この経験と知見を基に万次郎と長男・東一郎(1857~1937年)についてまとめる。中浜万次郎国際協会監事。
 
 万次郎30歳の時、芝新銭座で授かった東一郎は、東京大学医学部の3回生。万次郎が3人のアメリカ大統領(28代のT.W.ウィルソン、30代のJ.C.クーリッジ、32代のF.D.ルーズベルト)から評価されていること、また万次郎に感銘を受け、東一郎と親交のあった石井菊次郎が、駐米大使時代にフェアヘブンの日本刀献呈式典に参加するなど日米親善に努めたこと、東一郎をはじめ現在の五代目に至るまで子孫たちが民間の草の根交流に努力してきたこと等を挙げる。
 
 そして「…中浜家が、先祖の万次郎への篤い敬慕の気持ちと、アメリカの二人の恩人(ホイットフィールド船長とデーモン牧師)に対する深い感謝の念に裏打ちされて、民間の草の根交流を続けてきたことは感動的というしかない。」と述べる。しっかり典拠も示されている。
 
 夕食会は東洋文庫の敷地の奥にあるオリエント・カフェで行われた。乾杯の音頭は万次郎から数えて五代目に当たる中濱京さん、富士通勤務のかたわら講演やTV等を通じて万次郎の広報に取り組み、また「公益財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念 国際草の根交流センター」の評議員を務める。
 
異なる経歴・職業の老若男女60名ほどが、立食の場を行き来しつつ歓談。稀有の傑物ジョン万に惹かれて集まった人びとの賑やかな宴であった。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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