グローバル・ヒストリー

 かなり長い周期で再会する友人・知人がいる。「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」、遠くに住む人との再会はとくに嬉しい。その一人がニューヨークのアイオナ大学准教授・牧村保広さんである。
 私が横浜市大にいた1998年、ヨーク(横浜市海外交流協会)奨学金を得た研究員として受け入れた。その後も他の奨学金を得て横浜に滞在、私の大学院ゼミにも顔を出していた。

 牧村さんは1971年、北九州に生まれ、中学の時に両親の仕事でニューヨークへ、そしてハーバード大学卒業、英国ケンブリッジ大学修士課程を経て、コロンビア大学博士課程在学中に横浜へ来た。
 出会いは、横浜にあるアメリカ・カナダ大学連合日本研究センター(現在、IUCと略称)所長(当時)のヘンリー・スミス教授(コロンビア大学)の紹介である。このセンターはアメリカ・カナダの大学が連合して作った日本語集中特訓(750時間)の高等教育機関で、創設から半世紀余、卒業生は3000人を超える。東京から横浜への誘致に私も一役買った。

 牧村さんは、1859年の横浜開港以降の生糸輸出が、関東甲信の養蚕業とどう関連するかに関心を持ち、その着眼点を評価して引き受けた。日米双方での教育と体験を基礎に、英語と日本語の史料を駆使し、横浜という場を知れば面白い歴史が書けるのではないか。それを応援するのは学者冥利に尽きる。
 また拙稿「幕末開国と明治維新期の日英関係」(2000、木畑洋一・イワンニッシュ・細谷千博・田中孝彦編『日英交流史 第1巻 政治・外交編』 東京大学出版会所収)の英訳を頼んだこともある。MacMillan社の英文版の拙稿文末には、訳者として牧村保広の名前が入っている。
 2002年、私は市大学長退任と同時に定年退職した。牧村さんもアメリカに戻り、2005年にコロンビア大学で博士号を取得した。論文名は“The Silk Road at Yokohama: A history of the economic relationships between Yokohama, the Kanto region, and the world through the Japanese silk industry in the nineteenth century”。

 2016年の夏、一時帰国しているので会いたいとメールが来た。「最近の私の研究活動は、生糸と綿布の貿易の研究をさらに発展させ、歴史的に遡り、貿易品を約12品に広げて、それを16世紀からの世界貿易に当てはめるというというものです。これは現在教えている世界史の授業を学生にわかり易くするためでもあります。そして、実はこれには加藤先生が考えたアジアの三角貿易が非常に大きな役割を果たしていますので、ぜひ先生に会ってお礼と報告をしたいのです。…2014年にNY支部でのアジア研究学会で発表したPower Pointを添付いたします」。そして東御苑を散策しつつ、彼の熱弁に耳を傾けた。

 今年の年賀には次のようにあった。「この冬は、大坂大学の秋田先生のGlobal History Seminarで講演の機会を得ました。そのペーパー(和訳は「世界史を動かした十の貿易商品:15世紀から19世紀にかけての絹・磁器・香辛料・綿布・鉄砲・奴隷・砂糖・銀・茶・アヘンの地球規模での貿易の分析」)をお送りします。英文ですが、お時間がある時ご一読いただければ幸いです。」
 Global History(グローバル・ヒストリー)は大阪大学のセミナー名だが、最近、かなり広く日本でも使われるようになった。従来の日本史(国史)に対する「世界史」とはいささか意味を異にし、世界規模の歴史学という意味からカタカナ表記である。貿易商品は世界をめぐるため、グローバル・ヒストリーに最適のテーマの一つである。

 つづけて2月、ニューヨークのレキシントン書店から、牧村さんの著書刊行に当たり推薦状を書いてほしいとメールが入り、原稿のデータが添付してあった。Yasuhiro Makimura: Yokohama and the Silk Trade, How Eastern Japan Became the Primary Economic Region of Japan, 1843-1893. Lexington Books.
 この英文版『横浜と生糸貿易』は博士論文を補正したもので、1章「近世日本の経済」、2章「天保改革の失敗と横浜開港」、3章「横浜最初の商人」、4章「幕末日本の貿易と横浜の役割」、5章「横浜とその後背地」、6章「東日本の生産者たち」と「まとめ」からなり、附録に、A「日本の輸出入」、B「総輸出の中の生糸・絹製品と茶」、C「総輸出の中の綿製品、銅、米穀」、D「総輸出に占める各商品の割合」の4つの統計がつく。

 私が書いた推薦文の趣旨は次の通り。幕末の1859年に開かれた横浜開港場は、1854年の日米和親条約の交渉地(横浜村)であり、幕府が米総領事ハリスの主張を抑えて決めた。ここからの生糸輸出は日本人生糸売込商が集荷して外商に売り込み(居留地貿易)、世界の生糸市場を席巻する。またその利益が関東甲信の養蚕地帯へ還元され、横浜は日本の貿易と産業革命の要(pivot)となった。本書はそれを体系的に示した名著である。

 9月に届いた新著は255ページ、ハードカバーで装丁も美しい。その返礼を書くと返事が来た。「私は今年の12月には日本に帰り、東京に寄ろうと思っておりますので、その時には是非お会いしたいです。…現在、16世紀から19世紀までの時代【の世界貿易】を英文で執筆していて、5章まで書き終えました。全部で10章の予定です。」
 1章が「大西洋三角貿易前の世界」、10章が「アジアの三角貿易」という大きな構想である。アイオナ大学で続けてきた講義や昨年の大阪大学での集中講義の延長上に、これを著書にしたいと意気込む。

 私は返信で「新たに大著を執筆中とのこと、嬉しく思います。40~50代は脂が乗り、身体の若さと心の成熟とがうまいバランスをとる適齢期です。大兄は46歳、まさにそのまっただ中に突入ですね」と述べ、身体の管理にも留意されたいと添えた。
 すると「…NYの郊外にいるとほぼ完全な車生活になるので、意識的に運動を取り入れないとだめですね。…妻と冬は月1回スキーに行き、春から秋はテニスを週2か週3くらいしていたのですが、現在はなにもしていません。最近はコンピューターに向かって長時間座ったあとに歩くと、体の節々が痛くなります。これからは最低でもストレッチと体操はしようと思います。」と決意表明が来た。忘れずにつづけてほしい。
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40年ぶりの再会

 今年の正月明けに、草光俊雄さんから新著『歴史の工房-英国で学んだこと』(みすず書房 2016年)が送られて来た。40年前にロンドンで出会い、以来、年賀状交換だけで続いていた。20年程前に共同研究『日英交流史』の筆者打合せ会で再会したものの、ゆっくり話す時間がなく、草光さんに対する私の印象と記憶は40年前に固定されている。

 まず表紙の装幀に目を奪われた。解説をみると、やはりウィリアム・モリスの作品で、強烈な印象を与える。彼がシェフィールド大学で工業化とデザインに関する博士論文をとったことを思い出し、まさに彼らしいと納得した。

 序文に目を通すと、「なぜ歴史を学ぶようになったのか」と切り出し、「…読者は一見ばらばらな対象のなかにひとつの共通するトーンがあることに気づいてくださるだろうか。それは歴史を調べたり書いたりすることへのよろこびである。…」と、楽し気に綴る。

 思い返せば1977年秋、私は「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」をテーマに文部省の在外研究の助成を得てイギリスへ渡った。旧知のディリア・ダヴン(中国女性史の研究者)の姉のアンナがロンドン在住のイギリス近代史研究者で、アンナから日本人がいるから会わないかと紹介された。

 クサミツという珍しい苗字、イーストエンドはスピタルフィールズ青果市場の近くにある彼の寄宿先を訪ねた。18世紀のテラス・ハウスで、絹織物工が住んでいた古い建物である。この10歳若い青年から、私はロンドンの歩き方、史料の所蔵先、学界の研究動向や人脈等について、貴重な指南を受ける。

 本書は主に歴史と歴史家に関するエッセー集である。ページをくくっていると、「…1977年の晩秋だったと思う。当時リーズ大学に滞在していた東洋史の加藤佑三さんと車で旅行をし、イングランドの東部を北から南下してケンブリッジに行った…」とある。その「佑」の字をペンで「祐」と修正してあった。もう一つ、拙著の書名にも誤記があった。

 添え状にあるメールアドレスに返礼、そこで私も草光さんの俊雄をうっかり敏雄と誤記していた。すぐ返信が届いた。「…これからメール連絡がとれますね。先生のお名前を間違えたばかりではなく、新書のタイトルまで間違えて…冷や汗です。…これも何年も年賀状だけでのお付き合いだった結果だったのかと、もっと身近な付き合いをしなければいけなかったなと、反省しきりです」。

 草光さんが誤記した拙著の書名は、正しくは『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)である。そのなかに「…よく泊めてもらったR・サミュエルの家で、彼と、彼のところに寄宿している草光俊雄の三人で、夜の明けるまで議論したことも、私にはありがたかった。…」とある。ここでは草光さんの名前を正しく俊雄と書いていた。

 草光さんの今回のメールには嬉しいことに40年前の写真が添付されており、「大陸浪人のような先生とまだ初々しい(?)私との写真で、おそらくブリストル経由でバースに出かけたときのものかと思います。…」とあった。

 追いかけるように「草光俊雄さん退職・出版を祝う会ご案内」が版元のみすず書房から届いた。「出版」は上掲の本だが、「退職」とは放送大学教授(東京大学教授退職後に移る)の定年を指す。4月5日、18時、有楽町の電気ビル北館20階にある外国特派員協会へ出かけた。

 発起人は、五十音順に、川勝平太(比較経済史、静岡県知事)、丹治愛(英文学)、長谷川郁夫(小澤書店創立者)、富士川義之(英文学)、宮下志朗(仏文学)の五氏(いずれも敬称略)。私が知るのは川勝さんだけ、40年程前、オクスフォード大学セント・アントニーズ校のセミナーに話をしに行った折、聞き手のなかにいた青年だが、残念ながら公務のため欠席、会うことが叶わなかった。

 寒さで遅れた桜が、この日を待っていたかのように満開となった。受付で手渡された出席者リスト(五十音順)の約100名のうち、識別できたのは川勝さんともう一人だけ。スピーカーとして「乾杯の挨拶」、(1)発起人1、(2)イギリスでの出会い、(3)発起人2、(4)編集者、(5)友人、(6)放送大学、(7)東大学生と区分された計18名が挙がっており、私は(2)のなかにあった。

 草光さんはイギリス近代史家である。慶応義塾大学の学部と修士課程では経済学説史を専攻し、「イギリスの歴史についてはほとんど無知といった体たらくでイギリスに出かけ…英語もほとんど出来なかった。…」(序文)。なまじ固定された狭いテーマを持たずに留学したのが幸いしたのではないか。

 本書の書名は、(4章)「歴史工房での徒弟時代-親方ラファエル・サミュエル」から取ったのであろう。近代イギリスの貧富差の拡大や労働者の実態、職人たちの政治運動等を明らかにするR・サミュエル主導のヒストリー・ワークショップ(歴史工房)運動について述べている。

 R・サミュエル(私の2歳年長)は『ニュー・レフト・レビュー』誌の最年少の編集者となった新左翼の若きリーダーで、オクスフォード大学ラスキン校のチューター等をつとめた。

 サミュエルの家に草光さんが寄宿し、その草光さんを私が訪ねたことになる。草光さんは、探求心と美的センスに優れており、期待と不安をエネルギーに前進する「初々しい」勇者のように見えた。

 上掲の「…車でイングランドの東部を南下し…」の旅行は、私が中古車を購入、「旅は歴史家の母」と言いつつ産業遺構等を巡っていたころで、このときは彼の留学先のシェフィールド大学で合流し、中世以来の農地の形状を残すオープンフィールドで有名なリンカーンを訪ねたのではないか。エンクロージャーで細切れにされた農地とは違い、広大に拡がる農地の風景に二人で見とれた。

 祝賀会は、最後に草光さんが奥様への感謝を含む挨拶をして散会となった。

 40年ぶりの瞬時の再会であったが、彼の著書を読み進め、ゆっくり懐かしい日々を思い起こしている。

梁山泊の若き研究者たち

 冷たい雨に桜の花も身を縮めていた。開花宣言から10日も経つのに、やっと3分咲きという異常気象である。年度末の3月31日(金曜)夕刻、ある送別会に出るため、東京大学の農学部正門を入り、構内を抜けて、最南にある東京大学総合研究博物館(以下、博物館)へ向かった。建物は東洋文化研究所(以下、東文研)の隣、懐徳館(前田侯の造った建物と庭園)の向かいにある。

 私の東文研助手時代は1967~72年、それから50年になることに気づき、愕然とした。そのころは総合研究資料館として、東文研と同じ建物にあった。

 そんなことを思い出しつつ、1年前に記憶を戻す。博物館地階にある大型動物解剖室で、キリンの解剖に取り組む一人の若い女性を見た。遠藤秀紀教授(獣医学、比較解剖学、遺体科学)の指導を受け、博士論文の執筆に余念のない郡司芽久さんである。遠藤さんには『哺乳類の進化』(東京大学出版会 2002年)のほか、『解剖男』講談社現代新書 2006年)や『ニワトリ 愛を独り占めにした鳥』(光文社新書 2010年)等の啓蒙書がある。

 全国の動物園から献体を受けて学術的解剖を行う唯一の大学施設が、遠藤教授の率いる教室と聞いて納得はしたものの、うら若き女性研究者が、大きなキリンの解剖に独り挑戦する姿にミスマッチの魅力があった。麒麟女を自称する。

 このキリンの解剖現場には偶然に迷い込んだのではない。マダガスカルだけに生息する夜行性サルのアイアイを中心とする動物学(サル学)の権威、島泰三さんから「キリンの解剖を見たくないか」と誘われ、二つ返事で応じた。彼はアイアイ・ファンドを主宰しており、上野動物園のアイアイ館は彼の肝いりで作られた。最近の著書は『ヒト 異端のサルの1億年』(中公新書 2016年)。

 島さんと私は、長い伝統を有する向陵テニスクラブ(以下、向陵)のメンバーである。キリンの解剖を見せてもらうことになったのも、郡司さんが学術振興会の「育志賞」の書面審査に通り、彼女がプレゼンをするので異分野の私に予行練習を聞いてくれと言ってきたのも島さんであり、彼女を含め遠藤研を巣立つ大学院生2人の送別会に参加しないかと誘ってくれたのも島さんである。

 学術振興会の育志賞とは、そのホームページによれば、天皇陛下の即位20年に当たる平成21年、社会的に厳しい経済環境の中で勉学や研究に励む若手研究者を支援・奨励するための事業の資として下賜金を賜り、それを受けて学術振興会が「将来、我が国の学術研究の発展に寄与することが期待される優秀な大学院博士課程学生を顕彰することで、その勉学及び研究意欲を高め、若手研究者の養成を図ることを目的として、平成22年度に創設」したものである。

 第7回(平成28年度)育志賞には、大学長推薦90名、学会長推薦54名(重複推薦を含む)の計130名が応募し、審査(佐々木毅委員長等9名の委員会)を経て17名が受賞した。その一人が郡司さんで、3月8日(水)の日本学士院での授賞式では、秋篠宮殿下・妃殿下の前で受賞者代表の栄に浴したという。

 彼女は幼少期から動物を飼育し、夢は動物学者、とくにキリンの不思議な佇まいに強く惹かれた。博士課程(農学生命科学研究科 農学国際専攻)の研究テーマは「偶蹄類の頸部伸長に伴う筋骨格構造の進化とその遺伝基盤の解明」であり、キリンの解剖を通じて、その構造を解明した。

 哺乳類は首の長さに関わらず頸椎数は一定、つまりヒトとキリンの首の骨は同じ7個である。にもかかわらずキリンは首を柔軟に動かし、地上の草から髙所の木の葉まで食べることができる。彼らは如何にしてこのような首を獲得したのか。答えは第一胸椎周囲における肋骨の構造や筋肉にあり、と解明した。この研究成果は、哺乳類全体の体の構造や形を決定づける仕組みの解明に貢献すると期待される、と育志賞の受賞理由にある。

 送別会場の博物館3階会議室には、遠藤教授と大学院生(修士・博士課程)の工藤光平、郡司芽久、小林沙羅、吉田将崇、今井亮太、楠見繭、風見奈穂子(進学順)の7名(男子3、女子4)に教授秘書の佐々木智恵(いずれも敬称略)。リケジョ(理系女子)の多いのが頼もしい。

 向陵からは島夫妻に加え、弁護士・弁理士の赤尾直人さん、フレンチシェフで「鉄人」と呼ばれる浅川秀樹さん、それに私の5名が参加、合わせて14名である。浅川さんが特別料理を差し入れてくれた。

 大学院生たちの扱う動物はニワトリ、キリン、アシカ、カメ、ワニ、ヘビ、モモンガとそれぞれ異なる。風貌といい情熱といい、各人の個性も多彩である。多様な動物から得られる知見を導く理論と解剖手法は遠藤さんが伝授すると同時に、遠藤さんも若い知性の格闘の経過・結果から得るものが多いと言う。

 (知的)挑戦には失敗がつきものであり、その山を幾つ超えるかで勝負が決まる。そのときに違う研究対象と方法を持つ若者たちが同じ研究室に集まることにより、教えあい学びあい、切磋琢磨することにより前へ進むことができる。

 私の脳裏に「遠藤研という名の梁山泊」のイメージが思い浮かんだ。梁山泊は宋代の『水滸伝』に描かれた豪傑・野心家の集まる場所である。遠藤研の若き研究者たちは権力奪取の野望ではなく、大型動物の進化、ひいては生命の進化(の歴史)を知ろうとする、限りない夢に挑戦する豪傑・野心家たちである。

 研究結果がすぐに応用・実用につながる訳ではないためか、研究費獲得には苦労すると遠藤さんは言う。いわゆる実学ではなく純粋な知的探求心は、これぞ大学の重要な本質の一つであるが、現今の科学研究費の配分は実学に強く傾きがちであり、それも短期に成果が出るモノが重視される。

 若手研究者の就業実態も有期(2~5年程度)が多く、将来に不安を残す場合が少なくない。先輩たちの様子から、諦めて収入の良い職に就く人もいる。郡司さんは育志賞を得たため学術振興会の特別研究員(奨励金あり)として国立科学博物館(つくば市の研究部門)に勤めつつ、遠藤研でも解剖を続けるという。後輩たちの励みになれば良い。

 年配者からは、「アシコシ ツカエ」「ツキイチ コテン」(加藤)とか「いまのうちから体を鍛えておけ。それが知能を支える秘訣」(赤尾さん)などの激励につづき、シェフ浅川の料理が披露される。トマトクリームスープ、ラタトゥイユ(南仏風野菜の煮込み)、ビーフストロガノフ、これに院生持参のチマキ等を、赤尾さん差し入れのワインとともに堪能した。デザートのフラン・マラスキーノ風味&バニラアイスクリームのフランボワーズソース添えの盛り付けの妙技には、女性たちの目が釘付けになった。

 全国の大学の幾つもの研究室で、文系・理系を問わず、若き研究者が情熱を傾けて研究に励んでいる。少子高齢社会で人口減少に直面する我が国の未来を支えるための、彼らは唯一とも言える貴重な人材群である。応援していきたい。

船医、この10年

 我らの「清談会」は、2005(平成17)年に始まり、夏と冬の年2回、定例会を重ねて来た。メンバーは横浜市立大学(以下、市大)で同じ釜の飯を食った異分野の学者たち。今日まで続いたのは、発起人で「清談会」の命名者、そして粛々と幹事をつとめてきた小島謙一さんのおかげである。

 この23回目が2016(平成28)年12月27日(火曜)、新高輪プリンスの古稀殿(中華料理)で開かれ、最初に穂坂正彦さんと私の80歳(傘寿)を祝ってくれた。穂坂さんは1936(昭和11)年1月生まれ、同年12月生まれの私の実質1年先輩である。

 今回の話題提供者は穂坂さん(医学)。市大医学部教授(泌尿器学)を退任後に就いた船医(シップ・ドクター)の体験を淡々と語った。聞き手は、年令順に丸山英氣さん(法律学)、小島さん(物理学)、浅島誠さん(生物学)、そして私(歴史学)の4名。

 穂坂さんは海が大好きなうえ、9歳先輩の市大名誉教授・西丸與一さん(法医学、『法医学教室の午後』の著者)から大きな影響を受けたと思われる。西丸さんは、市大退職後、1998年4月就航の「ぱしふぃっくびいなす」号(Pacific Venus、日本クルーズ客船社)の初代船医となった。

 以下の記述の大半は、穂坂さんの詳細な配布資料に基づく。

 穂坂さんが船医をつとめた「ぱしふぃっくびいなす」号は、総トン数:26,518トン、旅客定員:644名、乗務員数220名、客室数:283。長さ:183.4m、幅:25.0m、高さ:12階。104日間の世界一周クルーズのほか、日本近海やアジア・インド洋クルーズ、オーストラリア・ニュージーランドクルーズ等を実施している。なお世界を一周する客船は世界に10艘あり、その専属船医は30~40名で、きわめて稀有な職業だという。

 本船の船医は原則1名、看護師2名の態勢で、旅客と乗務員、最大864人の総合医療を担う途方もない重責である。乗船期間中、休まる日は1日たりともない。

 船医の業務は、(1)総合医療、(2)メンタルヘルスケア、(3)感染症の予防、(4)検疫・死亡者対応、(5)医療外業務に分かれるという。

 うち(1)総合医療では全診療科の治療と外科的処置、救急蘇生等を行う。診療所(病室2、ベッド数3床)は、全診療科の薬剤を揃えている。重症者や専門医を必要とする患者には寄港地で同伴し、現地の医師と対応を決める。

 (2)メンタルヘルスケアでは、様々な精神疾患の治療に当たる。特に乗務員は狭い空間で土日祝日もなく、長期間、変化のないメンバーと共に仕事をするため、よほど人間関係が円滑でなければ耐えられない。薬物・アルコール依存症、うつ病、統合失調症等の発症率も高い。船からの投身自殺にも遭遇した。

 (3)旅行者感染症は、マラリア、エボラ熱、ジカ熱、マースほか多くあり、CDC(Centers for Disease Control and Prevention)からリアルタイムの情報を得て、疾患の説明、予防対策を船客、乗務員に周知する。

 (4)検疫・死亡者対応とは、入国検疫、死亡者検疫・遺体搬送手続等。

 (5)医療外業務では、トップ4役(船長、機関長、ホテルマネージャー、船医)の一人として船客の送迎、パーティーや催事での挨拶・接遇、洋上スクール校長、運動会PTA会長、ドクタートーク等に出る。社交性も必要であろう。

 穂坂さんの強靭な精神と肉体、そして人々に貢献する真摯な態度は、市大で苦労をともにした時から熟知している。彼は1995~1999年に医学部長を、私も1995~98年に国際文化学部長ついで1998~2002年に学長をつとめ、ともに力を合わせて医学部・病院改革に邁進した。

 若き日に総合医を志しつつ、一流の泌尿器学専門医となった後、2001年、65歳にして全診療科を担う船医に就任、ついで70歳(古稀)から80歳(傘寿)まで10年連続の勤務を完遂した。これだけの激務、これほど広範な業務を、一人でよく乗り越えたものだと感服する。

 適切な判断で一命を救われた患者からの感謝、そして末期の患者を見守った穂坂さんの印象を、一例ずつ挙げたい。

 突然の胸痛で倒れた女性(52歳)。狭心症の所見で直ちに投薬するも船は大西洋の真ん中。次の寄港地の医師とともに帰国を説得、患者は紹介状を持って渋々帰国した。後に次のような趣旨のメールが届く。「ご紹介いただいたS医大を受診した。即入院、絶対安静で、血管を広げる手術を受け、おかげで元気を取り戻した。せっかく先生に助けていただいた命、体力の回復に努め、また何時か、船上でお会いできる日を楽しみにしている。」

 もう1つが、直腸癌で手術不能、腸管浸潤、リンパ腺・肝・脾臓転移、人工肛門設置という末期癌の女性(52歳)である。高熱を出し、転移巣の細菌感染と診断。抗生物質の点滴で3日後に解熱。その後は寄港地で観光を楽しむ。船内では喜々として盆踊りに興じた。余命3ヶ月。

 穂坂さんは、精神科医エリザベス・キューブラ=ロスの『死ぬ瞬間』(On Death and Dying、1969年)を思い出す。告知から衝撃・否認・怒り・取引・抑鬱・受容を経て、患者は穏やかに尊厳を保ち、死を迎える。

 死を受容し、残された時間を精一杯生きている、この人の姿に穂坂さんは胸を打たれた。

 話し終え、穂坂さんは言う。「これで医療活動から引退する」。私は驚いて言った。「こんなに貴重な経験は、医療行為を通じて若い医師たちに伝えるべきだ」。「医療知識は日々進化して、ついていけない」と穂坂さん。小島さんがすかさず入る。「知識と知恵は別物です」。この名言に穂坂さんはゆっくり頷いた。

 この日、清談会の解散は、いつもより少し遅くなった。

緩和ケアと友情

 横浜市立大学(以下、市大)文理学部人文課程東洋史の1985(昭和60)年前後の卒業生は仲が良く、卒業後30年余を経ても集まることが多い。教員にも声がかかる。連絡係を買っているのが西野均君(1988年卒業、横浜市職員、いまは市大附属病院勤務)で、彼の地道な努力が友情の輪をつないでいるようだ。

 先月11月18日(金曜)の朝、西野からメール連絡が入った。

 「昨夜、三田登美子さんから連絡をいただき、西川亘さんが入院中であり、東洋史関係の諸先輩方への連絡を依頼されました。西川さんは、胃がんを患い療養中のところ、先日、強い痙攣発作を発症し、救急入院となり、検査所見から、脳への転移が疑われ、症状が芳しくないとのことです。」

 私はもどかしい思いで返信した。「連絡、ありがとう。2年前に中華街でみなにお会いしたとき、大腸癌の経験者として私は<毎年、定期健診だけはやっておけ>と強く言い、癌に対しては<早期発見ソク治療しかない。検査技術は格段に進歩している>と口を酸っぱくして言ったのに、残念でならない。」

 その日の夕方、埼玉県の病院を尋ねた。私は10年前に受けた大腸癌手術に至るまでの不安な日々に、最近逝去したイギリス人の友人の「緩和ケア」の経過が重なり、動顛する気持ちを押さえて、ベッドに仰臥した西川と対面した。その報告を、西野へ以下のメールで伝える。

 「西川君を病院に見舞い、いま帰宅しました。彼はしっかりとした口調で、<癌が頭に転移し、終末期治療に入っている。先ほど放射線治療を受けてきた…>というので、思い切って<…これから緩和ケアに入るから、健常者には分からない格闘が始まる。もし嫌でなければ言い残しておきたいことをICレコーダーに吹きこんだらどうか>と勧めると、彼は<…そうですね。吹き込んでみたい>と前向きな声が聞かれた。…<緩和ケア>については、つい最近、旧知のイギリス人の経験があります。下記の私のブログの数回前、10月21日掲載「ディリアの逝去を悼む」に書いたのでご覧ください。私からのこの返信をみなさんへ転送してください。」

 1時間もしないうちに西野からメールが来た。

 「早々にお見舞いに行っていただき、ありがとうございました。<もう面会者と話もできない状況かも知れないから、皆で見舞いに行くのは、西川さんの負担になる>と言われたので、かなり心配していましたが、先生のメールを拝見して、少し気持ちが楽になりました。先生のメールは諸先輩方へ転送させていただきます。…」

 その後、気にしつつ、2度目の見舞いに行けないまま日が過ぎた。12月22日昼、西野から西川の訃報が届いた。見舞いに行った日から33日目である。

 「…西川亘様におかれましては、2016年12月21日、ご逝去されました。…西川さんの生前のご意志により、通夜、告別式は行われませんが、ご出棺前に最後のお別れの場を設けていただきましたので、ご参列お願い申し上げます。…ご家族(弟様)からお預かりしたPDFファイルを添付いたしましたので、そちらもご覧ください。」

 24日(土曜)、斎場に着くと同級生や前後の卒業生たち、それに初めて会う方々が多数集まっていた。奥に安置された西川の遺体に合掌。享年55。穏やかな表情に安堵する。

 弟の次郎さんが「…先生が見舞いに来てくださってから、兄は急に前向きに闘病生活を始めました…」と言う。あのとき話した「…記録を残さないか…」の勧めは西川に良かったのか、不安があった。「…これが兄の書き残したものです…録音する代わりに自分で書きました」とノートを見せてくれた。

 几帳面な字でびっしり書いている。あの状況で、ここまで大量に書くことができるものか。最初が2016.11.19の日付(私が見舞っ た翌日)。冒頭に「これは、私こと西川亘の終末闘病日記となる。<闘病>というよりは、緩和Careの中で、<生>に関して気付いた見解を綴っておこうという方を主眼としたい…」とある。その気概と整然とした文章に驚嘆した。

 1行空けて、癌の告知からの経過を淡々と綴る。「昨年11月に体調の悪さを自覚して医師の診断を受けると、薄々予期していた通り、胃癌と診断。胃カメラ映像を見ると、もう相当進行しているのが素人眼にも瞭然。既に肝臓にも多数転移。手術はできないとの主治医の言葉。ステージは幾つくらいか、怖くて尋ねることもできなかったが、既に末期段階であったものと後推量する。」

 その約1年後の2016年11月9日、「未明に目が覚めると左手首に痙攣を覚え、独り身では携帯電話での連絡もつけようがないと気づき、この11月9日が、私の第二の人生の初日なのだ…何とか発作が一時収まり、救急車を呼び…16日からガンマーナイフ(放射線照射治療)を行い、知人にもメール連絡を行う。」と記す。

 「18日…、病室の外の廊下に加藤祐三教授の姿が。僕は40年(ママ)も前の教え子だ。…言い残しておきたいことを記せとの有益な提言を戴いた。」とある。

 次ページから最終ページの12月18日(逝去の3日前)に至るまで、見舞いに訪れた多数の友人たちの名前と会話や印象を綿密に記す。学生時代の友人のみならず、俳優(『日本タレント名鑑』にあり、舞台・映画・テレビ等に芸歴を持つ)として共に活躍した人、会社勤務時代の人も含まれるようである。なんと多彩で豊かな交友か。

 このノートは、人生の最後を濃密に生きた命の記録、死を目前に、生きる今を書いた、かけがえのない記録である。彼の卒業論文「アジア主義者の転向-橘樸の場合をめぐって」(『横浜市立大学学生論集』1986年号に掲載)にも劣らぬ立派な存在証明である。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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