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清談会(2019冬)

 清談会とは、横浜市立大学教員OBの団体で、夏と冬の2回、議論と懇親の会を開いている。最初が2005年12月、永年幹事の小島謙一(敬称略、以下同じ)が作成した「清談会の開催日時」によれば、毎年夏と冬に会合を持ち、今回の2019年12月29日開催が29回目になる。

 そのつど事前に話題提供者を決め、食事と酒の合間に耳を肥やし、やがて侃々諤々、時に脱線の議論がつづく。現在のメンバーは6名、年齢順に以下の通りである。

 穂坂正彦 医学・泌尿器科専門医、元医学部長、退職後に船医を10年つとめた。昭和11年東京生まれ。
 加藤祐三 歴史学・アジア史、元国際文化学部長、元学長、前都留文科大学長、現国指定名勝三溪園園長、昭和11年東京生まれ。
 丸山英氣 民法・区分所有法、千葉大学へ移籍、同大で学部長、のち中央大学法科大学院教授、2004年より弁護士、昭和13年長野県生まれ。
 小島謙一 物理学、元理学部長、現横浜創英大学学長、昭和16年群馬県生まれ。
 山本勇夫 医学・脳外科、元市民総合医療センター病院長、横浜市立脳卒中・神経脊椎センター院長を経て、現木病院長(名古屋)、昭和18年静岡県生まれ。
 浅島誠 生物学・発生学、1993年に東京大学教養学部へ移籍、同大で学部長・副学長、東京理科大学副学長を経て、帝京大学学術顧問・特任教授。昭和19年新潟県生まれ。

 全員が専門を異にする。共通するのは(1)専門分野にとどまらず広い知的関心を持っていること、(2)大学という学問の府をいかに自由闊達な知の展開の場にするかに情熱を持ちつづけ、(3)地域・国・人類と地球の未来に思いを馳せること、あたりであろうか。

 第25回からは新しいテーマ「各専門分野の10年後を予測する」を定めたので、これ以降は本ブログで欠かさず記録を掲載してきた(本ブログの2018年1月5日掲載「清談会の定例会」)。これからも<主観的議事録>をなるべく客観的に綴っていきたい。

 第25回の報告は、言い出しっぺの小島「自然界の4つの力」と穂坂「AI(Artificial Intelligence人工知能)と医療、その10年後」である。これ以来、第26回が「生命科学の行方」(2018年8月17日掲載、浅島報告)、第27回が「10年後の歴史学」(2019年1月7日掲載、加藤報告)、第28回が「医療の近未来」(2019年7月29日掲載、山本報告)とつづいた。

 今回が丸山英氣「マンション問題の現在と課題」である(明示的に書かれたテーマ名ではないが、内容から判断して私が命名した)。参考として資料(1)丸山英氣「マンションは生き残れるか!?-マンション問題を斬る-」(『Evaluation』誌No.70)、資料(2)神戸における丸山の講演レジメ「マンション法の現段階」の2点が配られた。

 資料(1)は、最近のマスコミ報道で都市、不動産、マンションの将来に関する不安の声を取り上げる。例えば日本経済新聞社編『限界都市-あなたの街が蝕まれる』(日本経済新聞社、2019年)、朝日新聞社取材班『負動産-マイナス価格となる家と土地』(朝日新聞社、2019年)等。

 都市住宅の代表であるマンションについて、いちはやく問題提起したのが米山秀俊『限界マンション-次に来る空き家問題』(日本経済新聞社、2015年)で、進む建物の老朽化、住民の高齢化、その放置によるスラム化を挙げる。

 具体的には二つの<老い>、すなわち①建物の老い、そこから生じる賃貸化、空室化と、②区分所有者の老い、そこから生じる管理の困難を指摘し、その先にはマンションにも空き家が増大し、<限界マンション>の状況に達し、建替えはできず、このまま放置すると区分所有という制度は崩壊すると述べる。

 さらに山岡淳一郎『生きのびるマンション-二つの老いを越えて』(岩波新書、2019年)を紹介し、所有者の所在不明、連絡先不通(空き家)、そして団塊の世代が75歳の後期高齢者となる<2025年問題>を取り上げる。ほかに浅見泰司・齊藤広子編『マンションの終活を考える』(プログレス、2019年)等を掲げる。

 こうした最近の<悲観論>的な論調に対して、丸山は言う。「マンションという仕組みは不合理で悲観につながるか、…マンションに代わる仕組みはあるのか、…マンションの将来は悲観に満ちているのか?」

 本稿「マンションは生き残れるか!?」は、上記の「1 問題の所在」についで、「2 マンションの誕生と生成、「3 建物の老い」、「4 区分所有者の老い」、「5 空き家の増加、「6 借地権マンション」、「7 小規模マンション」とつづく。

 このなかから重要と思われる点をいくつか取り出して掲げたい。
 (1) 我が国でマンション(集合分譲住宅)が出現した昭和25(1950)年ころ首都圏の人口は約1000万人であったが、その65年後の平成27(2015)年には3800万人と4倍近くに増えた(「土地はだれのものか」研究会編『土地はだれのものか-人口減少時代に問う』(白揚社、2019年)。その受け皿がマンションであり、1950年に住宅公団が設立され、当初は賃貸が主であったが、1960年からは分譲マンションが主体となった。
 (2) 1962年に区分所有法が制定され、1970年には住宅金融公庫による公的融資が利用できるようになる。ディベロッパー(民間分譲業者)も成長し、都市銀行等も住宅ローンに参加するようになる。2017年現在、マンションは644万戸、その居住人口は1500万人余。マンション居住者は全国民の約10%、首都圏では22%、東京では27%にあたる。
 (3) 区分所有という制度の核心は、建物の一部に所有権を附与し、そこに抵当権等の担保権をつけることができ、そこから金融を得られるということであり、公団の設立は、この視点から評価すべきとする。戦前までの借家制度に代わり、若い人たちの地方から都市への移住の受け皿となったのがマンションである。(ここから外国との比較が述べられるが、ここでは省略する)
 (4) 戦後に誕生したマンションの生成のなかで、問題の発生は次の4段階を踏んだ。①日照問題、②瑕疵問題、③管理問題、④建替え問題(敷地売却問題)。なかでも最近のマンション戸数644万戸のうち旧耐震基準に基づくものが104万戸、そして築40年超が73万戸で、20年後には約5倍になる。それにもかかわらず、今まで立替を実現したマンションはなんとわずか237件(戸数は不明)に過ぎない。
 (5) それには容積率の不足(既存不適格)、相続等による所有者の確定が困難、建替え議決(5分の4以上)の難しさが伴うからである。そこで建替えに代わって敷地売却制度があるが、特定行政庁による売却の必要性の確定(建替え円滑法の101条第1項)を受けなければならず、そのハードルは徐々に低くなるとはいえ、困難にはちがいない。

 だんだんに法律の専門性の方向へ入りこむ。法学者であり弁護士としては当然であろう。しかし素人にはかなり難しい。そこに医者の山本が一般には聞き慣れない<ジェントリフィケーション>という単語を使った。アメリカでよく見られる貧民街の高級住宅化(gentrification)を意味する。これは個々のマンションの建替えとは異なり、都市再開発の一形態で、貧しい人を追い出すことから大きな社会問題となっている。

 議論が迷路に入りこみそうになったと思い、私は単刀直入に尋ねた。標題が示す「マンションは生き残れるか!?」の結論は端的にイエスなのかノーなのか、と。丸山は答えた。「イエス、生き残れる。そのための手法を開発するよう知恵を働かせなければならない」。

 マンションが生き残るための具体策の一つとして丸山が提案するのは、マンション管理の仕方である。管理組合が管理するのが一般的な仕組みであるが、理事等の役員の高齢化により、なり手がなくなれば管理は危機に瀕する。それに総会出席率は平均で10%ほどときわめて低い。

 そこで丸山は提案する。「管理を専門家にまかせ、区分所有者はその監視をするということに切り替えたらどうであろうか。このことにより、管理は長期的視野に立ち、厳格に行うことができる」と。

 この提案は思いつきではなく、種々の法的根拠を挙げる。とくに丸山の講演レジメである「資料(2)マンション法の現段階」がそのために用意されたものだが、マンション法の変遷を整理し、①昭和37年区分所有法にはじまり、②昭和58年区分所有法、③昭和58年中高層共同住宅標準管理規約、④平成12年管理適正法、⑤平成14年区分所有法、⑥平成14年建替え円滑法、⑦平成27年建替え円滑法のそれぞれの特徴を掲げる。

 さらに<被災区分所有法>と<損害賠償請求>とつなげ、「5 管理組合による管理の反省」のなかで<第三者管理の導入>を提案する。いっそう深く法の森に迷い込みそうである。

 議論は「マンション問題の現在と課題」にとどまらず、第2部ともいうべき課題に入って行き、久しぶりに3時間を超え、9時過ぎに解散した。

 第2部の課題は大別して、(1)従前からの継続である「AIの進化とその暴走をいかに阻止するか」であり、(2)「日本の人口減少をどう考えるか」である。

 第1の「AIの進化とその暴走をいかに阻止するか」は、一筋縄では対処できない。清談会のメンバーだけでは限界があり、外から専門家を呼ぶ必要も出てくるかもしれない。あるいは従来のままの親睦会の性格を継承するか。

 第2の「日本の人口減少をどう考えるか」については、生命科学の浅島が日本の人口減少を嘆くばかりでなく、現在の総人口1億2615万人から、今後の目標値を8000万あたりに置くとする見解を示した。時間が足りず、その根拠を聞くことができなかったが、次回に期待しよう。

 私は浅島の発言から、石橋湛山(1884~1973年)の「小日本主義」(増田弘編『石橋湛山外交論集』草思社、1984年5月所収)を想起した。石橋は、戦前『東洋経済新報』により、一貫して日本の植民地政策を批判して台湾・朝鮮・満州の放棄とそれに代わる加工貿易立国論を唱え、大正デモクラシーを先導した。戦後直後に論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」において科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べている。その後も「日中米ソ平和同盟」を主張して政界で活躍した。1956(昭和31)年、保守合同後初めて本格的に実施された自民党総裁選挙を制して第55代総理大臣となった。

 ともあれ、<闘う法学者弁護士>の丸山。80歳を越えて意気天を衝くである。
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シェフ秀樹

 テニス仲間には様々な職業の人がいる。テニスをしていなければ出会えなかったに違いない人、その一人がシェフ秀樹、フレンチシェフの浅川秀樹さんである。

 いつも最後まで疲れ知らずのプレーをするので、<鉄人>の異名を持つ。合間にベンチで交わす会話も楽しみの一つ。相手かまわず自分のことだけをしゃべりまくる人もいるが、シェフ秀樹はボケもツッコミも秀逸、会話(対話)の達人である。

 テニスの鉄人、極上料理の創出人、加えて会話の達人、三拍子そろったシェフ秀樹は、テニス仲間にも多い団塊の世代である。私と干支でひと回り違う。大人になってのひと回りは大差ないが、私が大学生のころは、まだ6~7歳で、棒切れを持って走り回っていた。この年齢差は決定的である。

 彼は文京区本郷で育ち、東大構内を我が庭と心得、ワルをしては守衛さんに追い回されていた。ひょっとして私ともすれ違っていたかもしれない。

 2年前のテニス仲間の忘年会で、彼の開発したフランス料理の冷凍ダシが話題となった。とくにフォン・ド・ヴォー(Fond de Veau、子牛のダシ汁)の売れ行きが好調とのこと。ついでカナダ産オマールエビの頭(これまで廃棄されていた)から採るフォン・ド・オマール(Fond de homard)も売れ行きを伸ばしている。

 ダシは感性で創り出し、商品化は食品会社勤務の経験等を活かして材料の豊富なニュージーランドの工場を使い、販路はシェフ・ネットワークを駆使して日本各地をはじめドバイ、シンガポール、バンコック、上海、ニューヨーク、ロサンゼルスと拡げて、いよいよフランス本土を攻略中とか。

 いまや各料理店で時間と手間をかけてダシを作る時代は終わりつつあり、骨等の廃棄環境も厳しくなっている。彼の創ったダシの需要はいっそう高まるであろう。

 シェフ秀樹は、若くして料理人を志し、フレンチ・レストランの見習いから、ひょんなことでスイスへ留学、修業を重ねた。

 霞が関ビル(1968年にオープンした日本最初の超高層ビル、地上36階)のレストランで皿洗いをしている時、太ったオジサンがやって来て「坊主、大変そうだから手伝ってあげようか?」と言う。

 手伝ってもらったが、狭いのでそのうち「オジサン邪魔だからどいてくれない?」と言った。とたんに調理場の空気が凍りつき、料理長が青ざめて、「坊主、この方をどなただと思っている!」の顛末に。

 「その方は当時の天皇陛下の料理長で斎藤文次郎さんでした。水曜日になると私のところに来られる。なぜ来るのか聞いたところ、お前と話していると時代の流れが良く分かる」と言われた。

 なお斎藤氏は1965(昭和40)年に株式會社司厨士會館を設立、後継者養成に乗り出し、代表取締役に就任している。ちなみに<西洋料理>を専門にする料理人を、業界の方々は<司厨士>と呼んでいる。

 そうこうするうち、なぜお前はヨーロッパに修業に行かないのかと聞かれ、逆に「どうしたら行けるのですか?」と尋ねると、斎藤さんが「俺が推薦状を書けば行ける」。「それなら書いてください!」で、あっさりヨーロッパ行きが実現。

 当時、スイスには50人ほどが修業に行っていたが、うち45人はドイツ語圏のチューリッヒやベルンなどで、ドイツ語圏ではフレンチもドイツ風になる。「お前はフランス語圏に行けるようにしておいた」と言われ、スイス西部、レマン湖畔のモントルーに送り出された。モントルーで1年、モナコで1年ほど修行して、30歳目前に帰国。

 料理人を目指すつもりが、元の会社の総料理長から「料理ができて、いろいろなことを知っている人間を紹介してくれと、食品メーカーから頼まれている。面接だけでも良いから行って」と頼まれた。

 そこで自転車にノーネクタイで気楽に行ったら、いかめしく社長、役員などがずらりと待ち構えていた。話しているうち、製品開発のアイデアが尽きていると分かり、そこにあった白板を使って約1時間、時代の変化や今後に必要な製品の説明等をして帰ってきた。

 その後、すっかり忘れていたが、採用の電話が来た。入るつもりがないと伝えると、担当者は、今更そんな事を言われても困ると粘る。仕方がないので、ひとまず入社し、半年もしたら調理場に戻ろうと考えていた。

 ところが面接の時に話した新製品の材料買付などが始まり、辞めるに辞められなくなった。加えて、営業マンの教育、営業などに関わるうち、赤字会社は儲かる会社へと変わっていく。

 その後、別会社へ移り、ここでも赤字の黒字転換に成功。ついで食材輸入販売会社に転職。広くフランスの生産地、レストラン、ホテルなどを回り、実地で得た食の知識や情報を伝えながら販売しているうちに名前を知られるようになる。

 修業中の料理人は料理の勉強だけで精一杯で、近くに有名な産地などがあっても行く暇がない。そこで食材の背景や見分け方などを料理人に教えることを通じて、さらに人脈が拡がった。

 「料理人、食品メーカー、製品開発、業務食材営業、業務用食材の販売ルート作り等に精通するには総合的な知識が必要です。…」

 シェフ秀樹の熱弁にさらに熱が入る。「海外では、外資系企業や価値観の違う人たちと知り合う機会が多く、人間形成にも大きく影響する。また一人の力で時代の流れは変えられないにしても、いかに変化を感じ取り、先を読むかを忘れてはならないと思います。…」

 65歳を機に退職して5年、ダシの開発・生産・販路拡大・流通を軌道に乗せるまでになった。

 今年の忘年会もダシが話題になった。横浜の老舗ホテル、ニューグランドでも採用されたと朗報が入ったからである。そのホテル新館3階の大広間<ペリー来航の間>で、私は30年ぶりに横濱ロータリークラブの卓話(テーブルスピーチ)「横浜の夜明け-条約交渉と都市横浜の起源」を行ったが、それがなんと朗報が来た日と重なっていた。

 さて、テニスプレーヤーとしての彼は、トップクラスの実力。だが太ももの裏を痛めて、2年近く踏み出しが利かずにいたことがある。それを皇居周辺のマラソン等を根気強くつづけて、自力で修復。いまはサーブ&ボレーも平気なまでにした。

 テニスの区民大会をはじめ、広い人脈を活かして他流試合を企画、こまごまとした作業も厭わない。そんな時は、お手製のスイーツをお伴に連れて来る。

 また我々の使う何カ所かのテニスコートの一つは、折々の自主管理が必要で、夏はフェンスに伸びる蔓切りや草取り、秋にはコートに積もるイチョウの落葉掃きを全員総出で行う。

 そして冬の午後からの降雪には、コートが凍り付く前に雪かきをしなければならない。いつ出動するか、その判断はシェフ秀樹の経験と勘にかかっている。

第8回ジョン万サミットin東京

 標記の会合が11月9日(土曜)、東京都文京区は本駒込の東洋文庫で開かれ、初めて出席した。ジョン万とはジョン万次郎あるいは中浜万次郎の愛称で、サミットは全国各地にある万次郎顕彰会の連携・親善をはかって開かれるという。

 東洋文庫は土佐出身の三菱財閥三代目の岩崎久彌(1865~1955年)が1924年に創設した東洋学の研究図書館で、学生時代にたいへん世話になった。旧来の閲覧室に加えてミュージアム機能を強化、カフェを併設して大改装、見違える姿に驚きつつ、2階の講義室へ向かう。

 話は半年ほど遡るが、今年5月、江東区文化センターで「NPO法人・中浜万次郎国際協会」(東京都認可、北代淳二理事長)の創立総会があり、その記念講演として「ペリー応接と万次郎」を語る機会をいただいた。漂流民となり11年後に日本に強行帰国を果たした土佐の漁師・万次郎が、ペリー来航と幕府のペリー<応接>(現在の<交渉>に該当)にいかなる影響を与えたかを主題とした(2019年7月10日掲載「ペリー応接と万次郎」参照)。

 江東区文化センターの近くに土佐藩の下屋敷があり、万次郎が11年間住んでいた。それに因み10年前に落合静男さん(当時、江東区北砂小学校長)や幅(はば)泰治さんたちが立ち上げた地域密着型の「ジョン万次郎・江東の会」(その創立記念講演は日野原重明医師)を、2014年に全国型の「中浜万次郎の会」とし、今回「NPO法人・中浜万次郎国際協会」に改組した。また幅事務局長たちの尽力により、地道な調査研究活動の成果を「研究報告」誌として刊行、すでに第9集を数える。

 講演のご縁から牧野有通さん(日本メルヴィル学会会長)と知り合い、9月8日(日曜)、中央大学駿河台記念館で開かれた「第7回日本メルヴィル学会年次大会」を聴きに行った。それというのも、15年前、私が神奈川新聞に「開国史話」を連載(月水金の週3回、計200回、のち2008年に単行本『開国史話』として同社より刊行)、そのなかに「メルビル『白鯨』の世界」として一文(2004年6月2日)を書いていたからである。

 牧野会長は挨拶で、(1)今年がアメリカ人作家メルヴィルの生誕200年にあたり、(2)6月にニューヨークで国際メルヴィル学会に出席して日本メルヴィル学会の活動を報告、(3)思えば30年前のシンポジウムで「メルヴィルと万次郎」を発表して以来の研究課題であり、(4)メルヴィルとジョン万次郎は2~3度、太平洋上の島々で実際にすれ違っており、両者は1840~50年代という<近代>の入口で生きた日米両国の同時代人である、と語った。

 この年次大会の特別講演は作家の夢枕獏「白鯨とジョン万次郎」で、高知新聞等に連載中の「白鯨とジョン万」の執筆構想や苦労話をからめて壮大な話をされたが、そこで北代さんや幅さんたちと再会した(本ブログ2019年9月13日掲載「メルビル『白鯨』の世界」)。

 そして今回の「第8回ジョン万サミットin東京」である。いただいた平田潔事務局長からのメールには、11月9日(土)のサミットが東洋文庫で、その記念講演は夢枕獏先生、11月10日(日)の万次郎忌は例年通り雑司ヶ谷霊園で行った後、追悼昼食会も例年通り万次郎終焉の地である銀座で、ご子孫(万次郎から四代目)の中濱慶和氏をお迎えして、とあった。

 5月、9月につづき短期間に3度目の再会となったのが北代さん、幅さん、牧野さんで、夢枕さん、落合静男さん、塚本宏さんとは2度目である。万次郎が引き合わせてくれたのであろう。

 ここで万次郎の略歴の一部を再確認しておきたい。文政10(1827)年、現在の高知県土佐清水市中浜(なかのはま)で半農半漁の貧しい漁師の次男として生まれた。9歳のとき父が亡くなり、母と兄が病弱であったため、幼い頃から働いて家族を養い、寺小屋へ通う余裕もなかった。

 天保12(1841)年、鯵鯖漁船の炊係(炊事と雑事を行う係)となる。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳、のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、その弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)、もう一人の櫓係の寅右衛門(26歳)、そして最年少の万次郎(14歳)である。

 寒中に船出し、足摺岬の沖合で操業中に突然の強風で航行不能となって数日間の漂流後、伊豆諸島の無人島、鳥島にたどり着いた。この島でわずかな溜水と海藻や海鳥を口にしながら143日間を生き延びる。5月9日(1841年6月27日)、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料を求めて島に立ち寄った際に発見され、救助される。
 鎖国の日本に帰国はかなわず、5人はそのままアメリカへ。翌1842(天保13)年、ハワイのホノルルに寄港。4人は下船、万次郎だけが希望してアメリカ本土を目指す。ホイットフィールド船長に気に入られ、乗組員から「ジョン・マン (John Mung)」の愛称で呼ばれた。

 ジョン・ハウランド号は、1842年、船長の故郷で捕鯨船の一大拠点のマサチューセッツ州ニューベッドフォード(フェアヘブンの隣町)に帰着、万次郎は船長の養子に迎えられ、1843(天保14)年、オックスフォード学校、1844(弘化元年)年、バートレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。寝る間も惜しんで勉学に励み、首席となり、民主主義や男女平等等、眼を見張る概念に触れる一方、人種差別も経験する。

 卒業後は捕鯨業に従事、投票で副船長に選ばれる(投票では2人が1位になったが、年長者に船長の地位を譲った)。1850(嘉永3)年5月、日本に帰る意志を固め、資金調達のためゴールドラッシュに沸くカリフォルニアへ。サクラメント川を蒸気船で遡上、鉄道で鉱山に向かう。数ヶ月間の金鉱採掘で600ドルを得ると、ホノルルに渡って昔の仲間を誘い、1850年12月17日、上海行きの商船に購入した小舟「アドベンチャラー号」を搭載して日本を目ざした。

 1851年3月4日(嘉永4年2月2日)、帰国禁止(鎖国)の掟を破り、アドベンチャラー号で薩摩藩に服属していた琉球に上陸、番所で尋問を受けた後、薩摩本土に送られた。薩摩藩で取調べを受けるも厚遇され、西洋文物に興味のあった開明的な藩主・島津斉彬から海外情勢や文化等について問われる。
 薩摩から長崎への移送後は、長崎奉行所から長期間の尋問を受け、絵踏みにより非キリスト教徒の証明をさせられ、さらに外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩からの迎えの役人とともに土佐に向かう。

 高知城下では吉田東洋らによる藩の取り調べを受け、万次郎を同居させて聞き取りに当たった河田小龍が、その記録を『漂巽紀畧』として刊行した。

 拙著『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)の第1章「1853年 浦賀沖」の「5 ジョン万次郎の語るアメリカ」では、取調べに答えた発言6点を引用した。①歴史と地理について、②食事と酒について、③アメリカ人について、④大統領について、⑤日本に関する評判、⑥江戸の評判。

 この⑥で「江戸は世界中でもっとも繁盛の所と評判が高く、彼国の人びとは見物したがっている。江戸・北京・ロンドンの三都は世界第一の繁盛の地である」と述べている。これから大きなヒントを得て、私は『世界繁盛の三都-ロンドン・北京・江戸』(1993年、NHKブックス)を刊行した。

 万次郎はペリー2回目来航直前の1854年1月、20俵取りの御普請役として召し抱えられる。史上初の日米交渉については、上掲の拙著『幕末外交と開国』や『開国史話』ならびに本ブログ(2019年7月10日掲載「ペリー応接と万次郎」)等を参照していただきたい。ただ、交渉の場で果たした万次郎の役割については史料が少なく、今後の解明が待たれる。
 
 その後の万次郎の活躍について、簡単に挙げておきたい。1860年、日米修好通商条約の批准書交換の遣米使節通訳として渡米、ついで幕府の軍艦操練所教授(1862年)、土佐藩の開成館教授(1866年)となり、英語、航海術、測量術などを教える。明治政府により1869年、開成学校(東京大学の前身)の英語教授に任命される。著書に英会話書『英米対話捷径』(1859年)がある。

 東洋文庫の「第8回ジョン万サミットin東京」では、開会の挨拶に司会の平田潔事務局長、歓迎の挨拶に「NPO法人・中浜万次郎国際協会」の北代理事長、そして各地域の活動が報告された。

1 台湾 陳新炎氏(中国語で『約翰・万次郎傳奇一生』を刊行、紹介)
2 沖縄県 豊見城市沖縄ジョン万会 赤嶺秀光会長
3 沖縄県 糸満市万次郎上陸記念碑期成会 徳元秀雄会長
4 高知県 土佐清水市ウェルカムジョン万の会 田中慎太郎会長
5 高知県 高知市 土佐ジョン万会 アーサー・デイビス理事
6 大阪府 ホイットフィールド万次郎の会 上野貴與之会長
7 東京都 中浜万次郎国際協会 北代淳二理事長
8 秋田県 秋田市 佐藤宗久氏
9 熊本県 熊本市 吉岡七郎氏
10 特別報告 沖縄県 神谷良昌氏(沖縄ジョン万次郎会・理事、糸満市万次郎上陸記念碑期成会・理事)
和田達雄氏(糸満市万次郎上陸記念碑期成会副会長)

 記念講演会 夢枕獏氏「白鯨とジョン万」

 配布資料は(順不同)、(1)「中濱万次郎家系図」、(2)「NPO法人ジョン万次郎上陸地記念碑建立期成会の活動状況について」、(3)「(中浜万次郎国際協会の佐藤宗久氏による)今後の活動計画(案)」、(4)「第30回 日米草の根交流サミット2020 フィラデルフィア大会」のチラシ(「公益財団法人 ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根センター」(小沢一郎会長、略称はCIE)の第30回大会で、北代さん、平田さん、後述の中濱京さんが評議員、青木千佳さんが理事兼事務局長)、そして(5)『第14回沖縄ジョン万次郎会講演会』(全21ページ)である。

 これらのうち(5)『第14回 沖縄ジョン万次郎会講演会』所収の幅泰治「ジョン万次郎はどのようにして知られて行ったのか」と塚本宏「ジョン万次郎と長男東一郎の日米親善」の2つを紹介したい。

 幅さんは1937年、名古屋生まれ。学習院大学政治経済学部卒、千葉大学で工業デザインを、早稲田大学で生産工学を学び、日立化成工業で開発設計を担当。定年退職後、文化財や地域史に関心を持ち、万次郎ゆかりの土佐藩下屋敷近くに居を得た縁から、10年前に上掲「ジョン万次郎・江東の会」を落合さんたちと立ち上げ、事務局長を務めた。現在は中浜万次郎国際協会理事。

 ジョン万の生涯を追いつつ、彼が世に知られるようになった経緯を、①取調べ調書、②流布本、③本人の記録、④伝記、⑤歌舞伎・講談・演劇、⑥小説・絵本、⑦教科書、⑧TV番組・新聞、⑨解説・評論・読物、⑩研究、⑪資料館・イベント、⑫その他、に分けて収録し、的確な解説を付す。

 人間・万次郎について、幅広く全分野を網羅するほどに目が行き届いている。例えば⑤歌舞伎・講談・演劇では、明治21年新富座で公演の歌舞伎「土佐半紙初荷鑑」から現代の劇団四季「ミュージカル・ジョン万次郎の夢」まで、⑥小説・絵本では井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』(1937年)を筆頭に多数、また⑦教科書での取り上げられ方の変遷、そして⑩内外の諸研究では20数点を渉猟している。

 幅さんから頂戴した冊子「歌舞伎になった万次郎」は、上掲の竹柴其水作「土佐半紙初荷艦」(とさはんしはつにのおおふね)の台本の解説と抄訳からなり(A4×30ページの仮綴じ)、万次郎と親方の2役を演じるのが市川左団次と知ればさらに興味が尽きない。

 塚本さんは1932年、大阪生まれ。大阪大学医学部卒、明治生命保険(相)で医務部長、取締役を歴任。この経験と知見を基に万次郎と長男・東一郎(1857~1937年)についてまとめる。中浜万次郎国際協会監事。
 
 万次郎30歳の時、芝新銭座で授かった東一郎は、東京大学医学部の3回生。万次郎が3人のアメリカ大統領(28代のT.W.ウィルソン、30代のJ.C.クーリッジ、32代のF.D.ルーズベルト)から評価されていること、また万次郎に感銘を受け、東一郎と親交のあった石井菊次郎が、駐米大使時代にフェアヘブンの日本刀献呈式典に参加するなど日米親善に努めたこと、東一郎をはじめ現在の五代目に至るまで子孫たちが民間の草の根交流に努力してきたこと等を挙げる。
 
 そして「…中浜家が、先祖の万次郎への篤い敬慕の気持ちと、アメリカの二人の恩人(ホイットフィールド船長とデーモン牧師)に対する深い感謝の念に裏打ちされて、民間の草の根交流を続けてきたことは感動的というしかない。」と述べる。しっかり典拠も示されている。
 
 夕食会は東洋文庫の敷地の奥にあるオリエント・カフェで行われた。乾杯の音頭は万次郎から数えて五代目に当たる中濱京さん、富士通勤務のかたわら講演やTV等を通じて万次郎の広報に取り組み、また「公益財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念 国際草の根交流センター」の評議員を務める。
 
異なる経歴・職業の老若男女60名ほどが、立食の場を行き来しつつ歓談。稀有の傑物ジョン万に惹かれて集まった人びとの賑やかな宴であった。

中学校の同期会

 久しぶりに中学校の同期会に顔を出した。9月22日(日曜)午後、西武池袋線・大泉学園の駅ビルの一室が会場の、新制3期生の集まりである。

 参加は何年ぶりか、古い記録を見る。本ブログの2014年6月16日掲載「中学の同期会」が見つかった。5年前、有楽町の糖業会館で開催、約10年ぶりの出席と書いてある。この15年間にたった2回だけの出席である。

 呼びかけのメールには「毎年母校のホームカミングデーに併せて大泉近辺に集まりお喋りしようという趣旨です。今までの格調高い同期会ではなく気楽な集まりです」とあり、その末尾に「中西、山下両先生にはお声をかける予定です。永久世話役(いつまで続くかわかりませんが)を仰せつかった近藤 平野 藤原 山元」と、懐かしい名前が並ぶ。

 世話役諸氏への感謝、身罷った友への想い…。「出席します。あの頑強そうに見えた小西が逝き、このあたりでみなさんのお顔を拝む気になりました。…」と返信する。

 大泉学園駅は西武池袋線の始発池袋駅から9つ目の駅(後に1駅増設)で、そこから南へ徒歩5分のところにある東京学芸大学大泉附属中学校、ここが附属小学校から持ちあがりの、私の通った学校である。 

 大泉学園駅の3駅手前の中村橋駅から、当時は珍しい電車通学をしていた。駅の近くには木炭を燃料に走るバス(木炭バスと呼んでいた)の待機所があり、憧れの運転手さんにサツマイモを預けておくと、下校時にホカホカの焼きあがりを返してくれた。

 入学は1943(昭和18)年、当時の校名は、東京第三師範大泉附属国民学校。3年生になってすぐ群馬県勢多郡新里村の祥雲寺学寮へ集団疎開。戦後の学制改革で東京学芸大学附属小学校と改名されるが、私はすでに中学校へ進学していた。

 参加者は18名、配られた名簿によると、山下先生、飯倉、加藤、金子、近藤、田村、戸塚、室田、八木、山元、横山、岡野、大橋、永池、藤原、平野、本道、野中。男子は互いに呼びつけで、あだ名でも呼びあい、女子にはさん付けであった。

 欠席の返事は16名、中西先生、生野、持田、菅家、長畑、安岡、市川、今泉、宮下、西田、相良、白戸、松本、尾形、飯田、小藤田である。

 出欠を知らせてきた34名のうち15名がメールアドレスを持つ。82~83歳のグループでパソコンを駆使するデジタル人間が半数は悪くない。

 席順は籤で決める。運よく長テーブル中央の山下政太郎先生(国語、クラス担任)の隣を引き当てた。90歳とは思えぬ若々しい風貌と話しぶりである。

 まず幹事の山元の報告。「…昨年以来の物故者は2名です…。黙祷を捧げます。…」

 のち山元と藤原さんに問い合わせると、5年前、「物故者は27名…」と記した私のブログは誤りで、29名が正しいとのこと。したがって、この5年間の8名を加えると、物故者の総計は37名となる。なお卒業時の生徒数は2クラス合計で109名と山元は推定しているよし。

 冒頭の先生の挨拶が堂々としている。「…酒、タバコ、運転、いずれも止めておらず現役です。運転は一日に300キロは平気…」

 5年前の挨拶は次の通り。「みなさんに元気そうだと良く言われるし、今日もそう言われたが、すでに立派にボケが始まっており、その最初の症状は年月日の正確な記憶がなくなること……スキーと社交ダンスはいまも楽しんでいます。寝る前は睡眠薬代わりに、徒然草、方丈記、西鶴本を…」とにっこり。

 5年前より過激?、あるいは一種の諦観? 「85歳くらいを境にガタっと弱る。…」とつぶやかれたが、それでも、この勢い!

 ついで、久しぶりの参加という理由で、突然、私に近況報告が振られた。先生の挨拶に圧倒されて、まとまりもないままに話し始める。

 「私はタバコを止めて14年、運転免許を返納して5年となりました。以前は時おり、夢のなかで細巻葉巻のキャプテンブラックを美味そうにくゆらす自分に会いましたが、今はそれもありません。ここは恩師と大違いです。…
しかしながら恩師の教えを守っていることが2つあります。第1が中学2年の夏休みの作文を褒められて書く喜びを知り、以来、70年にわたり書きつづけていること。
 第2がテニスです。先生に教えていただいた放課後の軟式テニスの面白さを忘れられず、硬式テニスを30代後半から始めて40余年が経ちました。いまも現役で、週に数時間はプレーしています。…」

 最後の一言にどよめきが湧いたので答えた。「…世に言う<好きこそものの上手なれ>、そして<下手の横好き>。…私がどちらかは想像に任せます。…」

 先生が話しかけてきた。「…君の作文のどこを褒めたか覚えていないなあ…」。それに私は答える。「私も教員生活が長かったので、学生のレポートや論文に書いたコメントを一つ一つは覚えていませんが、良い所を見つけて褒めてきました。内容に欠陥があるのは当然で、それだからこそ教育の役目がある…」

 先生は深く頷く。たった7歳違いであっても、14歳の生徒にとって21歳の先生は大きな存在であり、頼もしい兄貴であった。70年ほどを経てやっと教員として同じ目線に立てたような気がする。

 平野さんが書類を手に話し始めた。「…<終活>のつもりで身辺整理をしていたら、いわゆる<通信簿>が3年分まとまって出てきました。1年生の昭和24(1949)年度のものは何と書いてあるでしょう?」 答えは「…縦書きの<通告票>です」。

 <通告票>と言っていたのか! 誰も正確に覚えてはいなかったが、期末に手にした緊張の通信簿で盛り上がる。戦時中の<通告票>を承継して、新制中学の発足時に、そのまま使ったに違いない。国民学校3年生の集団疎開先で<玉音放送>(昭和20年8月15日、日本の敗戦を伝える昭和天皇のことば)を聞いた世代の共通の記憶が蘇る。

 昭和25(1950)年度から横書きの<通知表>となった。B5版二つ折りの真ん中に成績欄、裏面が<修業証書>。つづく昭和26(1951)年も同じ形式である。どうやら昭和25(1950)年度が現在につづく新制中学への実質的な転換期だったのではないか。

 最後に校歌斉唱。「-東京学芸大学附属大泉中学校-校歌 緑陰深き」の歌詞・楽譜が配られた。作詞:山下政太郎、作曲:笹谷栄一朗。

1 緑陰深き森かげに 若草もゆる泉あり つきせぬかおりうちにひめ そとえいえいとわきこぼつ ああ大泉その名ぞ母校 われらつどいぬ菊の葉のもとに
2 はしき心と強き手を くみてすくわんこのいずみ 高き理想と堅き意志 かかげうつさんこのいずみ ああ大泉その名ぞ母校 われら学ばん菊の葉のもとに
3 今東雲(しののめ)の空高く 伸びゆくいのち四百余 泉よ菊よとことわに われらが胸にかおれかし ああ大泉その名ぞ母校 われら歌わん菊の葉のもとに

 先生によれば、作ったときはまだ<校歌>ではなく、小学校では校歌を運動会等で歌っているのに中学にないのは寂しいと言われ、「…戯れに作詞して、…それが後に<校歌>と呼ばれるようになった。…」とのこと。

 中学の校歌は暗記していない。<校歌>になりかけの時期で歌う機会が少な
く、記憶に刻まれなかったようだ。

 先生が誰にともなく「…90歳になった今年を最後の出席にしたい…」と言われる。私は聴こえないふりをして、代わりに「紅葉の三溪園へぜひお越しください。12月初旬が良いと思います。…」と、電話番号の入った名刺をお渡しした。

医療の近未来

 これまでも本ブログで取り上げてきた<清談会>という名の、年2回の談笑の場がある。昨年12月28日開催の第27回清談会を記録したのが2019年1月7日掲載の「10年後の歴史学」で、私の報告とその後の議論をまとめた。

 清談会とは、横浜市立大学(以下、市大)で同じ釜の飯を食った元教員の集まりで、現メンバーは敬称略・年齢順に、穂坂正彦(医学)、私(歴史学)、丸山英気(法学、民法)、小島謙一(物理学)、山本勇夫(医学)、浅島誠(生物学、発生学)。

 今回は第28回。報告は山本勇夫「医療の近未来」である。山本さんが若い方から2番目、と言っても、メンバー全員が70歳を超えている。

 この日、私は会場直行ではなく、先に横浜美術館を訪れ、「原三溪の美術 伝説の大コレクション」展(9月1日まで)に出品中の、三溪17歳の作品「乱牛図」(らんぎゅうず)に改めて惹きこまれた。なだらかな山の裾野に60~70頭の牛が放たれている。子牛がおり、牧童たちの戯れるような姿も見える。のどやかで、どこか懐かしい。

 つづけて今回の展示のチームリーダーで主任学芸員の内山淳子さんが司会進行する2つの講演、清水緑(元三溪園学芸員、松涛美術館学芸員)「三溪の古美術収集と美術家支援」と、三上美和(京都造形大学)「原三溪と近代美術-資料から見えてきたこと」を堪能した。

 その贅沢な興奮のままに清談会の会場に着くと、すでに穂坂さんと小島さんが来ていて、物理学者の小島さんが縄文土器の話を始めた。中学生時代、先生が歴史は時代とともに進歩するから、土器も縄文より弥生の方が進んでいると説明したことに納得できず、「…この前、縄文土器展を見てきて、ある法則を見つけた…」と言う。

 専門外の趣味がどれだけ専門研究に寄与するか、どれだけ人生を豊かにするか、小島さんの嬉しそうな話しぶりに、私は「力強い美しさは確かに弥生より縄文が上だな~」と受けた。彼の見つけた法則については、ご当人がなんらかの形で公表するまで口外しないこととする。

 メンバーが揃い(丸山さんは欠席)、山本さんの「医療の近未来」が始まる。論旨明快、テンポよく、聴いていて心地良い。1992年から市大の脳外科教授、定年退職して名誉教授、現在は横浜市立脳卒中-神経脊椎センター名誉病院長と、名古屋の並木病院病院長を引き受け、毎週、横浜=名古屋を往復している。

 一人の臨床医として長い経験を持つと同時に、医師の相互研鑽の場である「日本脳卒中の外科学会」、「日本脊椎外科学会」、「日本頭蓋底外科学会」の会長を務め、医学の進歩に貢献してきた。また病院経営の難しい局面にも通じている。

 報告内容は次の5点と、A4×1枚のスッキリした配布レジメにある。大項目だけを再掲すると、以下の通り。これにそって概要をまとめたい。

1 医療ニーズの変化
2 診断
3 治療
4 疾病構造の変化
5 最悪のパターン

 1「医療ニーズの変化」の強調点は、「治す医療」から「支える医療」へと変わってきたとする点であり、言い換えれば「治療中心の医療から、治すだけでなく、病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療への変遷(移行)」、この現実をいかに認識して今後の医療に活かすか、ここに問題の焦点があると言う。

 「治す医療」から「支える医療」への「医療ニーズの変化」の背景として、ニューテクノロジーの導入がある。具体的にはAI(人工知能)、ゲノム編集、ナノテクノロジーの3つ。

 この点をめぐっては、本清談会の第25回(2017年12月28開催、本ブログ2018年1月5日掲載の穂坂報告「AIと医療、その10年後」)と、第26回(2018年8月8日開催、2018年8月17日掲載の浅島報告「生命科学の行方」)でも報告され、議論になった重要問題の一つである。

 3つのニューテクノロジーの急速な進歩により、診断の高度化・高速化はいちじるしく向上した。これに伴い、個々の医師、組織としての病院のあり方が大幅に変わり、我国の誇る国民皆保険制度の見直しさえ迫られている。

 さらに少子高齢化に合わせた医療従事者の育成や医療施設の見直しも必要になる。外科系、内科系等の分け方、脳外科、腎臓内科等の臓器別の専門医制度も通用しなくなりつつある。

 ついで「2 診断」では、ゲノム医療(遺伝子診断)やナノ診断機器の進化により、個々の患者レベルで最適な治療方針を選択、実施することが可能となった(precision medicineあるいは personalized medicineと呼ばれる)。言い換えれば医師は、これらの診断補助システムの恩恵を受け、正確なエビデンスに基づく医療行為が可能となる(医療行為の均霑化)。

 「3 治療」でも種々の進化が見られる。患者に合わせた治療法として、ゲノム医療(遺伝子治療)、免疫療法、再生医療、低侵襲手術(ロボット支援手術、薬を的確に届けるdrug delivery system等)が可能になりつつある。

 「4 疾病構造の変化」には「がん、循環器疾患、感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」が並ぶ。これは冒頭にある「治療中心の医療から、治すだけでなく、病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療への移行」に伴う今後の重要問題である。

 言い換えれば、3つのニューテクノロジーの急速な進歩による診断の高度化・高速化のメリットと、それがもたらすデメリットの両面をどう考えるかの問題である。医師は上掲のメリットを活用し、その活用で得た時間を他の側面に力を注ぐべしとして、「…感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」を挙げたものと思われる。

 ここで前々回の報告者の浅島誠さんが発言する。「…AIの進歩が治療に役立つことは確かだが、そろそろAIに歯止めをかける議論が必要になってきたのではないか…」と。彼は生物の胚発生の分化誘導物質アクチビンを1988年、世界で初めて同定した。生命の本質解明技術の進化がもたらす否定的側面を無視できないのであろう。

 穂坂さんが「未知への挑戦が研究者の第一要件だが、その結果が悪用される危険性のいちばん大きい分野が今や生命科学ではないか」と受け、さらに「…物理学が核研究の果てに原子爆弾の開発にいたった悪夢の過去がある。次の悪夢こそ生命科学である」とつづける。

 浅島さんが「…技術進歩のもたらす生命の破滅の、より具体的なものは、人の目に見えない新たな感染症ではないか」と言う。そこに小島さんが「…その点が次の5に書いてある…」と。

 「5 最悪のパターン」は、深刻な課題ないし事態を明示する。巨大国家のエゴ、国連やWHOの機能低下が予測され、それが招来する環境悪化、すなわち感染症の増加が懸念される、と述べる。この結びの言葉は「医療の近未来」を技術の進化を基に明るく語る意見の対極にある。長く医療に従事し、いまなお新たな挑戦をする山本さんの危機感の表明である。

 「…感染症にはヒトは勝てない。現在の医療体制は既存の感染症には何とか対処できているが、自ら生み出す未知の感染症には対処できない。…」

 山本報告が一段落したところで、山本さんの著書『健康長寿の脳科学』(経営者新書 幻冬舎 2014年)に話題が移った。5年前の刊行だが斬新さを失っていない。

 本書の「はじめに」は「…80歳を過ぎても元気な方には、脳の刺激の仕方に共通点があることに思い至り、…脳の機能をいかに保ちつづけるか。…」と狙いを述べる。
 
 第1章は、長寿願望、健康願望は古今東西に共通するとして、貝原益軒が逝去前年の84歳に残した『養生訓』や、『解体新書』で著名な杉田玄白の「養生七不可」を語るとともに、健康に生き、過剰な医療を招来しないことが次世代の負担を減らし、社会の好循環に寄与すると述べる。

 第2章では「人は老いて当たり前、老いとは何かを知る」に始まり、皮膚や脳など各臓器の仕組み、<生理的老化>と<病的老化>の違いを述べる。

 つづけて第3章「健康長寿を実現する脳の活性法」、第4章「脳を活性化すれば、何歳になっても人は輝く」へと展開。好評により版を重ねているので、ぜひお読みいただきたい。

 そして現在、次の著書を構想中という。主なテーマは「忘れることの大切さ」=「忘却の効用」。半年後の第29回清談会までには刊行済、を期待している。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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