【34】連載「(五)香港植民地の形成」

 『思想』誌(岩波書店)連載「黒船前後の世界」の「(五)香港植民地の形成」は1984年1月号に掲載した。前回の「(四)東アジアにおける英米の存在」では、歴史的伝統・在外公館・貿易・居留民数等の面でイギリスが圧倒的に優位な位置を占めると述べた。

 これを受けて本稿は、イギリス植民地香港の形成を分析する。香港(島)は、第一次アヘン戦争(1839~42年)の結果として1842年に締結した英清南京条約により、清朝からイギリスへ割譲され、植民地となった。当時のイギリス女王の名前を冠してビクトリア島とも呼ばれる(以下、香港とする)。

 南京条約は、この①香港の割譲(植民地化)のほかに、②賠償金2,100万ドルの4年分割払い、③5港の開港(南から広州・福州・厦門・寧波・上海)、④旧来の公行(コーホン)廃止と貿易完全自由化を定めた。うち①、②、④はイギリスの専一的権益であり、①により清朝は香港の主権を完全に喪失した。なおアヘン戦争の原因である「アヘンに関する条項」はなく、「公然たる密輸」状態がつづく。なおアヘン貿易が「合法化」されるのは1858年である。

 ところが③5港開港に関しては、アヘン戦争に参戦しなかったアメリカとフランスが最恵国待遇を主張して条約を結び、権益を取得(権益の均霑・共有)する。すなわち米清望廈条約(1844年)と仏清黄埔条約(1844年)である。清朝側も複数国に恩恵(権益)を与える方が有利と判断した。

 条約に基づき、開港場に<居留地>ないし<租界>と呼ばれる特定区画(英語ではsettlement)を定めるため、列強はそれぞれ清朝の各地方政府と協定(土地章程)を結んだ。これは次回の連載【35】「(六)上海居留地の形成」に譲る。

 アメリカとフランスが5港開港にかんする権益を共有したことは、列強間の<対立>と<協調>のうち、東アジアでは<協調>が優位に立ったことを意味する。当時のイギリスはオーストラリア・ニュージーランドを(移民)植民地化していたが、東アジア全体を専一的植民地にする意図も能力も有しておらず、中国に関しては列強が<協調>して開拓する広大な市場と見ていた。

 本稿は10節に分け、主に次の5つの論点を取り上げた。すなわち(1)最恵国待遇の新展開、(2)植民地と不平等条約国の区別、(3)2種の不平等条約(<敗戦条約>と<交渉条約>)、(4)イギリスにとっての香港植民地の役割、(5)香港植民地の財政収支の特徴。いずれも先行研究では体系的に論じられたことがなく、本稿で初めて取り上げた。

 1、2節では(1)最恵国待遇の新展開について述べた。アヘン戦争の英清南京条約(1842年)に対して、上述のようにアヘン戦争に参加しなかった米仏が同等の権利(=最恵国待遇)を主張して条約を結び、5港開港場での諸権益を獲得した。最恵国待遇の複数国への適用は史上初である。

 3節と4節では、近代的な意味の国家三権(立法・司法・行政)という観点から(2)植民地と不平等条約国の区別を明らかにした。すなわち植民地は、敗戦に伴い国家三権をすべて喪失する従属性のもっとも強い政体で、外交権も宗主国が握る。これに対して不平等条約国が失うのは行政権と司法権の一部であり、立法権に相当するものは維持される。

 ついで(3)不平等条約を<敗戦条約>と<交渉条約>の2種として区別した。不平等条約という名称に惑わされたためか、史学界は条約の不平等性の内容や程度について考えずに来た。アヘン戦争敗北の結果の南京条約(1842年)と、一発の砲弾も交わさず交渉により締結に至った日米和親条約(1854年)や日米修好通商条約(1858年)とが質的に同じであるはずがない。
敗戦に伴う条約には「懲罰」として賠償金や領土割譲が伴うが、交渉を通じて結ばれた条約には、そもそも「懲罰」という概念がない。そこで私は前者を<敗戦条約>、後者を<交渉条約>と名づけた。

 以上を踏まえて、小さな図を入れた(128ページ下段)。①資本主義・宗主国、②植民地(インド・香港など)、③敗戦条約国(中国など)、④交渉条約国(日本など)の4つを掲げ、矢印で相互を結んだ簡単な図であるが、このときはまだ図に名前がなく、説明も不足していた。この着想はのちに「近代国際政治-4つの政体」へ発展させたが、原初形態を示したのは、これが初めてである。

 5節と6節では、(4)イギリスにとっての香港植民地の役割を分析した。「イギリスの宝」と言われたインドの植民地化は、ベンガル地方にインド総督を置き(1773年)、アヘン専売制を採用して徴税権を駆使することに始まるが、実態は特許商社であるイギリス東インド会社が植民地公権力の役割を担ってきた。

 こうして紅茶(中国⇒イギリス)、アヘン(インド⇒中国)、綿製品(イギリス⇒インド)の3大商品によるアジア三角貿易が体系化され(拙著『イギリスとアジア』等参照)、それを補強する対中貿易の中継地としてペナン島(1776年に買収)とシンガポールを植民地化(1819年租借、1824年買収)、その延長上に香港を植民地化(1842年)し、本国と各港を蒸気郵船会社P&O社が結んだ。

 イギリス政府が軍港としての香港の役割を重視するのに対して、貿易商たちは、以前からのイギリス広東商館の廃止、荒地同然の岩山の香港の開発、そして高い借地権料等に異議と不満を示し、多くが上海等の開港場へ移った。

 7~10節で(5)香港植民地の財政収支を分析した(史料は主にイギリス議会文書)。アヘン戦争後も戦時財政の性格が強く残り、収入面では南京条約の賠償金の一部が投入され、土地収入(土地の賃貸料)が首位、支出面では植民地官僚(総督、次官等)の人件費が首位を占めた。初期20年間の香港財政の赤字を補填したのが、同じ植民地省管轄の植民地インド財政であった。

 当時のポンチ絵には、イギリスという頭脳がインドという体を抑え、そこから東方へ腕が伸び、シンガポールが肘、香港が手首、その先の5本の指が5つの開港場を押さえるものがある。その先は太平洋とアメリカ。こうした全体構造のなかで、高い経費をかけても香港の開発は不可欠と考えられた。

 このような状勢下、ペリーの旗艦ミシシッピー号は米国東海岸の軍港ノーフォークを出発、大西洋を横断して南下、喜望峰をまわってインド洋に至ると、イギリス蒸気郵船会社P&O社のシーレーンから燃料の石炭と物資を入手しつつ中国海域に到達する。そして開発された香港でさらに物資を補給し、1853、54年の2回にわたる日本遠征への備えを進めていた。(続く)
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【33】連載(四)東アジアにおける英米の存在

 連載「黒船前後の世界」の「(四)東アジアにおける英米の存在」は、『思想』誌(岩波書店)の1983年11月号に掲載した論考である。それまでの3回分(1983年7月、8月、9月号)は、ペリー艦隊の派遣とその目的等をテーマとして日米の史料を基に毎月掲載してきたが、対象を東アジア情勢や英米の存在等に移すと関連史料も多岐にわたり、準備にもう1か月かけた。その後も隔月の掲載とし、最終の(八)(1984年7月号)の完成まで約1年を要した。

 本稿は全体を9節に分け、英米の東アジアにおける在外公館の規模の英米比較、その役割、米英関係史の概略、英米の対中貿易の比較(扱い量と貿易商品の構成等)、東アジアにおける英米の軍事力比較(軍艦の配備等)を分析し、米国が東インド艦隊により日本に一番乗りした背景等を述べる。

 1節で述べたのは、米国の東アジア在外公館が無給の商人領事を主体としており、それも中国では1846年から上海に、1849年からアモイに各1名を任命したに過ぎないこと、また領事より格上の公使待遇の弁務官(駐在地はマカオ)は米清望厦条約(1844年)の締結に伴い翌1845年に初代A・H・エベレットを任命するも赴任途上の病で退き(のち客死)、代理に東インド艦隊司令長官J・ビッドルを任命、彼はコロンブス号で1846年に江戸湾に来航したこと、駐華弁務官の2代目は半年間の空白期を挟んでJ・W・デービス、さらに2年半の空白期を挟み3代目のH・マーシャルが1853年1月16日に着任したこと等である。

 2節。英国も軍人のスターリング司令長官が日英約定(1854年10月)を結び、ロシアもプチャーチン海軍中将が日露和親条約(1855年2月)を結んだが、当時は英露間のクリミア戦争の最中であり、両国とも戦争の一環として日本に寄港する必要性から日本との条約締結を急いだもので、その分だけ日本の主張が相対的に通りやすい情勢にあった。
 軍人による条約締結は、必ずしも強い軍事的恫喝を意味するものではない。幕府が相手の弱点をどこまで見抜いて交渉を進めたかが重要である。条約締結に至る意思決定・実行過程・条約内容(交渉結果)の3段階のうち、米国は実行過程の最初部分に取りかかったばかりである。任命をうけたペリーの念頭には、①相手国の日本、②列強とりわけ超大国たる英国、③米国政府(とくに海軍省と国務省の対抗関係)の3つが複雑にからみあっており、いずれも無視できない重要問題であった。使用史料は主に米国議会文書。

 3節は英米関係略史である。米国は旧宗主国の英国から独立し、1776年にアメリカ合衆国を樹立した。ペリーは日米和親条約締結の1854年、「米国独立78年目」とわざわざ表明し、超大国の英国に先んじて「もっとも若い国たる米国が、もっとも古い歴史を持つ日本と条約を結び、世界へ仲間入りさせる役割を自分が担っている」と誇らしげに記した。

 4節は主として英国の在外公館の強大な陣容を扱う。1834年の東インド会社カントン事務所の解体と貿易監督官制度の発足、ついでアヘン戦争中の1841年に香港を植民地として香港総督を置き、南京条約(1842年)以来、順次、五港の開港場に置いた領事館の陣容等を述べる。史料は主に英国議会文書。
 米国の東アジアにおける在外公館の貧弱さに比べ、英国のそれは10倍以上の陣容を誇り、規模や待遇等の面で、まさに超大国に相応しいものであった。1834年に始まる英国の貿易監督官は、その名の示す通り自国商人の監督を行う役目を持つが、駐華全権大使、さらに1841年から香港総督、加えて英国東インド艦隊司令長官と、併せて四職を兼務した。

 5節と6節では、対中貿易の英米比較を行う。1849~53年の貿易額から英国と米国の対中輸出を比較すると、英国が圧倒的に多く(約94%)、対中輸入の面でも79%を占め、およそ英国:米国=9:1となる。
 これを商品構成から見ると、英国はインド産アヘンの輸出と茶(主に紅茶)の輸入が高い比重を占め、米国は白綿布の輸出と茶(主に緑茶)の輸入の占める比重が高い。英国から中国へのインド産アヘンの輸出急増に関しては、すでに拙著『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)等の研究があり、本ブログでも【25】、【27】等で述べた。

 7節は、東アジアにおける英米の軍事力比較、具体的には配備された軍艦の英米比較である。この点に幕府は強い関心を払い、1853年8月の『和蘭別段風説書』にも記載がある。船数では英国が18(3)隻(()内は汽走軍艦)で首位、これに対して米国は7(2)隻で2位であり、総トン数でみると英国14,368トンに対して米国7,014トン。これから分かるように英国は小型船が多く、汽走軍艦では英国:米国=3隻:2隻となり、米国の汽走軍艦の比重が高い。

 8節。ペリーが12隻からなる「堂々たる艦隊」を海軍長官に要請したのは、日本に対するだけでなく、超大国英国に対して新興国の「意気と存在感」を示す意図もあった。当時の汽走軍艦の航行能力や英米双方から東アジアまでの距離を比較すると、米国西海岸オレゴン州から太平洋経由で上海までが5,000マイル、それに比べロンドンから上海までは14,400マイル。米国は英国より3分の1も近い隣国であり、航行時間や海底ケーブルの敷設等の面でも有利である。

 9節。ペリーは1837年に米海軍の蒸気船フルトン号の艦長、米墨戦争(1846~48年)では米国メキシコ湾艦隊司令長官、のち陸上勤務の郵船総監(1848~52年)として米国東部と西部(オレゴン州、カリフォルニア州)を蒸気郵船で結ぶ事業を主導した。これらの経歴から汽走軍艦の及ぼすデモンストレーション効果を熟知していた。
 ところが当時の大型汽走軍艦は石炭喰いで、補給線がなければ太平洋を横断できない。事実、ペリーの搭乗したミシシッピー号(1,690トン)は米国東海岸の軍港ノーフォークを出航、大西洋を横断して南下、喜望峰を回って北上した後は、英国の補給線から石炭・水・食糧等を買い、インド洋、中国海域、琉球(沖縄)を経由、地球の4分の3を経て、江戸湾にたどり着く。

 先発のサスケハナ号(2,450トン)とミシシッピー号、それに翌1854年ポーハタン号(2.415トン)が合流し、3隻の大型汽走軍艦が居並ぶ黒船艦隊は、英国のそれを凌駕、日本と英国をともに威圧する存在となった。(続く)

【32】連載(三)ペリー周辺の人びと

 本稿「連載(三)ペリー周辺の人びと」は、岩波書店『思想』誌に計8回連載した「黒船前後の世界」の3回目の論考(711号1983年9月号)に関する紹介と解説である。多岐にわたる問題を9節にわたり描いている。

 1節ではペリー派遣を命じた第13代大統領フィルモア(Millard Fillmore、1800~74年)について述べた。彼は1849年、第12代大統領テイラー(Zachary Taylor、共和党の前身のホイッグ党、米墨戦争の総指揮官)の副大統領となるが、大統領の死(1850年7月)に伴い大統領に昇格する。
 1853年3月までの残任期間を務めたが、歴代大統領のなかでほぼ無名に近い。<膨張主義>のJ・ポーク大統領(1845~49年在任)と<消極外交>で知られるF・ピアス大統領(1853~57年在任)の中間に位置し、しかも副大統領からの昇任のため格別の政策を掲げず、「議会に対する不偏不党の立場」が特徴とされる。それは下記のプレブル号事件の議会への提出方法からも読み取れる。

 前回の末尾で触れたプレブル号の長崎来航(1849年1月)は、国交を持たない国に海難事故で漂着した母国船員の生命・財産を保護する「外交法権」(diplomatic protection、外交的保護とも訳す)の発動・執行は海軍が担うとする論理に基づく。だが、この問題はしばらく行政府内部に留められた。
 フィルモア大統領が議会に提出した第1回が、就任直後の1850年8月の下院宛で事実報告のみ。第2回の公開(教書)が1年半後の1852年4月の上院宛(外交関連事項は上院の権限)で、ペリー任命の直前である。ここで、遠い日本での漂流事件にそのつど出動するのは無駄が多いため、海軍経常費の範囲内で条約を締結し、恒常的に漂流民相互救助・交換を行うという議案が示される。

 ペリーの前任の米国東インド艦隊司令長官オーリック(1851年6月に任命)が赴任途上、旗艦サスケハナ号艦長とトラブルを起こして同年11月に更迭され、それを受けてフィルモア大統領とグレアム海軍長官がペリーを呼び出した。ペリーは57歳で郵政総監、通常なら陸上勤務で引退する年齢であり、さらに米墨戦争(1846~48年)時にメキシコ湾艦隊司令長官ペリーの部下であったオーリックの後任に納まることに抵抗があった(1851年段階で同じ准将だが、ペリーの年俸3,500ドルに対してオーリックが2,893ドル)。そこで応諾の条件として「12隻から成る堂々たる艦隊」の編成を要請する(2節)。

 3節では、1822年創設の米国東インド艦隊の歴史と、名称の由来やペリーによる改称について述べる。「東インド」という呼称は旧宗主国イギリスの「インド以東」(現在の東アジアと東南アジア)を指す言葉であり、これをアメリカ海軍が踏襲した。東インドはイギリスから見ればインドよりさらに東に位置するが、アメリカから見れば太平洋を越えた西の彼方である。
 1852年11月24日、ペリーは旗艦ミシシッピー号1隻のみでアメリカ東部ノーフォーク港を出航、大西洋を越えてアフリカ西海岸を南下し、喜望峰経由、インド洋から中国海域(イギリス植民地の香港)に着いたのが1853年4月7日。

 国務省派遣のマーシャル弁務官(公使)はサスケハナ号で上海へ行き不在、ペリーは太平天国軍(1850年に広西省で蜂起)が上海を侵攻せんとする事態を知る。4節ではアヘン戦争(1839~42年)とその終結を示す南京条約(1842年)における五港開港から、その後の上海租界の形成・発展に触れ、イギリス人商人による貿易の実態を描く。とくにインド産アヘンの密輸と産地に近い中国茶の輸出を基軸として、上海が巨大貿易港へと急速に変貌し始める状況に触れる。
 マーシャルは上海等の開港場におけるアメリカ人の保護を主張、「上海の貿易は完全にマヒ」と本国へ報告、在上海のアメリカ人保護を優先し、ペリー艦隊を上海沖に留めるよう主張する(5節)。

 一刻も早く日本へ向かいたいペリーの<日本重視>とマーシャルの<中国重視>が真っ向から対立する。本省の指示を仰ぐにも時間がない。当時もっとも速く本国との情報伝達ができたのは、イギリス蒸気郵船会社P&O社を使い書簡をロンドン経由でワシントンへ送るルートであり、返答が来るまで最速でも往復で7~8か月を要した(6節)。

 この頃からペリーは、自身の艦隊名を米国東インド艦隊(U.S. East India Squadron)から、駐東インド・中国・日本海米国海軍(U.S. naval forces in the East India, China and Japan seas)に変える。
 名称変更の理由は、①マーシャルに対して<日本重視>は海軍省の積極策であるとをすため、②日本に対しては訪問の正当性を補強するため、③本国における海軍省管轄下の自分と、国務省管轄下のマーシャルの系列の違いを明示するため、であったのではないか(7、8節)。

 最後の9節では、日本語通訳と日本事情に詳しい<顧問格>を独自のルートで探すペリーの動きを描いている。日本との条約交渉には、条約草案を練る人材と、通訳を確保しなければならない。
 ペリーは出国前から、最適の人物はカントン在住のアメリカ人宣教師S・W・ウィリアムズであると考えており、香港からまっすぐ彼を訪ねる。ところがウィリアムズは、①自分の任務は印刷所(漢文の印刷)の管理と中英辞典の編集である、②日本語は9年も前に日本人漂流民から習ったものである、③艦隊内の規律にはなじまない(安息日の確保等)等の理由を挙げ、即答を避けた。
その3週間後の4月27日付け本省宛公信で、ペリーは「ウィリアムズと中国人1名を通訳として雇った」と述べ、「ウィリアムズは中国在住のアメリカ人のなかで、もっともよく日本語を理解すると言われる」と付言する。

 本国照会の時間的制約のため、緊急対応は現場責任者の裁量権に委ねられていたこともあり、ペリーはマーシャルとの論争に決着がつかないまま(7、8節)、1853年5月10日、4隻の艦隊で江戸湾へ向けて行動を開始、第1回来航(訪日)を実現させる。
 江戸湾滞在は1853年7月8日から17日までの、足かけ10日間、アメリカ大統領国書を幕府に受取らせると、来春の再来を言い残して引き上げた。(続く)

【31】連載(二)ペリー派遣の背景

 この「(二)ペリー派遣の背景」(連載「黒船前後の世界」)は、岩波書店『思想』誌)の710号(1983年8月号)に掲載したものである。前号(709号)の「(一)ペリー艦隊の来航」では、ペリーが最重要視した所期の目的(予備交渉)として、以下の4点を述べた。①発砲を避けて交渉のルートを開く、②そのため日本側から対等な地位の役人を引き出す、③その役人に大統領国書を渡し、条約締結の意志を示す、④これを長崎ではなく江戸で行う。
 幕府も①に関しては腹を決めていた。ペリー来航の予告情報は1年半前に長崎のオランダ商館長から得ており、来航場所も長崎か江戸に近い浦賀(現神奈川県横須賀市)のいずれかと読み、準備を整えた。
最初の接触でオランダ通詞の堀達之助が”I can speak Dutch”(当方はオランダ語を話せる)と呼びかけ、与力の中島三郎助を浦賀の副総督と伝え、翌日、別の与力・香山栄左衛門を総督として引き合わせた。この偽称(詐称)がペリー側の目的の②を促進し、③へとつなげた。
 ペリーは浦賀近くの久里浜で大統領国書を受けとらせると、来春の再訪を告げ、10日間の滞在で去る。幕府はペリー再来と本交渉への準備を加速した。

 この日米初の公的接触の意義と今後の本交渉については、アメリカ側史料の活用により、いっそう明確になるはずである。先行研究は、①結果から原因と経過を説明する、②部分に固執して歴史の流れを無視するという欠陥があり、フィルモア大統領の国書の文言を、そのままストレートにペリーの政策と行動に直結させる傾向が強い。国書に書かれた「外交的希望」がそのまま実現されることは、政治の世界ではむしろ例外である。
 私はアメリカ議会文書(上院・下院)を可能な限り精査し、関連が窺える史料を一覧した。それが同誌58ページに載せた「略年表」である。正確には「ペリー派遣に関わるアメリカ議会文書史料の略年表」と呼ぶべきものであり、①(H)465,No.138(1845年2月に下院へ提出された下院特別統計委員長Prattの日本、朝鮮への特使の提案)から⑮(S)751,No.34(これは1855年2月3日に上院に提出されたペリー報告『遠征記』の一部)まで、計20の文書を掲げた(Hは下院、Sは上院)。

 さまざまな面で思わぬ発見があった。これが歴史を書くときの大きな喜びである。その第1が、太平洋・ハワイをめぐる英米間の競争である。アメリカはメキシコとの戦争(米墨戦争、1846~48年)に勝利し、西海岸(カリフォルニアとオレゴン)を割譲させて太平洋に面する国家となり、その先の太平洋航路を視野に入れる。その前提としてアメリカ東海岸と西海岸をつなぐ(パナマは陸路)蒸気郵船航路の完成とアメリカ横断鉄道の開発構想があった。これには1848年のカリフォルニアの金鉱発見と、翌年から始まるゴールドラッシュも後押しとなった。
 一方の超大国イギリスはすでにPeninsular & Oriental Steamship Company(P&O社)による蒸気郵船を敷設し、イギリス・スエズ(陸路)経由、ボンベイ・セイロン・シンガポールを経て、南京条約(1842年)で割譲させた香港島に1845年に到達、さらに上海まで延伸したのが1849年、その先に太平洋横断航路の開設を構想した。

 英米間の太平洋航路開設をめぐる先取り競争が始まっていた。アメリカの蒸気航路開設を担ったのが海軍であり、その海軍郵政長官に就任したのが(1848~50年)、米墨戦争で司令長官を務めたペリーに他ならない。
 当時の蒸気船は大変な石炭喰いで、計算上では、アメリカ西海岸を出て太平洋を横断する18日間の航路のどこかに石炭・食糧・薪水の補給基地(コールデポと呼んだ)が必要であった。イギリスP&O社が香港・上海まで定期運航できたのは、航路上に飛び石のように幾つものデポを置いていたからである。アメリカ海軍は、ハワイと東アジアの東部の琉球(沖縄)あたりにデポを置く計画を俎上に載せる。

 第2の論点が漂流民の問題である。北太平洋は照明用の鯨油を採るアメリカ捕鯨船の最大の漁場であった。アメリカ東部で発達した綿工業のフル操業が鯨油の需要を急増させ、それに比例して捕鯨船の出漁も、遭難事故も増え、海流に乗って蝦夷地(北海道)に漂着する事件が頻発する。アメリカ議会に人道的支援を求める提案が出てくる。
 幕府は漂着民を救出し、長崎へ送って一定の調べをした後、鎖国下で外洋船を持たないため、帰帆するオランダ船に乗せて送還していた。1848年6月、捕鯨船ラゴダ号が漂着する。その長崎での取調べの通訳兼立会いをオランダ商館長に依頼したとのニュースがオランダ外交網からアメリカ海軍に伝わるや、漂流民が虐待されていると考えたアメリカ東インド艦隊は、自国民を救出する「外交法権」の発動として1849年1月、プレブル号を長崎に派遣する。この件は、アメリカ側の誤解と判明したが、日本側も日本人の漂流問題を抱えていた。
 大坂に集荷された食糧(味噌、醤油、昆布、鰹節等)を江戸へ送り、東北からコメ等を江戸へ送る廻船(平底の千石船)が沖へ流されると、北太平洋海流と偏西風に乗りアメリカ西海岸にまで行き着く。九死に一生を得るケース、途中でアメリカ捕鯨船に救助されるケース(ジョン万次郎等)もあったが、太平洋を舞台とする遭難・漂流民の頻発は喫緊の課題であった。

 第3が経済・市場開拓問題である。これについては資本主義が東西から地球を一周し、世界を一つに結ぶ最後の接点が日本で、日本を世界市場に組み入れるための開国こそがアメリカの狙いであるとする見解があった。だが私が調べたところ、アメリカ側の中国茶輸入は綿布輸出の3~4倍であるが、綿製品輸出はブラジル・チリの市場で足りていた。さらに中国市場にこれ以上食い込めなくなったため新たに日本市場を求めるとする説についても、根拠となる史料は見つからなかった。

 対日開国交渉の大役を最初に任されたオーリックが赴任途上の1851年11月に更迭され、翌1852年3月、ペリーが後任となる。このころから、捕鯨船の保護とその避難・物資補給港を求めて対日開国条約を締結せよとする見解が、大統領府内とりわけ海軍内で急速に高まってくる。(続く)

【30】連載(一)ペリー艦隊の来航

 連載「黒船前後の世界」の「(一)ペリー艦隊の来航」を掲載したのは、『思想』誌(岩波書店)の第709号(1983年7月)である。その序文で「幕末開国史の研究は、これまで主に日本史の分野であった。日本の対外関係史として、日米関係史、あるいは日英、日露、日蘭などの関係史の研究が多い。外国人による研究も、ほぼこの線にそったものといってよい」と研究史の概略を記す。

 ついで「…アメリカにとっては、ペリー派遣の目的もペリー自身の政策決定も、たんに対日開国という狭い枠で考えてはおらず、対中関係、対英競争というグローバルな外交戦略のなかに日本開国を位置づけており、また複雑かつ具体的関係のなかで条約が成立したのであるから、日米関係史の観点だけでは、肝心なポイントが不明になってしまう。…そうなると、もはや日本近代史だけでは十分に把まえきれない。ここに世界史(世界近代史)の側からの接近が不可欠となる。…」と述べる。
 若気の至り、力み過ぎの感を免れないが、そのような意気込みではあった。さらに誤解されやすい<関係>と<比較>の意味の相違についても述べ、また私自身の研究の歩みにも触れた上で、「…必ずしも表面には現象しない底流がある」とし、<不平等条約体制>と学界で一括されるアジア各国の現状であるが、それぞれ一様ではない、とも指摘する。

 そして本文の冒頭に、初めて見たペリー艦隊の日本側の記録を引く。
「およそ三千石積ほどの舟四隻、帆柱三本ずつ立て…帆を使わずして、前後左右、自在に相成り…風に向かい浪に向かうに帆をかけ申さず…東へむかうときは一段と迅速、あたかも鳥の飛ぶがごとく、たちまち見失い候」。
 これは1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、三浦半島の突端に置いた見張りが早馬の伝令で浦賀奉行所に届けた報告である。4隻のうち2隻だけが汽走(蒸気)軍艦だったが、見た者には4隻全部が同じに見えたのであろう。規模がケタ違いである。およそ三千石積としたが、当時の日本最大の千石船(弁財船)は積載重量が約150トン、ペリー旗艦サスケハナ号は2450トン、千石船の約16倍の大きさがあった。

 ペリー提督は1852年11月24日、サスケハナ号でアメリカ東部海岸を出航して大西洋を渡り南下、喜望峰を回りインド洋から中国海域を経て、琉球(沖縄)を経由、浦賀沖到着を果たす。地球の4分の3をめぐる大航海の終点であった。
汽走軍艦は、石炭を焚いて蒸気の力で外輪(船体の両側についた水車のようなもの)を回転させて動く。防腐剤を塗った木造の船体が黒く見えるため、黒船と呼ばれた。外洋では帆走することが多いが、伊豆沖で蒸気走に切り替え、全艦に臨戦態勢を敷いた。大砲、小銃、ピストル、短剣等、あらゆる兵器を動員する。艦隊には10インチ砲が2門、8インチ砲が19門、32ポンド砲が42門あり、巨大な破壊力の合計は63門にのぼる(『遠征記』)。対する幕府が砲台に備えた大砲は約20門である。

 双方の大砲は沈黙している。多数の漁船や小舟が艦船を取り囲む。浦賀奉行所が与力の中島三郎助とオランダ通詞の堀達之助を乗せた番船を派遣する。番船は旗艦(司令官の搭乗する船)を識別し、密集する舟の間を縫ってサスケハナ号に近づいた。
4隻の艦隊には約1000人の隊員のほか、条約交渉のため、広東で加わった宣教師ウイリアムズや中国人通訳、さらに上海で雇ったオランダ語通訳ポートマン等が乗船していた。ペリーは、日本側に文書では漢文、口頭ではオランダ語を使う人員が多数いるという情報は把握していたが、日米交渉を何語で行うかを決めていなかった。

 一方、幕府は、第一声を英語で伝えた通り、オランダ語を当然とした。前年の1852年、長崎のオランダ商館長を通じてペリー来航の情報を得ると、来航の地を長崎か江戸に近い浦賀と想定し、出島の約100家のオランダ通詞から精鋭を選抜して浦賀奉行所に配置した。
 海上高く聳える旗艦から身を乗り出す水兵に、堀が大声で呼びかけた。”I can speak Dutch!”(「我が方はオランダ語を話せる」)。ウイリアムズの記録(洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』)によれば、幕府の高官を寄こすよう言うと、その男は同乗の人物を指し、「この方が浦賀のセコンド・ガバナー(副総督)である」と返答(実際は与力)、そこで艦長室に招き入れ、ペリーの副官コンチ大尉と会見させた。

 この瞬間にオランダ語が会話における共通語となった。
 幕府の対外政策は、①1791年の寛政令(ロシア船への薪水供与令)、②1806年の文化令(寛政令のさらなる緩和)、③1825年の文政令(イギリス軍艦フェートン号の侵入事件により強硬策の無二念打払令に転換)、④1842年の天保薪水令(アヘン戦争による南京条約締結の1日前、文政令の撤回と文化令への復帰)の、4つの段階を経ている。
 1853年のペリー艦隊来航時は、来航目的を問い、必要に応じて薪水等を供与する穏健な天保薪水令下にあった。あらぬ小競り合いから発砲交戦に至ってはならぬと、浦賀奉行所が最初の接触時に示したのが、”I can speak Dutch!”の第一声にほかならない。

 ペリー側の要請を受けて翌日、ガバナー(総督)として香山栄左衛門(実際は与力)がペリー艦隊を訪れる。ペリー側は、最初の接触で幕府の高官を引き出せた、大成功だと、大いに喜んだ(『遠征記』)。(続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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