【30】連載(一)ペリー艦隊の来航

 連載「黒船前後の世界」の「(一)ペリー艦隊の来航」を掲載したのは、『思想』誌(岩波書店)の第709号(1983年7月)である。その序文で「幕末開国史の研究は、これまで主に日本史の分野であった。日本の対外関係史として、日米関係史、あるいは日英、日露、日蘭などの関係史の研究が多い。外国人による研究も、ほぼこの線にそったものといってよい」と研究史の概略を記す。

 ついで「…アメリカにとっては、ペリー派遣の目的もペリー自身の政策決定も、たんに対日開国という狭い枠で考えてはおらず、対中関係、対英競争というグローバルな外交戦略のなかに日本開国を位置づけており、また複雑かつ具体的関係のなかで条約が成立したのであるから、日米関係史の観点だけでは、肝心なポイントが不明になってしまう。…そうなると、もはや日本近代史だけでは十分に把まえきれない。ここに世界史(世界近代史)の側からの接近が不可欠となる。…」と述べる。
 若気の至り、力み過ぎの感を免れないが、そのような意気込みではあった。さらに誤解されやすい<関係>と<比較>の意味の相違についても述べ、また私自身の研究の歩みにも触れた上で、「…必ずしも表面には現象しない底流がある」とし、<不平等条約体制>と学界で一括されるアジア各国の現状であるが、それぞれ一様ではない、とも指摘する。

 そして本文の冒頭に、初めて見たペリー艦隊の日本側の記録を引く。
「およそ三千石積ほどの舟四隻、帆柱三本ずつ立て…帆を使わずして、前後左右、自在に相成り…風に向かい浪に向かうに帆をかけ申さず…東へむかうときは一段と迅速、あたかも鳥の飛ぶがごとく、たちまち見失い候」。
 これは1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、三浦半島の突端に置いた見張りが早馬の伝令で浦賀奉行所に届けた報告である。4隻のうち2隻だけが汽走(蒸気)軍艦だったが、見た者には4隻全部が同じに見えたのであろう。規模がケタ違いである。およそ三千石積としたが、当時の日本最大の千石船(弁財船)は積載重量が約150トン、ペリー旗艦サスケハナ号は2450トン、千石船の約16倍の大きさがあった。

 ペリー提督は1852年11月24日、サスケハナ号でアメリカ東部海岸を出航して大西洋を渡り南下、喜望峰を回りインド洋から中国海域を経て、琉球(沖縄)を経由、浦賀沖到着を果たす。地球の4分の3をめぐる大航海の終点であった。
汽走軍艦は、石炭を焚いて蒸気の力で外輪(船体の両側についた水車のようなもの)を回転させて動く。防腐剤を塗った木造の船体が黒く見えるため、黒船と呼ばれた。外洋では帆走することが多いが、伊豆沖で蒸気走に切り替え、全艦に臨戦態勢を敷いた。大砲、小銃、ピストル、短剣等、あらゆる兵器を動員する。艦隊には10インチ砲が2門、8インチ砲が19門、32ポンド砲が42門あり、巨大な破壊力の合計は63門にのぼる(『遠征記』)。対する幕府が砲台に備えた大砲は約20門である。

 双方の大砲は沈黙している。多数の漁船や小舟が艦船を取り囲む。浦賀奉行所が与力の中島三郎助とオランダ通詞の堀達之助を乗せた番船を派遣する。番船は旗艦(司令官の搭乗する船)を識別し、密集する舟の間を縫ってサスケハナ号に近づいた。
4隻の艦隊には約1000人の隊員のほか、条約交渉のため、広東で加わった宣教師ウイリアムズや中国人通訳、さらに上海で雇ったオランダ語通訳ポートマン等が乗船していた。ペリーは、日本側に文書では漢文、口頭ではオランダ語を使う人員が多数いるという情報は把握していたが、日米交渉を何語で行うかを決めていなかった。

 一方、幕府は、第一声を英語で伝えた通り、オランダ語を当然とした。前年の1852年、長崎のオランダ商館長を通じてペリー来航の情報を得ると、来航の地を長崎か江戸に近い浦賀と想定し、出島の約100家のオランダ通詞から精鋭を選抜して浦賀奉行所に配置した。
 海上高く聳える旗艦から身を乗り出す水兵に、堀が大声で呼びかけた。”I can speak Dutch!”(「我が方はオランダ語を話せる」)。ウイリアムズの記録(洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』)によれば、幕府の高官を寄こすよう言うと、その男は同乗の人物を指し、「この方が浦賀のセコンド・ガバナー(副総督)である」と返答(実際は与力)、そこで艦長室に招き入れ、ペリーの副官コンチ大尉と会見させた。

 この瞬間にオランダ語が会話における共通語となった。
 幕府の対外政策は、①1791年の寛政令(ロシア船への薪水供与令)、②1806年の文化令(寛政令のさらなる緩和)、③1825年の文政令(イギリス軍艦フェートン号の侵入事件により強硬策の無二念打払令に転換)、④1842年の天保薪水令(アヘン戦争による南京条約締結の1日前、文政令の撤回と文化令への復帰)の、4つの段階を経ている。
 1853年のペリー艦隊来航時は、来航目的を問い、必要に応じて薪水等を供与する穏健な天保薪水令下にあった。あらぬ小競り合いから発砲交戦に至ってはならぬと、浦賀奉行所が最初の接触時に示したのが、”I can speak Dutch!”の第一声にほかならない。

 ペリー側の要請を受けて翌日、ガバナー(総督)として香山栄左衛門(実際は与力)がペリー艦隊を訪れる。ペリー側は、最初の接触で幕府の高官を引き出せた、大成功だと、大いに喜んだ(『遠征記』)。(続く)
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【29】連載「黒船前後の世界」

 前著『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)で書き残した幕末日本のアヘン問題は、石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』東京大学出版会 1982年)所収の報告四「中国の開港と日本の開港」や論考「幕末開国考」(1983年)で一応は明らかにしたが、まだ得心がいかなかった。
 19世紀アジア三角貿易から幕末日本のアヘン問題へ、そして開国・開港をめぐる条約交渉へ、さらに外交と戦争の国際政治へと関心が拡がるにつれて、これらを統合した歴史を描くことに思いが向かった。
 幕末の開国・開港を描いた日本史の先行研究で主に参照したのは、石井孝『日本開国史』(1972年)である。前回の本ブログ「【28】幕末開国考」でも条約の日中比較を具体的に論じる時、大いに活用した。

 しかし日本史の側からだけでは、使う史料の制約から、どうしても欠落する視点が出てくる。日本の開国・開港には相手国があり、最初の相手はアメリカである。それには、日米双方の史料を対等に使う必要がある。
 それに留まらない。「日本史のなかの開国・開港」を超えて、「世界史のなかの日本の開国・開港」に分け入るには、その前のアヘン戦争(1839~42年)や、その後も戦争を軸に進んだ中英関係を知る必要があり、それにはイギリス側や中国側の史料も必要となる。幕府の対外政策や日本人の世界観も、アヘン戦争を期に大きく変わっている。

 そのころ『思想』誌(岩波書店)に「<大正>と<民国>」(1981年11月号)を書いた縁で、編集長の合庭淳氏が雑誌連載を勧めてくれた。有り難い話であるが、連載を始めるには、全体像を持ち、ある程度の書き溜めが要る。
 模索する中で、題名が決まった。ヒントは日本史家・服部之総の『黒船前後』(1933年)である。本書は黒船到来により大きく変わる日本を描いている。それなら私は黒船前後で大きく変わる「世界」を描こうと思い、「黒船前後の世界」とした。その瞬間、全体のイメージもできた。

 連載の第1回は「ペリー艦隊の来航」とした。1853年7月8日、浦賀沖に姿を現した4隻のペリー艦隊との緊迫した初の接触、さまざまな要因が凝縮するこの時を、歴史の大きな転換点と考えたからである。
 日本側の動向を示す先行研究には田保橋潔『近代日本外国関係史』(1930年、増補版1943年)等もある。一次史料は、東京大学史料編纂所編『大日本古文書』シリーズ内の『幕末外交関係文書』にあり、1853年のペリー来航から翌年の日米和親条約の締結に関係する文書は、その一から五まで(1910~14年刊)に収められ、附録(1913年~)にも本編の補遺に当たる貴重な史料がある。
 ペリー艦隊来航以前の異国船到来については、幕府の『通航一覧』や『通航一覧続輯』等に詳細な記録がある。異国船とは、長崎への定期的な往来を認めたオランダ商船と中国商船以外の国の船を指す。異国船対応令は、4回発令されており、ペリー来航時は4回目の穏健な天保薪水令(1842年)下にあった。
 この天保薪水令は、オランダ船と中国船がもたらす2系統のアヘン戦争情報を、詳細に分析した結果の対外政策であり、鎖国下で外洋船を持たない幕府の現実的対応である。

 一方、ペリー艦隊の浦賀沖の動きを知るには、『ペリー提督日本遠征記』(アメリカ議会上院文書、1856年、以下『遠征記』と略称)がある。しかし、その背後の、ペリー派遣に到る諸事情については十分ではない。
 通常は国務省所管の条約締結を、なぜ海軍省所管のペリー東インド艦隊司令長官に担わせたのか、また太平洋横断の航路を取らず、大西洋から喜望峰を回り、インド洋、中国海域を経るという長い航路を取ったのはなぜか等々も明らかにしておきたい。

 アメリカ側のいちばんの基本史料は、膨大な量のアメリカ議会文書(上院と下院)である。『遠征記』以外の議会文書全体は、まだ日本の図書館に入っていなかった。さらに国務省や海軍省等の文書類は、ワシントンDCの国立公文書館所蔵である。
 アメリカへ行くしかない、と決めかけた頃、先輩の太田勝洪さん(国会図書館勤務、のち法政大学教授)から朗報が入った。国会図書館がアメリカ議会文書を一括購入し、閲覧に供するという。膨大な資料を検索するためのCISという索引(単行本)もアメリカでは刊行されていた。

 こうして国会図書館通いが始まった。ここは開架式ではなく、目録カードで番号を調べて借り出す方式である(現在はコンピューター端末から請求)。せっかく請求しても、「該当の巻号は棚にない」と冷たい返事が返ってくることもあった。膨大な量の議会文書を入れた直後で、まだ利用者も少なく、係員は書庫内の配列に慣れていなかったのであろう。
 史料を読み進めるうちに新たな世界が拡がる。大規模艦隊を組むはずの船が揃わず苛立つペリー、発砲厳禁の重い大統領命令、中国海域に到着後の海軍省管轄下のペリーと国務省管轄下のマーシャル弁務官との確執等、ペリー艦隊の行動を縛る諸事情も浮かび上がってきた。

 これらの新しいアメリカ側史料で、「(一)ペリー艦隊の来航」、「(二)ペリー派遣の背景」、「(三)ペリー周辺の人びと」と書き進め、アヘン戦争以降の東アジア情勢はイギリス側史料と中国側史料をつきあわせて「(四)香港植民地の形成」、「(五)上海居留地の成長」と展開、そして翌1854年の幕府とペリーとの交渉、その先に「日本開国」……ここまでの見通しをつけて連載に踏み出した。(続く)

【28】連載「幕末開国考」

 『現代中国を見る目』(講談社現代新書 1980年)を書き終えると、すぐ広域アジアの近代史研究に復帰、『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)、論考「植民地インドのアヘン生産」(1982年)の延長上の課題にエネルギーを注いだ。
 とりわけ『イギリスとアジア』の第9章「日本のアヘン問題」で書き残した課題が最大の関心事であったが、研究を進めるにつれて、課題はさらに拡大していった。

 1981年12月、コンファレンス「世界市場と幕末開港」が3日間にわたり開かれた。東京大学経済学部の経済史学者が中心となり企画、部外者の私も招かれた。著書や論文で、「19世紀アジア三角貿易」について述べていたからであろう。その報告書が石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』(東京大学出版会 1982年)であり、6本の報告とそれぞれのコメント・討論を収める。
 すなわち関口尚志「問題提起-開港の世界経済史」、毛利健三「報告一 イギリス資本主義と日本開国-1850、60年代におけるイギリス産業資本のアジア展開」、楠井敏朗「報告二 アメリカ資本主義と日本開港」、権上康男「報告三 フランス資本主義と日本開港」、加藤祐三「報告四 中国の開港と日本の開港」、石井寛治「報告五 幕末開港と外国資本」、芝原拓自「日本の開港=対応の世界史的意義」である。
 このコンファレンスは10年前の1971年5月に開かれたシンポジウム「世界資本主義と開港」(この書名で1972年に学生社から刊行)やその後の著書等を受けて、「いま必要なのは単なるアイディアの開陳ではなく、実証研究の推進に裏づけられた新たな問題点の指摘…」と狙いを定めている。

 私の「報告四 中国の開港と日本の開港」(193~223ページ)は原朗氏の司会で、加納啓良氏と竹内幹敏氏によるコメントと討論(~244ページ)がつく。報告内容は、①問題の所在、②アジア三角貿易にかんする従来の研究、③統計資料について、④インド財政とアヘン収入、⑤貿易統計、⑥日本開港時の東アジア市場の6項に、コメントで⑦アヘンの持つ意味、⑧通商条約への諸段階、⑨アジア三角貿易の諸相を補足して、計9点である。
 うち②は研究史の整理だが、とくに同時代人のK・マルクスが1858年に『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』紙に書いた4つの論文について、正確な現状分析であると同時に多くの事実誤認を含むと指摘し、それを正すためには何よりも統計を正確に把握することとして、③、④.⑤によりインドのアヘン生産・貿易とアジア三角貿易を詳論した。とくに表1「インド産アヘン-輸出量とそれに伴う植民地政府の財政収入」が行論に深く関連する。

 報告要旨を事前に渡してコメントを得たため、加納氏からは、植民地インドネシア政府がベンガル・アヘンを独占的に輸入して、特定の請負商人に売却、それがライセンス収入を含め税収の19%と高い比率を占め(1860年の事例)、その一部は本国へ送金されていた等の新しい知見を得ることができた。

 なお本書には次の4点の書評があり、関心の高さが伺える。石井孝(『日本史研究』 1983年7月)、中村哲(『歴史評論』 1983年7月)、杉山信也(『社会経済史学』1983年12月)、杉原薫(『土地制度史学』 1984年7月)である。

 もう1つ書いた論考が、「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸問題を中心として」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1983年)である。遠山茂樹館長は、本誌創刊によせて「…横浜という地域の考察にとどまらず…世界近代史と日本近代史との相互影響・相互対立の接触面を代表し…館外研究者の成果も本誌に反映させたい…」と述べる。拙稿がこの創刊号の巻頭論文となった。
 本稿では論点の中心をアジア三角貿易から政治・外交史へと拡大し、日本史の領域に本格的に踏み込んだ私の初の論考である。すなわちペリーとの日米和親条約(1854年)から1858年7月29日(安政五年六月十九日)の日米修好通商条約(「安政条約」と略称)に到る外交の経緯を整理したうえで、同時代にアジア諸国が結んだ各種の条約(とくに中国が1858年に結んだ天津条約と1860年の北京条約)と比較し、安政条約のもつ不平等性は「ゆるやかで限定的」として、とくにアヘン禁輸問題に焦点を当てた。
 これまで学界で話題に上らず、したがって先行論文が皆無の、幕末日本におけるアヘンをめぐる問題である。日米和親条約(1854年)以来4年間にわたる各国との外交交渉におけるアヘンについて分析した。なお最終の安政条約に盛り込まれたアヘン禁輸は、ハリス側からの強い要請であった。
 モルヒネを含有するアヘンは最強の鎮痛剤であり、同時に習慣性を持つ麻薬である。鎖国中の日本では三都(江戸・京都・大坂)の漢方医が前年の使用実績を長崎奉行に報告し、会所貿易により唐船(中国商船)と蘭船(オランダ商船)に発注するという、厳しいアヘン統制を敷いていた。

 石井孝『日本開国史』(1972年)は、同じ1858年に結ばれた安政条約(日米)と天津条約(中英)の比較のなかで、内地旅行権、関税行政への外国人の介入の有無等4点を挙げている。私は天津条約が第2次アヘン戦争の中途で結ばれたもので、この戦争の最終条約である北京条約(1860年)と一体のものと考えるべきとし、賠償金の有無、アヘン条項、開港場における外国人側の自治権の有無等4点を追加し、そのなかでアヘン条項の重要性を論じた。
 安政条約締結の直前、ハリス米総領事(のち公使)は、米国と通商条約を結べば多くの利点があるとする演説「日本の重大事件に就いて」(1857年12月12日)を江戸城で行い、その一つとしてアヘン禁輸を強調した。本稿13ページに掲載の「条約一覧」に示した通り、米シャム条約(1833年)、米中望廈条約(1844年)以来のアヘン禁輸策を踏襲した主張である。

 ハリスの主張に対して幕閣たちは、アヘン禁輸を当然とする、あるいは論点としては軽視という態度をとる。本稿の注170で「…(アヘン)戦争の原因がアヘン貿易にあるという点を(幕閣たちは)どこまで認識していたか、これは面白い課題…」と述べている。(続く)

【27】連載「植民地インドのアヘン専売制」

 拙稿「19世紀のアジア三角貿易」(『横浜市立大学論叢 1979年)及び拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)において、イギリス議会文書の貿易統計からインド産アヘンの輸出先や箱数・価格等を分析し、これが19世紀アジア三角貿易を構成する重要な商品であることを証明した。
 しかし、まだ課題があった。インド産アヘンの生産の仕組み、とくにベンガル産アヘンの専売制の問題である。専売制は日本でも戦後もしばらく塩やタバコ葉生産等で行われており、植民地台湾では樟脳生産等で採用されていた。政府が独占的に生産から販売までを行い、競争者を排除すると同時に、得られる利益を国家の税収に充てる制度である。

 イギリスから自宅へ膨大な資料コピーを送ったが、肝心のイギリス議会文書(BPP)の植民地インド関係文書がバラバラで困っていたところ、幸いにも復刻版が東京大学東洋文化研究所図書室にあることが判明した。
 久しぶりに古巣の書庫に入り、関連の巻を見つけては必要箇所をコピー、分析するにつれて他の関連個所も必要になるという作業を何週間かつづけた。こうした史料収集を通じて書いたのが、「植民地インドのアヘン生産-1773~1830年」(『東洋文化研究所紀要』第83冊 1981年)である。序文にあたる「問題の所在」をふくめ、全4章からなる。

 長めの第1章「問題の所在」では、アヘン生産・貿易が近代史のなかで軽視されがちな理由として次の4点を整理し、統計資料の活用が不可欠と述べた。
 1)アヘン戦争(1839~42年)は有名な事件ではあるが、その原因となったアヘンの生産・貿易の実態と仕組みが体系的に把握されておらず、1つの政治的事件の把握にとどまっていたこと、加えて近代化の先導者たるイギリスがいつまでもアヘン生産・貿易に従事してはいなかっただろうと思われていたこと。
 2)日本はアヘン被害をほとんど受けていないと思われ、日本近代史では取り上げられることがなく、世界史との関連でも考える想像力に欠けていたこと。
 3)資本主義発展とアヘン生産・貿易とのイメージがマッチしなかったこと、とくに資本主義分析の始祖とされるK・マルクスが『経済学批判への序説』等で対外貿易を省略せざるを得ないとして言及せず、それがマルクス史学の影響の強い日本の史学界に浸透していたこと。
 4)日本においてアヘン生産・貿易の統計資料がほとんどなく、その制約から問題意識が薄かったこと、しかしアヘン生産・貿易に関する膨大な史料があるイギリス等においても統計資料が十分に活用されなかったことを考慮すると、世界の史学界に広く資料を生かす問題意識と手法が欠けていたこと。
 以上のように先行研究全般を整理したうえで、H・B・モース、E・オーエン、M・グリーンバーグ等の個別の先行研究を点検し、長期にわたるインド産アヘンの生産と輸出を統計により包括的に捉えることの意義を述べた。

 第2章「19世紀アジア三角貿易の基本構造」は、上掲の拙稿を踏襲したうえで、次の3点を補足した。(ア)19世紀後半の中国の輸出入における輸入品の首位が、アヘンから綿製品に代わり、輸出品の首位が茶から絹へ代わったこと、(イ)減少するアヘン輸入に対して1887年から中国海関でアヘン釐金を課すこととしたこと(なお中国海関の総税務司はイギリス人の初代R・ハートが長く勤めた)、(ウ)インド産アヘンの輸出額と植民地インドの財政収入が平行関係にあり(とくに1858年の天津条約でアヘン輸入が合法化されて以降に顕著)、インド輸出総額に占めるアヘン輸出の比率とインド財政収入に占めるアヘン専売収入の比率は、ともにきわめて高いこと。

 第3章「ベンガル・アヘンの専売化(1773-1830)」は本稿の核心部分である。これを統計資料の関係から、①1773~1791年の18年間、②1792~1808年の16年間、③1809~1830年の21年間に分けて分析を進めた。ベンガル・アヘン専売化(ほかに塩も)が始まる1773年は初代総督ヘースティングス就任の年であり、彼の専売生産の狙いと効果を考察した。アヘン専売化により、三大管区(ベンガル、マドラス、ボンベイ)のなかでベンガル大管区の税収が飛躍的に伸びる。

 第4章「マルワ・アヘンの成長」は、中央インドの藩王国で作られるマルワ・アヘンが安値で好みに合うため中国市場で人気が高まり、輸出量は1821年を境にベンガル・アヘンを凌駕する。その脅威に対抗して取られたマルワ・アヘンへの通過税措置(輸出港に至る陸路で課す)について分析した。
 イギリス東インド会社の果たした役割(貿易、税収、軍隊等)が徐々に変わり、貿易業務からの撤退=インド貿易自由化(1834年)、インド統治改革法(1858年)によるイギリス東インド会社の解散とインド帝国(イギリスの直轄支配)の成立へと進む中で、専売制ベンガル・アヘンとマルワ・アヘンに対する通過税措置を両立させ、アヘン生産・貿易は安定して高い位置を占める。
 以上が本論考の主な内容である。

 同じころ私は違う角度からの論考を発表した。1つが「<大正>と<民国>」(『思想』誌 1981年11月号特集「1920年代:現代思想の源流」)で、同じ1912年に始まる<大正>と<民国>という元号に象徴される日中両国の歴史を、関係性と対比性の両面から把握しようと試みたものである。

 すこし毛色の変わった論考が「都市空間における線と面の意識」(『横浜市立大学総合研究』第1号 1982年)である。開港直後の横浜外国人居留地では区割した「面」(ロット)に番号を付して賃貸に出し、日本人町には通りという「線」に名前(中心となるのが本町通り)と番号を付したことに着目した。
 同時期のイギリスはリーズ市の事例を挙げつつ、農村の「面」に付した名前から、都市化に伴い徐々に「線」の名前(と左右に番号を付す)へと進化した過程と対比した。また外国人の紀行文には、神社等の描写で「奥」の思想への関心が強いことを挙げた。
この2つの論考は後に「文明史」や「横浜学」の分野を開拓していくなかで、新たな展開を迎える。(続く)

【26】連載「現代中国を見る眼」刊行

 イギリス滞在中の1978年、講談社現代新書担当の久保京子さんから執筆依頼が来た。書名案は『現代中国を見る眼』、1980年中には刊行したいとある。
 この新しいテーマは、『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)とも『紀行随想 東洋の近代』(朝日選書 1977年)とも接点がほとんどなく、8年前刊行の『中国の土地改革と農村社会』(アジア経済出版会 1972年)やW・ヒントン『翻身』の訳書(共訳 平凡社 1972年)等の延長上にある。
 書名案から推すと、「現代中国史」でもなければ「現代中国論」でもなく、「現代中国をどう見るか」らしい。言い換えれば、中国の長い歴史、広大な国土・膨大な人口をはじめ、現代中国の現状分析に至る「対象」の記述も必要だが、一方で日本人をふくむ外国人の中国観(中国を見る主体)とその歴史をたどることも必要となる。これは大変だぞと腹をくくった。

 折しも中国は1878年12月の鄧小平による「改革開放」政策宣言により急速に変化し始めており、その政策内容や今後の展開も見極めにくい状況下にあった。また文化大革命(1966~76年)の評価が大きく揺らいでいた。
 こうした時に「現代中国を見る目」をどう描くか。まず日本人の中国観を述べ、ついで長い中国史のなかの現代の位置を確かめ、中国の若者の動向を通じて現代中国の現状を総括、見えにくい将来展望を書こうと考えた。私にとって同時代まで含む歴史書の執筆は初めてである。
 刻々と変わる中国の現状を分析・意見交換する「二四の会」の末席に加わっていたのが幸いした。第一線のジャーナリスト(特派員経験者等)や学者・研究者が第二・第四土曜の午後に集まる。ここで多くの示唆と知識をいただいた。

 本書の冒頭は、新中国成立前後の新聞記事を参考にした。1949(昭和24)年1月31日の北京無血開城について、「中共軍は31日午後正式に北平に入城した(AP=共同)」(朝日新聞)と2行だけの報道である。今では想像もつかないが占領下の日本の新聞は朝刊だけで、それも1枚の2面のみである。約8か月後の10月1日、中華人民共和国の成立を伝える記事も小さい。トップ記事になるのは10月14日の「国府、広東を放棄、中共軍、三方面から包囲」である。
 この新聞報道から分かる通り、「…日本の敗戦時に約400万の日本人(軍人と民間人)がいた中国、親戚をふくめて誰かが中国滞在の経験をもつ身近な中国では、すっぽり抜け落ちたこの4年間(1945~49年)に大変革が進んでいた…」と述べ、日本人の中国観に大きな断絶があることを示した。

 第一章「中国―その時間と空間」には、「1 <歴史>の重み」、「2 中国は大きい」、「3 中国は小さい」の3節を設けた。20世紀イギリスの中国賛美論者の代表と言えるG・F・ハドソン『ヨーロッパと中国』を挙げ、中国に対する「優れた古典と遅れた現代」観を見る。とくに過去1300年にわたる科挙制度をイギリスが植民地インド統治のために導入、1855年(アヘン戦争勝利の13年後)にはイギリス本国の文官登用試験法のモデルとして導入したことを述べた。
 中国の国土面積は日本の約26倍、四川省だけでも日本より広いが、可耕地(農業適地)は国土の約10%に過ぎない。日本の約9倍の人口(10億と言われた)の約8割を農民が占める。彼らは省-県-人民公社-生産大隊-生産隊という行政組織の末端である生産隊(平均200人)で生きており、1つの生産隊の農地はわずか20ha(約450m四方)。農民の「中国は小さい」と言わざるを得ない。

 第二章「新中国、三つの<経験>」には、「1 耕す者に土地を」、「2 中華人民共和国の成立」、「3 文化大革命は何であったか」の3節を入れた。1945年以来、中国農民にとって切実かつ基本的な課題である<土地改革>を扱い、1945年からの国共内戦期に主に華北の解放区で行われた改革が、新中国を成立させる大きな政治的要因となったことを述べた。
 「2 中華人民共和国の成立」では、前述のボトムアップの華北解放区の政治勢力と、広範な統一戦線の形成による政治勢力の総和として、新中国が誕生したと述べ、ついで「3 文化大革命は何であったか」で新中国成立後の最大のイベントである文化大革命を取り上げ、これら<三大経験>を総括した。

 第三章「人間と組織をどう生かすか」では、現代中国の組織特性を見るため、「1 自力更生とモデルの是非」、「2 工作団方式」、「3 幹部と大衆-政治の三層構造」の3節を設けた。「工作団方式」は精選した幹部を中央から各地に派遣してモデル事業を実施する方式であり、とくに1948~52年の土地改革推進期と、1956~58年の農村合作化(人民公社建設)の時期に大きな役割を果たし、派遣幹部(全人口の約2%)と在地の幹部候補生(全人口の約10%)が共鳴したことの意義を述べた。
 文化大革命は都市部の青年を中心に展開され、ここで幹部と紅衛兵ら幹部候補生を結ぶ意見表明の媒体として壁新聞が大きな役割を果たしたが、ポスト文革期の1980年3月、壁新聞の自由を憲法から削除する決定がなされ、これにより若手を中心とした幹部候補生のエネルギーが遮断されたと述べた。

 第四章「若ものたちの現在と未来」は、こうした鬱積した状況下の若者たちの現状分析であり、「1 世代差-乞食をめぐる論争」、「2 迷信に走る青年」、「3 自信喪失と自覚」の3節を設けた。
 現状分析には新しい資料が不可欠だが、アンケート調査やインタビュー等の直接取材は難しい。そこで新たに日本に入り始めた中国の地方紙や『中国青年報』紙、『中国青年』誌等を材料とした拙稿「中国の新聞のおもしろさ」(『世界』誌1980年8月号の「論壇」所収)につづき、これら紙誌の投書欄に出てくる若者たちのホンネと大人の解説等を主な資料とした。個別の事例は本書に譲る。

 第五章「<四つの現代化>の課題」では、「1 なにが問題になっているのか」、「2 農業は遅れているか」、「3 工業は成長するか」の3節を設け、現状を分析したうえで現代中国の近未来を考えた。全国に35万の工業企業があり、その所有形態は国営工業、農村人民公社の社隊工業(公社と生産大隊の経営)、都市集団工業の3つに分かれるが、最大の国営工業は4分の1が赤字である。
 「展望-平等と競争の二重原理」では、国営工業の赤字改善を目ざす企業間競争と農村人民公社での「五定一奨」等を取り上げ、個人間平等と企業間競争による生産性向上という二重原理の相克を述べ、展望とした。(続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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