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タケの開花(その7)

 三溪園のタケ・ササの花が終わりに近づいている、そう長くはあるまい、と想定しつつ書いたのが、本ブログの7月6日版「タケの開花(その6)」であった。

 これまでムギ研究(農学)の第一人者・坂智広さん(横浜市立大学木原生物学研究所教授)に科学的分析と見解の大部分を依存し、庭園担当の羽田雄一郎主事による日々の観察に頼り、私は主に三溪園のタケの花の推移を記録・公開すると同時に、文化的・歴史的背景を追って、昨年からブログ「タケの開花」を書いてきた。今回が(その7)になる。

前回の(その6)の末尾で、坂さんによる第12回「観察報告」(6月28日現在)の総括に触れたが、紙幅の余裕がなく掲載できなかった。それを最初に紹介したい。今回は写真や地図がないと分かりにくいため、本ブログで初めて画像入りとした。


【タイミンチク】
▶ 6月28日の観察で三溪園内のタイミンチクの分布域を把握し直した。分布エリア内部には大きな株が散在しており、そこから地下茎により子株、孫株とクモの巣状ネットワーク(Web)のように分布を広げている様子が見て取れる。

▶ 私の考えでは、昨年は尾根筋を中心としたタイミンチク分布域の中央で、数十年の周期で竹林全体が同調して開花する「一斉開花」が見られ、その勢いからすると竹林の全面で開花のピークを迎えた。

▶ 今年は一斉開花が継続。そのピークは三重塔や旧東慶寺仏殿方面の北東から東側の辺縁部に広がり、また昨年の咲き残りが竹林内部の株で部分的に引き継がれた、部分的な開花の様相を示したと考えます。

▶ この場合、一斉開花は一年で終わらず、それが昨年のピークの前後で数年続いていると思います。

▶ 竹林全体でも開花のエリアが移動しており、面積的に昨年が全面的な一斉開花(全面開花)とすると、今年は辺縁部分での開花(部分開花)あるいは部分的な全面開花であると考えます。花穂の枯れた様子を見ると、旧東慶寺仏殿付近が昨年から開花はあったものの、やはり今年の方が花は増えていると思われます。辺縁部が3〜4年に亘る一斉開花の終盤に当たるのか否か、予見は難しいと思います。
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タイミンチクの2017年/2018年開花観測地点比較


【オロシマササ】
 今年のオロシマササの開花は、昨年同様に事務所から見て向かって左側の生垣がほぼ全体にわたって全面開花し、右側の垣根でも部分開花をして、昨年よりも花の数は減ったが5月に開花のピークを迎えた。来年も部分開花は期待されるが、数と場所は限られると予想している。今後の刈り込み施肥管理の状況により、地下茎や株の生育具合によって出穂・開花の様相が左右される可能性がある。(その総括に至った考察を以下に述べる)

考察①:これまで(一昨年以前)にオロシマササが開花していたかどうか判断できないが、昨年タイミンチク同様に「一斉開花」が見られ、今年は部分的に継続した「一斉開花」が昨年も多くの花を付けた株で部分的に引き継がれた、部分的な開花の様相を示したと考えます。

考察②:管理事務所から見て向かって右手の垣根では、昨年も開花していた特定の株で今年も出穂・開花が見られたが、昨年同様に全体的に開花はしていない。また、6月に入り栄養成長が盛んになるにつれ垣根全体を通して葉に二型が顕著になった。出穂していない稈は幅広で長い葉をつけ、出穂しているものは小さい葉をつけており、a)遺伝的に均一な集団ではないかもしれない、b)刈り込み等の管理による生育状況、栄養状態により出穂開花が制御されているかもしれないなどの仮説が立てられる。来年の開花が長期周期により減少傾向に進むのか?あるいはこれからの刈り込み作業などで夏場の生育が来年の開花に影響するかは、今後実験的思考も含め検討する必要がある。

なお参考として「ササの開花と結実」(2014年、名古屋学芸大学 教養・学際編・研究紀要)、柴田昌三(京都大学地球環境学堂)「緑化植物としてのササ類」(2015年 『草と緑』7)、柴田昌三「緑化植物としてのササ類の特性とその利用」の添付あり。





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以上が坂さんによる2年間の観察の総括と見通しである。

 この間、私はタケ・ササの開花周期等に関して思いを巡らし、確かな記録が見つからない以上、他の方法で補正することができないかと、簡略なアンケート調査(主にメールによる)を実施した。お願いした対象はテニス仲間の3団体、構成員合計は約50名だが、よく参加する<常連>は30名~35名である。7月8日晩に次の質問事項をメールで発信した。

 つかぬことをお尋ねします(アンケート調査のお願い)。以下の6問にお答えください。
 Q1 タケ・ササの花を見たことがありますか? はい いいえ
 Q2 はいと答えた方に、いつごろ? どこで?
 Q3 タケ・ササが枯れた姿を見たことがありますか? はい いいえ
 Q4 はいと答えた方に、いつごろ? どこで?
 Q5 タケ・ササの花について話を聞いたことがありますか? はい いいえ
 Q6 どのような話ですか?
 実は私の関係する国指定名勝三溪園(横浜)でタケ・ササが咲いており、この何年に一度と言われる現象に関して調べている最中です。みなさんからの貴重な情報が役立ちます。サンプル数が多ければ多いほど確率が高くなりますので、ぜひご協力ください。よろしくお願いします。   加藤祐三

 その晩から回答が来始めて翌日に集中、コートで直接に訊いたものを含めると計26通。それを材料に集計、そこから得られた主な論点は以下の通りである。

 Q1とQ3については、「いいえ」が多かった。メール返答がない方々に口頭で尋ねると、Q1、Q3、Q5の全問に「いいえ」なので返信しなかったとのこと、これを加えると圧倒的多数派である。なお全問に「はい」は一人のみ。

 Q1に「はい」と答えた人も三溪園へ観に行った、テレビで観た等であり、唯一の例外が花を2度観たとの回答1件と「子どもころ周辺に多くの竹林があり、いつも花を観ていた」の1件である。

 Q3の枯れ死を見たとする回答は、花を見たとするものよりすこし多い。タケの花は小さく目立たないが、竹林の枯れ死は外からも異様な風景として印象が強いのであろう。静岡、成田等、見た場所を覚えているもの、曖昧とするものもあった。

 Q5については「はい」が意外に多かった(全体の約3分の1)。Q6の記述は2種に分けられる。第1のタイプが花の周期に関するもので、「100年周期で咲く」、「数10年に一度」、「めったに咲かない」等々である。なお「(戦禍を免れた)庭のマダケに白い花が咲くと母親から聞いていたが、自分はまだ観たことがない」と答えた83歳の仲間、タケの花の長い周期を知る実例の一つとなる。

 Q6の第2のタイプは、開花と枯れ死を関連づけた話である。「昔からよく聞いています。100年に一回、花が咲くとその竹藪は全体が枯れるというように」、「花が咲くと枯れ、数十年に一度ぐらい起こると聞いています」、「咲くことは咲くが、極めてまれである。花が咲いたタケ・ササは枯れてしまう」等である。

 花が咲くと枯れるとする説(噂、伝承、風説)は少なくないが、こう答えた人のうち「タケの花と枯れ死を見た」は、今回の調査では一人だけであり、それも同じ竹林ではない。「花が咲くと枯れる」とする説の根拠は、依然として不明のままである。

 またアンケート調査の波及効果も想定以上に大きく、「人生100歳時代」を唱えるテニス仲間の最長老(85歳)は、そのモットーに「<竹の花を観た>と加えたい」として、アンケートを見た翌日に即断即決、夫妻で三溪園へ行き、ギリギリの時期にタケの花に会えたと感激の報告をくれた。

 さらに坂さんがフェイスブックを使ってアンケートを10日に開始、対象は彼の授業を受けている学生で、20名の回答があった。回答の分布等は上掲のものと似ているが、Q6の内容に物語性(劇画性)が強い印象を抱く。

 Q1については「はい」が4名だが、ネットのニュースの写真で見たがふくまれ、実物を見たのは2名。Q3については「はい」と「いいえ」が半々で、「子どものころ通学路にあった竹やぶで」、「明確な記憶はないが、見たことがあるような気が…」とある。

 Q5についても「はい」と「いいえ」が半々で、Q6では「120年ぶりに咲いた笹の花のニュース。余りにも珍しいためか、大地震の予兆というはなしもあるらしい」、「なかなか咲くことはなく、100年に一度と言った周期で咲く。ただし、当たり年はピッタリ1年ではなくブレがあることも分かっている」と自信たっぷりの回答もある。また「咲くのは珍しく、咲くときは一斉に咲き、その後すべて枯れる」や「咲いたら枯れる」ともある。

 しかしタケの開花とその枯れ死を同じ竹林で見たとの回答はない。

 これらのアンケートから得たものが一般的に妥当するかどうかは定かでないが、一つの試みとしては有益だったと思う。

 昨年は、三溪園のタケの花がいつ終わったかの確認を迂闊にも行わなかったため、今年はしっかり見張ることとしている。羽田さんに頼むと同時に、彼に種々の連絡をくれる巡回警備の天野英士さんや清掃担当の鳥澤雅志さんにもお願いした。

 開花は気づきやすく、日にちも特定しやすいが、花の終わりとなるとまた別である。タケ・ササの花は花弁がなく(露出せず)、小さい黄色の雄しべが3個、雌しべの周囲についていて、風にゆれるのを頼りに判別する。終わりに近づくと黄色の雄しべが退色するが、どの段階が花の終焉なのか判別するのは難しく、おおよその判断しかできない。

 「本日7月9日、タケ・ササの花が少なくなり、花の所在を示す案内板を撤去しました。なお新しい開花も見られます」と羽田さんからメールが入った。撤去したのは丘の上のタイミンチクの案内板で、内苑入口のオロシマササの案内板は残してある。

 7月12日、羽田さんと一緒に園内を見て回った。オロシマササには新しい花がいくつか見られた。広域に繁茂するタイミンチクは、これまで咲いていた場所とその周辺を重点的に観察、いくつかの新しい花を見つけた。さらに周辺部と外延部も見て回ったが、こちらには新たな開花は見られなかった。

 15日、蓮の花を愛でる早朝観蓮会が始まって二日目、猛暑のなか坂さんと羽田さんが観察を行い、羽田さんが観察結果と見通しを送ってくれた。オロシマササもタイミンチクも12日の観察より花の数が増えているとあり、驚かされる。「…全体としては両種とも全面開花の盛期は終わり、栄養成長期(枝葉が伸長する時期)に入ったとことから一つの区切りをつけてもいい時期かと思いますが…、花の終焉という表現にふさわしい状態がいつ頃訪れるか予想は難しく、人間の都合通りにはいかない自然を観察し、伝えることの難しさを感じております」とあった。

 「人間の都合通りにはいかない自然を観察し、伝えることの難しさ」に、私も強く共感する。とりあえず、以上をもって急ぎ中間報告としたい。
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タケの開花(その6)

 「今年も三溪園のタケの花が咲いた」と書いたのが4月17日のブログ「タケの花(その5)」である。その末尾で4月11日に坂智広さん(横浜市立大学木原研究所教授)から届いた論考「三溪園の竹の花 観察記録(1)」の一部を引いた。「…イネ科タケ亜科メダケ属(Pleioblastus)に分類される、オロシマササとタイミンチクが、どれくらいの開花周期で、開花後にどうなるのかは全く分かっていません。…植物が花をつけるのは、一生のうちで最も大きなイベントです。…」

 これから約2か月半になる。内苑の事務所前にある植え込みのオロシマササと三重塔近くに繁茂するタイミンチク、いずれも静かに咲いている。オロシマササは丈が低いためか、しゃがんでカメラを構える人の絶えることがない。

 昨年より1か月以上も早く開花した後の展開は、ゆっくりで目立たないが、終わってはいない。最近の記録から抜粋すると、「…オロシマササは開花株と開花穂が増えてきたという印象。出穂の仕方について、多くは根元の分げつから1本だけ出穂するタイプだが、昨年開花した株では高いところの節から分枝して出穂開花しているタイプも見られる。 地際から生える新枝についた穂も、昨年より大きめで色が濃いように感じた」(4月26日、坂)。

 「園内を一巡、タイミンチクの新たな開花は認められなかったがオロシマササの開花は見つけた」(5月1日、私)、「坂さんが来園、羽田雄一郎主事(庭園担当)と一緒にオロシマササ及びタイミンチクの観察を行う。印象では開花が進んだようには見えないが、一部に新しい花も発見した」(5月10日、私)、「今日はすこし蒸し暑い。オロシマササの開花が増えた印象あり」(5月17日、坂+私)とある。

 5月21日、斎藤淳一さんからメールが入った。本ブログの2018年3月26日「善四郎とペリー饗応の膳」で紹介した方で、2年連続で咲いたタイミンチクとオロシマササの写真を撮ってきた。「昨年(6月9日)も<一生に一度しかないチャンス>と蚊に刺されながら撮影してきましたが、その経験を活かして今年は準備万端、長袖シャツに虫よけスプレー、虫刺されのかゆみ止め、…去る16日に開園の午前9時を待って入園、撮影してきました」とある。

 これにつづく一文が、多くの人の気持ちを代弁しているのではないか。「生涯に一度、出会えるかどうかというタケの花を2年連続で、しかも同じ場所の同じ株(地下茎)で観られる<幸運>を喜んでいいのやら、<その分、宝くじ高額当選運が遠ざかった>と嘆くべきか、はたまた、何か(天変地異でも?)が起こる予兆なのか…と、この珍現象にひとりで興奮しています。」

 5月31日、三重塔の近くでタイミンチクを観察しつつ談笑している二人連れのご婦人に声をかけた。「…タケの花には花弁がないのが特徴、イネ科の植物で雄しべ・雌しべともにイネやムギに似ている。イネやムギは受粉して実をつけ、それを人が食べるが、タケは開花後に必ずしも結実しないこともあり、結実しても不稔のこともある。そもそも開花の目的が子孫を残すためか、あるいは地下茎による個体の再生産(クローンの形成)が何らかの要因で困難を来たし、死滅を回避する一つの方法として開花・受粉して実をつけるのか…いずれも分かっていません。」等々、これまで得た知識をすこしばかり披露した。

 お一人が、子どものころ川崎で、青桐の花は咲くと死滅する、開花が不吉の代名詞とされていた、また蓮の花は咲くときにポンと音がすると言われ、早朝に寺へ聴きに行ったが、和尚さんから「そんなことはありません」と教えられたと話してくれた。私が「ポンという音の噂に誘われて、お寺参りや早朝の観蓮会に人が集まるのでは?…」と言うと、「…あら。黙っている方が良いかしらね」の返事。たわいない、楽しい会話だった。

 この日の夕方、坂さんが固定カメラ3台を設置、タイミンチクの定点観測を開始した。

 6月14日、所用で来園できない坂さんに、私から「観察では一昨日及び先週と似ていて、新しい花もあれば、そのままの穂先が残ってもいる印象。全体として増えても減ってもいない。」と送った。羽田さんの観察は、「花数としては、先週よりもやや少ないと感じ…雄しべが垂れた状態の花数は、先週と同じくらいにも思えたが、開花したての花や先週の観察で…注目の新たなつぼみは減少しているようでした。出世観音の手前で新しいつぼみが見られた程度です。鈴なりの穂は新たに見つけられず…」と詳しい。

 19日、北九州市立大学の近藤倫明前学長がメールで、「竹の花は60年に一度枯れる前にとの説有。遠く離れても呼応して咲くと竹学者から聞いたことがあります。」と報せてくれた。開花周期説も開花後の枯れ死説も、全国規模で言われているようである。確かな記録に基づく説明が欲しい。

 後日、近藤さんから同僚の岩松文代さんの研究資料「日本語の視点からみた竹笹概念(その2)万葉集の「たけ」「しの」「ささ」概念」(Bamboo Journal no.30 2017)を受けとった。「万葉集で「たけ」は皇族を象徴する高貴な概念を持つ言葉で、人の美しい姿、さびしさ、苦しい恋などの比喩であり、「ささ」は人をおもう切なさの比喩…」とある。古代人の抱くイメージに、目前の花が重なる。

 <竹酔日>(ちくすいじつ)という言葉を思い出した。去年6月1日掲載の「タケの開花(その2)」に「…<竹酔日>の言葉が村松さんから出た。この日にタケを植えるとよく育つという中国の言い伝えで、陰暦5月13日、新暦で6月23日頃を指す。この頃がタケの個体更新や世代交代の最適期なのか。まずは竹酔日までの変化をしっかり観察していきたい。」と書いた。

 その<竹酔日>の6月23日が昨年の「タケの開花(その4)」の掲載日で、テレビ朝日の報道の顛末等を引用して終わっている。

 今年の<竹酔日>はとうに過ぎた。坂さんが地図を作り、6月28日、「…去年より開花地域がり…三重塔西側斜面から東慶寺お堂と滝の方向に向かった北東側でタイミンチクに多くの開花が見られる。…」と送ってくれた。今年初めて開花域が拡がったのか、あるいは今年初めてそれに気づいたのか。

 6月29日、気象庁はついに関東甲信の梅雨明けを宣言、6月中の梅雨明けは観測史上初とのことである。<異常気象>か<温暖化>か。

 4月4日にオロシマササが咲いたとの第一報が入ってから3か月も経過してしまった。7月4日、昨年と今年の開花地点を示した新しい地図と観察結果に関する壮大な仮説が坂さんから届いたが、今回は7月5日までの近況を急ぎお届けする。

 タイミンチクもオロシマササもまだ咲いている。

タケの開花(その5)

 今年も三溪園のオロシマササが咲いた。4月4日の朝、驚きの朗報が庭園担当の羽田雄一郎主事から入る。

 今春の陽気は例年と異なるようだ。ソメイヨシノの開花と満開が例年より10日も早く、3月下旬には散ってしまった。4月4日には最高気温26℃と夏日を記録する一方、北海道では雪が降った。異常気象が三溪園の植物にも影響するだろうとは思っていたが、それが「タケの開花」とは。もとより、これが異常気象のせいとは言い切れないが。

 確認のため本ブログの昨年分を調べる。三溪園のオロシマササとタイミンチクの開花の第一報は5月5日、坂智広(ばん ともひろ、横浜市立大学木原生物学研究所教授)さんから来た。つづけて彼の5月14日、18日付けメールには花が大幅に増えたとあり、25日には岡山から駆け付けた村松幹夫岡山大学名誉教授、木原生物学研究所の木原ゆり子さん、坂さんとともに花を観た。村松さんは日本育種学会(3月29日)で坂さんに「タケの花」の不思議を語った方で、坂さんの旧木原生物学研究所(京都時代)の大先輩である。

 6月1日掲載のブログ「タケの開花」(その2)」に、坂さんの観察記録を引用した。
「…タイミンチクの花は、すっと伸びた花穂の先端に雌しべが包まれ、それを取り囲むように雄しべ(その葯は数ミリ)3個が垂れ下がっている。開花は、同じ株の各所に、そして他の株へと確実に拡がっていたが、村松さんによれば、これが<一斉開花>の前兆なのか、それとも<部分開花>なのかを確定するには、さらに2~3週間の観察を待つ必要があるとのことである。…タケの開花は60年、90年、120年と長い周期で1度だけ起きるとされるが事例報告は多くなく、周期の年限をめぐっても確実なデータはごく少なく…現象を的確に観察して記録に残すことが重要である。」

 ついで6月8日掲載のブログ(その3)では「一斉開花」と「部分開花」の区別、タケ(学術用語でbamboo表記)とササ(学術用語でsasaと表記)の区別等に触れ、23日のブログ(その4)では長い周期で1回咲き、開花後は死滅するか否かの議論等を紹介した。

 この開花は、5月31日の毎日新聞、6月3日の朝日新聞、7日の神奈川新聞、そしてテレビでも取り上げられ、話題となった。

 そして今春、ふたたびの開花。しかも一ヵ月も早い。すぐにメールで坂さんに現場観察を依頼する。さっそく4月5日の昼、坂さんが状況を知らせてくれた。管理事務所前のオロシマササについては、「数カ所で部分的に稈が伸びて出穂開花…、また垣根の後ろには昨年よりも数は少ないが、昨年同様に地下茎で伸びた新枝が地面か出ており、10cmくらいの高さで穂をつけて開花…」
また三重塔のある丘の上のタイミンチクは、「昨年開花していた多くの株の付近で、10箇所ほど出穂開花を認め、…今日出穂開花を認めた稈も、古い稈の節から分枝して出穂しているものか、地下茎をたどった先端で新梢として株立ちしているものが出穂している状況です。イメージとしては、オロシマササと同じように、昨年の咲き残りの稈が出穂開花している状況…」とある。

 4月9日、現場で坂さんから花の生育段階や開花の場所、花を持つ部位等の説明を聞く。花は若緑色の鞘に黄色い3つの雄しべを付け、ひっそりと咲いていた。先折れした2年目の稈の直下の節や、地下茎の先端から地面に顔を出した新梢に穂がついているのも見た。

 この貴重な情報を分かち合いたい。まず三溪園のホームページで羽田さんが公表することにする。翌10日号の「三溪園だより」欄に「今年も咲きました」の標題で、2枚の可憐な花の写真と解説文が載った。

 「昨年の5~6月頃、約90年ぶりの開花といわれる話題で沸いた三溪園の竹の花が今年も開花しました。2月上旬ころから開花し始め、3月下旬ころより花数が増えてきました。画像1枚目がタイミンチクの花、2枚目がオロシマササの花です。4月9日17時頃撮影」。

 11日には坂さんから「三溪園の竹の花 観察記録(1)」と題する論考が届いた。その一部を引用する。「…イネ科タケ亜科メダケ属(Pleioblastus)に分類される、オロシマチクとタイミンチクが、どれくらいの開花周期で、開花後にどうなるのか?は全く分かっていません。これまでにしっかり観察した人が、世界のどこにもいないからです。…三渓園の歴史とともに謎をとく、科学的に大変貴重なフィールド実験です。…植物が花をつけるのは、一生のうちで最も大きなイベントです。…初めは見つけるのが難しいかもしれません。…雄しべの数が何本なのか?雌しべがどんな形なのか?花粉はどうやって飛んでいくのか?などなど、みなさんも新しい凄い発見を楽しんでください」。

 この坂さんの論考の要約を付して、「今年も咲いた“竹の花”」と題する記者発表資料を作成し、12日午後、吉川利一事業課長名で公表した。これから新聞・テレビ等の報道がつづくと見られる。

 生涯に一度、出会えるかどうかというタケの花を見に来園する方が、今年はさらに増えるのではないか。

 本ブログでも適宜、この稀有な花の推移を追っていきたい。

女性駐日大使ご一行の三溪園案内

 2018年3月2日(金曜)午後、女性駐日大使13名(アジア、大洋州、中南米、欧州、中東、アフリカ)が、林文子横浜市長招待の懇談後、三溪園まで足を運ばれた。前日の春の嵐も収まり、観梅会の最中、馥郁(ふくいく)たる香の中で、花も枝ぶりも楽しんでいただき、三溪園の魅力をお伝えしたいと準備した。

 歓迎の挨拶で、通常は260人ものボランティアが、ガイド、庭園管理、合掌造りの運営等に尽力しているが、今回は吉川利一事業課長と私がご案内したいと述べる。英語の通訳はエクシム・インターナショナルの清原美保子さん。

 正門を入ると間もなく、一斉に歓声が上がる。私はここを密かに<展望所>と呼んでおり、多くの人が最初に感動する場所である。左側に外苑、右側に内苑を見て、外苑の三重塔(英文版リーフレットの2)と内苑の鶴翔閣(リーフレット8)の2つのシンボル的な建造物を視野に入れ、それらと現在の立地点を結ぶ「三角測量」により、東西南北と地形の高低、これから歩く園路が谷底にあることを確認してもらう。
 三溪園のホームページ(http://www.sankeien.or.jp/)に同じ地図がある。

以下は女性大使一行にお伝えした概要である。

 谷と丘から成る地形は、谷戸(やと)と呼ばれる。横浜の地形の特徴であり、市内に約3000あったが埋立により激減した。左手の大池側が1906年に一般公開した「外苑」で今年が開園112年となる。右手の南面する斜面が「内苑」。右手の蓮池の先に見える茅葺屋根の建物が鶴翔閣で1902年落成、原三溪が住まいとした(時に34歳)。4年後の1906年に外苑を公開、ついで内苑を造営し、約20年の歳月をかけて三溪園を造りあげる。

 原三溪(1868~1939年)は、岐阜県佐波柳津(現岐阜市)の庄屋青木家の長男に生まれ(富太郎)、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、跡見学校(明治8年創立、現跡見学園)で教鞭を取るなかで、埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎(1827~1899年、開港横浜の第一世代)の孫娘・屋寿(やす)と出会い結婚(24歳)、原富太郎となる。この教え子とのロマンスに、一行から華やかな声が上がった。なお三溪は原富太郎の号である。

 内苑入口で記念撮影を終え、左折して梅林へと向かう途上、横浜がとても若い都市であることを伝える。横浜の歴史はわずか150余年。奈良の1300年、京都1200年、鎌倉800年、江戸・東京400年に比べ、きわめて短い。都市横浜の起源は、日米和親条約(1854年)と日米修好通商条約(1858年)に基づく1859年の開港(5港開港場の1つ)にある。来年、横浜開港160周年を迎える。

 この若い都市へ「進取の気性」に富む人びとが全国から集まり、「三代住んで江戸っ子」に対し「三日住めば浜っ子」と言われた。諸外国からも貿易商を中心に渡来、幕府は外国人居留地を設定して賃貸する。日本人町には江戸の大店へ出店を促すが、関東一円の商人が積極的に進出し、主導権を握った。

 横浜は五港のうち最大の貿易量を誇り、筆頭輸出品の生糸が日本の外貨獲得に大きく貢献する。この生糸売込商の一人が原善三郎で、弁天通りに店を、野毛山に自宅を構え、本牧村三之谷の土地を入手、1880年頃、その丘(いまの三重塔隣接地)に煉瓦造の別荘・松風閣を建て、中国趣味の小さな庭園を造った。

 1898年、善三郎の逝去に伴い、三溪は生糸売込商原商店を承継して近代的な原合名会社に組織を一新、製糸業にも着手した(富岡製糸場等の経営は1902~38年)。

 三溪は、外苑の造営を先行させ、植栽と日本伝統の古建築移築や石(庭石、石塔、灯籠、礎石等)の配置を造園の基本に据えた。植栽は、平安時代から花の代表とされ果実を薬用・食用とした梅を中心とし、江戸時代初期(17世紀)に栽培が始まる東京の蒲田(現梅屋敷)、川崎の小向(多摩川河川敷)、横浜磯子の杉田から名木を集めた。1906年の開園当初から三溪園は梅の名所として知られる。

 初音茶屋(観梅会の時期には麦茶を供す)の近くの臥龍梅(がりょうばい)は、杉田梅林から移した100余年を経た古木。その名の通り、龍が臥すが如き佇まいである。一行は思い思いに写真を撮り、香りを愛おしみ、しばしの散策。
ここで下村観山(1873~1930年)の日本画「弱法師」(よろぼし)の話をした。観山は三溪が支援した画家の一人で、画題は能(謡曲)に因む。

 河内国(現大阪府)の通俊は,人の告げ口を信じて、わが子の俊徳丸を追出す。悲しみのあまり盲目となり乞食の弱法師と呼ばれた俊徳丸は,梅が咲く四天王寺(聖徳太子建立、6世紀、最古の仏教寺院)で施行(僧や貧しい人びとに物を施し与えること)を受ける。寺の縁起などを語るうち,父はわが子と気づき,日想観 (にっそうかん、西に没する日輪を観て、極楽浄土を想い浮かべる修行) を子にすすめる。弱法師は夕日に向かい、舞い狂う。

 この屏風絵「弱法師」は、高さ187センチ、幅8メートルもの大作と言うや、「私の背と同じ」と声が上った。川幡留司参与から借りた複写の「弱法師」を拡げる。画面左端に夕日、それに向かい合掌する右端の弱法師。弱法師をいざなうように、横長の画面いっぱい、夕日に枝をさし延べる臥龍梅。ここで撮影ラッシュとなった。市長公舎で下村観山の「富士山」を観てきたばかりの一行の印象はひとしおだったらしい。

 弱法師が描かれたころ、詩人のタゴール(Rabindranath Tagore 1861~1941年、アジア初のノーベル文学賞(1913年)を受賞)が三溪園に滞在しており、この絵に惚れ込み、インドにもと要望した。その模写を鶴翔閣で行ったのが画家の荒井寛方。タゴールは1916年、寛方をビチットラ美術学校の絵画教授として招聘、寛方はアジャンター石窟群の壁画などの模写にも当たり、日印交流に貢献した。

 来た道を戻り内苑へ向かう。内苑の造営は1914年の三重塔移築後に一挙に進んだ。古建築の移築は造園の美的観点にとどまらず、明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動の下、衰退する寺社や仏像等を護るべしとする岡倉天心(1863~1913年)の思想に共鳴した三溪が実践躬行した成果でもある。なお天心の想いは古社寺保存法(1898年)に結実し、戦後1950年の文化財保護法に継承された。

 1917年に臨春閣(リーフレット11)、1918年に月華殿(リーフレット13)、1922年に聴秋閣(リーフレット16)と春草廬(リーフレット17)を移築(それぞれの古建築の由来はリーフレットにある)、1923年、内苑の完成を祝う大師会茶会を開催する(三溪55歳)。

 その直後の9月、関東大震災で市内は壊滅的被害を受ける。三溪園の被害は倒壊した山上の煉瓦造のみで比較的小さかったが、以降、三溪は横浜の震災復興の先頭に立ち、1939年に没する。享年70。三溪は実業家、造園家、茶人、日本画家の支援者であり、自らも日本画を良くした。

 戦中・戦後の混乱期を経て、1953年、三溪園は原家から財団法人三溪園保勝会(理事長は横浜市長)に移され、復興の道を切り開いてきた。そして2007年、国指定名勝(文化財の1つで「景色の優れた地」)を受けると同時に組織替えし、公益財団法人三溪園保勝会として管理・保存・活用等の事業を担って現在に至る。

 名勝指定の理由は、「…近代横浜を代表する実業家である原富太郎(三溪)が明治時代後期から造営した自邸の庭園。起伏に富む広大な敷地に古建築を移築し、池や渓流を築造した自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・観賞上の価値は極めて高い」(平成19年2月6日の官報)とある。近世の石庭等の<象徴主義>に対する<自然主義>に基づく近代の風景式庭園である。

 内苑の御門(リーフレット9)をくぐり、右手に白雲邸(リーフレット10)を見て進む。臨春閣前の広場に出ると、眼前に広がる壮大な美しさに驚きの声が上がる。今回の来園が二度目の大使もおられるが、桜、新緑、花菖蒲、名月、紅葉、雪景色等、四季折々の来園に興味を持っていただいた。

 三溪記念館(リーフレット20)に入る。内田弘保理事長が挨拶を述べ、池を望む望塔亭でお抹茶を振る舞う。引率の関山誠国際局長によれば女性駐日大使はいま22名、その過半数が万障を繰り合わせて参加された。日ごろから互いに交流があるようで、打ち解けた会話と笑い声が絶えない。お点前の実演をする大使の姿にまた盛り上がる。最後に三溪園職員による手作りの紙雛の匂い袋「根岸~本牧 お雛さまめぐり」(観梅会催事用に特製)をプレゼントした。

 好天に恵まれ、楽しい一時を過ごしていただけたと思う。

三溪園ボランティア

 2003(平成15)年の第1次募集に始まる三溪園ボランティアは、2017(平成29)年6月の第12次募集で、当初の85名から235名に増えた。線グラフにすると一目瞭然、波を打ちつつ着実に増えていることが分かる。

 三溪園ボランティアは、現在、ガイド・合掌造り・庭園の3つに分かれ、活動時間は10:00~15:30(12:00~13:00は昼休み)。235名の内訳をみると、ガイドが162名で曜日ごとに班に分属(うち1名は2つの曜日に登録)、平均すると1曜日あたり20数名となる。合掌造りが44名、こちらも曜日ごとに分属、平均して1曜日あたり6名。庭園が76名(ガイドまたは合掌造りと重複登録者あり)で、曜日にかかわらず年10回程度の庭園保守管理に参加する。

 年齢は31歳から89歳まで、男性162名に対して女性73名。みなそれぞれの領域で豊富な経験を重ねた方々で、三溪園とその創設者の原三溪(富太郎)に惚れ込み、ほとんどの方がその魅力を広く伝えたいとボランティアに志願された。居住地は横浜市内ほか神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県にまたがる。

 三溪園の休園日は12月29日から31日の3日間のみで、年に362日、活動している。運営主体は公益財団法人三溪園保勝会(内田弘保理事長)で、その活動の重要な一翼をボランティアが担っている。最前線で来園者にガイドすると同時に、合掌造りの維持管理や体験型ガイド役を担い、また庭園の維持管理という<後方支援>も行う。

 1月18日(木曜)、珍しく春のような陽気に恵まれた。10時から12時半まで「三溪園ボランティア連絡会」が園内の鶴翔閣(楽室棟)で開かれ、84名が参加、第2部の懇親会は予定を超え、熱気に包まれて3時までつづいた。昨年も同じ日に開催、その関連記事を本ブログに「三溪園ボランティア連絡会」として掲載(2017年1月30日)したので参照されたい。

 配付資料はA4×34頁の冊子、(1)ボランティア活動の説明、(2)ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(スピーチ)、(3)ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(寄稿)の3つに分かれ、大部分の時間を(2)のスピーチ(1人あたり3~4分)に当て、羽田雄一郎主事の司会で進んだ。

 ガイドボランティアの部は、①月曜班が飯島彰(以下、敬称略)、②火曜班が宇草圭司、③水曜班が中江実、④木曜班が古賀則介、⑤金曜班が橋本幸夫、⑥土曜班(急用のため欠席)、⑦日曜班が西村博夫の発表。ときに事実を淡々と、ときにユーモアを交え失敗や反省を語りつつ、有益な提案も行った。

 合掌造りの部は、①月曜班が藤波富次、②火曜班が矢野幸司、③水曜班が津田延子、④木曜班(急用のため欠席)、⑤金曜班が佐藤美奈子、⑥土曜班が松井正、⑦日曜班が鈴木彰文。古民家を今に生かすため囲炉裏に薪をくべて湯を沸かし、正月飾り、ひな人形、五月人形、軒菖蒲、七夕飾り、蚕の育成、月見団子、つるし柿、花餅飾り等々、季節の行事を披露し、その一部には来園者が参加する体験型の応対もあり、思いがけないエピソードに事欠かない。

 草取り、合掌造り用の薪割り、竹林伐採、流れの清掃、蓮池の施肥等々を担う庭園ボランティアについては畔上政男が、古建築公開に合わせて重要文化財のなかで開く「茶の湯の会」(「一日庵茶会」と呼ぶ)については吉野直美が、毎月10日に行っている自然観察会については竹内勲が、そして最後に「英語の会」については出口孝嗣がそれぞれ報告を行った。

 配布冊子の後半にある「ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(寄稿)」にも事前に目を通したが、貴重な内容を含む珠玉のエッセーが多く、感銘を受けた。紹介する紙幅がないので、12点の筆者名と題名を一覧する。①飯島彰「<三渓園グループ>ですか!」(これはガイド月曜班の報告で使われた)、②大野陽「池波正太郎と三溪園・隣花苑」、③吉野直美「国会図書館デジタルコレクションで見る臨春閣の前身<大坂春日出新田食氏庭>」(筆者は上掲「茶の湯の会」の報告者)、④小野俊明「無題」、⑤吉川慎太郎「平成29年度新入生の徒然草」、⑥石井信行「三溪園は<生きる喜び> Joie de Vivre」、⑦玉田節雄「御門との朝の挨拶」、⑧福田克夫「フランス ベシュトワル家御一行の来園について」、⑨酒巻史朗「無題」、⑩志村忠夫「三溪園はすばらしい」、⑪崎豊「庭園ボランティア奮闘録」、⑫林哲夫「自然観察の会に期待します」。

 その後、10年以上のボランティア継続者6名の方々への感謝状を贈呈。石田良平、井脇音文、大川道子、久家孝之、高木宏介。10年と一言で言うが、週1回として500回余である。その献身ぶりに頭が下がる。(お名前は、ご承諾いただいた方のみ掲載)

 最後に私が挨拶。多方面にわたるボランティアなしに三溪園の魅力は世界に伝わらないと、その活動に謝辞を述べ、今日のこの場を話す機会が少ない曜日が違う方々との交流の場としてほしい、また今年は三溪生誕150年、明治改元150年、そしてほぼ30年に一度の古建築の大規模改修工事の初年次にあたるため、盆と暮れが一緒に来るような年となる、ボランティア活動も従来とは違う面が出てくるであろうと述べた。

 そして三溪園刊行の「小さい宝」である2種のリーフレットの積極活用をお願いした。正門からしばらく進むと視界が開け、その右側に地図板がある。そのあたりで園の概要を説明することが多いが、そのときリーフレット「三溪園」(日本語、英語、ハングル、簡体字と繁体字の中国語)を開いてもらい、地図板とリーフレットの地図が同じであることを説明、いま立っている位置と、左遠方の丘の上の三重塔、右奥の茅葺屋根の鶴翔閣の3点を結ぶ三角測量をしてもらう。

 これだけで谷戸(やと)の地形を活かした空間の特性をイメージできる上に、リーフレットに書かれている個々の古建築の配置とその説明がより活かされ、来園者の記憶と感動の反復にも役立つ。要所要所で三重塔の位置を確認してもらえば三角測量の効果がいっそう高まる。
もう1つのリーフレット「花と行事」には季節の花や各種の行事予定が記されている。これが次の来園の誘いとなり、リピータになってもらう鍵とならないか、と結んだ。

 ついで椅子とテーブルの位置をみなで変え、立食の懇親会が始まる。はじめは曜日の班ごとに集まり、やがて入り交じり、賑やかに盛り上がる。私も活発な意見交換に加わった。

プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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