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三溪の禅画と三溪園の風景画

 新型コロナウィルス感染防止のため、三溪園内の三溪記念館(3つの展示室と呈茶コーナーの望塔亭等を持つ施設)を臨時休館としたのが2月29日。そして三溪園全体の臨時休園を決めたのが4月8日である。

 感染拡大が思うように止まらず、幾度かの休館・休園の延長を行った末に、三溪園を再開できたのが6月1日であった。屋内施設である三溪記念館と旧矢箆原住宅はまだ十分な安全確保ができないため、休館のままとした。準備を整えて再開できたのは6月22日(月曜)である。

 年度をまたぎ2月29日から6月21日に至る約4カ月(約16週)という長期の閉館は、三溪記念館にとって初めてであり、<異常事態>であった。

 三溪園ばかりでない。横浜市、神奈川県、日本全体、そして世界にとって、新型コロナウィルス感染症との戦いは今なお進行形である。この間、本ブログで計13回にわたり「人類最強の敵=新型コロナウィルス」を連載、その中で三溪園の苦闘にも触れているが、今回は三溪記念館の展示を取り上げたい。

 会期は、第1,2展示室が7月21日まで、第3展示室の「第44回三溪園俳句展」は9月2日まで。

 担当は北泉剛史学芸員。感染防止策として、美術館等のガイドラインに沿い、①手指消毒用アルコールの設置、②空調機等による換気の徹底、③状況に応じた入場制限を予定、を採用した。これに加え三溪園独自の工夫として、展示作品の間隔を十分にとった。

<所蔵品展>は、季節ごとの絵画(三溪の作品と三溪ゆかりの画家による所蔵品)、園内古建築の障壁画(収蔵庫で保管の現物)の展示や漆工芸品等の公開を主にしてきたが、今回はコロナ感染対策を意識した展示である。

【再開後初の展示】
 第1展示室は三溪の<禅画>4点と横浜の画家として今村紫紅(いまむら しこう)と牛田雞村(うしだ けいそん)の二人の代表作を各1点で、すっきりと構成した。北泉さんの解説で、ご案内したい。

原三溪《漁樵相賀》
 通常、「漁樵問答」として、漁師と樵が相対して議論する場面が表されます。異なる生業の二人がお互いの仕事の大変さを主張し、結局のところ、ともに同じような苦労を抱えていることに気づくという禅問答です。本図では、議論する様子ではなく、ともに笑顔で談話する姿が描かれています。

原三溪《指月》
 穏やかな表情の布袋が指さす方向には月があることを示しています。「指月布袋」という、昔から親しまれる禅問答を表す画題です。解釈には諸説ありますが、布袋が指を掲げたとき、その先にある月を見ず、指先を見てしまうようでは、悟りの境地には至らないという深い意味が込められています。

原三溪《寒山拾得》
 寒山と拾得は中国・唐時代の僧侶で、いつも着物は破れており、髪は乱れていたといいます。それが、俗世を離れ仏教の悟りを体現している姿として禅画の画題に好まれました。寒山が経巻、拾得が箒を持つ姿は定型で、本図では髪・着物・肌ごとに異なった筆遣いが見え、表現力の高さが窺えます。

原三溪《寒山画讃》
 こちらは寒山のみを描いた作品です。満面の笑みを浮かべ、うたた寝している姿が描かれます。通例では、寒山は経巻を携えますが、よく見ると、本図では竹筒のようです。竹筒には、水だけではなく飯や酒を入れることもあります。賛に「飽腹一眠」とあることから、食後のひと休みと思われます。

【横浜ゆかりの画家】
 コーナーを右折すると、横浜の画家として取り上げる今村紫紅(1880~1916年)と牛田雞村(1890~1976年)があり、以下は再び北泉さんの解説。

 ともに横浜の出身で、横浜市立尋常高等横浜小学校(現在の本町小学校の前身)を卒業しました。二人は歴史画家の松本楓湖が主宰する安雅堂画塾で学んでおり、紅児会・赤曜会という美術団体で新しい時代に向けた日本画を研究しました。紫紅は明治44(1911)年から、雞村は大正2(1913)年から原三溪の支援を受けています。
二人の作品にはともに繊細な線描の作品もありますが、こちらのように輪郭線を用いない作品も描いており、さまざまな表現の可能性を追究していたことを思わせます。

今村紫紅《山村夕暮》
 山間の村の夕暮れを描いた作品です。版画のように色を重ね、淡い樹木がだんだんと暗くなっています。手前はすでに日が翳りながら、奥にはまだ夕日の残照が当たっている様子が伝わってきます。また、帰巣する一羽のカラスが明るい空のアクセントになって、静かな場面に動きを与えています。

牛田雞村《山中樵夫》
 鬱蒼とした木々の中に、薪を背負った樵の姿が見えます。斜めに重ねられた絵具は、風の強さを表しているようでもあります。大正初期は赤曜会の画家を中心に、画面の大部分に緑青や群青を用いた作品が見られます。また、印象派風の点描画は紫紅が好み、雞村はその影響を強く受けていました。

【今村紫紅と原三溪】
 北泉さんの解説に導かれ、三溪の禅画を観る。コロナ対策で展示物の間隔を広くとったためか、見る側の歩みもゆったりして、それだけ非日常の世界に入りやすい。

 今村紫紅の《山村夕暮》の前まで来て、7年前の三溪園保勝会の財団設立60周年を記念する特別展「今村紫紅展−横浜のいろ」(2013年11月2日~12月2日)に関する記事を思い出した。「今村紫紅と原三溪」(『(都留文科大学)学長ブログ』の108回(2013年11月20日)である。本ブログの右欄にあるリンクの「都留文科大学学長ブログ」にもある。

 その時の図録(96ページ)の表紙を飾っていたのは、豊臣秀吉の醍醐の花見を描いた《護花鈴》(ごかれい)。紫紅31歳の作品である。

 今村は横浜小学校卒業後、山田馬介(1871~ 1938 年)に英国風水彩画を学んだ。「少年期 に洋画の一端を学んだことは、彼の画業に とって大きな出来事で、後に日本画家とは 思われない素描法や線質を見せたことがその証である」と図録所収の松平修文「今村紫紅の画業」は指摘する(図録解説等)。

 1898年、18歳で自ら紫紅(「千紫万紅」から取った)と号し、日本美術協会展に出品して入選、のち安田靫彦(1884~1978年)らと紅児会を結成。1907 年には、安田に連れられ茨城県五浦の日本美術院研究所(岡倉 天心が主宰)にしばらく滞在し、天心ほか弟子の横山大観らと知り合う。1911年、上掲の「護花鈴」を文展に出品、これに三溪が着目、支援を始める。

 三溪は古美術の名品を収集するとともに、それらを新進の日本画家に見せては共に議論し、模写等を許した。さらに彼らの作品を買い上げるパトロン役も引き受けた。その一人が紫紅である。

 生年順に並べると、天心が1863年、三渓が1868年、紫紅が1880年である。三溪は5歳年長の天心の思想と行動に共鳴し、12歳若い紫紅の画風にほれ込み、育てたという関係になる。

【第2展示室:障壁画と三溪園の風景】
 第2展示室へ進むと右手に、臨春閣第三屋の一階「次の間」を囲む障壁画・雲澤等悦《山水図》(の現物)が展示してある。

 正面と左手のケース内には<三溪園の風景>として、往時の三溪園を描いた貴重な絵4点を展示している。北泉さんの解説を引用しよう。

村田徳治《三溪園画巻》
 原家の執事を務めた村田徳治が描いた《三溪園画巻》です。巻末に「戦災前の三溪園」とあり、戦後、かつての三溪園を偲びながら描いたものとわかります。正門から原家(現在の鶴翔閣)を通り、内苑をめぐって外苑の奥へと続いて一周する構成で、現在は失われてしまった建造物も見られます。

牛田雞村《三溪園全図》
 園内の様子から、大正10年(1921)頃、関東大震災以前の三溪園であることがわかります。右手の大きな建物は原家の本邸(現在の鶴翔閣)で、当時では珍しい車が停まっています。三溪記念館の辺りは平地で、その先には富士山が見えていますが、現在も天気の良い日には松風閣から眺められます。

小島一谿《三溪園》
 一谿は、はじめ洋画を学び、三溪と縁の深い牛田雞村や中島清之と出会って日本画に転向、前田青邨に師事しました。本図は広々とした眺めのなか、大池に浮かぶ睡蓮、池端に咲くツツジが印象的です。昭和40年(1965)の制作ですが、その2年前に本牧海岸が埋め立てられる以前の姿を描いています。

小島一谿《三溪園》
 本図も昭和前期の園内風景で、正門から三重塔を望む景色は現在とほとんど変わりません。本牧海岸が埋め立てられる前には、海水浴や潮干狩りができました。その海の向こうには白い帆掛け舟らしき影も見えます。三重塔が実際よりも大きめに捉えられ、青々した山に際立って佇んでいます。

 北泉さんの解説と一緒に、これららの風景画を載せたいと思ったが、著作権者の許諾を得るのに時間がかかるため、残念ながら諦めた。ただ牛田雞村《三溪園全図》は横浜美術館企画編集『原三溪の美術』(2019年)の154ページに収録してあり、また村田徳治《三溪園画巻》は8枚組の絵ハガキとして記念館売店で手に入る。他は会期中に展示作品をぜひご観覧いただきたい。

 このほか第3展示室では第44回三溪園俳句展の入賞作品を展示している(会期は9月2日まで)。首位の横浜市長賞には、清水呑舟さんの句「三溪の草書の余白あたたかし」が選ばれた。色紙に日本画家・志世都りも氏による挿絵を添えて紹介してある。志世都さんのご厚意により、この色紙をここに収録することができた。お礼申し上げたい。

色紙_横浜市長賞


 三溪の禅画で彼の希求した世界に思いを巡らせ、また昔の三溪園を描く風景画では、谷戸の地形を巧みに活かした三溪設計の庭園の在りし日の姿を垣間見ることができた。

 三溪園保勝会定款の第3条(目的)に「国民共有の文化遺産である重要文化財建造物等及び名勝庭園の保存・活用を通して」達成すべき3つの目的を掲げているが、その最初が「歴史及び文化の継承と発展を図り…」である。

 三溪園の推移に思いを馳せつつ、眼前に拡がる風景を楽しみ、さらには未来の姿を心に描く、新たな機会を得たように思う。
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タケの開花(11)

 またたく間に季節は巡り、4月4日、「タケの開花(11)」を書き始めたものの、「人類最強の敵=新型コロナウィルス」の連載で未完のままになっていた。この未定稿にふたたび取りかかったのは、5月29日、齊藤淳一さん(200612掲載「人類最強の敵=新型コロナウィルス(12)」を参照)からのメールがきっかけである。

 そこには「2018年春に「三渓園」でのタケの花の連続開花について「何か(天変地異でも?)が起こる予兆なのか」と先生にメールをお送りしました。今回の新型コロナ禍が、それなのか???…三渓園のタケの花、今年はどうなのでしょうか?情報が全く見つかりません。6月1日から開園のようですが…」とあった。

 齊藤さんの問い合わせに「…三溪園のタケの花の情報がないとのご指摘について、途中まで書いて放置してある未定稿を添付します。今日もオロシマササには風に揺れる雄しべがきらきらと輝いていました。」と返信した。

 今年の2月末から、三重塔のある丘は一斉に下刈りを行ってきたため、目印としていたタイミンチクも地上の姿がほとんど消えた。やがて出現するタケノコが、従来のような背丈にまで成長するのを待つことにする。

 3月19日、たまたま開花状況について羽田雄一郎主事に尋ねると、「…急ぎの用事に追われ、観察に出向く機会がなく…」とのこと。この会話を聞いていた原未織主事(建築担当)が「…私は見ました。オロシマササの開花を…」というので、すぐ3人で飛び出した。

 雄しべが見え、明らかに開花している。数日前から咲いていた可能性を考えて、オロシマササは開花ではなく、「3月19日、開花確認」とした。

 ここまでが齊藤さんへ返信した今春の未定稿である。

 そもそもの始まりは、3年前の2017年5月17日掲載「タケの開花(その1)」にある。旧友の坂智広さん(横浜市立大学木原生物学研究所教授)からのメールに「…岡山大学名誉教授の村松幹夫先生から三渓園の蓬莱竹の仲間の竹の開花の話を伺いました。…1928年に三渓園の竹が開花したという記録があり、今年また花を咲かせそう」とあった。

 (その2)は、5月25日に村松さんが、木原ゆり子さん(木原生物学研究所創設者・木原均博士の三女)、坂さんと3人で来園されたときの報告を含む。

 横浜開港が1859年と知った村松さんは「この年こそ進化論の古典的名著、ダーヴィン『種の起源』の刊行年です…進化論は生物の歴史を説くもの、文系の歴史学と同じ発想により展開する学問です。分析のための素材や手法は異なりますが…」と言う。偶然にも1859年は、生物の謎を解く学問の起源と、都市横浜の起源とが重なる記念の年であった。

 タケの開花は60年、90年、120年と長い周期で1度だけ起きるとされるが、事例報告は多くなく、周期の年限をめぐっても確実なデータはごく少ない。開花は、同じ株の各所に、そして他の株へと確実に拡がっていた。だが村松さんによれば、これが「一斉開花」の前兆なのか、それとも「部分開花」かを確定するには、さらに2~3週間の観察を待つ必要があるとのことである。

 つづけて2017年6月8日の(その3)、6月22日の(その4)を掲載して越年した。翌2018年は、4月17日の(その5)、7月9日の(その6)、7月18日の(その7)、8月23日の(その8)の計4本だが、夏の記録が多いのが特徴である。以下に、主要な経過を掲げたい。

 (その6)内苑の事務所前にある植え込みのオロシマササと三重塔近くに繁茂するタイミンチク、いずれも静かに咲いている。オロシマササは丈が低いためか、かがんでカメラを構える人の絶えることがない。

 同じ(その6)は齊藤淳一さんからのメールを含む。5月21日に2年連続で咲いたタイミンチクとオロシマササの写真を撮ってきたという。「昨年の2017年6月9日も<一生に一度しかないチャンス>と蚊に刺されながら撮影してきましたが、…今年は16日に開園の午前9時を待って入園、撮影してきました。生涯に一度、出会えるかどうかというタケの花を2年連続で、しかも同じ場所の同じ株(地下茎)で観られる<幸運>…この珍現象にひとりで興奮しています。」

 (その7)は、「オロシマササもタイミンチクも7月12日の観察より花の数が増えている…人間の都合通りにはいかない自然を観察し、伝えることの難しさ」と記す羽田さんの報告を紹介、私も強く共感した。

 (その8)タケの花はなくなったかと思えば、またあらわれ(発見でき)た。しかし見つけにくくなったため、<竹の花>と書いた案内板は、タイミンチクについては7月9日に取り外し、オロシマササについては8月6日に撤去した。

 (その8)の掲載日の8月23日は、奇しくも原三溪の150年前の誕生日である(慶応四年八月二十三日=1868年10月8日)。ここで<一斉開花>の収束を表明した。<花の終焉>ではなく<一斉開花の収束>。そう判断するまでの観察経緯や、坂さんの理論展開の一部を紹介し、議論の深化の過程も記した。

 坂さんはムギの専門家で、ムギもタケも同じイネ科に属するとは言え、タケについては「この自然現象を完全に再現できるに至っていない門外漢、この数十年のサイクルの中で出会った貴重な体験を楽しんでいます」と前置きして、次のように言う。

 「地球上の生物は地球の公転による1年の季節変化サイクルに適応進化し、生活環や環境反応を営んでおり、一方で過去の地球の歴史・地質年代において氷河期など長年にわたる気候変化が起こらない時代もあったはずで、必ずしも1年サイクルの体内時計で暮らしていない生物も存在します。作物でも二年生や多年生など、ある意味で複数の時計の歯車(遺伝子)が組み合わさり生活環を成しています。タケが氷河期以前の時代に進化して古くから姿を変えていない植物であることを前提にすると、その一生が60〜120年と長期に及び、その一生の最後に花を咲かせ実をつけるとなると、「1年限定で花を終わらせる」というスケールに嵌らないと考えます。一年草が1年のうち数日間の開花期だとすると、100年の生活環(ライフサイクル)ではそれが数百日に拡大するイメージです。」

 (その8)の末尾は次のように結んだ。今年がこの2~3年の<一斉開花の収束>である可能性は高いものの、なお断定はできない。来年、開花が見られるか否かにより最終的な判断ができると考えている。…このブログ「タケの開花」も今回の(その8)をもって今年分の最後とし、三溪園のタケの花を気にかけておられる方々への報告に代えたい。今後も引きつづき身近な自然の営為に眼を向けていくつもりである。

 (その9)は翌2019年3月22日の掲載。3年連続の開花に加え、昨年には秋の開花もあり、坂・羽田のご両人と、今後の方針を話しあった。

 タイミンチクは自生ではなく移植なので、関東近辺の植物園等の移植履歴や時期を調査し、タイミンチクの生育年齢(移植年+α)を導きだすことができないか。三溪園の2本のイチョウから始まった樹齢を尋ねる「イチョウ巡り」(本ブログ2019年12月28日掲載)をしたとき、小石川植物園で10株ほどのタイミンチクを見つけたので、ここは有力な候補地ではないか、という私の考えに、坂さんは即、行動に移し、翌日にメールをくれた。

 「午後に小石川植物園に連絡をし、関係者からお話を伺えるようメールでお願いしました。また、目黒の林試の森公園に電話し、かつて国の森林研究所が開設された時代からの物語がありそうで、調べて頂いています。さらに江ノ島にタイミンチクの大きな群落があり、藤沢市の天然記念物の指定になっています。藤沢市の郷土歴史課に電話をして、英国商人のサムエル・コッキングとの繋がりが見えてきました。コッキングは牧野富太郎と交流があったようで、小石川植物園との繋がりも見えてきます。さらには、コッキング商会が横浜にあったことから、三溪園との縁もあるのでは? 加藤先生のご専門の領域に深く関わってくる予感がしております。」

 (その10)の掲載は5月29日。5月14日(火曜)に村松先生が2年ぶりに来園。木原先生のご縁から、自由学園最高学部の大塚ちか子先生と松田梢先生が参加、さらに坂さんを訪ねて滞在中の、長い伝統を持つドイツの種苗会社KWSのビクター・コルツム(Victor Korzum) 博士が加わった。

 この日は時おりの雨。羽田さんの案内で、まず管理事務所前のオロシマササを観察した。これまで花の少なかった南側の植込みに、ぽつぽつ花穂が見られ、北側の植込みには無数の花穂が。これほど広範囲に多くの花穂が揃う光景は初めてである。

 村松先生も身を乗り出して、小一時間も観察しておられた。その解説をお聞きするのは後回しに、山上にある松風閣ちかくのタイミンチクを目ざす。

 この一帯にはタイミンチクのほかにカンザンチクとメダケが混生し、海に面した崖側にカンザンチクが多くあることを教わった。よく目にするモウソウチクやマダケの竹林では、稈が一本ずつ発生する(これを<散生>と呼ぶ)。タイミンチクやカンザンチクは、比較的細い稈が何本も集まり、株立ちする<叢生>(そうせい)傾向が強い。完全な<叢生>のタケは熱帯に分布する種に見られるが、日本産でもタイミンチクやカンザンチクなどは部分的な<叢生>と言える。遠くから見てタイミンチクとカンザンチクの区別がつく人は少ないとのこと。これを念頭に、松風閣の海側(いまは石油精製コンビナートが並び、高速道路が走っている)に拡がるカンザンチクを実見した。

 半世紀ほど前の1970年頃、村松先生は、昭和初期に開花枯死したという、恐らくはカンザンチクとされていたタケ・ササの、その後の状況調査のため三溪園を訪れた。海岸側から崖付近に栽培種一種を認め、それをカンザンチクと特定したが、その時は開花も枯死も見られなかった。

 ここにきて私にはタイミンチクとカンザンチクという、似て非なる2種のタケの存在を知った。これが現場検証の第1の成果である。

 今後の問題は、(1)3年つづくタケの開花が、いつまで続くのか、(2)開花と枯死の関係はどうか(開花が枯死と結びつくケースと無関係のケース等)、(3)観察を進めていくにあたり、タイミンチクとカンザンチク(それにメダケ)が混生する三溪園の竹林の特性をどう位置づけるかである。

 その後の村松先生とのメール交換で分かった点を以下に記す。

 第1がタケの名称について。リュウキュウチク節のなかの種にタイミンチクとカンザンチクが、またネザサ節のなかにアズマネザサやオロシマチク等多数が知られるが、それぞれは互いに極めて近い種で、どのササも剪定すると、外形(外部形態)では見分けがつけにくくなる。

 第2が園芸品種について。30年前に建てられた三溪記念館内の管理事務所前にあるオロシマザサは、アズマネザサ(静岡県から青森県にかけて分布)の矮性系統の一つの商品名ではないか、あるいは西日本のネザサの遺伝的な矮性系統を自然界から見つけ、商品として名前をつけたものと思われる。いまも広く売られている可能性があり、開花の周期や開花後の枯死・再生のメカニズムを知る手がかりを得やすい。

 第3が文献との関係について。1928年の三溪園のタケの<開花と枯死>の伝聞を追って、私は坂さんと一緒に神奈川県立図書館(紅葉ヶ丘)へ行き、古い『横浜貿易新報』合冊版の1928年前後(数日分の欠号を除く)を調べたが、ついに関連記事は見つからなかった。

 村松さんは以下のように言われる。三溪園の<開花と枯死>については、1970年頃、タケの専門家で、<日本竹笹の会>会長であった室井綽(むろい ひろし)先生と横浜在住の笠原基知治(かさはら きちじ)先生から聞いた。半世紀も前のことで、場所や月日の記憶は曖昧だが、著名なお二方の発言であったので鮮明に覚えている。しばらくの沈黙の後、村松さんは「…分からないことばかりですね。…」と、ポツリと漏らされた。

「タケの開花(10)」から1年近くが経ち、2020年の春到来とともに観察を再開し始めた矢先、新型コロナウィルスの世界的な感染拡大である。

 その波は三溪園にも及んだ。2月18日からガイドボランティア(定時)を休止、29日からは三溪記念館等を休館とし、3月の各種イベントはすべて中止、4月7日からは三溪園そのものを臨時休園(5月6日まで、のち延長)とした。三溪園の再開園は6月1日(月曜)である。6月22日(月曜)には、屋内施設の三溪記念館と合掌造りの旧矢箆原(やのはら)住宅も再開した。

 今年6月14日の齊藤さんからのメールには「運がよいのか? 不吉なことの予兆なのか? とにかく、横浜の地に4年連続で咲いた<奇跡の花>をカメラに収めずにはいられない衝動に駆られました」とあり、12日に撮影した2葉の写真(タイミンチクとオロシマササの接写)が添付してあった。タケの花の細部が分かるので、齊藤さんの承諾を得て、本稿に掲載する。

タイミンチク  オオシロマササ
写真をクリックすると大きくなります

左:タイミンチク         右:オロシマササ 

細部はよく分かるが大きさが分からない、と読者の声を齊藤さんにお伝えすると、3年前に撮った写真を送ってくださいました
大明竹(タイミンチク)比較.jpg      小呂島笹(オロシマササ)比較.jpg
写真をクリックすると大きくなります
左:大明竹(タイミンチク)    右:小呂島笹(オロシマササ)

 ついで齊藤さんの質問。「原 富太郎氏ご自身は、タケとササの花をご覧になられたのでしょうか?」 私の回答案は今のところ「…富太郎(三溪)自身は日記を書かず、手紙のなかにもこの種の記述は見当たらない。だがタイミンチクは義祖父の原善三郎が植えたもの。太湖石とともに彼の<中国式庭園>の重要な構成要素である。松風閣(煉瓦造)には書画類の倉があったため、三溪は住居の鶴翔閣と丘の上の松風閣とを頻繁に上り下りししていた。タイミンチクは彼の親しい風景の一部になっていたに違いない…」である。

 4年連続で咲いた三溪園のタイミンチクとオロシマササは、<枯れ死>どころか、今も生き生きと可憐な花を付けている。

 この原稿を坂さんに点検してもらうと、すぐ返事をくれた。その第1が<開花>の解釈に関するものである。「4年目の今年もタイミンチクとオロシマササは開花したのですね。一斉開花は収束して、藪全体としては、開花イベントは2年前をピークとして徐々に散発的な開花が残ったのが現象として観察されたと考えます。株が枯れて種子で再生する一年生ではなく、株が枯れて根から再生する宿根性とも違い、藪が生きたまま世代交代をする多年生の様相に思います。ただし1年365日が1歳とした捉え方であり、タイミンチクとオロシマササの体内時計は、より長いライフサイクルで回っているのだと思います。」

 関連事項にも言及があった。「今年の3月28日に、江ノ島サムエル・コッキング苑の佐野さんから、今年もタイミンチクの花が咲いたと連絡を受け、その足で観察に行ってまいりました。3株のうちで一番大きなものに、1穂立派な穂が開花しており、あとは咲残りと思われる小さなものが数穂ありました。三溪園より1年早い動きをしていると感じます。株は8割方の稈が枯れており弱っていました。もしや開花後に枯れたのか?と不安に思い佐野さんに聞くと、昨年夏の台風で強い潮風にさらされて、南向きの植物が枯れ上がったということ、…苑内中央にある残りのタイミンチク2株では枯れはみられない。タイミンチクの足元にあるオロシマササでもわずかに出穂開花を認めましたが、全体に強剪定で刈り込まれた後のため今年の開花傾向は判断できませんでした。」

 さらに1点。タネにかんする経過報告である。「昨年、羽田さんからお預かりした結実種子はタイミンチクで2粒発芽しましたが、土が合わなかったせいか1株は緑化せず白いまま枯れてしまいました。もう1株はなんとか冬を越して今成長を始めています。オロシマササは複数株育っています。もう少し生育が進みましたら、今後の戦略をご相談したいと考えております。…」

 新型コロナウィルスの騒ぎをよそに、タイミンチクとオロシマササの開花に立ち会えるのはとても嬉しい。これからも彼らの来歴や開花の謎を追いつづけたい。

写真展「鳥たちの煌きⅣ」

 横浜市内の各所で開催される写真や映像関連45のイベント事業「フォト・ヨコハマ」の一環として、フォト・ヨコハマ実行委員会主催の高円宮妃殿下写真展<鳥たちの煌きⅣ>が1月16日(木曜)9時から22日(水曜)16時半までの7日間、三溪園内の白雲邸で開かれた。Ⅳとあるように今回が4回目である。

 これまでの写真展について、本ブログで2015年2月14日掲載の写真展「鳥たちの煌き(きらめき)」(初回)、2017年3月3日掲載の「野鳥たちの現在」(<鳥たちの煌きⅢ>展について)と2回紹介した。また後者には三溪園に飛来する野鳥の種類等の観察記録も掲載した。

 2019年2月開催の「にっぽん-大使たちの視線2018-外交官がとらえた明治維新から150年を迎える今のニッポン」(”Meiji 150 years, Japan Transforming –- through Diplomat’s Eyes 2018“)」写真展には、妃殿下も出展・出席され、多くの人が訪れた(2019年2月7日掲載「駐日外交官たちの写真展」参照)。

 妃殿下はイギリスに本部のある国際環境NGOの野鳥保護団体「バードライフ・インターナショナル」(1922年創設、世界122カ国/地域に280万人の会員、アジア部門事務所は東京都新宿区)の名誉総裁を務め、野鳥を通じた自然環境の保護に取り組まれている。日本におけるパートナー団体は「日本野鳥の会」である。

 「かながわの探鳥地50選」の一つである三溪園の大池には、いまキンクロハジロ(カモの一種)を主とした鳥たちが群れている。朝は必ず蓮池の奥の大樹に主のように止まっているアオサギは、午後には大池の畔に出張っていた。野鳥の写真を通じて、自然を愛し環境保護の大切さを訴えようとする妃殿下の思いを伝えるのに、三溪園は格好の場である。

 オープニングの祝典は1月16日(木曜)15時から三溪園内の鶴翔閣で行われた。妃殿下と駐日各国大使・公使夫妻や日本側来賓約80名の方々を、林文子横浜市長、横山正人横浜市会議長、谷田部孝一横浜市会副議長、内田弘保三溪園保勝会理事長をはじめ関係者がお迎えする。

 林市長が、「…妃殿下の写真展<鳥たちの煌き>がこのたび4回目を迎えます。無理をお願いした展示会、鳥たちがみなさまをお招きしています。…自然の素晴らしさ、世界の平和、子どもたちの未来にかける想いを、鳥たちの姿を通して感じ取っていただければ幸いです。…」 一呼吸おいて妃殿下に語りかける。「…5回目があらんことを!」 いつものように日本語についで英語で挨拶された。

 これを受けて妃殿下は、日本語と英語を交互に交え、お一人で同時通訳風に話される。「…4回目の写真展とはプロ写真家にもない珍しいケース、プロのフィールド荒らしと言われつつ、プロのご指導をいただき、進化したカメラ性能の助けを得て、今回の開催に至りました。…いま世界の環境悪化に心を痛めております。最近ではオーストラリアの森林火災で多くの動植物が死滅しつつあります。鳥の視点に寄り添い、環境保護を訴えていきたく思います。…」

 今回の写真展会場は祝典会場の鶴翔閣ではなく、徒歩数分の白雲邸である。鶴翔閣は1902(明治35)年完成の三溪の居所であったが、白雲邸は1920(大正9)年完成の隠居所であった。曇天の穏やかな日、2つの居所を結ぶ道すがらの冬景色も趣がある。

 内苑の御門を抜けると、石畳の路地の左手に、<野の鳥たち 十選>の案内パネル(縦60㎝×横90㎝)と、同サイズの写真の屋外展示(風雨に耐える仕様)が目に飛び込んでくる。

 写真は、手前から順に、空を舞う4羽のアトリ、カンムリカワセミ、滑空する2羽のタンチョウ、フクロウの幼鳥、シマフクロウ、チョウゲンボウ、アカゲラ、2羽のヤンバルクイナ、池に遊ぶオシドリのつがい、ツツドリとヒヨドリ。厳選した傑作選10点である。

 白雲邸の木戸をくぐり展示会場へ。リーフレット「高円宮妃殿下写真展-鳥たちの煌きⅣ」を受取る。A3版(両面)を八つ折りしたポケット・サイズで、日本文と英文の両面記載、全41点の一覧である。

 妃殿下の説明と応じる市長たちの談笑の後ろに参観者の列が動く。初めて聞く鳥の名前にリーフレットを開くと、鳥の名称、サイズ、撮影地等の基本情報に加え、それぞれに2行ほどの添え書きがあった。

 玄関脇の小応接には、①エナガの写真(縦100cm×横130cm)が手前の生け花と調和している。13.5㎝ エナガ科 長野県 につづけて短い添え書きがある(< >で囲った)。 <「ねぇねぇ、知ってる?」と何やらおしゃべり中? 吹き出しを付けて、セリフを書き込みたくなる。> 

 談話室(21畳間)に進む。高さ2メートルほどの衝立で4つに仕切られたコーナーそれぞれに6点ずつ計24点の写真(②~⑦、⑧~⑬、⑭~⑲、⑳~㉕)。写真サイズは縦42㎝×横60㎝と屋外のものより小さいが眼の高さにあり、鳥たちをよく見ることができる。

 ④カラスとノスリ 東京都 ハシブトカラス 56.5cm カラス科、 ノスリ ♂52cm ♀57cm タカ科 <梅林でメジロを撮影中に上空が騒がしくなり、見ると青空バックにこの白黒対決。急いでレンズを向けた。>

 ⑦オオマシコ&アトリ オオマシコ 17.5cm アトリ科、 アトリ16cm アトリ科 埼玉県 <採餌中のオオマシコのメスに接近したアトリ。威嚇され、あわてて方向転換し、飛び去った。>

 ⑮トビとカラス 島根県 トビ ♂59cm ♀69cm タカ科、ハシボソガラス 50cm カラス科 <トビは日本では普通に見られる大型で斑紋が綺麗な猛禽。この個体は、カラスの巣に近づいてしまい、退去を命じられているところ。>

 ㉒ヤンバルクイナ 30cm クイナ科 沖縄県 <沖縄本島北部のやんばるで1981年に発見された固有種。一時、生息数が激減。最近は復活傾向にあり、個体数は約1800羽。>

 ㉔シマエナガ 13.5cm エナガ科 北海道 <「何してるの?」と聞かれている気がする。エナガもとても可愛いが、亜種シマエナガの可愛さは格別>。高い木の枝にとまり下を見ている真っ白な羽毛のシマナガエ、黒い嘴と愛くるしい両目が語りかけてくる。

 談話室を出て廊下の北側の8畳間に㉖から㉛までの6点。サイズは縦90㎝×横120㎝のパネルを6枚(2段×3枚)合わせた三つ折りの屏風仕立て。

 さらに<ニの間>、<一の間>へ進む。一転して低い長机のうえに小ぶり(縦28㎝ 横40㎝)の写真(㉜から㊵まで)9点を置く。顔を挙げると庭の樹木、はるか上方に三重塔を望む巧みな空間構成である。

 ㉝オオルリ 16.5cm ヒタキ科 長野県 <高い梢でさえずるオオルリのオス。ピーリーリーと谷間に響く美しい鳴き声にしばし時間を忘れる。>

 ㉟モズ 20センチ モズ科 長野県 <満開の桃の枝に、一瞬だけ止まってくれた。北海道では夏鳥、東京では冬鳥のイメージ。秋、梢でキチキチキチと高鳴きする。>

 最後の㊶オオルリ(㉝についでオオルリは2例目)は、縦60㎝ 横90㎝の写真を掛け軸に仕立て床の間に飾る。16.5cm ヒタキ科 長野県 <日本や朝鮮半島で繁殖し、タイ、インドネシアなどの東南アジアで越冬する。気象状況が悪く、通常いない森林で出会った。>

 観覧を終えて鶴翔閣へ戻る途中、大池のキンクロハジロの数が少ないのは今年だけの暖冬のせいか、あるいは後戻りできない気象変動のせいかと話題になった。

 鶴翔閣のレセプションでは、林市長と横山横浜市会議長が写真展の感動と意義を語り、ついで歓談が始まる。横におられたアルゼンチン共和国アラン・ベロー大使は三溪園に深い関心を寄せられ、再来を約してくださった。

 そして僧服の瀬川大秀猊下ご一行。真言宗御室派の総本山仁和寺門跡であられる。仁和寺(にんなじ、京都市右京区)は、仁和4(888)年に落成、開基は宇多天皇、皇室とゆかりの深い門跡寺院。国宝の金堂と重要文化財建造物の五重塔・観音堂等8棟があり、兼好法師の「徒然草」でも知られる。

 歓談の中で、私が「寺院の庭園は一般に建物に付属するのが常ですが、三溪園は庭園の中に古寺の建造物を移築した稀な例だと思います。…」と言うと、にこやかに「…仁和寺にもお越しください。…」と応じられた。

 予定時間を少しオーバーして5時過ぎ、冬の空が暗くなって散会となった。

 写真展の会期は7日間。最終日の1月22日(水曜)は気温が急降下するも、氷が張るほどではなく、小雨も1時半には上がった。陽の射す明るい部屋で、鳥たちが躍動、曇天の初日とはまったく異なる印象を受ける。

三溪園ボランティア連絡会(2020年)

 3月なみの暖かさと言われる1月14日(火曜)、三溪園ボランティア連絡会が園内の鶴翔閣で開かれた。10時開会、受付と資料配布等を北泉剛史学芸員と滝田敦史主事(営業担当)が、司会を羽田雄一郎主事(庭園担当)が行う。入口でパンフレット「三溪園ボランティア連絡会資料」(A4×33ページ)が配られた。

 三溪園ボランティアは、2003(平成15)年9月に第1次募集を行い、今年で15年になる。昨年6月の第14次募集で、現在249名が登録(男性170名、女性79名)。年齢層は44歳から89歳。すっかり定着し、三溪園の魅力を外に発信する第一線の活動を担っている。

 三溪園は年末の3日間のみ閉園し、他の362日を開園している。ボランティアの活動はガイド、合掌造、庭園の3ジャンルに分かれ、曜日ごとの班に属し、互いに交流のない人も少なくない。そこで「ボランティア相互の活動を知り、お互いに認め合い、意識を高めていく場とする」ことを目的として、年に1回、連絡会・懇親会を始めた。

 過去4年分については、本ブログで紹介した。題名はそれぞれ微妙に異なるが、次の通りである。(1)「三溪園のボランティア」(2015年12月21日掲載)、(2)「三溪園ボランティア連絡会」(2017年1月30日掲載)、(3)「三溪園ボランティア」(2018年1月29日掲載)、(4)「三溪園ボランティアの活動」(2019年1月29日掲載)。

 以上4回の記録と重複する部分をなるべく省いて、今回の三溪園ボランティア連絡会・懇親会の記録を残しておきたい。

 配布のパンフレットには、羽田さん達の工夫で、次第を第1部「連絡会」、第2部「感謝状贈呈式」、第3部「懇親会」に大別、時間を把握しやすいよう各項目の開始時刻を細かく示した。

 私の開会の挨拶は7分。次の3つを話した。(1)重要文化財の大規模改修工事が臨春閣の屋根葺き替えに始まり、今後10余年にわたってつづくため来園者には不便をおかけするが、文化財に欠かせない<生命の再生>の事業であることをお客さまに伝えていただきたい。(2)三溪園のホームページの更新と記念館入り口に新設するサイネージ(電子広告)の件、(3)三溪園を象徴する土産品の開発等の現状。

 最後にお願いをした。本日の記録を例年通り私の個人ブログに掲載したい、このパンフレットに記載されたお名前と10年継続の感謝状贈呈者のお名前を出したいと思うが、困ると思われる方は早めにお知らせいただきたい、と。

 10:15からの吉川利一事業課長「2019年の活動ふりかえりと今後の予定-三溪園のボランティア活動概要について」では次の点を報告した。(1)アフリカ開発会議参加者の来園、(2)ラグビー・ワールドカップの関連イベント、(3)横浜美術館での特別展「原三溪の美術」(横浜美術館の開館30周年と原三溪生誕150年・没後80年記念)とその関連事業、(4)外国報道陣による横浜メディア・ツアー。

 ついで司会の羽田さんがパンフレットの概要を説明する。順に①ボランティアの歩み(2003年の第1次募集から2019年の第14次募集までの年表)、②現況(249名、うちガイド160名、合掌造53名、庭園(79名)、③ガイド・インフォメーション(ガイド・ボランティア)の概況、④英語による庭園ガイド(2019年から全ての曜日で対応可能となった)、⑤合掌造りの運営・管理と年中行事等の一覧、⑥庭園の保守・管理の一覧(今年度はとくに台風15号・19号の復旧作業に尽力)、⑦有志活動グループのうち<茶の湯の会>、<自然観察の会>、<英語の会>の概況。

 そして活動報告・エピソード紹介(寄稿)7本が並ぶ。所属班・氏名(敬称略)・題名を一覧したい。(1)ガイド・庭園月曜班の吉野直美「原家と岸田劉生」、(2)ガイド火曜班の前田弓子「ガイドデビューの年を振り返って」、(3)ガイド水曜班の滝川泰治「方言と三溪園案内」、(4)ガイド木曜班の太田泰司「三溪翁の遺徳の再認識を」、(5)ガイド・庭園金曜班の大西功「私の三溪園でのガイドのモットー!」、(6)ガイド・庭園日曜班の玉田節雄「東西南北配置の妙味」、(7)合掌造・庭園月曜班の酒巻史朗「食道がんとミニ門松」。

 いよいよボランティア活動報告・エピソード紹介等のスピーチに入る。ガイド・合掌造・庭園・有志活動(茶・自然観察・英語)・その他の順で、活動のふりかえりと今後の予定の報告である。司会の「…1名あたり最長で5分を割り当て、4分でベルを1回チンと鳴らし、5分になるとチンチンと鳴らします」に爆笑。学会では通常の方式だが、ここでは初の試み。

 ガイドボランティア活動報告(月~日曜日代表の順、計35分)は、トップの月曜班が髙橋敏生(敬称略、以下同じ)。司会の「3分50秒でした」にまた爆笑。つづく火曜班の甲元基、水曜班の鈴木康穂*、木曜班の松尾忠史、金曜班の福田克夫、土曜班の新中和男、日曜班の玉田節雄*(なお*印を付した報告はパンフレットに文章を寄せた方)も時間内にうまく収めた。

 合掌造ボランティア報告(月~日曜日の代表)は、月曜班が崎豊、火曜班が矢野幸司*、水曜班が鈴木克精*、金曜班が佐藤信子、土曜班が塩畑英成、日曜班が舟津紘一。

 庭園ボランティア報告は代表の畔上政男が昨年につづく登板である。

 有志グループ報告は、茶の湯の会について土屋潔子が、自然観察の会について竹内勲が、英語の会について須川美知子が行った。

 それぞれが各班の構成、運営の仕方、活動報告書の保存と参照、活動にあたっての注意事項、具体的な活動事例を挙げて説得力がある。さすがに多くの社会経験を積み、三溪園と創始者・三溪に魅かれて参加する方々ばかり。一つ一つに頷く姿がある。

 以上17名の活動報告が、なんと予定の5分前に終了、事前に文章にしたこと(上掲の*印のあるもの)が奏功したと思われる。

 すこしだけ余った時間を使い、吉川課長が最初の事業報告の補足をしたのち、閉会のあいさつに村田和義副園長が立った。

 「2年前の4月に着任、昨年は所用と重なり今回が初参加と前置き、市役所時代の経験等の自己紹介につづき、三溪園の魅力を発信する最前線に立つボランティアの活動に頭が下がる、その実態が本日の報告からもよく分かり、とても有意義な時間を過ごすことができた、三溪の生き方への共感が熱心な活動に結実しているのではないか、私たち職員も皆さんから学ぶところが多い」とまとめた。

 休憩を挟み、12時から第2部の感謝状贈呈式(司会は村田副園長)。2009年度にボランティア登録した方々27名に園長から渡された。

 受贈者のお名前を一覧する(五十音順、敬称略、掲載の承諾をいただいた方のみ)。飯島彰、石毛大地、伊藤嶢、井上克己、太田泰司、大貫博昭、大宅ミチ子、勝部暢之、加藤昌一、兼藤由紀美、河内洋治、児玉雄二、佐藤達、柴澤重四、高橋凉子、田中進、成田京子、新中和男、野村博次、萩原吉弘、廣島亨、福井けい子、堀浩侃、八木哲雄、吉村弘、綿貫照久。

 お一人ずつ1分程度の挨拶をされた。「…あっという間の10年…」、「…なによりも家内が喜んでくれる。…」、「…来るたびに新たな感動がある…」、「…案内後にお礼を言われて感激…」など、それぞれに笑みがこぼれる。

 第3部の懇親会は、椅子を片づけ、テーブルを寄せて島をつくり、飲み物やつまみの総菜、寿司、サンドイッチで、班ごとにテーブルを囲む。早くもビールを空けて始めている班があり、ややあって吉川課長の乾杯の音頭。

 宴のなかば、吉川課長が新任職員の紹介をした。原未織主事(今年度から就任、建築担当)と田代倫子主事(この1月から就任、経理担当)。二人の挨拶は溌剌堂々、勢いがある。

 他の班とも交流して賑わった懇親会、名残りを惜しみつつ、予定通り2時半に終了した。

原三溪市民研究会の10年

 美しい紅葉の残る12月14日(土曜)、三溪園の鶴翔閣の楽室棟で、「原三溪市民研究会創立10周年記念 第6回シンポジウム 原三溪のたたずまい」が開かれた。

 原三溪市民研究会(以下、市民研)のシンポジウムについては、これまで本ブログでも3回にわたり取りあげてきた。( )内は掲載年月日。
第3回「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年11月21日)
第4回「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」(2017年11月20日)
第5回「原三溪の生き方を考える」(2018年11月10日)
そして今回の第6回シンポジウムである。

 その標題から読みとれるように、第3、4回は<まちづくり>、第5回からは<三溪の生き方>、その延長上に横浜美術館アートギャラリーの展示「もっと知ろう! 原三溪 -原三溪市民研究会10年の足跡」(8月3日~9月1日)があった(本ブログ2019年9月9日掲載 展示「もっと知ろう! 原三溪」参照)。

 それから3か月、展示「もっと知ろう! 原三溪」のさらなる普及活動として、ほぼ同じ内容の展示パネルを三溪記念館の第3展示室で12月17日から開催している(3月11日まで)。このような一連の流れのなかで、今回の「第6回シンポジウム 原三溪のたたずまい」を位置づけたい。

 原三溪没後80年「原三溪のたたずまい」をめぐる座談会は、内田弘保理事長の市民研を紹介する挨拶、ついで尾関孝彦副会長の総合司会のもと、コーディネーターの内海孝さん(東京外国語大学名誉教授、顧問)が三溪に近かった方々の子孫5氏のパネリストから、三溪の<たたずまい>と人としての生き方(主にその内面)を聴き出そうとする試みである。

 五十音順に、(1)朝比奈恵温(あさひな えおん)さん(朝比奈宗源の孫、鎌倉浄智寺住職)、(2)久保泰朗(くぼ やすろう)さん(もと原合名会社社員、93歳)(3)佐藤善一(さとう よしかず)さん(神奈川学園創立者・佐藤善治郎のひ孫、朝日新聞宇都宮総局次長)、(4)根岸五百子(ねぎし いおこ)さん(原合名会社で原社長の私設秘書、のち製糸部勤務の鈴木政次の長女)、(5)野村弘光(のむら ひろみつ)さん(野村洋三の孫、原地所常務取締役)。

 いつもながら丁寧に作られた「関係年表」(三溪を縦軸に5氏の祖先たちの動きを含む)付のレジメ(A4×8ページ)の最後(裏表紙)には三溪作の画<鵜>(1925年、57歳)と画賛の漢詩(七言絶句、1917年、49歳の作)とその現代語訳を載せている。再掲したい。

 いつのまにか鬢の髪が白くなり 老いとともに俗世に染まってしまい 情けない これまでの四十九年は夢のようで 自分の思いとは裏腹である それでも今やりかけていることがある 風が吹こうが雨が降ろうが 蓑笠を着て あとひと踏ん張りしよう

 内海さんがパネリストたちから巧みに発言を引き出そうと努める。

 まず(4)佐藤さんは、1914年に創立した神奈川学園創立者・善治郎(1870~1957年、教育者、『実践倫理講義』1908年等)のひ孫なので善治郎の実感がなく、新聞記者として一次資料なしで話すのは心苦しいと前置きし、学園史を読むと、釈宗演(1860~1919年、32歳で鎌倉円覚寺派管長、慶応義塾大学で学ぶ)の紹介で三溪、野村洋三と知り合い、横浜の女子教育振興のためならと三溪から支援を頂いた。それがなければ今はないと話す。

 根岸さんは、鈴木政次(1908~1983年)の長女。鈴木政次は横浜市役所勤務、1923(大正12)年の関東大震災の復興で横浜市復興会に派遣され、1926年に原合名会社庶務部で社長(三溪)の私的秘書となる。長女の五百子(いおこ)さんが父から聞いた三溪の人柄を語る。なお五百子の命名は生糸の値段がやっと500円に戻したことの記念という。

 野村さんは野村洋三(1870~1965年)の孫。洋三は英語の修得に岐阜から横浜に出る。23歳で釈宗演(上掲)の通訳として渡米、翌年、横浜にサムライ商会開業。1907年に来日した米人フリーア(実業家で東洋古美術蒐集家)を三溪園へ案内、三溪に引き合わせる。1927年、ホテル、ニューグランド開業(井坂孝会長)、1938年に2代目会長。弘光さんはワシントンDCにあるフリーア美術館で門外不出の美術品を鑑賞した思い出等を語る。

 朝比奈さんは朝比奈宗源(1891~1979年)の孫で、鎌倉浄智寺住職。宗源は1934~1942年、横浜専門学校(現神奈川大学)で倫理学の教鞭を執る。1945年、円覚寺派管長。1951年、三溪の漢詩集『三溪集』の編集を任される。宗源の孫として、三溪について直接に語るだけの体験や記憶はごく少ないと言う。

 久保さん(93歳)は、原合名の社員章を誇らしげに胸に付けて登壇、存命の最古参の一人。

 同時代の関係者から可能なかぎり<三溪のたたずまい>を引き出そうと試みるが、その孫やひ孫の世代となればかなり難しい。それでも想像力を働かせて、その一端を浮かび上がらせることができた。

 最後に総合司会の尾関さんが1冊の本をかざし、今日、完成したばかりです、と紹介した。

 ついで隣室で、会員による第2部「市民研 10年の歩みの集い」が開かれ、私も来賓として案内された。始まる前に上記の本を開く。原三溪市民研究会編『原三溪市民研究会十周年記念誌 もっと知ろう! 原三溪』(A4版73ページ 2019年12月14日)とある(以下、『記念誌』とする)。編集委員は藤嶋峻會事務局長、速水美智子事務局次長、広報の久保いく子さん、事務局の南屋巳枝子さんと小林一彦さんの計5氏。
 
 猿渡紀代子顧問の「発刊にあたって」は、横浜美術館の開館30周年の今年は原三溪没後80年であり、「原三溪の美術 伝説の大コレクション展」記念開催に合わせ、横浜美術館アートギャラリー1でも連携事業として市民研の展示「もっと知ろう! 原三溪 -原三溪市民研究会10年の足跡」を開催したことの意義を述べる。

 『記念誌』は、展示「もっと知ろう! 原三溪」のパネルを中心とした<図録>と<資料編>からなる。本ブログ2019年9月9日掲載の展示「もっと知ろう! 原三溪」でも紹介したが、本書にはパネルそのもの、すなわちプロローグ、Ⅰ実業の人、Ⅱ愛市の人、Ⅲ文芸の人 漢詩人としての三溪、Ⅳ原三溪市民研究会10年の足跡、が収められている。

 このなかにある「三溪・富太郎年譜」(5ページ)は、次の<資料編>の「原三溪市民研究会活動記録年表」(8ページ)と相まって、緻密で確実な作業の成果である。

 第2部では、西郷建彦隣花苑取締役と上掲「原三溪の美術 伝説の大コレクション展」を統轄した横浜美術館柏木智雄副館長が挨拶、ついで広報の久保さんがスライドを放映して、市民研10年の歩みを語った。会員との応答により、数年前からの活動を回顧し、記憶を共有・確認しようと試みる。

 『記念誌』の資料編には、「原三溪市民研究会活動記録年表(2007年6月~2019年10月)」、「活動報告の抜粋」、「原三溪市民研究会会則」、「会員名簿・役員名簿」が入っている。

 このうち「活動報告の抜粋」(9ページ)には、会員の笑顔の写真とともに、(1)学ぶ、(2)スタディ・ツアー、(3)伝える、(4)「もっと知ろう 原三溪」展の経緯が示され、また過去5回のシンポジウムの記録とシンポジウム「原三溪の漢詩の世界」(基調講演は関東学院大学の鄧捷教授)の記録を載せている。

 これがスライドによる10年の足跡とほぼ同じで、折に触れて反復することができる。本書を参照しつつ三溪記念館第3展示室のパネルを見てまわれば、いっそう理解が深まる。貴重な『記念誌』である。

 第2部の締めは野村さん、閉会の辞は廣島亨会長、そのなかで数千にのぼるアンケート回答の分析結果(概要)を示してくれた。具体的には「原三溪が最もすごい、と感じる点は」のアンケートで、以下の5項目から1つを選び、壁に張ったアンケート用紙に赤丸のシールを張ってもらう形式。

「A:三溪園を創った、一般公開した」、「B:古美術品の収集家、文化財保護に尽力した」、「C:若手日本画家を育成支援した」、「D:絵・漢詩・茶など一流の趣味・教養人」、「E:震災復興・寄付など公共貢献に尽力した」、「F:実業家、生糸貿易のリーダー、横浜経済発展の牽引者」。

 これは今年5月にも行い(本ブログ2019年5月8日掲載「10連休中の三溪園」)、さらに横浜美術館のアートギャラリーでの展示のさいにも行ったが、アンケートの回答から単純に結論を出すのは難しいと廣島さんは述べる。

 市民研のみなさんが次の10年をどう踏み出すか、大いに期待している。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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