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IUC学生の三溪園印象記(2018年)

 去る10月1日(月曜)、台風24号が襲来した日の午後、IUC(アメリカ・カナダ大学連合日本研究センター)の学生が三溪園を訪れた。このことについては、本ブログの2018年10月4日号に「台風一過のIUC学生来園」で述べた。

 その時の私の歓迎挨拶のなかで、昨年の学生たちの印象記に触れて、本ブログ2017年10月24日「学生たちの三溪園印象記」に掲載したと伝え、「今回も印象記を期待しています」と希望を表明した。

 印象記を書いてくれる学生がいるか、いささか不安でいたところ、IUCの橋本佳子さんから「2018年10月1日 校外学習作文(三渓園、八聖殿)」14編が送られてきた。学生たちは、まず近くの八聖殿へ寄ってから三溪園に来るコースを取ったため、標題がそうなっている。以下にそのまま掲載する。学生たちの率直な印象がういういしい。



2018年10月1日 校外学習作文(三渓園、八聖殿)

★レーセン ハナ
 10月1日月曜日に三渓園で郊外学習をさせていただいた。三渓園を歩き回りながら、日本の美意識を見ることだけでなく、体験ができて素晴らしかった。
 三渓園は非常に和風の庭園だが、外国人によく「和風の庭園」として認められている枯山水とは違う。三渓園は極めて広く、一つの小さな世界に見える。そして、水はどこでもある。森の道のように曲がっている石の道を歩きながら、三渓園の様々な特徴についてガイドさんに教えていただいた。
 実はその石で作られた道を見ると、自分のギリシャの家の大きい庭にある石の道を思い出した。その道については、他の人に何回も「どうしてまっすぐにしませんか」と聞かれた。その理由は説明しにくいが、なぜか確かに、曲がっている道の方が美しい。三渓園はそう考えていた人によって作られたと思う。そして、自然にまかせた完璧でないもののように見えるかもしれないが、実際は非常に細かくデザインされていると思う。
 三渓園には建物(茶室や別荘など)が多くあったが、その建物も自然の一部になりうると思った。なぜかというと、建物は自然も考えて作られているからである。家の中に座っても、外の庭と庭の外にある山などが楽しめる。そのため、前にも書いたように、三渓園の中にいるとすっかり小さな世界に入った気がする。大変歴史的な所だが、自然はたえず変化し、新しく生まれ代わっているので、いつも新しく感じられる。各季節がそれぞれにきれいであるはずだと思うので、次回は紅葉の頃に行きたいと思う。


★ソー ウネ
 三渓園は歴史と自然が調和している公園だと思う。三渓園を作った原三渓氏は非常に多才であるのみならず、美に関する造詣も深い。公園のどこに立っても人工と自然の調和した景色が見られ、更に季節の変わりに伴い、楽しめる風景も違うそうだ。その上、屋内の装飾も自然に完璧に合い、部屋と自然の境界がまるでぼやけているように、内外が一体になるように作られている。臨春閣や聴秋閣を訪れると、三渓氏が至上の景色を眺めながら、風雅な歌を詠む場面が思い浮かぶ。秋が深まる頃、紅葉狩りに再び三渓園を訪ねたい。三渓園の新たな一面との出会いを楽しみにしている。


★アーロン スティール
 10月1日の三渓園のツアーに参加させてくださってありがとうございます。非常にいい勉強になりました。横浜で日本の伝統文化や様々な時代の伝統建築を体験させていただき、心より感謝いたします。ボランティアのツアーガイド、吉野さんも歴史や建物の情報を詳しく説明してくださって嬉しかったです。素敵な経験で、秋にも冬にもまた三渓園の美しい景色を見に行きたいと思います。
 三渓記念館の展示も興味深く、三渓が書いた漢字や展示された絵を見て、いつかそのような美しい字を書けたらいいと思いました。天井にあるステンドグラスの模様がきれいで、花のようなデザインを今でも覚えています。最も思い出に残るところといえば、春草盧です。なぜかというと、江戸時代の建築が好きで、屋根や黄色の壁が魅力的だったからです。聴秋閣と二条城の物語が面白く、秋の聴秋閣から必ず紅葉が楽しめるものと思いますので、秋が深まりましたらまた行きたいと思っています。
今回の三渓園のツアーに対し、重ねて心よりお礼を申し上げます。150年の歴史と三渓園の魅力がわかりましたが、次回は、外苑をゆっくり散歩したいと思います。


★エバン ターキントン
 台風24号が通り過ぎた次の日に、台風による被害にもかかわらず、三渓園の方々に暖かく受け入れていただきました。三渓記念館、内苑を案内していただき、原三渓が自分の手によって残した芸術品、それから彼の感性が生みだした庭園を見学することができました。初めて原三渓のことを知りましたが、趣味や才能の豊かさに驚きました。生糸貿易の実業家であり、美術や文学、日本の伝統文化に通暁した人です。英語で言うと、「Renaissance Man」にあたる人でしょう。
季節を満喫できるように設計された庭園に、また紅葉の時に行ってみたいと思います。


★サンピアス ウェスリー
 十月一日、私は三渓園に行った。前の日、台風が横浜に上陸したので、三渓園に行けるかどうかわからなかったが、台風が通り過ぎたので、行くことができた。行く前には雨が降るか風が強いかと心配したが、天気は非常によかった。風は強くなく、雨は降らなかった。天気が良かったので、三渓園はさらにきれいになった。
 三渓園にある建物は非常にきれいだと思う。一番面白かったのは扉に仏教の天国にいる人間が描かれた建物だ。体と頭は人間だが、脚は鳥の脚ので、人間とは言えないかもしれないが、非常に面白かった。どこかで見たようなきがするが、覚えていないので、あとで思い出そうと思う。他のお寺に行く時、このような描写を探すことにする。
 池の周りはきれいだったが、自然のもののほうがきれいだと思う。なぜなら、森のほうが本当の自然みたいで魅力的だからだ。池と池の周りは人間が作ったものだとすぐ分かる。それは残念だが、池と少し離れると、多くの木が生え、土地の上に苔が生えている。多くの木がある所は非常にきれいだ。三渓園は多くの木がある所もあるので、嬉しかった。
 私は三渓園が好きになった。またいつか行きたいと思うが、行くのが多少不便なので、いつ行けるか分からない。


★マット ミックレラン
 10月1日に学校の遠足で三渓園に行ってきた。最初のスケジュールには午前中に園内の見学をすると書いてあった。しかし9月30日に台風が上陸し、5本の木が倒れたそうだ。私達の安全のために午前中スタッフは倒れた木を処分したので、午後に変更されました。心遣いに感謝している。
 ボランティアの案内のかたは三溪園の歴史を詳しくご存じで、たくさんの興味深いことを教えてくれた。しかしガイドさんの声は小さかったので、微力な日本語能力である私は時々聞き取ることができなかった。
 私は二年間神戸に住んでいたので、たまに京都を観光した。横浜から京都は遠いので、京都の雰囲気を味わいしたい人には三溪園をおすすめする。私は景色を眺めたら京都に戻ったような気がした。公園は広いので、ゆっくり散歩することもできる。是非また行こうと思っている。


★チェン ジャン
 月曜日、IUCの学生と一緒に三渓園に行った。台風の直後、気温が急に高くなって、秋らしくはなかった。茶人である原富太郎によって明治期に作られた三渓園はとても綺麗な庭園であり、現在も人気の結婚式場所になったそうである。結婚記念写真を撮影していた新婚夫婦もいた。
 非常に豪華な着物を着ている花嫁はとても美しかったが、暑かったのではないかと思う。三渓園の一番面白い特徴は、茶室が多いということである。そして、建てられた茶室はほとんど他のところから三渓園に移築されたため、歴史的に非常に重要な茶室である。その上、三渓園の建物の内部が多くの美術品で飾られていたとガイドさんが説明してくれた。原富太郎が狩野探幽や海北友松など有名な絵師の作品を収蔵していたということが分かり、とても勉強になった。


★ビクトリア デービス
 IUCの宿題や勉強が多くなればなるほど、観光する時間が少なくなるので、今週の月曜日皆さんと一緒に八聖殿と三渓園に行くことができ、良かったです。とても独特な博物館で、八聖殿の館員の方は勾玉や漁業者が持っていた道具のような有形文化財だけではなく、祭りの振り付けのような無形文化財も説明してくださったので、珍しい経験だと思います。横浜市がどのように都市化してきたかも学んだから、面白かったです。
 三渓園は同じように文化財として高く評価されている所で、自然と建築の両方が綺麗でした。近くに立っていましたが、案内してくださったボランティアさんの声が聞こえなかったこともありましたが、英訳のプリントをいただいたので、知らなかった単語と聞こえなかった説明も簡単に理解できました。全体として、八聖殿と三渓園に行ってみる機会をいただいて、とてもありがたかったと思います。


★イアン ハッチクロフト
 先週の月曜日、八聖殿と三渓園を尋ねた。横浜に引っ越す前に、旅行ガイドブックで三渓園の写真を見たことがあったから、遠足のことを楽しみにしていた。八聖殿のことは詳しく分からなかったから、遠足の前に少しインターネットで少し調べた。当日の天気はよかったですが、前夜の台風のせいで、風が強かった。最初に、皆さんが桜木町駅前で集まった。そこで、八聖殿へ行くバスに乗った。
 八聖殿で、ネックレスを作った。そして、蚕と絹の貿易について習った。八聖殿では、像が八つある。聖徳太子、弘法大師、親鸞、日蓮、釈迦牟尼、孔子、ソクラテス、そしてイエスキリストの像が建てられていた。西洋と東洋の影響を経験できた。凄かったが、違和感を感じた。
 昼ご飯を食べてから、三渓園に行った。枯山水が好きですから、三渓園でいろいろ勉強になった。案内者が建築を詳しく説明してくれたり、サギと蓮をたくさん見たり、散歩したりしたから、嬉しかった。残念ながら、案内者の説明が全然分からなかった。専門的な言葉が分かるように、これから日本語を頑張ろうと思っている。総じて、普通の授業より楽しい経験ができた。皆さまに感謝を申し上げる。


★チョウ モウシ
 三渓園は思ったより大きくて自然が豊かです。園内で和服を着ているカップルはその美しい景色を背景に写真を撮らせてもらいました。季節によって違った景色を楽しむことができると思いましたが、残念ながら、今回、蓮は枯れて、紅葉はまだ見られませんでした。それでも、のんびりした時間が流れました。
 三渓園に国の重要文化財に指定されている建物が多いです。その中で京都や鎌倉などから横浜に移されたのがあります。たとえば、聴秋閣は京都で、臨春閣は和歌山県で建てられましたので、2つが同じ場所で見られるはずがありませんでした。しかし、今、聴秋閣から歩いて3分で臨春閣に着けます。空間だけではなく、時間も越えられます。聴秋閣は徳川家光によって建てられて、臨春閣は家光の甥徳川吉宗の子供の頃の遊ぶ場所です。散歩しながら徳川幕府の歴史を整理することもできます。
 横浜を出なくても歴史的価値が高い建物が見られることは便利ですが、古い建物を本来のコンテクストから離れて移築することはいいかどうかわかりません。聴秋閣は二条城の一部分として京都のほかの建物と立ち並んでいるはずだったが、お金をもっている三渓の集めるもののひとつになって自分の庭園に置いてありました。
 もちろん、元来の歴史的なつながりが壊れたと同時に、新しいのが作られてきました。以前、聴秋閣は幕府の場所なので、庶民は入れませんでした。今、それが横浜市民に限らず普通の人も近距離で見られます。日常生活の場所が観光地になってきます。年代や地域や状況によって、物の価値が変わります。


★ファトゥマ ムハメッド
 今週の月曜日、横浜の歴史について学びたいために八聖殿と三渓園に行った。(中略)
三渓園で働いている人たちが私たちのために台風で手折られた枝と木々を綺麗にしてくれて、感動した。織田信長の兄弟のために作られた茶室や京都から運ばれた門を見ることができてうれしかった。綺麗な庭の写真をたくさん撮った。歴史の教科書に描がかれている絵を見るより、昔の時代の建物、庭、茶室などを見ることの方が素晴らしい経験であった。


★メーガン マッカーシー
 10月1日にアメリカ・カナダ大学連合日本研究センターの人と一緒に校外学習をした。(中略) 八聖殿(はっせいでん)の勾玉体験をした後、三渓園に移動した。思ったより近かった。入ったら、ボランティアガイドと待ち合わせてツアーが始まった。晴れた日に行けて良かったと思う。ガイドさんが面白い話をしてくれて、特に遠いところから持ってきた建物や墓の話が非常に面白かった。特に墓のことについて、三渓園に運んできた時、中に入っていた体はもうなくなっていた。誰の墓か分からなかったそうだった。ちょっと変なことだと思った。
 ツアーが終わった後、学生3人とガイドさんにちょっと公園を案内していただいた。その時、三渓園の合掌作りの民家も見た。白川郷の方から運んできたことがすごいと思っている。聞くのを忘れたが、どうやって横浜まで来たのかを聞きたかった。そのままで運ばれてきたのか、それとも分解して建て直したのか。


★リリアン ハート
 先週の月曜日は初めての三溪園に行く体験だったが、横浜に引っ越してから携帯の地図に「行きたいところ」と保存していた。歴史が分からずに、行きたい気持ちだけ持っていた。(中略)
 三溪園に行った時に、大学で受けた日本の映画の授業を思い出した。違う地域だが、そういう風な茶屋は映画や博物館で建てられたモデルしか見たことなくて、千利休のことを考えた。授業で利休という映画を見て、京都の話だったが、茶屋を想像すると三溪園のような家を考える。案内してくださった人が「横浜はお金がなかった地域」と強調したが、お金がなかったら、どうやってこういう綺麗な建築デザインを作れたのだろう。
 案内してくださった人たちはすごく優しかったが、まだ私は使われている単語が全部分からなくて、残念だと思った。日本の歴史、特に横浜や関東の歴史をもう一回復習して、もっと学びたいと思う。博物館に行く前やこういう風な説明をしてもらう前に、自分でちゃんと読んだり、単語を復習したりしたいと思う。


★カサリン ジョプリン
 十月一日に私たちは八聖殿と三渓園を見に行った。前の夜の台風で、天気が晴れで少し蒸し暑かったが、非常に綺麗だった。 (中略)
 八聖殿を出た後で、三溪園を散歩しに行った。1906年に三渓園は原三溪というビジネスマンによって作られた。公園が広いし、美しいし、そして静かな場所なので、私たちは歩く時非常に平和を感じた。その他、三渓園の最も興味深い特徴は、多くの歴史的な建物があることだ。原三溪は歴史が大好きで、秀吉大名と茶道を特に評価していそうだった。その結果、三渓園には集められた日本全国の塔、茶室、その他の歴史的な建物が多い。
 三渓園を出る時、ミケの猫にびっくりさせられた。ツアー中に私は気づいていなかったが、多くの猫が三渓園の葦や林に住んでいるようだ。これらの猫はおそらくネズミの個体数を減らすのに役に立つだろう。
 全体として、横浜の歴史について習ったのが楽しかった。さらに、クラス外で日本の伝統や文化を静かに楽しむ機会に感謝している。教科書や講義から日本語を学ぶことは大事だが、時々私はドアの外で日本を楽しむことを忘れてしまう。センターで日本語を勉強するのに忙しいけれども、将来私はまた日本を探検したり、歴史的なスポットを尋ねたりする時間を見つけられることを希望する。

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大型客船の旅客が来園

 台風24号についで25号が日本海を北東に進み北海道を横断するという2018年10月7日(日曜)、大型客船コーラル・プリンセス号(91,627トン)が横浜に入港、9日(火曜)と合わせ、数百名の旅客が三溪園を訪れた。7日は台風に引きずられた南風で季節外れの快晴真夏日。夕刻からライトアップし、開園時間を7時まで延長(通常は5時閉園)、<夕涼み>を兼ねる催しとなった。

 コーラル・プリンセス号(Coral Princess)は、2002年、プリンセス・クルーズ社によりフランスのアトランティーク造船所で竣工。船籍はバミューダ。パナマ運河を通れる最大の船で、旅客定員は1974名(最大2590名)。クイーン・エリザベス号(QE号)の90,400トンより大きい。冬期は主にパナマ運河クルーズ、夏期はアラスカクルーズに就く。

 今回のクルーズはロサンゼルスを出航、アラスカ(ジュノー、コディアク)を経て釧路に寄港する予定を台風のため横浜に直行した。その後、大阪、広島、仁川、北京(天津)、上海、台北(基隆)、香港、ハノイ、ダナン(フエ)、ホーチミン、マニラ、グアム、ホノルル、ロサンゼルスと周航する。

 三溪園の英語ガイドツアーは、10時半~、1時~、2時半~、の3回で、三溪園ボランティアガイド日曜班と横浜港振興協会が依頼した英語通訳がペアとなって行った。三溪園からは10時半に石井信行さんと永田幹彦さん、午後1時から西村博夫さんと倉田茂男さん、2時半から倉田茂男さんと石井信行さん。

 この催事は、横浜港振興協会(小此木歌蔵副会長)をはじめ、港湾空港部クルーズ振興・物流企画室等を所管する国土交通省関東地方整備局(松永康男副局長)、市営バス(ぶらり三溪園バス)等を所管する横浜市交通局(城博俊局長)、観光振興課等を所管する横浜市文化観光局(池戸淳子局長)の、民・国・公三者共同の初の取組みである。

 三溪園の案内パンフレット(英文でA4×4ページ)を船内に配布したのが奏功したか、貸し切りバスのほかに個人でバスを使い来園した方々もいた。開園時間の延長は事前に広報しなかったが、一般客にも喜んでいただいた。

 正門を入って約20メートル、視界が一挙に開け、息を飲む光景が拡がる。左に藤棚の休憩所と大池、右に蓮池、その間の谷底を園路がつづく。はるか左手の丘の上に三重塔(重要文化財)、右手の高台に鶴翔閣(1902年に原三溪が移り住んだ茅葺の家)を望む。谷戸(やと)という横浜(鎌倉、横須賀とつづく)の地形が見事に生かされている。

 ここで案内に立ったのが文化観光局観光振興課長の吉田雅彦さん、集客推進担当課長の鳥丸雅司さん、担当係長の南野ショナーさん、大内豊さん。そして和服姿の観光振興課担当係長の關佑也さんと廣瀬知理さんには、<サムライと姫>とばかりに記念撮影が殺到した。

 藤棚の向かいに伊藤園「お~いお茶 大茶会」(煎茶の試飲と販売)の屋台が出た。同社によれば、天正15年10月1日(1587年11月1日)に豊臣秀吉が主催した「北野大茶会」に因んだ命名という。これまで大阪城大茶会、京都御所大茶会、なんば駅前大茶会、鎌倉長谷寺大茶会を開催。この度、三溪園デビューとなった。

 鶴翔閣(横浜市指定有形文化財)を過ぎて内苑に入り、御門(横浜市指定有形文化財)をくぐり、石畳の右に白雲邸(横浜市指定有形文化財)、突き当りに臨春閣(重要文化財)の入口、左折して進むと、臨春閣と聴秋閣(重要文化財)、そして背後の丘の景色が一挙に拡がる。この別世界に旅客たちの喜々とした顔が見られた。

 夕方5時前、足元を照らす園路灯、正門と御門の三溪園と大書した大提灯、内苑入口の中提灯、そして正門券売機、休憩所、藤棚の小提灯が点灯を始める。三重塔や鶴翔閣、大池の対岸等もライトアップされた。

 三溪記念館の展示「秋の雅趣」も観覧してもらった。第1、第2展示室は9月28日~11月6日、第3展示室のフォトコンテスト入賞作は9月29日~12月12日である。第2展示室の「茶と工芸」コーナーには、三溪の「大師会会記」(印刷物)と三溪毛筆の「一搥庵茶会記」(大正6~昭和14年)がある。

 「秋の日は釣瓶落とし」。日の入りの5時16分(横浜)を境に急に暗くなり、5時半には明かりなしでは足元が覚束なくなった。観月会の9月24日(月曜)の十五夜から2週間、月齢は29日、新月の暗闇はひときわである。常に明かりのある街中では経験しがたい闇夜に感銘を受けたが、これも治安の良い日本ならではのことであろう。

 三溪園(公益財団法人三溪園保勝会)は年間362日開園(休みは年末の3日間)しており、少ない職員がシフト勤務でボランティアともども奮闘している。今回の試みは、横浜市文化観光局観光振興課と三溪園との「合同会議」で詰めた成果の一つである。

 今年2018年、三溪園は、世界最大級の旅行サイト「トリップアドバイザー」から2015年、2017年についで3度目の”Certificate of Excellence(エクセレンス認証)”を受けた。この旅行サイトは拠点をアメリカに置き、旅行者の口コミや評価を発信要素の中心に運営、年毎に5段階評価で4以上を維持し好意的な口コミを一貫して得ている施設に対して<認証>を贈っている。

 これらの相乗効果もあり、外国人の来園が増えている。今後さらに増えるであろう外国人観光客への広報や企画等に種々の工夫を加え、定款に定める「…日本の文化を世界へ発信する」を、いっそう進めていきたい。

台風一過のIUC学生来園

 50年ぶりの超強大と言われる台風24号は、日本列島を縦断するとされていたが動きが鈍く、しばらく沖縄・鹿児島に停滞していた。それが9月29日(土曜)から急に速度をあげ、30日(日曜)午前の予報では南関東に襲来するのは、その晩の9時から10月1日(月曜)早朝3時までの6時間と、きわめて具体的になった。

 10月1日は、IUC(アメリカ・カナダ大学連合日本研究センター、ブルース・バートン所長)の学生30余人の三溪園来訪がある。IUCは2013年に創立50周年を祝った伝統ある上級日本語教育機関で、アメリカとカナダの有力大学連合が運営、学生たちは横浜パシフィコ内のキャンパスで、毎期9月から6月までの10カ月間、750時間の日本語特訓を受ける。本ブログ2017年10月24日「学生たちの三溪園印象記」等を参照されたい。

 急ぎ三溪園の吉川利一事業課長とメール連絡を取り、IUC学生一行の来園を、①予定通り10月1日午前10時半に決行する、②延期して他の日にする、③同日午後に延ばす、の三択を念頭に、IUC職員の佐藤有理さん、橋本佳子さんと協議してもらった。その結果、学生たちのぜひ行きたいとの要望を受けて、③同日午後に決めたと吉川さんから連絡が入った。

 10月1日の朝、鉄道ダイヤは大幅に乱れ、一部は昼まで運休の路線もあったが、私はすこしの遅延で済んだ。園内を回り被害状況を確認したが、すでに処理を終えたものが多く、これなら学生の受け入れに問題なしと判断、前日の決定が正しかったと安堵する。

 ただ今回は、学生たちには正門からではなく、南門から入ってもらった。久しぶりの若い学生諸君の来訪。嬉しい。すこし歩いて海岸門の前の広場、地図掲示板のそばで挨拶をした。

(1)ようこそ三溪園へ。みなさんの来園を午前から午後に延期していただ いたのは、超強大な台風の接近が予測され、古建築の破損や倒木等、万一の被害があった場合、その処理を優先して安全を確保するためでした。事実、かなりの数の倒木や太い幹が割けて落下する等の被害がありました。昼頃までに大きなものは始末できましたが、小枝等がまだ残っています。足元には十分ご注意ください。

(2) 昨年のみなさんの先輩たちの来園は10月2日でした。彼らに私のブログの三溪園に関する記事の拾い読みと、訪問後の印象記ないし感想文を寄せてほしいと伝えたところ、8名がレポートをくれました。公表の許可を得て、私のブログ2017年10月24日「学生たちの三溪園印象記」に掲載しました。6月のIUC卒業発表会では印象記を寄せてくれた学生たちと再会、三溪園が強く心に残ったことを知りました。今回もみなさんの投稿を期待しています。

(3) 次の2つのポイントを念頭に園内を観てほしい。①今年が生誕150年になる原三溪は三溪園の創始者であり、生糸輸出等の実業家、書画に通じた芸術家、画家を育成したパトロン、そして茶人など多彩な顔を持つ人物です。②三溪園のある三之谷は三つ目の谷の意味です。谷と丘からなる谷戸(やと)という地形は横浜、鎌倉、横須賀あたりの特性です。その地形を庭造りにどう生かしたか。

 時折の強風が残るものの、台風一過の好天。3班に分かれた学生たちを、ボランティアガイド月曜班の湯川幹男さん、吉野直美さん、秋元治章さんが引率・案内する。その後は、閉園の5時まで自由行動である。気温は32℃と真夏日になったが、散策を堪能したに違いない。来日して3週間、室内の授業つづきの日々の合間の初めての小旅行、この素晴らしい空間で何を感じたか、楽しみである。

 再び被害状況を見てまわる。今朝7時34分の羽田雄一郎主事からの「宿直警備員の報告メモ」転送文にあった、ア)倒木が4本、イ)古建築の雨戸の吹き飛び(中島哲也総務課長が即対応)、ウ)かんぬき錠破損あたりを中心に調べた。

 羽田さんは早朝から園内すべての被害調査を行い、昼頃には詳細を把握し終えた。被害件数は増えている。それらを地図に落として被害の概略を記し、写真を添付した調査報告「三溪園の台風被害」を夕方に送ってきた。貴重な資料なので一部を最後に付す。

 被害のほとんどが強風による風害である。樹木の根元からの倒木が計8件、太い幹や枝が割けて落下したもの(主なもの計8件)、雨戸が吹き飛んだもの等々。幸い文化財建造物が大きく破損するような被害はなく、雨による土砂崩れ等も小さかった。タブノキの大枝が折れて近隣の私有地に倒れかけたとの連絡をいただくも、中島さんが適切・迅速に対応した。また正門外の街路樹(ソメイヨシノ)の被害には、中区土木事務所と造園業者が機敏に対処、東京電力も間をおかず駆けつけ、停電を回避してくれた。

 庭園管理担当の若手、川島武さんと築地原真さんが、ソメイヨシノの幹折れ(直径20センチほど)の撤去作業をしながら、台風でこれほどの倒木や幹折れとなったのは7~8年ぶりと驚いている。

 そこへ近くの保育園児たち20名ほどが、落ちていた木の枝を振りかざしてやって来た。可愛い常連さんたちは、ふだんと違う光景に大はしゃぎ。そこここに残る木の葉や小枝は、子どもたちをわくわくさせる台風からの贈り物となった。

 添付の調査報告「三溪園の台風被害」にある通り、倒木など危険個所の復旧作業は鈴木正技士が率いる庭園管理専門の園内職員が中心に行い、園路清掃はシルバー人材センター派遣員やボランティア、巡回警備員などが手分けして行い、午後1時ころには7~8割が完了した。なお、散乱した枝葉等の片づけに自主的に協力してくれたお客様(外国人)もいたと聞く。

 復旧作業が終わり、ホッとしたところで気がついた。村田和義副園長は着任から半年、IUC学生の受入れは今回が初めてである。そこで過去の経緯等を記した私のブログを送った(2018年6月8日「IUCの卒業発表会」等)。すると「…発表テーマを拝見すると、日本の大学院生の論文かと思うようなものが並んでいて、海外での日本研究の熱心さが理解できます。…彼らがやがて世界の大学で日本のことを教える教師となり、授業の中で「そういえば横浜に三溪園という庭園があってね・・・」なんていう話を若い学生にしてくれて、三溪園のファンがさらに増えていくことを願います。…」と返事が来た。同感である。


 「三溪園の台風被害」(2018年10月1日15時現在)
平成30年10月1日午前深夜に北関東を通過した台風24号は横浜にも強風をもたらした。三溪園内では、倒木や枝葉の散乱が生じ、重要文化財建造物等にも小規模ながら損傷が見られた。倒木など危険個所の復旧作業は、園内職員が中心となって当たり、園路清掃はシルバー人材センター派遣員やボランティア、巡回警備員などが手分けをして行い、午後1時ころには、7~8割方、きれいにする事ができた。完全に復旧するには数日~10日間程度を要する見込みである。
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復興小唄「濱自慢」

 三溪園で中秋の名月を愛でる恒例の観月会を開催した。今年は9月21日(金曜)から25日(火曜)までの5日間、日没から午後9時まで、三重塔をはじめ主な建造物等をライトアップし、臨春閣(重要文化財)を舞台に音楽や舞踊が披露された。

 今年の演目は、9月21日(金曜)サックス&ピアノで奏でる日本の唄(シャンティドラゴン)、22日(土曜)雅楽(横浜雅楽会)、23日(日曜、秋分の日)箏曲(アトリエ箏こだま)、24日(月曜、振替休日)日本舞踊(七々扇流)、25日(火曜)薩摩琵琶(錦心流中谷派襄水会)である。ほかに23日(日曜、秋分の日)午後、蓮華院において三溪園ボランティアによる「中秋の一日庵 月待ちの茶会」が開かれた。

 今回初の企画は24日の七々扇流(ななおうぎりゅう)四代目家元・七々扇花瑞王(かずお)さんが率いる日本舞踊、復興小唄「濱自慢」である。徳川御三卿の一つ田安家(たやすけ)に勤めていた狂言師の市山里が、勝海舟から七扇(のち七々扇)の名を受けて流祖となった。

 この企画は公益財団法人三溪園(担当は吉川利一事業課長)、共催 Dance Dance Dance@YOKOHAMA 2018、音楽 太陽倶楽部レコーディングス、衣装・メイク 葵総合アート企画、写真 キヨフジスタジオ、演出・構成 七々扇流事務所である。

 復興小唄「濱自慢」の作詞は原三溪(本名・富太郎)。慶応四年八月二十三日(1868年10月8日)、岐阜県佐波(現在の岐阜市柳津町)の青木家に生まれ、東京専門学校(現早稲田大学)で学び、横浜の生糸売込商・原善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚して原姓となり、号を三溪とした(以下、三溪と略称する)。今年は三溪生誕150年である。

 三溪は国指定名勝三溪園(1906年~)の創設者であり、原合名会社を主宰して生糸輸出、地所開発、富岡製糸場等の経営(1902~36年)に当たった実業家であり、茶人であり、書画・漢詩を良くし多数の作品を残した芸術家でもある。彼の収集した数千点に及ぶ日本美術品は海外流出せず、日本各地に現存する。

 1923(大正12)年の関東大震災により、横浜は壊滅的打撃を受けた。絶望的惨状のなかで立ち上がった55歳の三溪は、その後半生をすべて横浜の復興に傾注する。財界、金融界、政界等の総力を結集する横浜市復興会等を結成、その先頭に立つとともに、復興小唄「濱自慢」を作った。明るく繰り返される「横浜よいところじゃ」が打ちひしがれた横浜市民を勇気づける。

 「濱自慢」は春夏秋冬を歌い、四番まである。ちなみに小唄(こうた)とは、端唄(はうた)から出た、粋でさらりとした短い三味線歌曲で、撥(ばち)を使わず爪弾く。震災後には最先端を行く歌曲であった。

 横浜よいところじゃ 太平洋の春霞
 わしが待つ舟 明日着くと 沖の鴎が来て知らす

 横浜よいところじゃ 青葉若葉の街続き
 屏風ヶ浦の朝凪に 富士が目覚めて化粧する

 横浜よいところじゃ 秋の青空時雨もしよが
 濱の男の雄心は 火にも水にも変わりゃせぬ

 横浜よいところじゃ 黄金の港に雪降れば
 白銀載せて積み載せて 千艘万艘の舟が寄る

 三溪が1925年4月、野澤屋呉服店の「濱自慢名士書画展覧会」に出品した掛軸「濱自慢」は残っている(三溪記念館にて9月26日まで展示)が、その音源は長らく不明であった。8、9年前、ようやくレコードが2種類見つかり(外部と三溪園内)、外部で発見されたものに作曲は二代目家元の七々扇小橘(ななおうぎ こきつ)とあった。

 それを今回、花瑞王さんが舞踊に仕立てて、臨春閣で舞う。他の舞と併せて2時間の上演である。「濱自慢」をどのように舞うのか、花瑞王さんから構成と振付の妙をお聞きし、興味津々で待った。七々扇流事務所作成の解説から抜粋する。

 第一部は8つの踊りの最後に「濱自慢」が来る。①「関の小万」(踊りの入門曲で各流派がうけつぐ曲)、②「京の四季」(舞妓たちも踊る曲)、③「胡蝶の舞」(「鏡獅子」の間狂言でお馴染みの曲)、④「舞扇」(清盛の暴威を鶴姫が男舞を踊って後に諫言する)、⑤「黒髪」(嫉妬に身を焦がす幽艶な曲)、⑥「秋の色種」(お座敷で舞う長唄の一曲)、⑦「満月」(夏の夜の浜辺の逢瀬を歌う)、⑧「白扇」(お祝いの曲)。そして「濱自慢」。前半はテープを流し、後半の⑦、⑧、「濱自慢」の3つが生演奏である。

 第二部は7つの踊りの最後を「濱自慢」が飾る。①「菖蒲浴衣」(人気役者の好みの浴衣を宣伝しつつ川の情景を歌う)、②「俄獅子」(お座敷で芸者姿の廓風情を描く粋で華やかな曲)、③「玉兎」(満月の中の兎が餅をつき踊る)、④「団子売り」(夫婦の団子売り、途中でお月さまの童歌が入る)、⑤「扇の的」(平家物語の那須与一を題材にとった長唄の新曲)、⑥「お吉しぐれ」(新内<明鳥>から題材をとった新内調の小唄)、⑦「蝙蝠」(川辺の夕涼みでコウモリの飛ぶを眺める曲)、「濱自慢」。後半の⑥、⑦、「濱自慢」の3つが生演奏である。

 踊りが18名(第一部10名、第二部8名)、演奏は唄4名、三味線3名、笛1名、総勢26名。端唄永野流二代目の永野桃勢さんは伝統芸能の継承に尽力、昨年、横浜市南区蒔田に教室を開いた。また囃子笛の望月太喜若さんは邦楽や舞踊の会、映画、テレビ等で活躍、平成27年、日本民謡協会から女性初の笛師範教授に任命された。

 演奏開始は6時15分。私は臨春閣三屋の縁側前にある大きな踏石の端に座る。そこから真南の丘の上にライトアップされた三重塔が、左前方には臨春閣二屋の舞台が見える。雨の予報に反して、開演とほぼ同時に十五夜の月が丘の左手に姿を現し、徐々に三重塔へと近づいて行く。満月と三重塔と「濱自慢」の共演に魅きこまれた。

タケの開花(その8)

 前回の「タケの開花(その7)」(2018年7月18日掲載)の末尾で、連絡をくれた羽田雄一郎主事(三溪園庭園担当)の言葉「…(花の)終焉という表現にふさわしい状態がいつ頃訪れるか予想は難しく、人間の都合通りにはいかない自然を観察し、伝えることの難しさを感じております」を引いて、それへの共感を表明、急ぎ中間報告とする旨を述べた。

 それから1ヶ月以上が経った。この間も三溪園のタケの花の観察をつづけてきたが、花はなくなったかと思えば、またあらわれ(発見でき)た。しかし見つけにくくなったため、「竹の花」と書いた案内板は、タイミンチクについては7月9日に取り外し、オロシマササについては8月6日に撤去した。
5月下旬に咲き始めた花菖蒲の花が散り、蓮の花を愛でる早朝観蓮会(7月14日~8月5日)も終わったが、タケの花はちらほらと残っている。8月22日、オロシマササは刈り込まれてさっぱりし、タイミンチクは先週と同じ所に密かに咲いていた。

 8月23日は、奇しくも原三溪の150年前の誕生日である(慶応四年八月二十三日=1868年10月8日)。ここで今回のタケの「一斉開花」は収束したと表明したい。「花の終焉」ではなく「一斉開花の収束」とする理由は後述する。そう判断するまでの前回(その7)以来の観察経緯、知人から寄せられたタケの目撃情報、いささか難しい理系論争の展開の一部を紹介し、議論の深化の過程も残しておきたい。

 7月19日、テニス仲間の正木泰裕さんが、アンケートのつづきとしてタケに関する話題を送ってくれた。その1つが目撃情報である。「岬巡りの歌で有名な丹後半島でバス巡りしていると 今までは根っ子が強いと理解していた竹林が 今回の豪雨で押し流されて倒壊していました。」

 また同じテニス仲間の三輪美子さんからも目撃情報が入った。「新幹線の車窓から竹を観察、…竹林は彦根あたり、三島あたりに多く観ました。3ヶ所ほど、30本ほどの塊で枯れていました」。旅のさなかに目の行く先に竹林があり、その目撃情報を送ってくれるのはアンケートの影響かもしれない。自然への愛着であろう。

 19日、市大テニス仲間の横山晴彦さん(横浜市大名誉教授 化学)からメールが入った。この間の「タケの開花」シリーズを読んで、いくつかのことが分かったとし、(1)タケの花は1年だけでなく複数年にわたって咲く場合がある、(2)咲いたからといってすぐ枯れるとは限らない、の2点を挙げ、化学者らしく「タケ・ササの花と枯れ死の問題の解明を難しくしているのは、タケ・ササの花はめったに咲かないこと、地味で目立たないため咲いていても気づきにくいこと、タケ・ササが枯れているのに気づいても前年に花が咲いたかどうか後からでは確認しにくいこと、地道な観測データが少ないことなどにあるようですね。」とデータ不足の背景を語る。

 これに関して翌20日、坂智広さん(横浜市立大学木原生物学研究所教授 農学)から返信があった。坂さんはムギの専門家で、ムギもタケも同じイネ科に属するとは言え、タケについては「この自然現象を完全に再現できるに至っていない門外漢、この数十年のサイクルの中で出会った貴重な体験を楽しんでいます」と前置きして、次のように言う。

 「地球上の生物は地球の公転による1年の季節変化サイクルに適応進化し、生活環や環境反応を営んでおり、一方で過去の地球の歴史・地質年代において氷河期など長年にわたる気候変化が起こらない時代もあったはずで、必ずしも1年サイクルの体内時計で暮らしていない生物も存在します。作物でも二年生や多年生など、ある意味で複数の時計の歯車(遺伝子)が組み合わさり生活環を成しています。タケが氷河期以前の時代に進化して古くから姿を変えていない植物であることを前提にすると、その一生が60〜120年と長期に及び、その一生の最後に花を咲かせ実をつけるとなると、「1年限定で花を終わらせる」というスケールに嵌らないと考えます。一年草が1年のうち数日間の開花期だとすると、100年の生活環(ライフサイクル)ではそれが数百日に拡大するイメージです。」

 ついで横山さんが「門外漢としての素朴な考え・疑問等」として、「的外れな箇所や間違い」もあると思うが、お読みいただけると幸いです(ご回答いただかなくても結構)としつつ、知的好奇心を抑えきれない様子で、(1) 1本のタケの寿命とタケ枯れ、(2) タケ・ササ藪の寿命、タケの花と環境、(3) タケ・ササ藪の株の3点から、タケ藪全体が枯れるのと新陳代謝による1本のタケの寿命とは区別する必要がある、或いは異なる種であっても同一環境下にあるとき、同調するように花が咲くということがあるかもしれないと指摘した。

 これに関する坂さんの見解が示されたが、そのうち2点を再掲したい。「植物の場合、発芽⇒苗⇒栄養成長という植物の体を作るステージと、花を分化⇒開花⇒稔実という生殖成長のステージと質的に異なる生育相があり、日の長さや積算温度や加齢により栄養成長から生殖成長に切り替わります。人でいうなら、ある程度育つと思春期になり、環境条件により大人になるということです。そうした意味で、花を咲かせた場合、実をつける(つけなくても)、そしてその成長点は生を全うして枯れます(それが1年なのか、100年なのかの違いです)。幸い植物は「先端成長」といって成長点が芽や根の先端にあり、しかも分枝、分岐するので、長男坊が開花して枯れても、直下の分枝の成長点が生き続けたり脇芽や節から新たな成長点を形成して無限に生育を続けることもできます。一つの成長点は花を咲かせて一生を終えても次の成長点へ命をつないで、植物体としては数千年も生き続けることになります。」

 また「タケの種により、種子繁殖の有無(群落の遺伝的構成)や開花の同調性によって繁殖戦略に変異があるので、総論的に区分けするというより連続的な変異によって環境に適応していると考える方が妥当だと思います」とし先行研究の柴田 2003、井鷲 2010、陶山ほか2010等が添付されていた。

 7月26日、私から送信した。「議論がいよいよ深みに入ってきて、外野としては興味津々です。理系の議論の進め方を学んでいます。私なりに整理し、どれをどこまで外へ伝えるべきか(伝えることができるか)を考えています。昨日、ザっと園内を回りましたが、新しい開花は見つかりませんでした。…本日も会議後に、しっかり見てきます。12日ぶりに熱帯夜が明けたので、彼らも日常復帰しているかもしれません。…」

 8月3日、横山さんが来園、30年ぶりとか。坂さん、羽田さんと4人で園内を回って観察した。オロシマササもタイミンチクも新しい花を見つけることができなかった。これで「開花終焉」を宣言できるかを議論したが、2週間周期で新しい開花があったと思われるので、もう1週間、経過を見ることとした。

 8月9日、羽田さんから連絡が入った。「今週の観察を実施、オロシマササは1つだけですが、開花したての花を見つけました。…タイミンチクは、開花した状態のものは見つけられませんでしたが、今にも咲き出しそうな蕾を一つ見つけました。また咲き終わった花頴の先端に新芽のようなものがいくつか見られましたが、それが花芽になるのかどうか分かりません。…来週の観察(8月15日(水)予定)で再確認したいと思います」と。

 翌10日、私が独りで観察したが、羽田さんのいうオロシマササの開花は判別できず、タイミンチクの開花も見つけられなかったと述べ、「8月3日に、もう1週間待ってみようとしましたが、羽田さんの観察からすれば正解でしたね。私の観察は当てになりません。そこでやはり坂さんの出番、ここに最後の期待をかけます」とSOSを発した。

 8月15日、坂さんと羽田さんが観察結果を送ってくれた。「旧東慶寺仏殿横(立入禁止区域)の株では、数輪の花を再確認した」とあった。翌16日、私が単独で観察に出ると、同上の花の雄しべは一つを残して散っていたが、それとは別に坂道を登り尾根に出るすぐ手前右に開花直前と思われる花を見つけた。タイミンチクの親株と思われる株の直下と、もっとも遠い最末端と思われる旧東慶寺仏殿横で盛んに花をつけている姿がいじらしく見えた。

 17日、坂さんから「タケの花の終焉」という表現は誤解を与えかねないとして「一斉開花の収束」とする提案があった。そこで私は「一斉開花」と「部分開花」の区別がいまひとつ分かりにくいと、昨年の「タケの開花(その3)」以来の疑問を伝えた。坂さんの答えは、

 一斉開花:ある時(周期的あるいは不定期でも)に同一の植物が、あるいは同所に生育する多種多様な植物が、一斉にあるいは次々に開花する現象。時間的なタイミングの観点と説明があり、参考として下記の記事が付されていた。https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/081/research_2.html
全面開花:林全体が一時期に開花し、場合によっては枯死して行く現象。対峙するのが部分開花で、林の一部分や散発に、偶発あるいは突発して開花する現象。空間的な観点と、タイミングの同一性のニュアンスも含まれるとして下記の記事が添付されていた。
*https://tenki.jp/suppl/usagida/2017/05/16/22741.html 

 表現が時間と空間の物差しによりますが、後者(全面開花)には時間の同一性も含まれます。前者にはタケ・ササのようにおそらく体内時計が関与する周期性(年サイクルの1年生~1年を超えた長時間の周期)と、ボルネオ熱帯雨林のように環境の効果も大きいことによる局所的な空間範囲も含まれます。

 今回のタケ・ササの場合は、一年の季節変動の中でも開花が盛んになる時期(5~6月)とゆっくり少なくなるその他の月があり、周年の四季環境変化に左右される生理的な花の咲きやすさの振動が複数年に亘ってありました。それにより数十年周期の一斉開花が複数年にまたがり分断されたように見えました。昨年の2017年4月10日に観察を始めた時には、それ以前の早春か前年に出穂した花穂の痕跡が認められたため、その頃に部分的に数十年周期の一斉開花が始まっていたと考えます。昨年には全面的開花に転じて、5〜6月に一斉開花のピークを迎えました。今年は開花箇所のエリアが辺縁部に変遷しながら部分開花として観察でき、やがて収束していくという傾向が見られました。

 故に今回の「一斉開花の収束」はオロシマササ、タイミンチクの数十年に及ぶライフサイクルにおける一斉開花がここ複数年にわたって生じ、今年およそ収束したことを意味します。

以上が坂さんの見解である。

 これをめぐってふたたび横山さんが見解を述べた。私は坂さんに横山見解にかんする反応を求めると同時に、坂見解の分かりにくい点についてまた質問すると、次のように答えてくれた。

 一斉開花の考え方について植物生態学者の間でも議論が続いており、2010年の日本生態学会誌の「特集 Bamboo はなぜ一斉開花するのか?」では、仮説も踏まえ言葉の定義が提唱されています。
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/seitai/60/1/_contents/-char/ja
今回の私たちの観察も、そうした学会の見識を踏まえつつ、タイミンチク・オロシマササを実際に見ながら落とし込んだ解釈だと考えています、と。

 こうした経過を経て、私は判断した。あの広域に展開するタイミンチクの花を個別ではなく、全体を一つとして見るべきであり、そうであれば「一斉開花の収束」という表現が最適である、と。

 なお今年がこの2~3年の「一斉開花の収束」である可能性は高いものの、なお断定はできない。来年、開花が見られるか否かにより最終的な判断ができると考えている。

 このブログ「タケの開花」も今回の(その8)をもって今年分の最後とし、三溪園のタケの花を気にかけておられる方々への報告に代えたい。今後も引きつづき身近な自然の営為に眼を向けていくつもりである。

プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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