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IUC学生の三溪園印象記(2019年)

 今年もIUCの学生・教職員のみなさんの来訪を受け、10月4日、村田和義副園長、吉川利一事業課長、ガイドボランティア金曜班の大西功さん、山田博康さん、橋本幸夫さんとともに一行を出迎えた(本ブログ2019年10月11日掲載「10月初旬の三溪園」)。

 そのとき「…20世紀初頭(明治末~大正期)の近代に創設された三溪園は、それ以前の近世(主に江戸時代)の庭園(枯山水、心字池等)が<象徴主義>であるのに対して、<自然主義>に基づき、地形の特徴(谷戸=谷と丘)を活かして造園された新しい思想に基づく日本庭園であり、この種のものは三溪園のみ、これを念頭に古建築の配置の妙も見て欲しい」と述べ、学生諸君には三溪園の印象記を寄せてほしい、とも要請した。

 学生たちと別れてから、バートン所長を招き、村田副園長と一緒に、三溪記念館にある望塔亭(池越しに三重塔を望み呈茶サービスのある施設)でゆっくり歓談する機会を得た。

 数日後、IUCの橋本佳子さんから嬉しいメールが届いた。「…学生の作文がまとまりましたので添付にてお送りいたします。今回は15名が貴園見学について作文にまとめました。15名全員、本文が氏名とともに掲載される可能性があることを承諾しております。…」

 三溪園の吉川利一事業課長も、この報せを喜び、「初めての訪問の第一印象、また日本の文化や自然に対する概観など、さまざまな異文化への視点を知る、当方にとって貴重な資料であると思います。」と返礼した。

 15名の学生たちの新鮮な印象、学内授業から解放された喜び、そして日本文化に関する鋭い切込み等、とても貴重な内容である。学生諸君にとっても、この<記憶から記録へ>の意義は、いつか得がたいものになると思う。

 余計な解説を付さず、さっそく掲載する。【お断り】お送りいただいた作文の字体を本ブログで常用するものに改め、また12ポイントに拡大しました。なお原文の三渓園(三溪園の略字)表記はそのまま残しました。


チャン アンソニー
 この夏、他の先生とクラスメイト達と三渓園を訪ねたことがありますが、時間が比較的限られていたので残念ながらグループで単に散歩することしかできませんでした。今回の機会で庭園の美しさを見ることだけではなく、庭園の真の構造を鑑賞することができました。ボランティアの橋本さんに三渓園のそれぞれの建物の歴史と意義について丁寧な説明を聞かせていただきました。京都からの建物が分解され、横浜まで移築され、異なる環境で建て直され、新しい意味を与えられて文化財として保存されたことは本当にすごい出来事だと思って印象に残りました。三渓園の意図的な構造の意味についても考えさせていただきました。例えば、橋本さんの説明で臨春閣の次の間から見える三重塔と池と月の景色を意図的に「絵にした」ことと春草廬の周りを荒れ果てたお寺のような雰囲気にすることなどを勉強したことで新しく鑑賞できました。もしそのような背景が分からなかったら、その建物と周りの自然の意味をそのまま気付かなかったでしょう。この目を見張るような経験のおかげで、今後日本の庭園に行くと、きっと構造の意味について考えると思います。この大切な機会で新しく学ぶことができたことに感謝しています。


東まり子
 横浜美術館で開催していた「原三渓の美術」と言う展覧会を見た時以来、訪れたかった三渓園へやっと行けて良かったです。横浜の中心地から遠く離れている森林の中のお庭で、とてもリフレッシュできた気分になりました。
 緑に囲まれた景色の中に何軒もの歴史的建造物が馴染んでおり、とてものどかな風景でした。私は特にこの建造物に興味があり、私達のグループのガイドさんからたくさんお話を聞くことが出来て、とても嬉しかったです。建造物を保存するため、様々な方法で移築されている例がありますが、三渓園のような規模と周りの風景を意識的に取り込んだ保存例はとても珍しいと思います。また、保存を通し、原三渓の個性的な趣味もお庭に表れているのが面白いと思いました。ガイドさんが言っていたように、「庭は生きている美術品」だと本当に実感しました。生きているからこそ変化があり、メンテナンスも必要なのです。これからの季節と共に変わって行く三渓園をまた訪れるのを楽しみにしています。


メンダズ トレバー
 三渓園を訪ねさせていただいて幸いでした。私は日本文化史が好きですので庭園に行くのは楽しみでしたが、期待以上に楽しかったです。三溪園は谷にありますので、異世界に入ったようでした。入口を通ると横浜市の企業や工場などはまるで消えてしまったような気がしました。庭園を散歩する時間しかありませんでしたが、鑑賞した建物や景色が最高でした。全国から移築された歴史的建造物を観ながら三渓の庭園の構想を聞かせていたくのも興味深かったです。移築された建物は元々異なる時代に様々な所で建てられたのに、首尾一貫した世界だと感じました。確かに、原三渓氏の理想的な世界でした。すべての建築を一番相応しくて美しい文脈で経験できて、最高でした。庭設計もぴったりだし、流水の音も自然で優雅だし、極楽と見まがう様な環境でした。
 極楽のような場所で、明治時代の美意識も感じさせていただきました。ツアーガイドの方に聴いた通り、原氏は明治時代の三大茶人の一人でした。経済的・文化的に豊かな教養人として、明治の文化的理想を庭園で示しました。それで、歩きながら、明治の美的な心へのアクセスを得たと感じました。素敵な散歩だけではなく、明治の文化的生活の理解にも大変助かりました。このような機会をいただき、心より感謝しています。


リュ シャオユ
 金曜日の校外学習は八聖殿と三渓園について深く学ぶ機会となり、横浜の歴史を間近で感じることができました。横浜市にくる前の私の感想は、横浜市といえば現代的で、国際交流の機会が多くて、大事な産業がある港湾都市というイメージでした。しかし、今回の校外学習で、ガイドボランティアの面白くて明確な説明のおかげで、私が思っていたイメージに加えて、横浜市が歴史を抱えている地であるということを学ぶことができました。
 印象に残ったことの1つは、最初に横浜の海の変遷について八聖殿館長の話を聞いたことです。かつての自然の海岸の輪郭を学んで、前より横浜市の地理をよく理解することができました。一階の「漁村の祭りとくらし」という展示では、横浜市の歴史や文化が展示されていました。きっちり文書化されて慎重に提示していて、横浜の歴史のありがたみがわかりました。横浜に行く前に、横浜が海岸の近くであるということはわかっていましたが、横浜の地域が砂州で仕切りられた形で入海が広がっているということはあまり考えませんでした。「横浜」という地名のはじまりは面白い話だと思います。館長の話によると八聖殿が建つ本牧岬の崖は、江戸時代に風光明媚な場所としてなって、北斎がそこで富士山を描いたそうです。しかし、現在その見晴台は高速道路や工場地帯となりました。その見晴台に立っている時、場所の変遷したのを少し気の毒に思いましたが、私は昔の人の進歩に対する熱心さを感じました。
 三渓園でも、その「熱心さ」を感じました。三渓園では重要文化財建築が群を成しています。園内には京都や鎌倉などから歴史的に価値の高い建造物が移築されました。私が興味を持った建造物の一つは月華殿です。京都伏見城内に建てられたものといわれていて、縁側に座ると、塔の隣の本物の月と水面に映った月がちょうど見えるそうです。三渓園の建造物は気をつけて配置されていると思いました。そして、大きな建造物が多くて、ガイドボランティアにその建造物をどのようにもらって来たかと聞いてみると、人の力で運んで来たという返事をいただきました。時間もお金もかかったそうです。ガイドボランティアは、三渓園の設立は熱心な努力のおかげだったとおっしゃいました。
 今回の校外学習で日本の文化や考え方についても勉強できました。横浜で勉強している私の役目は、ここの地域の歴史を理解して、歴史を守り残してきた人たちの努力を学ぶということだと思います。現代の横浜市を理解するために、その歴史を深く学ぶ方が良いと思います。


ホワン シューティン
 横浜で新しい生活が始まってから、もう数週間になったが、毎日学校と家を往復するばかりなので、このまちをゆっくりと感じる時間がなかなかないと思う。だから、今週の金曜日に、八聖殿郷土資料館と三渓園を見学することができて、嬉しかった。
 八聖殿郷土資料館で横浜の歴史や伝統的な行事などを館長さんが詳しく説明してくれた。最も驚いたのは、横浜の海の変遷のことだ。館内に展示されている写真によると、今センターが位置しているみなとみらいは昔は海だったそうだ。戦後の経済成長に合うように、海が埋め立てられて、経済の中心が漁業から工業へ変わっていったとのことだ。「巨人の肩にのる矮人」と科学者ニュートンが言った。横浜の昔と今のそれぞれの写真を見たところで、急にそのニュートンの言葉が頭に浮かんだ。それで、横浜の歴史を少しだけ知って、このまちとのつながりが強くなっていくと感じた。
 三渓園は八聖殿から徒歩10分くらいの距離にある。日本の四季がはっきりしているとボランティアさんが言った。庭園の建物の名前を見ると、確かにその通りだ。「臨春閣」や「聴秋閣」や「月華殿」や「白雲邸」などの名前には四季と自然が含まれていて、もっともよい季節を感じることができるようだ。名前だけで、日本が持つ特別な美しさが伝わってくると思う。さらに、建物の非相称性についても教えてくれた。平面図から見ると、建物の構成は確かに相称的ではない。しかし、全体として、周りの自然に合わせていて、調和した景観になっていると思う。私は専門的な分析はできないが、ただ直感的な優雅さが目に入ってきた。
 11月には菊花展が開催されるそうだ。その時、もう一度三渓園を訪れるつもりだ。


バーク  エイミー
 校外学習として10月4日に横浜の有名な三渓園に参りました。そこで、ボランティアガイドの橋本さんが分かりやすく詳しく案内してくださいました。まだ10月で、紅葉は始まっていないですが、朝の大雨が止んだあとの植物の豊かな緑が綺麗で、とてもすばらしい自然に囲まれた感じで嬉しかったです。
 明治39年に原三渓という実業家が三渓園を開園しました。ほかの日本の最も有名な日本庭園と違って、三渓園は自然主義に基づいて造園されました。公園の計画は人工のものですが、本物の自然のように整理されたそうです。お客さんの鑑賞のために、植物から像までよく設計されていて、公園の中の全部のものの位置に理由があります。
 三渓さんの美意識は高いと思います。公園にある和風の家の縁側から三重塔が見える眺めの印象はまだ頭に残っています。それも三渓さんによって設計されたもので、いつでも瞑想中に家から絵のような自然を見ることがでるそうです。
 三渓園では、お茶が重要な役割を果しています。橋本さんが庭園のいろいろな茶室を案内してくださいました。特に春草廬という茶室が好きでしたが、九つの窓があるので、室内に自然光が差し込むように見えます。茶室の入り口は低くて、どんなに偉い人でも入るときに頭を下げなければなりません。こういうふうに、茶道の際だけは地位が関係なくて別の世界が作られていると橋本さんに説明していただきました。昔の習慣が大事に保存されているのはすごいと思いました。
 ほかの日本庭園に比べると、三渓園の雰囲気は落ち着いていて、ゆったりした環境で自然や歴史を楽しむことができます。季節が変わると公園の景色も変わるので、ぜひまた行きたいとおもいます。


モール シャトルンジェイ
 10月3日、私は日本語のプログラムの同級生と一緒に三渓園という綺麗な庭園に行った。三渓園は1906年に作られた庭園だ。三渓園には京都や奈良や鎌倉にあった江戸時代の建物が展示されている。創立者、原三渓は実業家だったが商業以外の慈善事業についても興味を持った。それで三渓園を作った。三渓園には博物館と違う雰囲気があった。普通の博物館では展示物はビルの中に並べてあるが、三渓園では綺麗な自然の場所に江戸時代の建物が展示されている。ガイドの方がとても良く説明してくださって、江戸時代の習慣や生活について大変勉強になった。
 三渓園にある池には綺麗な魚や亀やカモなど色々な動物がいた。ツアーが終わった後で友達と一緒に池の景色を見て、可愛い動物を見て感動した。自然に近づいたような気がした。その後で友達と一緒に丘に登って三重塔を見学した。丘にいるとき音楽が聴こえてきたのでとても良い気持ちになった。実はその夕方、フルートのコンサートが行われるということだった。行きたかったが残念ながら金曜日の晩に前から約束した予定があって、東京へ行かなければならなかった。
 毎日のクラスの代わりに、1日の遠足に出かけるのはとても楽しかった。横浜のことをいろいろ知ることができたが自然との親しさも感じられた。友達にも三渓園のことを勧めたいと思う。また、紅葉の写真が綺麗だったので、機会があれば秋に三渓園の風景を見てみたいと思う。


ニューサム サラ
 以前に三渓園に行ったことがある。前に行った時は大雨が降っていて、ちょっと大変だったが。大雨のおかげで、人があまりいなくてよかったが、道はいくつかは雨や風のために通行止めになって、三重塔にも行けなかった。そこで、今回また、三渓園に行くことにした。三渓園に行く日は、朝、大雨だったので心配だったが、バス停に着く前に、雨が止んで晴れたので、ほっとした。
 まず、八聖殿にいった。横浜市の歴史をすこし説明してもらって面白かった。後で、三渓園をガイドの方に案内してもらった。面白かった点は、いろいろな古い建物が京都で建てられて、それが明治時代後に三渓園に移築されたということだ。なので、実際には三渓園自体はあまり古くないのだが、きれいで静かなところである。三重塔に登ったが、とてもすてきであった。三渓園は大都市横浜にあるけど、自然に近く、田舎にいるようで、とてもいい経験だった。


リン スルウィン
 私にとって、金曜日の校外学習は初めての経験なので、何を期待すべきかわかりませんでした。ですが、思ったより楽しくて、面白かったです。日本の文化について学べただけでなく、クラスメートのことをよく知ることもできました。
 正直に言うと、校外学習に行く前に八聖殿というところについて、全然知りませんでした。外から見た時、ちょっとつまらなそうにも見えましたが、中に入ってみると、「何事も見かけではわからない」ということがわかりました。親切なスタッフの皆さんのおかげで、八聖殿と横浜の豊かな歴史がわかりました。説明と写真で、以前と比べて、現在の横浜は大分都市化が進んでいるという感じがしました。また、勾玉作りというワークショップはとても興味深かったです。皆が一緒に楽しめ、日本の伝統文化をもっと深く理解できました。
 三溪園でも素敵な経験をしました。そこを歩きながら、素晴らしい茶室や木を見ました。何回も京都のようだと思いました。ボランティアガイドの方のお話によると、三渓園は芸術家や文学者などの文化人たちの交流の場としても知られ、近代日本文化の一端を育んだ場所でもあるそうです。ガイドの方は年配の方でしたが、とても熱心に説明をして教えてくださいました。本当にありがたかったです。
 金曜日はほんとうにいい一日でした。日本の文化について学んだし、同じ授業以外のクラスメートと話す機会もいっぱいありましたし、いろいろ感動もしました。


デービス ヘザー
 今週、授業の代わりに、遠足に行くチャンスがやっときました。金曜日は三渓園という日本の伝統的な公園に行くことになりました。皆はとても期待していましたけど、台風が来るかもしれないので、心配もありました。雨でも行くと言われましたが、やっぱり公園というのは晴れた日の方が楽しめるところだと思います。しかし、金曜日は、雨が朝だけ降った後、すぐに止み、午後は晴天になりました。
 三渓園に行く前に私たちは近くの博物館で面白い歴史についての講演を聞かせてもらいました。個人的には、横浜港の説明が一番面白くて、本当に勉強になりました。その後は三渓園の庭園に入りました。すごく印象的な景色で、入ったとたんに好きになりました。伝統の茶室は現代でも堅牢にみえて、昔の貴族がそこでお茶会をするのが想像できました。ガイドの方も優しかったし、静かで自然が多かったし、本当に楽しかったです。今度アメリカの家族と一緒に行きたいと思っています。


コナー マイケル
 10月4日にセンターで校外学習として、横浜の八聖殿と三渓園という歴史的な所に行ってきました。八聖殿で横浜の起源について学んで、勾玉という伝統的なものを作ることができました。三渓園できれいな庭園を散歩しながら案内人の方が建物や庭について説明してくださいました。
 八聖殿は 1933年に建設された八角形の建物で、1973年から横浜の歴史博物館として存在しています。そこで、横浜の名の由来を習いました。江戸時代の横浜の地図を見たら、今と地形が全然違います。以前は湾があって、湾と海の間に長い砂浜がありました。地図を見るとその砂浜は横に出ていて、「横浜」という名になったと言われています。現在は、 湾の代わりに街になりましたが、二本の川が残っています。
 三渓園はもともと蚕糸業でお金持ちになった原富太郎の庭園でした。その人が100年ぐらい前、京都や和歌山から歴史的な建物を集めました。今三渓園では、建物と造園と茶会の組み合わせが中心にされています。校外学習で横浜について色々学ぶことができ、行って本当によかったです。


グレイザー ヴィンセント 
 遠足から帰ってから、そして土日もずっと庭園について考えていました。そのコースを選択した時は、特に大きな期待はなく、自然の中にいられればいいと思っていました。しかし、三溪園は自分に強い印象を与えてくれました。
 まず、蚕です。私は毎日虫の勉強に夢中ですが、遠足の前に本物の蚕を見たことがありませんでした。幼虫と繭を見ると、絹を作ることについてもっと深く理解できました。そして、その絹の興味から、三溪園も楽しめました。あの素晴らしい所は、人間と虫の協力で作られたことが分かり、人間と自然のつながりも分かるようになりました。
 ところで、三溪園は全体が自然のなかにあるように作られているそうです。建物の様子は周りの植物にすぐに溶け込みました。そのような場所にいると、ストレスが消えて、心が静かになるように感じます。原三溪が客のために庭を無料にしたということを聞いて、より鑑賞できるようになりました。みんなが平等に楽しめる所だったら、さらに美しく感じられます。実際に来てみたら、思ったよりとても楽しかったので、嬉しかったです。

 
エズゲラ パウラ
 先週の金曜日に遠足で八聖殿と三渓園に行った。興味深い印象をたくさん受けて、とても楽しめた。その経験は、日本文化と季節の関係についてとても考えさせてくれた。
 まず、八聖殿で日本の祭りの説明を教えていただいた。八聖殿の所長の話によると、日本ではそれぞれの祭りが一つの季節の必要な行事と関係があるということだ。春は植物の生える時期なので、雨が特に大事で、雨が降るように色々な踊りと祈りがある。夏は、蒸し暑さのせいで日本では害虫が危ないので、国を守るために賑やかな祭りが行われている。収穫は秋だから、その時、神様に感謝の気持ちをお伝えする。冬は食べ物を保存しなければならないので、正しく保存できるように多くの供物をそなえる。そうすれば、神様に冬の間に十分な食べ物を食べていただけるはずだということだ。
 そのあと、三渓園に行って、そこで素晴らしい三渓園を計画した原という人の生い立ちを聞かせていただいた。原さんは市民を喜ばせるために、10年間頑張って三渓園を作った。目的の一つは季節を感じさせることだと言われている。そのため、きれいな常緑を植えるだけでなく、桜や蓮子や紅葉や梅など何種類も探して植えた。つまり、原さんの努力のおかげで昔も今も三渓園で人々はきれいな日本の季節を楽しめるわけだ。
 今回の遠足で日本文化と季節の関係について細かい点を学んだ。しかし、最近は世界中で、地球温暖化が問題になっていて、そのせいで季節がどんどんなくなっていくと言われている。なので、私は「季節がなくなれば、日本文化にどんな影響を与えるだろう」ということを考えている。


プラング ディラン
 ⼤学の時に⽇本の芸術や美学のクラスを取ったが、それにもかかわらず⽇本の庭園と欧米の庭園の違いに驚いた。もちろん、季節によって三渓園はいつも変化しているそうだし、このような感想は初めて訪れた経験にしか基づいていないので、間違っているかもしれない。しかし、三渓園は、花や植物だけに焦点をあてるより、建物や訪れる人の園での経験にも注意を払って作られているようだ。それは⼀番驚いた点だった。しかし、その⼀⽅、欧⽶の庭園は⼀般的にもっとケバケバしく⾊や植物の多さを⼀度に強調する。そのため、この遠⾜で庭園のイメージをちょっと考え直すことができてよかった。


シェン トン
 中国でも、いろいろな庭を見学したことがあった。それと比べて、三渓園の一番特別な点は自然を重視している点だと思う。中国の庭は自然の美しさを利用して、建物を強調することが多い。だが三渓園は、建物が自然の一部になる、そういう印象がある。簡単に言えば、それは「自然に生まれる庭」という感じだ。また、三渓園は自然の偉大さを強調することもあると思う。南門から入った時、高い山があると思ったが、登ったら、そんなに高い山ではなかった。だが、山の下から見ると、緑が山の本当の姿を隠して、視覚的な大きさを作った。それはとても面白いと思った。
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10月初旬の三溪園

 10月の声を聴くと暑さもやわらぐものだが、今年は観月会を終えても、最高気温が30℃前後の暑い日がつづく。それでも三溪園では、暦通り秋の行事が進んでいる。

 10月3日(木曜)から、三溪記念館の第一、第二展示室で、新しい所蔵品展「三溪の書画・牛田雞村・臨春閣の障壁画・漆芸品から」(11月6日まで)が始まった(担当は北泉剛史学芸員)。

 なかでも三溪の筆になる<旅の絵>に心惹かれる。《石山秋月》、《堅田》、《彦根城》、《大和路》、《白河関所》、《鳥海山》、《裾野》の7点。三溪の旅の絵は秋の景色が多いという。

 翌4日(金曜)午後、パシフィコ横浜内にあるアメリカ・カナダ大学連合日本研究センター(Inter University Center for Japanese Studies、略称は最初の3文字を採りIUC)の、2019年次生34名と職員9名が来園した。

 IUCとの付き合いは、私が横浜市立大学在任中の1987年、東京の紀尾井町にあったIUCを横浜へ誘致する企画に始まり、以来30年を超える。この貴重な上級日本語教育機関を継続維持する活動に頭が下がり、国際都市・横浜として、できるだけのお手伝いをしたいと思った。

 本ブログのリンク「都留文科大学学長ブログ」の111号(2013年12月16日)にある通り、IUCは2013年に創立50周年を祝った伝統ある上級日本語教育機関で、学生たちは来日前にそれぞれの大学で専門分野と日本語を学び、ここIUCで10カ月間にわたり750時間の集中訓練を受ける。

 ブルース・バートン現所長とは25年前、彼が所長として赴任した折(今回は2回目)にお会いしている。付合いが長かったのはケネス・バトラー元所長(1930~2009 年)で、1967~77 年、1995~2001年、2003~2008 年と3回、計22年にわたり所長をつとめた。

 いよいよ4日の午後、村田和義副園長、吉川利一事業課長、ガイドボランティア金曜班の大西功さん、山田博康さん、橋本幸夫さんとともにIUC一行を出迎える。

 短く歓迎の言葉を述べた後、20世紀初頭(明治末~大正期)の近代に創設された三溪園は、それ以前の近世(主に江戸時代)の庭園(枯山水、心字池等)が<象徴主義>であるのに対して、<自然主義>に基づき、地形の特徴(谷戸=谷と丘)を活かして造園された新しい思想に基づく日本庭園であり、この種のものは三溪園のみ、これを念頭に古建築の配置の妙も見て欲しいと述べた。

 学生諸君には三溪園の印象記を寄せてほしい、とも要請した。印象記はまとまり次第、本ブログに掲載したいと思う。

 鶴翔閣では「手仕事に遊ぶ錦秋」(10月4日(金曜)から6日(日曜)までの3日間)が開かれた。2006年に三溪園で始めた「日本の夏じたく」に端を発し、毎年すこしずつメンバーを変えて続けてきたという(事務局の米倉久美子さんによる)。

 その案内パンフ(A6版のハガキサイズ、A3サイズの8つ折り)が手仕事の見本のようで美しい。裏返して拡げるとA3サイズ、そこに鶴翔閣(290坪)の地図があり、出展作品25点の写真と作者・題名がある。静かな展示と思いきや、想像以上に展示品(木器、帯生地、ショール等)が多く、即売会も兼ねる盛況ぶりであった。

 夕刻には<三溪園和音(WAON)まつり2019~「音」故知新~>が始まる。会場は外苑の旧燈明寺本堂(重要文化財)。旧燈明寺三重塔(重要文化財)を見上げる位置にある。案内用のリーフレットは外国人を想定して、日本語と英語で書かれている。

 この催事は、ラグビーW杯日本大会2019の試合が行われる期間(9月20日~11月1日)のうち、主に週末の19日間、開園時間を19時まで延長し、日没からは灯りで彩られる幻想的な風情を楽しんでいただく趣向である。将来を嘱望される若いアーティストたちが重要文化財を舞台に、主に和楽器の演奏を中心に披露する(演奏は18時から30分間)。

 三溪園職員の多忙な日々に配慮して横浜市文化観光局観光振興課の三溪園チーム(永井、關、菅野、廣瀨)が中心となり企画・実施している。その中心を担い、毎回の司会も務める廣瀨知理さんの斬新な発想と精力的な活動に脱帽。しかも16時半以降は入園料を無料とし、桜木町駅からのシャトルバスも手配した。

 この<三溪園和音2(WAON)まつり>は、9月20日(金曜)から始まって3週目になる。その特別演奏会には、ハープの操美穂子、ボーカルグループJewel、津軽三味線の朝倉盛企、尺八の阿部大輔、アコースティックギターの松井祐貴(敬称略)が出演した。10月4日(金曜)からの演奏についてはリーフレットを更新、フルートの小川恵理紗、筝の古澤延隆、津軽三味線の朝倉盛企、アコースティックギター弾語りのRihwa、ヴァイオリンの森田綾乃(敬称略)が写真と解説とともに載る。

 日没が早まり、演奏開始6時の真っ暗がりに、旧燈明寺本堂の舞台が耿々と浮かび上がる。音響・照明を含む舞台造りは㈱tvkコミュニケーションズ。㈱マントルによる足元灯は、電線を使わない個別電池方式で、蓮の花弁型の行灯を単体・3連・5連で配置。ライトアップされた旧燈明寺三重塔に上弦の月が寄り添っていた。

 翌5日(土曜)、「第19回 三溪園フォトコンテスト・四季のおもいで」の表彰式が三溪記念館の応接室で行われた。419点の応募のなかから選ばれた入賞作品46点の表彰である。応募期間は2018年9月~2019年9月1日で、応募総数は419点。審査員は大河原雅彦(神奈川新聞社カメラマン・元写真部長)、山田信次(神奈川新聞社カメラマン)、森日出夫(カメラマン・公益社団法人日本写真家協会会員)の3氏。1990(平成2)年に始まり、審査員による厳正な審査を進めて現在にいたる。

 表彰式は11時から、中島哲也総務課長の進行、北泉剛史学芸員の賞状補助により始まった。私は挨拶のなかで、およそ次のように述べた。

 今年度は419点の応募がありました。私たち三溪園職員は日々園内の景色を見ていますが、応募作品から改めて三溪園の姿に気づかされることが多く、嬉しく思います。応募作品を前に審査員の先生方が意見を出し合い、厳しい審査を通過したのが、皆さまの46点です。良い作品が多く、選考が難しかったと聞いております。今回、<推薦>(一等賞)を受賞されたのは芹野ゆかり(せりの ゆかり)さんの「風光る」です。昨年も佳作に入賞され、2年連続の受賞です。これからもカメラで三溪園の魅力を捉えてください。…

 ついで賞状授与。銘々のお名前を読み上げ、私から賞状と賞品・記念品をお渡しした。

 そして山田審査員による講評。最優秀作品<推薦>を獲得した芹野さんの<風光る>について、大池わきに咲き誇る桜の遠景と大池を右方向に行く水鳥の航跡の<動>が見事、と話される。そして会場を見渡して、「自分の属する写真家団体で最多を占めるのが70代、ついで60代です。お互い、これからも元気で撮影をつづけましょう」とエールを送った。

 受賞者46名のうち40名が市内在住の方々。足繁く来園し、春夏秋冬、さまざまな時間帯のカメラアングルを探っておられるに違いない。フォトコンテストの受賞者と標題は、以下のとおり(五十音順、敬称略)。

推薦 芹野ゆかり<風光る>

特選 大竹博<子供の世界>、平山清<防火訓練>

入選 市坪信教<月見の飾り>、嶋村すみ<秋の夕べ>、中山博<猿まわし>

佳作 石井良明<名物 干し柿>、石川元章<月下の舞>、稲谷友良<二人の行く先は輝いている>、小田博文<大輪の蓮花>、斉藤精一< 仲秋の夕暮れ>、境記子<星に願いを>、宝田利則<祝い雪>、中山泰雄<亀と鷺の睨めっこ>、濱﨑敬子<ひざし>、福田勝美<もみじの下で>

努力賞 青木克之<専門学校生による植木研修>、秋山文雄<平成最後の庖丁式>、飯島彰<早春の風情>、池田光夫<春の陽ざし>、井脇音文< 夜桜と三重塔>、乾ゆりゑ<屋根裏の窓>、今井千穂<壮観>、上野昌孝<夕暮れのシルエット>、加藤豁子<夕陽>、川口忠男<花々香る園>、川瀬閑人<虹をまとった蓮の葉シャワー>、北原實<3人画伯>、
木村佳子<観梅のおもてなし>、河野君江<見守ってます>、小林正雄<夕暮れ>、小梁川正芳<先人の足跡>、斎藤勝正<初冬の内苑>、鈴木計子<芽吹きの候>、鈴木克精<冬の光>、角弘<美の競演>、塚本紀夫<椿咲く頃>、戸澤昌之<風雅を楽しむ>、永島明<夏空>、中田達男<夏まっさかり>、中村はるみ<ママ!! ただいま~>、本田照子<ひっそり咲く>、間下光義<最終章開幕>、望月敏一<あじさいと新緑の小路>、吉川厚<春過ぎて>、米沢養躬<大きくなーれ>

 受賞作品は、三溪記念館第3展示室で10月5日から12月11日(水曜)まで観覧できる。解説には撮影月と場所も付されていて参考になる。

台風被害と三溪園観月会

 観月会の演奏会は、これまで内苑の臨春閣(重要文化財)の第二屋で行われてきた。人々は思い思いの場所で演奏を聴きつつ月を待つ。夜の始め、煌々たる月が東の空に現われ、ゆっくりと外苑の丘の上に建つ旧燈明寺三重塔に近づいていく(本ブログ2015年10月4日掲載「観月会」、2018年9月26日掲載「復興小唄「濱自慢」」等)。

 だが今年、30年ぶりに臨春閣屋根の補修工事が入り、現在、第一屋と第二屋の工事が進行中、ついで第三屋の工事に入る。そこで演奏会は300メートルほど離れた外苑の旧燈明寺本堂(重要文化財)で開催することとした。

 ところが観月会の1週間ほど前、超大型台風15号が関東に接近中との予報が出た。南東に池と芝生を持つ臨春閣は台風被害を受けやすい。とくに注意をしてほしい、と伝えると、すぐに雨戸の固定を確認したと報告が来た。

 9月8日(日曜)、台風は夜遅く関東地方に上陸。激しい風雨を耳に、浅い眠りに就く。一夜明けた9日(月曜)は、眩しい陽射しに嘘のような静けさ。急ぎテレビをつける。台風の中心は未明に横浜の東部を駆け抜けて北上、福島と岩手をかすめて海上へ向かっている。

 朝10時前、留守電に気づく。三溪園の中島哲也総務課長から、多数の倒木や折れ枝が散乱し来園者の安全確保が難しい、との伝言。すぐに電話する。

激しい交通渋滞にぶつかり、15分ほどの通勤時間が2時間にもなったという。その途上で、警戒待機した営業担当の滝田敦史主事や警備会社職員と連絡を取っていた。桜道の信号のある交差点から300メートル先の三溪園までの間で桜の木が3本も倒れており、傾斜地にも裂けた太い幹がぶら下がっていた。ようやく園に到着するも、激変・惨状に愕然としたという。

 昨年10月1日の深夜に北関東を通過した台風24号の被災記録があるが(本ブログ2018年10月4日掲載「台風一過のIUC学生来園」)、それとは比較にならない。

 勤続34年の中島さんは「…知る限り過去最悪…」と一瞬、立ちすくむも、すぐ各方面に臨時休園が必要か、関係者との連絡に動いた。私は「現場の判断を優先してほしい」と答える。

 朝からの状況は次のようであった。8時半頃、鈴木正技士が一番に到着し被害状況の確認にかかる。9時50分頃、庭園担当の羽田雄一郎主事と川島武技術員、柿澤幹夫さんが到着。

 10時15分から現場を見回ったメンバーで30分間の協議、その結果、障害物の除去には時間がかかり、来園者の安全確保を考えれば休園もやむなしの結論に至った。理事長名で<本日休園>を正門と南門に表示、ホームページにも掲載する。

 協議が終わるや、鈴木さんをチーフに川島さん、築地原真技術員、柿澤さんたちは、復旧作業の段取りを決めて行動開始、羽田さんはカメラを手に被害状況の記録に出る。

 11時頃、庭園ボランティア班から多くの人が駆けつけた。最高気温34℃という猛暑の中、各所で園路清掃や枝拾いに汗を流し、その後も、合掌造り班、ガイド班を含め、ボランティアさんの献身的作業がつづいた。報告がまとまるのを待ち、ここでお名前を挙げるのは控えたい。

 昼頃、完成目前の大池南岸修景整備工事を請け負っている小島造園の高下幸紀さんが到着、翌日からの高所作業車を使う復旧作業について協議した。

 夕方、再び協議。駐車場や主だった園路の安全を第一優先に、3日後に迫った観月会に向けて段取りの詳細を詰める。

 三重塔へ登る階段口から松風閣あたりは、倒木被害が大きいため通行止めに、また内苑は春草廬への2つの入口を通行止めにした。

 春草廬の脇に立つ大イチョウは樹齢130年~150年と推定され、原善三郎がこの地を入手した当時の記念樹ではないかと私は推測している(本ブログ2018年12月28日掲載「イチョウ巡り」)。その大樹の主軸先端の数カ所が折れて落下、あたり一面に太い枝が散乱していた。

 横浜市中区にある観測所の9月9日未明3~4時の最大瞬間風速は約40メートル、1時間あたり最多降水量は71ミリ。最大級の風雨が三溪園を襲ったのも、そのころと思われる。

 なお台風15号の被害は、中心の進路の東側に位置する千葉県の一部でとくに著しい。電柱2000本の倒壊による停電(9日朝に93万戸)、電話・テレビ・ネット通信の不通による情報孤立、物流の断絶による食料・飲料水不足、断水・空調切れによる生活環境の破壊、そして家屋倒壊・破損という物理的災害の復旧遅延等へと拡がっている。

 東電は10日の段階で11日中の全面復旧の見通しを示していたが、先延ばしを発表。14日段階で14万戸が、16日段階でなお8万戸が停電、完全復旧には2週間が必要とも言われる。

 三溪園では目視と写真撮影を基に被害状況の記録作成に取りかかる。羽田さんが9日13時段階で確認した主な被害状況、地図・写真・説明を付けた「名勝三溪園 令和元年9月9日 台風被害報告書」(A4×23ページ)を完成させ、関係者に配信できたのは、なんと21時40分であった。

 三溪園台風被害概報20190909_2p-地図-(1).jpg

 建築担当の原未織主事も建造物の被害状況を「台風15号被害状況報告書‐建造物ほか」にまとめ、関係者に配信した。重要文化財建造物被害として①内苑の天瑞寺寿塔覆堂の正面扉上欄間の裏板脱落、欄間彫刻一部の破損、②旧燈明寺三重塔の連子窓の脱落、軒支輪裏板の破損・欠失等があった。他に茶室・林洞庵(外苑)の倒木による瓦屋根および庇(銅板葺き)の破損が含まれる。

 被害を受けた上記の重要文化財のうち、天瑞寺寿塔覆堂は秀吉が母の長寿祈願のため大徳寺に建てた寿塔(生前墓)を収める建物であり、三溪園に現存するものの中で、もっとも早い1905(明治38)年の移築である。

 また旧燈明寺三重塔は、三溪園の景観のシンボルであるとともに、1914(大正3)年の移築を機に内苑の建造物移築を加速させた三溪の造園思想を窺い知るシンボルでもある。

 いずれも部分被害であるが、放置すれば被害は全構造に及ぶ。

 懸命の作業により主な園路の倒木等の除去が進み、休園は1日だけで済む見通しがついた。

 9月12日(木曜)、いよいよ観月会の初日を迎える。演奏等の催事に外苑が使われるのは初めてであり、吉川利一事業課長を中心に不測の事態に備える。今回の主役である旧燈明寺本堂は京都府木津川市から1987(昭和62)年に移築、その名から分かるように、もともと旧燈明寺三重塔とともに同じ寺にあった。二つの建物は、73年の歳月を経て巡り会い、以来、32年の時を刻んでいる。

 日常業務は、この間も欠かすことができない。村田和義副園長の下、中島総務課長、総務課の渡邊栄子主事、田中佐和子主事が協力して実施、さらに出演者への応対、ホームページの更新等々を行う。急増する問い合わせ電話には北泉剛史学芸員ほか、手の空いている人が当たる。また受付担当の岩本美津子主事は正門と南門の窓口対応に追われた。

 私は報告書を手に園内の被害状況を見回り、メモを書き込みつつ、ふと気づく。復旧作業の経緯は記録に取っているのか。初日(9月9日13時現在)の記録はまとめたものの、復旧作業の進捗状況との距離が拡がると前後関係さえ思い出せなくなる。次々と押し寄せる作業に紛れて記憶は曖昧になり、やがて消え去る。

 当事者しか知り得ない小さなメモが、後に大きな役割を果たすことがある。これらを広く共有するには、<記憶から記録へ>の作業が欠かせない。最初の調査書をベースに、その後の変化を順次、書き込んでもらうことにした。

 羽田さんに伝えると、すぐ作業にかかり、アッという間に新しいバージョンを作った。例えば、正門から旧燈明寺本堂へは大池の左端を通るのが近道であるが、そこを塞ぐようにソメイヨシノの幹が折れている。これを10日に片づけ、11日は芝の復旧作業、観月会初日の朝には開通…と具体的である。

 「…<記憶は3日が限度>と言われますが、そのギリギリに間に合いました。…」と羽田さんの笑顔。

 原さんも「台風15号被害状況報告書‐建造物ほか」をベースに、その後の経過を書き入れた。

 日の入は17:54。黄昏とともに一斉にライトアップが始まる。数メートルおきに配置した園路<足元灯>の光で、園内全体がほのかに浮かびあがる。せせらぎ、虫の声、暗さに目が慣れて茶室・林洞庵がおぼろげに輪郭を見せる。

 観月会の初日は9月12日(木曜)、夕刻6時半から8時半まで
  出演:薩摩琵琶錦心流中谷派襄水会
  曲目:横笛、鵯越(ひよどりごえ)、友まつ雪ほか
音響協力は5日間を通して、太陽倶楽部レコーディングス。

 13日から16日(月・祝日)までの上演スケジュールと出演者は以下の通り。詳しくはチラシをご覧いただきたい。

 【サックスとピアノで奏でる日本の唄】9月13日(金) 中秋の名月
  出演:シャンティドラゴン/金剛督・林あけみ
  曲目:優しいあの子、パプリカ、Lemon、うさぎ、ホールニューワールド、
     愛燦燦、かぐや姫の物語ほか
 復旧状況(春草廬への立ち入り禁止を13時に解除)、曇のち晴。

 【雅 楽】9月14日(土) 満月
  出演:横浜雅楽会
  演目:[祭礼舞]豊栄(とよさか)の舞、[歌物]伊勢ノ海、[管弦]盤渉調音取
(ばんしきちょうねとり)・越天楽(えてんらく)・蘇莫者(そまくしゃ)
ほか、[舞楽] 「長保楽(ちょうぼうらく)」ほか。
 曇のち晴。開始3曲目、にわか雨。

 【筝 曲】9月15日(日)
  出演:琴美会(ことみかい)
  曲目:春の海、秋の初風、龍星群、ジブリメドレー、華紋、小さい秋見つけ
     た、月の砂漠ほか
 曇のち晴。開始3曲目、ぽつりぽつりと降るもすぐに回復。

 【竹ガムランとバリ舞踊】9月16日(月・祝)
  出演:櫻田素子(演奏)、小泉ちづこ(舞踊)
  演目:歓迎の舞、森の王者の踊り、宮廷舞踊レゴンより女官の踊り、ジョゲ
舞踊ほか
朝から断続的に降り続いた雨は16時に止む。19時半頃、月が静かに昇り、
5日間にわたる観月会を締めくくった。
三重塔への3つの登り口の立ち入り禁止はまだ解除できない。
なお千葉県内の停電は依然として8万戸、完全復旧は暗い見通しと伝えられる。また伊豆諸島の被害状況が初めてテレビ放映された。

観月会の5日間、三溪記念館は、展示室を21時まで、ミュージアムショップ
を20時半まで、望塔亭を20時まで開いた。

 以上が、台風が通過した9日から観月会最終日16日までの、8日間の大まかな記録である。多くの人は台風がこれほどの被害を及ぼすとは思いもしなかったであろう。

 大過なく観月会を終えられたのは、第1に三溪園職員を中心に各関係機関職員やボランティアの、迅速かつ的確な行動と互いの連携があったこと、第2に停電等のインフラ破壊が伴わなかったことで、復旧作業が滞りなく進んだためである。


展示「もっと知ろう! 原三溪」

 横浜美術館の開館30周年と原三溪生誕150年・没後80年を記念して、横浜美術館で特別展「原三溪の美術」が開かれた(2019年7月13日~9月1日)。その趣旨を次のように述べている(ホームページより)。

 原三溪(はら・さんけい)は、横浜において生糸貿易や製糸業などで財をなした実業家です。明治初年に生まれ、昭和戦前期にいたる近代日本の黎明・発展期に経済界を牽引しました。
 一方で三溪は、独自の歴史観にもとづき古美術品を精力的に収集したコレクターであり、自由闊達(かったつ)な茶の境地を拓いた数寄者(すきしゃ)、古建築を移築して三溪園を作庭・無料公開して自らも書画・漢詩をよくしたアーティスト、そして、同時代の有望な美術家を積極的に支援し育んだパトロンでもありました。三溪のこうした文化的な営みは、財界人としての活動や人的交流、社会貢献活動家(フィランソロピスト)としての無私の精神にもとづきつつ、近代日本における美術界・美術市場の確立の過程と軌を一にしながら展開したと言えるでしょう。
 本展は、原三溪の四つの側面、すなわち「コレクター」「茶人」「アーティスト」「パトロン」としての業績に焦点を当てます。それらの相互関連を時代背景も視野に入れて探りながら、今日、国宝や重要文化財に指定される名品30件以上を含む三溪旧蔵の美術品や茶道具約150件と、関連資料を展観することによって、原三溪の文化人としての全体像を描きだします。三溪自身も一堂に観ることが適わなかった旧蔵の名品を、過去最大規模で展観する貴重な機会となります。

 この特別展と並行して、8月3日(土)~9月1日(日)の11時~16時、同館のアートギャラリー1において原三溪市民研究会・横浜美術館共催の展示「もっと知ろう! 原三溪-原三溪市民研究会10年の足跡-」が開かれた(無料)。副題にあるように、原三溪市民研究会(以下、市民研)の10年の歩みを踏まえ、<実業の人>、<文芸の人>、<愛市の人>をトライアングルの各頂点に置き、三溪の全体像に迫ろうとするパネル全28枚の展示である。

 特別展「原三溪の美術」は7月12日に鑑賞したが、市民研の展示には最終日の9月1日夕方ギリギリに駆け込み、廣島亨市民研会長の熱い解説を聴くことができた。岐阜の尾関孝彦さん(本ブログ2014年10月22日掲載「原三溪の故郷」、2016年10月3日掲載「三溪と横浜-その活躍の舞台」を参照)や市民研の速水美智子さん、久保いくこさんにも嬉しい再会ができた。

 市民研の展示はプロローグで4枚のパネル(『原三溪翁伝』について、生い立ち、《乱牛図》、結婚)を並べる。藤本實也が1945年8月16日(三溪の命日)に完成させた稿本『原三溪翁伝』を広く知らせたいと刊行作業に取り組む団体として生まれたのが市民研である。本書の解題を冒頭に置くことにより、展示の副題「原三溪市民研究会10年の足跡」が生きてくる。

 3つ目のパネルで岐阜時代の三溪の成長、とくに三溪が17歳(満16歳)で描いた《乱牛図》を取
り上げて詳述する。私がこの絵を初めて観たのは、岐阜市歴史博物館の特別展「岐阜が生んだ原三溪と日本美術-守り、支え、伝える」(2014年10月10日~11月16日)だったと思う(本ブログ2014年10月22日掲載「原三溪の故郷」)。

 また昨年秋、市民研と三溪園の共催で開かれたシンポジウム「原三溪-その生き方を考える」での市川春雄さん(原三溪・柳津文化の里構想実行委員会事務局長)の発表「岐阜と富太郎-郷里岐阜の資料に見る<富太郎、三溪へのステップ>」があった。その中で<予言>、<つぼみ・兆し>、<赤い糸>、<決意>の四段階を設定、「第2の<つぼみ・兆し>は、明治17年の富太郎の筆になる《乱牛図》で、旧加納藩主永井尚服の所望に応じて届けたもの。のちに書画を嗜む契機になった作品」と言われた点に強い印象を受けた(本ブログ2018年11月19日掲載の「原三溪の生き方を考える」)。

 今回の特別展「原三溪の美術」にも《乱牛図》が出品されており、この大好きな絵をじっくり眺め、「なだらかな山の裾野に60~70頭の牛が放たれ、子牛や牧童たちの戯れる姿も見える。のどやかで、どこか懐かしい」、とブログに書いた(本ブログ2019年7月29日掲載「医療の近未来」)。

 《乱牛図》の賛に「嗚呼太平盛乎 縦馬華山之陽 牛放桃林之野」(ああ太平盛んなるかな、馬を華山の陽(みなみ)に縦(はな)ち、牛を桃林の野に放つ)とある。

 展示図録は、これが中国の古典『書経』(『尚書』)の故事成語「帰馬放牛」から取り、「泰平を寿ぎ不戦を誓い学問を重んじる境地を放牧された群牛と牧童の長閑な情景に託している」とある。

 市民研の解説は、「武を伏せ 文を修め 馬を華山の南に帰し、牛を桃林の野に放ち、天下に服せざるを示す」から取ったとし、戦の象徴の<馬>と、太平の世の象徴の<牛>の対比を際立たせる。

 以上のプロローグの次に来るのがパネル「もっと知ろう! 原三溪」であり、このパネル1枚に全体像を示す重要なキーワードを凝縮して入れている。トライアングルの上角に<実業の人>を置き、原合名会社(生糸売込商・輸出業、製糸業)、近代的経営(技術・品質・人事)、安定・継続の方針(目先の利益に左右されない、林業・地所部、新会社設立)の3つのキーワードを入れる。

 なお展示パネルには明示してないが、廣島さんがぽつりと述べたことが心に残る。「…生糸輸出は日本最大の外貨獲得源であり、その大半が横浜港から出て、これが日本経済を支える根幹という自負を三溪は持っていたのではないでしょうか…」。同感である。

 トライアングルの左角は<愛市の人>で4枚のパネル、ここには三溪園の造園(一般公開)、横浜経済を救済(第一・二次帝国蚕糸株式会社の設立・責任者、七十四銀行破綻~横浜興信銀行設立)、震災復興(横浜貿易復興会・横浜市復興会の会長)、社会救済(寄付、横浜発展に尽力)の4つのキーワードを入れる。

 トライアングル右角<文芸の人>には11枚のパネルを充て、古美術の収集家、若手日本画家の後援・育成、文化財保護に尽力、茶人、漢詩・日本画の趣味の5つのキーワードを入れる。

 キーワードは総計12。近代的経営(技術・品質・人事)、若手日本画家の支援・育成、三溪園の造園、震災復興等々、どれ一つをとっても常人には成しえず、それが12とは尋常ならざる偉業である。

 トライアングルの下方には、<公人>と<私人>の2面から描く「三溪像の側面」の図があり、別の視点から三溪の姿を照らし出す。

 <公人>のなかには、蚕糸業界の長、政財界との交流、現実社会の中で、関内(横浜の中心部)で、出張先で、横浜愛・使命感、実業の人、愛市の人、無心の心・唯有義耳(ただ義あるのみ)の9つのキーワード、一方の<私人>の側には、自然・田園風景への憧憬、故郷への思慕、三溪園で、別荘・旅先で、自然美・安らぎ、文芸の人、歴史・文化の見識、白雲の心の8つのキーワードを入れる。

 <公人>の枠に<実業の人>と<愛市の人>の2つを入れ、<私人>の枠には<文芸の人>が入っている。<文芸の人>のから<美術の人>、<芸術の人>、<造園の人>へと想像を膨らませる人もおられよう。

 ついで<実業の人>に6枚のパネル、<愛市の人>に4枚のパネル、そして<文芸の人>に11枚のパネルを充て、各論の説明に入る構成である。

 今回は<文芸の人>のなかで三溪の漢詩を強調している。市民研のなかの漢詩の会(講師は関東学院大学の鄧捷教授)を主導してきたのが廣島さんに他ならない。三溪の長女・春子さんの願いを受けて円覚寺住職・朝比奈宗源が編纂刊行した『三溪集』(13回忌の1951年刊)には、漢詩135首、和歌20首、小唄1首が収められているが、今回そこから漢詩16首を取り上げた。

 漢詩に見る原三溪の心とも言うべき、市民研の研究成果は刊行予定と聞くので、それを待ちたい。 

 今回の市民研展示は、昨年の第5回市民研シンポジウム「原三溪の生き方を考える」の3つの報告の
うち、廣島亨「『原三溪翁伝』から三溪の選択を考える」を敷衍・深化させたものと見られる。このとき廣島さんは、ご自身の会社勤務時代の苦労を踏まえ、三溪の事業主としての折々の<選択>について、(ア)三溪の原家入籍と原商店での店員見習い、(イ)事業主として原商店の原合名会社への組織改革に着手、(ウ)事業主の仕事と三溪園の造営、換言すれば生き馬の目を抜く現実の事業と、三溪園造営や書画の創作による<永遠の美>の創造という二つの価値の両立を模索したと語った(本ブログ2018年11月19日掲載の「原三溪の生き方を考える」)。

 特別展「原三溪の美術」も市民研展示も、ともに予想をはるかに超える入場者があったと聞く。2つの展示は、異なる観点から三溪に近づこうとしており、相互補完的で分かりやすい。

 次の市民研シンポジウム(第6回)は12月14日(土曜)を予定している。

三溪園と日本画の作家たち

 三溪園の創設者・原三溪(1868~1939年)の没後80年を記念して、三溪園では横浜美術大学と連携し、「三溪園と日本画の作家たち」を開いている。大別して次の3部構成である。

 (1)「三溪園 原三溪が支援した作家たち」(三溪園内の三溪記念館第1、第2展示室で開催中、担当は三溪園学芸員の北泉剛史)。会期は7月12日(金曜)から8月18日(日曜)まで。
 (2)「下村観山(四季草花図)復元画」(制作 越智波留香)ほか。三溪園記念館第3展示室。会期は7月12日(金曜)から10月1日(火曜)まで。
 (3)「景聴園+越智波留香」、恒例の夏の公開に合わせて三溪園内の鶴翔閣にて。会期は8月3日(土曜)~18日(日曜)。

 今回の企画意図について、三溪園と横浜美術大学の連名のあいさつの中で、次のように述べている。

 「今年は三溪園の創設者・原三溪の没後80年を迎えます。これを記念し横浜美術大学との連携による企画展「三溪園と日本画の作家たち」を開催します。
 三溪は明治期末から昭和期にかけて生糸貿易・製糸業で財をなし、日本・東洋の古美術品を蒐集する一方で、岡倉天心の依頼を受け、日本美術院を中心とした若い日本画家たちを支援しました。画家たちは制作に専念できるよう資金を援助されただけでなく、毎月行われたという古美術の鑑賞会で、三溪が蒐集した美術品から古典絵画の表現技法を深く学ぶことができました。なかでも下村観山は、狩野派の古典的素養に近代の新しい感覚を兼ね備えた高い画技を持っていたことから、三溪が最も愛し厚く支援した画家です。
 横浜美術大学で絵画研究室助手を務める越智波留香氏は、関東大震災で失われてしまった松風閣に観山が描いた障壁画《四季草花図》を綿密に研究し、このたび復元制作を行いました。本展では、当園が所蔵する観山の下図とあわせて、その成果を展示します。
 三溪園を舞台に新しい時代の日本画の表現を模索した作家たちの作品を通して、原三溪という芸術のパトロンが、その発展に来した歴史的意義をあらためて見直していただく機会となれば幸いです。」

 今回、横浜美術館で「原三溪の美術 伝説の大コレクション」展(会期は9月1日まで)が開かれるのを機に、三溪園の吉川利一事業課長を軸として、横浜美術大学、横浜美術館の三者を結ぶ大きな輪に拡げられないかとの協議が昨年夏から一挙に進み、このような企画が実現する運びとなった。

 2つの会場のうち三溪記念館は1989(平成元)年の建設、築30年で3つの展示室を持つ。もう一つの(3)の会場の鶴翔閣は1902(明治35)年建造で築117年の由緒ある建物で、横浜市指定有形文化財である。

 (1)の第1、第2展示室では、明治30年代以降の、日本美術院(岡倉天心たちが明治31(1898)年7月に創設)の伝説的な日本画家、すなわち下村観山、横山大観、今村紫紅、荒井寛方、速水御舟等の作品約30点を展示している。

 彼らは、生年から概ね10年ごとに三世代に分類できる。第一世代が横山大観、西郷孤月、下村観山、荒井寛方。第二世代は今村紫紅、小林古径(本展では出品なし)、安田靫彦、前田青邨。第三世代は牛田雞村、小茂田青樹、速水御舟。このうち荒井寛方(1878~1945年)は三溪が初めて支援した日本画家で、明治36(1903)年、寛方が美術雑誌『国華』(28歳の岡倉天心が1889(明治22)年に創刊)に掲載する《孔雀明王像》(国宝、東京国立博物館、三溪旧蔵)を模写するため三溪園に滞在したことが機縁となった。

 第2展示室の12点はすべて下村観山(1873~1930年)の、明治末から大正12(1923)年までの作品である。三溪は、明治41(1908)年の第1回国画玉成会展覧会に出品した観山筆《大原御幸》(東京国立近代美術館)を見て、その卓抜した画才に感じ入り、明治44(1911)年、天心を通じて観山に支援を働きかけ、大正元(1912)年には本牧和田山(現、本牧山頂公園)に屋敷を提供した。今回の展示品は絹本着色、絹本淡彩、紙本淡彩、紙本墨画から成る。大型紙本墨画の《老松》(192.6㎝×143.3㎝)がとりわけ目を惹く。

 一方、第2会場の鶴翔閣では、かつて倉の奥の<客間棟>で伝説の大画家たちが制作に打ち込み、また<楽室棟>では1910年代から第二世代を中心に三溪所蔵の名画をめぐる古美術鑑賞会が頻繁に開かれた。議論し、切磋琢磨する芸術家たちの熱気と気概あふれる場所であった。

 その同じ場所で、約百年を隔てた今日、次代を担う若き作家たち、すなわち「景聴園」(けいちょうえん、京都市立芸術大学で日本画を学んだ作家5名と企画者2名からなる)が、新たな日本画を模索する。

 この(1)と(3)を結ぶのが、記念館第3展示室の(2)「下村観山(四季草花図)復元画」(制作 越智波留香、横浜美術大学絵画研究室助手)である。原画は三溪園山上の松風閣にあった京間十畳和室の障壁画(1912年)であるが、関東大震災(1923年)で建物は倒壊、作品も消失した。残された小下図(下絵)や古写真等を手がかりに、観山の他の作品も参照し、可能な限りの推考を重ねて作り上げた大型(264.9㎝×781.5㎝)の作品である。

 どのように復元したかを示す数葉のパネルがある。下図や観山筆《白狐図屏風》の他、俵屋宗達たち琳派の作品を研究し、金銀泥に銅粉や墨で陰影を作る、また<たらし込み>という墨や絵の具の滲みや混ざり合いを活かす画法を取り入れる、さらに和紙を3回裏打ちする技法を再現等々、ひたむきな苦闘の結実は後につづく人の参考と励みになるにちがいない。

 ここには観山の下図のほか、実際に使っていた絵筆、スケッチブック等も展示している。

 8月3日(土曜)、第2会場の鶴翔閣において(3)「景聴園+越智波留香」が始まり、若き現代の作家たち「景聴園」の作品28点と越智さんの作品2点が披露された。

 大広間を小さく仕切り、ふだんの鶴翔閣を知る人には、あたかも異空間かと思わせるレイアウトである。柱や鴨居に傷をつけぬよう、三溪園建築担当の原未織が立ち会い、慎重に作業を進めた。

 見事にできあがった展示空間に込めた思いが、A3両面×1枚の配布リーフレット(文:乃村拓郎/景聴園)に書いてあった(裏面は作品の配置図と作者・作品名一覧)。その一部を引用したい。

 「…明治から大正にかけて日本画家達は、…西洋画法の導入を試み、かたや伝統的な線描や古典への回帰があり、奥行きを求める画面へ、または平面的な画面構成へと融合と回帰を繰り返し日本画の輪郭を探っていきます。…時代が進むと新しい画材の開発も行われ、作品のあり方も床の間に飾る作品から、展覧会で見る作品へと変化していきます。…今回の展示は、大学で日本画を学んだ現代の作家達によります。日本画が生まれて約百年が経った今、現代の作家はかつての日本画達が見た景色の中に立っているのでしょうか。そして彼らが鶴翔閣に集まった日本画家を振り返ったとき、どのような景色を描けるのでしょうか。
…今も昔も作家達の眼差しには、新たな地平を拓くという強い意思があります。…近代において日本画の興隆の舞台となった鶴翔閣で、時代の視線が交差する時、どのような景色が現れるのか、どうぞご高覧ください。」

 この日、越智さんを講師に迎え、11時、1時、3時からの3回、各回の定員15名程度で、ワークショップ「三溪園の画帖をつくろう!」が行われた。<茶の間棟>に机と画材等をならべ、「三溪園の風景をあしらった古い本の形式の一種である<画帖>を作り、今日の思い出を描きこんでみましょう」と呼びかける。猛暑日にもかかわらず、若いカップルや家族連れで賑わった。その奥の<書斎>にも越智さんの作品が2点。

 この前日、日本経済新聞の8月2日朝刊1面<春秋>欄の、埼玉県東松山市にある「原爆の図丸木美術館」についての記事が目に留まった。この美術館は画家の丸木位里・俊夫妻が1967年に設立したもので、共同制作<原爆の図>を展示している。1980年代は広島・長崎の修学旅行前に学習に来る団体が急増するが、やがて<原爆の図>は残酷だとして教科書への掲載が減り、美術館は活気を失う。しかし東日本大震災(2011年)後、社会問題と向き合う美術家を招くと、彼らが<原爆の図>に刺激されて新作を生み、その作品目当ての若い観客が丸木夫妻の<原爆の図>に共感するという。

 後世に残すべき作品を大切に保存・管理し、新しい発想で今に生きる人々に伝えていくことがいかに重要かを改めて心に刻む。

 それとともに、「下村観山《四季草花図》復元画」のように、失われた作品の復元も劣らず重要である。それはまた美術研究を深め、創作活動の可能性を拡げる。「景聴園」の作品群が及ぼすにちがいない今後の影響を見守りたい。

 三溪園という国指定名勝が、若い世代に活動の場や、他に類をみない収蔵品を提供して彼らの後押しができれば、そして彼らの作品をきっかけに若い観客や仲間が増えてくれればと思う。

 今後の予定は以下の通り。

 8月10日(土曜) 11~12時、越智波留香講演「<観山の間 四季草花図>の復元-三溪と観山が描いた理想空間」。ゲスト:荒井経(東京藝術大学大学院保存修復日本画研究室教授)。定員は30名。

 8月10日(土曜) 13~14時半、出展作家によるギャラリートーク。越智波留香、景聴園(上坂秀明、合田徹郎、服部しほり、松平莉奈、三橋卓)。聞き手:森山貴之(本展企画、横浜美術大学美術・デザイン学部准教授)。ゲスト:荒井経(東京藝術大学大学院保存修復日本画研究室教授)。定員は30名。

 8月11日(日曜) 10~16時の間に随時受付(一人30分程度) ワークショップ「みんなで大作に挑戦!~孔雀明王ぬり~」 講師:景聴園(上坂秀明、合田徹郎、服部しほり、松平莉奈)。「岩絵具を使って大作ぬりえに挑戦! 岩絵具に親しんでもらうとともに、三溪園で大作に挑んだ横山大観らの制作を体感してもらいます」と呼びかけている。

 なお、この展示「三溪園と日本画の作家たち」の会期は8月18日(日曜)までの予定であったが、三溪記念館の第3展示室(「下村観山(四季草花図)復元画」のある部屋)に限り、展示物を一部入れ替えて、10月1日(火曜)まで延期する。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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