三溪園ボランティア

 2003(平成15)年の第1次募集に始まる三溪園ボランティアは、2017(平成29)年6月の第12次募集で、当初の85名から235名に増えた。線グラフにすると一目瞭然、波を打ちつつ着実に増えていることが分かる。

 三溪園ボランティアは、現在、ガイド・合掌造り・庭園の3つに分かれ、活動時間は10:00~15:30(12:00~13:00は昼休み)。235名の内訳をみると、ガイドが162名で曜日ごとに班に分属(うち1名は2つの曜日に登録)、平均すると1曜日あたり20数名となる。合掌造りが44名、こちらも曜日ごとに分属、平均して1曜日あたり6名。庭園が76名(ガイドまたは合掌造りと重複登録者あり)で、曜日にかかわらず年10回程度の庭園保守管理に参加する。

 年齢は31歳から89歳まで、男性162名に対して女性73名。みなそれぞれの領域で豊富な経験を重ねた方々で、三溪園とその創設者の原三溪(富太郎)に惚れ込み、ほとんどの方がその魅力を広く伝えたいとボランティアに志願された。居住地は横浜市内ほか神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県にまたがる。

 三溪園の休園日は12月29日から31日の3日間のみで、年に362日、活動している。運営主体は公益財団法人三溪園保勝会(内田弘保理事長)で、その活動の重要な一翼をボランティアが担っている。最前線で来園者にガイドすると同時に、合掌造りの維持管理や体験型ガイド役を担い、また庭園の維持管理という<後方支援>も行う。

 1月18日(木曜)、珍しく春のような陽気に恵まれた。10時から12時半まで「三溪園ボランティア連絡会」が園内の鶴翔閣(楽室棟)で開かれ、84名が参加、第2部の懇親会は予定を超え、熱気に包まれて3時までつづいた。昨年も同じ日に開催、その関連記事を本ブログに「三溪園ボランティア連絡会」として掲載(2017年1月30日)したので参照されたい。

 配付資料はA4×34頁の冊子、(1)ボランティア活動の説明、(2)ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(スピーチ)、(3)ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(寄稿)の3つに分かれ、大部分の時間を(2)のスピーチ(1人あたり3~4分)に当て、羽田雄一郎主事の司会で進んだ。

 ガイドボランティアの部は、①月曜班が飯島彰(以下、敬称略)、②火曜班が宇草圭司、③水曜班が中江実、④木曜班が古賀則介、⑤金曜班が橋本幸夫、⑥土曜班(急用のため欠席)、⑦日曜班が西村博夫の発表。ときに事実を淡々と、ときにユーモアを交え失敗や反省を語りつつ、有益な提案も行った。

 合掌造りの部は、①月曜班が藤波富次、②火曜班が矢野幸司、③水曜班が津田延子、④木曜班(急用のため欠席)、⑤金曜班が佐藤美奈子、⑥土曜班が松井正、⑦日曜班が鈴木彰文。古民家を今に生かすため囲炉裏に薪をくべて湯を沸かし、正月飾り、ひな人形、五月人形、軒菖蒲、七夕飾り、蚕の育成、月見団子、つるし柿、花餅飾り等々、季節の行事を披露し、その一部には来園者が参加する体験型の応対もあり、思いがけないエピソードに事欠かない。

 草取り、合掌造り用の薪割り、竹林伐採、流れの清掃、蓮池の施肥等々を担う庭園ボランティアについては畔上政男が、古建築公開に合わせて重要文化財のなかで開く「茶の湯の会」(「一日庵茶会」と呼ぶ)については吉野直美が、毎月10日に行っている自然観察会については竹内勲が、そして最後に「英語の会」については出口孝嗣がそれぞれ報告を行った。

 配布冊子の後半にある「ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(寄稿)」にも事前に目を通したが、貴重な内容を含む珠玉のエッセーが多く、感銘を受けた。紹介する紙幅がないので、12点の筆者名と題名を一覧する。①飯島彰「<三渓園グループ>ですか!」(これはガイド月曜班の報告で使われた)、②大野陽「池波正太郎と三溪園・隣花苑」、③吉野直美「国会図書館デジタルコレクションで見る臨春閣の前身<大坂春日出新田食氏庭>」(筆者は上掲「茶の湯の会」の報告者)、④吉川慎太郎「平成29年度新入生の徒然草」、⑤石井信行「三溪園は<生きる喜び> Joie de Vivre」、⑥玉田節雄「御門との朝の挨拶」、⑦福田克夫「フランス ベシュトワル家御一行の来園について」、⑧酒巻史朗「無題」、⑨志村忠夫「三溪園はすばらしい」、⑩崎豊「庭園ボランティア奮闘録」、⑪林哲夫「自然観察の会に期待します」。

 その後、10年以上のボランティア継続者6名の方々への感謝状を贈呈。石田良平、井脇音文、大川道子、久家孝之、高木宏介。10年と一言で言うが、週1回として500回余である。その献身ぶりに頭が下がる。(お名前は、ご承諾いただいた方のみ掲載)

 最後に私が挨拶。多方面にわたるボランティアなしに三溪園の魅力は世界に伝わらないと、その活動に謝辞を述べ、今日のこの場を話す機会が少ない曜日が違う方々との交流の場としてほしい、また今年は三溪生誕150年、明治改元150年、そしてほぼ30年に一度の古建築の大規模改修工事の初年次にあたるため、盆と暮れが一緒に来るような年となる、ボランティア活動も従来とは違う面が出てくるであろうと述べた。

 そして三溪園刊行の「小さい宝」である2種のリーフレットの積極活用をお願いした。正門からしばらく進むと視界が開け、その右側に地図板がある。そのあたりで園の概要を説明することが多いが、そのときリーフレット「三溪園」(日本語、英語、ハングル、簡体字と繁体字の中国語)を開いてもらい、地図板とリーフレットの地図が同じであることを説明、いま立っている位置と、左遠方の丘の上の三重塔、右奥の茅葺屋根の鶴翔閣の3点を結ぶ三角測量をしてもらう。
これだけで谷戸(やと)の地形を活かした空間の特性をイメージできる上に、リーフレットに書かれている個々の古建築の配置とその説明がより活かされ、来園者の記憶と感動の反復にも役立つ。要所要所で三重塔の位置を確認してもらえば三角測量の効果がいっそう高まる。

 もう1つのリーフレット「花と行事」には季節の花や各種の行事予定が記されている。これが次の来園の誘いとなり、リピータになってもらう鍵とならないか、と結んだ。

 ついで椅子とテーブルの位置をみなで変え、立食の懇親会が始まる。はじめは曜日の班ごとに集まり、やがて入り交じり、賑やかに盛り上がる。私も活発な意見交換に加わった。
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三溪園所蔵の豪華な作品群

 昨年暮れに始まった三溪記念館の展示は、原三溪自筆の絵画、三溪園所蔵の名品から豪華な作品群を揃える。担当は新任学芸員の北泉剛史(35歳)さん。彼の二度目の展示であるが、企画展示はこれが実質的なデビュー作と言ってよく、その意気込みが感じられる。

 第1展示室は、三溪の作品から絵画を8点、三溪ゆかりの画家・横山大観の3点、それに三溪の書簡2点の構成である。
第2展示室は、臨春閣の障壁画(替え襖)・中島清之《鶴図》、祝いの調度として《竹図屏風》等、それに色漆や蒔絵の装飾を施した火桶や火鉢である。
 第3展示室は、三溪園所蔵の美術品から「紅児会の作家を中心に」として安田靫彦、今村紫紅、牛田雞村らの作品を展示する。
会期は、第1・2展示室が1月29日まで、第3展示室が1月30日まで。
 北泉さんに案内してもらい、主に彼の解説を活用して紹介したい。美術や音楽を言葉で紹介するのは至難の業であるが、この展示に足を運んでくださる契機になれば嬉しい。

 第1展示室の「冬の訪れ」は、「紅葉を終え…園内は賑わいがうすれ、一時の静けさに包まれます。新年を迎えるこの季節は、いよいよ本格的な寒さが近づくなか、透き通る空気に気持ちも改まってきます」と述べ、実業家であり、画家であり、美術の収集家でもあった三溪(1868~1939年)の作品8点と、ゆかりの画家として横山大観の3点、それに古美術商(奈良の法隆寺西門前町で楳林堂を営んでいた今村甚吉、~1907)宛書簡2通を展示する。

 まずは三溪の山水画。(1)近江八景の1つ、琵琶湖西岸の雪の比良山遠景《比良山》と(2)夜明けの富士山《黎明》。

 次に人物画。(3)中国東晋(4世紀)の名臣・謝安が、国家存亡の決戦に大勝した報せにも平然と客と囲碁を打っていたという故事を描く《謝公囲碁》。これに付された注「実はこのあと、謝安は部屋に入ってから小躍りして喜んだそうです」の一文に思わず頬がゆるむ。(4)平安時代の僧《丹霞和尚》では、厳冬に仏像を燃やして暖をとり咎められる僧の、苦渋の表情を対比的に描く。舎利(釈迦の骨)のない仏像は形に過ぎないと、偶像崇拝に陥りがちな考えを改めさせたものとも言われる。

 ついで各地の生活ぶりを描く「風俗画」が4点。(5)《雪暁》は、凛とした冬の夜明け、一面の雪。障子を開け放った農家の一家が囲炉裏を囲み、馬小屋では馬が餌を食む。(6)《佐倉義人旧宅の図》は、江戸初期の下総国佐倉藩(千葉県成田市)、歌舞伎の題材ともなった伝説的な百姓一揆指導者・木内宗吾の屋敷の正月風景。(7)《雪の朝》は、雪に覆われた川沿いの農家。庭先の鶏の真っ赤な鶏冠が映える。(8)出羽富士とも呼ばれる白装束の《鳥海山》。麓の村にはゆったりと進む馬上で言葉を交わす二人の男。 

 ゆかりの作家として横山大観(1868~1958年)の3点がつづく。解説は三溪と大観の間柄について紹介する。古美術収集に力を入れていた三溪は、明治の終わりごろから日本美術院を中心とした若手作家たちを、物心両面で支えた。近代日本画の巨匠である大観にも援助を申し出るが、金持ちに支援されるのは好まないと大観は辞退。そこで三溪は作品を買い上げ、間接的な支援を行った。三溪所蔵の近代絵画のなかで、最も多い買い上げが大観の作品と述べる。
 三溪と同い年の大観は、5歳年長で東京美術学校(現東京芸術大学)を創設、のち追われて日本美術院を作った岡倉天心(1863~1913年)と行動をともにした筆頭格で、水戸藩士の気風を引く。互いの生き方の接点が、いまに残る三溪園所蔵の大観の作品と言えるかもしれない。

 大観の作品の(1)《あけぼの》の解説、「手前に松原が広がり、茫洋とした春の夜明けを感じさせ、…やわらかな景色の中に、黒々とどっしりとした松はとても存在感がある」。(2)《赤壁》は、中国の詩人・蘇軾の「赤壁賦」のうち「前赤壁」に因むもの。三国志の戦場の赤壁に思いを馳せ、客と酒を酌み交わし舟遊びする穏やかな夜を描く。(3)《煙寺晩鐘》は、日暮れ時の松林を濃墨や深い緑色で描く。朦朧体の圧倒的な迫力、大観47歳の作品である。

 第2展示室には、「臨春閣の障壁画 中島清之《鶴図》」と、新年を祝う調度品の、寒中に暖をとる火鉢と火桶、それに《竹図屏風》を展示。
 紀州徳川家の別荘であった臨春閣には、狩野派を中心とした江戸時代の障壁画があるが、保存のため原画は収蔵庫に収め、順に記念館で展示している。三溪園では1979年代に日本画家・中島清之(1899~1989年)に依頼し、臨春閣の替え襖を制作、清之没後は三男の中島千波(1945~)が引き継ぎ、《不二に桃花図》(1988年)と《松林図》(1990年)を制作。

 この清之の替え襖5点(《鶴図》、《梅図》、《竹図》、《牡丹図》、《菖蒲図》)のうち、今回は最初に制作された《鶴図》(1976年)のお披露目である。26羽の大きな鶴が翔ぶ壮観。

 向かい側には、金箔を貼った和紙に太い孟宗竹を描く、圧巻の《竹図屏風》(江戸時代の作品)がある。竹の上部は金箔で、ぼかしを入れる手法をとり、空間のひろがりを感じさせる。

 新年を祝う調度品として、縁起の良い蓬莱山を描く《黒漆蓬莱蒔絵広蓋》、色漆や蒔絵の装飾を施した《黒漆桧扇唐草蒔絵火鉢》と《赤漆火桶》、それに《片輪車螺鈿蒔絵火鉢》。漆は縄文時代の遺跡からも出土する。漆芸品は耐水・耐熱性に優れ、手入れしやすく、その色合いと光沢に独特の美しさがある。

 第3展示室は、「三溪園の美術品-紅児会の作家を中心に-」と題し、計16点を展示する。紅児会(こうじかい)とは、明治後期に発足した美術団体。明治31年(1898)に小堀鞆音門下の安田靫彦らが紫紅会を立ち上げ、33年に松本楓湖門下の今村紫紅が加わり紅児会と改称、のち前田青邨、小林古径、速水御舟、荒井寛方、牛田雞村らが加わり、大正2年(1913)の19回展覧会を最後に解散、のち多くが再興美術院に参加した。
 年齢も画風も異なるが、「紅児会」で研鑽を重ね、三溪が支援した画家たちの作品である。靫彦と紫紅は、岡倉天心を通して明治末頃から、またのちに青邨、古径、御舟らも、三溪の支援を受けた。なお展示作品は紅児会の活動時期より後のもの。

 室内に足を踏み入れると、左手に《軍鶏(しゃも)》の絵が目に飛び込んでくる。手前右から順に小堀鞆音(1864~1931年)の《藤房卿》、安田靫彦(1884~1978年)の《甲斐黒駒》(聖徳太子が甲斐国産の駿馬「黒駒」にまたがり全国を駆け巡ったとされる故事)、《羽衣》、《驃騎》の3点、松本楓湖(1840~1923年)の《大塔宮護良親王》、今村紫紅(1880~1916年)の《秀吉詣白旗宮図》、《後赤壁》の2点、速水御舟(1894~1935年)の《松徑》(鮮麗な藍青の顔料を多用、鬱蒼とした松が強烈な印象)、《寺の径》の2点、荒井寛方(1878~1945年)の《孔雀妙音》、牛田雞村(1890~1976年、横浜生まれ)の《老松図》、《聖徳太子像》、《松に雉子図》、《三溪園全図》(関東大震災前の園内を描く。中央ガラスケース内)の4点、そして最後に小茂田青樹(1891~1933年)の《軍鶏》、《蒲田》の2点。

 楽しんで鑑賞していただければと思う。

第20回 三溪園大茶会

 第20回三溪園大茶会が11月21日(火曜)と22日(水曜)の10時~15時、内苑の建物を使って開催された。すっきりと晴れたとはいえ、寒波襲来の中、和服姿がつづく。蓮池と大池の間の園路を西へ向かうと、右手上方に茅葺屋根の大きな建物、左奥の丘の上に三重塔が聳える。わずかに銀杏の黄色が見えるが、全体として紅葉には早い。
 三溪園大茶会は公益財団法人三溪園保勝会が主催、後援は裏千家・江戸千家宗家・遠州茶道宗家・表千家・武者小路千家の茶道5流と、横浜茶道連盟(岩原弘久理事長)及び横浜市である。今回は記念すべき第20回であり、統括は橋本一雄副園長と吉川利一事業課長が担当した。

 当日配布の『第二十回三溪園大茶会会記』は、参会者が必要に応じて参照できるポケット版で、5流それぞれの掛物、花入れ、釜、茶椀等を詳しく記している。
 その「ごあいさつ」で、内田弘保理事長は今回の開催を晩秋にしたことについて、原三溪が晩年に残した茶会記録「一槌庵茶会記」(大正6~昭和14年)に触れ、「好んで茶会を催した季節の一つが晩秋のころで…、園内にある銀杏の大木がすっかり葉を落とすころ、茶会当日まで誰にも黄金色の落ち葉を踏ませず、客を迎えた」と述べている。

 使用する建物と参加する5流は第1回(1990年)から変わらないが、開催日はそのつどの調整により、また5流の使う建物は毎回順に変わる。
 第一席は白雲邸(横浜市指定有形文化財)。内苑入口から御門をくぐって右手の三溪の隠居所である。江戸千家宗家家元 川上閑雪宗匠。
 第二席は臨春閣の住之江の間(国指定重要文化財 紀州徳川家別荘遺構)。内苑をさらに進むと視界が開け、緑の芝生と池の先に在るのが臨春閣。裏千家淡交会 横浜支部。
 第三席は同じ臨春閣の天楽の間(国指定重要文化財 紀州徳川家別荘遺構)。武者小路千家 神奈川官休会。南に三重塔を望むと、山水画さながらの光景が現前する。
 第四席は月華殿(国指定重要文化財 伏見城遺構)。臨春閣の左手の坂を上ったところに位置する。表千家同門会 神奈川県支部。
 第五席は正門に近い鶴翔閣(横浜市指定有形文化財 原三溪旧居)。遠州茶道宗家家元 小堀宗実宗匠。
 鶴翔閣はまた受付、荷物預かり、点心配付を兼ねる。

 ここで三溪の茶との関わりと三溪園大茶会について手短にふり返っておきたい。生糸輸出と製糸業の実業家・原富太郎(三溪、1868~1939年)は、1906年に三溪園を創設、近代日本画壇の育成者として知られる。また武家社会の崩壊で衰退していた茶道の再興に寄与した近代三大茶人の一人とも言われる。その茶人とは、三井の益田孝(鈍翁 どんのう、1848~1938年、三溪より20歳年長)と「電力の鬼」と言われた松永安左エ門(耳庵 じあん、1875~1971年、7歳年少)、いずれも実業界の重鎮で、交友は生涯にわたった。

 三溪が茶の湯に親しむようになったのは、仕事や美術品収集を通して鈍翁や高橋義雄(箒庵 そうあん、1861~1937年)との交流を得たことであったと言われる。その関係の一つが、1872(明治5)年創設の官営富岡製糸場の払い下げを1876(明治9)年に鈍翁の三井家が受け、それを1902(明治35)年に三溪の原合名会社が引き継いだ(~1938年)ことである。

 三溪を茶の世界に導いた鈍翁は、今日も続く大師会(西の光悦会と双璧)を1896(明治29)年に始めた。前年に狩野探幽旧蔵「弘法大師座右銘十六字一巻」を入手し、品川御殿山の自邸内に大師堂を建設する。ここで開かれた大師会茶会は、当時、盛行していた園遊会に倣い、茶会という枠を越えて政界、官界、実業界にわたる多数の名士を招待したため、「招待されねば面目立たぬ」とまでいわれた(齋藤康彦「近代数寄者の大寄せ茶会と社会文化事業」)。

 一方、三溪が主催する初の茶会は、奇しくも100年前の1917(大正6)年12月23日である。三溪50歳、鈍翁の大師会に遅れること21年、園内に新築した蓮華院一槌庵(いっついあん)で開かれた。これは三溪みずからが設計した茶室で、庵名は鈍翁より贈られた水指「一槌」に由来する。正客は鈍翁、次客は箒庵、三客は岩原謙庵、詰は梅沢鶴叟、「懐石は総てお手製、…大寂び趣向にて如何にも山庵の御馳走らしく…」とある(箒庵『東都茶会記』)。
 三溪の茶は、概して瀟洒・古雅・閑寂という言葉で表されるように、気取りのない、侘びた趣の道具や設えが特徴と言われる。茶会の規模も大を求めない。ただ一度、内苑の完成を記念して1923(大正12)年4月、園内で鈍翁の率いる大師会を開催した。

 それから間もない9月、関東大震災が襲い、横浜は壊滅的打撃を受ける。三溪は震災復興に全精力を注ぐも、その途上の1939(昭和14)年、この世を去る。享年71。さらに戦災、本牧一帯の占領軍接収とつづき、三溪園は荒れ果てる。
 1953(昭和28)年、財団法人(理事長は横浜市長)として復活、新たな一歩を踏み出す。これ以降の三溪園に関しては、財団法人三溪園保勝会『三溪園100周年 原三溪の描いた風景』(2006年)、同『財団設立50周年記念誌 三溪園・戦後あるばむ』(2003年)に、また2007年に公益財団法人(内田弘保理事長)となって以来10年の歩みは、公益財団法人三溪園保勝会『名勝三溪園保存整備事業報告書(中間)』(2017年)に詳しい。

 1958(昭和33)年10月22(水)、23(木)、三溪園は重要文化財修理完成と横浜開港100周年を記念して、横浜茶道連盟(小髙一朗理事長)の企画提案、財団法人三溪園保勝会(理事長は平沼亮三市長)主催で「重要文化財修理完成記念 三溪園大茶会」を実現させる。ここに5流家元(千宗左、千宗室、千宗守、小堀宗明、川上宗雪)が勢ぞろいした。

 平成に始まった三溪園大茶会は、三溪以来の長い伝統を伝える貴重な財産である。それには今年12月3日で開催680回を迎える横浜茶道連盟(昭和7年創立)主催の「横濱茶會」(戦後は三溪園で開催)の功績が大きい。

 公益財団法人の定款第3条(目的)に「国民共有の文化遺産である重要文化財建築物等及び名勝庭園の保存・活用を通じて、歴史及び文化の継承と発展を図り、潤いある地域社会づくりに寄与するとともに、日本の文化を世界に発信する」とある。三溪園大茶会は、これにもっとも相応しい行事の一つである。

三溪園と本牧のまちづくり

 2017年11月11日(土曜)、横浜美術館円形フォーラムにおいて原三溪市民研究会・横浜美術館・三溪園共催の第4回シンポジウム「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」が開かれた。昨年11月12日(土曜)開催の第3回シンポジウム「原三溪と本牧のまちづくり」を継ぐものである。

 昨年の第3回シンポジウムの記録及びその開催者の原三溪市民研究会の誕生の経緯については、本ブログ「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年11月21日掲載)に述べた。役員(廣島亨会長、藤嶋俊會副会長、速水美智子事務局次長、内海孝顧問、猿渡紀代子顧問)も昨年と同じである。
 速水さんの司会で下記の通り4氏の報告(各20分)の後、猿渡さんがコーディネーターをつとめてパネル・ディスカッションが行われ、最後に廣島会長の挨拶があった。その記録を簡単にまとめておきたい。

 (1)吉川利一(三溪園事業課長)「守る・伝える・創る-三溪園らしさの継承と発信」は、戦後の1953(昭和28)年に生まれた財団法人三溪園保勝会による管理運営の歴史をまとめ、2007(平成19)年、国の名勝指定を受けた公益財団法人としての三溪園の活動を中心に、法人の定款3条(目的)を引いて演題を「守る・伝える・創る-三溪園らしさの継承と発信」として話した。とくに「蛍の夕べの子どもむけイベント」「ザリガニ釣り」「スタンプラリー」「夏休み子どもアドベンチャー」、「夏休み子どもパスポートの発行」等、近年の新たな取組の一つとして、未来を担う子ども向けの諸企画を紹介した。

 (2)當麻洋一(本牧神社宮司)「受け継がれる二つの価値~形あるものと形なきもの~」は、本牧神社の例祭に際して行われる特殊神事「お馬流し」(神奈川県指定の無形民俗文化財、室町時代創始と言われる)と本牧神社の場所の変遷について、2種の写真付き資料を使って語り、茅で作る馬首亀体(首から上は馬、胴体は亀の形)を海に流し地域の平安を祈る神事、そして関東大震災から戦後接収、海岸埋立に伴う神社の場所の変遷を明らかにした。

 (3)鬼木和浩(横浜市文化観光局文化振興課施設担当課長)「本牧・三溪園の文化資本を紡ぐ<ストーリー>」は、近代の本牧に住んだ画家(下村観山ほか)と作家(谷崎潤一郎や山本周五郎ほか)を丹念に取り上げ(資料の<本牧・三溪園 文化年表>を参照)、「…芸術に関するこのような記憶が、この地に創造性のオーラをまとわせ、さらなる芸術家を招き寄せ、…<美>を守り、<美>を育む遺伝子が一貫して受け継がれている…」とする。文化芸術基本法の改正により、文化と観光・まちづくりの分野の連携が期待されるようになったとも指摘する。

 (4)内海孝(東京外国語大学名誉教授)「本牧遠近考」は、当日に配られた「横濱全図」(『風俗画報』明治35(1902)年10月号、全図とは前年の市域拡張により本牧等も横浜市に編入した地域を指す)を資料として、横浜市域の配置とそのなかの本牧の位置を探ろうとする。すなわち前回のシンポジウムを引き継ぎ、三溪園草創期に焦点を当てる。

 報告のあと、休憩を挟み、猿渡さんの名司会によるパネル・ディスカッションが続いたが、報告の補足が中心であり、その趣旨は上述のなかに含めた。
ついで参加者から2つの意見開陳があった。(1)本牧ツアーのガイドをつとめた男性は、本牧は衰退しつつあり、そのまちづくりに一番重要なのは地下鉄(みなとみらい線)の延伸であり、それを抜きに今後のまちづくりは語れないと述べる。(2)横浜出身で現在はカナダで旅行業を営む男性からは、三溪園はSankeienと表示されて有名だが、公園かミュージアムかカテゴリーが分かりにくい(三溪園のホームページ英文版や英文リーフレットにはSankeien Gardenと明示してある)とした上で、外国人客の比率等の具体的質問があった。

 報告と会場発言のいずれも、たいへん興味深かかったが、残された次の課題も明らかになったように思う。昨年の第3回「原三溪と本牧のまちづくり」は、原三溪を主体(ないし主語)とする「本牧のまちづくり」が含意されているが、今回の「三溪園と本牧のまちづくり」は誕生して110年を超える三溪園を主体(ないし主語)とする「本牧のまちづくり」である。その違いをもうすこし敷衍すると次のようになろう。
 前者は原三溪(富太郎、1868~1939年)が養祖父・原善三郎の購入した本牧三之谷に鶴翔閣を建造して野毛山から移り住み(1902年)、約20年をかけて作り上げた三溪園とその位置する本牧のまちづくりを語り合った。言い換えれば、三溪園の<草創期>、横浜の<成長期>を探ったものである。

 これに対して今回は、三溪園(1923年に完成)を主体(ないし主語)とし、その後の約100年を対象としている。したがって三溪園の完成直後に起きた関東大震災による壊滅的被害と震災復興に全力を投入した三溪、三溪没後の戦後と戦災復興、駐留軍の接収時期の約半世紀にわたる<五重苦>については十分に触れられなかった。<五重苦>とは、①関東大震災、②昭和初期の経済恐慌(横浜経済の中心が東京に移る)、③戦争と空襲、④占領と接収、⑤人口爆発である。この時期を<受難期>と呼ぼう。
この<五重苦>を克服して、1965年の「横浜六大事業」頃を期に<再興期>に入り、それから半世紀が経過した。<受難期>を飛ばし、その後の<再興期>に直行したのが今回のシンポジウムであった。

いま人口爆発はピークを打ち、横浜は人口減少の<成熟期>へと向かう次の段階にある。歴史は日常と直接の関係を持たない面があるとはいえ、やはり昨日があっての今日であり、明日である。文化や歴史を活かしたまちづくりとなれば、歴史の大局を把握したうえで、将来に向けたまちづくりを構想・推進することとなろう。
今回のシンポジウムでも多くのことを学ばせてもらった。開催者にとっては、シンポジウムの副題にある<そのヒントを探る>ためにも有益であったに違いない。最後の廣島会長の挨拶から、次に向けた取組への情熱を強く感じた。

古建築のマド

 「三渓園特別見学のお願い(村松)」のメールを受け取った。「…ご無沙汰しております。標記のお願いです。実は、10月から12月にかけて東大大学院の講義でマドについて話します。その中で、三渓園の臨春閣、聴秋閣、白雲邸など、近世から近代にかけての日本のマドの状態が見られる建物を、内部も含めて見学することは可能でしょうか?…昨日、実際に下見に行き、とても素晴らしいところだと感銘し、メール差し上げてお願いしようと思いました。いつもお願いばかりで申し訳ありません。よろしくお願いします。 村松伸」
 メールには2枚のポスターが添付してある。大きな字で「マドの向こうに 人類の建築史が見えてくる」と縦書き(マドは窓)、すこし小さな字で「マドの進化系統学」、東京大学大学院建築学専攻講義 2017年建築史学第5(村松伸教授)と横書き、開催の日時と場所が記されている。

 講義主旨には、(1)通奏低音としての3つの問い、(2)3つの問いへの仮説、(3)予備知識の導入、とある。(1)で「私は、建築とは何かを、建築を学び始めてからずっと模索し続けています。年をとったせいか、特に最近しつこくこの問題に拘泥しています」と述べ、3点を挙げる。①そもそも建築は人間にとっていかなる物かという哲学的な問い、②建築をどうやって構築したらいいかという手法に関する問い、③この大きな問い(「建築とは何か」)をどのように将来に役立てるかという問い。
これを受けて(2)で、「建築とは環境との対話装置であり、その根幹はマドである」とする。ここまで読んで彼の狙いが分かり、吉川利一事業課長に応対を頼み、すぐに来園歓迎の返事を出した。

 村松さんは30年来の古い友人である。『アジアの都市と建築』(鹿島出版会 1986年)の編集のために集まったのが32年か33年前である。本書の編者は私になっているが、仕掛人は村松さん。そのころ私だけが50歳になろうとする中年で、彼らはみな30歳前後の青年であった。
 この村松さんが今回の講義要旨に「…年をとったせいか…」と書いている。建築史を総括したいとする彼の志に応えたいと思い、村松さん関係の記事をネットで探すと、10+1 web siteの2015年5月号を見つけた。彼は近代建築史を6つの世代に区分し、自分は6世代目くらいにあたるとした上で、建築史を課題別に3期に分けている。第一期<勃興社会の建築史>は19世紀末からの伊東忠太、関野貞たちによるもの、第二期<成長社会の建築史>は戦後すぐの稲垣栄三、村松貞次郎から1980年代の5代目の鈴木博之、藤森照信、陣内秀信たちの時代で、日本が経済的にも人口的にも成長期にあり、体制批判は喧しかったが、未来が輝き、経済も順風満帆な時代だった。

 そして第三期<成熟社会の建築史>を担うのが、少子高齢化、定常経済、地球環境の危機などに直面する自分たちと位置づける。<成長社会の建築史>の代表格であった藤森研究室を継承し、<成熟社会の建築史>を進める自分の研究内容が極めて散漫に映るのは、<勃興社会>でも<成長社会>でもなく<成熟社会>に適合した建築史研究を新たに切り開こうとしているからに他ならない、そして「<成熟社会の建築史>研究は、どこかにモデルがあるわけではない。自ら問い、観察し、思索し、新たに構築する必要がある。だから決められた本を律儀に読んだり、決められた手法をそのままなぞったりすることを推奨してはいない。 常にクリエイティビティとオリジナリティが必須となる。だが放任とは異なる。確かに、修士、博士の学生たちのテーマはてんでんばらばらではある。基本的にテーマは自分で選ばなくてはならない。それこそが、ぐいぐいと自分でどこまでも進んでいける原動力となるからだ」と続ける。

 現在、村松研究室で行なっているテーマは、「建築史系」、「保全系」、「リテラシー系」、「統合系」の4つの系に整理することができるとし、「建築史系」は建築史研究室の正統的な研究の姿であるが、対象を全球の人類一万年に広げたり(空間・時間の拡大)、五感との関係で見たり(ディシプリンの拡大)、やや無節操に方法・対象を肥大化させている。ここ数年はマド[窓]の全球全史を考えている。視覚という認知にも地域生態系によってさまざまなバリエーションがあることを人類史のなかで明らかにしたい、と。
 そのうえでいま読んでいる近刊本9冊を紹介し、方法(1、2)、理念(3、4)、建築史(5〜7)、その他(8、9)に分けて提示。「3カ月も経てば読んでいる個々の本は変わるだろうけれど、方法、理念、建築史、その他の枠組みそのものは基本的には変わらないから、…多様な読書を試みてほしい」と述べる。

 1954年生まれの村松さんは私より18歳も若く、いま還暦を過ぎて定年まぢか。私自身の過去と重ねると、研究分野は違うが、総括を意識する心情が痛いように分かる。私も還暦を機に自分の歴史学の追究と大学行政の現場での模索に苦闘する日々であった。

 久しぶりの暖かい好天下、菊花展も盛りの11月2日(木曜)、一行を三溪園に迎えた。村松夫妻、林憲吾講師、岡村健太郎助教、大学院生の計23名、村松夫人とは20年ぶりの再会である。
 私は、本ブログ「外国人VIPの三溪園案内」(2017年5月10日号)や「国指定名勝の10年」(7月11日号)を念頭に以下の話をした。①三溪園は三溪が設計した<谷戸>(ヤト)の地形を生かした特異な庭(名勝指定を受けて10年)、②若い都市・横浜は生糸輸出で成長、その生糸売込商の一人が原善三郎で、その孫娘の婿に入ったのが三溪(青木富太郎)、③三溪は実業家(生糸売込商、20世紀に入ってから富岡製糸場を経営)であり、自らも書画を良くし、下村観山ら近代日本画家を育て、茶人で造園家でもある「一人五役」の人物…。

 吉川さんの案内で3つの重要文化財を見学した後に、観察の成果として各人が撮ったマドの写真2枚を放映、タイトルを付して説明した後、相互に批評しあうミーティングがあり、私も参加した。古建築に現存する多彩なマドを写真に収める<主体>と<客体>(<対象>)との緊張関係が面白い。

 マドというカタカナ表記に村松さんの想いがあるらしい。マド(窓)は広辞苑に「採光あるいは通風の目的で、壁または屋根に明けた開口部(目門または間戸の意か)」とある。マドの音が先にあり、後に漢字の窓を充てたと思われる。語呂合わせではないが、マド(間戸)とヤト(谷戸)が不思議に響きあう。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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