三溪園と本牧のまちづくり

 2017年11月11日(土曜)、横浜美術館円形フォーラムにおいて原三溪市民研究会・横浜美術館・三溪園共催の第4回シンポジウム「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」が開かれた。昨年11月12日(土曜)開催の第3回シンポジウム「原三溪と本牧のまちづくり」を継ぐものである。

 昨年の第3回シンポジウムの記録及びその開催者の原三溪市民研究会の誕生の経緯については、本ブログ「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年11月21日掲載)に述べた。役員(廣島亨会長、藤嶋俊會副会長、速水美智子事務局次長、内海孝顧問、猿渡紀代子顧問)も昨年と同じである。
 速水さんの司会で下記の通り4氏の報告(各20分)の後、猿渡さんがコーディネーターをつとめてパネル・ディスカッションが行われ、最後に廣島会長の挨拶があった。その記録を簡単にまとめておきたい。

 (1)吉川利一(三溪園事業課長)「守る・伝える・創る-三溪園らしさの継承と発信」は、戦後の1953(昭和28)年に生まれた財団法人三溪園保勝会による管理運営の歴史をまとめ、2007(平成19)年、国の名勝指定を受けた公益財団法人としての三溪園の活動を中心に、法人の定款3条(目的)を引いて演題を「守る・伝える・創る-三溪園らしさの継承と発信」として話した。とくに「蛍の夕べの子どもむけイベント」「ザリガニ釣り」「スタンプラリー」「夏休み子どもアドベンチャー」、「夏休み子どもパスポートの発行」等、近年の新たな取組の一つとして、未来を担う子ども向けの諸企画を紹介した。

 (2)當麻洋一(本牧神社宮司)「受け継がれる二つの価値~形あるものと形なきもの~」は、本牧神社の例祭に際して行われる特殊神事「お馬流し」(神奈川県指定の無形民俗文化財、室町時代創始と言われる)と本牧神社の場所の変遷について、2種の写真付き資料を使って語り、茅で作る馬首亀体(首から上は馬、胴体は亀の形)を海に流し地域の平安を祈る神事、そして関東大震災から戦後接収、海岸埋立に伴う神社の場所の変遷を明らかにした。

 (3)鬼木和浩(横浜市文化観光局文化振興課施設担当課長)「本牧・三溪園の文化資本を紡ぐ<ストーリー>」は、近代の本牧に住んだ画家(下村観山ほか)と作家(谷崎潤一郎や山本周五郎ほか)を丹念に取り上げ(資料の<本牧・三溪園 文化年表>を参照)、「…芸術に関するこのような記憶が、この地に創造性のオーラをまとわせ、さらなる芸術家を招き寄せ、…<美>を守り、<美>を育む遺伝子が一貫して受け継がれている…」とする。文化芸術基本法の改正により、文化と観光・まちづくりの分野の連携が期待されるようになったとも指摘する。

 (4)内海孝(東京外国語大学名誉教授)「本牧遠近考」は、当日に配られた「横濱全図」(『風俗画報』明治35(1902)年10月号、全図とは前年の市域拡張により本牧等も横浜市に編入した地域を指す)を資料として、横浜市域の配置とそのなかの本牧の位置を探ろうとする。すなわち前回のシンポジウムを引き継ぎ、三溪園草創期に焦点を当てる。

 報告のあと、休憩を挟み、猿渡さんの名司会によるパネル・ディスカッションが続いたが、報告の補足が中心であり、その趣旨は上述のなかに含めた。
ついで参加者から2つの意見開陳があった。(1)本牧ツアーのガイドをつとめた男性は、本牧は衰退しつつあり、そのまちづくりに一番重要なのは地下鉄(みなとみらい線)の延伸であり、それを抜きに今後のまちづくりは語れないと述べる。(2)横浜出身で現在はカナダで旅行業を営む男性からは、三溪園はSankeienと表示されて有名だが、公園かミュージアムかカテゴリーが分かりにくい(三溪園のホームページ英文版や英文リーフレットにはSankeien Gardenと明示してある)とした上で、外国人客の比率等の具体的質問があった。

 報告と会場発言のいずれも、たいへん興味深かかったが、残された次の課題も明らかになったように思う。昨年の第3回「原三溪と本牧のまちづくり」は、原三溪を主体(ないし主語)とする「本牧のまちづくり」が含意されているが、今回の「三溪園と本牧のまちづくり」は誕生して110年を超える三溪園を主体(ないし主語)とする「本牧のまちづくり」である。その違いをもうすこし敷衍すると次のようになろう。
 前者は原三溪(富太郎、1868~1939年)が養祖父・原善三郎の購入した本牧三之谷に鶴翔閣を建造して野毛山から移り住み(1902年)、約20年をかけて作り上げた三溪園とその位置する本牧のまちづくりを語り合った。言い換えれば、三溪園の<草創期>、横浜の<成長期>を探ったものである。

 これに対して今回は、三溪園(1923年に完成)を主体(ないし主語)とし、その後の約100年を対象としている。したがって三溪園の完成直後に起きた関東大震災による壊滅的被害と震災復興に全力を投入した三溪、三溪没後の戦後と戦災復興、駐留軍の接収時期の約半世紀にわたる<五重苦>については十分に触れられなかった。<五重苦>とは、①関東大震災、②昭和初期の経済恐慌(横浜経済の中心が東京に移る)、③戦争と空襲、④占領と接収、⑤人口爆発である。この時期を<受難期>と呼ぼう。
この<五重苦>を克服して、1965年の「横浜六大事業」頃を期に<再興期>に入り、それから半世紀が経過した。<受難期>を飛ばし、その後の<再興期>に直行したのが今回のシンポジウムであった。

いま人口爆発はピークを打ち、横浜は人口減少の<成熟期>へと向かう次の段階にある。歴史は日常と直接の関係を持たない面があるとはいえ、やはり昨日があっての今日であり、明日である。文化や歴史を活かしたまちづくりとなれば、歴史の大局を把握したうえで、将来に向けたまちづくりを構想・推進することとなろう。
今回のシンポジウムでも多くのことを学ばせてもらった。開催者にとっては、シンポジウムの副題にある<そのヒントを探る>ためにも有益であったに違いない。最後の廣島会長の挨拶から、次に向けた取組への情熱を強く感じた。
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古建築のマド

 「三渓園特別見学のお願い(村松)」のメールを受け取った。「…ご無沙汰しております。標記のお願いです。実は、10月から12月にかけて東大大学院の講義でマドについて話します。その中で、三渓園の臨春閣、聴秋閣、白雲邸など、近世から近代にかけての日本のマドの状態が見られる建物を、内部も含めて見学することは可能でしょうか?…昨日、実際に下見に行き、とても素晴らしいところだと感銘し、メール差し上げてお願いしようと思いました。いつもお願いばかりで申し訳ありません。よろしくお願いします。 村松伸」
 メールには2枚のポスターが添付してある。大きな字で「マドの向こうに 人類の建築史が見えてくる」と縦書き(マドは窓)、すこし小さな字で「マドの進化系統学」、東京大学大学院建築学専攻講義 2017年建築史学第5(村松伸教授)と横書き、開催の日時と場所が記されている。

 講義主旨には、(1)通奏低音としての3つの問い、(2)3つの問いへの仮説、(3)予備知識の導入、とある。(1)で「私は、建築とは何かを、建築を学び始めてからずっと模索し続けています。年をとったせいか、特に最近しつこくこの問題に拘泥しています」と述べ、3点を挙げる。①そもそも建築は人間にとっていかなる物かという哲学的な問い、②建築をどうやって構築したらいいかという手法に関する問い、③この大きな問い(「建築とは何か」)をどのように将来に役立てるかという問い。
これを受けて(2)で、「建築とは環境との対話装置であり、その根幹はマドである」とする。ここまで読んで彼の狙いが分かり、吉川利一事業課長に応対を頼み、すぐに来園歓迎の返事を出した。

 村松さんは30年来の古い友人である。『アジアの都市と建築』(鹿島出版会 1986年)の編集のために集まったのが32年か33年前である。本書の編者は私になっているが、仕掛人は村松さん。そのころ私だけが50歳になろうとする中年で、彼らはみな30歳前後の青年であった。
 この村松さんが今回の講義要旨に「…年をとったせいか…」と書いている。建築史を総括したいとする彼の志に応えたいと思い、村松さん関係の記事をネットで探すと、10+1 web siteの2015年5月号を見つけた。彼は近代建築史を6つの世代に区分し、自分は6世代目くらいにあたるとした上で、建築史を課題別に3期に分けている。第一期<勃興社会の建築史>は19世紀末からの伊東忠太、関野貞たちによるもの、第二期<成長社会の建築史>は戦後すぐの稲垣栄三、村松貞次郎から1980年代の5代目の鈴木博之、藤森照信、陣内秀信たちの時代で、日本が経済的にも人口的にも成長期にあり、体制批判は喧しかったが、未来が輝き、経済も順風満帆な時代だった。

 そして第三期<成熟社会の建築史>を担うのが、少子高齢化、定常経済、地球環境の危機などに直面する自分たちと位置づける。<成長社会の建築史>の代表格であった藤森研究室を継承し、<成熟社会の建築史>を進める自分の研究内容が極めて散漫に映るのは、<勃興社会>でも<成長社会>でもなく<成熟社会>に適合した建築史研究を新たに切り開こうとしているからに他ならない、そして「<成熟社会の建築史>研究は、どこかにモデルがあるわけではない。自ら問い、観察し、思索し、新たに構築する必要がある。だから決められた本を律儀に読んだり、決められた手法をそのままなぞったりすることを推奨してはいない。 常にクリエイティビティとオリジナリティが必須となる。だが放任とは異なる。確かに、修士、博士の学生たちのテーマはてんでんばらばらではある。基本的にテーマは自分で選ばなくてはならない。それこそが、ぐいぐいと自分でどこまでも進んでいける原動力となるからだ」と続ける。

 現在、村松研究室で行なっているテーマは、「建築史系」、「保全系」、「リテラシー系」、「統合系」の4つの系に整理することができるとし、「建築史系」は建築史研究室の正統的な研究の姿であるが、対象を全球の人類一万年に広げたり(空間・時間の拡大)、五感との関係で見たり(ディシプリンの拡大)、やや無節操に方法・対象を肥大化させている。ここ数年はマド[窓]の全球全史を考えている。視覚という認知にも地域生態系によってさまざまなバリエーションがあることを人類史のなかで明らかにしたい、と。
 そのうえでいま読んでいる近刊本9冊を紹介し、方法(1、2)、理念(3、4)、建築史(5〜7)、その他(8、9)に分けて提示。「3カ月も経てば読んでいる個々の本は変わるだろうけれど、方法、理念、建築史、その他の枠組みそのものは基本的には変わらないから、…多様な読書を試みてほしい」と述べる。

 1954年生まれの村松さんは私より18歳も若く、いま還暦を過ぎて定年まぢか。私自身の過去と重ねると、研究分野は違うが、総括を意識する心情が痛いように分かる。私も還暦を機に自分の歴史学の追究と大学行政の現場での模索に苦闘する日々であった。

 久しぶりの暖かい好天下、菊花展も盛りの11月2日(木曜)、一行を三溪園に迎えた。村松夫妻、林憲吾講師、岡村健太郎助教、大学院生の計23名、村松夫人とは20年ぶりの再会である。
 私は、本ブログ「外国人VIPの三溪園案内」(2017年5月10日号)や「国指定名勝の10年」(7月11日号)を念頭に以下の話をした。①三溪園は三溪が設計した<谷戸>(ヤト)の地形を生かした特異な庭(名勝指定を受けて10年)、②若い都市・横浜は生糸輸出で成長、その生糸売込商の一人が原善三郎で、その孫娘の婿に入ったのが三溪(青木富太郎)、③三溪は実業家(生糸売込商、20世紀に入ってから富岡製糸場を経営)であり、自らも書画を良くし、下村観山ら近代日本画家を育て、茶人で造園家でもある「一人五役」の人物…。

 吉川さんの案内で3つの重要文化財を見学した後に、観察の成果として各人が撮ったマドの写真2枚を放映、タイトルを付して説明した後、相互に批評しあうミーティングがあり、私も参加した。古建築に現存する多彩なマドを写真に収める<主体>と<客体>(<対象>)との緊張関係が面白い。

 マドというカタカナ表記に村松さんの想いがあるらしい。マド(窓)は広辞苑に「採光あるいは通風の目的で、壁または屋根に明けた開口部(目門または間戸の意か)」とある。マドの音が先にあり、後に漢字の窓を充てたと思われる。語呂合わせではないが、マド(間戸)とヤト(谷戸)が不思議に響きあう。

学生たちの三溪園印象記

 パシフィコ横浜内にあるアメリカ・カナダ大学連合日本研究センター(IUCと略称)のブルース・バートン所長を初め、佐藤有理さんほか教職員のみなさんが学生たち35人を引率して来園された。バートンさんとは25年前、彼が所長として来日した折(今回は2回目)にお会いしている(バートンさんの言)。
 IUCについては、本ブログのリンク「都留文科大学学長ブログ」の111号(2013年12月16日)にある通り、2013年に創立50周年を祝った伝統ある上級日本語教育機関で、学生たちは来日前に大学でそれぞれの専門分野と日本語を学び、ここIUCで10カ月間750時間の集中的訓練を受ける。

 来園予定の学生たちには、事前に本ブログのカテゴリ「三溪園」を拾い読みしてほしいとお願いしてあった。さらに本日の印象記や感想文を書いてほしいと頼んだ。吉川利一事業課長の説明の後、3班に分かれ、ボランティア・ガイドの浅沼桂子さん、神保正男さん、吉野直美さんが案内、合掌造りでは酒巻史朗さん、塚本英明さん、藤波富次さんが説明をしてくれた。

 しばらくして佐藤さんが8名分の「三渓園訪問の感想」を送信してくれた。その日本語で書かれた文章がみずみずしい。本ブログへの掲載をお願いすると、すぐ快諾の返事が来た。さっそく紹介したい。

(1) 先週は三渓園を見学させていただきましてありがとうございました。庭園の本当の美しさを反映する写真がきちんと撮れなかったくらい素晴らしい日本庭園でした。三渓園の構内は京都などからの建造物が丁寧に移築され、見事に保存されており、この日本庭園の歴史が深く感じられます。私には強い印象が残っています。その印象の中で一つを言えば、「臨春閣」という別荘にまさに感心せずにはいられませんでした。臨春閣の中の蟻壁には驚くことに和歌が見えます。その発見は古典文学を勉強している私にこの別荘をより楽しませてくれました。三渓園は季節によって庭園の顔が変わるとのことでしたので、今度は秋の盛りにまたお邪魔しようと思っております。重ね重ね、どうもありがとうございました。(エリック・エステバン)

(2) 今回は加藤園長のご招待のおかげで、半日間見学することができた。ガイドの吉野さんの説明を通して、日本伝統建築の巧みさを知り、造園の構想、そして「庭屋一如」という概念を理解できるようになった。それに、園内の古民家、旧東慶寺などの歴史建築に関することを教えてくださって、三渓園は個人的な庭園なだけではなく、地域及び伝統文化を保存するなどの意義も感じられた。(チン・イクネイ)


(3) 先日はお招きいただき、誠にありがとうございました。とても楽しかったです。園内ではさまざまな和風建築が各地から移築されています。伝統的な風景が凝縮されている素敵な日本庭園です。可愛い野良猫は多く、池に鯉も泳いでいます。私はガイドさんと一緒にゆっくり歩いて園内を回りました。ガイドさんはとても優しかったです。大変勉強になりました。(セツ)

(4)三渓園での足跡
私は日本に来た上は東洋風の庭園を鑑賞に行こうと決心したものの、今 まで様々な原因でその希望はまだ叶えてない。それで、およそ二週間前に校外学習として三渓園という選択肢が目に入るが早いか考えるまでもなくそれを選んだ。
それで、昨日はようやく期待していた機会になり、クラスメートと興奮して三渓園を探索した。三渓園に対する印象というのは、どこでも細心に設定されていて「天人合一」という雰囲気である。派手な噴水で修飾されているヨーロッパの園庭に対し、三渓園はそれほど壮大ではなく、全ての建築物が木材と藁でできているので、まるでいつかは崩壊するような華奢なものである。
遊覧している途中で古風な塔や民家のような建築物を見学して色々な勉強になった。例えば、日本の伝統的な美術観によると、居間の天井がどこもより高い、池の水が横に流れるほうがいい、橋がこの世と次の世の繋がりだということである。私はそのように説明してくださって、現在の人より昔の人のほうが遥かに自然に親しんだという印象を受けた。それに、三渓園のそれぞれの部分は日本の時代によって風景が区切られていて、あちこちを歩き回っている間、異時代間の差を実感できた。特に奈良時代と江戸時代の建築を比べて、まるで別々の国のものであるということに驚いた。
最後は、歴史を好む私は恥ずかしいことを告白しなければいけない。昨日の最も貴重な思い出というと、正午の昼寝であった。ツアーが終了した後、やっと他人から離れた時、一人きりで木陰で憩いつつ、美味しいお弁当をゆっくり味わっていた。そのあと、私は横になって池の流れと野鳥の鳴き声を聞いている間に、涼しい秋風を快く感じている自分が寝てしまった。その三十分後、目が覚めて四方に多彩な景色が見えて、最高の雰囲気であった。それで、自分が単なる観光客から庭園の主人になったような気がした。
そのような体験が素晴らしかったので紅葉の頃になったら、またもう一 回昼寝をしに行こうと思う。(ブライアン・リンチ)

(5) アメリカ・カナダ大学連合日本研究センターの校外学習で「三渓園」に行きました。実は、横浜市の中で、こんなに美しい自然が見えること を知りませんでした。この庭園は非常に広くて、何回も友達と一緒にまたゆっくり見に行きたいと思います。その上、どんな季節でも、景色が変わるのでいつ行っても入場者が楽しめると思います。三渓園を歩きながら、ツアーガイドの説明を聞きました。特に、「旧矢箆原家住宅」の見学をした時に、ツアーガイドの専門的知識は大変印象的でした。とても気に入ったことは、そこで皆が畳の上に 座って、部屋の細かい部分と外の景色を楽しんだ時です。そして、もう一つ印象的なことがありました。それは、三渓園の香りです。例えば、「臨春閣」では、最近、畳替えをしたそうなので、私が大好きな新しい畳の香りがしました。その上、一度、キンモクセイという花の香りもしました。日本では、その花の香りが一番好きだから嬉しかったです。秋の校外学習で、横浜市の特別なところ「三渓園」を発見して、本当に良かったと思います。(バトラー・ジェニファー)

(6) 昨日(2017年10月2日)IUCの学生たちと先生たちと一緒に遠足してきた。朝にセンターの南の方にある「三渓園」という日本庭園に行った。広くて、とても美しかった。花があまり咲いていない季節だったが、私は今年までの5年間、砂漠のような南カリフォルニアに住んでいたので、三渓園の青々としている景色が本当に素敵だと思った 。ボランティア のガイドさんの説明のおかげで、良い勉強になった。三渓園では、原三溪さんという方が日本の色々な場所から伝統的なものや古い建物を集めて、保存するために建て直したということを聞いた。その話を初めて聞いたときは、彼が個人で博物館を作って自分で楽しむという目的で作ったのかなと思っていたが、 園を散歩したり、建物を見たりすると、感謝の気持ちになった 。原三溪さんが日本の大切な歴史や文化などを守るために力を入れてくださったから、現在のセンターの学生のような日本に興味を持っている人々が、日本の文化を経験できると思う。(ルクレア・ジェシカ)


(7)10月2日にセンターのクラスメイトと先生方と横浜の三渓園に行って、ガイドが案内してくださった。ガイドが三渓園の歴史と日本の伝統的な建築物の楽しみ方を教えてくださった。ほかの庭園と違って、三渓園は日本全国から17軒の古い建築物が移築されている。例えば、京都の室町時代の燈明寺というお寺の本堂と三重塔が今三渓園に建っている。そして、江戸時代の旧矢箆原家住宅という合掌造りの家が岐阜県の白川郷から三渓園に移築されている。以前高山市で合掌造りの家は見たことあるが、矢箆原家は裕福な家庭だったため、一般的な農家の家に比べて大きくて高級な建物だと感じた。旧矢箆原家住宅は実際に入れるので、私たちは歩き回り、ガイドが伝統的な日本の建築の面白さを教えてくださった。ガイドによると、最も重要なことは、床の間の前に座って、その高さから家と庭を眺めることだ。日本の建物は床に座るイメージで作られているので、その目の高さから見るのが一番いいらしい。そして、日本の伝統的の建築には木の自然の特徴が貴ばれているので、床の間の柱はよくまっすぐの幹ではなくて、少し曲がっている幹が多いと説明してくださった。歴史も、日本の伝統的な建築にも興味があるので、私にとってとても面白い日だった。また、季節によって庭が変わると聞いたので、他の季節にもう一度三渓園を見てみたいと思う。(デリオン・アレキサンドラ)

(8)加藤園長、先日はどうも有難う御座いました。私は津島裕子の小説で日本庭園の記述を読んでから(樹木がうっそうと茂ってレンガ塀に囲まれて三渓園と全く違うイメージですが)ずっと何度も庭園を訪ねてみたかったです。津島が説明している通り、庭に入ると他の世界に入れます。津島の庭園の世界は野獣や悪い記憶で満ちていて物騒な世界ですが、三渓園の正門をくぐって第一歩から園内のうねっている芝生や古風な建造物を初めて見た瞬間に別の世界に入っていくような感覚です。園内のどこからでも梢の上に突き出ている三重塔が見えるし、建物で履物を脱いで上がって客間で正座をしながら障子の隙間から風景を眺める時、まるで自身全体が江戸時代に生まれ変わったような感じです。原三渓さんが生きている間にも訪問した外国人の方も同じように感じたでしょう。歴史的な建物を庭園に移築し保護するだけでも素晴らしいことですが、和風の雰囲気を作り上げるためにそんなに巧みに配置したことでも原さんの天才が表れていると思います。ぜひ、今度もう一度訪問させていただきたいと思います。(クレイン・ブレンダン)

ベシュトワル家の来園

 アントワーヌ・ベシュトワルさん(Antoine Bechetoille、1872~1966年)は、絹織物の筆頭生産地フランスのリヨンの生糸輸入商であり、1903(明治36)年に原合名会社(社長は原三溪)の子会社である原輸出店の総代理人となった人物である。1868年生まれの三溪が35歳、アントワーヌさん31歳、日仏間で見事なコンビを組んだ。
 この史実を雑誌“France Japon Eco”(日仏両国語の季刊誌)146号、147号(2015年)に多数の写真入り(史料)の記事で伝えたのが、クリスチャン・ポラックさん(Christian Polak、株式会社セリク社長、本社は日本橋)で、10月6日、三溪園の観月会にアントワーヌさんのご子孫一行20名を連れて来られた。

 ポラックさんの名前は、明治大学に収蔵されたポラック・コレクションや2014年の神奈川県立歴史博物館展示「繭と鋼-神奈川とフランスの交流史」等で知っていたが、お会いしたのは初めてである。その展示図録の冒頭に「クリスチャン・ポラック コレクションの歩み」として自伝風の回想が載っている。かいつまんで抜粋・紹介したい。
 「…ピレネー地方の片田舎で育ち、…東の最果ての地、日本とその国の民が話す言葉を学ぼうと心に決め、1968年、パリの国立東洋語学校(現在のフランス国立東洋語学研究所)に入学…卒業と同時に日本政府の給費留学生として来日…一橋大学で日仏外交関係史を学ぶ。…一次史料に当たり、安易な憶測を排し、常に厳正を期すべしと叩き込まれた精神は小生の研究者・企業家という二つの人格間に通底し、矛盾なく統合している。…」

 一橋大学で細谷千博教授(1920~2011年)に師事し、1907年締結の日仏協商に関する修士論文を書く。ついで日仏会館事務所長の手引きで日仏文化交流史の権威、高橋邦太郎教授(1898~1984年)に出会い、「…この驚くべき博学のユマニストは上野池之端に住む生粋の江戸っ子で、神田の古書店街を己が庭も同然に知り尽くし、…参考にすべき史料や書籍を指南してくれた。…(歴史研究には)国政史のような<大きな歴史>と個人史・家族史という<小史>があるが、自分は後者を選び、それを裏付ける史料は手紙、日記、メモ帳、蔵書、写真、通信簿等々…とりわけイコノグラフィー(図像)を重視している。…」
 当時、外国人の国立大学教員への道は閉ざされており、1980年、大学院法学研究科博士課程を修了すると、その翌1981年、株式会社セリクを立ち上げた。「…この社名は日仏協商の研究で学んだ両国の相互依存関係を紡いだ<絹>に因んだもので、小生の冒険の始まりである。以来、師の教えを忠実に守り、小生の稼ぎのすべては史料の収集に注ぎ込まれることになる。」

 そして一行の三溪園訪問を企画したポラックさんの日本側の相方が、公益財団法人三溪園保勝会の猿渡紀代子副理事長である。横浜美術館の学芸員時代、日本に住み版画や絵画を制作した「フランス人浮世絵師」ポール・ジャクレー(1896~1960年)の展覧会を企画した15年ほど前に知り合ったという。
 冷たい雨という予報だったが、ボランティア・ガイドの大西功さん、福田克夫さん、本田実さんが英語で案内する園内散策の間は降らなかった。そして白雲邸での懇談会。三溪園からは内田弘保理事長、猿渡副理事長、野村弘光理事(祖父の野村洋三氏が三溪と親しく、横浜で古美術商<サムライ商会>を経営)、川幡留司参事(三溪園の生き字引)、吉川利一事業課長と私が出席。

 猿渡さんのフランス語の司会で進む。まずポラックさんに今回の三溪園訪問に至る経緯を伺うと、彼はまず日本語で話し、その要約をフランス語で伝えた。
 10年間ほど進めていたアントワーヌ・ベシュトワルの調査の成果が得られないなかで、2014年、日本在住のジャン・ピエール・デュプリユ氏からエミール・ド・モンゴルフィエ(1866年~73年、横須賀造船所の会計係兼写真師)の子孫マリー・ド・モンゴルフィエさんと夫のベルナール・シャンパネ氏を紹介され、翌2015年、シャンパネさんからアントワーヌさんの孫ベルナールさんを見つけたと連絡を受ける。さっそく大勢のご子孫と対面、多数の史料を得た。この続きは上掲雑誌の論考と写真を参照されたい。

 ついで内田理事長のフランス語の挨拶。「ご一行の来園を心から歓迎します。原三渓とアントワーヌ・ベシュトワル氏の関係はよくご存知だと思いますが、氏は1910年、三渓の招きで、まさに皆さんの今おられるこの公園を訪問したのであります。横浜とリヨンは一本の生糸の線で結ばれていました。繊細ですけど、堅い糸です。その頃の日仏経済交流については、わが旧友ポラック氏の研究によるところが大であり、ここに感謝します。三渓は大企業家でしたが、同時に芸術の擁護者であり、大コレクターでありました。彼は寛大な心の持ち主でありました。その得たところを市民に惜しみなく開放しました。この公園もそうです。園内を散策すれば、日本を、その美と伝統を理解することが出きるでしょう。塔や建造物、動物や植物(梅や桜が素晴らしいです)もそうです。そうそう、「月」も加えたいのですが、今宵は残念ながら、彼女はgentilleでないようです。皆さまの快適なご滞在を祈念します。」

 ベシュトワル家の紹介はアントワーヌさんの孫のジョルジュさんが行う。20名のお顔と名前と血縁関係を瞬時に理解するのは難しい上に、頂戴した家系図(顔写真入り)を見ると、大変な人数である。いまなお高い出生率を誇るフランスの勢いを実感した。
 昨日到着したばかりの一行はみなお元気で、原三溪の居所であり、公開庭園でもある三溪園について、自然との一体感、樹木・石・古建築の配置の妙がなんとも素晴らしいと言われる。自作の手縫いのペンケースをいただき、三溪園から匂い袋を差し上げると「…ベシュトワルの苗字は<小さな森>という地名に由来しており、木から取ったお香は我々への格別の贈物です」と声があがった。

 明日は富岡製糸場(2014年に世界文化遺産に登録)へ行かれるという。官営の富岡製糸場は1872年に誕生し、1891年の払い下げを三井家が受け、さらに1902(明治35)年に原三溪の原合名会社が経営を引き継ぎ原富岡製糸所(~1938年)となった。アントワーヌさんが原合名会社のリヨン総代理店となったのがその翌年である。
 ベシュトワル家の方々の旅は三溪園と富岡、それに京都・奈良で終わるはずだが、ポラックさんの歴史研究の旅はさらにつづき、多方面へ拡がっていくに違いない。

三溪の書

 いま三溪記念館(三溪園内)で開催中の所蔵品展は、第1展示室が「新涼」と題した三溪等の季節の日本画、第2展示室は臨春閣の障壁画「瀟湘八景」(中国湖南省の風光明媚の地)、第3展示室はミニ企画展「三溪、こころの書」である(第3展示室だけ2017年9月28日まで)。担当は清水緑学芸員。
 展示室の奥行が浅い場所に、立体物をいかに効果的に配置するか、また日本画などは油絵と異なり脆弱なため、保存のために展示のあと一年くらいは休ませる必要がある。こうした種々の制約のなかで、清水さんは知恵を絞り工夫をこらして公開をつづけてきた。

 これまで絵画や資料類では「三溪の家族」、「歌」、「画家の手紙」、「三溪画集への礼状」、「屏風」、「巻子」等、多様なテーマで展示、「書」を中心とした「ことば」の展示も行ってきが、今回の三溪の「書」は、旧来のものとは異なる。
 三溪は多くの人に自筆の毛筆の書を贈った。求められて揮毫したもの、何かの餞に贈ったものもある。近年、当時の実業家や原合名会社の社員の子孫の方々から、こうした書を寄贈いただくことがある。

 企画の狙いを「それぞれ、三溪が選んだ、その人にふさわしい言葉が書かれています。その他にも、三溪がしたためた言葉は、その奥深くに込められた、三溪自身のこころの内が反映されているようです。ここでは、そのような三溪の書を紹介します。その心の動きとあわせてご覧ください。」と記す。
 先日、担当の清水さんに案内してもらった。展示の書は計9点(番号は私が付した)、書の解説とそれに付した漢字2字のキーワード(ロゴ)を以下に抜粋する(丁寧語を普通語に変える等、一部改変)。そこに担当者の意図が見える。

1 清虚(せいきょ) 解説に付したロゴは無私
清虚は清らかで我欲がないこと。釈迦の教えにも無私の教えがあり、高潔な君子にあてはまる。三溪は多くの富と広大な庭園、優れた美術品を所有していたが、自然や造られた美は公共性を持つものであるという考えを持ち、「我欲」のない人物であったといえる。

2 若愚(ぐのごとし) ロゴは謙虚
「大智若愚」(大智は愚のごとし)とは、禅語で本当の知恵者はかしこぶらないという意味。博学で人格者の君子に重なる。三溪は、年下の人や従業員に対しても敬称をつけて名前を呼ぶなど、常に謙虚であり、教えを乞うという姿勢を忘れない人物だった。

3 順徳者昌(とくにしたがうものはさかえる) ロゴは道徳
『漢書』の言葉、これに続く言葉は「逆徳者亡」。道徳に従って行動する人は栄え、背く人は滅びるの意味。これも、三溪が人間として大切な言葉を選んだと思われる。今の世の中、特に身に沁みる言葉ではないか。

4 唯有義耳(ただぎあるのみ) ロゴは公共
「義」とは利害を捨てて条理に従い、人道・公共のために尽くすこと。関東大震災以後、荒廃した横浜の復興や恐慌による蚕糸業界への支援などに力を入れた三溪の、当時の社会貢献に対する決意・信念が表れている。神奈川県匡済会(きょうさいかい、1918=大正7年創設の社会福祉施設)に掲げてあった。

5 信愛能和衆(しんあいよくしゅうをわす) ロゴは調和
「信愛」とは信用してかわいがることを意味し、その心があれば人はみな調和することができる、という言葉。三溪が原合名会社で多くの事業を展開できたのも、自らがこの信念をもってことにあたったためであろう。別府敏氏寄贈

6 灑以甘露(かんろをもってそそぐ) ロゴは救済
妙法蓮華経授記品第六にある言葉に由来する。美味しい飲み物を与えるということは、法華経の教えを施すという意味。これは三溪が尽力した神奈川県匡済会に掲げてあったもの。三溪はこの言葉を宗教的な意味ではなく、「社会救済を実践する」という意味で書いたと考えられる。

7 観瀾書屋(かんらんしょおく) ロゴは知識
書斎の中から波を眺める。書斎にある膨大な書物を通じて知識を蓄え、広い世界を知る、或いは漣のような小さな一歩も書斎からということか。三溪と共に横浜復興会工業部副委員長を務めた実業家・石塚氏に贈ったもの。石塚氏の人物像を表したのであろう。 石塚壽彦氏寄贈

8 太虚(たいきょ) ロゴは根源
中国の「気」の哲学が言う、気によって万物が生成消滅する宇宙のことを指す。天空や虚空とも。三溪園の「自然」は万物共有のもの、という三溪の考え方の根源は、この「太虚」にあるのかもしれない。

9 白雲心(はくうんしん) ロゴは自由
三溪が好んだ「白雲」という言葉。禅語では、何ものにもとらわれない自由闊達な境地、無心で物事にこだわらない清々しさがあるという意味を持つ。人格高潔な君子や高士に通じ、三溪の目指す境地を表している。

 以上9点のうち、4と6は同じ神奈川県匡済会の大広間に掲げられていたもので、額は横330㎝、縦135㎝ときわめて大きいが、他は通常の和額や掛軸のサイズ。すべて右から左への横書きである。書いた年を記したものは少数。
 なお中央のガラスケースにあるのは松風閣蔵品展観図録(しょうふうかくぞうひんてんかんずろく)。園内の松風閣の倉に所蔵品の一部を収めていたが、これは後に売立を行おうとしたときの目録で、現在でも名品とうたわれる多くの美術品が記されている。開かれた頁は、弘法大師(空海)自筆の《金剛般若経開題残巻》(現福岡市美術館所蔵・重要文化財)。三溪が倣ったといわれる空海の書風は、この軸から学んだのかもしれないと解説にある。

 この企画を担当した清水さんは、10月末で退職される。15年の在勤中に多くの企画をこなし、最後を三溪の書で締め括ったのは、そこに三溪の想いが詰まっていると考えたためとのこと。2字でまとめた9個のロゴに、三溪の生き方が浮かびあがる。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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