タケの開花(その5)

 今年も三溪園のオロシマササが咲いた。4月4日の朝、驚きの朗報が庭園担当の羽田雄一郎主事から入る。

 今春の陽気は例年と異なるようだ。ソメイヨシノの開花と満開が例年より10日も早く、3月下旬には散ってしまった。4月4日には最高気温26℃と夏日を記録する一方、北海道では雪が降った。異常気象が三溪園の植物にも影響するだろうとは思っていたが、それが「タケの開花」とは。もとより、これが異常気象のせいとは言い切れないが。

 確認のため本ブログの昨年分を調べる。三溪園のオロシマササとタイミンチクの開花の第一報は5月5日、坂智広(ばん ともひろ、横浜市立大学木原生物学研究所教授)さんから来た。つづけて彼の5月14日、18日付けメールには花が大幅に増えたとあり、25日には岡山から駆け付けた村松幹夫岡山大学名誉教授、木原生物学研究所の木原ゆり子さん、坂さんとともに花を観た。村松さんは日本育種学会(3月29日)で坂さんに「タケの花」の不思議を語った方で、坂さんの旧木原生物学研究所(京都時代)の大先輩である。

 6月1日掲載のブログ「タケの開花」(その2)」に、坂さんの観察記録を引用した。
「…タイミンチクの花は、すっと伸びた花穂の先端に雌しべが包まれ、それを取り囲むように雄しべ(その葯は数ミリ)3個が垂れ下がっている。開花は、同じ株の各所に、そして他の株へと確実に拡がっていたが、村松さんによれば、これが<一斉開花>の前兆なのか、それとも<部分開花>なのかを確定するには、さらに2~3週間の観察を待つ必要があるとのことである。…タケの開花は60年、90年、120年と長い周期で1度だけ起きるとされるが事例報告は多くなく、周期の年限をめぐっても確実なデータはごく少なく…現象を的確に観察して記録に残すことが重要である。」

 ついで6月8日掲載のブログ(その3)では「一斉開花」と「部分開花」の区別、タケ(学術用語でbamboo表記)とササ(学術用語でsasaと表記)の区別等に触れ、23日のブログ(その4)では長い周期で1回咲き、開花後は死滅するか否かの議論等を紹介した。

 この開花は、5月31日の毎日新聞、6月3日の朝日新聞、7日の神奈川新聞、そしてテレビでも取り上げられ、話題となった。

 そして今春、ふたたびの開花。しかも一ヵ月も早い。すぐにメールで坂さんに現場観察を依頼する。さっそく4月5日の昼、坂さんが状況を知らせてくれた。管理事務所前のオロシマササについては、「数カ所で部分的に稈が伸びて出穂開花…、また垣根の後ろには昨年よりも数は少ないが、昨年同様に地下茎で伸びた新枝が地面か出ており、10cmくらいの高さで穂をつけて開花…」
また三重塔のある丘の上のタイミンチクは、「昨年開花していた多くの株の付近で、10箇所ほど出穂開花を認め、…今日出穂開花を認めた稈も、古い稈の節から分枝して出穂しているものか、地下茎をたどった先端で新梢として株立ちしているものが出穂している状況です。イメージとしては、オロシマササと同じように、昨年の咲き残りの稈が出穂開花している状況…」とある。

 4月9日、現場で坂さんから花の生育段階や開花の場所、花を持つ部位等の説明を聞く。花は若緑色の鞘に黄色い3つの雄しべを付け、ひっそりと咲いていた。先折れした2年目の稈の直下の節や、地下茎の先端から地面に顔を出した新梢に穂がついているのも見た。

 この貴重な情報を分かち合いたい。まず三溪園のホームページで羽田さんが公表することにする。翌10日号の「三溪園だより」欄に「今年も咲きました」の標題で、2枚の可憐な花の写真と解説文が載った。

 「昨年の5~6月頃、約90年ぶりの開花といわれる話題で沸いた三溪園の竹の花が今年も開花しました。2月上旬ころから開花し始め、3月下旬ころより花数が増えてきました。画像1枚目がタイミンチクの花、2枚目がオロシマササの花です。4月9日17時頃撮影」。

 11日には坂さんから「三溪園の竹の花 観察記録(1)」と題する論考が届いた。その一部を引用する。「…イネ科タケ亜科メダケ属(Pleioblastus)に分類される、オロシマチクとタイミンチクが、どれくらいの開花周期で、開花後にどうなるのか?は全く分かっていません。これまでにしっかり観察した人が、世界のどこにもいないからです。…三渓園の歴史とともに謎をとく、科学的に大変貴重なフィールド実験です。…植物が花をつけるのは、一生のうちで最も大きなイベントです。…初めは見つけるのが難しいかもしれません。…雄しべの数が何本なのか?雌しべがどんな形なのか?花粉はどうやって飛んでいくのか?などなど、みなさんも新しい凄い発見を楽しんでください」。

 この坂さんの論考の要約を付して、「今年も咲いた“竹の花”」と題する記者発表資料を作成し、12日午後、吉川利一事業課長名で公表した。これから新聞・テレビ等の報道がつづくと見られる。

 生涯に一度、出会えるかどうかというタケの花を見に来園する方が、今年はさらに増えるのではないか。

 本ブログでも適宜、この稀有な花の推移を追っていきたい。
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女性駐日大使ご一行の三溪園案内

 2018年3月2日(金曜)午後、女性駐日大使13名(アジア、大洋州、中南米、欧州、中東、アフリカ)が、林文子横浜市長招待の懇談後、三溪園まで足を運ばれた。前日の春の嵐も収まり、観梅会の最中、馥郁(ふくいく)たる香の中で、花も枝ぶりも楽しんでいただき、三溪園の魅力をお伝えしたいと準備した。

 歓迎の挨拶で、通常は260人ものボランティアが、ガイド、庭園管理、合掌造りの運営等に尽力しているが、今回は吉川利一事業課長と私がご案内したいと述べる。英語の通訳はエクシム・インターナショナルの清原美保子さん。

 正門を入ると間もなく、一斉に歓声が上がる。私はここを密かに<展望所>と呼んでおり、多くの人が最初に感動する場所である。左側に外苑、右側に内苑を見て、外苑の三重塔(英文版リーフレットの2)と内苑の鶴翔閣(リーフレット8)の2つのシンボル的な建造物を視野に入れ、それらと現在の立地点を結ぶ「三角測量」により、東西南北と地形の高低、これから歩く園路が谷底にあることを確認してもらう。
 三溪園のホームページ(http://www.sankeien.or.jp/)に同じ地図がある。

以下は女性大使一行にお伝えした概要である。

 谷と丘から成る地形は、谷戸(やと)と呼ばれる。横浜の地形の特徴であり、市内に約3000あったが埋立により激減した。左手の大池側が1906年に一般公開した「外苑」で今年が開園112年となる。右手の南面する斜面が「内苑」。右手の蓮池の先に見える茅葺屋根の建物が鶴翔閣で1902年落成、原三溪が住まいとした(時に34歳)。4年後の1906年に外苑を公開、ついで内苑を造営し、約20年の歳月をかけて三溪園を造りあげる。

 原三溪(1868~1939年)は、岐阜県佐波柳津(現岐阜市)の庄屋青木家の長男に生まれ(富太郎)、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、跡見学校(明治8年創立、現跡見学園)で教鞭を取るなかで、埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎(1827~1899年、開港横浜の第一世代)の孫娘・屋寿(やす)と出会い結婚(24歳)、原富太郎となる。この教え子とのロマンスに、一行から華やかな声が上がった。なお三溪は原富太郎の号である。

 内苑入口で記念撮影を終え、左折して梅林へと向かう途上、横浜がとても若い都市であることを伝える。横浜の歴史はわずか150余年。奈良の1300年、京都1200年、鎌倉800年、江戸・東京400年に比べ、きわめて短い。都市横浜の起源は、日米和親条約(1854年)と日米修好通商条約(1858年)に基づく1859年の開港(5港開港場の1つ)にある。来年、横浜開港160周年を迎える。

 この若い都市へ「進取の気性」に富む人びとが全国から集まり、「三代住んで江戸っ子」に対し「三日住めば浜っ子」と言われた。諸外国からも貿易商を中心に渡来、幕府は外国人居留地を設定して賃貸する。日本人町には江戸の大店へ出店を促すが、関東一円の商人が積極的に進出し、主導権を握った。

 横浜は五港のうち最大の貿易量を誇り、筆頭輸出品の生糸が日本の外貨獲得に大きく貢献する。この生糸売込商の一人が原善三郎で、弁天通りに店を、野毛山に自宅を構え、本牧村三之谷の土地を入手、1880年頃、その丘(いまの三重塔隣接地)に煉瓦造の別荘・松風閣を建て、中国趣味の小さな庭園を造った。

 1898年、善三郎の逝去に伴い、三溪は生糸売込商原商店を承継して近代的な原合名会社に組織を一新、製糸業にも着手した(富岡製糸場等の経営は1902~38年)。

 三溪は、外苑の造営を先行させ、植栽と日本伝統の古建築移築や石(庭石、石塔、灯籠、礎石等)の配置を造園の基本に据えた。植栽は、平安時代から花の代表とされ果実を薬用・食用とした梅を中心とし、江戸時代初期(17世紀)に栽培が始まる東京の蒲田(現梅屋敷)、川崎の小向(多摩川河川敷)、横浜磯子の杉田から名木を集めた。1906年の開園当初から三溪園は梅の名所として知られる。

 初音茶屋(観梅会の時期には麦茶を供す)の近くの臥龍梅(がりょうばい)は、杉田梅林から移した100余年を経た古木。その名の通り、龍が臥すが如き佇まいである。一行は思い思いに写真を撮り、香りを愛おしみ、しばしの散策。
ここで下村観山(1873~1930年)の日本画「弱法師」(よろぼし)の話をした。観山は三溪が支援した画家の一人で、画題は能(謡曲)に因む。

 河内国(現大阪府)の通俊は,人の告げ口を信じて、わが子の俊徳丸を追出す。悲しみのあまり盲目となり乞食の弱法師と呼ばれた俊徳丸は,梅が咲く四天王寺(聖徳太子建立、6世紀、最古の仏教寺院)で施行(僧や貧しい人びとに物を施し与えること)を受ける。寺の縁起などを語るうち,父はわが子と気づき,日想観 (にっそうかん、西に没する日輪を観て、極楽浄土を想い浮かべる修行) を子にすすめる。弱法師は夕日に向かい、舞い狂う。

 この屏風絵「弱法師」は、高さ187センチ、幅8メートルもの大作と言うや、「私の背と同じ」と声が上った。川幡留司参与から借りた複写の「弱法師」を拡げる。画面左端に夕日、それに向かい合掌する右端の弱法師。弱法師をいざなうように、横長の画面いっぱい、夕日に枝をさし延べる臥龍梅。ここで撮影ラッシュとなった。市長公舎で下村観山の「富士山」を観てきたばかりの一行の印象はひとしおだったらしい。

 弱法師が描かれたころ、詩人のタゴール(Rabindranath Tagore 1861~1941年、アジア初のノーベル文学賞(1913年)を受賞)が三溪園に滞在しており、この絵に惚れ込み、インドにもと要望した。その模写を鶴翔閣で行ったのが画家の荒井寛方。タゴールは1916年、寛方をビチットラ美術学校の絵画教授として招聘、寛方はアジャンター石窟群の壁画などの模写にも当たり、日印交流に貢献した。

 来た道を戻り内苑へ向かう。内苑の造営は1914年の三重塔移築後に一挙に進んだ。古建築の移築は造園の美的観点にとどまらず、明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動の下、衰退する寺社や仏像等を護るべしとする岡倉天心(1863~1913年)の思想に共鳴した三溪が実践躬行した成果でもある。なお天心の想いは古社寺保存法(1898年)に結実し、戦後1950年の文化財保護法に継承された。

 1917年に臨春閣(リーフレット11)、1918年に月華殿(リーフレット13)、1922年に聴秋閣(リーフレット16)と春草廬(リーフレット17)を移築(それぞれの古建築の由来はリーフレットにある)、1923年、内苑の完成を祝う大師会茶会を開催する(三溪55歳)。

 その直後の9月、関東大震災で市内は壊滅的被害を受ける。三溪園の被害は倒壊した山上の煉瓦造のみで比較的小さかったが、以降、三溪は横浜の震災復興の先頭に立ち、1939年に没する。享年70。三溪は実業家、造園家、茶人、日本画家の支援者であり、自らも日本画を良くした。

 戦中・戦後の混乱期を経て、1953年、三溪園は原家から財団法人三溪園保勝会(理事長は横浜市長)に移され、復興の道を切り開いてきた。そして2007年、国指定名勝(文化財の1つで「景色の優れた地」)を受けると同時に組織替えし、公益財団法人三溪園保勝会として管理・保存・活用等の事業を担って現在に至る。

 名勝指定の理由は、「…近代横浜を代表する実業家である原富太郎(三溪)が明治時代後期から造営した自邸の庭園。起伏に富む広大な敷地に古建築を移築し、池や渓流を築造した自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・観賞上の価値は極めて高い」(平成19年2月6日の官報)とある。近世の石庭等の<象徴主義>に対する<自然主義>に基づく近代の風景式庭園である。

 内苑の御門(リーフレット9)をくぐり、右手に白雲邸(リーフレット10)を見て進む。臨春閣前の広場に出ると、眼前に広がる壮大な美しさに驚きの声が上がる。今回の来園が二度目の大使もおられるが、桜、新緑、花菖蒲、名月、紅葉、雪景色等、四季折々の来園に興味を持っていただいた。

 三溪記念館(リーフレット20)に入る。内田弘保理事長が挨拶を述べ、池を望む望塔亭でお抹茶を振る舞う。引率の関山誠国際局長によれば女性駐日大使はいま22名、その過半数が万障を繰り合わせて参加された。日ごろから互いに交流があるようで、打ち解けた会話と笑い声が絶えない。お点前の実演をする大使の姿にまた盛り上がる。最後に三溪園職員による手作りの紙雛の匂い袋「根岸~本牧 お雛さまめぐり」(観梅会催事用に特製)をプレゼントした。

 好天に恵まれ、楽しい一時を過ごしていただけたと思う。

三溪園ボランティア

 2003(平成15)年の第1次募集に始まる三溪園ボランティアは、2017(平成29)年6月の第12次募集で、当初の85名から235名に増えた。線グラフにすると一目瞭然、波を打ちつつ着実に増えていることが分かる。

 三溪園ボランティアは、現在、ガイド・合掌造り・庭園の3つに分かれ、活動時間は10:00~15:30(12:00~13:00は昼休み)。235名の内訳をみると、ガイドが162名で曜日ごとに班に分属(うち1名は2つの曜日に登録)、平均すると1曜日あたり20数名となる。合掌造りが44名、こちらも曜日ごとに分属、平均して1曜日あたり6名。庭園が76名(ガイドまたは合掌造りと重複登録者あり)で、曜日にかかわらず年10回程度の庭園保守管理に参加する。

 年齢は31歳から89歳まで、男性162名に対して女性73名。みなそれぞれの領域で豊富な経験を重ねた方々で、三溪園とその創設者の原三溪(富太郎)に惚れ込み、ほとんどの方がその魅力を広く伝えたいとボランティアに志願された。居住地は横浜市内ほか神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県にまたがる。

 三溪園の休園日は12月29日から31日の3日間のみで、年に362日、活動している。運営主体は公益財団法人三溪園保勝会(内田弘保理事長)で、その活動の重要な一翼をボランティアが担っている。最前線で来園者にガイドすると同時に、合掌造りの維持管理や体験型ガイド役を担い、また庭園の維持管理という<後方支援>も行う。

 1月18日(木曜)、珍しく春のような陽気に恵まれた。10時から12時半まで「三溪園ボランティア連絡会」が園内の鶴翔閣(楽室棟)で開かれ、84名が参加、第2部の懇親会は予定を超え、熱気に包まれて3時までつづいた。昨年も同じ日に開催、その関連記事を本ブログに「三溪園ボランティア連絡会」として掲載(2017年1月30日)したので参照されたい。

 配付資料はA4×34頁の冊子、(1)ボランティア活動の説明、(2)ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(スピーチ)、(3)ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(寄稿)の3つに分かれ、大部分の時間を(2)のスピーチ(1人あたり3~4分)に当て、羽田雄一郎主事の司会で進んだ。

 ガイドボランティアの部は、①月曜班が飯島彰(以下、敬称略)、②火曜班が宇草圭司、③水曜班が中江実、④木曜班が古賀則介、⑤金曜班が橋本幸夫、⑥土曜班(急用のため欠席)、⑦日曜班が西村博夫の発表。ときに事実を淡々と、ときにユーモアを交え失敗や反省を語りつつ、有益な提案も行った。

 合掌造りの部は、①月曜班が藤波富次、②火曜班が矢野幸司、③水曜班が津田延子、④木曜班(急用のため欠席)、⑤金曜班が佐藤美奈子、⑥土曜班が松井正、⑦日曜班が鈴木彰文。古民家を今に生かすため囲炉裏に薪をくべて湯を沸かし、正月飾り、ひな人形、五月人形、軒菖蒲、七夕飾り、蚕の育成、月見団子、つるし柿、花餅飾り等々、季節の行事を披露し、その一部には来園者が参加する体験型の応対もあり、思いがけないエピソードに事欠かない。

 草取り、合掌造り用の薪割り、竹林伐採、流れの清掃、蓮池の施肥等々を担う庭園ボランティアについては畔上政男が、古建築公開に合わせて重要文化財のなかで開く「茶の湯の会」(「一日庵茶会」と呼ぶ)については吉野直美が、毎月10日に行っている自然観察会については竹内勲が、そして最後に「英語の会」については出口孝嗣がそれぞれ報告を行った。

 配布冊子の後半にある「ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(寄稿)」にも事前に目を通したが、貴重な内容を含む珠玉のエッセーが多く、感銘を受けた。紹介する紙幅がないので、12点の筆者名と題名を一覧する。①飯島彰「<三渓園グループ>ですか!」(これはガイド月曜班の報告で使われた)、②大野陽「池波正太郎と三溪園・隣花苑」、③吉野直美「国会図書館デジタルコレクションで見る臨春閣の前身<大坂春日出新田食氏庭>」(筆者は上掲「茶の湯の会」の報告者)、④小野俊明「無題」、⑤吉川慎太郎「平成29年度新入生の徒然草」、⑥石井信行「三溪園は<生きる喜び> Joie de Vivre」、⑦玉田節雄「御門との朝の挨拶」、⑧福田克夫「フランス ベシュトワル家御一行の来園について」、⑨酒巻史朗「無題」、⑩志村忠夫「三溪園はすばらしい」、⑪崎豊「庭園ボランティア奮闘録」、⑫林哲夫「自然観察の会に期待します」。

 その後、10年以上のボランティア継続者6名の方々への感謝状を贈呈。石田良平、井脇音文、大川道子、久家孝之、高木宏介。10年と一言で言うが、週1回として500回余である。その献身ぶりに頭が下がる。(お名前は、ご承諾いただいた方のみ掲載)

 最後に私が挨拶。多方面にわたるボランティアなしに三溪園の魅力は世界に伝わらないと、その活動に謝辞を述べ、今日のこの場を話す機会が少ない曜日が違う方々との交流の場としてほしい、また今年は三溪生誕150年、明治改元150年、そしてほぼ30年に一度の古建築の大規模改修工事の初年次にあたるため、盆と暮れが一緒に来るような年となる、ボランティア活動も従来とは違う面が出てくるであろうと述べた。

 そして三溪園刊行の「小さい宝」である2種のリーフレットの積極活用をお願いした。正門からしばらく進むと視界が開け、その右側に地図板がある。そのあたりで園の概要を説明することが多いが、そのときリーフレット「三溪園」(日本語、英語、ハングル、簡体字と繁体字の中国語)を開いてもらい、地図板とリーフレットの地図が同じであることを説明、いま立っている位置と、左遠方の丘の上の三重塔、右奥の茅葺屋根の鶴翔閣の3点を結ぶ三角測量をしてもらう。

 これだけで谷戸(やと)の地形を活かした空間の特性をイメージできる上に、リーフレットに書かれている個々の古建築の配置とその説明がより活かされ、来園者の記憶と感動の反復にも役立つ。要所要所で三重塔の位置を確認してもらえば三角測量の効果がいっそう高まる。
もう1つのリーフレット「花と行事」には季節の花や各種の行事予定が記されている。これが次の来園の誘いとなり、リピータになってもらう鍵とならないか、と結んだ。

 ついで椅子とテーブルの位置をみなで変え、立食の懇親会が始まる。はじめは曜日の班ごとに集まり、やがて入り交じり、賑やかに盛り上がる。私も活発な意見交換に加わった。

三溪園所蔵の豪華な作品群

 昨年暮れに始まった三溪記念館の展示は、原三溪自筆の絵画、三溪園所蔵の名品から豪華な作品群を揃える。担当は新任学芸員の北泉剛史(35歳)さん。彼の二度目の展示であるが、企画展示はこれが実質的なデビュー作と言ってよく、その意気込みが感じられる。

 第1展示室は、三溪の作品から絵画を8点、三溪ゆかりの画家・横山大観の3点、それに三溪の書簡2点の構成である。
第2展示室は、臨春閣の障壁画(替え襖)・中島清之《鶴図》、祝いの調度として《竹図屏風》等、それに色漆や蒔絵の装飾を施した火桶や火鉢である。
 第3展示室は、三溪園所蔵の美術品から「紅児会の作家を中心に」として安田靫彦、今村紫紅、牛田雞村らの作品を展示する。
会期は、第1・2展示室が1月29日まで、第3展示室が1月30日まで。
 北泉さんに案内してもらい、主に彼の解説を活用して紹介したい。美術や音楽を言葉で紹介するのは至難の業であるが、この展示に足を運んでくださる契機になれば嬉しい。

 第1展示室の「冬の訪れ」は、「紅葉を終え…園内は賑わいがうすれ、一時の静けさに包まれます。新年を迎えるこの季節は、いよいよ本格的な寒さが近づくなか、透き通る空気に気持ちも改まってきます」と述べ、実業家であり、画家であり、美術の収集家でもあった三溪(1868~1939年)の作品8点と、ゆかりの画家として横山大観の3点、それに古美術商(奈良の法隆寺西門前町で楳林堂を営んでいた今村甚吉、~1907)宛書簡2通を展示する。

 まずは三溪の山水画。(1)近江八景の1つ、琵琶湖西岸の雪の比良山遠景《比良山》と(2)夜明けの富士山《黎明》。

 次に人物画。(3)中国東晋(4世紀)の名臣・謝安が、国家存亡の決戦に大勝した報せにも平然と客と囲碁を打っていたという故事を描く《謝公囲碁》。これに付された注「実はこのあと、謝安は部屋に入ってから小躍りして喜んだそうです」の一文に思わず頬がゆるむ。(4)平安時代の僧《丹霞和尚》では、厳冬に仏像を燃やして暖をとり咎められる僧の、苦渋の表情を対比的に描く。舎利(釈迦の骨)のない仏像は形に過ぎないと、偶像崇拝に陥りがちな考えを改めさせたものとも言われる。

 ついで各地の生活ぶりを描く「風俗画」が4点。(5)《雪暁》は、凛とした冬の夜明け、一面の雪。障子を開け放った農家の一家が囲炉裏を囲み、馬小屋では馬が餌を食む。(6)《佐倉義人旧宅の図》は、江戸初期の下総国佐倉藩(千葉県成田市)、歌舞伎の題材ともなった伝説的な百姓一揆指導者・木内宗吾の屋敷の正月風景。(7)《雪の朝》は、雪に覆われた川沿いの農家。庭先の鶏の真っ赤な鶏冠が映える。(8)出羽富士とも呼ばれる白装束の《鳥海山》。麓の村にはゆったりと進む馬上で言葉を交わす二人の男。 

 ゆかりの作家として横山大観(1868~1958年)の3点がつづく。解説は三溪と大観の間柄について紹介する。古美術収集に力を入れていた三溪は、明治の終わりごろから日本美術院を中心とした若手作家たちを、物心両面で支えた。近代日本画の巨匠である大観にも援助を申し出るが、金持ちに支援されるのは好まないと大観は辞退。そこで三溪は作品を買い上げ、間接的な支援を行った。三溪所蔵の近代絵画のなかで、最も多い買い上げが大観の作品と述べる。
 三溪と同い年の大観は、5歳年長で東京美術学校(現東京芸術大学)を創設、のち追われて日本美術院を作った岡倉天心(1863~1913年)と行動をともにした筆頭格で、水戸藩士の気風を引く。互いの生き方の接点が、いまに残る三溪園所蔵の大観の作品と言えるかもしれない。

 大観の作品の(1)《あけぼの》の解説、「手前に松原が広がり、茫洋とした春の夜明けを感じさせ、…やわらかな景色の中に、黒々とどっしりとした松はとても存在感がある」。(2)《赤壁》は、中国の詩人・蘇軾の「赤壁賦」のうち「前赤壁」に因むもの。三国志の戦場の赤壁に思いを馳せ、客と酒を酌み交わし舟遊びする穏やかな夜を描く。(3)《煙寺晩鐘》は、日暮れ時の松林を濃墨や深い緑色で描く。朦朧体の圧倒的な迫力、大観47歳の作品である。

 第2展示室には、「臨春閣の障壁画 中島清之《鶴図》」と、新年を祝う調度品の、寒中に暖をとる火鉢と火桶、それに《竹図屏風》を展示。
 紀州徳川家の別荘であった臨春閣には、狩野派を中心とした江戸時代の障壁画があるが、保存のため原画は収蔵庫に収め、順に記念館で展示している。三溪園では1979年代に日本画家・中島清之(1899~1989年)に依頼し、臨春閣の替え襖を制作、清之没後は三男の中島千波(1945~)が引き継ぎ、《不二に桃花図》(1988年)と《松林図》(1990年)を制作。

 この清之の替え襖5点(《鶴図》、《梅図》、《竹図》、《牡丹図》、《菖蒲図》)のうち、今回は最初に制作された《鶴図》(1976年)のお披露目である。26羽の大きな鶴が翔ぶ壮観。

 向かい側には、金箔を貼った和紙に太い孟宗竹を描く、圧巻の《竹図屏風》(江戸時代の作品)がある。竹の上部は金箔で、ぼかしを入れる手法をとり、空間のひろがりを感じさせる。

 新年を祝う調度品として、縁起の良い蓬莱山を描く《黒漆蓬莱蒔絵広蓋》、色漆や蒔絵の装飾を施した《黒漆桧扇唐草蒔絵火鉢》と《赤漆火桶》、それに《片輪車螺鈿蒔絵火鉢》。漆は縄文時代の遺跡からも出土する。漆芸品は耐水・耐熱性に優れ、手入れしやすく、その色合いと光沢に独特の美しさがある。

 第3展示室は、「三溪園の美術品-紅児会の作家を中心に-」と題し、計16点を展示する。紅児会(こうじかい)とは、明治後期に発足した美術団体。明治31年(1898)に小堀鞆音門下の安田靫彦らが紫紅会を立ち上げ、33年に松本楓湖門下の今村紫紅が加わり紅児会と改称、のち前田青邨、小林古径、速水御舟、荒井寛方、牛田雞村らが加わり、大正2年(1913)の19回展覧会を最後に解散、のち多くが再興美術院に参加した。
 年齢も画風も異なるが、「紅児会」で研鑽を重ね、三溪が支援した画家たちの作品である。靫彦と紫紅は、岡倉天心を通して明治末頃から、またのちに青邨、古径、御舟らも、三溪の支援を受けた。なお展示作品は紅児会の活動時期より後のもの。

 室内に足を踏み入れると、左手に《軍鶏(しゃも)》の絵が目に飛び込んでくる。手前右から順に小堀鞆音(1864~1931年)の《藤房卿》、安田靫彦(1884~1978年)の《甲斐黒駒》(聖徳太子が甲斐国産の駿馬「黒駒」にまたがり全国を駆け巡ったとされる故事)、《羽衣》、《驃騎》の3点、松本楓湖(1840~1923年)の《大塔宮護良親王》、今村紫紅(1880~1916年)の《秀吉詣白旗宮図》、《後赤壁》の2点、速水御舟(1894~1935年)の《松徑》(鮮麗な藍青の顔料を多用、鬱蒼とした松が強烈な印象)、《寺の径》の2点、荒井寛方(1878~1945年)の《孔雀妙音》、牛田雞村(1890~1976年、横浜生まれ)の《老松図》、《聖徳太子像》、《松に雉子図》、《三溪園全図》(関東大震災前の園内を描く。中央ガラスケース内)の4点、そして最後に小茂田青樹(1891~1933年)の《軍鶏》、《蒲田》の2点。

 楽しんで鑑賞していただければと思う。

第20回 三溪園大茶会

 第20回三溪園大茶会が11月21日(火曜)と22日(水曜)の10時~15時、内苑の建物を使って開催された。すっきりと晴れたとはいえ、寒波襲来の中、和服姿がつづく。蓮池と大池の間の園路を西へ向かうと、右手上方に茅葺屋根の大きな建物、左奥の丘の上に三重塔が聳える。わずかに銀杏の黄色が見えるが、全体として紅葉には早い。
 三溪園大茶会は公益財団法人三溪園保勝会が主催、後援は裏千家・江戸千家宗家・遠州茶道宗家・表千家・武者小路千家の茶道5流と、横浜茶道連盟(岩原弘久理事長)及び横浜市である。今回は記念すべき第20回であり、統括は橋本一雄副園長と吉川利一事業課長が担当した。

 当日配布の『第二十回三溪園大茶会会記』は、参会者が必要に応じて参照できるポケット版で、5流それぞれの掛物、花入れ、釜、茶椀等を詳しく記している。
 その「ごあいさつ」で、内田弘保理事長は今回の開催を晩秋にしたことについて、原三溪が晩年に残した茶会記録「一槌庵茶会記」(大正6~昭和14年)に触れ、「好んで茶会を催した季節の一つが晩秋のころで…、園内にある銀杏の大木がすっかり葉を落とすころ、茶会当日まで誰にも黄金色の落ち葉を踏ませず、客を迎えた」と述べている。

 使用する建物と参加する5流は第1回(1990年)から変わらないが、開催日はそのつどの調整により、また5流の使う建物は毎回順に変わる。
 第一席は白雲邸(横浜市指定有形文化財)。内苑入口から御門をくぐって右手の三溪の隠居所である。江戸千家宗家家元 川上閑雪宗匠。
 第二席は臨春閣の住之江の間(国指定重要文化財 紀州徳川家別荘遺構)。内苑をさらに進むと視界が開け、緑の芝生と池の先に在るのが臨春閣。裏千家淡交会 横浜支部。
 第三席は同じ臨春閣の天楽の間(国指定重要文化財 紀州徳川家別荘遺構)。武者小路千家 神奈川官休会。南に三重塔を望むと、山水画さながらの光景が現前する。
 第四席は月華殿(国指定重要文化財 伏見城遺構)。臨春閣の左手の坂を上ったところに位置する。表千家同門会 神奈川県支部。
 第五席は正門に近い鶴翔閣(横浜市指定有形文化財 原三溪旧居)。遠州茶道宗家家元 小堀宗実宗匠。
 鶴翔閣はまた受付、荷物預かり、点心配付を兼ねる。

 ここで三溪の茶との関わりと三溪園大茶会について手短にふり返っておきたい。生糸輸出と製糸業の実業家・原富太郎(三溪、1868~1939年)は、1906年に三溪園を創設、近代日本画壇の育成者として知られる。また武家社会の崩壊で衰退していた茶道の再興に寄与した近代三大茶人の一人とも言われる。その茶人とは、三井の益田孝(鈍翁 どんのう、1848~1938年、三溪より20歳年長)と「電力の鬼」と言われた松永安左エ門(耳庵 じあん、1875~1971年、7歳年少)、いずれも実業界の重鎮で、交友は生涯にわたった。

 三溪が茶の湯に親しむようになったのは、仕事や美術品収集を通して鈍翁や高橋義雄(箒庵 そうあん、1861~1937年)との交流を得たことであったと言われる。その関係の一つが、1872(明治5)年創設の官営富岡製糸場の払い下げを1876(明治9)年に鈍翁の三井家が受け、それを1902(明治35)年に三溪の原合名会社が引き継いだ(~1938年)ことである。

 三溪を茶の世界に導いた鈍翁は、今日も続く大師会(西の光悦会と双璧)を1896(明治29)年に始めた。前年に狩野探幽旧蔵「弘法大師座右銘十六字一巻」を入手し、品川御殿山の自邸内に大師堂を建設する。ここで開かれた大師会茶会は、当時、盛行していた園遊会に倣い、茶会という枠を越えて政界、官界、実業界にわたる多数の名士を招待したため、「招待されねば面目立たぬ」とまでいわれた(齋藤康彦「近代数寄者の大寄せ茶会と社会文化事業」)。

 一方、三溪が主催する初の茶会は、奇しくも100年前の1917(大正6)年12月23日である。三溪50歳、鈍翁の大師会に遅れること21年、園内に新築した蓮華院一槌庵(いっついあん)で開かれた。これは三溪みずからが設計した茶室で、庵名は鈍翁より贈られた水指「一槌」に由来する。正客は鈍翁、次客は箒庵、三客は岩原謙庵、詰は梅沢鶴叟、「懐石は総てお手製、…大寂び趣向にて如何にも山庵の御馳走らしく…」とある(箒庵『東都茶会記』)。
 三溪の茶は、概して瀟洒・古雅・閑寂という言葉で表されるように、気取りのない、侘びた趣の道具や設えが特徴と言われる。茶会の規模も大を求めない。ただ一度、内苑の完成を記念して1923(大正12)年4月、園内で鈍翁の率いる大師会を開催した。

 それから間もない9月、関東大震災が襲い、横浜は壊滅的打撃を受ける。三溪は震災復興に全精力を注ぐも、その途上の1939(昭和14)年、この世を去る。享年71。さらに戦災、本牧一帯の占領軍接収とつづき、三溪園は荒れ果てる。
 1953(昭和28)年、財団法人(理事長は横浜市長)として復活、新たな一歩を踏み出す。これ以降の三溪園に関しては、財団法人三溪園保勝会『三溪園100周年 原三溪の描いた風景』(2006年)、同『財団設立50周年記念誌 三溪園・戦後あるばむ』(2003年)に、また2007年に公益財団法人(内田弘保理事長)となって以来10年の歩みは、公益財団法人三溪園保勝会『名勝三溪園保存整備事業報告書(中間)』(2017年)に詳しい。

 1958(昭和33)年10月22(水)、23(木)、三溪園は重要文化財修理完成と横浜開港100周年を記念して、横浜茶道連盟(小髙一朗理事長)の企画提案、財団法人三溪園保勝会(理事長は平沼亮三市長)主催で「重要文化財修理完成記念 三溪園大茶会」を実現させる。ここに5流家元(千宗左、千宗室、千宗守、小堀宗明、川上宗雪)が勢ぞろいした。

 平成に始まった三溪園大茶会は、三溪以来の長い伝統を伝える貴重な財産である。それには今年12月3日で開催680回を迎える横浜茶道連盟(昭和7年創立)主催の「横濱茶會」(戦後は三溪園で開催)の功績が大きい。

 公益財団法人の定款第3条(目的)に「国民共有の文化遺産である重要文化財建築物等及び名勝庭園の保存・活用を通じて、歴史及び文化の継承と発展を図り、潤いある地域社会づくりに寄与するとともに、日本の文化を世界に発信する」とある。三溪園大茶会は、これにもっとも相応しい行事の一つである。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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