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横浜市立大学ホームカミングデー

 大学教員として私が勤めた大半が横浜市立大学(以下、市大とする)である。1973(昭和48)年から定年の2002(平成4)年まで29年間、長いよういで短い。退任してから早くも17年が過ぎた。

 学長退任(2002年)後、市大の制度の急速な変わりようを危惧しつつ見守っていたが、数年前から見直しが始まり、昨秋には新体制を創りあげたと公表、9年後に迫る創立100周年に向けて動き出した。

 すなわち創立90周年記念式典の場で、100周年への大方針が示され(本ブログ2018年11月7日掲載「横浜市立大学創立90周年記念式典」)、本年度からいよいよ5学部、5大学院研究科、2附属病院、1研究所という待望の新体制が発足した(本ブログ2019年4月11日掲載「横浜市立大学の入学式」)。また『横浜市立大学100年史』(仮題)の編纂事業も始まるという。

 そこに第10回ホームカミングデーでの講演依頼が来た。加藤貴之さん(学務・教務部学生支援課 卒業生担当)からのメールで、今年からはホームカミングデーの講演を創立100周年シリーズにしたい、初回は「横浜開港の頃の歴史に本学の創設の経緯を交えた内容を」とある。

 対象は主に「昭和30年~40年頃に在学された卒業生をメインに約100名」の方々。私が市大に着任した1973(昭和48)年以前の卒業生諸氏であり、私とほぼ同じ年齢層である。11月3日(日曜、文化の日)、第69回<浜大祭>の初日、会場は時計塔の右奥にあるカメリア・ホール。

 新制度の発足を祝う初のホームカミングデーであり、カメリア・ホールは一般教育改革の一環として1985(昭和60)年に始めた「横浜学事始」の教室に使った思い出深い場所でもある。

 演題は「横浜の夜明け-条約交渉と都市横浜の起源」とした。要請のあった「本学の創設の経緯を交えた内容」まで含めるには時間が足りない。それは次回のお楽しみとしてもらおう。

 今年は横浜開港160周年にあたる。開港の5年前に日米和親条約の交渉が行われたのが横浜村である。現在の大桟橋の近く、横浜開港資料館と神奈川県庁の中間あたりに<応接所>が設営された。この一帯が開港場の中心となり、つづく都市横浜の起源となる。果たして幕府はペリー艦隊の強大な軍事力に屈したのか?

 パワーポイントで地図、図像、表など40枚のスライドを用意し、最初の2枚だけをレジメとして配布してもらうため事前に電送した。会場で手にしたプリントを見ると、A4×2枚の原紙をA3×1枚の両面コピーにしてある。これだけしっかり拡大してあるのは参加者の年齢に配慮した工夫であろう、なによりも私自身が眼鏡を使わずに済んだ。

 目次には以下の5点を記した。
(1)はじめに - 今年が開港160周年。横浜村⇒横浜町⇒横浜市
(2)1850年ころの環太平洋-東漸する英国、太平洋の日米漂流民、米捕鯨船、百万都市・江戸
(3)ペリー来航と横浜村応接-林大学頭vsペリー提督の論戦、使用言語、通訳
(4)日米和親条約―<交渉条約>の意義
(5)都市横浜の起源     

 目次のほかに以下8点を掲げた(拙著『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫から)。①略年表、この左欄が日本で1793年の寛政令から1860年の幕府遣米使節まで、右欄が世界で「1773年 英がインドを植民地化、アヘン生産を開始」から1860年の北京条約(第二次アヘン戦争終結)まで。②私自身の主な著作10点、③「概念図 近代国際政治(4つの政体)」。裏面には地図を3点、すなわち④「ペリー来航時の江戸湾防備」、⑤「ペリー提督の旗艦航路図」、⑥「1850年前後の環太平洋」、さらに⑦日本人絵師が描いた旗艦ミシシッピー号の絵、⑧表「ペリー艦隊リスト(1854年)」。

 京浜急行の金沢八景駅周辺の大幅改修工事が進み、ホームから外へ出るのに戸惑う。市大の正門をくぐると、学生たちの案内所や屋台のテントが所狭ましと並んでいる。『第69回 浜大祭 爛漫』と題するプログラムを貰い、カメリア・ホールへ。二見良之理事長、田中靖副局長(元文理学部事務長、元国際文化学部事務長)が出迎えて下さる。

 司会は鎌倉みきさん(学務・教務部学生支援課 キャリア支援担当係長、卒業生担当係長)。11時開催、窪田吉信学長の開会挨拶、中條祐介副学長による大学の取組紹介の後、私の講演に90分をいただいた。

 講演の冒頭で次のように述べた。チラシには<講演>とありますが、学生時代の90分<授業>のつもりで話します。ただし<感想カード>の提出は免除です、と。

 会場には最年長と思われる昭和31年商学部卒の間宮靖宏さん(88歳)、昭和37年文理学部卒の阿部貞夫さん、川辺久子さんたちの顔が見えた。年配の方々に交じって人文理学部人文課程東洋史の卒業生諸氏(50歳代)や齊藤淳一さん(本ブログ2018年3月26日掲載「善四郎とペリー饗応の膳」参照)の姿もある。

 「…みなさんの在学時には、このカメリア・ホール(総合研究教育棟の一部)一帯はシェイクスピア・ガーデンと呼ばれ、椿(つばき)の木がたくさんあったでしょう、椿の学名がカメリア・ジャポニカで、そこから取ってカメリア・ホールと命名されました。完成は1985(昭和60)年、みなさんが卒業して10年以上経った時期です。今の文科系研究棟(4号館)の完成は1978(昭和53)年ですから、それ以前の旧海軍兵器廠の将校兵舎に研究室があった時代に在学されていたはずですね。…」と述べて、本題に入った。

 上掲の目次に従い、(1)で次の確認から始めた。今年が横浜開港160周年、そこから引き算をすると開港は1859年、法的根拠はその前年に幕府がアメリカのハリス総領事(のち公使)と結んだ日米修好通商条約(1858)年であり、さらにハリス来日の根拠となったのがその5年前にペリー提督と締結した日米和親条約(1854年)であることを述べる。

 1989(平成元)年に開催された横浜博覧会(YES’89)が市政公布100周年、横浜開港130年の周年事業であり、後にみなとみらい地区の開発につながったが、それを鮮明に記憶している世代は50代以上か。ここで市大が編纂・刊行した横浜の英文ガイド ”Yokohama Past and Present”(1990)を紹介、このような大部な都市ガイドブックは日本で最初の試みであり、世界ではニューヨークに次ぐ二番手であったと説明する。

 パワーポイントを放映して横浜村を古地図で示す。室町時代に初出する横浜村(武藏国久良岐郡)は浜が横につき出す地形に由来、現在の横浜市域450㎢内にあった215か村の1つである。

 (2)1850年ころの環太平洋については、地図⑥「1850年前後の環太平洋」を使い、難破した日本の漁船や廻船の乗組員が北太平洋海流と偏西風によりアメリカ方面へ押し流され、その反対に日本へはアメリカ捕鯨船が漂着。両国の漂流民が日米関係の新しい扉を開く最大の要因になったことに触れた。

 (3)「ペリー来航と横浜村応接-林大学頭vsペリー提督の論戦、使用言語、通訳」が、この<授業>の一つのハイライトである。 次の3点を話した。

 第一、レジメ⑤「ペリー提督の旗艦航路図」を使い、旗艦ミシシッピー号がアメリカ東部の軍港を出港、大西洋を渡って南下、喜望峰を回って北上、インド洋から中国海域へ、そこで先発艦隊と合流し、琉球を経て1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、江戸湾の入り口にある浦賀に到着するまで、地球の約4分の3を航海し、7か月半を要した。また<新興国アメリカ>は蒸気軍艦の燃料である石炭等を補給する独自のシーレーンを持っておらず、<超大国イギリス>の蒸気郵船P&O社のシーレーンに頼らざるを得なかった。

 第二、ペリー艦隊4隻は全艦に臨戦態勢を敷いて浦賀沖へ入る。すぐに浦賀奉行所の与力・中島三郎助がオランダ通詞・堀達之助とともに小型の番船で近づき、英語で呼びかけた。”I can speak Dutch!”(当方はオランダ語を話せる)。この一声が功を奏し、小競り合いもなく、旗艦サスケハナ号内でアメリカ側通訳ポートマンを介して副官コンティとの面談が始まる。

 ペリーは久里浜(地図④ペリー来航時の江戸湾防備を参照)で浦賀奉行にアメリカ大統領国書を手渡す儀式を終えると、わずか10日の滞在で、来春の再来を言い残して去る。
老中首座(総理大臣相当)阿部正弘は大統領国書を回覧して広く意見を求める大胆な手を打ち、国書受理から2か月後の9月にはオランダへ蒸気船を発注、200年にわたり堅持してきた鎖国の<祖法>である<外洋船所有禁止>の解禁に踏みきった。

 第三、翌1854年2月に再来したペリー艦隊は9隻。前年の4隻よりさらに規模を増強、超大国イギリス海軍にもない2500トン級の蒸気軍艦3隻と、強力な大砲を備えた帆走軍艦を有していた。その大砲は計63門(上掲⑧表「ペリー艦隊リスト(1854年)」参照)、幕府が沿岸部に造った砲台の砲門数をはるかに凌駕している。

 種々の折衝の末、1854年3月8日、横浜村に設けた<応接所>における会談が決まる。ペリーの同行画家ハイネの<ペリー横浜上陸の図>等の映像を示しつつ、林大学頭(はやし だいがくのかみ)とペリーの首脳会談における論戦を紹介した。

 交渉の使用言語はオランダ語。幕府は優秀なオランダ通詞の森山栄之助(34歳)や堀達之助(21歳)を立てたが、アメリカは急きょ上海で雇った通訳のポートマン(21歳)が政治・外交・法律に疎く、森山が司会と双方の通訳まで担う場面もあった。

 首脳だけの別室の会談、その緊迫した様子については、日米ともに記録を残しており、両者を合わせて実像に迫ることができる。勇み立つペリーが「…貴国が米国漂流民を乱暴に扱う国政を改めないなら、国力を尽くして戦争に及び雌雄を決する準備がある。…」と迫る(拙著『幕末外交と開国』参照)。

 林大学頭は動じず応えた。「戦争もあり得るかもしれぬ。しかし、貴官の言うことは事実に反することが多い。…」 そう受けて、ペリーの言う「米国漂流民を乱暴に扱う国政」とは<文政令>(1825年公布の異国船無二念打払令)下の対外令であり、その後に天保薪水令(1842年)の穏健令に切り替え、いまは漂流民を手厚く保護して送還している、と事実を淡々と述べ、「…積年の遺恨もなく、戦争に及ぶ理由はない、とくと考えられたい」と結ぶ。

 これを受けてペリーは、「…薪水供与と外国船の救助をなされるとのこと、よく分かった。国政をそのように改めたのであれば結構である。…」と返した。これにより、ペリー艦隊の誇示する強大な軍事力は封殺され、交渉を通じて進める条約の基本内容が定まった。

 (4)「日米和親条約―<交渉条約>の意義」では、幕府が発砲交戦の回避を第一として交渉に臨み、土産物の交換や招宴・交歓を重ね、上述の論戦から3週間後の3月31日(嘉永七年三月三日)、横浜村において日米和親条約(12か条)の調印に至る。これが第一の意義であり、第二に国交樹立と外交官の下田駐在を認め、後続の通商条約への準備期間を取ったこと、第三に不平等な条項がないこと、以上3つの点に重要な意義がある、と述べた。

 条約文は日本語・英語・漢文・オランダ語の4つの言語で交換されたが、双方全権の署名入りの条約文は1通もない。この不備を、後の下田追加条約で「今後の両国間の条約と外交交渉においては日本語と英語を用い、オランダ語の翻訳を付す」と補った。<蘭学>(オランダ語を媒介として西洋の科学を学習)の伝統を持つ日本に有利な内容であり、オランダ語を媒介に英語の習得を早めることにつながる(幕府翻訳方にいた福沢諭吉が代表例)。

 (5)「都市横浜の起源」は、ハリスと結んだ日米修好通商条約(1858年)の<神奈川開港>にある。

 開港場をどことするか。ハリスは東海道の宿場・神奈川を主張し、幕府(神奈川奉行)は、そこは家屋が密集しており、新しく外国商人を入れるのは難しいと強調する。

 決着がつかぬまま約束の開港予定日、1859年7月1日(安政七年六月二日)が迫る。幕府は神奈川宿と横浜村を結ぶ<横浜道>(よこはまみち)を作り、突貫工事で横浜村に開港場を造りあげた。

 現在の大桟橋の付け根に近い、日米和親条約締結の地に運上所(税関)を建て、そこを中心に西へ日本人町、東へ外国人居留地を設定、最初の都市計画を実行した。こうして完成した地域一帯(<関内>と呼ばれた)、この地こそ都市横浜の起源である。

 90分<授業>の後、応援団・チアリーダー・管弦楽団が盛り上げ、全員で校歌(西条八十作詞、古関裕而作曲)を熱唱、1時に終了した。外に出て、50代の卒業生たちと模擬店の焼きそばを食べつつ歓談。卒業して30年余、ベテランとして活躍中、子どもは大学受験を控えているなどと。

 2時からシーガルセンター1階の食堂半分を貸し切り、同窓会が開かるのでお越しをと会長の金子信康さん(昭和52年商学部卒)に誘われていた。約100名の卒業生で賑わう中、二見理事長の隣に導かれる。

 自然と話題は前日のラグビーW杯決勝戦に移る。二見さんも学生時代はラガーマン。「…南アフリカはまずスクラムで押し、イングランドの反則を誘って、ペナルティーキック(3点)を確実に決め、終盤には見事なトライの連続…」と熱い。

 金子会長の開会の挨拶と経過報告が始まった。市大とY校の卒業生からなる<進交会>の市大部会を<市大同窓会>としたのが馬場彰さんである。今回が17回目。私の学長在任中に創立75周年記念の募金を集め、正門を入って右手にある<いちょうの館>の建設(2004年竣工)に尽力してくださった(本ブログの2018年11月7日掲載「横浜市立大学創立90周年記念式典」)。昨秋にはお目にかかったが、今年は姿が見えない。

 窪田学長、中條副学長、各学部長の挨拶と進み、古屋文雄進交会理事長の音頭で乾杯の儀となった。ビールは市大木原生物学研究所が栽培した大麦で醸したクラフトビールKORNMUTTER(コルンムッター、麦の母)である。瓶のラベルには麦を抱く女性像(コルンムッター)が描かれている。

 市大に大麦を栽培する農場があることも、また木原均博士の世界的貢献についても、あまり知られていないのではないかと、同研究所の坂智広教授が「市大ビールの紹介」をした。秋、学生たちと種をまき、冬は麦踏み、<麦秋>の5月に収穫。土や風の恵みを感じつつ、力を合わせ、汗を流した賜物である。
「…本日が初の蔵出しです」の言葉に大きな拍手が湧いた。
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新しい大学評価機関

 10月11日(金曜)午後、一般財団法人大学教育質保証・評価センターの設立を祝う記念シンポジウム(3時半から)と祝賀会(5時半から)が、メルパルク東京で開かれた。超大型台風19号の接近が危惧されるなか、公立大学長及び関係者多数が集まった。なお1時半からは認証評価実務説明会があった。

 一般財団法人大学教育質保証・評価センター(以下、本センターとする)は、公立大学長を会員とする一般社団法人公立大学協会(以下、公大協とする)により設立されたもので、既存の公益財団法人大学基準協会(2004年認証)、独立行政法人大学評価・学位授与機構(2005年認証、現在は大学改革支援・学位授与機構)、公益財団法人日本高等教育評価機構(2005年認証)につぐ、第4の大学評価機関として、実に14年ぶりに誕生した。

 本センターは、大学の教育研究等についての評価等を行うことを通じ、大学の自律的な質保証活動を支援することを目的とする(定款第3条)。具体的には、①大学の教育研究等の総合的な状況についての評価、②大学の教育研究等の総合的な状況についての評価に関する調査研究、③前各号に附帯又は関連する事業を行う。

 認証評価制度の発足時(2002年)の<理念>である「…大学の理念や特色は多様であるため,各々の評価機関が個性輝く大学づくりを推進する評価の在り方に配慮するとともに,様々な第三者評価機関がそれぞれの特質を生かして評価を実施することにより,大学がその活動に応じて多元的に評価を受けられるようにすることが重要」(中央教育審議会答申(2002年)「大学の質の保証に係る新たなシステムの構築について」)を存分に生かしている点に特徴がある。

 すなわち「様々な第三者評価機関がそれぞれの特質を生かして評価を実施」することを通じて、「多元的に評価を受けられるようにすること」が、認証評価制度の理念である。ともすると硬直化した制度適用(合否判定のみを重視する等)がなされかねない中で、本センターの「評価等を行うことを通じ、大学の自律的な質保証活動を支援することを目的とする」は大きな意義を持つ。

 なお本センターは公大協により設立された機関であるが、公立大学のみならず国立・私立の大学に広く門戸を開いており、制度本来の趣旨である「多元的に評価を受けられる」1つの機関として位置づけられる。

 14年前に3つの大学評価機関が誕生した頃、公立大学はまだ少なく、公大協として独自の行動をとる力量に欠けていた。ところが公立大学数は年を追って増えつづけ、約2倍の93校となった。2018(平成30)年度現在では、大学総数781校(国立大学86校、私立大学604校)の約12%を占める。公立大学長をメンバーとする公大協は、大学団体としての本来の役割を名実ともに存分に発揮できるまでに成長した。

 本センターの役員は、奥野武俊代表理事(元大阪府立大学長)、近藤倫明理事・認証評価委員会委員長(前北九州市立大学長)、佐々木民夫理事・評価システム委員会委員長(元岩手県立大学副学長)、吉武博通理事(公立大学法人首都大学東京理事)、監事は稲垣卓(前福山市立大学長/福山市政策顧問)、中島恭一(元富山県立大学長/前富山国際大学長)の6氏。

 評議員は、荒川哲男大阪市立大学長、鬼頭宏静岡県立大学長、郡健二郎名古屋市立大学長、柴田洋三郎福岡県立大学長の4氏である。

 記念シンポジウムは、中田晃事務局長の司会の下、奥野代表理事による「開会挨拶」に始まった。この間の苦労を淡々と語り、今後への強い決意を示す。

 「本センターは、一般社団法人公立大学協会によって設立されました。公立大学協会は、各公立大学における第1巡目の認証評価受審の実績を踏まえ、協会内の研究組織において、2012年度から6か年度に渡り、認証評価についての検討を行ってきました。同時に、「公立大学法人評価に関する調査研究」を文部科学省からの委託により実施、さらには会員校に出向いたうえで、新たな考え方のもとでの試行評価を繰り返してきました。
 これらの取り組みを踏まえ、2018年3月、本センターを独立組織としたうえで、文部科学大臣に対し、大学評価機関としての認証申請を行いました。
 その後、大学分科会及び審査委員会の1年5か月に及ぶ審査を経て、ここに正式な認証を得ることができました。審査の過程では、大学の質保証制度の重要性を改めて学ぶと同時に、評価をめぐる議論にも一石を投じることができたのではないかと考えています。認証に至るまでにいただいた、多くの支援に感謝しつつ、国公私立大学の認証評価の実施に向けて前進いたします。」

 ついで小林雅之教授(教育社会学、桜美林大学総合研究機構)の基調講演「大学の質保証と大学評価の課題」と、それを受けての討論があった。

 基調講演は、パワーポイントによる23枚のスライドを使って(配布版と放映版を併用)論旨明快に進め、大別して(1)大学の質保証と評価に関する政策の流れ、(2)大学評価の2つのタイプ(制度型と市場型)、(3)今後の課題、の3つについて述べた。

 まず(1)については(ア)事前コントロールとしての設置認可と(イ)事後コントロールとしての評価(内部質保証)があり、日本では主に(ア)が質保証の機能を果たしてきたが、国際的な傾向としては(ア)から(イ)へと移行しており、グローバル化のなかこのまま放置できないとし、その各論として、①事前コントロールと事後チェック、②大学設置認可と認証評価、③大学教育の質保証の枠組み、④認証評価制度と他の質保証制度について述べる。

 ついで中央教育審議会の「2040 年に向けた高等教育のグランドデザイン答申」
(平成30年11月26日の第119回総会)に触れ、その「引き続きの検討事項」の1つとして「教学マネジメント指針の作成、学修成果の可視化と情報公表の在り方の検討を行うこと」を掲げ、教員サイドから見た教育(=教え育てる)体系に止まらず、学生の学修(=学び修める)成果の点検・評価を確実に行うことの重要性を指摘する。

 そのうえで(2)大学評価の2つのタイプ(制度型と市場型)を<評価目的>、<評価責任>、<信頼性>、<評価軸>等10項目を示して比較検討し、制度型に軍配を挙げる。一方、グローバル化(資金や教員・留学生の移動等)のなかで市場型の『USニューズランキング』と『タイムズ世界大学ランキング』の2つが巨大市場を牛耳りつつある現状に注意を喚起する。

 ついで近藤理事(認証評価委員会委員長)による説明「大学教育質保証・評価センター 認証評価の理念」があり、(1)本センターの目的、(2)本センターが行う認証評価の目的、(3)設立までの経緯の3点を簡潔に述べた。

 こちらのパワーポイントはスライド8枚であるが、図や表に加え、主な役員3名(上掲の奥野代表理事、近藤理事、佐々木理事)の写真も添えてある。複雑な問題を短時間のうちに話す制約の下、巧みな話しぶりを支える補助資料として効果的である。

 本センターの目的(1)については前述の定款第3条にあるとおり、「大学の教育研究等についての評価等を行うことを通じ、大学の自律的な質保証活動を支援することを目的とする」である。ここを読み飛ばしてはならない。<評価>という行為(手段)を通じて、<大学の自律的な質保証活動を支援>するのが<目的>である。これを明示するのは本センターの特色である。

 ついで(2)本センターが行う認証評価の目的については、(1)を受けて「…大学の教育研究の質の保証及び向上の取組みは大学自身の責任であることを自覚し、…評価を通じて大学の教育研究の質の向上に資すること」を目的とすると述べる(大学機関別認証評価実施大綱「はじめに」)。これは2002年中央教育審議会答申の本旨を強調したものであり、14年遅れで創設された後発者メリットであろう。

 本センターの特徴を(1)<社会から見て信頼性の高い評価>として具体的に3点、(2)<関係者にとって妥当性の高い評価(法)>として具体的に3点を挙げ、そのための3つの基準を掲げる。基準1「基盤評価:法令適合性の保証」、基準2「水準評価:教育研究の水準の向上」、基準3「特色評価:特色ある教育研究の進展」である。詳しくは本センターのホームページにある。

 最後が(3)設立までの経緯であり、ここを近藤報告は強調したように思う。表「認証までの活動の経緯」は2010年度(公大協会長=矢田俊文北九州市立大学長)に始まり、2011年度(会長=奥野武俊大阪府立大学長)が空欄、2012年(会長=同)に公大協内に「公立大学の質保証に関する特別委員会」を設置して新たな評価機関の発足も念頭に検討を開始、2013年(会長=木苗直秀静岡県立大学長)に「公立大学政策・評価研究センター」に改組(センター長は浅田尚紀広島市立大学長)、ワークショップと調査研究を進め…、2018年3月、郡健二郎(名古屋市立大学長)会長のときに認証申請し、1年5か月の長い審査後の2019年8月21日、認証評価機関として文部科学大臣の認証を得た。

 検討開始から10年、申請から1年5か月、粘り強く継続的に奮闘してきた成果である。なお空欄の2011年度は、5月の公大協総会で奥野さんが公大協会長に就任した年で、直前の3月11日が東日本大震災である。これを受けて、公大協の学長会議(秋に開催)にボランティアの学生団体も参加する新しい波が起きた。そのなかから新しい大学認証評価が成長してきたと言える。いまも学長会議でランチ交流会や学長・学生合同セッション等が行われている。

 10年という歳月は長いようで短い。公大協の役員(会長、副会長)の任期は2年(5月総会で承認)、報告者の近藤理事は平成23(2011)年(以下、西暦表記とする)に北九州市立大学長となり、公大協では3代の会長の副会長(3名)の一人として、5年間にわたり継続的に本課題に関わり、本センター設立までの10年のうち、合わせて8年を経験してきた。いま最終段階の大役を担い、これからをリードする。

 ちなみに北九州市立大学長を退任(2017年)後も定年前のため特任教授として大学に残り、生涯学習の北九大社会人大学(i-Design コミュニティカレッジ)を立ち上げ、塾長を務める(本ブログ2016年10月13日掲載の「江戸散策」等)。

 近藤さんとの出会いは、機構の機関別大学評価の現地調査の一員として私が北九州市立大学(矢田俊文学長、2009~2010年の公大協会長)を訪問した時、副学長として説明の先頭に立っていた。その爽やかな印象から、私は密かに<若きプリンス>と呼んでいたが、その後も折を見て歓談の機会を持っている。

 今回も近藤報告の要旨を聴くために前日に落ち合い、彼の知らない時代の初代公大協事務所あたりを散策、裏手にあったそば屋もうなぎ屋のあった一帯も再開発のため更地になっていて、遠回りをした末に入ったのが居酒屋・串八珍(後述)、そこでレクチャーを受けた。

 矢田さんとは縁のある新潟つながりで話す機会が多かったが、遠く離れてからはめったに会えない。そこに偶然、このシンポジウムの直前に『矢田俊文書作集 第四巻』が届いた。題して『公立大学論(上)平成の大学改革と公立大学』(原書房 2019年)である。じっくり読みたいと思う。公大協のみなさんにもぜひ推奨したい。

 公大協をめぐる<人の縁>は、10年前からさらに10年を遡り、合計すると20年超になる。前半の10年については、公立大学協会『地域とともにつくる公立大学一公立大学協会60周年記念誌』(2010年)をご覧いただきたい。

 本ブログのリンクにある拙稿「学長在任時を振り返って」(大学マネジメン卜誌 DEC 2014 Vo.110,NO .9 2)にも手短に述べている。5大学から会長校が選出され、会長交代とともに大部の資料が開封されぬまま次の会長校へ移動する時代が約半世紀つづき、公大協としての持続的活動を支える基盤がなかった。

 この形骸化していた公大協が目を覚ましたのは、荻上紘一(東京都立大学長)会長時代(2000~01年度)、児玉隆夫(大阪市立大学長)会長時代(2001~02年度)からである。2001年2月、公大協が初めて宮澤夏樹さんを事務局長に専任し、独自の事務所(西新橋)を持ち、継続性を担保する役割を担う組織とした。これこそ組織強化の基本であり、第一歩であった。

 荻上・児玉両会長の時期が私の横浜市立大学長時代(1998~2002年度)と重なり、年齢も近く(私が少し年長)、共通の趣味があり、研究面では<文理融合>、新設の公大協事務所で会議を終えると、新橋駅へ向かう道筋にある串八珍で議論のつづきをして親交を深めた。

 20年余にわたる<戦友>を久しぶりに集めようと児玉さんからメールが入った。シンポジウムの日の昼食を共にして歓談したいと、荻上さん、森正夫(愛知県立大学長)さんに声をかけたが、あいにく時間調整ができず、<四人組>が揃ったのは祝賀会の短い時間だけであった。

 昼食の歓談は児玉さんとサシの10数年ぶり。台風の接近が分かっているのに大阪から傘もなしの手ぶらである。すこしも変わらない。思わず口元がゆるむ。近くのタイ料理屋で歓談と相成った。

 大きな転機となった公大協の事務局新設、法人化にも各種委員会を設けて積極的な議論を進めたことの意義等を再確認した(詳しくは上掲『公立大学協会60周年記念誌』を参照)。これに拍車をかけたのが、2007年の中田晃さんの事務局長就任である。

 今回の歓談は前半の10年に集中し、後半の近10年については当事者意識が薄いことに気づいた。公大協の活動ぶりについて本ブログに何本か記事を書いている(2014年10月15日掲載「公立大学学長会議」等)ものの、主体的に関わっておらず、もっぱら<記憶から記録へ>の意図にそって書いている。「…今日の参加は、この近10年を学ぶためだね…」と確かめあった。

 シンポジウム後の祝賀会は広い会場に変更。中田さんの司会で始まり、鬼頭公大協会長(静岡県立大学長)が挨拶。来賓として佐々木さやか文部科学大臣政務官と大学改革支援・学位授与機構及び認証評価機関連絡協議会議長を務める長谷川壽一氏の挨拶があった。祝詞は<半来賓>の荻上さんが述べた。会場は祝賀に盛り上がったが、あいにくの台風による交通機関の乱れの情報に、急ぎ帰途につく姿もあった。

IUCの卒業発表会

 みなとみらいパシフィコ内にあるIUC(Inter-University Center for Japanese Language Studies アメリカ・カナダ大学連合日本研究センター)の卒業発表会があった。6月3日(月曜)から5日(水曜)までの3日間、1名あたり15分の持ち時間(質疑を含む)で、計55名の発表である。

 見覚えのある顔と名前が並ぶ。と言うのも、来日してすぐの今期生を三溪園へ招待(本ブログ2018年10月4日掲載「台風一過のIUC学生来園」)、さらに三溪園訪問の印象記を依頼したところ14名が応じてくれ、それを本ブログ2018年10月22日「IUC学生の三溪園印象記(2018年)」に掲載した。いずれも斬新で素直な印象を見事な日本語で述べている。

 来日から10カ月、750時間に及ぶ日本語特訓の成果を発表する学生にとっては晴れ舞台であり、ブルース・L・バートン所長をはじめとする教員・スタッフの方々にとっては、学生たちの成長を見届ける場である。私も時間の許す限り、ほぼ毎年欠かさず出席してきた。

 配布されたプログラム(すべて日本語)にあるバートン所長「ご挨拶に代えて」は言う。「…どの発表をお聞きいただいても、その独創性や専門性の高さをお分かりいただけるのではないかと思います。…主に大学院生を対象に、40週間で、読む、聞く、話す、書くの4技能すべてにわたって上級レベルの技術を身につけさせ、専門分野の研究や業務が十分に行えるよう訓練しています。…国際理解の重要性が益々高まる中、日本語教育を通じ、世界における日本理解を深めることで世界に貢献できるよう、よりいっそう努力してまいります。…」

 私にはIUCが東京から横浜へ移転した1987年からの付き合いである。それは上掲の「…国際理解の重要性が益々高まる中、日本語教育を通じ、世界における日本理解を深めることで世界に貢献…」するIUCの精神に感銘を受けるからである。日本人や日本の団体が継続的になしえなかった「世界における日本理解を深めることで世界に貢献…」を55年にもわたり進めてきたIUCに心から感謝する。

 今回の発表会で私が聴いたのは、最終日の午後の5名だけであった。どの学生も高度な専門性(内容)と日本語の駆使能力(形式)を合わせもっている。配布されたプログラムに55名分の発表題名と約250字の概要が記されている。うち私が聞いた5名分を転載し、IUCの活動と学生たちの関心・能力の一端をお知らせしたい。

(1) 助動詞ケリの意味論的不完全指定  ジョン・バンチュー(Ohio State
University)
 古文の助動詞「けり」の定義は現在も定まっておらず、多くの研究者は「けり」の意味を探る際、一つの定義に集約させようとする傾向がある。しかし、一つの形態素は通時的に意味が変化するだけでなく、共時的にも文脈に応じて意味が加えられ、彩られる。「けり」も文脈により、回想と結果相が含まれるパーフェクト、伝聞と論理的結果が含まれる間接的証拠性、または詠嘆と気づきが含まれる意外性を示すように使用されてきた。従って、一つの定義に絞るより、「けり」の意味論的不完全指定を理解し、上述の幾つかの定義の共通点を把握する必要がある。その共通点は時間的あるいは認識的に離れた既定事実が文法的に示されていることである。

(2)「若者言葉」はどのように見られているか  ウネー・ソー(Stanford University)
 本発表では人々の若者言葉に対する見方に注目する。若者言葉は若者コミュニティを維持する手段の一つであり、インターネットの発展に伴い若者言葉という概念が世間一般に広がっている。若者言葉自体は研究されてきたが、聞き手側がどのように捉えているかに関する研究は少ない。本発表では、若者言葉を使う話し手がどのように評価されているかについてのアンケート調査の結果をデータ化し、若者言葉が映すペルソナを聞き手側の見方から探る。更に言葉の選択によって無意識に他人に与える含意を探求し、日本語の若者言葉の指標性を論じる。

(3)「レンタル」によって「ニュースタート」へ -ひきこもり部屋からの脱出-  ラムジー・イズマイル(University of California, San Diego)
 「社会的ひきこもり」とは、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が6ヶ月以上持続しており、他の精神障害がその第一の原因とは考えにくいものとして定義され、様々な学者によって研究されてきた。しかし、「ひきこもり」という人たちが、どのような方法を通じて部屋から抜け出すかは、まだ十分明らかにされていない。本発表では、ひきこもりの回復を支援する「ニュースタート」というNPOでの参与観察に基づき、ひきこもりが「ニュースタート」に来るきっかけや、「レンタル」という一つの脱ひきこもり支援の過程に着目する。

(4)伝説の島から現実の州へ -日本の古地図におけるカリフォルニア-  タミ・ヒオキ(Stanford University)
 19世紀、日本では大きな変化が起きた。江戸時代には海外からの情報が限られていたが、19世紀に入って世界に関する情報が増えたのである。世界地図は、その重要な資料の一つであった。外国からの情報の制限のため、初期の日本の世界地図は不正確な部分がいくつもあった。しかし、19世紀には、世界地理の情報が蓄積され、以降の世界地図は次第に正確になり始めた。本発表では、18世紀末および19世紀に作られた世界地図におけるカリフォルニアの描写を通して、日本の古い世界地図の変化を検討する。カリフォルニアは日本の古地図でどのように描かれたのか、そして、当時の日本とカリフォルニアの関係はこの地図からどのように解釈できるかについて分析する。

(5)米国訴訟における「ディスカバリー」とそのリスク  エバン・ターキントン (米国弁護士)
 日本企業がアメリカで訴訟に直面した場合、潜在するリスクが多々ある。日本と異なるアメリカの情報開示手続(「ディスカバリー」)に伴うリスクがその一つである。訴訟に関連しうる様々な情報や文書の開示が連邦民事訴訟規則により義務付けられ、裁判所がこれを厳しく取り締まる。一方、日本の民事訴訟法も文書提出義務を規定するも、例外を規定する条文や義務を否認する判例により、提出義務がかなり制限される。本発表では、両国の民事訴訟制度における証拠収集に対する基本的な考え方を紹介し、日本企業などの当事者がアメリカでのディスカバリー義務を軽視した場合のリスクを説明する。

 55名全体の発表傾向を示すために、昨年秋に三溪園訪問印象記を寄せてくれた14名(本ブログ2018年10月22日掲載「IUC学生の三溪園印象記(2018年の発表)」のうち、上掲のウネー・ソーとエバン・ターキントンを除き、了承を得た10名の発表題名と所属大学名を掲げておきたい。三溪園印象記と今回の卒業発表とは明示的な因果関係はないものの、なんらかの関係を示唆しているように思う。関心のある方は読み比べていただきたい。

★レーセン ハナ(Princeton University) 能の般若における人間と鬼の境界性
★アーロン スティール(University of Washington) 「日本を学ぶ」から「日本で学ぶ」へ
★サンピアス ウェスリー(University of Illinois Urbana Champaign) 明治初期の衛生観念普及事情
★マット ミックレラン(University of Victoria) 文字表記と音声表記 -日本アニメ翻訳に関する一考察-
★イアン ハッチクロフト(Occidental College) 持続可能な開発目標(SDGs)に対する日本の取り組み
★チョウ モウシ(Heidelberg University) 江戸時代の禁書政策 -『帝京景物略』を中心として-
★ファトゥマ ムハメッド(University of Washington) ライトノベルにおける「異世界」の台頭とその意義
★メーガン マッカーシー(University of San Francisco) 「武は愛なり」世界に広まった合気道
★リリアン ハート(DePaul University) 日米国際交流における官民パートナーシップの意義
★カサリン ジョプリン(Stanford University) 性別二元性への挑戦 -日本と西洋のドラァグシーンの比較-

 3日間にわたる卒業発表の終わりに、青木惣一副所長が挨拶に立ち次のような趣旨のことを述べた。「卒業発表を聞くとき、毎年のことだが、その発表内容と日本語表現(言語形式)の両面に関心が向く。日本語教師としては本来、日本語表現(言語形式)がどこまで進歩したかに集中して聞くべきだと思うが、その上達ぶりに押され、みなさんの発表内容についつい引き込まれました。本日で40週にわたる集中特訓を終えて、読む、聞く、話す、書くの4技能すべてにわたって上級レベルの技術を身につけたことを証明しました。明後日の卒業式を以てすべて終わりです。これを新たな第一歩として、さらに精進してください。」

 学生たちは、今日の達成感から次の一歩へ、それぞれに次の目標を心に刻んだに違いない。母国で、あるいは他の移動先で、さらに専門性を高め、未来に羽ばたいてほしい。

横浜市立大学の入学式

 横浜市立大学(以下、市大)入学式は従来通り4月5日、ソメイヨシノが満開を誇るなかで行われた。ちょうど4年に1度の市議会議員の選挙運動中(投票日は7日の日曜)であった。

 今年の入学式は格別の意味を持っている。昨年11月3日(文化の日)、横浜市立大学創立90周年記念式典が挙行され(本ブログ2018年11月7日掲載の「横浜市立大学 創立90周年記念式典」を参照)、そこで昨年度に発足したデータサイエンス学部、今年度から再編発足する国際教養学部、国際商学部、理学部の3学部、それに従来の医学部を合わせた、5学部体制が明らかにされた。

 私が学長を務めたのは1998年5月1日から2002年4月30日までの4年間であり、退任してから17年が経つ。私の退任後に公立大学は設置者(自治体)の<直営>から独立性を持つ公立大学法人へ移行できる制度変更がなされ、その制度設計に公立大学協会(全公立大学長が加盟)の相談役として私も参画した(『公立大学協会60年史』2010年)。

 公立大学法人への移行は、国立大学法人への移行が全大学一斉に行われたのとは異なり、各自治体とその公立大学が独自に決定し、また理事長と学長の<一体型>か<分離型>かをも選択できる制度設計であった。

 公立大学法人化は<法人化>、あるいは<独立行政法人化>を短縮して<独法化>とも呼ばれた。市大の法人化は2005年。理事長と学長の<分離型>を採用、学部編成も大きく変更して国際文化学部・理学部・商学部の3学部を1つの国際総合科学部に括り、医学部との2学部体制とした。

 国際総合科学部という学部名は、受験生・在校生にとって学ぶ対象が分かりにくい上に、教職員にとっても説明するのが難しい。この<合理化>による2学部体制を見直そうと、3年余の努力が重ねられ、紆余曲折の末、昨年秋、上掲「創立90周年記念式典」において新たに5学部体制を宣言した。

 この5学部体制の発足が今年の入学式である。新体制までの苦闘の軌跡を知る者にとっては大きな喜びである。先頭に立たれた二見良之理事長と窪田吉信学長の奮闘には敬服の念を禁じ得ない。

 式典は、森林太郎(森鴎外)作詞・南能衛作曲の横浜市歌の斉唱に始まる。「わが日の本は島国よ/朝日かがよう海に/連りそばだつ島々なれば/あらゆる国より舟こそ通(かよ)え」(一番)。私も思いを込めて歌う。市歌は横浜開港50周年を祝う1909年に作られた(本ブログ2016年6月9日掲載「開港記念日と横浜市歌」を参照)。今年は開港160年である。

 ついで窪田学長の式辞。自分の頭で考え、課題を発見して解決することが重要であり、多くの分野を持つ総合大学の利点を生かすも殺すも「みなさんの姿勢にかかっている」と語り、専門外の科目に学んだ自身の経験を披露した。

 林文子市長は、市大が横浜市とともに歩んできた長い歴史を持つことを強調したうえで、みなさんは我々の「夢と希望」と呼びかける。自分は母子家庭だったため大学進学を諦めて社会へ出たが、そこで男女の地位の格差に愕然とするも、目標に向かって邁進してきた。
 大学へ進むことができたら、もう少し理論的に考えることができたかもしれない。それがないだけに、人との意思疎通に心を砕いた。「…みなさんも相手の立場に立って思いを伝えるように努力して欲しい、私は大学が大好き」と熱く語る。

 新入生(学部990名と大学院修士・博士課程261名)を代表してデータサイエンス学部の渡辺武尊君が宣誓、混声合唱団(中村響指揮)が歓迎の歌を披露、ついで応援団(大薗拓未団長)とチアダンスがリードしての校歌斉唱へと進む。

 西条八十作詞・古関裕而作曲の校歌は3番まであり、「…世界の海港(みなと)に意気も高らか…」、「若き日みじかし真理は遥(はる)けし 究る情熱 鉄火もつらぬく」、「…民主と自由の紅さす曙 みどり明けゆく歴史の半島…」と謳い、それぞれの最後を同じ「ああ 浜大の俊英 われら」で結ぶ。

 私はじっと聴き入る新入生たちを見つめ、これからの学生生活が健やかで有意義であるよう心から願い、密かにエールを送った。

 顧みて、本ブログ「大学教員の仕事」(2019年3月5日号)で述べたように、教職員が分野を超えて、自由闊達に話し合う場を工夫できないものか。たとえば将来計画委員会やその全学組織である将来構想委員会といった、過去に一定の役割を果たした組織がある。創立100周年にむけて踏み出したのを機に、現状に甘んじることなく、将来構想会議のような組織を立ち上げられないか。これまで歩みを共にしてきた卒業生や元教職員の経験と知恵を結集する必要も出て来るように思う。そのきっかけを作るのは、執行部であろう。

 折しも小惑星りゅうぐうに向けた「はやぶさ2」のインパクタ発射が成功した。プロジェクトチームを束ねるJAXA(宇宙航空研究開発機構)の津田雄一プロジェクトマネージャは43歳。機体の設計に関わり、その知識をかわれて若くして先輩研究者からプロジェクトマネージャを引き継いだ。率いるのはJAXAのスタッフだけでなく、協力するメーカーや大学、海外の研究者など総勢600人を超えるチームだと言う(NHK NEWS WEB)。

 津田さんはメンバーの意見を聞きながらミッションを進めることを大事にし、「みんなそれぞれ役割があって、その役割を全員が、力いっぱい発揮できるようなチームにしようと心がけてやっています。必ずしも私の言う事を聞いてくれる訳ではなく、意見がたくさん出ます。その中でいい道をみんなで決めていくことができるのが今のチームです」と語る。

 市大にも、津田さんのような人材がいるに違いない。大学である以上、目的は多様であり、一つに絞ることはできないが、universe(存在するすべてのものとしての宇宙、森羅万象、学問の全領域…)から派生したuniversity(一つにまとまった集団、大学)こそ、大学の本来の使命である。

 人文・社会・自然等の諸科学を包括する市大の将来を自由闊達・縦横に議論する仕組みが欲しい。これこそ創立100周年を実質的に深める第一歩ではないか。

大学教員の仕事

 長く大学勤めをしてきた。1966年に東京大学東洋文化研究所の助手になり、横浜市立大学を定年退職する2002年までが36年、それに都留文科大学学長の4年間(2011~2015年)を加えると、大学勤務は40年になる。

 75歳になったとき、大学教員の仕事を一般化して整理したことがある。本ブログ右欄のリンクにある「(都留文科大学)学長ブログ 2011~2015」の18「大学教員の4つの仕事」(2011年8月18日)で、大学教員の仕事は大別すると、<教育>、<研究>、<社会貢献>、<学務>の4つであると述べた。

 それから7年、大学の行く末を想いつつ、改めて整理しておきたい。大学関係者以外の方に大学教員の仕事を知っていただきたいという思いがあると同時に、大学は教員・職員・学生の3者で構成される組織であるため、職員や学生にも知って欲しい。そして何よりも全国18万人の大学専任教員の、さらなる深化の一助になればと願っている。

 大学教員の4つの仕事とは、<教育>が知(知識+知恵)の<継承>にあたり、<研究>が知の<創造>、<社会貢献>が知の<普及>である。これら3つの仕事を遂行する役割が<学務>にほかならない。具体的には、それぞれに5項目、合計して20項目になる。

 第一の<教育>には、①入試(出題・採点等)、②授業(講義)、③少人数のゼミ、④4年生向けの卒業論文指導、そして⑤大学院生に対する修士論文と博士論文の指導があり、通常はゼミ形式を採ることが多いが、個別指導が別途必要になることもある。例えば「○年日記」のような形式を使うと、年ごとの更新過程を明らかにでき、改善に資するであろう。

 第二の<研究>は、自分の専門領域の課題を煮つめる作業である。私の専門の歴史学の場合は、①過去の研究の精査、②自分の課題の設定、それに伴う③史料収集、これらに圧倒的な時間をかける。ついで④論考執筆に入り、⑤推敲を重ねて発表にいたる。論文は400字×40枚~60枚=16,000字~24,000字(日本語)程度のものが多いが、著書の場合は400字×200枚=8万字(新書クラスの平均)から400字×700枚=28万字程度までが一般的であろう。

 ちなみに実験を必須とする分野では、グループで長時間の実験・観察を行う。それ自体が教員の<研究>であると同時に、分担を決めて実験を進めることが学生にたいする<教育>でもある。

 初等・中等教育とは異なり、大学の<教育>は<研究>(先行研究)を踏まえつつ、あくまでも自己の<研究>に基き、その責任において実施される。この自覚は不可欠である。

 <社会貢献>とは、ここでは<地域貢献>や附属病院の医療行為を含む、自己の<研究>成果を広く学外へ伝える行為である。①各種の講演、②研究成果の公刊や新聞・雑誌への執筆、③テレビ・ラジオの出演、④学会の委員や政府・自治体等の審議会委員、⑤医師・看護師・薬剤師等による医療行為。

 そして<学務>とは、大学内にある①各種委員会(入試・教務・学生・人権・紀要・将来構想・計画等の各委員会)、②学科会議、③学部の教授会、④大学院の研究科委員会、⑤全学の委員会や学生の部活の部長・顧問等の活動である。大学が自治組織である以上、それを構成する各単位は運営のために将来構想・計画・点検を含め、自ら絶えず点検練磨しなければならない。

 多くの委員会はルーティンをこなすものであるが、そのルーティンは時代の要請に応えて絶えず見直す必要がある。そのための委員会が学部ごとの将来計画委員会であり、全学の将来構想委員会である(名称は各大学で異なる)。組織の将来像を描くのは難しいとはいえ、これなくして前進はない。大学改革の大きな波は、これまで十年ないし数十年の単位で押し寄せ、その度に、これらの委員会が大きな役割を担った。

 今後も大波はやってくる。現在、760余の日本の大学の多くが、さまざまな面で危機状態にあると言わざるを得ない。<教育>、<研究>、<社会貢献>が十分に機能するには、新たな大学改革が必要であり、そのとき<学務>に大きな役割が求められる。

 これら大学教員の4つの仕事は、必ずしも勤務時間や大学という場所に制約されないものも含む。資料を求めて学外の図書館・文書館へ通い、フィールドワークに出かけ、講演に赴き、あるいは在宅勤務(自宅研修)に勤しむ。外からはかなり暇な職業と思われることもある。最近になって「裁量労働制」という勤務形態が知られるようになり、世間の理解は進んでいるようだが、なお多くの課題が山積している。

 私自身の経験では、学部教授会や将来構想委員会等を通じて、多くの優れた教員と知り合う機会に恵まれた。東洋近代史の私が日本史・西洋史・国際関係史の教員から多くを学び、それは文学・哲学・法学・経済学等の教員、さらに理系の物理・化学・生物や医学系の臨床・基礎の教員へと拡がり、望外の学問的刺激を受けた。これは大学教員の特権である。大学だからこそ多分野の発想に出会えた。今につづく深い人間関係もあり、感謝は尽きない。

 その一方で、上掲の総計20項目にわたる仕事は、相当の重労働であり、すべてを同時平行で行うことはほとんど不可能である。個々の教員で事情は異なるが、組織(学部・学科等)の一員として役割分担や協調も必要となる。前掲「大学教員の4つの仕事」のなかで、次の提案をした。

 …外国研究には外国訪問が不可欠となる。…研究の着想は必ずしも机上では生まれない。電車や風呂のなかでひらめくこともあり、対話や散歩の過程で解き明かすこともある。ひとたび研究活動に入れば徹夜に及ぶこともしばしばで、この点では不定期の24時間勤務であり、季節変動も無視できない。
 多忙な日々に追われ、教員たちが自身の将来計画を見失っては大変である。現在もさまざまな工夫がこらされているが、これを一歩すすめて、各教員が2 年単位で6~7年先まで(研究専念期間をふくむ)を見越した4つの仕事の配分計画を作り、平均すると4 分の1 ずつの比重を時には変更し、例えば教育の比重を高める傾斜配分案(7:1:1:1)や学務に重点を置く配分案(1:1:1:7)等を作った上で、同僚たちと調整するのも一案であろう。メリハリがつくように思う。

 学科長、学部長、研究科長等に就くと、<学務>の比率が一挙に拡大する。学科間の調整や各種委員会との調整が不可避で、多分野の教員や、大学の仕組み、運営の妙を知る好機となるものの、そのために長い時間と労力を要する。

 さらに学長・副学長であれば、全学の実態を把握し、大学の進むべき方向に指導力を発揮する必要がある。それにとどまらず、学外との折衝(議会や役所の関係部局等)や、学外への独自性のアピールも必要となる。たとえば公立大学協会(公立大学長で構成する団体)における役割や国公私立大学共通の審査委員会委員、大学間交流協定(海外を含む)の代表等である。そこで生じる疲労や苛立ちに挫けてはならない。自己管理が勝敗を分ける。

 こうした任務の遂行には大切な舞台裏があり、表舞台の活動は舞台裏いかんで決まるとも言える。家族等の強い支え、堅固なロジスティックスなくして責務は完遂できない。個々の教員により多様で一般化はできないが、多くの助力を得てという点では、誰にも共通するのではないか。

 限られた経験に基づいて大学教員の4つの仕事について述べてきたが、もとよりこれは一つの事例にすぎない。大学と日本の将来に希望を託し、現在の大学が抱える問題点とその是正の必要性を3点に限り挙げておきたい。
(1) 若手教員任期制を廃止し、彼らの中長期にわたる研究計画の評価制度を確立すること。
(2) 批判を回避するため小さくまとめようとする論文作成の傾向を改め、中長期の展望に立つ思考の重要性を示すこと。
(3) 教員個々人の領域に引きこもらず、分野・職種・年齢等の異なる大学構成員(教員・職員・学生)との自由闊達な意見交換により、大学本来の役割である知(知識+知恵)の創造・継承・普及に寄与すること。

プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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