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横須賀開国史研究会の20年

 11月30日(土曜)、横須賀藝術劇場ベイサイド・ポケットにおいて、横須賀開国史研究会の創立20周年記念シンポジウムが開かれた。横須賀開国史研究会(以下、<開国史研>)とは、その会則第3条に「三浦半島と関わりのある開国及び日本近代化の歴史(以下「開国史」という)に光をあてるため、その掘りおこしと研究を行う」と謳う。事務局を横須賀市文化スポーツ観光部文化振興課に置く(第2条)。

 上記の目的を達成する事業として、会則第4条には、(1)開国史にまつわる資料及び情報の収集、(2)講演会、シンポジウム、史跡めぐり、市民交流会などの開催、(3)開国史にまつわる人物の顕彰、(4)機関誌の発行、(5)市内外諸関係団体との連携、(6)会員の研究に資する情報の交換、(7)文献の紹介、(8)その他必要な事項、の8項目が記されている。
 
 <開国史研>は歴史研究の学術団体であると同時に、地域文化振興の市民団体の性格も併せ持つ。その性格を存分に示すのが(2)講演会、シンポジウム、史跡めぐり、市民交流会などの開催で、それを広く伝える媒体が(4)機関誌『開国史研究』(年報、A5版2段組)の発行である。2019年からは、会報紙「よこすか開国史かわら版」の発行も始めた。

 <開国史研>は400名超の会員で発足(一般会員の年会費は1000円)。会則第6条には、会員の互選により幹事(若干名)と監事を選出し、幹事の互選により会長、副会長(2名以内)、事務局長、会計を決め、役員の任期は2年とし、再任を妨げない。

 また総会は会員をもって構成し、研究会の最高機関として会の意思と方針を決定する。年1回開催、必要に応じて臨時総会も可。議決は出席者の過半数の同意による(第9条 総会)、とある。会則は機関誌の毎号に掲げられている。

 <開国史研>は2000(平成12)年に設立総会を開き、以来、着実に歩みつづけて20年を迎えた。壮大なビジョンを描いて手堅い計画を立て、やり遂げてきたのが、会長の山本詔一さん、事務局長の小倉隆代さんたち幹事とそれを支える会員である。

 山本さんたちと初めてお会いしたのは1997年の秋、場所は横浜の関内ホール、宮崎壽子監訳『ペリー艦隊日本遠征記』(全4巻、1997年、栄光教育文化研究所)の刊行を祝う会合である。私も解説を書いた関係から話をした。

 終了後に名刺交換。「…横須賀で開国史の研究をしており、近く研究団体を立ち上げたい」と言われ、浦賀奉行所の地元だから面白くなるに違いないと直感したが、翌1998年度から横浜市大学長に就任、多忙のうちに忘れかけていた。

 学長室に来られたのは2年後の1999年であったか、「いよいよ横須賀開国史研究会を立ち上げるので、創立記念総会で記念講演をお願いしたい…」、山本さんの人なつっこい笑顔の内に、後には引かない熱さがあった。

 これが20年前、創立記念総会で「ペリー来航とその時代」と題する講演を引き受けることになった経緯である。創立20年と一言でいうが、簡単に達成できるものではない。ここまで道のりを示す「横須賀開国史研究会20年のあゆみ」が小倉事務局長から送られてきた。5月総会の記念講演と秋の講演会・シンポジウムの、過去19年分を一覧したものである。これがなによりも雄弁に実績を語る。

    ◎総会記念講演  ○秋の講演会・シンポジウム  ※その他
2000年◎加藤祐三氏(横浜市立大学長)「ペリー来航とその時代」
    ○「小栗上野介」パネリスト:沢田秀男氏・西堀昭氏・小寺弘之氏・
             エリザベット・ドゥ・トゥーシェ氏・山本詔一氏
    ※写真展「小栗上野介と横須賀製鉄所」(ショッパーズプラザ横須賀にて)
2001年◎安達裕之氏(東京大学教授)「幕末の海防政策と軍艦製造」
    ※古文書を読む会を開講      
2002年◎西川武臣氏(横浜開港資料館調査研究員)「東京湾内の台場建築と地域住民」
○1部:「黒船来航と音楽」ピアノ鈴木初音氏
     2部:岩下哲典氏(明海大学助教授)「ペリー来航、その予兆と現実」
2003年◎春名徹氏(作家) 「モリソン号事件とマンハッタン号事件」
    ○佐々木譲氏(作家)「中島三郎助」
2004年◎笠原潔氏(放送大学助教授)「黒船来航時に演奏された音楽」
    ○1部:「横須賀はじめて物語」 ピアノ鈴木初音氏
      2部:鈴木淳氏(東京大学教授)「技術者小野正作の自伝にみる明治初期の横須賀造船所」
2005年◎徳川恒孝氏(徳川記念財団理事長・徳川家十八代当主)「江戸二百六十年の天下泰平と開国」
    ○「ペリー来航と黒船かわら版」パネリスト:西澤美穂子氏・田中葉子氏・富澤達三氏
2006年◎三谷博氏(東京大学大学院教授)「長期危機への対応」
    ○「横須賀の発展~製鉄所・その後のあゆみを通じて~」 パネリスト:久保木実氏・富澤喜美枝氏・中里行雄氏
2007年◎青木美智男氏(元専修大学教授)「幕末外国人が見た庶民教育について~ペリー、シュリーマン、オールコックらの訪日日記から~」
    ○「幕末ペリー事情~太平の眠りを覚ます上喜撰~の歌はいつ詠まれたのか」
      パネリスト:加藤祐三氏・岩下哲典氏・田中葉子氏
2008年◎嶋村元宏氏(神奈川県立歴史博物館主任学芸員)「アジアの中の日本開国」
    ○「開国の歴史とうた」
    1部:「唱歌で綴る近代日本の歩み」 歌コール・グランド・マジ
    2部:「~太平の眠りを覚ます上喜撰~の歌はいつ詠まれたのか」続編
      パネリスト:岩下哲典氏・田中葉子氏・山本詔一氏
2009年◎荒野泰典氏(立教大学教授)
「『開国』とは何だったのか~いわゆる『鎖国』との関連で考える~」
   ○開国史研究会設立10周年記念シンポジウムー「明治時代の横須賀を語る~NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』放映にあわせて」
   パネリスト:藤澤浩一氏・平間洋一氏・保坂宗子氏・保坂義雄氏・山本詔一氏
    ※会報紙「よこすか開国史かわら版」の発行 
2010年◎植松三十里氏(作家)「知られざる幕府海軍総裁 矢田堀景蔵」
    ○「幕末・明治の沿岸防備の歴史~台場・砲台の機能と変遷」
      パネリスト:淺川道夫氏・鈴木淳氏・原剛氏・保谷徹氏
2011年◎吉田ゆり子氏(東京外国語大学教授)「湊町浦賀と人びとのくらし」
    ○齋藤純氏(当研究会特別研究員)
「『黒船』を見た人びと─ペリー艦隊浦賀来航を目撃した記録からわかってきたこと─」
2012年◎井上勝生氏(北海道大学名誉教授)「日本開国史を見なおすために―江戸湾を舞台に―」
   ○1部:山本詔一氏(当研究会会長)「ぺるり物語」
     2部:対談 山本詔一氏・齋藤純氏      
2013年◎田中葉子氏(東京都北区教育委員会文化財専門委員)「かわら版のなかのペルリたち」
    ○1部:野口信一氏「山国会津の侍、日本の海を守る―幕末会津藩海防史―」
     2部:対談 野口信一氏・山本詔一氏     
    ※ペリー来航160周年記念「ペリー艦隊の航路をめぐるクルーズ」
2014年◎高橋敏氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)
「幕臣小栗上野介忠順の幕政改革構造と横須賀製鉄所」
    ○1部:岡野雅江氏(富岡製糸場総合研究センター学芸員)
「冨岡製糸場の設立に関わる横須賀製鉄所との関連性について」              
     2部:対談 岡野雅江氏・山本詔一氏       
2015年◎鈴木淳氏(東京大学教授)
「横須賀製鉄所再考―地方出身の就業に注目して―」
    ○横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念
     1部:村上泰賢氏(東善寺住職) 「幕府の運命、日本の運命―小栗上野介の日本改革と横須賀製鉄所―」    
     2部:対談 村上泰賢氏・山本詔一氏           
2016年◎植松三十里氏(作家) 「横須賀製鉄所の妹・富岡製糸場」
○「ペリー来航とその後の浦賀町」
      パネリスト:西川武臣氏・田中葉子氏・齋藤純氏・山本詔一氏
2017年◎山本一力氏(作家) 「生き方雑記帖―ジョン万次郎調査行―」
    ○1部:岩下哲典氏「黒船来航絵巻『金海奇観』とその時代~仙台藩儒者・砲術家大槻磐渓とペリー再来日」
     2部:対談 岩下哲典氏・山本詔一氏
2018年◎後藤敦史氏(京都橘大学准教授)「ペリーとハリスのあいだ~世界史のなかの日本開国~」
   ○1部:村上泰賢氏「小栗上野介と横須賀造船所」
   2部:シンポジウム パネリスト:村上泰賢氏・齋藤隆氏・山本詔一氏
   3部:海上自衛隊横須賀音楽隊演奏
2019年◎齋藤純氏「浦賀奉行所の明治維新―奉行・与力・同心たちのその後―」
 
 山本さんは企画から講演者の人選、交渉にいたる下準備にとどまらず、自ら対談やパネリストとして、ほぼ欠かさず参加している。

 ほかに「開国史基礎講座」、「開国史研究講座」、「開国史に関する古文書を読む会」(数回の連続もの)を開講。講師は主に山本さんと斎藤純さん。さらに四季ごとの<史跡巡り>で実際に現場を歩く。

 その成果の一つに、浦賀奉行所300年を記念して山本さんが連載中の「浦賀往来新聞」(神奈川新聞横須賀支社企画・制作、月刊)がある。最新号(2019年10月24日)は43代奉行・伊沢正義。いよいよ日米和親条約の調印である。

 たゆまぬ努力が、<開国史研>をここまで揺るぎない存在にしてきた。但し、これだけでは人はついてこない。「…一度会ったら友達だぁ」の山本さんの明るさや、多様な人を受け入れる器の大きさは見逃せない。
 
 山本さんは昭和24(1949)年、浦賀に生まれ育ち、専修大学で日本史を学び、浦賀で家業の書店を経営している。<開国史研>が歴史研究の学術団体であると同時に地域文化振興の市民団体の性格も併せ持つ、と述べたが、私が理想とする「セカイミスエ モチバデウゴカム」(世界を見据え 持ち場で動かむ)を地で行っている。

機関誌『開国史研究』各号の巻頭言にあたる「〇〇号の発刊にあたり」(見開き2ページ)に山本さんの真髄を垣間見ることができる。論文掲載の経緯と内容紹介が見事である。最新号は第19号で2019年3月刊。すでに全国の主要大学図書館にも入り、高い評価を得ている。

20年の歩みをなぞりながらの基調講演とシンポジウムの詳細は、来年1月発行予定の会報紙「よこすか開国史かわら版」(季刊)と機関誌『開国史研究』第20号(来年春予定)に掲載されるはずである。

第1部 基調講演「近世日本の国際関係と現代~<鎖国>と呼ばれた時代が私たちに問い掛けるもの~」 講師 荒野泰典さん(立教大学名誉教授)
 配布レジメには、Ⅰ.はじめに Ⅱ.前回のおさらい Ⅲ.<開国とは何だったのか-実態と言説との間、Ⅳ.終わりに、からなる。「Ⅱ.前回のおさらいと」とは2009年の同名の講演を指す。機関誌10号を参照。

第2部 シンポジウム「20年を振り返る」は、パネリストとして私、平尾信子さん(海事史学会理事)、斎藤純さん(元専修大学講師)の3人が年齢順に並び、山本さんの司会進行で進む。

 私は今にいたる20年の私自身を振り返り、<日米和親条約双六>(年表、地図、表等8点を拙著『幕末外交と開国』から抜粋したパワーポイント版A3×両面)を作って話した。双六の<振り出し>は1853年7月8日の、浦賀奉行所とペリー艦隊の最初の接触とし、奉行所が果たした役割へと進み、<上がり>を4か国語から成る条約文とした。

 平尾信子さんは、著書『黒船前夜の出会い-捕鯨船長クーパーの来航』(1994年、NHKブックス)を書くにあたり、NY駐在中に集めたアメリカ側史料だけではなく、日本側の史料とも照合させたいと、帰国後に渡辺正美『異国船来と三浦半島』を経由して、山本さん、小倉さんたちと知り合った経緯を述べる。

 また機関誌2号、4号、8号にアメリカ側史料の翻訳と解説を掲載し、2013年、『ペリー日本遠征命令公式複写集』として刊行。そして<史跡巡り>で会津、新見、松坂等から得た数々の経験を通して「…<開国史研>が私を育ててくれた」と結んだ。

 齊藤純さんは、山本会長が信頼する専修大学の2年先輩で、古文書講座を引き受けて15年になる。上掲の総会記念講演と秋の講演会・シンポジウムのほか、「開国史基礎講座」、「開国史研究講座」、「開国史に関する古文書を読む会」(それぞれ数回の連続もの)等の活動を重ねているが、「古文書を読む会」は齋藤さんの独擅場である。

 既存の古文書集があるわけではない。各地各所にある古文書を丹念に探し求めて解読する。その作業を通じて大きな発見があった。その代表例が有名な狂歌「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」(上喜撰は煎茶の銘柄で蒸気船と音通、4隻のペリー艦隊とかけている)、これが明治時代になって作られたものか、あるいはペリー来航時に詠まれたものかの<論争>である。齋藤さんがペリー来航時の史料を発見し、決着をつけた。この論文を掲載した10号は200部を増刷したという。

 中身の濃い20年であった。この確かな探求の勢いを、まずは10年先まで維持してほしい。勝手に応援団長を自任する私の願いである。
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メルビル『白鯨』の世界

 標題の短文を発表したのは、2004年6月2日、神奈川新聞の連載「開国史話」の第二章「首都ワシントン」の6回目であった。月水金の週3回連載で、挿絵は滝とも子さん(故人、二紀会同人)、論説主幹の福江裕幸さんが割付から諸般の連絡までを担当してくれた。

 1854年3月31日(嘉永七年三月三日)、横浜村において幕府とペリーの間で日米和親条約が調印されてから150周年を迎えるのを機に、正しい歴史を伝えたいと地元の神奈川新聞社から要請を受け、「開国史話」を2004(平成十六)年3月から約1年半にわたり連載した。小説以外で歴史の挿絵入り新聞連載は珍しいと言う。

 第二章は「首都ワシントン」とあるように、主に1776年の独立からの略史が主題である。「首都問題」、「大統領と連邦議会」、「米墨戦争」、「フィルモア大統領の誕生」、「アメリカ捕鯨船の日本漂着」、その次に「メルビル『白鯨』の世界」が来る。ついで「ペリー始動」、「太平洋航路の開設構想」、「日本近海の状況」、「クーパー船長の見解」、「オーリック派遣」、「堂々たる艦隊」とつづく。政治・外交史の流れのなかに、一つだけ小説を取り上げている。

 全200回にわたる新聞連載は、2008年4月、神奈川新聞社の「かなしん150選書」第1号、『開国史話』として出版された(そのさい第二章「首都ワシントン」を「新興国アメリカ」と改題)。

 その50、51ページ(1回分が見開き2ページ)に、顎髭を蓄えたメルビル(Herman Melville、1819~1891年、以降メルヴィルと表記)の挿絵を入れた。本稿では(1)メルヴィルが1850年秋、『白鯨』の執筆に専念すべくマサテュ―セッツ州の捕鯨基地近くの農地に移住すると、隣人が15歳年長のホーソン(『緋文字』等の作家)で、絶えず励ましてくれたこと、(2)メルヴィルの作品歴と体験(捕鯨船員および海軍フリゲート船の水夫)、(3)白鯨を「目に見えて人格化された、じっさいに攻撃可能な、世界中のすべての悪」としたが、「白鯨の報復により、船長も乗組員も破滅し、ただ一人、語り手のイシュメルだけが生き残る」と粗筋を述べ、最後を(4)「捕鯨業の隆盛期、領土拡張、ゴールドラッシュ、貿易志向などの荒々しい時代を反映した作品」と結んだ。

 ここでは『白鯨』の作品そのものに深く踏み込んではいない。米墨戦争(1846~48年)の勝利によりカリフォルニアという広大な領土をメキシコから獲得したアメリカが、太平洋の対岸にある日本を意識し、その近辺にアメリカ捕鯨船がしばしば漂着することから日本との国交樹立を考える、そうした時代を象徴する作品として取り上げた。
メルヴィルは10代の初めに父親の破産と死亡により生活が一変、学校を中退、借金に追われ、21歳の1840年、捕鯨船の乗組員となる。きびしい環境に1842年、マルケサス諸島のヌクヒバ島で仲間と脱走、先住民タイピー族に遭遇する。オーストラリア捕鯨船に救出されるも、タヒチ島で乗組員の暴動に巻き込まれイギリス領事館に逮捕され、またも脱走しエイメオ島(現在のモーレア島)に隠れた。やがてアメリカ捕鯨船に救われ、ハワイへ帰着する。
こうした波乱の体験を基に小説家デビューするが、作品は評価されず、文筆で身を立てることは出来なかった。ほかに職を求めてもうまくいかず、身内の不幸も重なり、不遇のうちに生涯を終える。20世紀に入って作品は高い評価を受け、世界文学の巨匠の一人となる。
 拙稿「メルビル『白鯨』の世界」の執筆から15年後の今年、不思議な縁が訪れる。今年5月19日(日)、「NPO法人・中浜万次郎国際協会」(東京都認可)の総会に、私が記念講演「ペリー応接と万次郎」の機会をいただいた(講演の概要は本ブログ2019年7月10日「ペリー応接と万次郎」に掲載)。

 講演後、多くの質問に応えるうちに時間切れで、つづきは居酒屋での懇親会となり、そこで真正面におられたのが牧野有通さん(元明治大学文学部教授)であった。見事な日焼け肌にテニス好きと分かり意気投合、のちテニスに誘われ、そこでも新しい友人ができた。

 日本メルヴィル学会会長とある牧野さんの名刺を思い出し、年次大会は9月と聞いていた。直前になってお願いすると、「第7回 日本メルヴィル学会 年次大会」と「会場の地図」が送られてきた。

 9月8日(日曜)午後1時、中央大学駿河台記念館430号室。会長挨拶は総会の冒頭にあるはずと、会員でもないのに総会から参加させてもらった。牧野会長は挨拶で、(1)今年がアメリカ人作家メルヴィルの生誕200年にあたり、(2)6月にニューヨークで国際メルヴィル学会に出席して日本メルヴィル学会の活動を報告した、(3)思えば30年前のシンポジウムで「メルヴィルと万次郎」を発表して以来の研究課題であり、(4)メルヴィルとジョン万次郎は2~3度、太平洋上の島々で実際にすれ違っており、(5)両者は1840~50年代という<近代>の入口で生きた日米両国の同時代人である、と語った。

 つづけて2つの研究発表があった。(1)斎木郁乃(東京学芸大学)「太平洋を想像する-『白鯨』における島と漂流」、(2)辻祥子(松山大学)「Mob(y)-Dick? -アスター・ブレイス劇場の動乱とメルヴィルの想像力」。司会は大島由紀子さん(福岡大学)。

 2つの発表は、いきなり私を知らない世界へ引き込んだ。丁寧に作られたレジメを目で追いつつ、論理展開に聞き入る。

 第1の斎木郁乃「太平洋を想像する-『白鯨』における島と漂流」は、A4×3ページのレジメに英語資料(主に『白鯨』とその研究)と日本語資料(今福龍太『群島-世界論』と『漂巽紀畧』)から計14点を引用(各5行程度)、それに沿って2つのテーマ(1)「『白鯨』における海と島」、(2)「漂流の地政学―『白鯨』と太平洋」を緻密に追う。

 第2の辻祥子「Mob(y)-Dick? -アスター・ブレイス劇場の動乱とメルヴィルの想像力」のレジメは、A4×15ページ。写真を含む膨大なものだが、冒頭に次の仮説と発表要旨を掲げる。「アスター・プレイス劇場の暴動に想像力を刺激されたメルヴィルは、『白鯨』の中に、労働者階級による暴動の恐怖を表現しているのではないか。Moby Dickとは、mob=暴徒の象徴ではないか」。

 最後が夢枕獏さん(作家)による特別講演「白鯨とジョン万次郎」である。司会の巽孝之さん(慶応義塾大学、日本メルヴィル学会副会長)が、以下のように夢枕さんを紹介した(概要)。

 夢枕獏さん(本名は米山 峰夫)は、1951(昭和26)年、神奈川県小田原で生まれ、10歳のころから小説家を志すと同時に、格闘技を愛し、冒険旅行を好む写真家でもあります。1988年、『陰陽師』シリーズの第一作『陰陽師』を文藝春秋から刊行、2001年には東宝から映画化。1998年に『神々の山嶺』(集英社、1997年刊)で第11回柴田錬三郎賞を受賞。いま獏さんは高知新聞(ほか地方紙連合)に「白鯨-モビーディック」を連載中です。メルヴィル生誕200年に当たる今年、特別講演をお願いし、ご快諾いただきました。

 いよいよ夢枕さんが黒のTシャツ姿で登場、人なつっこい笑顔に引き締まった体躯、軽やかな話しぶり。釣りが大好きで、考古学者シノトーの釣針の研究を追いかけている。タヒチに近いマルケサス諸島とタイピー族のヌクヒバ島を訪ねたので、その写真を見て欲しいとスライドを放映した。上掲の通り、メルヴィルが1842年ころ捕鯨船で訪れた島々である。

 連載12本を抱える超多忙のなか、連載中の「白鯨」の構想を練るにはメルヴィルの足どりを自ら辿る必要があり、同時に釣りも楽しみ、釣針の研究にも役立てたい、と行動派作家の面目躍如たる語りぶり。

 そして「みなさんが違うと言われないかぎり、私の夢の展開が誤りではないと断定できる」として、捕鯨船の内部構造を白板に描き、船員たちはハンモックで寝ていたのではないか、と疑問を差し向けた。

 この特別講演会には「NPO法人・中浜万次郎国際協会」(代表:北代淳二さん)からの参加者も多い。北代さんが手を挙げた。寝台車のように何段かの棚で寝ていた。アメリカ東部の捕鯨博物館等には復元模型や現物保存船もあるから、ネット検索だけでも分かると思うが…と。

 夢枕さんは『白鯨』のなかにハンモックで寝る記述があったと言う。日本メルヴィル学会の方がスマホで「白鯨/ハンモック」を検索、確かに1つヒットしたと答えた。そこで、ふだんは寝台で寝て、ハンモックは休憩用か昼寝用ではないかという結論(?)に至った。

 後日、牧野さんに問い合わせて、当学会の歴史が分かった。日本メルヴィル学会の始まりは2013年、日本メルヴィル研究センター(牧野さんの勤務先の明治大学で1985年に発足)が発展した学会であり、国際メルヴィル・コンフェランスは、Melville Society of America の国際部会大会で、1997年に始まり隔年開催、東京大会は2015年…。牧野さんによる日本発の狼煙が起爆剤となって現在に至ることを知る。

 このほか牧野有通『世界を覆う白い幻影ーメルヴィルとアメリカ・アイディオロジー』(南雲堂、1996年)と論文「日本人イシュメイル-1850年を横断する万次郎」(『ユリイカ』誌 2002年4月号)のコピーも頂戴した。『白鯨』のなかで日本および日本沖への言及が十数回に及ぶこと、作品に込められた種々の隠喩の解釈等々、私の知らない世界が拡がる。

 この「あとがき」に、牧野さんは述べている。「<アメリカとは何か>、これは20数年前、大橋健三郎(1919~2014年、1962年から東京大学文学部英文学科教授)のゼミ生であったころ、先生から提示された課題である。アメリカが地理的、歴史的現実の制約下にある国家でありながら、奇妙にも現実遊離する国民を創造し続け、その一方で大義のないヴェトナム戦争を延々と継続している中での課題であった。本書はメルヴィル研究を介して、その課題に対する私個人のささやかな回答をまとめてみたものである。…」と。

 思いがけなくジョン万次郎とテニスが結びつけてくれた交友の産物である。これを機に文学と文学研究の支援を得つつ、歴史の学びを深めていきたい。

海がまもり、海がつないだ日本

 神奈川県立歴史博物館(以下、県博とする)で特別展「北からの開国-海がまもり、海がつないだ日本」(担当は嶋村元宏主任学芸員)が開かれている(7月13日~9月1日)。この副題を借用して今回のブログの標題とした。

 訪れたのは台風10号が西日本を縦断、その外周に位置した関東地方も風の強い日であった。受付で嶋村さんを呼び出してもらう。事前連絡をしていなかったが、何年ぶりかの再会を果たすことができた。

 嶋村さんは在職27年のベテラン学芸員(歴史担当)で、長年の研究成果を展示を通じて魅せようとする。初めて彼に会ったのは私が青山学院大学に出講(非常勤)していた時で、はや30年も前になる。まずランチを共にしながら、久闊を叙した。

 嶋村さんは開国史に関する論考を着実に発表している。今回の展示はペリー来航以前の、幕府とロシアとの折衝についてであり、このテーマも大学で講義し始めてから10年になると言う。

 本展示の狙いを次のように言う。「ペリー来航から始まる開国史ではなく、それより60年以上前に北から開国通商を求めたロシアとの関係を示し、<鎖国>を維持するために幕府が構築した海岸防禦(海防)態勢の様相を紹介することで、新たな開国史像を提供しようとするものです」(図録「開催にあたって」)。

 つづけて言う。「四方が海に囲まれた海国日本は、海が自然の要害となったことから、容易に異国船が接近できなかったこともあり、海外における戦争や紛争の影響を受けることなく<鎖国>政策による平和を享受することができました。しかし、18世紀に入ると、航海術や造船技術の発達により、異国船が日本近海に頻繁にその姿を現すようになります。そのような危機的状況下において、幕府は全国的な海防態勢の強化をはかります。総延長約430キロの海岸線を有する神奈川県域においても、例外ではなく、こんにちまで多くの台場や陣屋跡が残るのはそのためです。」

 展示担当者から直接に展示内容や苦労話を聴きつつ会場を回る。なんとも幸せな時間である。展示は
 第Ⅰ章「北の海へのまなざし」
 第Ⅱ章「海を越えて-ひと・モノ・情報-」
 第Ⅲ章「海を巡る-海防巡見報告-」
 第Ⅳ章「海を守る」
の4部構成である。

 それぞれの意図に従い、全国の所蔵先から借用した資料(国宝と重要文化財を含む)が配置してある。嶋村さんの説明に沿い、図録『北からの開国-海がまもり、海がつないだ日本』(巻末の参考文献も貴重)を参照しつつ、展示の要点を見ていきたい。

 第Ⅰ章「北の海へのまなざし」は、まず【ロシアへの対応】と題して、林子平の『海国兵談』(宮内庁書陵部蔵)、『三国通覧図説』(県博蔵)、『蝦夷国全図』(東北大学附属図書館蔵)および工藤平助『赤蝦夷風説考』(天理大学附属天理図書館蔵)、山村才助『魯西亜国志』(国立公文書館蔵)を展示する。

 林子平『海国兵談』は天明7(1787)年から寛政3(1791)年にかけて自費出版されたもの。林は長崎在留オランダ商館長アーレント・ヘイトから得た情報(ロシアが南下するというデマ)に危機感を抱き、「…江戸は日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり、しかるに長崎のみ備ふるは何ぞや」と<海国>日本の不備を喝破、「…外寇を防ぐの術は<水戦>にあり、<水戦>の要は<大銃>にあり」と述べ、長崎のみにある台場を将軍の足元にも備え江戸湾防備を強化せよと主張する。同時に北方ロシアと蝦夷地(北海道)に関する知識の普及を目ざす。

 ついで【クナシリ・メナシの戦いと夷酋列像】では、アイヌの酋長を描く蠣﨑波響『夷酋列像伝粉本』(函館市中央図書館蔵)、松平定信の詞書のある『夷酋列像図』(国立民族学博物館蔵)、渡辺広輝『夷酋列像(稿本)』(個人蔵)を広く集めて展示している。いずれも写実的な絵である。

 『松前ヲロシヤ人記』(函館市中央図書館蔵)は1792(寛政4)年、ラクスマンがロシア女帝エカチェリーナ2世の命により、伊勢の漂流民・大黒屋光太夫らを伴い根室に来航、通商を求めたときの記録。ラクスマンに与えた長崎入港許可証『ラクスマン信牌写』(大黒屋光太夫記念館蔵)が展示されている。また『寛政五年癸丑六月松前侯ヨリ魯西亜人ヘ被諭候書』(函館市中央図書館蔵)は、その前半がラクスマン、後半が1806(文化元)年に長崎に来航したレザーノフへの対応を記している。

 関連して、根室港で越冬したラクスマン一行を描く『魯西亜之図写』(福山市蔵)や、南部藩・津軽藩・松前藩による警備の様子や人物を描く『漂流人帰国松前堅之図并異国人相形図』(大黒屋光太夫記念館蔵)がある。なおロシア、ヲロシヤ、露西亜、魯西亜の表記があるが意味は同じで、所蔵先の付した資料名を採っている。

 【レザーノフの来航】には、文化元(1804)年に仙台出身の漂流民津太夫を送還するため長崎に来た『ロシア使節レザーノフ来航絵巻』(東京大学史料編纂所蔵)と、その様子を伝える大槻玄沢『魯西亜来貢記事』(宮城県図書館蔵)、『異国船漂着一件』(函館市中央図書館蔵)、『魯西亜船渡海実録』(同左蔵)、『レザーノフ関連資料貼交ぜ屏風』(守屋壽コレクション・広島県立歴史博物館寄託)が展示されており、緊張感より異国風俗への強い関心が窺われる。異人に寄りそう遊女らしき立ち姿も見える。

 【文化露寇】は、通商が認められなかったレザーノフが、文化3(1806)年、配下のフヴォストフに樺太や択捉を襲撃させた事件をめぐる文書4点が並ぶ。絵が含まれないため注目を引きにくいが、松平定信『蝦夷地一件御意見書草案』(北見市立中央図書館蔵)や『鷹見泉石関係資料』(古河歴史博物館蔵)は、幕府の対ロ政策の形成過程を語る重要資料である。『露西亜人加毘丹・下官図』(個人蔵 福山市寄託)は文化8(1811)年、千島列島を測量中のロシア艦ディアナ号ゴローニン艦長を松前藩士が国後島で拘束、二人の立像を描いたもの。

 第Ⅱ章「海を越えて-ひと・モノ・情報-」は、ロシア滞在の経験を持つ大黒屋や津太夫が(幕府の尋問聴取により)日本に伝えたモノと情報を、地図、日用品、衣服、ロシア文字等の面から見せる。

 【漂流民からのロシア情報】のうち蘭学者・医師の桂川甫周編『北槎聞略』(国立公文書館蔵)は、ロシア使節ラクスマンが日本に送り届けた大黒屋と磯吉に対する寛政5(1793)年の事情聴取とオランダ語文献とを照らし合わせたもの。ロシア服を着た大黒屋と磯吉を描く掛軸、彼らが使っていた青銅製の椀と真鍮製の匙、ロシア文字の一覧等(いずれも大黒屋光太夫記念館蔵)を展示している。

 大槻玄沢『環海異聞』(宮城県図書館蔵)は、津太夫から聴取した玄沢自筆のもの。津太夫は仙台港を出てアリューシャン列島に漂着、約8年の滞在後、世界周航を目ざすレザーノフの船で世界一周を果たした。

 【鷹見泉石のロシア考究】は、下総国の古河に生まれ、藩主・土井利厚に仕えた鷹見が、老中に就いた土井の下、外国事情と対外応接の専管となり、蘭学を通じてロシア語を学ぶ苦労の過程を展示する。

 【北方探検】は、『近藤重蔵関係資料』(東京大学史料編纂所蔵)から、ウルップ島、北蝦夷、間宮海峡、北太平洋、蝦夷地の地図を展示する。近藤が書き込んだメモも貴重な資料である。また『間宮林蔵北蝦夷地等見聞関係記録』(国立公文書館蔵)所収の村上貞助『東韃地方紀行』は、樺太が半島ではなく島であることを確認した間宮の口述を基に村上が編集した絵入りの見聞録。図録所収のものは字が小さいが、拡大コピーして一読の価値あり。刊本は洞富雄・谷澤尚一編注により平凡社の<東洋文庫>484(1988年)にある。

 第Ⅲ章「海を巡る-海防巡見報告-」は、北からのロシアにとどまらず、江戸に近づこうとする異国船に対する江戸湾周辺の防備状況の巡見(実地調査)と、ロシアに接する蝦夷地の実地調査である。うち【北辺防備】は、前掲の近藤重蔵関係資料から幕府の対外政策に関する各種の上申書、建言書の草案やメモ等を収めたもの。

 【松代藩真田家伝来資料】(真田宝物館蔵)のうち『相房総台場略図』は、江戸湾岸の台場の絵に短く解説が付されたもの。時代は下って嘉永元(1848)年と推定される。なお松代藩八代藩主・真田幸貫は松平定信の次男で真田家に養子に出され、天保12(1841)年、天保の改革を進める水野忠邦により老中に抜擢、1842年の天保薪水令(アヘン戦争情報を収集・分析して異国船打払令に代わり薪水供与令に復す新たな対外令)以降の海防にさまざまに関わった。

 【福山藩阿部家伝来資料】では蝦夷地の各種地図を見せる。福山藩第七代藩主・阿部正弘は老中首座としてペリー来航に伴う外交の総指揮を執った。弘化2年(1845年)に海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせ、さらに筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震などの登用を大胆に行った。

 【モリソン号事件】は、日本人漂流民送還のため1837年に江戸湾へ来航したアメリカ船モリソン号を打払った事件に関する資料を『韮山代官江川家関係資料』、『鷹見泉石関係資料』等から精選する。

 嘉永三(1850)年の『近海見分之図』(県博蔵)は全4巻、写実を重んじる絵柄111葉よりなる。双六のように東海道品川駅(宿)に始まり、神奈川(宿)、戸部、吉田新田、本牧と進み、金沢、横須賀、浦賀、鎌倉、真鶴、伊豆、熱海、下田……下総船橋駅(宿)を経て江戸両国橋之図で終わる。『嘉永四年彦根藩の海防巡見』は文書のみで地図はない。

 最後の第Ⅳ章「海を守る」は、主に江戸湾への入口近辺の防備態勢を主題とする。三浦半島(神奈川県)と伊豆相模(静岡県)の警備を譜代大名に担当させるとして、天保13(1843)年に川越と忍のニ藩体制を敷き、さらに弘化4(1848)年以降、彦根藩(三浦半島側)と会津藩(房総半島側)を加えた四藩体制としたのが、林子平『海国兵談』の出版開始から数えて60年後である。

 四藩体制を整えてからさらに5年後、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、ペリー艦隊4隻が浦賀沖に現れる。

横浜散策(その2)

 近藤さんと尽きぬ話をしながらの横浜散策は、「横浜山手テニス発祥記念館」の立寄りで第1ラウンドを終えた(本ブログ2019年6月4日掲載「横浜散策(その1)」を参照)が、夕方5時半を過ぎてもまだ明るい。カフェの屋外ベンチでコーヒーを手に話がつづいた。

 ここからは第2ラウンド「横浜散策(その2)」であるが、私がたまたま超過密スケジュールに追われて起稿できず、近藤さんに記憶の復元と記録化をお願いしたものである。すぐ届いた文章を基に草稿を作ったのが5月29日、それから2か月以上も経ってしまった。近藤さん、ご免なさい!

 急ぎ本題の「心理学で要素主義の分析と、ゲシュタルト理論ではしばしば理解が異なる」とする論点に入りたい。私の問いかけに近藤さんが答える。

 「…実験心理学の創成期19世紀後半、こころの機能や行動を構成要素に分析しその総和でこころの世界を理解しようとする立場、つまり要素主義がありました。当時の科学的方法論としては自然な流れでしょう。これに対して20世紀初頭、要素主義の考え方を否定するゲシュタルト理論が提唱されました。<ひとつの全体は要素に還元できない体制化された構造>であるとする立場です。」

 「…その<まとまり>、あるいは<全体性>、<形態>をゲシュタルトと呼び、英・仏・そして日本語でもうまく訳せない概念なので独語オリジンのゲシュタルト(Gestalt)が用いられています。例えば、仮現運動という現象があります。知覚心理学の分野での視覚による運動の知覚です。線路沿いに置かれた警報機の光の点滅をイメージしてください。2つの光が左右に離れて交互に点滅します。これを見ると2つの光が別の場所で交互に光っているという“正しい”知覚が生じます。この状況で2つの光が点滅する時間間隔(あるいは距離間隔)をうまく調整すると、1つの点が左右に運動するように見える知覚を生み出すことができます。視覚のイリュージョン、錯視が生じます。…」

 近藤さんは専門の<知覚心理学>の事例を挙げ、楽しげに話す。「…これは誰にでも体験できる現象であり、デモンストレーション、つまり証明可能です。この現象は、要素主義が主張する刺激要素と感覚要素の1対1対応の総和では理解できない心理現象です。つまりどんなに要素に分解して分析し、加算しても、この状況で私たちが実際に経験するひとつの点が左右に運動して見えることは予測できないのです。」

 異分野を専門とする私に対して、別の事例を挙げて迫ってきた。「…実証可能な科学とは違い、歴史学では実証的証明に限界がありそうなので、分野の枠を超えることは難しいのでしょうか。学際研究を可能とする知的プラットホームは学問を進める上で必然といえると思うのですが。…」

 「…先ほど公園で講義いただいた三角貿易に話を例えて見ますと、英国と中国、英国と印度、中国と印度をそれぞれ1本の線の両端に置きます。これが要素主義による三角形を構成要素の3本の直線に分解したものです。分解された要素1本ずつをいくら分析して加算しても三角貿易の真の意味は理解できないのではないでしょうか。」

 「…これに対してゲシュタルト理論では、ひとつの全体である体制化された構造として三角形の頂点に英国・中国・印度があるとすると、その場、つまり<まとまりのある構造>によって加藤理論の歴史学的意味が浮き上がる。ゲシュタルト思考の賜物かも知れませんね。少し強引ですが知的パズル遊びと思って笑ってください。三角形はグーテ・ゲシュタルト、<よいかたち>です。…」

 「…う~ん!?」と私は反応し、ゲシュタルト心理学により私の歴史理論を解明してくれたことに感謝しつつ、すぐ対応するまでにはいかず、歩きましょうと促した。来た道を戻るなかで、近藤さんが若い頃、スコットランドのダンディー大学客員研究員をしていた頃の(家族を連れて1年間)話をしてくれた。

 「…ゴルフで有名なセントアンドリュースの近く、ダンディー市から湾のような川幅をもつテイ川を挟んだ対岸の町、ニューポート・オン・テイの19世紀の石作りの頑強な建物。その1階に住む大家さんに2階を借り、家族の住まいとしていました。その門扉にあったのがFern Brae14(フェルン ブレイ)。フェルンは植物のシダ、ブレイはスコットランドの用語で「川岸に沿った丘の下りこう配」を意味します。確かにテイ川の川岸のシダが覆う斜面にその家は川を見おろすように建っていました。横浜の外国人居留地跡で見た看板は西洋文化に共通する匂いとして30年前の回想を惹き起こしたようです。」

 我々は港の見える丘公園から新緑の中を下り、谷戸橋を渡って山下公園へ向かう。関東大震災(1923年)で壊滅的打撃を受けた横浜は、原三溪を筆頭に震災復興に全力を尽くした。その結晶の一つが、倒壊した建物の瓦礫等を埋め立てて造った山下公園(1935年開園)である。ニューグランド(正式には<ホテル、ニューグランド>と表記)の旧館入口に「横浜開港160周年」の看板。その先の、イチョウの枝に架かる天空の月を写真に収める。

 道を渡って横浜港に接する山下公園へ。係留してある氷川丸は1925(昭和5)年、横浜船渠(ドック)で建造された。戦時には病院船として、戦後は客船・貨客船として役目を果たした。従兄弟の加藤敬二が船長を務めた時期があり、船内を案内してもらった懐かしい船である。

 山下公園を後にして、朝陽門から中華街に入る。関帝廟に参拝し、夕食。2人だけの中華料理には小皿料理が一番である。ここで近藤さんが北九州市立大学で塾長を務める社会人大学(i-Design コミュニティカレッジ)の話になった。近藤さんによる再現は、ほぼ以下の通りである。

 「…日本の大学における教養教育改革が声高に叫ばれて久しい。伝統的に科学教養・人文教養・社会教養が学士課程の3本立ての教養教育の内容としてカリキュラムに含まれています。教養科目は社会人となる学生にとって専攻する専門分野に関わらず身につけておくべき<生きる力となる基盤>です。当然大学では、初等・中等教育を経た二十歳前後の学生を受講者としての立て付けになっています。果たしてそれで十分か?…」

 「…人生100年時代、それぞれのステージで必要とする教養のあり方は変化するものでしょう。50代には50代の、60代には60代の。また人生経験の違いによっても変化するはずです。社会人大学は、自分の意思で学び、その教養を身につけます。そのためには設置の科目は個々の社会人学生の社会経験や要求に対応できるものが準備される必要があります。」

 「…事前のニーズ調査による科目の設定や教員側からの社会人の経験に応じた科目の提案など多様性をもった対応が新たな教育の可能性を拡げるものとして必要です。また、授業内容においても二十歳前後の学生とまったく違う反応があります。例えば、心理学で記憶の話をすると特に年齢の高い方は記憶術に高い関心を示します。社会経験が豊富で、年を重ねるごとに豊かなエピソード記憶をもつ方は、若者より有利に記憶術を使う可能性があります。」

 「また、この社会人大学は新任の教員にとっても、よい学びの場となる可能性があります。新任教員にとって通常受講学生は自分よりも若く、年齢差があまりありません。過去の自分が学生のころの経験、それが授業に役立ちます。しかし、自分より年齢の高い、しかも異なる社会経験を積む社会人学生を前に授業をする場合、同じ科目であっても理解を促し、伝えるためには、話す内容、取り上げ方を工夫する必要があります。創造性を持った授業準備の必要性です。ここに教員としての質の向上が期待できると思います。…」

 驚くべきは、これが単なる企画や計画ではなく、今年度から実施段階に入ったことである。近藤塾長の熱が伝わってくる。一方、私は書いたばかりの「大学教員の仕事」(本ブログ2019年3月5日)を思い出し、大学教員の多くが今、<気概>を失いつつあるのではないかと危惧していた。

 この点を近藤さんに伝えると、上掲の「大学教員の仕事」には、「後輩教員への温かな眼差しとバトンを託す思いとしての強い意志が感じられます。とりわけ最後の3点目は、大学を担う教員一人ひとりが自らの心得として軸にすべきものでしょう」と返ってきた。

 その<最後の3点目>を再掲する。「教員個々人の領域に引きこもらず、分野・職種・年齢等の異なる大学構成員(教員・職員・学生)との自由闊達な意見交換により、大学本来の役割である知(知識+知恵)の創造・継承・普及に寄与すること」。

 今回の横浜散策は予定していたコースの何分の一かに過ぎない。加えて、近藤さんから催促が来ている。「7、8年前の宿題、覚えていますか? 孔子の言葉をまとめた『論語』のことです。そこには人生訓として70歳(従心)まではありますが、80歳、90歳についての言はありません。先生に考えてもらう約束ですが…」

 難しい宿題を抱えつつ、いずれ「横浜散策(その3)」をお届けするつもりである。(続く)

ペリー応接と万次郎

 江東区文化センターで「NPO法人・中浜万次郎国際協会」(東京都認可)の総会が5月19日(日)に開かれた。会場の近くに土佐藩の下屋敷があり、万次郎が一時住んでいたことに因み、15年前に落合静男さん(当時、北砂小学校長)が立ち上げた「ジョン万次郎・江東の会」を2014年に「中浜万次郎の会」とし、さらに改組して今回の記念総会である。代表の北代淳二(きただい じゅんじ)さんから講演の要請をいただいた。

 北代さんと初めてお会いしたのは2年前の5月20日、横須賀開国史研究会の総会後で、幅泰治さん(はば たいじ、中浜万次郎の会事務局)と青野博さん(土佐史談会理事)がご一緒だった。

 また一昨年6月、新発見の芝居の台本、王笑止著「泰平新話(たいへいしんわ)・巻之一 亜墨利加(あめりか)舶来航、兼土佐萬次郎(とさまんじろう)説話」(表紙込みで81ページ)について、メールで意見交換した(2017年6月14日の朝日新聞夕刊を参照)。

 そして昨年末、ジョン万次郎述 河田小龍記 谷村鯛夢訳 北代淳二監修『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく 全現代語訳』(講談社学術文庫 2018年)が刊行され、さっそく入手。講演要請は同じ文庫に拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年、以下 拙著とする)があり、2冊でペリー来航時の万次郎の役割がよく分かるとの、北代さんの配慮であったかもしれない。

 万次郎の帰国とそれに続くペリー来航という時期に、幕府と日本はどのような状況にあったかという背景に触れてもらえればとのこと、考えた末に演題を「ペリー応接と万次郎」とお伝えした。

 当日の参加者は約30名。北代会長は、事前に拙著を読んで参加するよう要請されたという。もともと万次郎に様々な角度から関心を抱いている方々ばかりである。熱心に耳を傾けてくださった。

 配布レジメには年表や地図・表等を付し、目次に3点を掲げ、これに沿ってパワーポイントを放映して話を進めた。

1 1850年ころの環太平洋-東漸する英国、米国西海岸、太平洋の日米漂流民、米捕鯨船、百万都市・江戸
2 日米双方が得た情報、万次郎の伝えたもの
3 ペリー来航と横浜村応接-林大学頭vsペリー提督の論戦、使用言語、通訳

 目次1に関しては、レジメに載せた地図「1850年前後の環太平洋」(拙著59ページ)を放映し、次の2点を説明した。①環太平洋の左(西)に東アジア(日本・朝鮮・中国)や東南アジアがあり、右側(東)にはアメリカがある。アメリカはメキシコとの戦争(米墨戦争 1846~48年)に勝利し、広大なカリフォルニアを割譲させ、初めて太平洋の先の東アジアを展望する位置に立った。②難破した日本人漂流民(大半が海上運搬を担う廻船の乗組員と漁民)は北太平洋海流と偏西風によりアメリカ西海岸方面へと流され、一方で難破したアメリカ捕鯨船は千島海流により北海道に漂着した。

 ついで地図「ペリー提督旗艦の航路」(拙著22・23ページ)を使い、次の3点を述べた。

① ペリーの旗艦ミシシッピー号は、アメリカ東部の軍港ノーフォークを発ち大西洋を横断、アフリカ南端をまわり、インド洋を経由、地球を約4分の3周して中国海域に到着、1853年7月8日、江戸湾の浦賀沖に姿を現すまで実に7カ月半を要した。②中国海域に到着するや広州駐在の宣教師S・W・ウィリアムズを訪ね、日本語の通訳を要請するも固辞される。③アメリカは独自の補給線(シーレーン)を持たないため、蒸気軍艦に必要な石炭や食糧・水等をイギリスの蒸気郵船会社P&O社のデポ(貯炭所)から購入せざるを得なかった。

 さらに略年表(拙著35ページ)を参照して下記の3点を述べた。

① 左欄の日本には戦争の文字がなく、右欄の世界には戦争、植民地化等の文字が多数ある。②幕府による4回の対外政策、すなわち1791年の寛政令(薪水供与令)、1806年の文化令(寛政令のいっそうの緩和)、1825年の文政令(無二念打払令の強硬策)、そして1842年の天保薪水令(文化令の穏健策に復帰)。うち最後の天保薪水令の公布は、アヘン戦争を収束させる南京条約締結(1842年8月29日)の一日前であった。
② これは偶然ではなく、幕府が長崎に入港するオランダ商船と中国商船に提出させたアヘン戦争情報を周到に分析、イギリス海軍が揚子江を遡航して大運河の交差する地点(鎮江と揚州)を越えると読み、この物流の大動脈(揚子江と大運河)を制覇されれば清朝政府は降伏すると判断した。
③ この中国戦線の動きを「他山の石」、「自国の戒」とし、外洋船を一隻も持たない「鎖国の祖法」の下、文政令(無二念打払令の強硬策)の固持は敗戦を意味するとして穏健策の文化令に復し、あらゆる面で「避戦策」に徹する政策に転換した。

以上が日米初の交渉の前提となる政治状況である。

 これに次ぐ目次2「日米双方の得た情報、万次郎の伝えたもの」は、本講演の中心課題である。相手がどのような国で、何を目的に、どのような布陣で臨むか。情報の多寡と綿密な解析、そして高度な戦略が交渉の決め手になる。

 まず幕府が得たアメリカの「直接情報」(日米の直接の接触により得た情報)として、次の3つを挙げた。
① 1845年、アメリカ捕鯨船マンハッタン号が日本人漂流民22名を救出し、送還のため浦賀に来航。初めて漂流民の帰国(引取り)を認める。
② 1846年、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルの浦賀来航。国交樹立を求めるも、メキシコとの戦争(米墨戦争)勃発のため急ぎ帰国。交渉には至らなかった。
③ 1849年、アメリカ東インド艦隊のグリン艦長がアメリカ人漂流民救出に長崎へ来航。話し合いで解決し、漂流民を引き取って帰帆した。

 もう一つの「間接情報」とは、①文書で頻繁に入るオランダ情報(オランダ別段風説書等)、②強硬帰国した万次郎からの聞書きである。①のうちペリー来航の1年以上も前の1852年4月、長崎在住のオランダ商館長クルチウスが提出した別段風説書はペリー艦隊来航を予告していた。

 ② 万次郎が語った江戸の評判。「江戸は世界でもっとも繁盛の所と諸国で評判が高く、彼国の人びとは見物したがっている。江戸・北京・ロンドンの三都は世界第一の繁盛の地である」の一言が、幕閣に自信を与えたのではないか。その3カ国のうち日本だけ国交がない。アメリカ側が江戸見物を期待するようであれば戦争にはなるまいとの解釈もできた。

 一方、ペリーの得た情報はなにか。間接情報には①シーボルト『日本 Nippon』、②Chinese Repository誌と宣教師仲間の情報、なかでも①シーボルト『日本 Nippon』がペリーに及ぼした影響は甚大である。冒頭にある一文、「…日本は1543年、ポルトガル人により偶然発見されたが、その時すでに2203年の歴史を持ち106代にわたる、ほとんど断絶のない家系の統治者のもとで、一大強国になっていた。…」 これを受けてペリーは、「世界最古の国・日本に、もっとも若い国の自分が挑戦する」と述べている。

 直接情報としては、①送還を待つ日本人漂流民からの日本語学習、② 帰国中の“Chinese Repository”誌の記者や捕鯨船船主からの聞き取り等があるが、いずれも幕府の対応や動向についての基本情報は含まない。

 比較すると、幕府のアメリカ情報の方が多く、質的にも多様で、政治外交上の判断に役立つものが多い。とりわけ万次郎の体験談は幕閣に強い影響を与えた。

 1853年7月8日、いよいよペリー艦隊4隻が姿を現した。浦賀沖に停泊すると、浦賀奉行所の二人の役人を乗せた番船が旗艦サスケハナ号に近づき、甲板に並ぶ水兵に向かって大声で呼びかけた。”I can speak Dutch!” 甲板上の水兵たちが理解できりように、与力の中島三郎助の指示でオランダ通詞の堀達之助が英語を使った。これが奏功し、二人は艦上でペリーの副官コンティとの話し合いに入った。この最初の接触が数日後の幕府によるアメリカ大統領国書受理につながる。ペリー艦隊は、当面の目的を果たしたとして、9日間の滞在後、来春の再来を告げて去った。

 ペリーが去った直後、老中首座阿部正弘は受理した大統領国書を各界に回覧して意見を求めた。この諮問の直前に林大学頭に出された仙台藩士・大槻平次(盤渓)の意見書がある。「我が国は自国の戦いだが、彼らには補給線がないから戦争にはならない…」の指摘は大局をよく把握しており、<避戦策>(=外交を基本方針とすること)への傾斜を深めたと思われる。また大槻の言う譲歩の限界(薪水施待所を承認)や万次郎の通訳登用案も当を得ている。

 目次の3「ペリー来航と横浜村応接-林大学頭vsペリー提督の論戦、使用言語、通訳」。1854年2月、前年の4隻から9隻に艦隊規模を拡大してペリーが再来する。そして3月8日、横浜応接所で林とペリーの初の日米トップ会談が開かれる。ここで条約内容の骨格が決まる。その後は土産の交換や招待宴を通じて親交を深め、条約の詰めを行い、会談から3週間後、日米和親条約の締結にいたる。この模様は拙著の第5、6章に詳しく書いた。またNHK「歴史秘話ヒストリア 日本人ペリーと闘う」(2019年5月22日放映)でも触れる予定だったので省き、今回は何語で交渉したか、双方の通訳及び交わされた条約文を中心に話した。

 ペリーは日本語で交渉する考えで在華宣教師S.W.ウィリアムズに的を絞り、通訳は連れずに出国、中国海域に到着した翌日、広州にウィリアムズを訪ねて要請する。ところがウィリアムズは、日本語は10年も前に送還を待つ日本人漂流民から習ったもので、書き言葉も知らないと答えてペリーを困惑させる。結局、ウィリアムズは中国語の読み書き(=漢文)ができる人員として随行を受諾、ただ書には自信がなかったのか、文人の羅森を同伴した。

 話し言葉の通訳がいない。文書だけの沈黙の交渉はできない。ペリーは上海でポートマンという21歳のオランダ系アメリカ人を雇用する。しかし彼には交渉に必要な政治・法律の知識はほとんどなかった。

 交渉言語は、口頭ではオランダ語、文書では漢文となった。いうまでもなく言葉には<四技法>(聴く・話す・読む・書く)があるが、漢文は<読む>と<書く>だけである。ペリー側の漢文人員は2名、対する幕府側は約20数名、その大半が旗本養成機関の昌平黌(唯一の国立大学に相当)出身で、四書五経等の漢文に通じ、政治・法律・歴史・論争術等を修めた、奉行またはそれ以上の役職・経験を持つ優れ者揃いである。

 オランダ語通訳は、ペリー側にポートマン1名、幕府側は少なくとも3名以上、長崎から選りすぐりのオランダ通詞を呼び寄せていた。”I can speak Dutch!”と呼びかけた堀も、横浜応接で首席通訳を務め、オランダ語版の条約文に署名する森山栄之助も、その一員である。

 林とペリーのトップ会談から3週間後の1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、双方が別々に署名した日米和親条約が交換された。4か国語の条約文が残っており(アメリカ公文書館所蔵)、日本語版には林大学頭、英語版にはペリー、漢文版には松崎満太郎、オランダ語版には森山栄之助の署名がある。一方、日本側が受け取ったものは火災で焼失、現存しない。

 条約文は交換したが、同じ文面に双方全権が署名した版はない。<正文>(条約において条文解釈の基準となる特定言語)に関する話し合いをしないままに調印に至ったためである。翌4月1日、これに気づいたペリーが書簡を出す。幕府はペリーが箱館(函館)を訪ね、下田に戻った時に再度協議すると伝えた。6月8日から林とペリーの下田協議が始まり、日本語と英語を<正文>としオランダ語の訳文を付すことを決めた。この「下田追加条約」で初めて両全権の署名が入った(拙著第七章に詳しい)。

 約2時間にわたる講演をここで終えた。7名もの方から質問があり、その質問の鋭さに驚きつつ答え、最後に日米初の交渉時、万次郎の果たした役割について次のようにまとめた。

 万次郎のアメリカ情報は幕閣の親米論を強化し、<避戦策>に徹した交渉に大きく寄与したのではないか。徳川斉昭(御三家の一つ、水戸藩主)の強い反対があり、万次郎は通訳として登用されなかったが、それは結果的に正解だったと思うと述べた。

 日米双方がそれぞれ通訳をつける(近代以降、これが慣例となる)のであれば、日本側の人材は万次郎をおいて他にない。しかしペリー側に日本語通訳がいない状況下で、もし幕府側だけが相手国の言語(英語)の通訳を立てたとすれば、通訳は双方から二重の責務を負わされ、客観的かつ正確な通訳ができなくなる。

 万次郎の果たすべき役割は通訳ではなく、彼の得難い経験とそれに基づく説得力ある情報を伝えることにあった。通訳としては、6年後の1860年、咸臨丸に乗り、日米修好通商条約(1858年調印)の批准書を携えて訪米するさいに、その能力を遺憾なく発揮する。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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