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平成最後の年末年始

 この年末年始は、ふだんと少し違う感覚で日々を送った。平成が終わり、一世代=30年と言われる一つの時代が終わる。私にとっても働き盛りの50歳代から「消えゆく老兵」へと移る30年である。身辺の日常茶飯事の大切さにも想いが及ぶ。つれづれなるままに平成最後の年末年始を綴っておきたい。

 平成の30年間は、平成7(1995)年の阪神淡路大震災、平成23(2011)年3月11日の東日本大震災に加え、各地の地震、水害、噴火等々、激甚災害の記憶を拭い去れない時代であった。「行く末」を見つめると同時に、「来し方」の整理もと、従前以上にせわしない。

 この数年、年末の28日に清談会を開いている。今回は第27回目で私が「10年後の歴史学」と題して話題提供した。それを本ブログに掲載したのは、開けて1月7日(月曜)。

 翌29日は横浜市立大学教職員テニス親睦会の打ち納めと忘年会を楽しんだ。現役では50歳代が中心で、私のようなOBも参加、雑談しつつ30年前の自分と重ねあわせ、不思議な気持ちに陥った。このテニス親睦会を立ち上げたのは1980年(昭和55年)ころで平成以前、そろそろ40年になる。

 30日、中学生から「戦争体験の取材」があり、終戦(1945年)前後に記憶を戻した。東京大空襲(3月10日)後、群馬県の寺へ集団疎開(国民学校と呼ばれた小学校3年生で6年生と一緒)、3歳上の6年生には何をしてもかなわず、悔しい思いをした。ホームシック、空腹のあまり田の畔に生えるノビルを食べた口中のヒリヒリ感、8月15日の「玉音放送」にワッと泣き伏した男の先生…。

 秋、無蓋車に乗せられて帰宅、痩せこけた私を見て姉が「ガンジーみたい!」と思わず声をあげた。東京練馬あたりは昭和初期の新興住宅地と竹藪や農地の拡がる農村とが同居していた。食糧難対策に父が農地を借りた。私も農作業を手伝い、山羊や鶏を飼った(小屋も手製)。

 いよいよ平成31(2019)年元日。日の出を拝んでから、勤務先の三溪園で初詣をした。三溪園は暮れの三日間のみが休みで、あとは362日、元日から開園。「三溪園で過ごすお正月―横浜市指定有形文化財 鶴翔閣公開」に職員はシフトを組んで対応する。元日恒例の箏と尺八の演奏(アトリエ筝こだま)、「ちどり」や「春の海」等の聴きなれた曲に時を忘れる。

 穏やかな陽ざしの下、三溪園天満宮に詣でた。近くの高梨家の祖先が本牧の丘の中腹に建てた間門天神を、1977年、園内に移築したもの。振り返れば丘の上に三重塔が聳える。飛騨白川郷から移築した合掌造り、旧東慶寺仏殿等を経由して石段を登り、三重塔に参る。坂を下って海岸門から内苑へ。

 蓮華院わきを通り、2本のイチョウの巨樹に挨拶。前回ブログ「イチョウ巡り」(2018年12月28日掲載)の出発点となった樹である。まだ黄色い葉がわずかに地表に残る。ついで内苑の最高所にある天授院(原家の持仏堂)に参拝。

 職員や来訪の元職員とゆっくり歓談。幸先の良い元日であった。今年から臨春閣(重要文化財)を皮切りに30年に一度の大規模改修工事が始まる。気が抜けない。また三溪記念館は、3つの展示室と収蔵庫、情報案内、望塔亭(呈茶)、土産売り場、応接室と管理事務所を持つセンター施設であるが、平成元年生まれの30歳、経年劣化で水回り等の修理が必要になってきている。

 秋にはラグビー・ワールドカップの決勝戦等が市内で行われるため、選手たちが三溪園で英気を養い、日本文化に触れてもらうための工夫も要る。来夏は2020東京オリンピック・パラリンピック。屋根を葺きなおしたばかりの臨春閣が選手や観客を迎えることになる。

 正月3日は、数人で「若い都市横浜」の歴史散歩を試みた。案内人は私。谷戸橋で堀川を渡り山手の丘を登り、外国人墓地を経て元町を抜け、中華街の馴染みの店でテーブルを囲む。その後、関帝廟に詣で、ホテル、ニューグランド旧館から山下公園に出て、氷川丸を見た。

 山下公園は1935年に開園した全国初の臨海公園で、関東大震災(1923年)で廃墟と化した市街地の瓦礫を埋め立てて造った。それまでは開港(1859年)以来、幕府が整地して番号を振り外国人に賃貸、外国商館が並んでいた。

 中華街は、「中華街ガイドマップ」(無料)では整然とした碁盤目に描かれているが、いざJRの関内駅や石川町駅へ出ようとすると方向感覚を失う。ここは田んぼの高低(水の流れ)にそって整地され、海岸線に対して45度ほど斜めの街区だからである。

 ついで日米和親条約交渉(1854年)の応接所が設けられた大桟橋の付け根、開港広場、開港資料館から日本大通りを挟んで神奈川県庁にまたがる一帯を確認した。老中首座・阿部正弘が見事な外交で「避戦策」に徹し、近代日本への扉を開いた記念すべき場所である。

 日本大通りの右手、本町1丁目に開港記念会館の塔が見える。ここから西の本町6丁目へかけて、開港以来、日本人商人(売込商、引取商)の店が並ぶ<日本人町>が五筋造られた。この<日本人町>と外国人居留地を内外の商人が行き来して商取引をする、日本独特の<居留地貿易>が展開された。

 掘割で外部と遮断して作られた横浜居留地、要所に関所を設けて警備したため、関所の内側(海側)という意味で<関内>(かんない)と呼んだ。関内一帯が横浜開港以来の旧都心で、今年160周年を迎える。

 ついで<開港の道>と名づけた高架の散歩道に戻り、<象の鼻公園>から<赤レンガ倉庫>まで歩く。この新港埠頭一帯は、1909年の横浜開港50周年を機に造成された旧都心の第二世代である。

 さらに進んでパシフィコ、クイーンズ、ランドマークタワー、JR桜木町とつづく高層ビル一帯に至るが、ここは1989(平成元)年の<横浜博覧会>(市政100周年、開港130周年を記念する行事)後に生まれた新都心<みなとみらい地区>である。ここも誕生から30年になる。

 旧都心と新都心の交わるあたり、北仲通南地区、大岡川下流に架かる弁天橋からも近い中区本町6丁目に横浜の新市庁舎(31階建て)が2020年に完成する。明治22(1889)年の市政公布時から数えて8代目の建物。最寄り駅はみなとみらい線の馬車道駅とJR・市営地下鉄の桜木町駅。桜木町駅は横浜=新橋間の日本最初の鉄道(明治5、1872年)の初代横浜駅である。

 開港から急成長して160年、いま横浜は人口373万人の日本最大の政令市となった。他の都市と比べて、横浜はとても若い。それを示すために私がよく使う比喩が「都市年齢」である。平安京の成立が約1200年前、これを人間の80歳とすれば、鎌倉が53歳、東京が29歳、そして横浜はわずか10歳である。

 4日(金曜)、証券取引所の大発会。株価が急落し、金融市場は円高・ドル安に振れ、波乱の幕開けとなった。

 夜は、偶然見つけた「神々の木に会う~にっぽん巨樹の旅」(BSプレミアム)を観た。書いたばかりの「イチョウ巡り」(本ブログ2018年12月28日掲載)を補う番組で、そのタイミングに驚く。

 山梨県北杜市の桜(エドヒカン、樹齢2000年)に始まり、クス、日本一高齢のイチョウ(青森県深浦町「北金ヶ沢のイチョウ」)、縄文スギ(樹齢2000年超)、さらにカツラ、スダジイ等が映し出された。

 青森のイチョウは樹高31メートル、幹周22メートル、樹齢1000年超、国の天然記念物である。すぐ傍に住み、これを見守ってきた人が、30年ほど前に樹のすぐ横にアスファルト道路ができて以来、「イチョウの葉が小さく少なくなった、人間にとって良い環境は木にとっては大変な変化…本当に申し訳ない」と語る。

 6日(日曜)、麻布山善福寺(港区元麻布)を訪れた。日米修好通商条約に基づき安政5年(1859年)、当寺がハリス一行の宿舎となり、その一室は初代アメリカ合衆国公使館として使われたこと、また1861年にハリスの通訳ヒュースケンが襲撃され、ここに運ばれて死去したことから、現場を確かめるため、以前、来たことがある。

 門をくぐると、目視で1尋半ほどのイチョウの樹下にハリスを記念する石碑がある。そして墓地には親鸞像の近くに「逆さイチョウ」(「杖イチョウ」)と呼ばれる巨樹(雄)。
昭和20年(1945年)5月29日の空襲で被災、背丈は低くなったものの、都内最大で、国の天然記念物に指定されている。推定樹齢750年。根を広く張り、コブのような凹凸を持つ巨大な幹。孤高、圧倒的な存在感。

 そして7日(月曜)、この日までが松の内(松飾りのある期間)。今年は7日を仕事始めとした所が多いと聞く。年賀状を整理。今年で最後にする、と書いてきた方々に思いを馳せる。

 遡れば30年前の今日(昭和64年1月7日)、小渕恵三官房長官(当時)が「平成」と書かれた紙を示し、新元号を発表した(翌8日から平成)。巨樹を見たせいもあろう、30年という歳月が<瞬時>のようにも思える。
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10年後の歴史学

 昨年の12月28日、第27回清談会が開かれ、私が「10年後の歴史学」の話題提供をした。この題名の由来は、前々回の会合で永年幹事の小島謙一(以下、敬称略)が提案し、新しい共通テーマを「各専門分野の10年後を予測する」と決めたことにある。

 前々回の第25回清談会では、「隗より始めよ」(戦国策)に則り、まず小島が「自然界の4つの力」について語り、ついで穂坂正彦が「AI(Artificial Intelligence人工知能)と医療、その10年後」について発表(本ブログ2018年1月5日掲載の「清談会の定例会」を参照)、のちの議論はAI(人工知能)の占める役割が中心となった。

 ついで8月9日開催(7月28日開催予定が台風12号襲来で延期)の第26回清談会では、浅島誠が「自然を知り、生き物に学び、ヒトの立ち位置を考える」を報告、その概要は本ブログの2018年8月17日「生命科学の行方」に掲載した。もともと私の「10年後の歴史学」と二本立ての予定だったが、浅島報告だけで時間切れとなり、半年後に延期されていた。

 なお聞き慣れない「清談会」の発足以来の経緯やメンバーの名前と専門等については以前に書いた。横浜市立大学で同じ釜の飯を食った教員たちで、現メンバーは年齢順に穂坂正彦(医学)、私(歴史学)、丸山英気(法学)、小島謙一(理学、物理学)、山本勇夫(医学)、浅島誠(理学、発生学)の6名。
 
 今回の報告「10年後の歴史学」は、前回からの議論の延長では「歴史学とAI」となろう。多くの人は「歴史学とAIは縁遠く」、それは10年後も変わらないが、「無縁」ではない、と感じているのではないか。配布したレジメを以下に再掲する。

(1)歴史学と他の学問分野との比較
ア)史観・方法(「比較と関係」)・実証(最適史料)・叙述・推敲の5段階
 ⇒ブログ連載「我が歴史研究の歩み」⇒#1【1】連載「新たな回顧」
イ) 哲・史・文≒真・善・美
ウ)過去の経験≠未来の可能性&蓋然性⇒#2【35】幕末期のアヘン問題」
エ)自然科学の反復可能性vs歴史の一回性&個別具体性
 AIの特性は、膨大な数量化されたデータ蓄積(ゲノム、投資信託等を基に特定の指令に短時間で回答を割り出すこと。歴史史料は数量化に馴染まず、かつ応用価値がないため、AIの出動機会はない?
オ)個別具体性と普遍妥当性

(2)歴史学にとっての記録(文字史料、図像、映像、録音等)の重要性
ア)歴史学は記録(史料)の最大の消費者
イ)史料集(翻刻+索引等)刊行の有難さ⇒公文書館でデジタル化展開
事例a)東京帝国大学文科大学史料編纂掛編纂『大日本古文書 幕末外交関係文書』 明治43(1910)年~刊行
事例b) イギリス議会文書とアメリカ議会文書⇒いずれも一年約100冊
事例c)イギリス平戸商館長リチャード・コックス(Richard Cocks 1566~1624年)の日記“Diary kept by the head of the English   Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻字・邦訳。
ウ)歴史家の記録(史料生産)の意義⇒#3「市大創立90周年記念式典」

(3)30年(一世代=平成の30年)の回顧と10年後の歴史学
ア)民主主義の変貌と経済変動⇒これ自体が同時代史の対象
イ)大学教育(の劣化)⇒批判を忌避、テーマを小さく設定する傾向
ウ)歴史書(歴史学の良き成果物)の有用性はいっそう高く評価される?
 ⇒「真の歴史学は古今東西森羅万象を対象とする」

 下線を引いた参考資料3点、すなわち#1【1】連載「新たな回顧」、#2【35】「幕末期のアヘン問題」、#3「市大創立90周年記念式典」は、私の以前のブログから選んだもの。私は都留文科大学学長時代に「(都留文科大学)学長ブログ」(本ブログのリンクからアクセスできる)を東日本大震災の翌日から始め、学長退任後も継続できるよう、「加藤祐三ブログ」として立ち上げてくれたのが情報センターの大輪知穂さんである。

 ブログ画面に大きな文字で「月一古典」(つきいて こてん)とあるのは、私が入学式・卒業式で話す「三訓」(三つの教訓)の第二訓。ちなみに第一訓は「足腰使え(あしこし つかえ)」、第三訓は「世界を見すえ 持ち場で動かむ」である。詳しくは本ブログ「月一古典」(2016年1月17日)参照。

 画面の構成は、左欄が略歴や掲載歴等、中央が本文、右欄がリンクやカテゴリ(5分類)である。本ブログの最初が2014年4月6日掲載の「桜と新緑の競演」で、それから4年10カ月、カテゴリの数字を加算すると185回になる。「(都留文科大学)学長ブログ」から数えて、早や8年になろうとしている。

 #1【1】連載「新たな回顧」は2015年6月30日掲載、私の研究対象を①中国近現代史、②近代アジア史、③日本開国史、④文明史、⑤横浜の歴史、の5種にわけて紹介したもの。分野の異なる方への簡単な自己紹介であるが、同じ歴史学の仲間には、さらに詳細な説明が必要となろう。

 #2【35】「幕末期のアヘン問題」は2018年9月7日掲載、19世紀中葉の国際政治とアヘン問題を示した論考である。拙著『イギリスとアジア』(1980年 岩波新書)のなかでイギリス議会文書所収の貿易統計を駆使し「19世紀アジア三角貿易」(紅茶、アヘン、機械製綿製品の3大商品による中国・イギリス植民地インド・イギリスを結ぶ)を明らかにし、うちグラフ「インド産アヘンの140年 1813~1914年」から19世紀中葉の貿易構造と政治構造の特徴を説明した。

 こうした状況下で日本におけるアヘン問題はどうであったか。最強の鎮痛剤であると同時に麻薬にもなるアヘン(主成分はモルヒネ)の国家的・社会的管理のあり方、さらに開国・開港の条約交渉でアヘン問題をどう処理したか。これが拙著『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店)につがるテーマであり、上掲「③日本開国史」に踏み込んだ最初の著作である。

 幕府は長崎に入るオランダ船と中国船から積極的に情報を蒐集・分析してアヘン戦争(1839~42年)の行方を把握、南京条約締結の一日前に穏健策の「天保薪水令」(1842年8月28日)に切り替えた。

 この情報収集・分析・政策化の流れを継承し、老中首座・阿部正弘はペリー来航に対して「避戦」外交に徹し、平和裏に「交渉条約」を締結した(詳細は拙著『幕末外交と開国』2012年、講談社学術文庫を参照)。

 「交渉条約」には「敗戦条約」と違い、懲罰としての賠償金支払いや領土割譲がない。中国がアヘン戦争に負けて強いられた「敗戦条約」とは対照的である。こうして世界に列強、植民地、「敗戦条約国」、「交渉条約国」からなる「近代国際政治―4つの政体」が成立した。19世紀中葉の、この大転換は、現在に至るまで大きな影響を及ぼしている。

 #3「市大創立90周年記念式典」(正式名は#3「横浜市大大学 創立90周年記念式典」)は2018年11月7日掲載で、市大の近況を伝えたもの(この式典に出席したのは小島と私)。上掲(2)-ウ)「歴史家の記録(史料生産)の意義」の最近の一例である。

 以上が配布したレジメと3通の参考資料の概略説明である。いつもの侃々諤々、熱い言葉が飛び交う展開となった。そのなかから私が答えた3つを挙げたい。

 第一がAIの成長に関すること、上掲レジメ(1)-エ)欄にある「AIの特性は、膨大な数量化されたデータ蓄積…」の「数量化された」について異議が出され、必ずしも数量化されていない膨大なデータを読み解くdeep thinkingが進んでいること、それにより人間がAIを利用する便利な状況から、やがてAIが人間を支配する危機(その想定時期から2040年問題とか2045年問題と呼ばれる)に話が進んだ。

 本ブログで以前に取り上げた藤原洋さん(株式会社ブロードバンドタワー代表取締役会長兼社長CEO)たちの講演「地球環境とサイエンス」(2014年10月1日掲載)や「ありがたき耳学問」(2016年5月24日掲載)を思い出した。AIがさらに進化して人間を支配する事態をなんとか回避できないか。

 第二が、幕末開国の外交について阿部正弘の主導する「避戦策」の意義を述べたのに対し、決定的なのはリーダーの存在ではないかとの意見が出た。確かに、どの時代、どの組織にも、大きな変革を成し遂げるには、リーダーが不可欠である。ただし、人が時代を作るのか、あるいは時代が人を生むのかは、判断が難しい。

 第三が、上述「近代国際政治―4つの政体」(19世紀中葉)の大転換以降の、世界史の大きな流れについてである。そこまでなかなか関心が及びにくい。日本人の歴史好きは「ある一点」に焦点を当てる一方、長い年月の流れのなかに「その一点」を位置づけるのが一般に苦手である。この点について、いずれは私見を述べてみたいと思う。

加藤勝弥めぐり

 日本海を西に見て走る羽越本線の勝木(がつぎ)駅、そこから東へ約4キロ遡ったところに板屋沢という集落がある。新潟県岩船郡山北町板屋沢、いまは村上市板屋沢である。勝木駅は無人駅で、その次の府屋(ふや)には駅長がおり、その次の駅は山形県になる。越後の最北に位置する。

 板屋沢、この名前の由来は定かでないが、板葺きの家屋のある沢とすれば、風景の通りである。この清麗な沢は勝木川という。中学2年のとき、5歳年長の従姉妹、代々子さん(故人)に連れられて初めて訪れ、本家の<山守り>で親戚同様の加藤二蔵さんの巧みなアユ取りを見て感動した。

 勝木駅近くの浜は<碁石>と呼ばれ、白と黒の丸い石はまさに囲碁の石の如し。その暑い夏の日、<碁石>の海の素潜りを教えてもらった。ウニを取り、天草(トコロテンの原料となる海藻)を集めた。素足で岩の上を歩く。足の裏が痛いので、腰を引いて膝を曲げた奇妙な歩き方をした。忘れ得ぬ思い出である。

 こうした経験を夏休みの宿題の作文に書いた。担任は5歳ほどしか離れていない若い国語の山下政太郎先生、いまもお元気である。女子生徒に絶大な人気があり、軟式テニス部の顧問で、部活が楽しみだった。

山下先生がその作文を驚くほど褒めて下さった。何度も読み返し、どこが良いのか分からないものの、褒められたことが嬉しかった。そして先生が褒めてくれたのなら本当かもしれない、と少し自信がつき、文章を書くのが大好きになった。

 この板屋沢が私の祖父、加藤勝弥の生地である。嘉永七年正月五日(1854年2月5日)生まれで大正10(1921)年11月5日に68歳で没した。子宝にめぐまれた勝弥・久子の末っ子が七郎、そのまた末っ子が私である。写真で見る勝弥の顔には、ある種の風格がある。明治の人らしく髭をはやし、和服姿で子どもを膝に抱く姿が多いが、モーニング姿もある。

 勝弥は大庄屋(享保年間に任命)で造り酒屋の長男に生まれた。ペリー率いる黒船艦隊の2度目の来航の年に当たる。生誕の約2か月後、横浜村の応接所で日米和親条約が結ばれた。この日米交渉については拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)を参照されたい。また最近、岡倉天心市民研究会でペリー来航と老中首座、阿部正弘の果たした役割について講演、その概要を本ブログのリンクに「講演録 岡倉天心『日本の覚醒』を読む」として掲載したばかりである。勝弥の誕生日がペリー来航と一致するのは偶然だが、これを期に勝弥が私の中で再浮上した。

 私が板屋沢を初めて訪れたのが67年前の夏であった。そして今年、7月31日から2日間、孫と二人で訪れた。彼は奇しくも中学2年、私の初めての板屋沢と同じ年齢である。高祖父・勝弥は、どのような姿として孫に宿るのか。

 勝弥の一つ目の顔は、明治12年に始まる新潟県会議員に25歳の最年少で当選、その後の自由民権運動の若き闘士、そして新潟県議を8期、明治23年の第1期衆院議員に当選、3期つとめた政治家である。二つ目の顔は新潟の北越学館や東京の明治学院等の教育機関の創設や経営、三つ目が日本キリスト教会の長老としての活躍で、村上教会や東京市ヶ谷教会等に足跡が残る。

 私の勝弥への想いは第一の政治家としての顔にあり、祖父という関係を離れて、歴史家として彼の小伝をまとめたいとの思いはあったが、多忙に紛れ、そのままになっていた。

 羽越本線の府屋駅まで加藤優さんが迎えに来てくれる。優さんは上掲の二蔵さんの長男である。勝木川の清流は往時のままだが、板屋沢は田んぼが工場や駐車場になっており、時代の変化を思い知らされた。

 優さんの案内で山手側をすこし登ると、勝弥の洋風の屋敷があった平地に出る。草木に覆われ、かつての面影はまったくない。集落の墓地のいちばん奥に勝弥・久子の墓がある。

 その後、新潟市へ向かいホテルに一泊、翌朝、観光循環バスに乗り、白山神社前で下車、新潟憲政記念館を訪れた。勝弥の政治活動の場であった新潟県政の議事堂である。

 明治13(1880)年の大火で県庁舎内の議事堂も類焼、3代県令(1875~85年)の永山盛輝(1826~1902年)の発議により3万7000円の巨費を投じて明治16(1883)年に完成した2階建て。左右に透かし彫りの大破風の屋根、中央に八角の塔屋を持つ、堂々とした雄姿である。

 永山は薩摩藩士から明治政府に入り、戊辰戦争からの復興のため士族女子の救済施設「女紅場」の設置や、小学校の就学率の向上に尽力した。設計は、新橋駅舎や大阪駅舎を手がけた、県出身の大工の棟梁で新進建築家の星野総四郎(1845~1915年)である。

 立地場所は、信濃川と2本の堀(現在は暗渠)で三方を囲まれた、火災(類焼)の危険が小さい所が選ばれ、昭和7(1932)年、新設の県庁舎内に議場が移されるまで50年にわたり使われた。戦後の昭和44(1969)年、重要文化財「新潟県議会旧議事堂」に指定され、大規模解体修復工事を経て、昭和50(1975)年から「新潟憲政記念館」として公開されている。

 入口受付で所蔵資料等について尋ね、展示室を回った。一階左手の旧傍聴人室と研修室が現在は展示室で、種々の地図や写真が新潟市と県会議事堂の歴史を伝える。

 副館長の山崎雄さんが議場に案内してくださった。天井が高く、議員定数の54番まで立て札がある議席が長方形に並び、2階は傍聴席で500名ほどが入れる。年に1ヶ月開催される県議会には議員の10倍もの傍聴人が訪れ、ヤジも飛ばす熱気あふれる場であったという。

 今回の勝弥めぐりはここまで。当時の議場の議論や勝弥の演説を再現したいと思うが、十分な史料を得られるかは、これからである。

コックスの鎌倉・京都観光

 イギリス平戸商館長コックスの江戸参府は、1616年9月1日、二代将軍秀忠の拝謁を得て順調だった(本ブログ「コックス商館長が将軍秀忠に拝謁」2018年2月14日)。ところが特許状(朱印状)はなかなか得られず、手にしたのはやっと9月23日であった。それが従前のものではない不利な内容であることに気づいたのは約1ヶ月後の浦賀で、コックスは急ぎ江戸へ取って返す。

 そして10月3日、土井利勝(老中)には面会できず、本多正純(老中)も不在、4日にはアダムズを本多のもとへ派遣するも確たる返事は得られず、5日にも返事がない。6日、土井は多忙とのことで面会さえできない。苛立ちながら無為に過ごす。

 7日、板倉勝重(伊賀守、京都所司代)のもとへ、数種の羅紗(輸入品の毛織物)やロシア産の赤色の獣皮を持って出向いた。コックスは「この方は日本の首席裁判官であり、いまミアコ(京都)から帰着したばかりである」と記す。板倉は後に、優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行…と評価された人物である。

 コックスは記す。「私が江戸に戻ったのはミアコで我々の商品を売ってはならぬとの布告を受取ったためと言うと、板倉は皇帝が平戸以外での販売を禁じたのは事実だと語った。これに対して私は、この3年間、平戸では何も売ることができなかったため、新たな命令は我々を国外追放するのと同じと述べた」。

 板倉の言として「皇帝の意向には逆らえず、現在はすべてのことが老皇帝の時代とは別のやり方で行われている。大方のことは秘書たち(年寄、のちに老中と呼ばれる)の権限下にあり、自分もあまり役に立つことはできない。時が経てば、最善を尽くす」。本多正純については、「我々に姿を見せないようにしている…」と記す。翌8日、土井を訪ねたが、自分には権限がないので本多に頼むようにと、体よく断られた。

 さまざまな試みも効果なく、「…ひとたび決まったことは一日や二日で廃止できず、しばらく辛抱するよう」と言われる。江戸参府の所期の目的が達成できないまま、10月17日朝9時、コックスは江戸を発つ。

 Caningawa(神奈川)に一泊、18日にCamacora(鎌倉)に入る。「鎌倉は500年前、日本最大の都市であって、現在のミアコや江戸より四倍も大きかったと言われる。頼朝と名乗るこの地の将軍(皇帝)は釈迦の末裔である内裏から王権を奪った。だが今は都市ではなく、山々の間にある心地よい谷に家屋が散在、壮麗な堂塔や、剃髪した女性たちの住む尼寺(というより魔窟)が一つある」。

 この尼寺は東慶寺を指し、日記欄外の注に「フィディア(秀頼)様の幼い娘(天秀尼)は、救命のため髪を切って尼となり、この寺に住んでいる。ここは聖域でいかなる法官も連れ出すことができない…」とある。

 もっとも強い関心を示したのが大仏である。「…他の何ものにもまして私が感歎したのはDibotes(大仏)と呼ばれる、谷間にある巨大な黄銅の偶像で、480年以前に造られた。仏殿は完全に朽ち果てている」。

 実際の鋳造は1252年(建長4)に始まるので「360年以前」とするのが正しい。高さ11.31m(台座を含めると13.35m)、重量約121トン、高徳院の本尊の銅造阿弥陀如来坐像で、ほぼ造立当初の像容を保つ。古記録によると1334(建武元) 年と1369( 応安二) 年の大風、1498(明応七) 年の大地震で仏殿は損壊、露坐となる。なおコックスは鶴岡八幡宮、建長寺、円覚寺等には言及していない。

 東慶寺(1285年建立)は明治に至るまで尼寺、江戸幕府寺社奉行も承認する縁切寺として女性の離婚に関する家庭裁判所の役割を果たしたことで有名、その仏殿(1634年建造)は1907年に三溪園へ移築。また大仏は江戸中期、浅草の商人野島新左衛門(泰祐) の喜捨を得た祐天・養国(増上寺第36 世法主)の手で復興。現在は国宝。また最近の「健康診断」(2016~18年、「昭和の大修理」以来半世紀ぶり)の結果、「深刻な劣化はなく、状態は良好」と発表された(2018年4月23日、日本経済新聞)。大仏の胎内に入ることができるため、胎内各所に100個ほどガムがこびりつき…。佐藤孝雄住職は「胎内に触るのを禁止したほうが良いとの意見はあるが、信仰の対象でもあるので、過酷な環境に座している(大仏の)温度を手のひらで感じてほしいとも思う」と言う。

 鎌倉見物を終えたコックスは、10月18日、藤沢で一泊、翌19日は大磯で昼食、この後も昼食の地名と宿泊地を記すが、残念ながら街の様子は書いていない。江戸や京都についても同様。20日は箱根で昼食、沼津泊。21日は蒲原で昼食、由比でアダムズが落馬(飛んできた鳥に馬が驚いて立ちあがったため)、右肩の関節をはずす怪我を負い、江尻泊。22日に駿河の宿に彼を残して先発、23日は掛川で昼食、見附泊。24日は新居で昼食。25日は藤川で昼食、鳴海泊。26日に桑名、27日に庄野で昼食、関泊。28日は石部で昼食。29日、鎌倉を発し11日目に京都着、ウィッカムと再会し平戸からの手紙を受け取る。

 11月2日、京都の史跡巡りにくりだす。まずは方広寺の大仏。豊臣秀吉の発願により1591(天正17)年に完成した木造を、1612(慶兆17)年、家康の薦めで秀頼が金銅仏としたもの(なお1625年には鋳潰)をコックスは見ており、「…驚くばかりの大きさで、仏像は足を組んで座るも、頭は聖堂の天頂に届き、全身に鍍金、…聖堂(大仏殿)は私の見た建物のうち最大…」と記す。

 この聖堂は二条城、江戸城、名古屋城等を築城し、日光東照宮等の家康関連の建造物を建てた大工棟梁の中井藤右衛門正清の手になり、石垣のみが残る。

 ついで三十三間堂(蓮華王院の本堂)を訪れ、「中央の黄銅の大仏と両脇に3333体の像」(実際は木造の本尊千手千眼観音坐像と1001体の千手観音)と記し、「…人間そっくりの優れた形、…純金で鍍金された絢爛たる姿…風神雷神…」と具体例を挙げた後、「この聖堂は私が見たなかでもっとも嘆賞すべきもの…著名な世界の七不思議のいずれにもひけを取らない」と結ぶ。

 最後に訪れたのが豊国廟(豊臣秀吉の墓)。「…ただ感嘆させられるばかりで、言葉で言い表せない。…まことに巨大な建物で、内部も外部も見事な細工…他のいずれより優れている。…」と、豊臣家滅亡後に徳川家の命により廃絶される寸前の姿を描く。現在は明治天皇の勅命により再興された豊国神社。

 11月25日、大坂を出帆、瀬戸内海を通り12月2日に下関、翌3日に平戸に無事帰着。わずか9日ときわめて速い。2年後の1618年2月には倍の18日を要した事例を挙げている。季節風の関係であろう。(続く)

岡倉天心『日本の覚醒』を読む

 岡倉天心市民研究会(新井恵美子会長、千葉信行事務局長)の2018年6月30日の定例会で、上掲のテーマをいただき講演した。岡倉天心市民研究会(岡倉天心横浜顕彰会)は、岡倉天心(1862~1913年)の生誕150年没後100年を記念して、2013(平成25)年に開かれた三溪園茶会、横浜市開港記念会館(天心の生誕地)の「天心フォーラム」を基に2014年6月に発足、8月に会報『天心報』を創刊、定期的に活動をつづけ、5年目に入る。以下に講演の概要を記す。

 岡倉天心『日本の覚醒』の底本として英和両文を収録した講談社学術文庫版(“THE AWAKENING OF JAPAN”, by OKAKURA KAKUZO、1904.夏野広訳、2012年、色川大吉「解説」再録)を使い、訳文の一部は私の責任で変更した。

 本書は次の10章からなる。Ⅰ章「アジアの夜」、2章「蛹」、3章「仏教と儒教」、4章「内からの声」、5章「白禍」、6章「幕閣と大奥」、7章「過渡期」、8章「復古と維新」、9章「再生」、10章「日本と平和」である。

 じつは本ブログの2016年9月20日号で「20世紀初頭の横浜-(7)岡倉天心『日本の覚醒』」を掲載、「…天心の英文3部作のうち、本書は美術論ではなく、江戸時代以降の日本人の根底に流れる<精神>に関する史論」と述べた。第4章「内からの声」で天心は、行動主義的な陽明学が「危機に直面して平静、事を計るに機知縦横、事態の変化に機敏に対応」する力を育んだと強調する。

 6章「幕閣と大奥」においては、ペリー来航に際しての阿部正弘老中首座の政策について「当時の情勢を驚くほどよく理解し、日本をして今日あらしめた開明的政策を採った」と高く評価する。つづけて「…彼の行動の真の意義は、相反するさまざまな批判と没落政治家につきものの汚名に埋もれ…ペリー提督との日米和親条約の談判さえ彼を謗る者により過小評価されてきたが、われわれを外の世界と最初に接触させたのは、じつにこの条約であった。…彼の穏健さは臆病ではない。彼が好戦的な大名たちに押し流されていたなら、おそらく日本は悲惨な目にあっていた。使節への交渉拒否が砲撃を招いたであろうし、サムライたちがいかに勇敢でも旧式の大砲と防衛で最新装備のアメリカ人に対抗できたであろうか。日本が惨禍をまぬがれたのは、阿部正弘がわが国の無防備状態を的確に認識していたおかげである。…また交渉にさいして無限の忍耐と公正さを示したアメリカの提督に心から感謝しなければならない。…」と述べ、明治政府による前政権(幕府)批判の代名詞である「不平等条約説」を、見事に否定している。

 この天心の史論はどのように導き出されたのか、阿部正弘への髙い評価はどこから生まれたのか。天心はホークス編『ペリー艦隊日本遠征記』(1856年に米上院に提出)は読んでいたと思われるが、日本側史料は入手できておらず、史実から導き出したというより、独特の鋭い歴史観により構築したのではないか。

 天心の歴史観は、彼の講義録や講演録からも窺い知れる。とくに『日本美術史』(1891(明治24)年秋から東京美術学校の講義録)と『泰東巧藝史』(1910(明治43)年4月からの東京帝国大学文科大学の講義録)(筑摩書房『明治文学全集』38『岡倉天心集』1968年所収)に見られる。(旧漢字⇒新漢字)。

 (1)「世人は歴史を目して過去の事跡を編集したる記録、即ち死物となす、是れ大なる誤謬なり。歴史なるものは、吾人の体中に存し、活動しつつあるものなり。畢竟古人の泣きたる所、古人の笑いたる所は、即ち今人の泣き或ひは笑ふの源をなす。…」(『日本美術史』)。

(2)『泰東巧藝史』では、日本美術史を広く巧藝史と捉え、地理的に東アジアからインド・中東にわたる東西交流史に注目、美術史研究の方針として5ヵ条を掲げる。①傑作に就きて意匠とテクニックとを明らかにすること、②前後の時代を研究すべきこと、③類似せる巧藝品の相互関係を研究すべきこと、④巧藝の文明史的研究及びその時代に於ける巧藝以外の諸文化(政治・宗教・経済等)との関係をも比較攻究すべきこと、⑤作品の優劣を批判し、其の妙味を玩味すること、及び之を現在に応用すること。うち④「巧藝以外の諸文化(政治・宗教・経済等)との関係」にヒントがあると思われる。 

 今回の講演では、天心の史論の背景を紹介した上で、拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)や拙著『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)等を使い、(パワーポイント放映はパソコンの不具合のため断念)、配布資料(計4ページ)のみを通じて、次の順で日米交渉の経過と成果を説明した。①1850年頃の環太平洋、②ペリー派遣の目的、③幕府の得た海外情報と対外政策の変遷、④<避戦>に徹した老中・阿部正弘の決断、⑤交渉の使用言語(口頭ではオランダ語を通じた二重通訳)、⑥<避戦>に徹した阿部正弘の基本政策が、林大学頭復斎ら交渉陣の奮闘により、世界初の<交渉条約>を生みだした。その結果、「近代国際政治-4つの政体」(列強、植民地、「懲罰」を伴う<敗戦条約>、「懲罰」のない<交渉条約>)が誕生する。

 日米交渉の最大の転機となったのが、1854年3月8日、横浜村における幕府全権の林大学頭とペリーとの会談である。その冒頭でペリーは艦隊員の死去に伴う埋葬を要請、林が「…はるばる来られたうえの病死、不憫に思う。…」と応え、了承する。

 ペリーが本題を切り出した。「我が国は以前から人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交のない国の漂流民でも救助し手厚く扱ってきた。しかしながら貴国は人命を尊重せず、近海の難破船の救助もせず、海岸近くに寄れば発砲し、また漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。日本国民を我が国民が救助して送還しようにも受け取らない。自国民をも見捨てるなど明らかに道義に反する。…我が国のカリフォルニアは、太平洋をはさんで日本国と相対しており、往来する船はいっそう増える。貴国の国政がこのままであれば、多くの人命にかかわることで、放置できない。国政を改めないなら国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する用意がある。我が国は隣国のメキシコと戦争し、国都まで攻め取った。事と次第によっては、貴国も同じようなことになりかねない。」

 ついで林が反論の口火を切る。「戦争もあり得るやもしれぬ。しかし、貴官の言は事実に反することが多い。伝聞の誤りにより、そのように思い込んでおられるようである。…我が国の人命尊重は世界に誇るべきものであり、この300年にわたり太平の時代がつづいたのも人命尊重のゆえである。…近海で難破した他国の船には、薪水や食料を十分に供してきた。…貴国の漂流民も、すでに必要な措置を講じて送還済みである。…積年の遺恨もなく、戦争に及ぶ理由はない。とくとお考えあれ。」

 ペリーは幕府の政策転換を十分に把握しておらず、異国船を強硬排除する無二念打払令(1825年の文政令)と穏健な天保薪水令(1842年)の混同を林に突かれて反論ができなかった。交渉はこれでほぼ決着がつく。

 数日後、ペリーは土産の陸揚げを要請、レールを2キロメートル敷設し、4分の1モデルの蒸気機関車と客車・貨車を走らせ、技術力の高さを見せつけた。

 条約の細かい詰めは滞りなく進み、3週間後の1954年3月31日(嘉永七年三月三日)、12か条からなる日米和親条約は調印に至る。

プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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