FC2ブログ

加藤勝弥めぐり

 日本海を西に見て走る羽越本線の勝木(がつぎ)駅、そこから東へ約4キロ遡ったところに板屋沢という集落がある。新潟県岩船郡山北町板屋沢、いまは村上市板屋沢である。勝木駅は無人駅で、その次の府屋(ふや)には駅長がおり、その次の駅は山形県になる。越後の最北に位置する。

 板屋沢、この名前の由来は定かでないが、板葺きの家屋のある沢とすれば、風景の通りである。この清麗な沢は勝木川という。中学2年のとき、5歳年長の従姉妹、代々子さん(故人)に連れられて初めて訪れ、本家の<山守り>で親戚同様の加藤二蔵さんの巧みなアユ取りを見て感動した。

 勝木駅近くの浜は<碁石>と呼ばれ、白と黒の丸い石はまさに囲碁の石の如し。その暑い夏の日、<碁石>の海の素潜りを教えてもらった。ウニを取り、天草(トコロテンの原料となる海藻)を集めた。素足で岩の上を歩く。足の裏が痛いので、腰を引いて膝を曲げた奇妙な歩き方をした。忘れ得ぬ思い出である。

 こうした経験を夏休みの宿題の作文に書いた。担任は5歳ほどしか離れていない若い国語の山下政太郎先生、いまもお元気である。女子生徒に絶大な人気があり、軟式テニス部の顧問で、部活が楽しみだった。

山下先生がその作文を驚くほど褒めて下さった。何度も読み返し、どこが良いのか分からないものの、褒められたことが嬉しかった。そして先生が褒めてくれたのなら本当かもしれない、と少し自信がつき、文章を書くのが大好きになった。

 この板屋沢が私の祖父、加藤勝弥の生地である。嘉永七年正月五日(1854年2月5日)生まれで大正10(1921)年11月5日に68歳で没した。子宝にめぐまれた勝弥・久子の末っ子が七郎、そのまた末っ子が私である。写真で見る勝弥の顔には、ある種の風格がある。明治の人らしく髭をはやし、和服姿で子どもを膝に抱く姿が多いが、モーニング姿もある。

 勝弥は大庄屋(享保年間に任命)で造り酒屋の長男に生まれた。ペリー率いる黒船艦隊の2度目の来航の年に当たる。生誕の約2か月後、横浜村の応接所で日米和親条約が結ばれた。この日米交渉については拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)を参照されたい。また最近、岡倉天心市民研究会でペリー来航と老中首座、阿部正弘の果たした役割について講演、その概要を本ブログのリンクに「講演録 岡倉天心『日本の覚醒』を読む」として掲載したばかりである。勝弥の誕生日がペリー来航と一致するのは偶然だが、これを期に勝弥が私の中で再浮上した。

 私が板屋沢を初めて訪れたのが67年前の夏であった。そして今年、7月31日から2日間、孫と二人で訪れた。彼は奇しくも中学2年、私の初めての板屋沢と同じ年齢である。高祖父・勝弥は、どのような姿として孫に宿るのか。

 勝弥の一つ目の顔は、明治12年に始まる新潟県会議員に25歳の最年少で当選、その後の自由民権運動の若き闘士、そして新潟県議を8期、明治23年の第1期衆院議員に当選、3期つとめた政治家である。二つ目の顔は新潟の北越学館や東京の明治学院等の教育機関の創設や経営、三つ目が日本キリスト教会の長老としての活躍で、村上教会や東京市ヶ谷教会等に足跡が残る。

 私の勝弥への想いは第一の政治家としての顔にあり、祖父という関係を離れて、歴史家として彼の小伝をまとめたいとの思いはあったが、多忙に紛れ、そのままになっていた。

 羽越本線の府屋駅まで加藤優さんが迎えに来てくれる。優さんは上掲の二蔵さんの長男である。勝木川の清流は往時のままだが、板屋沢は田んぼが工場や駐車場になっており、時代の変化を思い知らされた。

 優さんの案内で山手側をすこし登ると、勝弥の洋風の屋敷があった平地に出る。草木に覆われ、かつての面影はまったくない。集落の墓地のいちばん奥に勝弥・久子の墓がある。

 その後、新潟市へ向かいホテルに一泊、翌朝、観光循環バスに乗り、白山神社前で下車、新潟憲政記念館を訪れた。勝弥の政治活動の場であった新潟県政の議事堂である。

 明治13(1880)年の大火で県庁舎内の議事堂も類焼、3代県令(1875~85年)の永山盛輝(1826~1902年)の発議により3万7000円の巨費を投じて明治16(1883)年に完成した2階建て。左右に透かし彫りの大破風の屋根、中央に八角の塔屋を持つ、堂々とした雄姿である。

 永山は薩摩藩士から明治政府に入り、戊辰戦争からの復興のため士族女子の救済施設「女紅場」の設置や、小学校の就学率の向上に尽力した。設計は、新橋駅舎や大阪駅舎を手がけた、県出身の大工の棟梁で新進建築家の星野総四郎(1845~1915年)である。

 立地場所は、信濃川と2本の堀(現在は暗渠)で三方を囲まれた、火災(類焼)の危険が小さい所が選ばれ、昭和7(1932)年、新設の県庁舎内に議場が移されるまで50年にわたり使われた。戦後の昭和44(1969)年、重要文化財「新潟県議会旧議事堂」に指定され、大規模解体修復工事を経て、昭和50(1975)年から「新潟憲政記念館」として公開されている。

 入口受付で所蔵資料等について尋ね、展示室を回った。一階左手の旧傍聴人室と研修室が現在は展示室で、種々の地図や写真が新潟市と県会議事堂の歴史を伝える。

 副館長の山崎雄さんが議場に案内してくださった。天井が高く、議員定数の54番まで立て札がある議席が長方形に並び、2階は傍聴席で500名ほどが入れる。年に1ヶ月開催される県議会には議員の10倍もの傍聴人が訪れ、ヤジも飛ばす熱気あふれる場であったという。

 今回の勝弥めぐりはここまで。当時の議場の議論や勝弥の演説を再現したいと思うが、十分な史料を得られるかは、これからである。
スポンサーサイト

コックスの鎌倉・京都観光

 イギリス平戸商館長コックスの江戸参府は、1616年9月1日、二代将軍秀忠の拝謁を得て順調だった(本ブログ「コックス商館長が将軍秀忠に拝謁」2018年2月14日)。ところが特許状(朱印状)はなかなか得られず、手にしたのはやっと9月23日であった。それが従前のものではない不利な内容であることに気づいたのは約1ヶ月後の浦賀で、コックスは急ぎ江戸へ取って返す。

 そして10月3日、土井利勝(老中)には面会できず、本多正純(老中)も不在、4日にはアダムズを本多のもとへ派遣するも確たる返事は得られず、5日にも返事がない。6日、土井は多忙とのことで面会さえできない。苛立ちながら無為に過ごす。

 7日、板倉勝重(伊賀守、京都所司代)のもとへ、数種の羅紗(輸入品の毛織物)やロシア産の赤色の獣皮を持って出向いた。コックスは「この方は日本の首席裁判官であり、いまミアコ(京都)から帰着したばかりである」と記す。板倉は後に、優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行…と評価された人物である。

 コックスは記す。「私が江戸に戻ったのはミアコで我々の商品を売ってはならぬとの布告を受取ったためと言うと、板倉は皇帝が平戸以外での販売を禁じたのは事実だと語った。これに対して私は、この3年間、平戸では何も売ることができなかったため、新たな命令は我々を国外追放するのと同じと述べた」。

 板倉の言として「皇帝の意向には逆らえず、現在はすべてのことが老皇帝の時代とは別のやり方で行われている。大方のことは秘書たち(年寄、のちに老中と呼ばれる)の権限下にあり、自分もあまり役に立つことはできない。時が経てば、最善を尽くす」。本多正純については、「我々に姿を見せないようにしている…」と記す。翌8日、土井を訪ねたが、自分には権限がないので本多に頼むようにと、体よく断られた。

 さまざまな試みも効果なく、「…ひとたび決まったことは一日や二日で廃止できず、しばらく辛抱するよう」と言われる。江戸参府の所期の目的が達成できないまま、10月17日朝9時、コックスは江戸を発つ。

 Caningawa(神奈川)に一泊、18日にCamacora(鎌倉)に入る。「鎌倉は500年前、日本最大の都市であって、現在のミアコや江戸より四倍も大きかったと言われる。頼朝と名乗るこの地の将軍(皇帝)は釈迦の末裔である内裏から王権を奪った。だが今は都市ではなく、山々の間にある心地よい谷に家屋が散在、壮麗な堂塔や、剃髪した女性たちの住む尼寺(というより魔窟)が一つある」。

 この尼寺は東慶寺を指し、日記欄外の注に「フィディア(秀頼)様の幼い娘(天秀尼)は、救命のため髪を切って尼となり、この寺に住んでいる。ここは聖域でいかなる法官も連れ出すことができない…」とある。

 もっとも強い関心を示したのが大仏である。「…他の何ものにもまして私が感歎したのはDibotes(大仏)と呼ばれる、谷間にある巨大な黄銅の偶像で、480年以前に造られた。仏殿は完全に朽ち果てている」。

 実際の鋳造は1252年(建長4)に始まるので「360年以前」とするのが正しい。高さ11.31m(台座を含めると13.35m)、重量約121トン、高徳院の本尊の銅造阿弥陀如来坐像で、ほぼ造立当初の像容を保つ。古記録によると1334(建武元) 年と1369( 応安二) 年の大風、1498(明応七) 年の大地震で仏殿は損壊、露坐となる。なおコックスは鶴岡八幡宮、建長寺、円覚寺等には言及していない。

 東慶寺(1285年建立)は明治に至るまで尼寺、江戸幕府寺社奉行も承認する縁切寺として女性の離婚に関する家庭裁判所の役割を果たしたことで有名、その仏殿(1634年建造)は1907年に三溪園へ移築。また大仏は江戸中期、浅草の商人野島新左衛門(泰祐) の喜捨を得た祐天・養国(増上寺第36 世法主)の手で復興。現在は国宝。また最近の「健康診断」(2016~18年、「昭和の大修理」以来半世紀ぶり)の結果、「深刻な劣化はなく、状態は良好」と発表された(2018年4月23日、日本経済新聞)。大仏の胎内に入ることができるため、胎内各所に100個ほどガムがこびりつき…。佐藤孝雄住職は「胎内に触るのを禁止したほうが良いとの意見はあるが、信仰の対象でもあるので、過酷な環境に座している(大仏の)温度を手のひらで感じてほしいとも思う」と言う。

 鎌倉見物を終えたコックスは、10月18日、藤沢で一泊、翌19日は大磯で昼食、この後も昼食の地名と宿泊地を記すが、残念ながら街の様子は書いていない。江戸や京都についても同様。20日は箱根で昼食、沼津泊。21日は蒲原で昼食、由比でアダムズが落馬(飛んできた鳥に馬が驚いて立ちあがったため)、右肩の関節をはずす怪我を負い、江尻泊。22日に駿河の宿に彼を残して先発、23日は掛川で昼食、見附泊。24日は新居で昼食。25日は藤川で昼食、鳴海泊。26日に桑名、27日に庄野で昼食、関泊。28日は石部で昼食。29日、鎌倉を発し11日目に京都着、ウィッカムと再会し平戸からの手紙を受け取る。

 11月2日、京都の史跡巡りにくりだす。まずは方広寺の大仏。豊臣秀吉の発願により1591(天正17)年に完成した木造を、1612(慶兆17)年、家康の薦めで秀頼が金銅仏としたもの(なお1625年には鋳潰)をコックスは見ており、「…驚くばかりの大きさで、仏像は足を組んで座るも、頭は聖堂の天頂に届き、全身に鍍金、…聖堂(大仏殿)は私の見た建物のうち最大…」と記す。

 この聖堂は二条城、江戸城、名古屋城等を築城し、日光東照宮等の家康関連の建造物を建てた大工棟梁の中井藤右衛門正清の手になり、石垣のみが残る。

 ついで三十三間堂(蓮華王院の本堂)を訪れ、「中央の黄銅の大仏と両脇に3333体の像」(実際は木造の本尊千手千眼観音坐像と1001体の千手観音)と記し、「…人間そっくりの優れた形、…純金で鍍金された絢爛たる姿…風神雷神…」と具体例を挙げた後、「この聖堂は私が見たなかでもっとも嘆賞すべきもの…著名な世界の七不思議のいずれにもひけを取らない」と結ぶ。

 最後に訪れたのが豊国廟(豊臣秀吉の墓)。「…ただ感嘆させられるばかりで、言葉で言い表せない。…まことに巨大な建物で、内部も外部も見事な細工…他のいずれより優れている。…」と、豊臣家滅亡後に徳川家の命により廃絶される寸前の姿を描く。現在は明治天皇の勅命により再興された豊国神社。

 11月25日、大坂を出帆、瀬戸内海を通り12月2日に下関、翌3日に平戸に無事帰着。わずか9日ときわめて速い。2年後の1618年2月には倍の18日を要した事例を挙げている。季節風の関係であろう。(続く)

岡倉天心『日本の覚醒』を読む

 岡倉天心市民研究会(新井恵美子会長、千葉信行事務局長)の2018年6月30日の定例会で、上掲のテーマをいただき講演した。岡倉天心市民研究会(岡倉天心横浜顕彰会)は、岡倉天心(1862~1913年)の生誕150年没後100年を記念して、2013(平成25)年に開かれた三溪園茶会、横浜市開港記念会館(天心の生誕地)の「天心フォーラム」を基に2014年6月に発足、8月に会報『天心報』を創刊、定期的に活動をつづけ、5年目に入る。以下に講演の概要を記す。

 岡倉天心『日本の覚醒』の底本として英和両文を収録した講談社学術文庫版(“THE AWAKENING OF JAPAN”, by OKAKURA KAKUZO、1904.夏野広訳、2012年、色川大吉「解説」再録)を使い、訳文の一部は私の責任で変更した。

 本書は次の10章からなる。Ⅰ章「アジアの夜」、2章「蛹」、3章「仏教と儒教」、4章「内からの声」、5章「白禍」、6章「幕閣と大奥」、7章「過渡期」、8章「復古と維新」、9章「再生」、10章「日本と平和」である。

 じつは本ブログの2016年9月20日号で「20世紀初頭の横浜-(7)岡倉天心『日本の覚醒』」を掲載、「…天心の英文3部作のうち、本書は美術論ではなく、江戸時代以降の日本人の根底に流れる<精神>に関する史論」と述べた。第4章「内からの声」で天心は、行動主義的な陽明学が「危機に直面して平静、事を計るに機知縦横、事態の変化に機敏に対応」する力を育んだと強調する。

 6章「幕閣と大奥」においては、ペリー来航に際しての阿部正弘老中首座の政策について「当時の情勢を驚くほどよく理解し、日本をして今日あらしめた開明的政策を採った」と高く評価する。つづけて「…彼の行動の真の意義は、相反するさまざまな批判と没落政治家につきものの汚名に埋もれ…ペリー提督との日米和親条約の談判さえ彼を謗る者により過小評価されてきたが、われわれを外の世界と最初に接触させたのは、じつにこの条約であった。…彼の穏健さは臆病ではない。彼が好戦的な大名たちに押し流されていたなら、おそらく日本は悲惨な目にあっていた。使節への交渉拒否が砲撃を招いたであろうし、サムライたちがいかに勇敢でも旧式の大砲と防衛で最新装備のアメリカ人に対抗できたであろうか。日本が惨禍をまぬがれたのは、阿部正弘がわが国の無防備状態を的確に認識していたおかげである。…また交渉にさいして無限の忍耐と公正さを示したアメリカの提督に心から感謝しなければならない。…」と述べ、明治政府による前政権(幕府)批判の代名詞である「不平等条約説」を、見事に否定している。

 この天心の史論はどのように導き出されたのか、阿部正弘への髙い評価はどこから生まれたのか。天心はホークス編『ペリー艦隊日本遠征記』(1856年に米上院に提出)は読んでいたと思われるが、日本側史料は入手できておらず、史実から導き出したというより、独特の鋭い歴史観により構築したのではないか。

 天心の歴史観は、彼の講義録や講演録からも窺い知れる。とくに『日本美術史』(1891(明治24)年秋から東京美術学校の講義録)と『泰東巧藝史』(1910(明治43)年4月からの東京帝国大学文科大学の講義録)(筑摩書房『明治文学全集』38『岡倉天心集』1968年所収)に見られる。(旧漢字⇒新漢字)。

 (1)「世人は歴史を目して過去の事跡を編集したる記録、即ち死物となす、是れ大なる誤謬なり。歴史なるものは、吾人の体中に存し、活動しつつあるものなり。畢竟古人の泣きたる所、古人の笑いたる所は、即ち今人の泣き或ひは笑ふの源をなす。…」(『日本美術史』)。

(2)『泰東巧藝史』では、日本美術史を広く巧藝史と捉え、地理的に東アジアからインド・中東にわたる東西交流史に注目、美術史研究の方針として5ヵ条を掲げる。①傑作に就きて意匠とテクニックとを明らかにすること、②前後の時代を研究すべきこと、③類似せる巧藝品の相互関係を研究すべきこと、④巧藝の文明史的研究及びその時代に於ける巧藝以外の諸文化(政治・宗教・経済等)との関係をも比較攻究すべきこと、⑤作品の優劣を批判し、其の妙味を玩味すること、及び之を現在に応用すること。うち④「巧藝以外の諸文化(政治・宗教・経済等)との関係」にヒントがあると思われる。 

 今回の講演では、天心の史論の背景を紹介した上で、拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)や拙著『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)等を使い、(パワーポイント放映はパソコンの不具合のため断念)、配布資料(計4ページ)のみを通じて、次の順で日米交渉の経過と成果を説明した。①1850年頃の環太平洋、②ペリー派遣の目的、③幕府の得た海外情報と対外政策の変遷、④<避戦>に徹した老中・阿部正弘の決断、⑤交渉の使用言語(口頭ではオランダ語を通じた二重通訳)、⑥<避戦>に徹した阿部正弘の基本政策が、林大学頭復斎ら交渉陣の奮闘により、世界初の<交渉条約>を生みだした。その結果、「近代国際政治-4つの政体」(列強、植民地、「懲罰」を伴う<敗戦条約>、「懲罰」のない<交渉条約>)が誕生する。

 日米交渉の最大の転機となったのが、1854年3月8日、横浜村における幕府全権の林大学頭とペリーとの会談である。その冒頭でペリーは艦隊員の死去に伴う埋葬を要請、林が「…はるばる来られたうえの病死、不憫に思う。…」と応え、了承する。

 ペリーが本題を切り出した。「我が国は以前から人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交のない国の漂流民でも救助し手厚く扱ってきた。しかしながら貴国は人命を尊重せず、近海の難破船の救助もせず、海岸近くに寄れば発砲し、また漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。日本国民を我が国民が救助して送還しようにも受け取らない。自国民をも見捨てるなど明らかに道義に反する。…我が国のカリフォルニアは、太平洋をはさんで日本国と相対しており、往来する船はいっそう増える。貴国の国政がこのままであれば、多くの人命にかかわることで、放置できない。国政を改めないなら国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する用意がある。我が国は隣国のメキシコと戦争し、国都まで攻め取った。事と次第によっては、貴国も同じようなことになりかねない。」

 ついで林が反論の口火を切る。「戦争もあり得るやもしれぬ。しかし、貴官の言は事実に反することが多い。伝聞の誤りにより、そのように思い込んでおられるようである。…我が国の人命尊重は世界に誇るべきものであり、この300年にわたり太平の時代がつづいたのも人命尊重のゆえである。…近海で難破した他国の船には、薪水や食料を十分に供してきた。…貴国の漂流民も、すでに必要な措置を講じて送還済みである。…積年の遺恨もなく、戦争に及ぶ理由はない。とくとお考えあれ。」

 ペリーは幕府の政策転換を十分に把握しておらず、異国船を強硬排除する無二念打払令(1825年の文政令)と穏健な天保薪水令(1842年)の混同を林に突かれて反論ができなかった。交渉はこれでほぼ決着がつく。

 数日後、ペリーは土産の陸揚げを要請、レールを2キロメートル敷設し、4分の1モデルの蒸気機関車と客車・貨車を走らせ、技術力の高さを見せつけた。

 条約の細かい詰めは滞りなく進み、3週間後の1954年3月31日(嘉永七年三月三日)、12か条からなる日米和親条約は調印に至る。

シンガポールの米朝首脳会談(速報)

 昨年2月のクアラルンプール国際空港で起きた金正男(金正恩の異母兄)暗殺事件が記憶に残る中、北朝鮮が北米にまで到達可能な大陸間弾道弾の発射実験を行い、それに核弾頭を搭載できると発表、世界の緊張が一挙に高まった。核弾頭とミサイルの開発は、冷戦から熱戦への逆戻りかと危惧された。

 そこに今年3月8日、トランプ米大統領(以下、米大統領)が金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長(以下、金委員長)と史上初の首脳会談を行うと公表した。その後は、想像を越える事態の連続である。この歴史的会談に到る経緯を、可能な限り簡潔かつ正確に記録しておきたい。

 我々のニュース源はテレビ・新聞・週刊誌・SNS等であり、それらの情報を基に政治・経済・社会等の動きを判断するのが一般的であろう。最新ニュースが注目を集めつづける上限は、約1週間ではないかと思われる。これは視聴者の関心の持続期間であると同時に、次々と生まれるニュースを載せる紙面や時間の総量にかかわり、古いものから消えて行くからである。

 米大統領は、サプライズを活用する演出で注目を集め、世論を味方につけようとする。それが奏功する場合もあれば、逆に裏目に出ることもある。我々は、事の本質を見逃さないよう注意したい。

 3月25日、金委員長が初めて訪中、習近平主席と会談した。冷え込んだ関係を変え、来たる米朝会談の後ろ盾を固めるためと言われる。中朝間の鉄道や石油パイプラインは、北朝鮮にとって最重要の供給ルートであり、国連で議決された対朝経済制裁の貫徹か緩和かの選択は中朝間の選択に大きく左右される。

 4月1日、アメリカのポンペオCIA長官(のち国務長官)が極秘で訪朝したと発表。アメリカ側からの積極的働きかけの第一歩である。一方、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領(以下、文大統領)と金委員長との南北首脳会談(2000年、2007年に次ぐ3回目)の開催が予告され、徐々に雰囲気が高まった。

 4月27日、軍事境界線にある板門店で南北首脳が会談、ハグして世界の注目を集めた。朝鮮戦争(1950~1953年7月27日)の休戦協定署名(朝鮮国連軍・北朝鮮・中国の3者で署名)以来、初めての板門店会談であり、朝鮮戦争終結等を含む共同宣言に署名。同じ民族の両首脳は世界平和の象徴であるかのような報道がなされ、ノーベル平和賞はこの両名かとの声も上がった。

 5月、さらに動きが激しくなる。8日に金委員長が2度目の訪中で首脳会談、その翌9日には国務長官となったポンペオ氏が訪朝して金委員長と会談、10日には拘束されていたアメリカ人を解放した。同じ日に米大統領は米朝首脳会談を6月12日に行うと発表する。会談場所として、板門店、モンゴル、シンガポールの3つが候補に上がった。

 並行して、米大統領補佐官ボルトン氏が13日、「見返りの援助を語る前に、恒久的かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)が必要」と発言、いわゆるリビア方式の採用を示唆した。これに反発した北朝鮮は16日、「核放棄だけを強要するのなら、これ以上の興味はない」(金桂官(キム・ケガン)第一外務次官)と発表、ペンス米副大統領は21日、「取引きできなければリビアと同じ終わりを迎えるだろう」と応酬。22日、文大統領がワシントンに飛び、米朝間の仲介工作を行うも進展せず。24日、北朝鮮の崔善姫(チェ・ソンヒ)外務次官が「我々は対話を哀願することはない」と強硬姿勢をあらわにする。

 一方、北朝鮮は北東部にある豊渓里(ブンゲリ)の核実験場を自ら爆破すると発表、予告通り24日に爆破を実施して5か国のメディアに公開したが、検証する専門家の入国は拒んだ。爆破の5時間後、米大統領がシンガポールで6月12日予定の米朝首脳会談を中止するとの書簡を金委員長宛に送ったと公表。

 慌てた北朝鮮の金桂官第一外務次官は9時間後の25日朝、手の平を返すように「関係改善のため首脳会談が切実に必要…」と表明し、文大統領に仲介を求めた。これに対して米大統領は「米軍は必要なら対応をとる準備がある。」と軍事オプションの警告を発する一方、「会談の12日開催の可能性はある。…」とも述べる。なお31日、金委員長が訪朝のラブロフ・ロシア外相に段階的非核化の意思を伝えた。

 そして1週間後の6月1日、金委員長の右腕とされる金英哲(キム・ヨンチョル)朝鮮労働党副委員長が訪米、米大統領はホワイトハウスに迎えて会談、世界を仰天させる。アメリカを核で恫喝してきた、人権無視国家の最高位の高官であり、個人としても制裁対象になっている人物の、18年ぶりの訪問である。金委員長からの親書を手渡して、会談は90分近くつづいた。米大統領は満足げに「われわれはほぼすべて話し合った。たくさん話した」と述べる。

 会談場所は警備に適したシンガポールのセントーサ島に決まり、会談まで「あと4日」となった6月8日、3つのニュースが流れた。第1がアメリカ発の2つ。(1)米大統領は首脳会談で北朝鮮の「非核化」は十分に詰め切れないと考え、代わりに史上初の首脳会談を実現させたこと自体を重視し、その関連で朝鮮戦争の終結合意を行うかもしれない(1953年7月27日に朝鮮国連軍・北朝鮮・中国の3者で休戦協定に調印したままの現状)。(2)訪米した安倍首相が米大統領に、日本人の拉致問題解決を米朝会談の場で強く主張するよう要請、米大統領が承諾し、これを前提として安倍首相は日朝会談において解決するとした。
 
 第2が北朝鮮発。人民武力相等の軍トップ三役を総入れ替えした。その意図は憶測の域を出ないが、穏健派を据えて外遊中の不穏な動きを抑止する目的とも言われる。毎年6月下旬に反米帝国主義のキャンペーンを張ってきたものを、あろうことかその直前、「アメリカ帝国主義の頭目」とシンガポールで笑顔の会談となれば、その及ぼす影響も考慮しなければならない。

 第3が訪中したロシアのプーチン大統領が習近平主席と会談、「中ロは朝鮮半島の平和と安定に関心を持っている」とし、米大統領・韓国文大統領・金委員長の三者による朝鮮戦争の終結宣言に対して強い警戒心を見せた。

 10日午後、金委員長が中国国際航空でシンガポール着、米大統領はその6時間後にG7開催地のカナダから専用機で到着した。

 12日午前、史上初の米朝首脳会談が始まった。冒頭で米大統領が「とても良い気分だ。…われわれは大きな成功を収めるだろう。素晴らしい関係を築くことに疑いはない」と述べる。金委員長は「ここまでの道のりは容易ではなかった。われわれには足を引っ張る過去があり、誤った偏見と慣行が時に目と耳をふさいできたが、全てを乗り越え、この場に来た」、つづく拡大会合では「この先、課題もあるだろうが、トランプ氏と協力する。…これが平和のために良いと信じている」と語る。米大統領は「われわれが解決する。協力することを楽しみにしている」とも述べた。
 
 拡大会合、昼食会を経て両首脳が共同声明に署名、夕方の記者会見で米大統領は、「今日、始まったばかりだ。重要な第一歩を踏み出した…明日からすぐ詰めの協議が始まる。…」と強調。具体性が乏しい合意、政治ショー等々の批判もあるが、この<歴史的会談>を期に、非核化・ミサイルの廃棄・拉致問題等の具体的進展を注視していきたい。

開国史研究

 横須賀開国史研究会(山本詔一会長)は、毎年5月に総会と記念講演を開催する。その知らせを4月発行の「よこすか開国史かわら版」(編集長:小倉隆代同会事務局長、A4×4ページ、ときに6ページのリーフレット)が届けてくれた。

今年は5月19日(土曜)、会場はいつものヨコスカ・ベイサイド・ポケット(横須賀藝術劇場小劇場)、記念講演は後藤敦史(京都橘大学准教授)「ペリーとハリスのあいだ~世界史のなかの日本開国~」とある。

 山本さんによれば、「…総会や講演会の講師を選ぶのに四苦八苦している…」ことを、同会の連続講演にお願いした田中宏巳さん(『横須賀鎮守府』の著者)にお伝えして、後藤さんを紹介していただいたとある。

 後藤さんは1982年生まれの36歳、新進気鋭の歴史家であり、すでに博士論文(大阪大学)を基とした『開国期徳川幕府の政治と外交』(有志舎、2015年)と『忘れられた黒船-アメリカ北太平洋戦略と日本開国』(講談社、2017年)の単著2冊を持つ。史学界では異例の早さ(若さ)の刊行である。

 上掲リーフレットに、後藤さんの若々しい笑顔の写真と「講演に向けてのご挨拶」という囲み記事がある。演題の示すようにペリー(1853年来航、1854年日米和親条約締結)とハリス(1856年下田着任、1858年日米修好通商条約締結)の間の1855年アメリカ北太平洋測量艦隊来航と、翌1856年イギリス海軍の極東海域測量(日本来航は1859年と61年)の2つの海図測量を主題として、「世界史のなかの日本開国、というテーマに迫っていく」とある。

 山本さんは後藤さんの上掲2著を発売直後に購入、「…『忘れられた黒船』という本は…先の論文集の第五章を一般の人にもわかりやすく書き改めたものであろうと、私自身が勝手な判断を下し、積読(つんどく)本の仲間入りをしていました」と記し、また「…まだ若い(三十半ば)後藤先生のフレッシュな感覚でのお話を楽しみにしています」と結ぶ。

 山本さんは、講演者の選択にとどまらず、自身も数本の執筆を抱えつつ、さらに、5月は総会と記念講演、11月か12月に開国史シンポジウム(あるいは講演会)、それに「開国史研究講座(連続)」、「開国史に関する古文書を読む会(連続)」、「開国史基礎講座(連続)」、「史跡めぐり」等、プログラムの多くを、長年、担っている。

 私は、よほどのことがない限り、講演を聴きに行く。講演者とその演題に惹かれ、また山本さん(私は詔ちゃんと呼ぶ)達に会うことが楽しみで、講演後の懇親会にも顔を出す。

 山本さんとの付き合いは20年以上になる。記憶を辿ると、オフィス宮崎訳『ペリー艦隊日本遠征記』(全4巻、栄光出版社 1997年)の刊行を機に、私が解説を書いた関係から、横浜の関内ホールで講演会が開かれた折にお会いしたのが最初である。その後、横須賀開国史研究会の設立にあたり記念講演をとの依頼があり、2000年6月17日(土曜)、会場も同じヨコスカ・ベイサイド・ポケットで講演「ペリー来航とその時代」を行った。

 設立総会から数えて18年もの間、大胆かつ地道に進めてきた活動の記録は、そのつど同会の機関誌『開国史研究』に掲載される。創刊号は2001年3月刊で、今年刊行分が第18号。A5版で140~200ページ(毎年違う)の2段組の定型は変わらない。いわゆる学会誌ではなく、横須賀という地域の文化活動のうち歴史に特化した雑誌と言えよう。同会会則に「三浦半島と関わりのある開国及び日本近代化の歴史(以下「開国史」という)に光を当てる…」とある。本誌は高い学術水準と読みやすさを兼備して、他に類を見ない。

 後藤さんの講演を聴く前に上掲の2著書を読んだ。また彼が推奨するアメリカ北太平洋測量艦隊ロジャース司令長官の海軍長官宛公信(翻刻)、Allan B. Cole ed, Yankee Surveyors in the Shogun’s Seas, 1853-1856. Princeton 1947.にも目を通した。

 先行研究への強烈な疑問、仮説の積極的提示と幅広い史料収集、みずみずしく伸びやかな記述、そしてややもすると実証が追いつかない焦り?…。
 最近の史学界には、テーマを小さく絞り、手堅くまとめて他者による批判を回避し、論文数を増やそうとする傾向が強いと感じる。こうした悪しき風潮とは無縁の、後藤さんの果敢な態度が頼もしい。

 講演は、緻密なレジメ(A4×8ページ)と丁寧な語り口で進む。標題「ペリーとハリスのあいだ」を取り上げる理由として(1)「一見<地味>な1855年に着目することで「世界史のなかの日本開国史を再検討」、(2)「すべての道はペリーに通ず」との考えに対して「ペリー艦隊の相対化が必要」とする。

 そのうえで1855年来航のアメリカ北太平洋測量艦隊の派遣理由・経過・影響を述べ、多くの新たな知見を示した。ついで2つの(概念)図を示す。すなわちアメリカの蒸気船航路構想は2つに分かれ、1つがペリーとハリス(の派遣)へつづく「点」の潮流、もう1つがアメリカ北太平洋測量艦隊司令長官ロジャースからブルックへつづく「線」(測量・海図作成)の潮流(これが『忘れられた黒船』の主題)になると言う。

 この「点と線」の対比は、著書には見られない新しい論点である。講演後に後藤さん、山本さん、平尾信子さん(『黒船前夜の出会い』1994年の作者)と4人で歓談の機会があり、お礼として簡潔に感想を伝えたが、あわただしく懇親会場へ移動。そこでは多様多彩な話題が活発に飛び交い、続きの意見交換をする間もなく散会、後藤さんとは再会を約して別れた。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
カテゴリ
QRコード
QR