シンガポールの米朝首脳会談(速報)

 昨年2月のクアラルンプール国際空港で起きた金正男(金正恩の異母兄)暗殺事件が記憶に残る中、北朝鮮が北米にまで到達可能な大陸間弾道弾の発射実験を行い、それに核弾頭を搭載できると発表、世界の緊張が一挙に高まった。核弾頭とミサイルの開発は、冷戦から熱戦への逆戻りかと危惧された。

 そこに今年3月8日、トランプ米大統領(以下、米大統領)が金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長(以下、金委員長)と史上初の首脳会談を行うと公表した。その後は、想像を越える事態の連続である。この歴史的会談に到る経緯を、可能な限り簡潔かつ正確に記録しておきたい。

 我々のニュース源はテレビ・新聞・週刊誌・SNS等であり、それらの情報を基に政治・経済・社会等の動きを判断するのが一般的であろう。最新ニュースが注目を集めつづける上限は、約1週間ではないかと思われる。これは視聴者の関心の持続期間であると同時に、次々と生まれるニュースを載せる紙面や時間の総量にかかわり、古いものから消えて行くからである。

 米大統領は、サプライズを活用する演出で注目を集め、世論を味方につけようとする。それが奏功する場合もあれば、逆に裏目に出ることもある。我々は、事の本質を見逃さないよう注意したい。

 3月25日、金委員長が初めて訪中、習近平主席と会談した。冷え込んだ関係を変え、来たる米朝会談の後ろ盾を固めるためと言われる。中朝間の鉄道や石油パイプラインは、北朝鮮にとって最重要の供給ルートであり、国連で議決された対朝経済制裁の貫徹か緩和かの選択は中朝間の選択に大きく左右される。

 4月1日、アメリカのポンペオCIA長官(のち国務長官)が極秘で訪朝したと発表。アメリカ側からの積極的働きかけの第一歩である。一方、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領(以下、文大統領)と金委員長との南北首脳会談(2000年、2007年に次ぐ3回目)の開催が予告され、徐々に雰囲気が高まった。

 4月27日、軍事境界線にある板門店で南北首脳が会談、ハグして世界の注目を集めた。朝鮮戦争(1950~1953年7月27日)の休戦協定署名(朝鮮国連軍・北朝鮮・中国の3者で署名)以来、初めての板門店会談であり、朝鮮戦争終結等を含む共同宣言に署名。同じ民族の両首脳は世界平和の象徴であるかのような報道がなされ、ノーベル平和賞はこの両名かとの声も上がった。

 5月、さらに動きが激しくなる。8日に金委員長が2度目の訪中で首脳会談、その翌9日には国務長官となったポンペオ氏が訪朝して金委員長と会談、10日には拘束されていたアメリカ人を解放した。同じ日に米大統領は米朝首脳会談を6月12日に行うと発表する。会談場所として、板門店、モンゴル、シンガポールの3つが候補に上がった。

 並行して、米大統領補佐官ボルトン氏が13日、「見返りの援助を語る前に、恒久的かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)が必要」と発言、いわゆるリビア方式の採用を示唆した。これに反発した北朝鮮は16日、「核放棄だけを強要するのなら、これ以上の興味はない」(金桂官(キム・ケガン)第一外務次官)と発表、ペンス米副大統領は21日、「取引きできなければリビアと同じ終わりを迎えるだろう」と応酬。22日、文大統領がワシントンに飛び、米朝間の仲介工作を行うも進展せず。24日、北朝鮮の崔善姫(チェ・ソンヒ)外務次官が「我々は対話を哀願することはない」と強硬姿勢をあらわにする。

 一方、北朝鮮は北東部にある豊渓里(ブンゲリ)の核実験場を自ら爆破すると発表、予告通り24日に爆破を実施して5か国のメディアに公開したが、検証する専門家の入国は拒んだ。爆破の5時間後、米大統領がシンガポールで6月12日予定の米朝首脳会談を中止するとの書簡を金委員長宛に送ったと公表。

 慌てた北朝鮮の金桂官第一外務次官は9時間後の25日朝、手の平を返すように「関係改善のため首脳会談が切実に必要…」と表明し、文大統領に仲介を求めた。これに対して米大統領は「米軍は必要なら対応をとる準備がある。」と軍事オプションの警告を発する一方、「会談の12日開催の可能性はある。…」とも述べる。なお31日、金委員長が訪朝のラブロフ・ロシア外相に段階的非核化の意思を伝えた。

 そして1週間後の6月1日、金委員長の右腕とされる金英哲(キム・ヨンチョル)朝鮮労働党副委員長が訪米、米大統領はホワイトハウスに迎えて会談、世界を仰天させる。アメリカを核で恫喝してきた、人権無視国家の最高位の高官であり、個人としても制裁対象になっている人物の、18年ぶりの訪問である。金委員長からの親書を手渡して、会談は90分近くつづいた。米大統領は満足げに「われわれはほぼすべて話し合った。たくさん話した」と述べる。

 会談場所は警備に適したシンガポールのセントーサ島に決まり、会談まで「あと4日」となった6月8日、3つのニュースが流れた。第1がアメリカ発の2つ。(1)米大統領は首脳会談で北朝鮮の「非核化」は十分に詰め切れないと考え、代わりに史上初の首脳会談を実現させたこと自体を重視し、その関連で朝鮮戦争の終結合意を行うかもしれない(1953年7月27日に朝鮮国連軍・北朝鮮・中国の3者で休戦協定に調印したままの現状)。(2)訪米した安倍首相が米大統領に、日本人の拉致問題解決を米朝会談の場で強く主張するよう要請、米大統領が承諾し、これを前提として安倍首相は日朝会談において解決するとした。
 
 第2が北朝鮮発。人民武力相等の軍トップ三役を総入れ替えした。その意図は憶測の域を出ないが、穏健派を据えて外遊中の不穏な動きを抑止する目的とも言われる。毎年6月下旬に反米帝国主義のキャンペーンを張ってきたものを、あろうことかその直前、「アメリカ帝国主義の頭目」とシンガポールで笑顔の会談となれば、その及ぼす影響も考慮しなければならない。

 第3が訪中したロシアのプーチン大統領が習近平主席と会談、「中ロは朝鮮半島の平和と安定に関心を持っている」とし、米大統領・韓国文大統領・金委員長の三者による朝鮮戦争の終結宣言に対して強い警戒心を見せた。

 10日午後、金委員長が中国国際航空でシンガポール着、米大統領はその6時間後にG7開催地のカナダから専用機で到着した。

 12日午前、史上初の米朝首脳会談が始まった。冒頭で米大統領が「とても良い気分だ。…われわれは大きな成功を収めるだろう。素晴らしい関係を築くことに疑いはない」と述べる。金委員長は「ここまでの道のりは容易ではなかった。われわれには足を引っ張る過去があり、誤った偏見と慣行が時に目と耳をふさいできたが、全てを乗り越え、この場に来た」、つづく拡大会合では「この先、課題もあるだろうが、トランプ氏と協力する。…これが平和のために良いと信じている」と語る。米大統領は「われわれが解決する。協力することを楽しみにしている」とも述べた。
 
 拡大会合、昼食会を経て両首脳が共同声明に署名、夕方の記者会見で米大統領は、「今日、始まったばかりだ。重要な第一歩を踏み出した…明日からすぐ詰めの協議が始まる。…」と強調。具体性が乏しい合意、政治ショー等々の批判もあるが、この<歴史的会談>を期に、非核化・ミサイルの廃棄・拉致問題等の具体的進展を注視していきたい。
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開国史研究

 横須賀開国史研究会(山本詔一会長)は、毎年5月に総会と記念講演を開催する。その知らせを4月発行の「よこすか開国史かわら版」(編集長:小倉隆代同会事務局長、A4×4ページ、ときに6ページのリーフレット)が届けてくれた。

今年は5月19日(土曜)、会場はいつものヨコスカ・ベイサイド・ポケット(横須賀藝術劇場小劇場)、記念講演は後藤敦史(京都橘大学准教授)「ペリーとハリスのあいだ~世界史のなかの日本開国~」とある。

 山本さんによれば、「…総会や講演会の講師を選ぶのに四苦八苦している…」ことを、同会の連続講演にお願いした田中宏巳さん(『横須賀鎮守府』の著者)にお伝えして、後藤さんを紹介していただいたとある。

 後藤さんは1982年生まれの36歳、新進気鋭の歴史家であり、すでに博士論文(大阪大学)を基とした『開国期徳川幕府の政治と外交』(有志舎、2015年)と『忘れられた黒船-アメリカ北太平洋戦略と日本開国』(講談社、2017年)の単著2冊を持つ。史学界では異例の早さ(若さ)の刊行である。

 上掲リーフレットに、後藤さんの若々しい笑顔の写真と「講演に向けてのご挨拶」という囲み記事がある。演題の示すようにペリー(1853年来航、1854年日米和親条約締結)とハリス(1856年下田着任、1858年日米修好通商条約締結)の間の1855年アメリカ北太平洋測量艦隊来航と、翌1856年イギリス海軍の極東海域測量(日本来航は1859年と61年)の2つの海図測量を主題として、「世界史のなかの日本開国、というテーマに迫っていく」とある。

 山本さんは後藤さんの上掲2著を発売直後に購入、「…『忘れられた黒船』という本は…先の論文集の第五章を一般の人にもわかりやすく書き改めたものであろうと、私自身が勝手な判断を下し、積読(つんどく)本の仲間入りをしていました」と記し、また「…まだ若い(三十半ば)後藤先生のフレッシュな感覚でのお話を楽しみにしています」と結ぶ。

 山本さんは、講演者の選択にとどまらず、自身も数本の執筆を抱えつつ、さらに、5月は総会と記念講演、11月か12月に開国史シンポジウム(あるいは講演会)、それに「開国史研究講座(連続)」、「開国史に関する古文書を読む会(連続)」、「開国史基礎講座(連続)」、「史跡めぐり」等、プログラムの多くを、長年、担っている。

 私は、よほどのことがない限り、講演を聴きに行く。講演者とその演題に惹かれ、また山本さん(私は詔ちゃんと呼ぶ)達に会うことが楽しみで、講演後の懇親会にも顔を出す。

 山本さんとの付き合いは20年以上になる。記憶を辿ると、オフィス宮崎訳『ペリー艦隊日本遠征記』(全4巻、栄光出版社 1997年)の刊行を機に、私が解説を書いた関係から、横浜の関内ホールで講演会が開かれた折にお会いしたのが最初である。その後、横須賀開国史研究会の設立にあたり記念講演をとの依頼があり、2000年6月17日(土曜)、会場も同じヨコスカ・ベイサイド・ポケットで講演「ペリー来航とその時代」を行った。

 設立総会から数えて18年もの間、大胆かつ地道に進めてきた活動の記録は、そのつど同会の機関誌『開国史研究』に掲載される。創刊号は2001年3月刊で、今年刊行分が第18号。A5版で140~200ページ(毎年違う)の2段組の定型は変わらない。いわゆる学会誌ではなく、横須賀という地域の文化活動のうち歴史に特化した雑誌と言えよう。同会会則に「三浦半島と関わりのある開国及び日本近代化の歴史(以下「開国史」という)に光を当てる…」とある。本誌は高い学術水準と読みやすさを兼備して、他に類を見ない。

 後藤さんの講演を聴く前に上掲の2著書を読んだ。また彼が推奨するアメリカ北太平洋測量艦隊ロジャース司令長官の海軍長官宛公信(翻刻)、Allan B. Cole ed, Yankee Surveyors in the Shogun’s Seas, 1853-1856. Princeton 1947.にも目を通した。

 先行研究への強烈な疑問、仮説の積極的提示と幅広い史料収集、みずみずしく伸びやかな記述、そしてややもすると実証が追いつかない焦り?…。
 最近の史学界には、テーマを小さく絞り、手堅くまとめて他者による批判を回避し、論文数を増やそうとする傾向が強いと感じる。こうした悪しき風潮とは無縁の、後藤さんの果敢な態度が頼もしい。

 講演は、緻密なレジメ(A4×8ページ)と丁寧な語り口で進む。標題「ペリーとハリスのあいだ」を取り上げる理由として(1)「一見<地味>な1855年に着目することで「世界史のなかの日本開国史を再検討」、(2)「すべての道はペリーに通ず」との考えに対して「ペリー艦隊の相対化が必要」とする。

 そのうえで1855年来航のアメリカ北太平洋測量艦隊の派遣理由・経過・影響を述べ、多くの新たな知見を示した。ついで2つの(概念)図を示す。すなわちアメリカの蒸気船航路構想は2つに分かれ、1つがペリーとハリス(の派遣)へつづく「点」の潮流、もう1つがアメリカ北太平洋測量艦隊司令長官ロジャースからブルックへつづく「線」(測量・海図作成)の潮流(これが『忘れられた黒船』の主題)になると言う。

 この「点と線」の対比は、著書には見られない新しい論点である。講演後に後藤さん、山本さん、平尾信子さん(『黒船前夜の出会い』1994年の作者)と4人で歓談の機会があり、お礼として簡潔に感想を伝えたが、あわただしく懇親会場へ移動。そこでは多様多彩な話題が活発に飛び交い、続きの意見交換をする間もなく散会、後藤さんとは再会を約して別れた。

コックス商館長の江戸外交

1616年9月1日、二代将軍徳川秀忠に拝謁できたコックス商館長は、他の有力者に関する情報を入手、4日には本多正純(老中)、土井利勝(老中)、酒井忠世(雅楽頭)に加えて、もう一人、将軍側近の安藤重信(老中)にも同じ贈物をするのが良いと日記に記し、つづけて「…今度の帝(秀忠)は帝位に就いたばかりであり、…それにスペイン人がイギリス人は海上で略奪行為を繰り返していると悪い噂を広めているから…」と理由を述べる。

 数行置いて「…皇帝やその周辺にいる要人たちはイエズス会士や聖職者に対して極端な憎悪を抱いており、我々に対して彼らに組せず、摘発せよと言う」と記す。

 また本多正純と土井利勝の用人(秘書)にも更紗や手帳類を届けた。5日には予定した通り、安藤重信のもとに贈物を届けたが留守のため、再訪を告げて贈物を託してきた。品物はほぼ同じだが、小型の姿見と薬壺の代わりにロンドンとその近郊の地図2枚を添えたとある。同じものが揃わなかったためか、意図的に替えたかは不明。

 お返しとして、江戸商人から丸々と太った豚1頭、本多正純から梨、葡萄、胡桃が届く。7日、酒井忠世と安藤重信を訪ね、ご所望の品は何でもイギリスから取り寄せると言うと、二人は機嫌よく、「できれば今日にも特許を更新して、御朱印(渡航許可証)に捺印してもらえるようにしたい」と言った。

 一方、コックス一行が江戸を離れる許可を顔の広いアダムズ(三浦按針)に取らせているが、9月9日も「明日には…」との返事ばかりで、一向に進まない。彼らはアダムズの家にカトリック宣教師が滞在しているとの噂を確認している最中と言う。

 9月8日(元和二年八月八日)、切支丹禁令が出されたが、コックスが知ったのは翌9日である。九州各地に向け、パードレ(神父)を匿ってはならず、叛けば一族もろとも死刑に処すゆえ心せよという内容である。

 コックスの江戸禁足はこれと関係していた。10日、本多正純がアダムズを呼びに人を寄こしたので、出発許可かと期待したが、これはパードレたちのことを重ねて問い質すためであった。

 11日、「皇帝はすべてのキリスト教徒を日本から追放する意図のようだ」とし、翌12日、アダムズを土井利勝宅へ行かせたが、「…イギリス人はイエズス会士や修道士たちと関わりはなく、すでに60年にわたり彼らがイギリスに留まることも許さず、見つけ次第、全員を死刑に処している…」等を伝え、彼らとは違うことを分かってもらうためであった。「…老中は一両日中に出発許可を得られるのではないかと語った」とも記す。

 13日の日記は、「皇帝は今朝、一万人の軍勢を伴い鷹狩りに出かけた」と驚きを記す。17日、仁右衛門(江戸商人)をお礼の夕食に招き、宴席に歌舞伎の一座を呼んだ。出発許可を得るため、毎日、アダムズを派遣するが、「…明日まで待て…」の返事がつづく。

 19日、向井忠勝(御船手奉行)へ数種の羅紗(毛織物)とガラスの姿見を届け、アダムズも彼に金を施したシャム産の皮革3枚と虎の毛皮1枚を贈る。話題が東南アジアのスペイン人に移ったので、イギリスとオランダは幕府の水軍を支援する用意があると伝えた。

 忠勝は将軍秀忠の信頼が厚く、船の移動では必ず随行させた。また造船技術は父親譲りで、のちに御座船「安宅丸」を建造している。向井正綱・忠勝父子は家康が国際貿易港として開港した浦賀湊におけるスペイン貿易に携わり、浦賀貿易を統括、浦賀を出航するスペイン商船の渡海朱印状を仲介していた。

 20日、やはり出発許可は得られない。忠勝の仲介で三雲屋との勘定に決着がつき、残額としてコバン25枚をイートンが受領した。つづけて一行内部のゴタゴタを記す。ジョン・ホーテリーが「娼婦にやるために更紗2反、木綿の顔拭きタオル2枚に手帳1組を盗み出し…こやつは人も知る飲んだくれで酒乱の喧嘩沙汰、経費の無駄使いも後を絶たない…」、と。

 23日、皇帝から拝領物が届いた。コックスに時服(時候に応じて着る衣服)10着、武具(甲冑)1領、イートンとウィルソンに時服各2着。

 また「皇帝から特許状を受けとった」と記す。これで平戸へ戻ることができる。ところが「自伊祇利須到日本商船、於平戸可売買、他所不許之」(イギリスから日本に来る商船は平戸においてのみ売買ができ、他の所では売買は許されない)とあり、旧来の特許状とは正反対の内容である。しかしコックスはそれに気づいていない。

 24日、長谷川藤継に暇乞の贈物として羅紗、ロシア産獣皮、硝子の姿見等を届けさせる。向井忠勝、安藤重信、酒井忠世たちから贈物が次々と届いた。明日の出発に備えて荷造りを進める。

 26日、朝10時にOrengava(浦賀、現神奈川県横須賀市)へ向けて出発、日没の2時間前にアダムズの領地のあるPhebe(逸見、へみ)に到着、アダムズの妻と二人の息子が出迎えてくれ、一泊。28日、船で三浦半島を南下して先端の三崎へ老提督の向井正綱(元御船手奉行)を訪ね、羅紗等の布、硝子の姿見を贈り、脇差を貰う。また息子の忠勝の新築邸宅を訪れ、「この人は日本で最良の友人の一人」と記す。29日、船で浦賀に戻る。

 30日、アダムズや彼の妻等への贈物を詳細に書き留める。晩方、急使が平戸のウィッカムからの手紙を届けに来た。「…ミアコ、大坂、堺では日本人は外国人からいかなる商品も買ってはならぬとの布告が出された」とあり、「…できればコックスに江戸へ戻って布告の撤回を願い出てもらいたい。…」とある。

 ここでコックスは、23日に受取った特許状の意味を初めて理解した。そこで一行の半数(ウィルソン、ホーテリー等)をミアコ(京都)へ送り出し、コックスはアダムズ、イートンとともに江戸へ引き返し、布告の撤回に動く。(続く)

コックス商館長が将軍秀忠に拝謁

 本ブログの8月21日号に「400年前の英語」、10月4日号に「平戸イギリス商館」、12月5日号に「平戸のにぎわい」と3本の論考を載せた。いずれも平戸のイギリス商館長コックス(Richard Cocks 1566~1624年)の日記“Diary kept by the head of the English Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻刻し、訳文を付した『イギリス商館長日記』(『日本関係海外史料』)所収、以下、「コックス日記」とする)の豊富な史料に魅せられ、400年前の日本社会の一端を描こうと試みたものである。

 コックス日記の史料的特徴を挙げれば、次の点にあろう。(1)日本語の史料では記されることの少ない外国人の視点と体験から描かれた日本社会の諸相、(2)商館長として貿易取引に伴う商品・価格・売れ行き等々の業務記録(日記には概要のみ掲載、帳簿はなし)、(3)1600年に発足したイギリス東インド会社の仕組みと貿易業の現場の状況記録等々である。

 コックス日記を使った先行研究は、参照できた歴史学の分野では、(1)武田万里子「平戸イギリス商館日記」(永積洋子・武田万里子『平戸オランダ商館・イギリス商館日記:碧眼のみた近世の日本と鎖国への道』p245~、そしえて社、1981年)、(2)鍋本由徳「江戸時代初期における領主権力と<長崎奉行>の覚書」(日本大学通信教育部通信教育研究所「研究紀要」2015年)、(3)小林章夫「平戸イギリス商館の木綿販売」(『はた』日本織物文化研究会誌 19号 2012年)、(4)榎本宗次「近世初期銀貨考」(『史料館研究紀要』5、1972年)。

 歴史学以外では、(5)ろじゃめいちん『江戸時代を見た英国人』(PHP研究所 1984年)、(7)演劇史の分野からトマス・ライムス(Thomas Leims)「リチャード・コックスの日記-成立初期の歌舞伎研究におけるコックス日記の意義について」(早稲田大学演劇学会『演劇学』31号、1990年)がある。シェイクスピアと同時代の「コックス日記」を活用した英語史の研究は見つからなかった。

 コックスに関する同時代人の評価はどうか。上掲(1)武田によれば、サー・トーマス・ウィルソン(大蔵大臣ソルスベリー伯の秘書官)は「…学問があるわけではないが誠実で、年がいっており、判断力もある…」とし、これを受けて武田は「…商人としてきわめて敏腕とはいえないが、正直で公私をわきまえ、日本では人望があった…」と言う。
ついで直接の上司にあたるジャワ島バンタムの支店長ボールは、きわめて否定的に、「…情熱においてはきわめて激しいが、理性においては見るかげもない。…総合的な判断力や見通しに欠け、片意地で評価すべきものを評価せず、口先の美辞に惑わされる…」(上掲(1)武田)と厳しいが、関係がよくなかった上司の部下への人事評価であることも考慮すべきであろう。

 現代のイギリス人による評価は、上掲『江戸時代を見た英国人』の第2章「外国人観光客のはしり、コックス商館長」に詳しい。そこにコックスがイギリス出航前の1611年に遺言書を残していたこと、1563年1月10日~15日頃にスタフォード(製靴業で有名)で誕生したことが記されている。さらにコックスが商売には向いておらず、庭仕事(1615年6月9日の日記にサツマイモを栽培した記事あり)、金魚の飼育、観光に熱心であり、また11年間の任期を終えて帰国する彼への日本人による送別の宴に触れ、親善大使の役割は十分に果たしたと述べる。なおコックスの蔵書家・読書家の一面は特筆すべきであろう。

 今回はコックス日記をもとに、彼の第1回江戸参府(1616年と翌1617年の2回あり)を見ることにしたい。アダムズが同行したこの参府は、1616年7月30日から12月3日まで。船で平戸を発ち、下関から瀬戸内海に入り、5日目に砂州(大坂港外)着、その後は陸路を行く。10日、献上品や商品等を2隻の舟で堺から伏見へ運び、運搬費を節約した。

 12日、伏見で10人ほどの罪人の晒し首を目にし、「このような厳しい処罰がなければ、彼らのなかで(私たちは)生きていけない」(以下、引用は拙訳による)と記す。高価な物品を運ぶ旅でも、盗難に遭ったという記述はない。

 さらに東海道を進み、8月19日に浜松、24日に箱根を越えて小田原、26日に戸塚、そのつどの宿代の支払いや関係者への贈答品を記す。27日午後に江戸着、平戸を出て28日目である。この日はアダムズの家に泊まるが、江戸の定宿の三雲屋はイギリス商館の代理人も兼ねている。30日、激しい地震に恐怖を覚える。

 9月1日、「…皇帝ションゴ(将軍)様へ献上品を納め、快く受け取ってもらった。この件ではコジスキン(本多正純、年寄=老中)殿とションガ(向井忠勝、御船手奉行)殿の助けを得た」。長く待たされた後に登城。「城はすこぶる強固で、二重の堀で囲み、石垣を回らし、…皇帝(将軍)の宮殿は巨大な造りで、どの部屋の天井も壁面も金箔で覆われ、あるいは獅子・虎・豹・鷺等の鳥獣の絵が描かれ……絵の方が金箔より素晴らしい」。

 いよいよコックスとイートン、ウィルソンが皇帝(徳川秀忠、家康の三男)に拝謁する。「…皇帝ションゴ(将軍)様は、ひとり一段高い所に座り、目にも鮮やかな青色の絹の衣を羽織り、仕立屋がするように畳の上に足を組み、…誰もこの部屋に入ることは許されなかった。彼は二度ほど私に入るよう招いたが私は固辞した。これは良いことだったと後で評価された。束の間のお目見えだったが、会う時も別れる時も彼は頭を下げた。」

 ついで拝領品の一覧を記す。各種の羅紗(毛織物)、ロシア産の獣皮、硝子の姿見、珊瑚樹、琥珀玉、兎皮、鋼鉄棒、鷹狩用具、薬壺、水差、湯呑、牛乳酒鍋、金箔を貼ったインド産の獣皮、錫の棒、鉛80貫(重いため証書のみ)。

 「仲介の労を取ってくれた本多正純殿と向井忠勝殿を訪れて礼を言うはずのところ、通詞のゴレザノ(五郎左衛門)が訪ねもせずに、もう登城されたと私に嘘の報告をしたせいで、贈物は宿舎に持ち帰ることとなった」。

 翌日、「本多正純殿、土井利勝殿(老中)、酒井忠世殿(雅楽頭)という皇帝に次ぐ重要人物3人」に同じ物を贈る。すなわち種々の羅紗、硝子の姿見、黒い兎皮、薬壺等。さらに平戸の王の弟(松浦信清)を訪ね、羅紗、サラサ(更紗、捺染した綿布)、硝子の姿見、手帳等を贈った。

 贈物はいずれも軽量、希少、高価の特性を持つ貴重品であり、運搬にも適している。「贈物の交換」は古くから「信頼の交換」を意味した。信頼により次に何を得るか。半年ほど前の1616年4月に家康が逝去、二代将軍秀忠の進めるキリシタン禁制とイギリス・オランダ両商館への貿易制限の下、コックスは家康時代の特権の復活を請願しつづけるが、思うようにはならない。(続く)

平戸のにぎわい

 本ブログ「平戸イギリス商館」(10月4日掲載)で取り上げた400年前の英語で語られるコックス商館長日記、その内容をもう少し見ていきたい。
 日記の始まりから約3か月後の1615年8月29日夜半、イギリス船が沖合の五嶋から20リーグ(約20里=80km)のところに来ており、日本人が平戸まで案内するとの情報に、コックスはすぐ商館員イートン(W.Eaton)とチャイナ・キャプテン李旦を船に送り、葡萄酒2樽、パン50塊、豚2頭、牝鶏12羽、家鴨2羽、西瓜10個、梨1籠を届けさせた、と記す。豚は商館が特注生産していたのか、あるいは普通に飼育されていたものか。

 翌日、通訳を派遣、平戸の日本側関係者へも久しぶりのイギリス船来航を伝える。母国からの船に興奮さめやらぬ様子である。
31日、快晴、終日、激しい北風。イートンからの手紙を持って李旦が小舟で戻ってきた。船名はホジアンダー(Hoziander)号、船長(首席商務員)はコペンダール(Ralph Copendall)とある。

 船長は11通の手紙を運んできた。主なものは、①イギリス東インド会社の本社から一般書簡の写し、②同本社からバンタム在住の商館長Jurden(東インド総督)宛書簡の写し、③1615年4月15日付けバンタム発の商館長Jurdenからコックス宛書簡、④1615年4月10日付けバンタム発のWestbieからコックス宛書簡、…⑧司令官Sarisからの手紙、ソルダニア発、1614年6月1日付け、⑨東インド会社初代総裁Sir Thomas Smithからの手紙、ロンドン発、1613年11月30日付け、…⑪コックスの兄弟Walter Cocksからの手紙、ロンドン発、1614年4月6日付け。
 直近の書簡がバンタム発1615年4月10日と5カ月弱前のもの、ロンドン発の書簡は約1年半から2年近くも前のものである。唯一の通信手段が書簡であった時代であり、書簡には大きな価値があった。内容についての詳細な説明は少ないが、会社からの書簡に「一航海ごとに決算を行う方式から、単一の総合的投機事業会社に吸収された」と記している。

 翌9月1日、長谷川藤継からの手紙に、皇帝(徳川家康)からアダムズ(W.Adams、三浦按針)宛の書簡1通が同封されていた。コックスはアダムズがオランダ側と通じているのではないかとの疑いを隠さない。英蘭の競争が確執・対立へと進みかけていた時期であり、イギリス商館の存亡にかかわりかねない大問題と考えていた。

 3日、朝、快晴、静穏、すぐ激しい風に変わり荷揚げできず。ホジアンダー号の修理に必要な木材の見積もりに大工を寄こすようJn Huntに手紙を書き、豚1頭、牝鶏6羽、パン10塊、梨、大根、胡瓜を添えた。またホジアンダー号の来航を知らせてくれた五嶋の代官に、インド綿布の白バフタ布1反、黒く染めたバフタ布1反、ダッティー布1反等を贈った。また13日には平戸の王(領主の松浦隆信)への贈物としてバフタ布、ゼラ布、バイラム布、アマド布等と記載し、その実費が523匁であるとも記す。

 武田万里子「平戸イギリス商館日記」(永積洋子・武田万里子『平戸オランダ商館・イギリス商館日記』所収、そしえて社、1981年)によれば、当時のイギリス商館は中国産の生糸・絹織物・皮革類やイギリス産のブロードクロス(厚手の毛織物)を京都や大坂を中心に売っていたという。インド綿布は平戸周辺で売っていたが、主に貴重な贈答用であった。ちょうど国産綿布が全国展開する時期に当たり、最先端を行くインド綿布はその見本にもなった。

 4日、快晴、静穏。9時頃、ホジアンダー号が小舟に曳航されて平戸の避難港に投錨、祝砲(空砲)2発を打つ。オランダ商館から2発、大型船から3発を打ち答礼した。当時の商船はみな大砲を装備しており、祝砲を打ち合う慣習があった。船長コペンダールがすぐにミヤコ(京都)へ向かう予定のため、オランダ商館から送別の祝砲3発も加えられた。
 ホジアンダー号と贈物の交換がつづく。食糧は贈ったとあるが、後で支払請求をしたのかもしれない。贈物は各種のインド綿布が多く、種類も多様で、アマド(インド西部のアーメダバード)産の更紗という記載もある。

 7日、平戸の王(松浦隆信)が帰港。オランダ商館から3発の小型砲、大型船から大砲20発、小型船から6発の祝砲を打ち、…我らがイギリスのホジアンダー号も11発の大砲を打ったと記す。イギリス商館からの祝砲はなく、艦船からの祝砲数の多寡から見ても、オランダ商館の方が優位にあった。

 1608年創設の平戸オランダ商館に5年遅れで創設された平戸イギリス商館、建物や人員、貿易扱い量等でもオランダ商館が名実ともに強大であった。しかしオランダ商館長日記が第7代クーケバックルの1633年から始まるのに対し、コックス日記は1615年からと18年も先行、史料的価値も高い。
 日記の執筆は、業務上の差というより、商館長の関心のあり方、記録することをどう考えるかの差ではないか。

 10日(欄外に日曜日とあり、曜日の記載は初めて)、コペンダールが銀製スプーン2個、銀製フォーク2個、銀製の塩入れ1個等を贈物として携行することとしたとある。これは徳川家康への献上品であろうか。
 また、アダムズが来たが「彼の書記(のち甚五郎としてたびたび出てくる)は信用のおけない悪漢…、このことは彼(アダムズ)には言わずにおこう、言おうものならあらゆる運命が火中に置かれることとなる…」と微妙な言い回しで、胸中を吐露している。
 ホジアンダー号に売った物として、胡椒のほか船の修理に使う厚さ1インチの板600枚(1枚あたり3匁6分)、厚さ2インチの板100枚(同6匁6分)、厚さ3インチと4インチの板各5枚(同17匁)等(合計約3000匁)と記す。

 11日、いよいよホジアンダー号が、アダムズや商館のイートン達を乗せてミヤコ(京都)へ向けて出航、11発の祝砲を打つ。約80日間の旅で、駿府の家康を表敬し、江戸にも向かう。

 ほどなくコペンダールから書簡が届き、アダムズは先に行ってしまい、自分たちのバルク船はひどく傷んでいるとある。コックスはすぐに配船を決め、パン40個等のほか、旅路の慰みにと、自分の蔵書から『トルコ史』を入れたと記す。当時、オスマン(トルコ)帝国は西アジアから地中海沿岸一帯の覇権を握る「超大国」であり、西欧諸国が東アジアに至るには、遠回りしてアフリカ南端を経由する以外に方法はなかった。書名からコックスの見識と関心が窺える。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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