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初代台湾巡撫・劉銘伝について

 劉銘伝(りゅう めいでん、1836年9月7日 - 1896年1月12日)は中国清末の軍人・政治家で、安徽省合肥西郷出身。内紛のため官を退いていたが、1884(光緒10=明治17)年、ベトナムの権益を巡り清仏戦争が勃発すると、再度任用されて台湾へ向かい、フランス軍の台湾上陸作戦を幾度となく阻止、滬尾(こび)の戦いで最終的にフランス軍を退けた。

 翌1885年、清仏戦争終結。中国南東部沿海地域における台湾の戦略的重要性と台湾統治の強化を痛感した清朝政府は、1885年10月、台湾を福建省より分離・独立させて台湾省を設置、劉を初代台湾巡撫(じゅんぶ)に任命した。元の福建省は新たに置いた閔浙総督(びんせつそうとく)が所管。

 巡撫とは、明の制度を踏襲した清代における省の長官である。総督(複数の省を管轄)とほぼ同格として皇帝に直属した。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有する。

 なお、同時期に広東省欽州出身の劉永福(1837~1917年)という軍人がいる。太平天国の敗退後、清朝政府に追われてトンキン(インドシナ半島)に逃れ、1867年、黒旗軍を組織、1873年以降、フランスのトンキン進出に対抗、その10年後の清仏戦争でも活躍するが、劉銘伝とは接点がない。

 劉銘伝について、原田繁さんからメールの取材要請が来た。「現在、中国安徽テレビ局が特別番組を制作しています。安徽省合肥西郷出身の劉銘伝という清末の軍人の特集です。先方は日本の専門家を取材したい意向があり、弊社社長の呉暁楽が安徽の出身なので、協力依頼を受けました」と。

 呉さんは、『人民日報日本月刊』誌(日本語の月刊誌)・新華僑新報紙(中国語の新聞)の編集長を務める蒋豊さんのビジネスパートナーである。蒋さんは中国を代表する知日派ジャーナリストで、1989年、横浜市立大学の私のもとで研究生となり、拙著の中国語訳を4冊刊行、その後、九州大学大学院で学んだ。永らく連絡の取れない歳月がつづいたが、ある日、都留文科大学を訪ねてきた。本ブログのリンク「(都留文科大学)学長ブログ」の077「20年ぶりの再会」(2013年1月31日掲載)に、その記述がある。

 原田さんは、同社の副編集長兼副社長である。できる限りのことをしたいと考えた。取材項目は次の3点である。
1 清仏戦争を当時の日本はどうみていたか。
2 劉銘伝の軍事的才能をどう評価しますか。
3 劉銘伝の台湾の近代化建設に対する貢献をどうみていますか。

 まず私は34年前に刊行した著書『東アジアの近代』(『ビジュアル版世界の歴史』17巻 講談社 1985年)と同書の蒋豊訳『東亜近代史』(東方出版社、2015年)を読み返した。20余年ぶりであろうか。その第4章「戦争と革命」の「4 清仏戦争と日本の朝鮮進出」のなかに「清朝のベトナム喪失」と「二つのヒント」の2節を設けて叙述している。

 「清朝のベトナム喪失」で述べたのは、インドシナの保護化・植民地化を進めるフランスと、ベトナムへの伝統的宋主権を主張する清朝との対立が清仏戦争(1884~85年)に発展、清朝が敗北して宋主権を失った経緯である。

 また「二つのヒント」では、明治政府の対応を中心に述べている。1884(明治17)年といえば、日本では自由民権運動の退潮期で、国権主義、対外膨張主義が強くなり、台湾等を射程に南へ進むべしと主張する<南進論>と、朝鮮から中国北部へ進めとする<北進論>の対立が明らかになる。明治政府が得た二つのヒントとは、第1がフランスをまねて、清朝の朝鮮に対する伝統的宋主権を奪い、日本の朝鮮に対する権益を主張すること、第2が清朝の敗北が福建海軍の敗北にありと見て、日本海軍の強化を図ることであった。

 これら2点は安徽テレビの質問項目には入っていないが、質問1「清仏戦争を当時の日本はどうみていたか」に答えるには、一定の回答になろう。しかし、これだけでは不十分である。そこで下記5点を見つけ、目を通した。

(1)坂本金次郎『絵本清仏戦争記』 明治17(1884)年  48ページ
(2)加藤寿編『清仏戦争記』 明治17(1884)年  30ページ
(3)小澤豁郎『清仏戦争見聞録』 明治24(1891)年  33ページ
(4)仁礼敬之『清仏海戦日記』 春陽堂 明治27(1894)年  92ページ
(5)伊能嘉矩編『台湾巡撫トシテノ劉銘傳』 新高堂 明治38(1905)年 131ページ
ほかに曽根俊虎『法越康交兵記』、引田利章『仏安関係始末』、三代目歌川国貞作の錦絵「清仏戦争図」等あり。また豊富な挿絵類を含む雑誌として『風俗画報』東陽堂(1889(明治22)年~1916年)と『太陽』博文館(1895年1月~1928年)が有名であるが、いずれも清仏戦争時には未刊である。

 刊行年から分かる通り、(1)と(2)は清仏戦争直後の刊行。うち(1)は48ページにわたる絵入り本である。最初にフランス大統領シュールグレビと清国西太后の肖像を掲げ、ついで上空から見た地図に「台湾と福建が海峡を挟み、わずか40里…」、また「…仏兵はまず此島を奪い、清国を伐たんと謀り…」等と要点を正確に押さえた筆致である。最後は台湾から撤退するフランス軍の記述で終わる。そのまま設問2の回答にもなろう。

 なぜ正確な情報が入手できたのか。主な情報源は(3)の筆者・小澤豁郎であろう。彼は陸軍工兵中尉で1884年に福州へ派遣(『対支回顧録』1936年下巻310ページ~)され、清仏戦争中、福州に滞在して、かなり精度の高い情報を得ていた。なお(4)の筆者・仁礼敬之は、小沢の偽名とも言われる。

 そして(5)伊能嘉矩編『台湾巡撫トシテノ劉銘傳』(新高堂 明治38(1905)年)は、設問3「劉銘伝の台湾の近代化建設に対する貢献をどうみていますか」に答える格好の書である。以下、その概要を記す。

 編著者の伊能嘉矩(いのう かのり、1867年6月11日(慶応3年5月9日)~1925(大正14)年9月30日)は、岩手県遠野の生まれの人類学者・民俗学者。台湾原住民の研究で多くの業績を残した。祖父から漢学・国学・国史などを学び、1885(明治18)年、上京して斯文黌に学ぶ。自由民権運動に参加、岩手県に戻り、岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ放校処分を受ける。その後、再び上京、新聞社・出版社勤務を経て、1893(明治26)年、東京帝国大学で坪井正五郎から人類学を学び、同門の鳥居龍蔵とともに週一回の人類学講習会を開催した。

 1895(明治28)年、日清戦争で日本に割譲された台湾に渡り、台湾総督府雇員として、全土にわたる人類学調査を行い、『台湾蕃人事情』(粟野伝之丞と共著)を刊行。1906(明治39)年、帰国。その後は郷里遠野を中心とした歴史・民俗・方言の調査・研究を行い、『岩手県史』『遠野夜話』等を刊行、遠野民俗学の先駆者と言われる。柳田國男と交流を持ち、『遠野物語』に影響を与え、柳田は伊能の遺稿『台湾文化志』(1928年)を刊行した。

 伊能嘉矩編『台湾巡撫トシテノ劉銘傳』の刊行年は1905(明治38)年。序文には「明治三十八年紀元節の日臺北客寓に於て 梅陰生識」とある。約10年にわたる台湾での調査研究の合間にまとめたことが分かる。全12章。第一章では、清仏戦争後に清朝政府が官制を改め、福建巡撫の所管を二分して台湾巡撫を設けた経過を述べる。

 第四章「交通機関の拡進」では、第1節「鉄道」、第2節「内外航通」、第3節「築港」、第4節「道路」、第5節「郵便及電信」等のインフラ整備に関する劉銘伝の功績を述べる。その第1節「鉄道」の冒頭で、「電信と鉄道とは、近き過去に於ける、物質文明を代表する二大動力たり、而して清国に於て、此動力を国家の経営に利用せし主導者は、電信に在りては李鴻章とし、鉄道に在りては、劉銘傳とす。…」と、劉を高く評価している。

 つづけて「劉銘傳は光緒6(1981)年の上奏において、<自強>(近代化を主張する洋務官僚のスローガン)のために中国大陸に南路と北路の2本の鉄道を開設すべしと提案し、ついで台湾巡撫に着任するやすぐ、光緒12(1886)年の上疏で台湾西部平原を南北に走る鉄道敷設を提案した。…」と記す。

 6年間の在任中、劉は他にも各種防衛設備を整備、軍備再編、台湾初の鉄道建設、台湾・福建間の電信ケーブル敷設、電報局、煤務局、鉄路局等のインフラ管理機構の整備等、後の台湾発展の基礎を築いた。一方、改革による財政負担増、汚職の蔓延が民衆の反発を呼び、1889(光緒15)年には彰化で施九緞の叛乱が起きている。1891(光緒17)年に退任して帰郷、1896(光緒22)年、病没。享年60。

 最終の第12章「余評」では「…(劉は)世界文明の模範を、此孤島(台湾)のなかに集めんと企てた。…」と述べ、ついで某氏の手記を引き、「…性行活発、痩せ形にして、普通清国官吏の肥満なるに似ず、眼光人を射るの趣ありて、目睫の周囲に黒色を帯び、頗る熱心家の相を有せり」と結ぶ。
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FМ戸塚の対談余録

 横浜にあるFМ戸塚の番組「第24回シビックプライド・ダイアローグ」で「都市横浜の誕生」をめぐる対談をした。3月25日の放送後にアーカイブに入ったので、本ブログ右欄にあるリンクに付した。ここをクリックすれば音声が流れてくる。ただし間に3曲入る私推奨の音楽は、放送日だけ聞くことができたが、アーカイブ版では著作権の関係から削除している。
 
 収録にいたるまでパーソナリティの大滝正雄さんと事前の打ち合わせをメールで行い、一度だけ東京駅で待ち合わせ、昼食を共にしたあと、私の好きな散策コースの一つ、皇居東御苑(旧江戸城)に案内した。これを大滝さんが写真入りで「シビックプライド・ダイアローグ」専用のブログに掲載したと教えてくれた。

 ついで同欄に<シビックプライド・ダイアローグ余話>を掲載、次のように述べている。「<令和>という新元号が、国民に好感を持って受け入れられている事が、世論調査にも表れています。典拠が万葉集であったことがその一因かもしれません。本屋さんでは万葉集関連本が売れ、古典への関心もこの機会に高まる事は良いことです。
<月一古典>を以前紹介しました。加藤祐三先生がご自身のブログ、ポータルサイトに記している言葉です。「せめて月に一度は古典に触れたい」と、横浜市立大学の学長をされていた時、入卒式で学生たちに述べた「三訓」の一つ。あと二つは「足腰使え」と「世界を見すえ持ち場で動かむ」です。先生の古典の定義は、「長い歳月を経て現在に生き、深く心を動かすもの」。芸術や文学だけでなく日本の自然そのものも古典、という先生のお考えは、「令和」に通じると直感しました。英文表記が Beautiful harmony なら尚更です。」

 放送後、いくつかコメントいただいた。その一部を掲載したい。

 まずは茨城県に庵を構える尼僧の佐藤昭子さんから。2018年4月24日掲載の本ブログ「佐藤行通ジー逝去」以来の便りである。「桜開花宣言が聞かれる時期になり、鶯の初音も日増しに力強く上手になってきました。行通上人も早いもので1周忌がすぎました。ボンヤリ過しておりましたところに、お知らせを頂きました。ようやく放送局を探し当てて聞かせて頂きました。先生のお話を聞いていると、映画の画面で見ているような臨場感があり 、ラジオでのお話しということを一瞬忘れるおもいでした。…」

 次はテニス仲間の一人、読書家で文筆家の三輪美子さんの一文である。「歴史学者加藤先生のお話を今、お聞きし、司会者の言われるように、胸がすく思いでした。皆様も是非、お聞きになることをお勧めします。船戸与一の「蝦夷地別件」を読み終えたばかりで、加藤先生のお話をお聞きしたので、とても色々なことが分かりました。当時、危ない中で日本が植民地にならずに済んだのは幕府の中に有能な人がいたため、条約ゲームに勝つことができた。いかに戦を避けるかや、交渉条約、アヘン。私の読んだ本の北海道とアイヌとも、この交渉条約のような気持ちで、幕府は話し合い上手くいき、大きな戦を避け北海道も日本になったに違いない。ということが、加藤先生の横浜のなりたちのお話から理解できました…。」

 そして畏友・近藤倫明さん(北九州市立大学前学長、心理学)から。学際研究等についても切込みが鋭い。「…拝聴しました。江戸の先人の生きる力を今更ながらに感心しながら先生の語りを心地よく聴くことができました。それにつけても今日の政治、外交の体たらくを思わずにはおれません。また、原三渓のご縁を理解しました。ストーリーのある3曲も加藤先生らしさを感じることができました。日米和親条約について学問の専門領域、ディシプリンの違いが事実認識・解釈に及ぼす影響についてのご指摘は大変重要な研究者への戒めとして受け取りました。心理学でも、要素主義の分析と、ゲシュタルト理論ではしばしば理解が異なります。学際研究の意味を肝に銘じることが肝要でしょう。横浜学事始め、シビックプライド醸成に先見の明ありとうなずきました。今更ながら学生気分で、お話し楽しくまた様々に想像を掻き立てられる時間を持てました。無料講義いたみいります。…」

 近藤さんは、本ブログ2016年10月13日掲載の「江戸散策」に登場する。彼が学長に就任したのは2011年、その6年間後の任期満了時には定年前であったため、残る期間を新たな挑戦に尽くすとしていた。そこに今年度早々、「江戸散策の折、お話した北九大社会人大学(i-Design コミュニティカレッジ)のスタートです。30代から70代までのカレッジ生60人が入学しました。新たな大学文化へのささやかな挑戦を塾長として関わるつもりです。」と連絡をくれた。

 放送を聴き直して言葉足らずを痛感、伝え切れなかった点を以下に補足したい。

 幕末日本が<避戦論>に徹して戦争を回避し、積極的な話し合いを通じて日米和親条約を結んだ。これを<交渉条約>と呼び、アヘン戦争のような敗戦の結果の<敗戦条約>と区別した。図示すると第1図のようになる。タテ軸は<従属性>とヨコ軸は<対等性>を示す。持続年限を数字で入れたが、②植民地はインド、③敗戦条約は中国、④交渉条約は日本の事例である。

第1図 近代国際政治-4つの政体
第1図近代国際政治-4つの政体

 これを詳しく記したものが第2図「日中の条約比較」である(加藤祐三・川北稔著『アジアと欧米世界』(中央公論新社 1998年、中公文庫 2010年 437ページ)。初出は拙稿「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸条項を中心として」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1982年3月)。

このうち①から④までは、日本開国史研究の石井孝『日本開国史』(吉川弘文館 1972年)に示された論点である。それ以下の⑤~⑪が私の指摘で、従来の研究の視野に入っていなかった論点である。

とくに⑦~⑨、⑪が<交渉条約>と<敗戦条約>の大きな違いを示す。<交渉条約>は、幕府がアヘン戦争(1839~42年)情報を長崎で積極的に収集・分析・政策化し、<避戦>に徹した成果である。

また⑥<アヘン条項>は米英間の条約ゲームの結果としてハリス総領事が主張したものであり、幕府の提案ではない。その交渉過程については、拙稿「横浜の夜明け」(『横濱』誌の10回連載、本ブログのリンクに張った)の第6回と7回を参照されたい。この日米修好通商条約の<アヘン禁輸条項>は、その後もアヘン禍を防ぐ重要な鍵となった。
 
第2図  日中の条約比較
第2図日中の条約比較

共著『アジアと欧米世界』(中公文庫 2010年)より

なお「当時におけるアヘン禁止は世界的傾向」とする見解が日本史学界の一部にあるようなので、グラフ「インド産アヘンの140年」(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』岩波新書 1980年)を再掲する。参照ねがいたい。
 
インド産アヘンの140年


平成最後の年末年始

 この年末年始は、ふだんと少し違う感覚で日々を送った。平成が終わり、一世代=30年と言われる一つの時代が終わる。私にとっても働き盛りの50歳代から「消えゆく老兵」へと移る30年である。身辺の日常茶飯事の大切さにも想いが及ぶ。つれづれなるままに平成最後の年末年始を綴っておきたい。

 平成の30年間は、平成7(1995)年の阪神淡路大震災、平成23(2011)年3月11日の東日本大震災に加え、各地の地震、水害、噴火等々、激甚災害の記憶を拭い去れない時代であった。「行く末」を見つめると同時に、「来し方」の整理もと、従前以上にせわしない。

 この数年、年末の28日に清談会を開いている。今回は第27回目で私が「10年後の歴史学」と題して話題提供した。それを本ブログに掲載したのは、開けて1月7日(月曜)。

 翌29日は横浜市立大学教職員テニス親睦会の打ち納めと忘年会を楽しんだ。現役では50歳代が中心で、私のようなOBも参加、雑談しつつ30年前の自分と重ねあわせ、不思議な気持ちに陥った。このテニス親睦会を立ち上げたのは1980年(昭和55年)ころで平成以前、そろそろ40年になる。

 30日、中学生から「戦争体験の取材」があり、終戦(1945年)前後に記憶を戻した。東京大空襲(3月10日)後、群馬県の寺へ集団疎開(国民学校と呼ばれた小学校3年生で6年生と一緒)、3歳上の6年生には何をしてもかなわず、悔しい思いをした。ホームシック、空腹のあまり田の畔に生えるノビルを食べた口中のヒリヒリ感、8月15日の「玉音放送」にワッと泣き伏した男の先生…。

 秋、無蓋車に乗せられて帰宅、痩せこけた私を見て姉が「ガンジーみたい!」と思わず声をあげた。東京練馬あたりは昭和初期の新興住宅地と竹藪や農地の拡がる農村とが同居していた。食糧難対策に父が農地を借りた。私も農作業を手伝い、山羊や鶏を飼った(小屋も手製)。

 いよいよ平成31(2019)年元日。日の出を拝んでから、勤務先の三溪園で初詣をした。三溪園は暮れの三日間のみが休みで、あとは362日、元日から開園。「三溪園で過ごすお正月―横浜市指定有形文化財 鶴翔閣公開」に職員はシフトを組んで対応する。元日恒例の箏と尺八の演奏(アトリエ筝こだま)、「ちどり」や「春の海」等の聴きなれた曲に時を忘れる。

 穏やかな陽ざしの下、三溪園天満宮に詣でた。近くの高梨家の祖先が本牧の丘の中腹に建てた間門天神を、1977年、園内に移築したもの。振り返れば丘の上に三重塔が聳える。飛騨白川郷から移築した合掌造り、旧東慶寺仏殿等を経由して石段を登り、三重塔に参る。坂を下って海岸門から内苑へ。

 蓮華院わきを通り、2本のイチョウの巨樹に挨拶。前回ブログ「イチョウ巡り」(2018年12月28日掲載)の出発点となった樹である。まだ黄色い葉がわずかに地表に残る。ついで内苑の最高所にある天授院(原家の持仏堂)に参拝。

 職員や来訪の元職員とゆっくり歓談。幸先の良い元日であった。今年から臨春閣(重要文化財)を皮切りに30年に一度の大規模改修工事が始まる。気が抜けない。また三溪記念館は、3つの展示室と収蔵庫、情報案内、望塔亭(呈茶)、土産売り場、応接室と管理事務所を持つセンター施設であるが、平成元年生まれの30歳、経年劣化で水回り等の修理が必要になってきている。

 秋にはラグビー・ワールドカップの決勝戦等が市内で行われるため、選手たちが三溪園で英気を養い、日本文化に触れてもらうための工夫も要る。来夏は2020東京オリンピック・パラリンピック。屋根を葺きなおしたばかりの臨春閣が選手や観客を迎えることになる。

 正月3日は、数人で「若い都市横浜」の歴史散歩を試みた。案内人は私。谷戸橋で堀川を渡り山手の丘を登り、外国人墓地を経て元町を抜け、中華街の馴染みの店でテーブルを囲む。その後、関帝廟に詣で、ホテル、ニューグランド旧館から山下公園に出て、氷川丸を見た。

 山下公園は1935年に開園した全国初の臨海公園で、関東大震災(1923年)で廃墟と化した市街地の瓦礫を埋め立てて造った。それまでは開港(1859年)以来、幕府が整地して番号を振り外国人に賃貸、外国商館が並んでいた。

 中華街は、「中華街ガイドマップ」(無料)では整然とした碁盤目に描かれているが、いざJRの関内駅や石川町駅へ出ようとすると方向感覚を失う。ここは田んぼの高低(水の流れ)にそって整地され、海岸線に対して45度ほど斜めの街区だからである。

 ついで日米和親条約交渉(1854年)の応接所が設けられた大桟橋の付け根、開港広場、開港資料館から日本大通りを挟んで神奈川県庁にまたがる一帯を確認した。老中首座・阿部正弘が見事な外交で「避戦策」に徹し、近代日本への扉を開いた記念すべき場所である。

 日本大通りの右手、本町1丁目に開港記念会館の塔が見える。ここから西の本町6丁目へかけて、開港以来、日本人商人(売込商、引取商)の店が並ぶ<日本人町>が五筋造られた。この<日本人町>と外国人居留地を内外の商人が行き来して商取引をする、日本独特の<居留地貿易>が展開された。

 掘割で外部と遮断して作られた横浜居留地、要所に関所を設けて警備したため、関所の内側(海側)という意味で<関内>(かんない)と呼んだ。関内一帯が横浜開港以来の旧都心で、今年160周年を迎える。

 ついで<開港の道>と名づけた高架の散歩道に戻り、<象の鼻公園>から<赤レンガ倉庫>まで歩く。この新港埠頭一帯は、1909年の横浜開港50周年を機に造成された旧都心の第二世代である。

 さらに進んでパシフィコ、クイーンズ、ランドマークタワー、JR桜木町とつづく高層ビル一帯に至るが、ここは1989(平成元)年の<横浜博覧会>(市政100周年、開港130周年を記念する行事)後に生まれた新都心<みなとみらい地区>である。ここも誕生から30年になる。

 旧都心と新都心の交わるあたり、北仲通南地区、大岡川下流に架かる弁天橋からも近い中区本町6丁目に横浜の新市庁舎(31階建て)が2020年に完成する。明治22(1889)年の市政公布時から数えて8代目の建物。最寄り駅はみなとみらい線の馬車道駅とJR・市営地下鉄の桜木町駅。桜木町駅は横浜=新橋間の日本最初の鉄道(明治5、1872年)の初代横浜駅である。

 開港から急成長して160年、いま横浜は人口373万人の日本最大の政令市となった。他の都市と比べて、横浜はとても若い。それを示すために私がよく使う比喩が「都市年齢」である。平安京の成立が約1200年前、これを人間の80歳とすれば、鎌倉が53歳、東京が29歳、そして横浜はわずか10歳である。

 4日(金曜)、証券取引所の大発会。株価が急落し、金融市場は円高・ドル安に振れ、波乱の幕開けとなった。

 夜は、偶然見つけた「神々の木に会う~にっぽん巨樹の旅」(BSプレミアム)を観た。書いたばかりの「イチョウ巡り」(本ブログ2018年12月28日掲載)を補う番組で、そのタイミングに驚く。

 山梨県北杜市の桜(エドヒカン、樹齢2000年)に始まり、クス、日本一高齢のイチョウ(青森県深浦町「北金ヶ沢のイチョウ」)、縄文スギ(樹齢2000年超)、さらにカツラ、スダジイ等が映し出された。

 青森のイチョウは樹高31メートル、幹周22メートル、樹齢1000年超、国の天然記念物である。すぐ傍に住み、これを見守ってきた人が、30年ほど前に樹のすぐ横にアスファルト道路ができて以来、「イチョウの葉が小さく少なくなった、人間にとって良い環境は木にとっては大変な変化…本当に申し訳ない」と語る。

 6日(日曜)、麻布山善福寺(港区元麻布)を訪れた。日米修好通商条約に基づき安政5年(1859年)、当寺がハリス一行の宿舎となり、その一室は初代アメリカ合衆国公使館として使われたこと、また1861年にハリスの通訳ヒュースケンが襲撃され、ここに運ばれて死去したことから、現場を確かめるため、以前、来たことがある。

 門をくぐると、目視で1尋半ほどのイチョウの樹下にハリスを記念する石碑がある。そして墓地には親鸞像の近くに「逆さイチョウ」(「杖イチョウ」)と呼ばれる巨樹(雄)。
昭和20年(1945年)5月29日の空襲で被災、背丈は低くなったものの、都内最大で、国の天然記念物に指定されている。推定樹齢750年。根を広く張り、コブのような凹凸を持つ巨大な幹。孤高、圧倒的な存在感。

 そして7日(月曜)、この日までが松の内(松飾りのある期間)。今年は7日を仕事始めとした所が多いと聞く。年賀状を整理。今年で最後にする、と書いてきた方々に思いを馳せる。

 遡れば30年前の今日(昭和64年1月7日)、小渕恵三官房長官(当時)が「平成」と書かれた紙を示し、新元号を発表した(翌8日から平成)。巨樹を見たせいもあろう、30年という歳月が<瞬時>のようにも思える。

10年後の歴史学

 昨年の12月28日、第27回清談会が開かれ、私が「10年後の歴史学」の話題提供をした。この題名の由来は、前々回の会合で永年幹事の小島謙一(以下、敬称略)が提案し、新しい共通テーマを「各専門分野の10年後を予測する」と決めたことにある。

 前々回の第25回清談会では、「隗より始めよ」(戦国策)に則り、まず小島が「自然界の4つの力」について語り、ついで穂坂正彦が「AI(Artificial Intelligence人工知能)と医療、その10年後」について発表(本ブログ2018年1月5日掲載の「清談会の定例会」を参照)、のちの議論はAI(人工知能)の占める役割が中心となった。

 ついで8月9日開催(7月28日開催予定が台風12号襲来で延期)の第26回清談会では、浅島誠が「自然を知り、生き物に学び、ヒトの立ち位置を考える」を報告、その概要は本ブログの2018年8月17日「生命科学の行方」に掲載した。もともと私の「10年後の歴史学」と二本立ての予定だったが、浅島報告だけで時間切れとなり、半年後に延期されていた。

 なお聞き慣れない「清談会」の発足以来の経緯やメンバーの名前と専門等については以前に書いた。横浜市立大学で同じ釜の飯を食った教員たちで、現メンバーは年齢順に穂坂正彦(医学)、私(歴史学)、丸山英気(法学)、小島謙一(理学、物理学)、山本勇夫(医学)、浅島誠(理学、発生学)の6名。
 
 今回の報告「10年後の歴史学」は、前回からの議論の延長では「歴史学とAI」となろう。多くの人は「歴史学とAIは縁遠く」、それは10年後も変わらないが、「無縁」ではない、と感じているのではないか。配布したレジメを以下に再掲する。

(1)歴史学と他の学問分野との比較
ア)史観・方法(「比較と関係」)・実証(最適史料)・叙述・推敲の5段階
 ⇒ブログ連載「我が歴史研究の歩み」⇒#1【1】連載「新たな回顧」
イ) 哲・史・文≒真・善・美
ウ)過去の経験≠未来の可能性&蓋然性⇒#2【35】幕末期のアヘン問題」
エ)自然科学の反復可能性vs歴史の一回性&個別具体性
 AIの特性は、膨大な数量化されたデータ蓄積(ゲノム、投資信託等を基に特定の指令に短時間で回答を割り出すこと。歴史史料は数量化に馴染まず、かつ応用価値がないため、AIの出動機会はない?
オ)個別具体性と普遍妥当性

(2)歴史学にとっての記録(文字史料、図像、映像、録音等)の重要性
ア)歴史学は記録(史料)の最大の消費者
イ)史料集(翻刻+索引等)刊行の有難さ⇒公文書館でデジタル化展開
事例a)東京帝国大学文科大学史料編纂掛編纂『大日本古文書 幕末外交関係文書』 明治43(1910)年~刊行
事例b) イギリス議会文書とアメリカ議会文書⇒いずれも一年約100冊
事例c)イギリス平戸商館長リチャード・コックス(Richard Cocks 1566~1624年)の日記“Diary kept by the head of the English   Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻字・邦訳。
ウ)歴史家の記録(史料生産)の意義⇒#3「市大創立90周年記念式典」

(3)30年(一世代=平成の30年)の回顧と10年後の歴史学
ア)民主主義の変貌と経済変動⇒これ自体が同時代史の対象
イ)大学教育(の劣化)⇒批判を忌避、テーマを小さく設定する傾向
ウ)歴史書(歴史学の良き成果物)の有用性はいっそう高く評価される?
 ⇒「真の歴史学は古今東西森羅万象を対象とする」

 下線を引いた参考資料3点、すなわち#1【1】連載「新たな回顧」、#2【35】「幕末期のアヘン問題」、#3「市大創立90周年記念式典」は、私の以前のブログから選んだもの。私は都留文科大学学長時代に「(都留文科大学)学長ブログ」(本ブログのリンクからアクセスできる)を東日本大震災の翌日から始め、学長退任後も継続できるよう、「加藤祐三ブログ」として立ち上げてくれたのが情報センターの大輪知穂さんである。

 ブログ画面に大きな文字で「月一古典」(つきいて こてん)とあるのは、私が入学式・卒業式で話す「三訓」(三つの教訓)の第二訓。ちなみに第一訓は「足腰使え(あしこし つかえ)」、第三訓は「世界を見すえ 持ち場で動かむ」である。詳しくは本ブログ「月一古典」(2016年1月17日)参照。

 画面の構成は、左欄が略歴や掲載歴等、中央が本文、右欄がリンクやカテゴリ(5分類)である。本ブログの最初が2014年4月6日掲載の「桜と新緑の競演」で、それから4年10カ月、カテゴリの数字を加算すると185回になる。「(都留文科大学)学長ブログ」から数えて、早や8年になろうとしている。

 #1【1】連載「新たな回顧」は2015年6月30日掲載、私の研究対象を①中国近現代史、②近代アジア史、③日本開国史、④文明史、⑤横浜の歴史、の5種にわけて紹介したもの。分野の異なる方への簡単な自己紹介であるが、同じ歴史学の仲間には、さらに詳細な説明が必要となろう。

 #2【35】「幕末期のアヘン問題」は2018年9月7日掲載、19世紀中葉の国際政治とアヘン問題を示した論考である。拙著『イギリスとアジア』(1980年 岩波新書)のなかでイギリス議会文書所収の貿易統計を駆使し「19世紀アジア三角貿易」(紅茶、アヘン、機械製綿製品の3大商品による中国・イギリス植民地インド・イギリスを結ぶ)を明らかにし、うちグラフ「インド産アヘンの140年 1813~1914年」から19世紀中葉の貿易構造と政治構造の特徴を説明した。

 こうした状況下で日本におけるアヘン問題はどうであったか。最強の鎮痛剤であると同時に麻薬にもなるアヘン(主成分はモルヒネ)の国家的・社会的管理のあり方、さらに開国・開港の条約交渉でアヘン問題をどう処理したか。これが拙著『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店)につがるテーマであり、上掲「③日本開国史」に踏み込んだ最初の著作である。

 幕府は長崎に入るオランダ船と中国船から積極的に情報を蒐集・分析してアヘン戦争(1839~42年)の行方を把握、南京条約締結の一日前に穏健策の「天保薪水令」(1842年8月28日)に切り替えた。

 この情報収集・分析・政策化の流れを継承し、老中首座・阿部正弘はペリー来航に対して「避戦」外交に徹し、平和裏に「交渉条約」を締結した(詳細は拙著『幕末外交と開国』2012年、講談社学術文庫を参照)。

 「交渉条約」には「敗戦条約」と違い、懲罰としての賠償金支払いや領土割譲がない。中国がアヘン戦争に負けて強いられた「敗戦条約」とは対照的である。こうして世界に列強、植民地、「敗戦条約国」、「交渉条約国」からなる「近代国際政治―4つの政体」が成立した。19世紀中葉の、この大転換は、現在に至るまで大きな影響を及ぼしている。

 #3「市大創立90周年記念式典」(正式名は#3「横浜市大大学 創立90周年記念式典」)は2018年11月7日掲載で、市大の近況を伝えたもの(この式典に出席したのは小島と私)。上掲(2)-ウ)「歴史家の記録(史料生産)の意義」の最近の一例である。

 以上が配布したレジメと3通の参考資料の概略説明である。いつもの侃々諤々、熱い言葉が飛び交う展開となった。そのなかから私が答えた3つを挙げたい。

 第一がAIの成長に関すること、上掲レジメ(1)-エ)欄にある「AIの特性は、膨大な数量化されたデータ蓄積…」の「数量化された」について異議が出され、必ずしも数量化されていない膨大なデータを読み解くdeep thinkingが進んでいること、それにより人間がAIを利用する便利な状況から、やがてAIが人間を支配する危機(その想定時期から2040年問題とか2045年問題と呼ばれる)に話が進んだ。

 本ブログで以前に取り上げた藤原洋さん(株式会社ブロードバンドタワー代表取締役会長兼社長CEO)たちの講演「地球環境とサイエンス」(2014年10月1日掲載)や「ありがたき耳学問」(2016年5月24日掲載)を思い出した。AIがさらに進化して人間を支配する事態をなんとか回避できないか。

 第二が、幕末開国の外交について阿部正弘の主導する「避戦策」の意義を述べたのに対し、決定的なのはリーダーの存在ではないかとの意見が出た。確かに、どの時代、どの組織にも、大きな変革を成し遂げるには、リーダーが不可欠である。ただし、人が時代を作るのか、あるいは時代が人を生むのかは、判断が難しい。

 第三が、上述「近代国際政治―4つの政体」(19世紀中葉)の大転換以降の、世界史の大きな流れについてである。そこまでなかなか関心が及びにくい。日本人の歴史好きは「ある一点」に焦点を当てる一方、長い年月の流れのなかに「その一点」を位置づけるのが一般に苦手である。この点について、いずれは私見を述べてみたいと思う。

加藤勝弥めぐり

 日本海を西に見て走る羽越本線の勝木(がつぎ)駅、そこから東へ約4キロ遡ったところに板屋沢という集落がある。新潟県岩船郡山北町板屋沢、いまは村上市板屋沢である。勝木駅は無人駅で、その次の府屋(ふや)には駅長がおり、その次の駅は山形県になる。越後の最北に位置する。

 板屋沢、この名前の由来は定かでないが、板葺きの家屋のある沢とすれば、風景の通りである。この清麗な沢は勝木川という。中学2年のとき、5歳年長の従姉妹、代々子さん(故人)に連れられて初めて訪れ、本家の<山守り>で親戚同様の加藤二蔵さんの巧みなアユ取りを見て感動した。

 勝木駅近くの浜は<碁石>と呼ばれ、白と黒の丸い石はまさに囲碁の石の如し。その暑い夏の日、<碁石>の海の素潜りを教えてもらった。ウニを取り、天草(トコロテンの原料となる海藻)を集めた。素足で岩の上を歩く。足の裏が痛いので、腰を引いて膝を曲げた奇妙な歩き方をした。忘れ得ぬ思い出である。

 こうした経験を夏休みの宿題の作文に書いた。担任は5歳ほどしか離れていない若い国語の山下政太郎先生、いまもお元気である。女子生徒に絶大な人気があり、軟式テニス部の顧問で、部活が楽しみだった。

山下先生がその作文を驚くほど褒めて下さった。何度も読み返し、どこが良いのか分からないものの、褒められたことが嬉しかった。そして先生が褒めてくれたのなら本当かもしれない、と少し自信がつき、文章を書くのが大好きになった。

 この板屋沢が私の祖父、加藤勝弥の生地である。嘉永七年正月五日(1854年2月5日)生まれで大正10(1921)年11月5日に68歳で没した。子宝にめぐまれた勝弥・久子の末っ子が七郎、そのまた末っ子が私である。写真で見る勝弥の顔には、ある種の風格がある。明治の人らしく髭をはやし、和服姿で子どもを膝に抱く姿が多いが、モーニング姿もある。

 勝弥は大庄屋(享保年間に任命)で造り酒屋の長男に生まれた。ペリー率いる黒船艦隊の2度目の来航の年に当たる。生誕の約2か月後、横浜村の応接所で日米和親条約が結ばれた。この日米交渉については拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)を参照されたい。また最近、岡倉天心市民研究会でペリー来航と老中首座、阿部正弘の果たした役割について講演、その概要を本ブログのリンクに「講演録 岡倉天心『日本の覚醒』を読む」として掲載したばかりである。勝弥の誕生日がペリー来航と一致するのは偶然だが、これを期に勝弥が私の中で再浮上した。

 私が板屋沢を初めて訪れたのが67年前の夏であった。そして今年、7月31日から2日間、孫と二人で訪れた。彼は奇しくも中学2年、私の初めての板屋沢と同じ年齢である。高祖父・勝弥は、どのような姿として孫に宿るのか。

 勝弥の一つ目の顔は、明治12年に始まる新潟県会議員に25歳の最年少で当選、その後の自由民権運動の若き闘士、そして新潟県議を8期、明治23年の第1期衆院議員に当選、3期つとめた政治家である。二つ目の顔は新潟の北越学館や東京の明治学院等の教育機関の創設や経営、三つ目が日本キリスト教会の長老としての活躍で、村上教会や東京市ヶ谷教会等に足跡が残る。

 私の勝弥への想いは第一の政治家としての顔にあり、祖父という関係を離れて、歴史家として彼の小伝をまとめたいとの思いはあったが、多忙に紛れ、そのままになっていた。

 羽越本線の府屋駅まで加藤優さんが迎えに来てくれる。優さんは上掲の二蔵さんの長男である。勝木川の清流は往時のままだが、板屋沢は田んぼが工場や駐車場になっており、時代の変化を思い知らされた。

 優さんの案内で山手側をすこし登ると、勝弥の洋風の屋敷があった平地に出る。草木に覆われ、かつての面影はまったくない。集落の墓地のいちばん奥に勝弥・久子の墓がある。

 その後、新潟市へ向かいホテルに一泊、翌朝、観光循環バスに乗り、白山神社前で下車、新潟憲政記念館を訪れた。勝弥の政治活動の場であった新潟県政の議事堂である。

 明治13(1880)年の大火で県庁舎内の議事堂も類焼、3代県令(1875~85年)の永山盛輝(1826~1902年)の発議により3万7000円の巨費を投じて明治16(1883)年に完成した2階建て。左右に透かし彫りの大破風の屋根、中央に八角の塔屋を持つ、堂々とした雄姿である。

 永山は薩摩藩士から明治政府に入り、戊辰戦争からの復興のため士族女子の救済施設「女紅場」の設置や、小学校の就学率の向上に尽力した。設計は、新橋駅舎や大阪駅舎を手がけた、県出身の大工の棟梁で新進建築家の星野総四郎(1845~1915年)である。

 立地場所は、信濃川と2本の堀(現在は暗渠)で三方を囲まれた、火災(類焼)の危険が小さい所が選ばれ、昭和7(1932)年、新設の県庁舎内に議場が移されるまで50年にわたり使われた。戦後の昭和44(1969)年、重要文化財「新潟県議会旧議事堂」に指定され、大規模解体修復工事を経て、昭和50(1975)年から「新潟憲政記念館」として公開されている。

 入口受付で所蔵資料等について尋ね、展示室を回った。一階左手の旧傍聴人室と研修室が現在は展示室で、種々の地図や写真が新潟市と県会議事堂の歴史を伝える。

 副館長の山崎雄さんが議場に案内してくださった。天井が高く、議員定数の54番まで立て札がある議席が長方形に並び、2階は傍聴席で500名ほどが入れる。年に1ヶ月開催される県議会には議員の10倍もの傍聴人が訪れ、ヤジも飛ばす熱気あふれる場であったという。

 今回の勝弥めぐりはここまで。当時の議場の議論や勝弥の演説を再現したいと思うが、十分な史料を得られるかは、これからである。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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