400年前の英語

 2年半ほど前、このブログで「若き学友との対話」(2014年12月23日)を書いた。「ゼミを持たなくなって10余年…この間にデジタル化が一挙に進み、メールという通信手段が発達…、ICTを通じて知り合った若い研究者で、いずれも拙著を読んだのがきっかけと言う知人が増えた。」
 その一人が陳雲蓮さん。知人の知人を介して私のメールアドレスを突き止め、ケンブリッジ大学の図書館で拙著『黒船前後の世界』(岩波書店、1985年)を読み、日本に帰ったら、ぜひお会いしたいと、見事な日本文のメールをくれた。
 彼女は中国の西安外国語大学を卒業後、京都府立大学に留学して博士号を取得。専門は都市史、建築史。その後、名古屋大学で研究、日本学術振興会の若手研究者海外派遣事業で、2年間、ケンブリッジ大学に在籍していた。

 帰国後、神田学士会館で会うと、イギリス・日本・中国の史料館等で収集した史料をもとに、港湾建造と運河・道路の拡張等のインフラ投資を文字史料や地図で解明し、また都市区画の発展とその建築様式を明らかにする等、アヘン戦争から約100年にわたる上海近代史を国際政治とからめて描くという壮大な構想を話してくれた。その成果は近く著書になる。

 昨春、岡山大学の日本人学生と留学生に日本語と英語の授業を担当する専任特任講師となる。今年の6月、「ペリー来航と開国」の講義に学生が強い関心を示したとメールをくれた。東アジア都市史の授業で、「黒船前後の世界」をいかに面白く英語で語るかが一つの挑戦だという。
 そして別件として、ケンブリッジ大学名誉教授のジョン・コーツ(John Coats )先生の来日に合わせ、3人で会いたい、彼から趣味(が高じて著名なコレクター)の有田焼の青花(せいか)の話を聴いてほしい、「…やっとジョン・コーツ先生を加藤先生に紹介できること、とても興奮しています」とあった。

 ジョン・コーツさんの名は聞いた覚えがあるが、記憶が定かでなく、陳さんに問い合わせた。「専門は数学、オーストラリア出身、ケンブリッジ大学で学位取得、ケンブリッジ大学のPure Mathematics教授、現在は名誉教授。…海外に流出した日本の陶磁器等の収集家です。彼が特に気にしているのは、17世紀有田焼の青花の製造と海外販売ルートです。コーツ・コレクションの青花は、17世紀のものが多く、九州焼物博物館の所蔵品よりも古い。青花は有田のどこの窯が生産したのか、どういうディーラー(例えば中国商人)の手により、長崎港から輸出されたのか、謎が多いようです。…しかも、有田焼の青花は一瞬で消え、その後は朱色で絵付けされる柿右衛門がブランドになります。…加藤先生の想像力をお借りして、答えが出るかもしれません。…彼はまたイギリスの東洋学者アーサー・ウェイリー(Arthur Waley)を崇拝し、Everybody needs Mathematics and historyと主張しています」とのこと。

 こうして7月17日(祝日)、神田学士会館で昼食を取りつつ歓談する機会を得た。穏やかな笑顔でイギリスの大学英語(街で耳にする英語とは違う)を話す。懐かしく、40年前の在外研究で招いてくれたリーズ大学、ロンドン大学SOAS校、ケンブリッジ大学ニーダム研究所、また講演に行ったオクスフォード大学セントアントニーズ校等の記憶が蘇る。
 アーサー・ウェイリー(1889~1966年)はコーツさんのケンブリッジ大学の大先輩でもあり、なによりも『万葉集・古今和歌集』の英訳(1919年)、『源氏物語』の英訳(全6巻、1921~33年)、『枕草子』の英訳(1928年)に加え中国古典の『詩経』、『老子』、『西遊記』、『李白』等の英訳で広く知られる。

 コーツさんの青花コレクションの写真と解説を入れたUSBを拝受。彼は青花がどのような経路を経てイギリスに運ばれたかを知りたいと言いつつ、長崎港輸出説を推していた。
私は、青花がイギリスのみに残ることから、平戸に11年間(1613~23年)だけ置かれたイギリス商館から直接イギリスへ送られた可能性もあると考えた。
 謹呈した加藤祐三・川北稔著『アジアと欧米世界』(『世界の歴史』第25巻、中公文庫 2010年)は、過去500年にわたるアジアと欧米の交流史を描いている。その地図や絵図等とコーツさんの愛蔵品をからめた話や、陳さんの近代東アジアの都市化についての話題等で大いに盛り上がった。

 後日、私は東京大学文学部図書室で平戸イギリス商館長リチャード・コックス(Richard Cocks 1566~1624年)の日記“Diary kept by the head of the English Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻刻した『イギリス商館長日記』(『日本関係海外史料』)のうち)という大部な史料(1978~82年刊)を見つけた。
 1613年、イギリス東インド会社がコックスを日本へ派遣、その商館長日記である。英文版は3冊、1冊目は1615(元和元)年6月1日~1617年7月5日、2冊目は1617年7月6日~1619年1月14日、3冊目は1620年12月5日~1622(寛文4)年3月24日。和訳版は2冊で、附録が2冊。手書きの英文は読み難いが、翻刻と注付き和訳のおかげで、400年前の英語を楽しむことができる。
 日記を書いたコックスは、劇作家で初期近代英語の祖とされるシェイクスピア(William Shakespeare, 1564~ 1616年)より2歳若い同時代人である。コックス49歳の日記は次のように始まる。

June 1615, 1. This mornyng littell wind Noerly, fayre wether all day, but a fresh gale most p’rt of day as aboue said, but calme p’r night.
This day 9 carp’ers and 31 labo’rs, 1 matt maker. And we bought 5
greate square postes of the kings mastaer carp’ter: cost 2 mas 6 condrins p’r peece.
1615年6月1日。朝、弱い北風、一日快晴なるも、日中、かなりの強風。夜には鎮まる。
この日、大工9人、人夫31人、畳職人1人。王の大工棟梁から角柱(大)5本を買う。価格は1本あたり二匁六分。(原文は縦書き、一部改訳)

 スペリングが現在と少し違う語彙もあるが、訳文もあり、ほぼ理解できる。単語の簡略表記も法則が分かれば想像がつく。

 取引した商品には、陶磁器もある。読み進めるうちに、青花に出会えるかもしれない。
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20世紀初頭の横浜-(7)岡倉天心『日本の覚醒』

 岡倉天心(覚三)は、1903(明治36)年に『東洋の理想』、04年に『日本の覚醒』、06年に『茶の本』を、つづけて刊行している。3作品とも英文で書かれており、日本に関心があり、英語なら理解できる人々が想定読者に入っていたと思われる。日清戦争(1894~95年)を経て、日露戦争(1904年~05年)前後の国際情勢の変化を踏まえ、日本文化を海外発信しようと書かれた作品である。

 天心の略歴を簡単に見ておこう。1863(文久二)年2月14日、武蔵野国横浜村、いま横浜市開港記念会館のある場所(福井藩が開いた生糸輸出の商館「石川屋」)で生まれ、そこで幼少期を過ごした。

 ここは1859年の開港に伴い造られた掘割を行き来する人を見張る7つの関門の内側、すなわち「関内」にある(今はJRの駅名に残る)。海側に税関を置き、山手方面に外国人居留地を、反対側の馬車道方面に日本人町を置いた。天心の生誕地は日本人町の中央を走る本町通りの起点(最初は5丁目、のち順番を逆にして1丁目)、つまり外国人居留地にいちばん近い所にあった。

 関内の日本人町と外国人居留地を隔てるものはなく、日本と外国の商人たちが自由に互いの店を訪ね、品定めや売買をしていた。これがいわゆる「居留地貿易」(居留地内だけで許される貿易)である。当然ながら内外の子どもたちも一緒に遊びまわった。天心の英語は店頭で大人の商取引を聞いて修得したと言うより、子ども同士の遊びのなかで会得したとする方が素直である。のち宣教師バラの英語塾に通い、磨きをかけた。

 9歳で長延寺(神奈川宿)に預けられ、漢籍を学ぶ。一家で東京へ移った後は、13歳で東京開成学校に入り、16歳で東京大学の一期生(森鴎外と同期)、1880(明治13)年卒業後に文部省勤務。のち東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)の設立に貢献、1890(明治23)年に初代校長(学長)となった。また日本美術史研究の開拓者でもあり、フェノロサ(米国の東洋美術史家、東京大学で哲学・政治学等を講義)とともに日本美術の調査を行い、1893年には中国へ古美術の調査に行く。文化財保存の重要性に気づき、1897(明治30)年、古社寺保存法(現在の文化財保護法につながる)の成立にこぎつけた。

 1898年(35歳)、東京美術学校から排斥され辞職、連帯辞職した横山大観らと日本美術院(台東区谷中)を創設。1901~02年、インドを訪問しタゴール(詩人、アジア初のノーベル文学賞受賞)等と交流、04年、ボストン美術館中国日本美術部に勤務(1910年部長)、06年、日本美術院を茨城県五浦へ移す。

 天心の英文三部作は、こうした東京美術学校、文化財保護、日本美術院創設等の多岐にわたる活動の後にインドを訪れ、ボストン美術館の仕事に移る、満40歳から43歳にかけての「晩年」の作品である。20世紀初頭の横浜と世界を語るには欠かせない作品であるが、スケールが大きすぎる。しかし避けては通れない。そこで『日本の覚醒』(1904年、ニューヨーク)を取り上げる。底本には英文収録の講談社学術文庫版(THE AWAKENING OF JAPAN, by OKAKURA KAKUZO、夏野広訳、2012年、色川大吉「解説」再録)を使い、訳文の一部を私の責任で変更した。

 本書は全10章からなる。全体の展開を概観するため、目次を先に見ておこう。Ⅰ章「アジアの夜」、2章「蛹」、3章「仏教と儒教」、4章「内からの声」、5章「白禍」、6章「幕閣と大奥」、7章「過渡期」、8章「復古と維新」、9章「再生」、10章「日本と平和」である。

 1章「アジアの夜」の冒頭で、西洋人にとっての日本イメージを次のように描く。「日本の急激な発展は、外国人にとって、多かれ少なかれ一つの謎である。この国は、花と軍艦の国、壮烈な武勇と繊細な茶碗の国、新旧両世界の薄明のなかに奇妙な陰影が交錯する、風変わりな辺境の国である。…我々が諸国民のあいだに地位を占めた今日、それは多くの西洋人の眼には、キリスト教世界への脅威と映っている。…世界は新生日本に、一方では猛烈な非難を、他方では的外れな賞賛をあびせた。我々は近代進歩の寵児となり、同時にまた<黄禍>そのものとなった。」

 つづけて言う。「友愛は熱く高まり、世界の協力は実現されたとするが、それは何を目的とするのか?…富の獲得を競い、真の個性を損ない、幸福と満足は募る渇望の犠牲にされ、…中世の迷信から解放されたなどと誇るが、富の偶像崇拝に代わっただけではないのか? 」

 2章から7章までは、徳川体制の本質を抉る「史論」である。「家康の偉大な才能は、ミカドの権威を国家的規模において認めた」(皇室崇拝を認めた)が「徳川家だけがその最高司祭者」とし、公家を優遇し、大名より上の身分としたうえで、政治的権力は剥奪したと述べる。仏教と新儒教に触れ、これが「危急のさいに平静を失わない日本人の瞑想的気質」を育てたと言う。

 とくに興味深いのは、6章「幕閣と大奥」で、ペリー来航に際しての阿部正弘老中首座の政策についての次のように述べる。「当時の情勢を驚くほどよく理解し、日本をして今日あらしめた開明的政策を採った」と高く評価、さらに「…彼の行動の真の意義は、相反するさまざまな批判と没落政治家につきものの汚名に埋もれ…ペリー提督との日米和親条約の談判さえ彼を謗る者により過小評価されてきたが、われわれを外の世界と最初に接触させたのは、じつにこの条約であった。…彼の穏健さは臆病ではない。彼が好戦的な大名たちに押し流されていたなら、おそらく日本は悲惨な目にあっていた。使節への交渉拒否が砲撃を招いたであろうし、サムライたちがいかに勇敢でも旧式の大砲と防衛で最新装備のアメリカ人に対抗できたであろうか。日本が惨禍をまぬがれたのは、阿部正弘がわが国の無防備状態を的確に認識していたおかげである。…また交渉にさいして無限の忍耐と公正さを示したアメリカの提督に心から感謝しなければならない。…」。また7章で「…阿部正弘の自由主義政策のおかげで、(彼らは)西洋の知識も少なからず身に着けていた…」とも言う。

 人物評価にこれだけの紙数を割くのは、ここ(阿部正弘)だけである。歴史の転換点を鋭く見抜いた史論である。ただ史実の具体的な記述が少ないため、本書だけを読んでも分かりにくい点があろう。阿部の主導した対ペリー外交の具体相については、拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)を参照していただきたい。

 他に名前が出てくるのは、7章では井伊直弼、佐久間象山、勝海舟である。8章「復古と維新」では、近代の特徴として①立憲政治、②高等普通教育、③徴兵制、④女性の地位の向上を挙げるが、個人名は挙げていない。9章「再生」では幸田露伴、尾崎紅葉、陶工の真葛香山、画家の狩野芳崖等10名を挙げる。10章「日本と平和」では「自己犠牲という高貴な理想を守った」大久保利通、木戸孝允、岩倉具視の名前を挙げるにとどめ、記述はごく短い。

 最後に、始まったばかりで行方不能の日露戦争(1904~05年)に関連して、「ロシア軍の野蛮性」に触れ、「…今日ロシアは、極東の平和的国民が禍をもたらすと言うが、その非難はロシア自身に返されるべき…」と強く述べる。そのうえで「ヨーロッパはわれわれに戦争を教えた。彼らはいつ平和の恵みを学ぶのか」と結ぶ。(続く)

シーボルトの日本博物館

 企画展示「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」が、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(愛称は歴博)で開かれている(7月12日~9月4日)。歴博のホームページによれば、シーボルトが企画したヨーロッパ初の日本展示のイラストを歴博が発見、それに基づき、その日本博物館を再現するという。

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold,1796.2.17-1866.10.18)はドイツ人の医師で博物学者。ドイツの地方都市ヴュルツブルクで医学者の名門家系に生まれ、ヴュルツブルク大学で医学を専攻、カリキュラムの一部であった化学や植物学のほか、動物学、地理学、民族学にも関心を寄せる。大学卒業後、陸軍軍医となりオランダ植民地のバタヴィア(現インドネシア・ジャカルタ)へ旅立ち、そこから長崎出島のオランダ商館付医師として日本へ派遣された。

 19世紀、2度にわたり日本に滞在(1823~28年、1859~62年)、江戸時代の日本に近代的な医学を伝える一方、日本の自然や生活文化に関わる膨大な資料を収集し、ヨーロッパに持ち帰った。それらが帰国後に『日本 Nippon』(1832-1851)、『日本植物誌 Flora Japonica』(1835-1844)、『日本動物誌 Fauna Japonica』(1833-1850)の三部作に結実し、日本学や生物学に大きく貢献したことはよく知られている。

 今年1月30日の歴博の講演会で、歴博の6年間にわたるシーボルト関係資料6000点の総合的調査(主に2度目の来日時のコレクションを中心としたミュンヘン五大陸博物館(旧ミュンヘン国立民族学博物館)の所蔵品)の成果を知り、今回の「予告」とも言うべき説明を聞いていた。私も3月に公開されるそのデータベース画像(シーボルト収集による約6000点の日本資料)を閲覧したいと本ブログの「2つの講演会」(2016年2月5日掲載)で述べた。

 そして企画展示「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」が始まった。貴重な資料の実物を見たい、示唆を得られるとも考え、8月17日、久しぶりに歴博を訪れた。台風7号の関東直撃が危惧されたが、幸い沿岸から離れて北上し、快晴となった。京成佐倉駅から徒歩約15分、緑に包まれた旧佐倉城址(11万石)のなかに歴博がある。

 展示室の入口でまず目を引く船形漆塗弁当箱(宴会用の酒器と食器の組合せ)をはじめ、鳴滝の家屋模型(ミュンヘン五大陸博物館蔵)、花鳥図衝立(同上)、蛇身弁財天像(同上)、『日本 Nippon』のための原画(ブランデンシュタイン=ツェッペリン家蔵)、伊能特別小図写(西日本)(同上)、シーボルト直筆の展覧会解説(同上)等、300点が並ぶ。

 展示(担当)代表は民博の日高 薫(ひだか かおり)教授で、専門は蒔絵を中心とする漆工芸史、『異国の表象 近世輸出漆器の創造力』(ブリュッケ 2008)等の著書がある。漆器はjapanと言われるように日本の象徴であり、貴重な輸出品でもあった。今回の展示にも多数ある。

 シーボルトは、収集したコレクションをもとに、1度目の日本滞在中の1824(文政7)年、早くも日本をテーマとした博物館展示を熱心に構想しており、帰国後、ライデン、アムステルダム、ヴュルツブルク、ミュンヘンの各都市で日本展を開催した。

 当時のヨーロッパでは、ヨーロッパ以外の地域の民族やその文化への関心が、王侯貴族にとどまらず広範の市民の間にも高まり、近代的な博物館展示や、学問としての「民族学」が胎動しつつあった。シーボルトの展示は、のちの万国博覧会(第1回が1851年のロンドン万博)における日本紹介や、ジャポニズム(日本趣味)よりはるかに早期で、世界初の試みであった。

 シーボルトは日本の文化や社会をどのように観察し、どのような観点に立って収集したか、また「異文化としての日本」をどのように西洋に紹介しようとしたか。それを知る手がかりとして、歴博の総合的調査で見出したシーボルト直筆の展示順序やケースごとのコレクション解説、それに長男アレクサンダーが残したコレクション売却リストもあわせ、死の直前のミュンヘンでの「最後の日本展示」を、歴博で再現して紹介している。

 展示は5章からなるが、主な内容を抜粋しよう。
 (1) シーボルトは、外国人の行動が厳しく制限されていた中で、出島の外に位置する鳴滝(なるたき)に私塾の開設を許され、日本人研究者と交流を図る。そして彼らに最新の医学知識や自然科学を伝授することと交換に、標本や資料のみならず、課題について論文を提出させるなどして、日本の自然や文化に関わる事物や情報の収集を実現させた。
 
 (2) 帰国後は日本紹介を精力的に開始、出版物刊行や日本展示に取り組み、1832年からはライデンのシーボルトの邸宅(ラーペンブルフ19番地・現在のシーボルトハウス)でコレクション公開(シーボルト博物館)も行った。これらは現在のライデン国立民族学博物館のコレクションに受け継がれている。

 (3) 初来日から30年後の1859(安政6)年、2度目の来日を果たしたシーボルトは、帰国後の1862年から1863年にかけてアムステルダム産業振興会館で再び展覧会を開催した。この時の雑誌記事には、仏像や衝立を立体的に展示したイラストが掲載されており、歴博の展示でこれも再現している。

 (4)1864年、シーボルトは生まれ故郷ヴュルツブルクのマックス職業学校にミュンヘンの展示を移設、民族学博物館の設立意志をもっていたバイエルン国王に日本コレクションの有用性を説き、1866年3月、ミュンヘンの王宮公園(ホフガルテン)に面した宮殿内の北部ギャラリー・ホールの使用許可をバイエルン王国の文部省から得て、5月19日、最後の日本展示を開催した。
宮殿の展示では、7室あるギャラリーの3室を日本展示に充て、その他の部屋に中国・インド・東南アジア・アフリカ・オセアニア・先史時代・アメリカなどの展示ケースを配置、現代では一般的になった民族学博物館の枠組みの一部に日本コレクションを位置づけた。

 (5)シーボルトの日本展示は、表向きは当時のヨーロッパの実利的な要請 に応えるものでもあった。ヨーロッパ以外の地域を対象とした博物館展示には、原料やエキゾチックな産業製品を求めて積極的に海外貿易をおこなっていたヨーロッパの国々において、植民地に赴き、あるいは異文化に接触する官僚や商人たちが身に着けるべき知識と教養を示す役割が求められていた。漆工芸に代表される日本伝統の手技の世界や、各種素材を用いて作られたシンプルで美しい日用の道具類などは、その代表である。

 歴博は、結びとして次のように述べる。シーボルトは各民族文化の本質を総合的に比較・理解し、異文化への誤った考え方を是正する学術的な場として民族学博物館を位置づけており、それは近代的な博物館の歴史、民族学研究においてきわめて先見的で現代につながる源流となった、と。

 展示を堪能し炎天下を駅へ向かいつつ、シーボルトの30年をまたぐ2度の来日の間に日本は開国(1854年)と開港(1859年)の大転換を平和裏になしとげたが、それには佐倉藩の藩主・堀田正睦老中も大きな役割を果たしたことを改めて想起した。

 今回のモノの展示(主に第2次来日時の収集品)と著書三部作(いずれも第1次来日時の成果物)をどのように関連づけるか。またシーボルトの2度の来日と、その間の30年の世界史の推移が、還暦を過ぎた彼の学問にどのような成熟をもたらしたか。興味は尽きない。

20世紀初頭の横浜-(6)「開港五十年史」の刊行決議

 1904年、横浜商業会議所(のちの横浜商工会議所)が「開港五十年史」刊行を決議した。第6代会頭(1904~09年)の小野光景(おの みつかげ、1845~1919年、長野県生まれ、生糸売込商)と副会頭の来栖壮兵衛(小野の妹婿)のコンビが提案、5年後の横浜開港(1859年)50周年を祝おうとするものである。臨時調査費を組み、編集主任に肥塚龍(こえづか りょう)、補助員に川本三郎を当てた。

 横浜商業会議所は、1880(明治13)年設立の「横浜商法会議所」を1895(明治28)年に改名した団体で、貿易、新聞、築港、鉄道、ガス灯など都市近代化にともなう諸事業を担う実業家を広く組織した。なお1927(昭和2)年には「横浜商工会議所」とさらに改名して現在に至る。

 いまでは日本の常識とも言える地方史・地域史を手がける動機は、地域への関心の高まり、すなわち自らの依って立つ基盤やその由来を知りたいとする関心の高まりに他ならない。とくに戦後において都市開発に関連して廃棄されかねない貴重な古文書等の保存・収集が全国で一斉に始まり、それに基づいて地方史編纂の運動が展開された。その結果、いま膨大な蓄積を有している。

 自治体が主体となって資料収集・編纂に当たったものが多い。現在、横浜市史は大別して3種あるが、いずれも昭和初期以降の刊行であり、その大半が戦後の編纂・刊行である。すなわち『横浜市史稿』(全11巻、1931~1933年)、『横浜市史』(本編11巻、1958~82年、資料編21巻、1960~82年)、『横浜市史Ⅱ』(本編6巻、資料編10巻、1993~2004年)である。

 ほかに市内18区の歴史(○○区史と称するもの、その他の名称のもの)も複数刊行された。横浜市会事務局編『横浜市会史』(1~6巻+付録2)は、1983~1988年の刊行である。また個人の労作、松信太助編『横浜近代史総合年表』(有隣堂、1989年)は新聞記事等を丹念に集め、出典を明示していて貴重である。

 横浜商業会議所の「開港五十年史」刊行決議は、横浜で団体が史書編纂の動きを見せた最初である。1904年3月、50年前の日米和親条約締結日(3月31日)を機に日米交歓50年記念会が市内で開かれたが、市民の関心は日露戦争(2月、日本がロシアに宣戦布告)にあって、開国や開港には関心が集まらなかった。

  5年後の1909(明治42)年の横浜開港50年記念はぜひとも成功させたい。それは市制施行20周年でもある。そこで「開港五十年史」の編纂が決議された。これ以前には、わずかに太田久好『横浜沿革誌』(明治25=1892年)や野沢藤吉『現在の横浜』(横浜新報社、1902年)があるだけである。

 編集・刊行の契機として、ライバルの神戸が11年前に刊行した『神戸開港三十年史』(1898=明治31年、上下)や2年前に刊行された『慶応義塾五十年史』(1907=明治40年)を意識しないはずがない。

 「(横浜)開港五十年史」の編集を一任された肥塚は、1848年(一説に1850年)岡山県生まれ、1872(明治5)年に上京、芝汐留電信学校の給費生、「曙新聞」のアルバイトなどを経て中村正直の英語学校に入学、1875(明治8)年に東京横浜毎日新聞に入社(のちに社長)、横浜との縁も浅くない。彼の名文は「作家も及ばぬほど」と有名になった。1879(明治12)年、トクビル『自由言論』を訳出、民権家として「国会論」を発表する。

 1890(明治23)年、初の総選挙に兵庫第8区から立候補するも落選、第2回総選挙では東京2区から立候補し落選、1894(明治27)年にふたたび兵庫第8区から立候補して初当選、以後7回にわたり当選を果たす。1898(明治31)年、東京府知事、のち1907(明治40)年には衆議院副議長につく。

 肥塚を筆頭に本格的な『(横浜)開港五十年史』の編纂が始まったものの、開港50年・市政20年を祝うとする意識は40万市民に十分には浸透していなかった。それには一定の啓蒙活動や広報が必要であり、担うのは主に新聞であるが、市内の新聞は、1903(明治36)年3月の第8回総選挙をめぐり「横浜貿易新聞」と「横浜新報」が相対する候補者を支持、候補者以上に激しく争い、政財界、新聞界を二分する紛争となっていた(本連載(4)参照)。

 「横浜新報」(新報)を支えるのが原合名会社の原富太郎、一方の「横浜貿易新聞」(貿易)を支えるのが横浜商法学校(横浜商業学校=Y校の前身)で学んだ中村房次郎(砂糖輸入商・増田屋の次男)である。原と中村の両人はともに30代半ばの1868年生まれで、開港横浜を担う第3世代として嘱望されていた。

 総選挙がらみで過熱した両陣営間のシコリが、市民感情や市政運営に及ぼす悪影響を痛切に感じた二人は、手をたずさえることで一致する。それをさらに前進させたのが「貿易」主筆に就任した富田源太郎(同じく1868年生まれ)である。1904(明治37)年5月1日の巻頭で紙面の刷新に強い意欲を示し、熱く説いた。2月に始まった日露戦争で日本軍が快進撃を見せていた時期である。

 富田は、貿易記事を主とする実業新聞こそ、実益に趣味の記事を加え「公正健全なる市民県民の世論を代表」して発言すべしとし、広告や連載小説、日露戦争の展開報道などに挿絵を積極的に取り入れる。さらに「世界の列強は貿易工業による平和的競争をもって国運を図っている。対する我が国は武国の名は上げたが貿易工業に見るべきものがない。対外商戦の拠点たる横浜の本紙は奮起すべし」と主張した。

 この1ヶ月半後の1904年6月19日、あれほど対立していた「横浜貿易新聞」と「横浜新報」の両紙が、連名「社告」を出す。近い将来に合併し、本町6丁目86番地の新築社屋へ移転、紙名も「貿易新報」に改める、と。新しい紙名は2紙の愛称「貿易」と「新報」を合体させたものにほかならない。
両紙の統合により広報媒体が強化され、「開港五十年史」への期待と開港50年祭開催への機運が熟し、次第に現実味を帯びていく。(続く)

21世紀初頭の横浜―(5)横浜築港の新たな動き

 1902年4月、開港第3世代と目された若手実業家の原富太郎や中村房次郎らが「横浜貿易研究会」を設置する。そしてアメリカのエール大学留学から帰国、1900(明治33)年に渋沢栄一の支持により第一銀行横浜支店長に就任した市原盛宏(いちはら もりひろ、1858~1915年、熊本出身)を囲んで、今後の横浜について論じ合った。第3代市長・梅田義信(1848年江戸生まれ、在任1896~1903年)の任期満了に伴い、次期の市長候補をめぐり横浜市会が激しく対立していた頃である。
 横浜に市政が敷かれたのは1889(明治22)年4月、わずか13年前に過ぎない。前年の市制・町村制の公布により内務省告示第一号で全国に36市が誕生、うち1889年に横浜市ほか30都市が市政を施行した。市議会が市長候補者3名以内を選び、そこから内務省が市長を指名する制度である。
 市制施行後の歩みを概観すると、第一歩として1888年5月に市会(市議会)議員選挙が行われ、36人が当選した。横浜の有力者の構成を反映して、商人派(同好会)が24名、地主派(公民会)が12名である。最初の市会は1889年5月に開会、仮議長に元横浜区長の増田知(さとし)が就き、彼の司会により原善三郎(1827~1899年、埼玉出身、生糸売込商)を市会議長に選出した。
 市会が選考した市長候補者は茂木保平(やすへい)、平沼専蔵、増田の3名で、内務省は増田を指名した。ここに初の横浜市長が誕生する。増田(1843年栃木県出身)は群馬県、神奈川県などの官吏を歴任後、1886(明治19)年に横浜区長、ついで市長就任、在任は1889(明治22)年6月から翌年の2月までとごく短い。第2代市長が地元出身の佐藤喜左衛門(きざえもん、1848年生まれ、在任1890~1896年)、第3代市長が上掲の梅田である。
 新生の横浜市は法令に従い、市長、助役、名誉職参事会員6名からなる市参事会を置き、合議制による市行政の執行機関とした。なお「市長独任制度」による市長権限の強化は、市制・町村制が大幅改正される1911年以降である。
 第4代の市長選では、「商人派」に加え若手の原や中村もが、渋沢栄一らの推す「外国語に通じ、党派がなく、実業知識を備えた人物」の市原を推し、一方の「地主派」は助役の斉藤松三を推し、これら2名を内務省へ提出、市原が認められ、1903(明治36)年1月、就任した(在任は1903~1906年)。
 その直後の3月、第8回総選挙をめぐり、現職の島田三郎を推す「横浜貿易新聞」(愛称は「貿易」)と伊藤内閣の送り込んだ加藤高明(前外相)・奥田義人(前文部次官)を推す「横浜新報」(愛称は「新報」)が、候補者以上に激しく争い、政財界、新聞界を二分する紛争となったことは、前回述べた。
 これに対して市内では、開港第一世代の平沼専蔵(1836~1913年、埼玉出身、洋糸等の引取商)、第二世代の小野光景(1845~1919年、長野出身、生糸売込商、横浜商法学校のちの横浜商業学校=Y校を創設、横浜正金銀行頭取、1905年から横浜商業会議所の第4代会頭)、そして第三世代の原富太郎(1868~1939年、岐阜出身、原善三郎の孫娘と結婚、原家を継いで1899年に原合名会社とした実業家、生糸売込みに加え富岡製糸場等を経営、日本庭園の三溪園を造る)らが世代を超えて、加藤・奥田両名の推薦にまわった。
 二大新聞も動く。「新報」を支える原富太郎と、「貿易」を支える中村房次郎(砂糖輸入商・増田屋の次男で横浜商法学校を卒業)の両人はともに30代半ばの同年(1868年生まれ)、総選挙がらみで過熱した両陣営、両新聞のシコリが市民感情や市政運営に及ぼす悪影響を痛感し、手をたずさえることで一致する。
 1903年4月8日、「新報」紙が主張(社論)「太平洋上の競争と横浜築港問題」を発表、築港に関する国・県・市の責任範囲の明確化と、市民一体の運動を提言する。ついで市原市長が就任半年後の7月、市議ほか各界の名士を招き、市政の基本について演説した。「横浜の今日までの発達の多くは、外交の圧迫、外国人の移住、天与の良港、政府の庇護のたまもの、いわゆる受動的発達で、これは絶頂に達し、いまや自動的すなわち働きかけの発達が必要…」と強調する。
 その「自動的発達」に港湾設備の充実、工業振興、市民生活の保全助成(福祉)の3つを掲げ、「我が市百年の大計の確立」を訴えるとともに、党争を解消し各層を結集、広く意思疎通と感情融和を助成する機関の設立を提案する。
 その筆頭に掲げる港湾設備の充実については、防波堤建造を中心とする第1期築港に次いで、第2期築港は貿易量の拡大に伴う大型接岸施設(繋船岸壁工事)の新設と税関設備の拡充を柱とし、所管は内務省から離れ大蔵省(税関を所管)へ移る。第2期築港の前期は1899~1905年、後期は1906年度から開始、1917年の大桟橋改修をもって完成、19年の歳月を要した。
 全国規模の港湾政策は、国が内務省に港湾調査会を設置(1900年=明治33年)、3年後に廃止、1906(明治39)年に再設置し、翌年、「重要港湾の選定及び施設の方針」を提案して政策とし採用された。すなわち全国の14港を指定、うち横浜・神戸・関門・敦賀の4港を第一種港湾(重要港)として国が起工、地元に負担金を課すこと(その率については規定がなく両者の交渉による)としており、この制度は1945年の敗戦までつづく。
 この全国的制度の誕生前に、横浜の第2期築港が先行する。ついで1903年7月、横浜商業会議所も港湾修築を建議、これを受けて8月、港湾改良期成委員会が結成され、9月の総会で、第2期横浜税関拡張工事の早期着工と、今後の工事費の3分の1は横浜市が負担する建議書を市参事会へ提出した。
 この提案通り、1906(明治39)年から第2期横浜税関拡張工事が始まる。7月、市会が負担金確保に300万円の事業公債起債を決定するも、国内の募集は困難と判断、翌月に外債(英貨31万7000ポンド)募集に変更した。これは国と地方自治体の公費分担率を地元が提案し実施された最初の事例である。(続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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