コックス商館長が将軍秀忠に拝謁

 本ブログの8月21日号に「400年前の英語」、10月4日号に「平戸イギリス商館」、12月5日号に「平戸のにぎわい」と3本の論考を載せた。いずれも平戸のイギリス商館長コックス(Richard Cocks 1566~1624年)の日記“Diary kept by the head of the English Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻刻し、訳文を付した『イギリス商館長日記』(『日本関係海外史料』)所収、以下、「コックス日記」とする)の豊富な史料に魅せられ、400年前の日本社会の一端を描こうと試みたものである。

 コックス日記の史料的特徴を挙げれば、次の点にあろう。(1)日本語の史料では記されることの少ない外国人の視点と体験から描かれた日本社会の諸相、(2)商館長として貿易取引に伴う商品・価格・売れ行き等々の業務記録(日記には概要のみ掲載、帳簿はなし)、(3)1600年に発足したイギリス東インド会社の仕組みと貿易業の現場の状況記録等々である。

 コックス日記を使った先行研究は、参照できた歴史学の分野では、(1)武田万里子「平戸イギリス商館日記」(永積洋子・武田万里子『平戸オランダ商館・イギリス商館日記:碧眼のみた近世の日本と鎖国への道』p245~、そしえて社、1981年)、(2)鍋本由徳「江戸時代初期における領主権力と<長崎奉行>の覚書」(日本大学通信教育部通信教育研究所「研究紀要」2015年)、(3)小林章夫「平戸イギリス商館の木綿販売」(『はた』日本織物文化研究会誌 19号 2012年)、(4)榎本宗次「近世初期銀貨考」(『史料館研究紀要』5、1972年)。

 歴史学以外では、(5)ろじゃめいちん『江戸時代を見た英国人』(PHP研究所 1984年)、(7)演劇史の分野からトマス・ライムス(Thomas Leims)「リチャード・コックスの日記-成立初期の歌舞伎研究におけるコックス日記の意義について」(早稲田大学演劇学会『演劇学』31号、1990年)がある。シェイクスピアと同時代の「コックス日記」を活用した英語史の研究は見つからなかった。

 コックスに関する同時代人の評価はどうか。上掲(1)武田によれば、サー・トーマス・ウィルソン(大蔵大臣ソルスベリー伯の秘書官)は「…学問があるわけではないが誠実で、年がいっており、判断力もある…」とし、これを受けて武田は「…商人としてきわめて敏腕とはいえないが、正直で公私をわきまえ、日本では人望があった…」と言う。
ついで直接の上司にあたるジャワ島バンタムの支店長ボールは、きわめて否定的に、「…情熱においてはきわめて激しいが、理性においては見るかげもない。…総合的な判断力や見通しに欠け、片意地で評価すべきものを評価せず、口先の美辞に惑わされる…」(上掲(1)武田)と厳しいが、関係がよくなかった上司の部下への人事評価であることも考慮すべきであろう。

 現代のイギリス人による評価は、上掲『江戸時代を見た英国人』の第2章「外国人観光客のはしり、コックス商館長」に詳しい。そこにコックスがイギリス出航前の1611年に遺言書を残していたこと、1563年1月10日~15日頃にスタフォード(製靴業で有名)で誕生したことが記されている。さらにコックスが商売には向いておらず、庭仕事(1615年6月9日の日記にサツマイモを栽培した記事あり)、金魚の飼育、観光に熱心であり、また11年間の任期を終えて帰国する彼への日本人による送別の宴に触れ、親善大使の役割は十分に果たしたと述べる。なおコックスの蔵書家・読書家の一面は特筆すべきであろう。

 今回はコックス日記をもとに、彼の第1回江戸参府(1616年と翌1617年の2回あり)を見ることにしたい。アダムズが同行したこの参府は、1616年7月30日から12月3日まで。船で平戸を発ち、下関から瀬戸内海に入り、5日目に砂州(大坂港外)着、その後は陸路を行く。10日、献上品や商品等を2隻の舟で堺から伏見へ運び、運搬費を節約した。

 12日、伏見で10人ほどの罪人の晒し首を目にし、「このような厳しい処罰がなければ、彼らのなかで(私たちは)生きていけない」(以下、引用は拙訳による)と記す。高価な物品を運ぶ旅でも、盗難に遭ったという記述はない。

 さらに東海道を進み、8月19日に浜松、24日に箱根を越えて小田原、26日に戸塚、そのつどの宿代の支払いや関係者への贈答品を記す。27日午後に江戸着、平戸を出て28日目である。この日はアダムズの家に泊まるが、江戸の定宿の三雲屋はイギリス商館の代理人も兼ねている。30日、激しい地震に恐怖を覚える。

 9月1日、「…皇帝ションゴ(将軍)様へ献上品を納め、快く受け取ってもらった。この件ではコジスキン(本多正純、年寄=老中)殿とションガ(向井忠勝、御船手奉行)殿の助けを得た」。長く待たされた後に登城。「城はすこぶる強固で、二重の堀で囲み、石垣を回らし、…皇帝(将軍)の宮殿は巨大な造りで、どの部屋の天井も壁面も金箔で覆われ、あるいは獅子・虎・豹・鷺等の鳥獣の絵が描かれ……絵の方が金箔より素晴らしい」。

 いよいよコックスとイートン、ウィルソンが皇帝(徳川秀忠、家康の三男)に拝謁する。「…皇帝ションゴ(将軍)様は、ひとり一段高い所に座り、目にも鮮やかな青色の絹の衣を羽織り、仕立屋がするように畳の上に足を組み、…誰もこの部屋に入ることは許されなかった。彼は二度ほど私に入るよう招いたが私は固辞した。これは良いことだったと後で評価された。束の間のお目見えだったが、会う時も別れる時も彼は頭を下げた。」

 ついで拝領品の一覧を記す。各種の羅紗(毛織物)、ロシア産の獣皮、硝子の姿見、珊瑚樹、琥珀玉、兎皮、鋼鉄棒、鷹狩用具、薬壺、水差、湯呑、牛乳酒鍋、金箔を貼ったインド産の獣皮、錫の棒、鉛80貫(重いため証書のみ)。

 「仲介の労を取ってくれた本多正純殿と向井忠勝殿を訪れて礼を言うはずのところ、通詞のゴレザノ(五郎左衛門)が訪ねもせずに、もう登城されたと私に嘘の報告をしたせいで、贈物は宿舎に持ち帰ることとなった」。

 翌日、「本多正純殿、土井利勝殿(老中)、酒井忠世殿(雅楽頭)という皇帝に次ぐ重要人物3人」に同じ物を贈る。すなわち種々の羅紗、硝子の姿見、黒い兎皮、薬壺等。さらに平戸の王の弟(松浦信清)を訪ね、羅紗、サラサ(更紗、捺染した綿布)、硝子の姿見、手帳等を贈った。

 贈物はいずれも軽量、希少、高価の特性を持つ貴重品であり、運搬にも適している。「贈物の交換」は古くから「信頼の交換」を意味した。信頼により次に何を得るか。半年ほど前の1616年4月に家康が逝去、二代将軍秀忠の進めるキリシタン禁制とイギリス・オランダ両商館への貿易制限の下、コックスは家康時代の特権の復活を請願しつづけるが、思うようにはならない。(続く)
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平戸のにぎわい

 本ブログ「平戸イギリス商館」(10月4日掲載)で取り上げた400年前の英語で語られるコックス商館長日記、その内容をもう少し見ていきたい。
 日記の始まりから約3か月後の1615年8月29日夜半、イギリス船が沖合の五嶋から20リーグ(約20里=80km)のところに来ており、日本人が平戸まで案内するとの情報に、コックスはすぐ商館員イートン(W.Eaton)とチャイナ・キャプテン李旦を船に送り、葡萄酒2樽、パン50塊、豚2頭、牝鶏12羽、家鴨2羽、西瓜10個、梨1籠を届けさせた、と記す。豚は商館が特注生産していたのか、あるいは普通に飼育されていたものか。

 翌日、通訳を派遣、平戸の日本側関係者へも久しぶりのイギリス船来航を伝える。母国からの船に興奮さめやらぬ様子である。
31日、快晴、終日、激しい北風。イートンからの手紙を持って李旦が小舟で戻ってきた。船名はホジアンダー(Hoziander)号、船長(首席商務員)はコペンダール(Ralph Copendall)とある。

 船長は11通の手紙を運んできた。主なものは、①イギリス東インド会社の本社から一般書簡の写し、②同本社からバンタム在住の商館長Jurden(東インド総督)宛書簡の写し、③1615年4月15日付けバンタム発の商館長Jurdenからコックス宛書簡、④1615年4月10日付けバンタム発のWestbieからコックス宛書簡、…⑧司令官Sarisからの手紙、ソルダニア発、1614年6月1日付け、⑨東インド会社初代総裁Sir Thomas Smithからの手紙、ロンドン発、1613年11月30日付け、…⑪コックスの兄弟Walter Cocksからの手紙、ロンドン発、1614年4月6日付け。
 直近の書簡がバンタム発1615年4月10日と5カ月弱前のもの、ロンドン発の書簡は約1年半から2年近くも前のものである。唯一の通信手段が書簡であった時代であり、書簡には大きな価値があった。内容についての詳細な説明は少ないが、会社からの書簡に「一航海ごとに決算を行う方式から、単一の総合的投機事業会社に吸収された」と記している。

 翌9月1日、長谷川藤継からの手紙に、皇帝(徳川家康)からアダムズ(W.Adams、三浦按針)宛の書簡1通が同封されていた。コックスはアダムズがオランダ側と通じているのではないかとの疑いを隠さない。英蘭の競争が確執・対立へと進みかけていた時期であり、イギリス商館の存亡にかかわりかねない大問題と考えていた。

 3日、朝、快晴、静穏、すぐ激しい風に変わり荷揚げできず。ホジアンダー号の修理に必要な木材の見積もりに大工を寄こすようJn Huntに手紙を書き、豚1頭、牝鶏6羽、パン10塊、梨、大根、胡瓜を添えた。またホジアンダー号の来航を知らせてくれた五嶋の代官に、インド綿布の白バフタ布1反、黒く染めたバフタ布1反、ダッティー布1反等を贈った。また13日には平戸の王(領主の松浦隆信)への贈物としてバフタ布、ゼラ布、バイラム布、アマド布等と記載し、その実費が523匁であるとも記す。

 武田万里子「平戸イギリス商館日記」(永積洋子・武田万里子『平戸オランダ商館・イギリス商館日記』所収、そしえて社、1981年)によれば、当時のイギリス商館は中国産の生糸・絹織物・皮革類やイギリス産のブロードクロス(厚手の毛織物)を京都や大坂を中心に売っていたという。インド綿布は平戸周辺で売っていたが、主に貴重な贈答用であった。ちょうど国産綿布が全国展開する時期に当たり、最先端を行くインド綿布はその見本にもなった。

 4日、快晴、静穏。9時頃、ホジアンダー号が小舟に曳航されて平戸の避難港に投錨、祝砲(空砲)2発を打つ。オランダ商館から2発、大型船から3発を打ち答礼した。当時の商船はみな大砲を装備しており、祝砲を打ち合う慣習があった。船長コペンダールがすぐにミヤコ(京都)へ向かう予定のため、オランダ商館から送別の祝砲3発も加えられた。
 ホジアンダー号と贈物の交換がつづく。食糧は贈ったとあるが、後で支払請求をしたのかもしれない。贈物は各種のインド綿布が多く、種類も多様で、アマド(インド西部のアーメダバード)産の更紗という記載もある。

 7日、平戸の王(松浦隆信)が帰港。オランダ商館から3発の小型砲、大型船から大砲20発、小型船から6発の祝砲を打ち、…我らがイギリスのホジアンダー号も11発の大砲を打ったと記す。イギリス商館からの祝砲はなく、艦船からの祝砲数の多寡から見ても、オランダ商館の方が優位にあった。

 1608年創設の平戸オランダ商館に5年遅れで創設された平戸イギリス商館、建物や人員、貿易扱い量等でもオランダ商館が名実ともに強大であった。しかしオランダ商館長日記が第7代クーケバックルの1633年から始まるのに対し、コックス日記は1615年からと18年も先行、史料的価値も高い。
 日記の執筆は、業務上の差というより、商館長の関心のあり方、記録することをどう考えるかの差ではないか。

 10日(欄外に日曜日とあり、曜日の記載は初めて)、コペンダールが銀製スプーン2個、銀製フォーク2個、銀製の塩入れ1個等を贈物として携行することとしたとある。これは徳川家康への献上品であろうか。
 また、アダムズが来たが「彼の書記(のち甚五郎としてたびたび出てくる)は信用のおけない悪漢…、このことは彼(アダムズ)には言わずにおこう、言おうものならあらゆる運命が火中に置かれることとなる…」と微妙な言い回しで、胸中を吐露している。
 ホジアンダー号に売った物として、胡椒のほか船の修理に使う厚さ1インチの板600枚(1枚あたり3匁6分)、厚さ2インチの板100枚(同6匁6分)、厚さ3インチと4インチの板各5枚(同17匁)等(合計約3000匁)と記す。

 11日、いよいよホジアンダー号が、アダムズや商館のイートン達を乗せてミヤコ(京都)へ向けて出航、11発の祝砲を打つ。約80日間の旅で、駿府の家康を表敬し、江戸にも向かう。

 ほどなくコペンダールから書簡が届き、アダムズは先に行ってしまい、自分たちのバルク船はひどく傷んでいるとある。コックスはすぐに配船を決め、パン40個等のほか、旅路の慰みにと、自分の蔵書から『トルコ史』を入れたと記す。当時、オスマン(トルコ)帝国は西アジアから地中海沿岸一帯の覇権を握る「超大国」であり、西欧諸国が東アジアに至るには、遠回りしてアフリカ南端を経由する以外に方法はなかった。書名からコックスの見識と関心が窺える。

平戸イギリス商館

 本ブログの8月21日号に「400年前の英語」を書いた。平戸(現長崎県)のイギリス商館長リチャード・コックス(Richard Cocks 1566~1624年)による日記“Diary kept by the head of the English Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻字・邦訳した『イギリス商館長日記』(『日本関係海外史料』)のうち)に出会い、そのブログで冒頭部分に触れた。

 商館が置かれた平戸は九州最西端に位置し、大陸に近く、古くから中国や西洋諸国との貿易で栄えた。1191(建久2)年、 栄西が留学先の南宋から平戸島に帰着、ここで最初に禅宗を伝えた。1550(天文19)年、平戸藩主・松浦肥前守隆信の南蛮貿易進出、ポルトガル貿易船の入港、また同年9月、フランシスコ・ザビエルの来航とキリスト教布教でも知られる。

 コックス日記は西暦1615年6月1日に始まり、商館建物の一部の新築工事に関する王(上掲の松浦隆信の孫、同姓同名)の大工棟梁・山崎弥右衛門から購入した木材や大工・人夫の人数についで、前年末に暹羅(シャム=現在のタイ国)へ向かうも暴風雨のため琉球に5か月間滞泊していたWilliam Adams(1564~1620年)船長のジャンク船Sea Adventure号が戻ってきたことを記す。
 ウィリアム・アダムズとは、1600年4月、オランダ船リーフデ号(Liefde)で豊後佐志生に漂着、徳川家康により旗本として知行地の三浦半島の逸見に因み「三浦按針」の名を得た人物で、外交顧間等の役割を果たし、平戸イギリス商館開設にも大きく寄与した。

 コックス自身が「すべての出来事を正確に記した」と述べているとおり、日記は彼の旺盛な記録志向に満ち、可能なかぎり客観的な記述を志しているようである。つい胸のうちを明かすこともあるが…。
 毎日の書き出しは必ず天候と風向きで、航海日誌の形式を踏む。なお気温の記載がないのは、まだ寒暖計がなかったためであろう。たまに「蒸し暑い」とか「寒い」等の表現が見られるに過ぎない。
 ついで取引や贈答品、手紙を送った相手とその概略を記し、事件、人物評、風評等を記す。

 翌2日には、「…オオゴショ様(徳川家康)が大坂の城を取り、フィディア様(豊臣秀頼)の軍を滅ぼした」との第一報を記す。5月6日の豊臣勢の大敗、翌7日の決戦で終わる大坂夏の陣である。平戸まで約3週間で届いたことになる。
 4日には、夏の陣から帰国途上にある島津家のバルク船の艦隊500隻が平戸に寄港。コックス自ら船まで出向き贈物を届ける。豪華な南京緞子3反、藍色のバイラム布(インド産更紗)10反、赤色のゼラ布(インド産の布の総称)10反、白色のバフタ布(インド産キャラコの一種)10反、ダッティー布(インド産の厚手の綿布)等。綿布国産化が普及する直前の時期の高級舶来品である。

 麻が衣類の主体であった日本で、中国産・インド産の綿布は「贈物外交」の代表として広く使われた。イギリス人同士でも、藷(サツマイモ)、コムギ、ベーコン、パン、酒などの贈答や売買のなかに、綿布が少なからず登場する。なおサツマイモはアダムズが琉球から持ち帰りコックスに贈り、彼が初めて商館内に植えたと記している。

 商館建築のため雇った大工・人夫・職人(畳・瓦等)の人数も漏らさず記す。6月11日、木材等の購入代金や大工・人夫の延べ457日分を含め計581匁を清算した。人夫1名の日当は5分、井戸清掃の人夫は3分(大工の日当は明細書に記すとあり日記にはなし)。23日には完成したとあるが、大工・人夫数から推して、工事は5月中旬には始まり、床面積は100坪(200畳)程度か。
 オランダ商館に4年遅れて開設された平戸イギリス商館、それも11年間(1613~23年)だけで撤退を余儀なくされる商館の構成や役割、また日記の主コックス(商館長は彼一代)その人や彼の日常へと関心が膨らむ。

 ところで、コックス日記はなぜ1615年6月1日から始まるのか。天候と風向きから始まる、この日の日記には、「いざ書き始めるぞ」といった気配は窺えず、いつも書いてきたように今日も、という印象を受ける。
 平戸イギリス商館の開設は日記開始の1年半も前の1613年11月。以前の分もあったのではないか。なおこの『イギリス商館長日記』も1619年1月から1620年12月までの約2年分を欠いている。コックスは約10年後の1624年、バタビアから帰国の途次、船上で死去。商館旧蔵の文書も今は伝わらない。このときに一緒に消失したとも考えられる。

 本書の刊行を担当した史料編纂所の金井圓さんが『東京大学史料編纂所報』第13号(1978年)~第17号(1982年)の「刊行物紹介」に、文献考証のみならず史実についても貴重な記述を寄せている。以下2点を紹介する。
 第1が平戸イギリス商館の開設について。イギリス東インド会社の司令官 John Saris が1613年6月、平戸に来航、アダムズの仲介で9月に駿府の徳川家康にジェイムズ一世の親書を提出、江戸で徳川秀忠から貿易開始の許可を得て平戸に戻る。そして11月、平戸イギリス商館開設を決議し、商館長に東インド会社のコックスを、そして館員として8名を任命、12月に日本を去る。

 第2がコックス商館長の初期の仕事について。コックスは当初、平戸華僑の甲必丹(カピタン)李旦の屋敷を借りて商館に充て、1614年には長崎にヨーロッパ人の代理人を置いた。さらに江戸にRichard Wickhamを配置、駿河と浦賀に置いた日本人代理人を監督させ、大坂にWilliam Eatonを配置して、京都・堺に置いた日本人代理人を監督させた。さらにシャム(タイ)、ベトナム、対馬との貿易も試みる。

 種々の困難はあったものの、商館開設の1613年11月から1616年9月の江戸幕府による貿易地平戸限定令の発令、その制限緩和運動を進めるコックスの活動を含めた3年間は、商館建築や貿易活動の拡張、本国からの来航船受入れ、オランダ商館との相対的友好の保持など、活気に満ちた時期であった。 

400年前の英語

 2年半ほど前、このブログで「若き学友との対話」(2014年12月23日)を書いた。「ゼミを持たなくなって10余年…この間にデジタル化が一挙に進み、メールという通信手段が発達…、ICTを通じて知り合った若い研究者で、いずれも拙著を読んだのがきっかけと言う知人が増えた。」
 その一人が陳雲蓮さん。知人の知人を介して私のメールアドレスを突き止め、ケンブリッジ大学の図書館で拙著『黒船前後の世界』(岩波書店、1985年)を読み、日本に帰ったら、ぜひお会いしたいと、見事な日本文のメールをくれた。
 彼女は中国の西安外国語大学を卒業後、京都府立大学に留学して博士号を取得。専門は都市史、建築史。その後、名古屋大学で研究、日本学術振興会の若手研究者海外派遣事業で、2年間、ケンブリッジ大学に在籍していた。

 帰国後、神田学士会館で会うと、イギリス・日本・中国の史料館等で収集した史料をもとに、港湾建造と運河・道路の拡張等のインフラ投資を文字史料や地図で解明し、また都市区画の発展とその建築様式を明らかにする等、アヘン戦争から約100年にわたる上海近代史を国際政治とからめて描くという壮大な構想を話してくれた。その成果は近く著書になる。

 昨春、岡山大学の日本人学生と留学生に日本語と英語の授業を担当する専任特任講師となる。今年の6月、「ペリー来航と開国」の講義に学生が強い関心を示したとメールをくれた。東アジア都市史の授業で、「黒船前後の世界」をいかに面白く英語で語るかが一つの挑戦だという。
 そして別件として、ケンブリッジ大学名誉教授のジョン・コーツ(John Coats )先生の来日に合わせ、3人で会いたい、彼から趣味(が高じて著名なコレクター)の有田焼の青花(せいか)の話を聴いてほしい、「…やっとジョン・コーツ先生を加藤先生に紹介できること、とても興奮しています」とあった。

 ジョン・コーツさんの名は聞いた覚えがあるが、記憶が定かでなく、陳さんに問い合わせた。「専門は数学、オーストラリア出身、ケンブリッジ大学で学位取得、ケンブリッジ大学のPure Mathematics教授、現在は名誉教授。…海外に流出した日本の陶磁器等の収集家です。彼が特に気にしているのは、17世紀有田焼の青花の製造と海外販売ルートです。コーツ・コレクションの青花は、17世紀のものが多く、九州焼物博物館の所蔵品よりも古い。青花は有田のどこの窯が生産したのか、どういうディーラー(例えば中国商人)の手により、長崎港から輸出されたのか、謎が多いようです。…しかも、有田焼の青花は一瞬で消え、その後は朱色で絵付けされる柿右衛門がブランドになります。…加藤先生の想像力をお借りして、答えが出るかもしれません。…彼はまたイギリスの東洋学者アーサー・ウェイリー(Arthur Waley)を崇拝し、Everybody needs Mathematics and historyと主張しています」とのこと。

 こうして7月17日(祝日)、神田学士会館で昼食を取りつつ歓談する機会を得た。穏やかな笑顔でイギリスの大学英語(街で耳にする英語とは違う)を話す。懐かしく、40年前の在外研究で招いてくれたリーズ大学、ロンドン大学SOAS校、ケンブリッジ大学ニーダム研究所、また講演に行ったオクスフォード大学セントアントニーズ校等の記憶が蘇る。
 アーサー・ウェイリー(1889~1966年)はコーツさんのケンブリッジ大学の大先輩でもあり、なによりも『万葉集・古今和歌集』の英訳(1919年)、『源氏物語』の英訳(全6巻、1921~33年)、『枕草子』の英訳(1928年)に加え中国古典の『詩経』、『老子』、『西遊記』、『李白』等の英訳で広く知られる。

 コーツさんの青花コレクションの写真と解説を入れたUSBを拝受。彼は青花がどのような経路を経てイギリスに運ばれたかを知りたいと言いつつ、長崎港輸出説を推していた。
私は、青花がイギリスのみに残ることから、平戸に11年間(1613~23年)だけ置かれたイギリス商館から直接イギリスへ送られた可能性もあると考えた。
 謹呈した加藤祐三・川北稔著『アジアと欧米世界』(『世界の歴史』第25巻、中公文庫 2010年)は、過去500年にわたるアジアと欧米の交流史を描いている。その地図や絵図等とコーツさんの愛蔵品をからめた話や、陳さんの近代東アジアの都市化についての話題等で大いに盛り上がった。

 後日、私は東京大学文学部図書室で平戸イギリス商館長リチャード・コックス(Richard Cocks 1566~1624年)の日記“Diary kept by the head of the English Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻刻した『イギリス商館長日記』(『日本関係海外史料』)のうち)という大部な史料(1978~82年刊)を見つけた。
 1613年、イギリス東インド会社がコックスを日本へ派遣、その商館長日記である。英文版は3冊、1冊目は1615(元和元)年6月1日~1617年7月5日、2冊目は1617年7月6日~1619年1月14日、3冊目は1620年12月5日~1622(寛文4)年3月24日。和訳版は2冊で、附録が2冊。手書きの英文は読み難いが、翻刻と注付き和訳のおかげで、400年前の英語を楽しむことができる。
 日記を書いたコックスは、劇作家で初期近代英語の祖とされるシェイクスピア(William Shakespeare, 1564~ 1616年)より2歳若い同時代人である。コックス49歳の日記は次のように始まる。

June 1615, 1. This mornyng littell wind Noerly, fayre wether all day, but a fresh gale most p’rt of day as aboue said, but calme p’r night.
This day 9 carp’ers and 31 labo’rs, 1 matt maker. And we bought 5
greate square postes of the kings mastaer carp’ter: cost 2 mas 6 condrins p’r peece.
1615年6月1日。朝、弱い北風、一日快晴なるも、日中、かなりの強風。夜には鎮まる。
この日、大工9人、人夫31人、畳職人1人。王の大工棟梁から角柱(大)5本を買う。価格は1本あたり二匁六分。(原文は縦書き、一部改訳)

 スペリングが現在と少し違う語彙もあるが、訳文もあり、ほぼ理解できる。単語の簡略表記も法則が分かれば想像がつく。

 取引した商品には、陶磁器もある。読み進めるうちに、青花に出会えるかもしれない。

20世紀初頭の横浜-(7)岡倉天心『日本の覚醒』

 岡倉天心(覚三)は、1903(明治36)年に『東洋の理想』、04年に『日本の覚醒』、06年に『茶の本』を、つづけて刊行している。3作品とも英文で書かれており、日本に関心があり、英語なら理解できる人々が想定読者に入っていたと思われる。日清戦争(1894~95年)を経て、日露戦争(1904年~05年)前後の国際情勢の変化を踏まえ、日本文化を海外発信しようと書かれた作品である。

 天心の略歴を簡単に見ておこう。1863(文久二)年2月14日、武蔵野国横浜村、いま横浜市開港記念会館のある場所(福井藩が開いた生糸輸出の商館「石川屋」)で生まれ、そこで幼少期を過ごした。

 ここは1859年の開港に伴い造られた掘割を行き来する人を見張る7つの関門の内側、すなわち「関内」にある(今はJRの駅名に残る)。海側に税関を置き、山手方面に外国人居留地を、反対側の馬車道方面に日本人町を置いた。天心の生誕地は日本人町の中央を走る本町通りの起点(最初は5丁目、のち順番を逆にして1丁目)、つまり外国人居留地にいちばん近い所にあった。

 関内の日本人町と外国人居留地を隔てるものはなく、日本と外国の商人たちが自由に互いの店を訪ね、品定めや売買をしていた。これがいわゆる「居留地貿易」(居留地内だけで許される貿易)である。当然ながら内外の子どもたちも一緒に遊びまわった。天心の英語は店頭で大人の商取引を聞いて修得したと言うより、子ども同士の遊びのなかで会得したとする方が素直である。のち宣教師バラの英語塾に通い、磨きをかけた。

 9歳で長延寺(神奈川宿)に預けられ、漢籍を学ぶ。一家で東京へ移った後は、13歳で東京開成学校に入り、16歳で東京大学の一期生(森鴎外と同期)、1880(明治13)年卒業後に文部省勤務。のち東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)の設立に貢献、1890(明治23)年に初代校長(学長)となった。また日本美術史研究の開拓者でもあり、フェノロサ(米国の東洋美術史家、東京大学で哲学・政治学等を講義)とともに日本美術の調査を行い、1893年には中国へ古美術の調査に行く。文化財保存の重要性に気づき、1897(明治30)年、古社寺保存法(現在の文化財保護法につながる)の成立にこぎつけた。

 1898年(35歳)、東京美術学校から排斥され辞職、連帯辞職した横山大観らと日本美術院(台東区谷中)を創設。1901~02年、インドを訪問しタゴール(詩人、アジア初のノーベル文学賞受賞)等と交流、04年、ボストン美術館中国日本美術部に勤務(1910年部長)、06年、日本美術院を茨城県五浦へ移す。

 天心の英文三部作は、こうした東京美術学校、文化財保護、日本美術院創設等の多岐にわたる活動の後にインドを訪れ、ボストン美術館の仕事に移る、満40歳から43歳にかけての「晩年」の作品である。20世紀初頭の横浜と世界を語るには欠かせない作品であるが、スケールが大きすぎる。しかし避けては通れない。そこで『日本の覚醒』(1904年、ニューヨーク)を取り上げる。底本には英文収録の講談社学術文庫版(THE AWAKENING OF JAPAN, by OKAKURA KAKUZO、夏野広訳、2012年、色川大吉「解説」再録)を使い、訳文の一部を私の責任で変更した。

 本書は全10章からなる。全体の展開を概観するため、目次を先に見ておこう。Ⅰ章「アジアの夜」、2章「蛹」、3章「仏教と儒教」、4章「内からの声」、5章「白禍」、6章「幕閣と大奥」、7章「過渡期」、8章「復古と維新」、9章「再生」、10章「日本と平和」である。

 1章「アジアの夜」の冒頭で、西洋人にとっての日本イメージを次のように描く。「日本の急激な発展は、外国人にとって、多かれ少なかれ一つの謎である。この国は、花と軍艦の国、壮烈な武勇と繊細な茶碗の国、新旧両世界の薄明のなかに奇妙な陰影が交錯する、風変わりな辺境の国である。…我々が諸国民のあいだに地位を占めた今日、それは多くの西洋人の眼には、キリスト教世界への脅威と映っている。…世界は新生日本に、一方では猛烈な非難を、他方では的外れな賞賛をあびせた。我々は近代進歩の寵児となり、同時にまた<黄禍>そのものとなった。」

 つづけて言う。「友愛は熱く高まり、世界の協力は実現されたとするが、それは何を目的とするのか?…富の獲得を競い、真の個性を損ない、幸福と満足は募る渇望の犠牲にされ、…中世の迷信から解放されたなどと誇るが、富の偶像崇拝に代わっただけではないのか? 」

 2章から7章までは、徳川体制の本質を抉る「史論」である。「家康の偉大な才能は、ミカドの権威を国家的規模において認めた」(皇室崇拝を認めた)が「徳川家だけがその最高司祭者」とし、公家を優遇し、大名より上の身分としたうえで、政治的権力は剥奪したと述べる。仏教と新儒教に触れ、これが「危急のさいに平静を失わない日本人の瞑想的気質」を育てたと言う。

 とくに興味深いのは、6章「幕閣と大奥」で、ペリー来航に際しての阿部正弘老中首座の政策についての次のように述べる。「当時の情勢を驚くほどよく理解し、日本をして今日あらしめた開明的政策を採った」と高く評価、さらに「…彼の行動の真の意義は、相反するさまざまな批判と没落政治家につきものの汚名に埋もれ…ペリー提督との日米和親条約の談判さえ彼を謗る者により過小評価されてきたが、われわれを外の世界と最初に接触させたのは、じつにこの条約であった。…彼の穏健さは臆病ではない。彼が好戦的な大名たちに押し流されていたなら、おそらく日本は悲惨な目にあっていた。使節への交渉拒否が砲撃を招いたであろうし、サムライたちがいかに勇敢でも旧式の大砲と防衛で最新装備のアメリカ人に対抗できたであろうか。日本が惨禍をまぬがれたのは、阿部正弘がわが国の無防備状態を的確に認識していたおかげである。…また交渉にさいして無限の忍耐と公正さを示したアメリカの提督に心から感謝しなければならない。…」。また7章で「…阿部正弘の自由主義政策のおかげで、(彼らは)西洋の知識も少なからず身に着けていた…」とも言う。

 人物評価にこれだけの紙数を割くのは、ここ(阿部正弘)だけである。歴史の転換点を鋭く見抜いた史論である。ただ史実の具体的な記述が少ないため、本書だけを読んでも分かりにくい点があろう。阿部の主導した対ペリー外交の具体相については、拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)を参照していただきたい。

 他に名前が出てくるのは、7章では井伊直弼、佐久間象山、勝海舟である。8章「復古と維新」では、近代の特徴として①立憲政治、②高等普通教育、③徴兵制、④女性の地位の向上を挙げるが、個人名は挙げていない。9章「再生」では幸田露伴、尾崎紅葉、陶工の真葛香山、画家の狩野芳崖等10名を挙げる。10章「日本と平和」では「自己犠牲という高貴な理想を守った」大久保利通、木戸孝允、岩倉具視の名前を挙げるにとどめ、記述はごく短い。

 最後に、始まったばかりで行方不能の日露戦争(1904~05年)に関連して、「ロシア軍の野蛮性」に触れ、「…今日ロシアは、極東の平和的国民が禍をもたらすと言うが、その非難はロシア自身に返されるべき…」と強く述べる。そのうえで「ヨーロッパはわれわれに戦争を教えた。彼らはいつ平和の恵みを学ぶのか」と結ぶ。(続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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