身近になった機械翻訳

 4月24日(月曜)の午後1時~4時半、東京駅近くの丸の内サピアタワー内ステーションコンフェレンス5階で、豊橋技術科学大学(1976年設立の国立大学)が主催する「機械翻訳シンポジウム AIで変わるグローバルコミュニケーション-身近になった機械翻訳」が開かれた。

 ホットな話題であり、その成否がグローバル化時代の日本と世界の未来を左右するほど大きなテーマである。メールで案内をくれたのが後述の藤原洋さん、本ブログでも何度か取り上げた(2014年10月1日の「地球環境とサイエンス」や2016年5月24日の「ありがたき耳学問」等)。

 まず原邦彦(豊橋技術科学大学副学長、以下、敬称略)の主催者挨拶で、昨年6月に始まった共同研究の経過と現在の課題についての概要説明があった。共同研究の相手は、この日の共催者である日本マイクロソフトとブロードバンドタワーの2社で、テーマは自然言語の機械翻訳、その活用範囲を主に日本語出版物の外国語訳とインバウンド(訪日外国人)向けの地域情報等の外国語訳(と対話)に絞る、としている。

 ついで共催者の日本マイクロソフトCTO榊原彰とブロードバンドタワー会長の藤原洋が挨拶、お二人は大学が機械翻訳の技術向上に邁進するのに対し、企業としてその支援体制と普及にどう取り組むかを語る。ここで「日本語文献の翻訳発信」と「訪日観光客対応」という2つの緊急需要に応えるための機械翻訳の社会的役割が明示された。

 基調講演は井佐原均(豊橋技術科学大学教授、情報メディア基盤センター長、本共同研究のリーダー)による「機械翻訳が広げるグローバルコミュニケーション」。今回の講演の前提となる氏の研究課題を知ろうと、同大学ホームページで見ると「人間の知的な活動の中核である言葉に関する研究を通して、コンピュータによる言語理解を実現」することとして3つの具体的テーマを掲げており、とくに下記の2つが深く関係している(「です、ます調」を改めた)。

 テーマ1:「人間の思考を模擬し、発想を支援する Creative Information Retrieval技術の研究」。その概要は「人間の発想を支援する創造的情報検索(Creative Information Retrieval)システムの研究。辞書やウェブの文書から言葉の意味関係を抽出し、人間の思考に合った概念ネットワークを作成、このネットワークを用いて、人間と同じように連想するシステムを作成する」こと。キーワードは、概念体系、語彙意味論、情報検索、発想支援。

 テーマ2:「国際競争力の強化のための産業文書の効率良い多言語化の研究」。その概要は、「自動車や楽器など東海地方の中核産業の企業文書を対象に、重要語句の抽出技術や後編集技術を確立することにより、文書の多言語化を支援する。機械翻訳の実用化に向けて、情報発信のための(機械)翻訳環境を実現する。具体的には、日本語の規格化(制限言語)、対訳用語辞書や対訳データベースの構築、集合知による後編集の研究を行う。」キーワードは機械翻訳、情報発信、サービス工学。

 プロジェクト進捗報告「実用化に向けて。研究からビジネスへ」(井佐原均+AIスクウェア)が示すのも、テーマ1と2に関連が深そうである。

 ついで長尾真(京都大学元総長)が特別講演「機械翻訳の次の課題」で研究の現段階と次の課題について述べた。ア)論文等のテキストの機械翻訳は語彙数の増加等により急速に向上するが、イ))対話文等の機械翻訳は文脈や発語場面の設定に課題が多く残り、ウ)文学作品等の機械翻訳は難しい、と。

 休憩をはさんで、クリス・ベント(マイクロソフト研究マネジャー)の招待講演「機械翻訳技術の最先端」が行われた。その講演内容にも、英語の講演がすぐ日本語に訳されスクリーンに映されるとの予告にも期待が膨らんだが、思わぬ伏兵(プロジェクターの不具合)によりスクリーンには写されなかった。だが各人のスマホには反映され、概要を把握するには十分な訳文であった。

 日本マイクロソフトは、本年4月7日、榊原彰(前掲)が次のように表明したばかりである(要約)。「Microsoft Translator アプリや Skype 翻訳(Skype Translator) など Microsoft Translator を活用したすべてのアプリとサービスにおいて、日本語をテキスト翻訳および音声翻訳の双方が可能な 10 番目のサポート言語として追加する。これにより日本語を話す人々は、既にサポートされている 9 言語(アラビア語、中国語(マンダリン)、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、ロシア語)を話す人々と、リアルタイムに対話ができるようになる。」と。このお披露目も兼ねていた。

 最後のパネル討論「機械翻訳がもたらす新しいコミュニティーへの期待」には、各分野から坂村健(東洋大学、元東京大学教授)、熊田順一(JTB総合研究所主任研究員)、溝口敦(メディアドゥ取締役)、藤原洋(前掲)、田丸健三郎(日本マイクロソフト業務執行役員NTO)の5氏が参加し、井佐原均(前掲)の司会で進められた。各分野の挑戦と経験を踏まえた発言はとても興味深く、堪能できたのは参加した聴衆の特権である。

 私の独断と偏見で、いくつかの発言を記しておきたい。①安価な機械翻訳ができれば、視聴覚障害にも応用が可能になる。②外国語の障壁が低くなる分、コミュニケーション力を増やす教育が望まれる。③翻訳は文章の「送り手」と「受け手」のどちらが適しているか、それぞれの利点は何か。④訪日観光客はいま世界で16位、目標値を高くし2020年までに4500万人を目ざしたい、経済効果は乗用車2台=訪日観光客3人に相当する。⑤旅マエ・旅ナカ・旅アトをつなげるには機械翻訳による情報提供は不可欠、それを通じて日本の「美しさ」と「楽しさ」の深淵へ誘うことができる。⑥機械翻訳により日本の膨大な書籍をデジタル出版して外国へ提供し、電子図書館も作りたい。⑦全訳ならぬ「要約の技術」も展開できないか。⑧機械翻訳の精度が95%に近づくと新たな難問が生じるのではないか。
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岡倉天心市民研究会

 岡倉天心市民研究会(岡倉天心横浜顕彰会)とは、天心(1862~1913年)の生誕150年、没後100年を記念し、2013(平成25)年、三溪園で茶会を、そして横浜市開港記念会館(天心の生誕地)で「天心フォーラム」を開催、これを受けて作家の新井恵美子さんを会長に、千葉信行さん(元神奈川新聞社)を事務局長として2014年6月に発足した団体である(以下、同会)。

 ついで同年8月に同会は会報『天心報』を創刊、以来刊行をつづけ、今年10月刊が第14号である。A4(4段、縦組)の6~12ページ組(号による)で講演録が中心。千葉さんの情熱と広い人脈が光る。

 この「天心フォーラム」について、私は『(都留文科大学)学長ブログ』106号(2013年11月1日、本ブログのリンクにあり)に一文を掲載、「しばらくは天心を追いかけ、私なりの天心観、天心をめぐる人の環、明治期の世界情勢、日清・日露戦争という 100 年前の大転換期を考えてみたい」と書いた。

 それから3年近くを経て、本ブログに「20世紀初頭の横浜-(7)岡倉天心『日本の覚醒』」(2016年9月20日)という短文を書くことができた。天心の英文3部作(ほかに『東洋の理想』及び『茶の本』)のうち、本書は美術論ではなく、江戸時代以降の日本人の根底に流れる<精神>に関する史論である。

 そして2016年10月22日(土曜)、初めて同会主催の市民講演会(横浜市開港記念会館)に出かけた。講演に先立ち、「岡倉天心生誕之地」の生誕碑(上が御影石、下が大理石)を囲み「天心忌」(命日は9月2日)が行われた。碑の題字は日本美術院同人・安田靭彦、天心の顔のレリーフは日本美術院同人・新海竹蔵による。新井会長はやむない事情で欠席、高井祿郎さん(副会長)や千葉さんたちに、私も飛び入り参加させてもらった。

 この生誕碑の由来を千葉さんに尋ねると、カバンに入れた冊子『岡倉天心生誕記念碑建設記念』(全53ページ)のコピーを気前よく下さった。この碑は横浜開港100周年(1959年=昭和34年)を機に、その前年に発足した「岡倉天心生誕碑建設委員会」が提案、募金で造られた。冊子には除幕式の写真6葉、扇谷義男の「献詩」、天心の略歴、世話人(内山岩太郎、平沼亮三、野村洋三、半井清、大仏次郎、唐沢俊樹、矢代幸雄の錚々たる名士7名)による発起人ご承諾お願い、除幕式次第、寄付金一覧、建設費収支明細書(594,100円、うち3,100円が差引不足)、除幕式(1958年5月16日)の模様、来賓挨拶、欠席者の挨拶文等が含まれる。矢代幸雄挨拶(記者の記録)には天心とウォーナーやタゴールとの交流に触れた部分もあり、貴重である。

 この横浜開港100周年は戦後の復興過程にあり、開港50周年祝賀会(1909年)や後の開港130周年(1989年の横浜博覧会)、開港150周年(2009年)に比べて動きが鈍かった。生誕碑のある一帯も駐留軍の接収地内にあっただけに、その建造は大きな意味を持った。今年で58年になる。

 なお天心が生まれた時代の横浜居留地、彼が英語の話す・読む・書くを修得した環境等、またその前提となった日米和親条約(1854年)、日米修好通商条約(1858年)、横浜開港(1859年)、「関内」や「居留地貿易」については、上掲のブログ拙稿「20世紀初頭の横浜」等をご覧いただきたい。

 1時半から始まった第15回講演は、古田亮さん(東京芸術大学美術館准教授)の「日本美術を見る『目』-岡倉天心に学ぶ絵画の見方」。古田さんの専門は美術史、キューレータとして展示企画を精力的に展開する一方、執筆にも多忙である(『俵屋宗達-琳派の祖の真実』2010年、平凡社等)。

 今回の講演は『美術「心」論 漱石に学ぶ鑑賞入門』(2012年)や図録『夏目漱石の美術世界展』(2013年)等を踏まえ、「天心に学ぶ、美術作品の見方」(知・情・意の各方面から)、「過去を見る目」(とくに雪村をめぐり)、「同時代を見る目」(国内勧業博覧会の天心の審査要領、品位・意匠・技術・学識の4点)とつづき、最後に「天心没後の日本画」にも触れた。詳細は『天心報』の次号に掲載予定である。

 これまでの『天心報』掲載の講演録のタイトルを一覧する。

 創刊号(2014年8月):大矢紀(日本美術院同人)「日本人の器超えた大人物」。第2号:新井恵美子「横浜と幼少期の天心」+千葉信行「開港場で身に付けた英語力、その後の天心の有力武器に」。第3号:草薙奈津子(平塚市美術館館長)「天心が伝えたもの」+清水緑(三溪園学芸員)「響きあう美術の琴線-天心・三溪・観山」。第4号:千葉信行「わが天心体験―美を感じる時」+「天心、多角的アプローチ」。第5号:小田裕子(裏千家正教授)・川原澄子(表千家教授)「『茶の本』を味わう」。第6号:河合力(寛方・タゴール会事務局長)「天心・寛方・タゴール」。第7号:佐藤志乃(横山大観記念館学芸員)「天心と大観-美術でも国の近代化を担う」。第8号:山口静一(埼玉大学名誉教授)「フェノロサと天心-東京美術学校開校まで-フェノロサに育まれる天心の美術観」。第9号:田中喜芳(ホームズ・ドイル研究家)「岡倉天心とシャーロック・ホームズ」。第10号:清水恵美子(茨城大学准教授)「岡倉覚三・天心と弟・由三郎」。第11号:岡本佳子(国際基督教大学アジア文化研究所研究員)「『東洋の理想』を読む」。第12号:桶谷秀昭(文芸評論家、東洋大学名誉教授)「天心と近代-明治から平成まで」。第13号:山口静一(埼玉大学名誉教授)「天心とフェノロサ-その2 天心受難は洋画派の策略」。第14号:柏木智雄(横浜美術館副館長)「恩師の無念 絵画で表現-天心の弟子たち-観山と靭彦」。

 いずれも本格的で、平易な語り口である。開催順の講演録を再編集すれば、天心像がいっそう立体化するにちがいない。天心の存在と功績を広く世に知ってもらうため、一書の刊行を期待したい。

かながわ検定・横浜ライセンス

 地域のもろもろを探り、ときには歩いて確かめる、「知るを愛し 学びを楽しむ」をスローガンに生まれたのが、「かながわ検定」である。横浜ライセンスと神奈川ライセンスの2種がある。主催は「かながわ検定協議会」(横浜商工会議所、神奈川新聞社、tvk=テレビ神奈川)。

 横浜ライセンスは第1回を2007(平成19)年3月に開催、これまで10回実施してきた(神奈川ライセンスは第3回で休止)。10年を節目に、今年度(2016年度)をもって事業を終了する。

 横浜ライセンスには、4級(小学生向け、50問)、3級(初心者向け、100問)、2級(中級、100問)、1級(上級、50問)の4種がある。回答方式は4級が三択、試験時間は45分、また3級と2級は四択で、1級は記述式、試験時間はいずれも90分である。

 出題分野は5つ。「歴史」は昭和末までで全体の約4割、「現代」は平成の出来事で約2割、「自然分野」は横浜の地理・地形・生物・環境等で約1割、「カナロコ問題」は神奈川新聞のニュースサイト「カナロコ」の記事から採ったもので約1割、そして毎年の「テーマ問題」が約2割である。

 受験の参考図書として、かながわ検定協議会編の『よこはま百問』、『よこはま百問2009』(開港150周年記念号)、『過去問題集全1000問』、そして横浜市教育委員会・かながわ検定協議会共編『わかるヨコハマ』(協力:横浜銀行)、『横濱』誌(神奈川新聞社)の毎年春号が刊行された。

 『わかるヨコハマ』は2009年が初版で、横浜市立中学校の社会科・理科・「横浜の時間」で使われ、2015年の第7版まで版を重ねた。市立中学でこれだけ質の高い教材が作られ、教育現場で使われたのは、おそらく他の自治体にはない横浜特有のものであろう。

 横浜はきわめて若い都市である。京都遷都から約1200年、鎌倉幕府創設から800年、江戸幕府から400年という長さに比べれば一目瞭然。都市横浜は、1854年に横浜村(現在の大桟橋・県庁を含む「関内」)においてペリー提督と結んだ日米和親条約に起源し、1859年の開港を機に「居留地貿易」により急成長(本ブログの連載「20世紀初頭の横浜」等を参照)、わずか150余年の間に、全国・世界から進取の気性に溢れる人々が集まり、人口370万超の日本最大の政令市に発展した。

 そのため「三代住んで江戸っ子」に対して「三日住めば浜っ子」と言われ、因習にとらわれない、開放感に富む都市ができあがった。その一方、市民の一体感が薄いとも言われ、それを払拭しようと行われた最初の事業が、開港から50年後、1909(明治42)年の横浜開港50周年祝賀会であった。ここで開港記念日を定め、市歌(森鴎外詞)や徽章を定めた(本ブログの「開港記念日と横浜市歌」2016年6月9日号)。

 この伝統を継承し、いまも6月2日の開港記念日には全市的な式典を開催、市歌を斉唱する。また市立の小中学校は休校とし、さまざまな行事に参加できる措置を講じている。

 こうした背景を踏まえ、この10年間、横浜の多様な側面を知る一つの手段として行われてきたのが、「かながわ検定・横浜ライセンス」の資格試験にほかならない。その設問の監修・作成を担ったのが出題編集委員会である。

 委員は5名、五十音順に斉藤多喜夫(元横浜開港資料館・横浜都市発展記念館調査研究員)、佐田宏(横浜YMCA学院・ホスピタリティ実践教育センター顧問)、中村實(横浜ふね劇場をつくる会会長)、松島義章(神奈川県立生命の星・地球博物館名誉館員)と委員長の私(横浜市立大学名誉教授)、役職等は今年度のもの。最終の委員会には横浜商工会議所から松原乙彦さん、神奈川新聞社から霜崎謹二さん、協議会事務局から土屋清さんが参加、ともに終了を惜しんだ。

 委員会では1問ごとの内容や表記法をめぐり激論を交わすと同時に、過去問との関係や難易度の評価等、各方面にわたる点検を行う。私にとっては新たな調べと勉強の場であり、貴重な体験であった。

 受験者向けの関連セミナー、体験セミナー、模擬試験も行われてきた。今年度の関連セミナーは9月と10月に開催、佐田宏「横浜の観光とおもてなし」、斉藤多喜夫「近代横浜の歴史、ここがポイント」、金子昇「押さえておきたい、横浜の自然」、岡田直「ハマ線の今昔」、相澤雅雄「知られざる横浜線」の計5回。体験セミナーは横浜シティガイド協会による「横浜線を歩く」であった(すべて終了)。なお模擬試験は11月5日(土曜)と9日(水曜)の2回を予定。

 神奈川県タクシー協会やデパート、ホテル等が職員を受験させ、顧客サービス向上の一助とする等の支援もあり、一定の受験者を確保し、大きな成果を残した。10年間の合格者総数は2,887人、うち1級合格者は489人にのぼる。なお前回の第10回試験では、85歳の女性が見事1級に合格した。横浜を訪れる観光客が増えるにつれ、資格保持者の活躍に期待が寄せられる。

 一度取得したライセンスは終身有効である。「かながわ検定協議会」を構成した横浜商工会議所、神奈川新聞社、tvkの3者が原簿を保管するので、万一の紛失にも、いずれかで確認できる。

 試験はあと2回。12月11日(日曜)の第11回と来年3月26日(日曜)の第12回。なお第12回の試験は2級と1級のみとし、また2級合格者を1級の受験資格とした従来の枠を撤廃、誰でも受験できるようにした。会場はいずれも横浜市立大学金沢八景キャンパスである。

 この最後の機会に奮って挑戦していただきたい。

金沢八景と泥亀

 私の横浜市立大学(以下、市大)在任は29年間(1973~2002年)で、大学勤務の大半を占める。京浜急行線(京急)の金沢八景駅下車、いま駅前は再開発の最中だが、改札を出て左手のガードをくぐり徒歩約5分の所に大学本部と瀬戸キャンパスがある(ほかに福浦、舞岡、鶴見の3キャンパス)。

 12世紀末、鎌倉幕府の開府にともない、入り組んだ湾の多い六浦(むつうら)は重要な港となり、将軍らの遊覧する景勝地としても意識される。19世紀中頃に歌川広重の浮世絵「金沢八景」が描かれるや評判が高まり、江戸や上総・安房から海路で鎌倉・江の島見物や大山詣をする人々の船着き場として、いっそう栄えた。京急駅名の金沢八景(1930年開設)は、これに由来する。

 市大の住居表示は横浜市金沢区瀬戸22-2(〒236-0027)である。瀬戸(せと)は、国道16号に面して建つ名刹・瀬戸神社、あるいは広重の浮世絵のなかの「瀬戸秋月」(後述)から採ったが、町名として置かれたのは新しく1978(昭和53)年である(横浜市金沢区地域振興課編「歴史息づく横浜金沢」)。1962年施行の住居表示に関する法律に基づき、郵便番号と新しい住居表示が全国各地で作られた流れの一環であり、私の着任時(1973年)には六浦と呼ばれていた。

 新住居表示は、伝統ある旧町名を持つ東京都心部では、これらを廃して広域名にまとめる傾向があり、各地で反対運動も見られた。これに対して、広域の地名を細分化し新しく住居表示を作る例もある。市の最南端に位置する金沢区は1948(昭和23)年に磯子区から分区、大規模な埋立と急激な人口増に伴い、新しい街区と住居表示を作った。

 広重の浮世絵は、次の8つの景勝地を絵に描き、その名称と特徴を示す4字成句を付す。小泉夜雨(こずみやう)⇒手子神社(小泉弁財天)。称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)⇒称名寺。乙艫帰帆(おっともきはん)⇒海の公園より内陸の寺前地区の旧海岸線。洲崎晴嵐(すさきせいらん)⇒洲崎神社。瀬戸秋月(せとしゅうげつ)⇒瀬戸神社。平潟落雁(ひらがたらくがん)⇒平潟湾。野島夕照(のじませきしょう)⇒野島夕照橋付近。内川暮雪(うちかわぼせつ)⇒内川入江か瀬ヶ崎から九覧亭あたりの平潟湾の一部。

 八景の1枚1枚は多色刷りであるが、別に1枚の大きなモノクロ版「金沢八景」も各種刊行され、土産物として珍重された。1998年、私が学長に就任すると茂手木元蔵名誉教授(ギリシャ哲学)がその金龍院版を寄贈してくださり、卒業生の鈴木幹雄さんが額装、それを学長室の壁面に掲げた。

 正門の前で京急の踏切を渡ると、地名は同じ瀬戸、そこに日本製鋼所横浜製作所(1936年~)があったが、1983年に区内の新しい埋立地・福浦へ移転、跡地に大型商業施設ダイエーができ、いまイオン金沢八景店となっている。

 瀬戸の東側が泥亀(でいき)、京急線の金沢八景駅と金沢文庫駅に挟まれた一帯である。平潟湾の入海を干拓して生まれた陸地で、干拓は約350年前の1668(寛文8)年に始まった。この干拓事業に着手した人物の雅号が泥亀であることは、その頃から聞いていた。泥亀が町名として採用されたのも1975(昭和50)年と新しく、その字面と響きが心に残った。いまは高層マンションが立ち並び、京急線の車庫や東急車輌の工場がある。

 そこに今回、「企画展 泥亀永島家の面影~永島家文書とその世界~」開催の連絡を受けた。昨年末、テニス仲間でもある市大木原生物学研究所の坂智宏(ばん ともひろ)教授主催のシンポジウムが開かれ(本ブログ「コムギの里帰り」2015年12月23日掲載)、そこで十数年ぶりに木原生物学研究所の創設者・木原均博士(1893~1986年)の三女・木原ゆり子さんと再会した。

 コムギの祖先の発見、植物ゲノム研究等で著名な木原博士の研究交遊録を写真と解説で記す『一粒舎主人写真譜』(昭和60年)をゆり子さんから贈っていただき、つづく今回の企画展の案内に「永島家は母方の実家です」とあった。

 泥亀が私の胸中で急浮上、7月20日、坂さんの車で称名寺内にある県立金沢文庫での企画展に行った。

 永島祐伯(ながしま ゆうはく、1625~95年)は、但馬国の九鹿村(くろくむら、現在の兵庫県養父市)の医師の子、14歳の頃、両親とともに江戸に出て昌平坂学問所で学び、湯島聖堂の儒官として幕府の文書整理に当たった。そして隠居地として拝領した野島の一角を拠点に、1668(寛文8)年、平潟湾の干拓に着手する。

 泥亀新田の干拓史の概略は、展示図録等によれば次の通り。干拓地は塩分が多く水田には向かず、レンコンを採取する蓮田や塩田として利用された。1703年(元禄16年)、元禄大地震により新田が荒廃、1786年(天明6年)、祐伯の6代目の子孫・段右衛門による一旦の完成の後、7月に洪水に見舞われ、1791年(寛政3年)には洪水で水没。1849年(嘉永2年)、7代目の忠篤(亀巣、1801~91)によりついに完成に至った。ちょうど広重の浮世絵が完成した頃である。

 泥亀の雅号(のち屋号)の由来は、無為自然を説く中国古代の思想家・荘子の「死して甲羅を霊廟(祖先の霊を祭る所)に三千年も祀られる亀より、生きて泥のなかを這う亀のように、自由に生きたい…」(意訳)から採ったと言う。

 企画展を参観後、永島家の菩提寺・龍華寺(りゅうげじ、真言宗)に墓参。寺は12世紀、源頼朝が六浦山中に創建した浄願寺に起源し、関東では珍しい御室桜が咲き、紫陽花や牡丹の名所であり、「ボケ封じ観音立像」もある。この寺で、永島家最後の当主・永島加年男(かねお)さん(2008年没、享年78)の遺稿をまとめた『泥亀永島家の歴史』(平成27年、写真、年表、家系図等を加えて約400ページ)を頒布していると聞き、和田大雅住職にお会いしたが、ご子息が市大医学部卒との縁から、和田仁雅著(ご尊父)・和田大雅編の名著『真言の教え』(国書刊行会、平成11年)まで頂戴した。

 旧道を移動、坂さんと「隅田川」で鰻重を食べた。かつて市大での難しい公務が山場を迎えると、畏友・小島謙一(物理学)とよく行った店である。

 その後、戸塚区舞岡にある木原生物学研究所を訪れ、ゆり子さんに「木原均記念室」(2010年設置)を案内していただいた。いちばん奥に博士の遺品の机や書棚が置かれ、壁には愛用のスキーとテニスラケット、これに向かい合うように手作りの各種解説パネル、それに展示ケース内に「農利萬民」の色紙や『最新スキー術』(大正8年、博文館)等がある。本書は博士26歳のときの処女出版で、レジャー・スポーツ用ではなく、雪の多い地域で郵便配達等に使う実用スキー術を指南した内容である。

 思いがけなく木原均博士と永島和子夫人のご縁も伺うことができた。いろいろな人物や風景が時空を超えて結びつく一日であった。

開港記念日と横浜市歌

 快晴の6月2日、みなとみらい大ホールで、林文子市長(2009年~)主催の「平成28年度 横浜開港記念式典」が開かれた。皆がまず起立し、横浜市消防音楽隊の伴奏で「横浜市歌」を斉唱、私も気持ちよく歌った。正面のパイプオルガンに照明が当たると、翼を拡げ飛翔する一羽のカモメが浮かび上がる。

 両脇の2本のバナーにMinatomirai Hall Since 1998とあるのを改めて眺めた。このホール建設は高秀秀信市長(在任は1990~2002年)の肝いりで、斉藤龍助役(女性)が進めた成果である。私事にわたるが、1998年は私が横浜市立大学長に就任した年でもある。

 受付で手にしたパンフレットに「横浜開港の歴史」という短文が載っている。157年前の1859年7月1日(安政六年六月二日)の横浜開港に触れ、「1854年3月31日(嘉永七年三月三日)に幕府とペリー提督との間で結ばれた日米和親条約と、1858年7月29日(安政五年六月十九日)に幕府とハリス総領事との間で結ばれた日米修好通商条約を受けたもの」とある。

 この記述に2点を補足しておきたい。第1が日米和親条約の交渉の地を、人口密集地の神奈川宿を避けて横浜村(現在の大桟橋の付け根の開港広場・横浜開港資料館から神奈川県庁あたり)としたのは幕府で、戦争を伴わない「交渉条約」であり、また条約内容も「不平等」ではない。これについては、拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)に示した。

 第2が開港場の具体的な場所についてである。日米修好通商条約ではKanagawa(神奈川)開港とあるが、具体的にどの地を指すかを巡って幕府(横浜村説)とハリス(神奈川宿説)が「対話」を繰り返すも合意に至らぬまま、ハリスは上海へ行ってしまう。

 そこで幕府は神奈川宿下の芝生村(西区浅間町)から横浜村まで約8キロの「横浜道」(よこはまみち)を急造、途中の戸部に神奈川奉行所を置き、その出先として運上所(税関)を海岸沿いに建て、外国人居留地(現在の山下町)と日本人町を造成、条約上の開港の日にぎりぎり間に合わせた(拙稿「横浜か、神奈川か」『横濱』誌2008年10月号)。この(横浜)開港場が現代につながる。 
なお開港の日は日米条約では米独立記念日の7月4日とあるが、後続の日露条約で7月1日(安政六年六月二日)とされ、それに揃えて3日早くなった。

 パンフレットには、作詞:森林太郎(鴎外)、作曲:南能衛(よしえ)の「横浜市歌」もある。3番まで次の通りである。

  わが日の本は島国よ
  朝日かがよう海に
  連(つらな)りそばだつ島々なれば
  あらゆる国より舟こそ通え
 
  されば港の数多かれど 
  この横浜に優(まさ)るあらめや
  むかし思えば苫屋(とまや)の煙 
  ちらりほらりと立てりし処
  
  今は百舟百千舟(ももふね ももちふね)
  泊る処ぞ見よや
  果なく栄えて行くらんみ代を
  飾る宝も入りくる港 

 横浜市歌の誕生とその契機となった開港50年祭について、拙稿「市歌と市章」(連載『挿絵が語る開港横浜』第11回、神奈川新聞2008年6月14日)により補足する。なお本ブログ「20世紀初頭の横浜」の関連項目も参照されたい。

 1909(明治42)年は横浜開港50周年、市政公布20周年である。それを祝おうとする各方面の動きがやっと実り、キャンペーンに大きな役割を果たした「横浜貿易新報」(以下、「横貿」、神奈川新聞の前身)が、1909年4月11日、社論「横浜市歌を作るべし」を掲げた。これが横浜市歌の起源である。

 6月1日、「開港記念祝賀会開催及び開港記念館建設に関する準備委員会」(委員長は三橋信方第5代市長)総会が開かれ、祝賀会へ向けて動きだすが、旧暦の6月2日を開港記念日とするには間に合わなかった。

 6月10日の「横貿」社論は「横浜デイのデモンストレーション」。その中で7月1日の開港50年祭を機に「横浜市民の意気を示す」ため横浜日(デー)を毎年開いてはという提案をしている。この横浜日(デー)が「開港記念日」の起源と言える。なお1918(大正7)年の市会で7月1日を開港記念日として休日とする決議がなされたが、1928(昭和3)年、梅雨の最中の7月1日を避け6月2日とすると改め、現在に至る。

 横浜市歌は6月17日の「横貿」紙に発表された。横浜市が鴎外と南(東京音楽学校、東京芸大の前身)に依頼、南の曲に鴎外が詞を乗せた。謝礼は鴎外に100円、南に50円とある。歌詞には算用数字表記の楽譜が添えられている。

 人口500人にも満たない半農半漁の横浜村が、いまや人口40万人を数える大都会に発展(約1000倍)、100隻、1000隻の船が停泊する。これぞ開港50年にして成る都市横浜と歌う。五港開港場(北から函館、新潟、横浜、神戸、長崎)のうち、横浜港が生糸輸出を軸に外貨を稼ぐ筆頭として日本経済を牽引、首都東京に近いことも関係して横浜の急成長をもたらした。
 
 市歌は予告通り、7月1日、新港埠頭における横浜開港五十年記念大祝賀会式典で、小学生たちが歌って披露した。翌2日付けの「横貿」社論「万歳の声」が市民の興奮を伝えている。

 横浜市歌は日本で初めての市歌である。大阪市歌は12年後の1921(大正10年)にできた。中之島の市庁舎建設を機に公募、選考には鴎外、幸田露伴ら5名が当たり、堀沢周安の詞が入選、作曲は中田章(東京音楽学校)。また東京市歌は1926(大正15年)に制定、高田耕甫作詞、山田耕作作曲である。

 制定から107年になる現在も、横浜市立の学校の入学式や卒業式、また市の賀詞交換会等でこの市歌は歌われており、開港を契機に誕生・成長してきた都市横浜の誇りを今に受け継いでいる。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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