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木原均博士の魅力

  横浜市の最高顕彰である横浜文化賞の第68回(令和元年=2019年度)の受賞者6名と若手の奨励賞2名の贈呈式が、11月22日(金曜)、みなとみらい小ホールで行われた。林文子市長の心のこもった挨拶があり、受賞者たちがめいめい応える。つづいて前回の奨励賞を受賞したヴァイオリン大関万結さん、ピアノ入江一雄さんによる記念コンサートが開かれた。

  横浜文化賞は芸術・学術・文化・まちづくり等の部門からなり、その<社会貢献>の部の受賞者が木原ゆり子さん(横浜市立大学木原生物学研究所木原記念室名誉室長)である。受賞理由は次の通り。

  横浜における生命科学振興の推進者
ゲノムの概念を確立した遺伝学者・植物学者である父・木原均(ひとし)博士の研究理念を受け継ぎ、(財)木原生物学研究所入所(1978年)、その横浜市立大学移管後は木原記念横浜生命科学振興財団に勤務、以来、一貫して横浜における生命科学の振興に貢献。
 未来の科学者の芽を育むことを目的に、生きものの観察、調査、実験などの活動を奨励する木原記念こども科学賞の審査員を務め、横浜の子どもたちに対する生命科学の知識普及啓発に尽力。
2010年より木原記念室名誉室長として生命科学を学ぶ学生や市民に対する展示や講演会等の企画に従事。木原博士の研究姿勢や業績を伝え続けている。

 上記からキーワードを一つだけ挙げよと言われれば、末尾にある<研究姿勢>を挙げたい。換言すれば研究を支える情熱、着想を支える行動原理。

 木原博士は1893(明治26)年10月21日、東京の芝白金に生まれ、麻布中学から北海道大学予科(当時は東北帝国大学農科大学、以下、北大)へ進み、1920(大正9)年から京都大学(以下、京大)で長く研究教育に当たった。

 1984(昭和59)年、木原生物学研究所(以下、木原生研)が横浜市立大学(以下、市大)に移管される時、市大側の一人として40代後半の若造の私が、90歳を越える博士にお目にかかる機会を得た。まさに中国古典に言う「謦咳(けいがい)に接する」驚きと喜びである。打合せの場はご自宅、そして三女のゆり子さんの手料理をいただいた。

 それから30年。木原生研教授でテニス仲間の坂智広(ばん ともひろ)さん主催のシンポジウムで、ゆり子さんと再会する(本ブログ2015年12月23日掲載「コムギの里帰り」)。

 このシンポジウムは、「アフガニスタン復興支援に向けた人材の育成とコムギの里帰り-SATREPSアフガンプロジェクト市民フォーラム「カラコルム」(記録映画)DVD上映会とトークセッション」である。

 JST/JICA地球規模課題対応国際科学技術協力事業プロジェクト「コムギの里帰り-持続的食糧生産のためのコムギ育種素材開発」、すなわち厳しい自然環境下で内戦後の復興途上にあるアフガニスタンの「自国のコムギ品種改良を支える若手研究者の育成」を目的とする、5年間の共同研究の成果報告と、今後の国際協力について考える市民フォーラムである。

 そこで記録映画「カラコルム-カラコルム・ヒンズークシ学術探検の記録」(イーストマンカラー、東宝、1956年制作)の上映があった。この映画を私は19歳のとき、池袋の映画館で観て強烈な印象を受けた。

 外貨保有高が極端に少なく海外遠征が難しい1955年、京大が戦後初の総合的学術調査隊(植物・地質・人類の3分野、総勢12名)を編成、タルホコムギ(パンコムギの祖先種)を発見し、その発祥起原地を確認した。

 その総隊長の木原均(62歳、いずれも当時)、生態学者で登山家の今西錦司(53歳)、東洋史学の岩村忍(50歳)、植物学の中尾佐助(43歳)、民族学の梅棹忠夫(35歳)諸氏の元気な顔が映っている。

 砂漠の中のオアシス、バザール、標高3000メートル以上の台地でも栽培されるコムギ、そのコムギで作られるナンやチャパティ、羊肉料理、豊富な果物、6000メール超級の雪山連峰…等の生活・風俗や目を見張る自然景観がスクリーンに拡がる。この壮挙は若者たちに大きな夢を与えた。

 木原博士が植物遺伝学の研究、とりわけコムギ研究に入るきっかけは、ふとした偶然からだという。北大予科に進学してまもなく、先輩の坂村徹の講演「遺伝物質の運搬者(染色体)」に強い感銘を受ける。数年後、坂村さんが海外へ留学、後を託されたのが大学院生になっていた木原青年であった。

 北大にはクラーク博士以来の伝統である貴重な素材、コムギ・オオムギ・ライムギ・カラスムギ等が集積していた。染色体数の異なる種と種の雑種を作り、その子孫の染色体の変化を調べる。その研究の最初の成果が<五倍小麦雑種>の創出である。

 1920(大正9)年、北大の恩師・郡場寛(こおりば かん)博士が京大に新設された理学部植物学教室教授に異動すると、木原博士も京大の助手(現在の助教)に就く。1924年に助教授(准教授)、1927~56年教授。コムギ研究の世界的権威となり、ゲノムという概念を提唱。「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されてある」(1946年)という名言を残した。また高等植物(スイバ)の性染色体を発見、種なしスイカの開発者でもある。

 1942年に(財)木原生物学研究所(京都)を設立、戦後の1956(昭和31)年に横浜へ拠点を移す。1982(昭和57)年、財団設立40周年を機に市大への移管が決まり、1984(昭和59)年、植物系部門を中心とした市大の附置研究所となった。それから35年になる。

 市大への移管とその後の展開は、高井修道学長(1982~1990年在任)の下で草薙昭雄さん(生物学、ボクシングの四回戦ボーイ)が主導、彼の急逝後は小島謙一さん(物理学)が中心となり、細郷道一市長(第17代、在任1978~1990年)や市役所職員が積極的に進めた。私も文科系の一人として参加した。

 博士が偉大な植物遺伝学者であるとともに、戦後初の総合的学術調査の総隊長を務めたという、もう一つの顔に私は魅きつけられた。それは私が東洋史学を専攻する背景となり、大学院生時代の、世界35カ国をまわる「広島・アウシュビッツ平和行進」につながった(『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』(弘文堂 1965年、梶村慎吾と共著)を参照)。

 さらに拙著『紀行随想 東洋の近代』(朝日新聞社 1977年)にもつながる。欧米志向の強い時代に、アジアに関心を抱いた契機の一つが上掲の記録映画である。旅を通じてアジアの現場を肌で知り、そこで得たアイディアを基に史料を漁り、関連の研究から刺激を受けつつ次の展開を図ろうと試みた。

 博士の研究の発展過程を広く伝えようとするのが、木原ゆり子著「木原均先生小伝~研究と探検とスポーツと」(「北海道大学総合博物館 ボランティア ニュース」の<抜粋特集号>2015所収)である(以下、<小伝>)。この題名は同ニュースから抜粋特別号を作成した編集部が付したもの。ネット検索も可能である。

 <小伝>の記述は副題とは逆に<スポーツマンの顔>、<探検家の顔>、<研究者の顔>の順に、①北大時代、②スポーツマンの顔、③探検家の顔、④研究者の顔-その1、⑤研究者の顔-その2、⑥研究者の顔-その3、あとがき、とつづく。おかげで幼少期から世界の科学者へと歩む過程がよく分かる。

 <小伝>に付されたゆり子さんの略歴は、「立教大学文学部英米文学科卒、早稲田大学語学教育研究所、(財)木原生物学研究所、木原記念横浜生命科学振興財団勤務の傍ら、自然・いのち・食・環境をテーマに研究会や講座を主宰、また野生オオカミの生息地を訪ねて世界各地を旅する。現在(2015年)は横浜市立大学木原生物学研究所<木原記念室>名誉室長」。

 この<小伝>には、私が記録映画「カラコルム」で得た感動の背景をなす、木原博士の魅力がさまざまに描かれている。今回受賞されたのを機に再読した。いくつか引用したい。

 【引用1】「学生時代には学業半分・スポーツ半分の生活だったと本人は述懐しているが、スポーツは半分どころではなかったようである。夏は野球、冬はスキーに明け暮れながらも、ライフワークとなるコムギの遺伝学に出会えたのは幸運であった。」

 【引用2】「北大在学中に学び身につけたのは、植物を収集して標本を作ること、植物の名前を覚えること、労を惜しまずコツコツと努力すること、日々の観察を怠らず<自然>から学ぶこと、フィールドワークの重視、徹底的な実践・実証主義、非権威主義、チャレンジ精神等々…。いずれも北大の学風として今も脈々と受け継がれているものばかりである。」

 【引用3】北大野球部ではエース投手で三番、その運動部で得たものとは、「仲間との協調の精神と苦境にある時にも奮い立つ勇気、そして生涯変わらない友情こそ最大の収穫だったと誇らしげに語っている。…」

 博士の最初の著作作は『最新スキー術』(遠藤吉三郎との共著、1919年、博文館)で、木原記念室に展示されている。競技スキーにとどまらず、北海道の郵便配達員をはじめ全国の雪国生活者に向けたスキー指南書でもある。

 また全日本スキー連盟の技術委員長を8年、連盟副会長を6年、会長を10年間つとめ、その間の第8回冬季オリンピック(1960年、アメリカのスコーバレー)と第9回冬季オリンピック(1964年、オーストリアのインスブルック)の選手団長をつとめた。もはやサイドワークの域を越えている。科学的スポーツを提唱し、<根性論>と<メダル獲得競争>が支配するオリンピックへの警鐘を鳴らした。

 郡場博士が京大旅行部(学生の団体)の部長に就くと木原博士も旅行部に関わる。そこにヒマラヤ登山史と熱帯・極地史に名を残す錚々たる面々、今西錦司、西堀栄三郎、桑原武夫たちが集まり、世間では京都大学を<探検大学>と呼ぶようになる。

 1931(昭和6)年、旅行部の先輩と現役がヒマラヤ遠征の母体として京大学士山岳会を結成すると、木原博士は翌年、会長兼旅行部部長となる。人を得て、さらに人を呼び、5次にわたる探検を成し遂げた。

 すなわち、第①次1938年の内蒙古~動植物の生物学調査、第②次1955年のカラコルム・ヒンズークシ~コムギの祖先を尋ねて、第③次1966年のシッキム・アッサム~イネの起原を探る~、第④次1966年のコーカサス~コムギの起原を求めて~、第⑤次1973年の南北スリナム~カワゴケソウに惹かれて。

 1976(昭和51)年、北大創基100周年記念事業の一つ、国際学術講演会で、83歳の博士が「生命科学の現代的使命」と題する講演を行った。

 【引用4】「長年、遺伝学の基礎研究に従事してきたが、研究成果が応用面にまで発展することが重要だと常々考えていたので、1978(昭和53)年から再び北海道に拠点を置いて、北大、帯広畜産大学…等の協力でコムギの共同研究プロジェクトを立ち上げ、核と細胞質の間のヘテローシス(雑種強勢)が作物の品種改良に役立つかどうかの研究を始めています。……地球は人間だけのものではなく、全ての生物がここで生を営んでいること、人間は他の生物なしに生きることができないと述べ、医師が人類の病気を予防したり治療したりするように、生命科学(者)は地球の医師となって働いてほしいものです」。

 研究意欲はとどまることを知らず、90歳を過ぎてもチベット調査に情熱を燃やした。「近代品種がチベットに流入する前に調査したい。…ムギ類だけでなくイネについても調査が必要である。予備調査だけでも進めたい。奥地までは行けなくても、せめてラサまで出かけて、隊員からの吉報を待ちたい」。これにゆり子さんは、「父は過去を振り返らない人だった。今したいこと、これからしたいことだけが日々の関心事だった」と記す。

 <小伝>のあとがきで、「…家庭人としての父親については知っていても、…公人としての父親について知る機会が少なく、…身内が書くことの難しさが加わって立ち往生することもしばしばであった」と述懐している。

 このたび『一粒舎主人写真譜』(1985年、(財)木原生物学研究所)と、ゆり子さんが編集・監修した『木原均博士が見ていた世界‐「小さい実験」を中心に』(木原生物学研究所木原記念室 2016年)もいただいた。

 前者は、公私にわたる博士の生涯を写真で追う貴重な作品で、次女の田中ゑみ子さんと三女ゆり子さんが編纂したもの。ふだん日記をつけない博士が学会等で海外に出かけたときは備忘録をつけていた。40冊を越えるそれを「学術旅日記」として編集する過程で、写真そのものが語る豊富な世界をそのまま年譜として編むことに考えが変わった、と<はじめに>で書いている。

 後者は木原博士の研究所跡地にできた横浜市こども植物園で開催された展示を基に制作、ルーペとノートと鉛筆があればできる「小さい実験」を綴る。小麦の芽生えの観察をはじめ、身近な動植物の<左巻き>と<右巻き>の観察、雌雄の見分け方等々を伝える絵入りの冊子。<動植物の名前を覚えよう!>、<違うことってすばらしい!>、<驚きをカラダでたしかめよう!>、<木原均博士の足跡をたどる>(年譜)、<木原生物学研究所(京都)で掲示されていた「研究者・作業者の心得」>等の記述が含まれる。

 子どもたちに向け、身近にある多様な動植物に触れて欲しいと願う、ゆり子さんの想いが伝わってくる。これぞ木原博士の<研究姿勢>を彼女らしい形で、たゆまず推し進めている証左ではないか。
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ラグビーW杯2019

 <ラグビー・ワールドカップ 日本大会 2019>が、9月20日(金曜)から始まり、日本各地で展開されている(以下、<ラグビーW杯2019>と略称)。ラグビーW杯は1987年に創立、4年に1回開催される。今回が第9回にあたり、初の日本開催となった。

 ラグビーW杯は、夏季オリンピック、サッカーFIFAワールドカップとともに、世界3大スポーツイベントの一つと言われるが、日本のラグビーは青少年からプロにいたる広範な選手層と広いファン層という点で、野球、サッカーに後れをとっていた。

 FIFA(国際サッカー連盟)の創設は1904年、日本サッカー協会(JFA)がFIFAに加盟したのは1929年である。FIFAワールドカップの初の日本開催は2002年で、それに向けて各地に競技場(スタジアム)が作られ、今回のラグビーW杯2019でも使われている。

 ラグビーは強豪国を見れば分かるように、その発祥の地イギリスと英連邦を中心に広がったスポーツである。過去にもいくつかの加盟国を持つラグビーW杯があったが、現在の世界20カ国・地域からなるラグビーW杯は、32年前の1987年に創設された。

 ラグビーの起源は遠くさかのぼる。約200年も前の1823年、イングランドの有名なパブリックスクール・ラグビー校でのフットボール(現在のサッカー)の試合中、選手がボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出したことにあると言われる。

 近代におけるスポーツ(原義は<気晴らし>)の誕生を歴史的に位置づけると、都市化のなかで自然から切り離され、肉体を駆使する機会を失った人びとのストレス解消ための<暴力の平和化>の装置と述べた(拙著『イギリスとアジア』1980年 岩波新書)。

 私にとってラグビーは青春時代の想い出とともにある。タックルやスクラムというコンタクト・プレー(肉体の衝突)でありながら、これを暴力沙汰としないのが相手へのリスペクト(敬意)とチームの結束(ONE TEAM)である。

 4年前のイギリス大会(ブライトン)で、日本は優勝候補だった南アフリカ(南ア)に勝利する<大金星>を挙げた。次の開催国が日本と決まると、さらに目標を高く掲げ、オーストラリア出身のエディー・ジョーンズをヘッドコーチ(その下にスクラムコーチ等がつく)に招いて強化、エディーがイングランドの監督に移った後は、ニュージーランド出身のジョセフ・ジェイミーが就く。

 両者の指導法の違いを強調する人は、<エディーからジョセフへの転換>と呼び、コーチ主導から選手の主体性強化への転換を指摘する。選手たちはいっそう<ONE TEAM>(団結)、<ハードワーク>(厳しい練習)を意識し、プライドを懸けて練習を重ねてきた。もちろん開催国ゆえの並々ならぬ声援も大きな力になる。

 参加国は20。プールAからDまでの4組に分かれ、それぞれに5カ国が属し、各プールから勝ち点で上位2カ国(計8カ国)が決勝リーグを戦う。日本は、アイルランド、サモア、スコットランド、ロシア(ABC順)とともにプールA(以下、A組という)に属す。

 ロシアとの初戦は9月20日(金曜)、調布市の東京スタジアム(2001年開場、5万人収容)で行われた。白地に赤のストライプのジャージー(左胸にサクラの花3輪のロゴ)。日本は30:10で大勝。オフロードパス(タックルを受けても倒れるまでボールを持ち後続にパスする)を受けたウィングの松島幸太郎が3トライの快挙を生む。

 リーチ主将は強い突進力を発揮しつつ、選手への声かけ、レフェリーとの折衝等々、そのリーダーぶりが頼もしい。

 試合開始前に台風被災者へ黙祷を捧げ、ついで国歌斉唱。<走る冷蔵庫>と言われる巨漢集団のなかに、小柄で俊敏な司令塔役の田中史朗、流大。古参のトンプソン・ルークや堀江翔太。果敢な若手。計31人の日本代表は多国籍、千差万別。<多様性>の共存である。

 日本の第2戦は9月28日(土曜)、世界2位(つい前まで首位)で優勝候補のアイルランドと静岡のエコパスタジアム(2001年開場、5万人収容)で行われた。日本は先制トライを許すも、田村優の正確なキックで反撃、スクラムでも押し勝ち、前半を僅差の9:12で折り返す。

 後半18分、途中出場の福岡堅樹のトライで逆転、そのまま押し切り、19:12で勝利、勝ち点を9に伸ばして、A組の首位に立った。「日本、大金星!」とメディアは大興奮。決勝リーグの8強入りに大きく近づいた。

 第3戦は、10月5日(土曜)、愛知県の豊田スタジアム(2001年開場、収容4万5000人)においてサモアと対戦。終始有利に進め、38:19で勝利した。スクラム内の混戦で、姫野和樹がボールを奪取し次の得点につなげた功績が目立つ。

 第4戦は強豪スコットランドを相手に10月13日(日曜)、横浜国際総合競技場(1998年開場、7万2000余人収容)で行われた。この前日の12日(土曜)夜、超巨大で強力な台風19号が日本列島を直撃する。横浜や東京では夜9時ころに強風が吹いたものの、想像より速く北へ去り、台風15号が強風被害を残した(2019年10月1日掲載の「台風被害と三溪園観月会」)のとは対照的な印象であった。

 ところが豪雨台風の19号は、広範囲にわたり河川の決壊、氾濫、浸水を招き、被害が日を追って増える。直後には長野県の千曲川等14河川の決壊が報じられたが、関東・東北でも河川の氾濫が次々と判明、1週間後の20日段階で71河川、130カ所が決壊したとの集計が発表された。

 東京・多摩川にまたがる多摩川(全長138km)の下流域では、高層マンションの地下浸水が電源盤を襲い停電、エレベーターが止まり、上下水道が使えず、照明も調理も不可能。オール電化の文明生活が瞬時に消失したとニュースが伝える。
 
 19号の去った翌13日(日曜)、横浜国際総合競技場の日本:スコットランド戦の開催決定にも影響が出た。雨天決行のラグビーだが、会場が使えなければ始まらない。会場近くを流れる鶴見川(全長42・5km)は昔から<暴れ川>と呼ばれている。川からの水をどう処理して氾濫を回避するか。

 スタジアム本体は7階建て。1000本以上の柱に支えられた人工基盤の上に立つ<高床式>であり、3階がフィールド(ピッチ)、4階より上が客席で、1階は駐車場になっている。したがって1階の駐車場が浸水しても、会場ゲートは2階に相当する高架式通路で遊水地外の道路と結ばれているため、徒歩なら出入りに支障はない。

 とはいえ、会場周辺が浸水している。12日(土曜)の朝8時50分、90万立方メートルの巨大な<遊水池>へ水を導き、そこで受けた水を午後に放流した結果、夜には翌13日の試合決行を公表することができた。ちなみに、この<遊水池>は、1998年、建設省=国土交通省により<鶴見川多目的遊水池>(<地下調節池>ともいう)として完成したもの。

 対スコットランド戦の最初はトライを取られるも、日本が反撃に転じ、28:21で勝利、4戦全勝で決勝リーグの8強入りを果たした。オフロードパスをつなげ、最後はスクラム最前列の稲垣啓太がゴール中央にトライ、試合後のインタビューで「…ぼくの人生初のトライです」とニコリともせず応じた。

 この頃からラグビー観戦は熱を帯び、瞬間視聴率が50%を超えた。<にわかさん>と呼ばれるファンが急増する。初めて聴くルール用語ランキングは、(1)<トライ>(相手陣地にボールをつけ、5点を獲得、その後のキックに成功すれば計7点)、(2)<ノックオン>(ボールを前方にこぼす反則)、(3)<モール>(ボールを持った選手を囲み密集して押す戦法)の順であるとか。

 4年前とは違い、いまさら<大金星>とは言わせない。4強入りは確かに悲願ではあったが、終点ではない。その先に向かって作戦を組み、焦点を合わせる。被災地を励ましたい。ファンを喜ばせたい。試合後の選手たちの冷静で力強い表情がそれをよく物語っていた。

 いよいよ決勝リーグである。初の準々決勝(4強を決める対戦)は、19日(土曜)、2つの会場で行われた。大分スタジアム(2001年開場、4万人収容)でのイングラント:オーストラリア戦は40:16でイングランドが圧勝した。イングランドはW杯で過去1回の優勝経験があり、対するオーストラリアは過去2回の優勝経験を持つ。

 東京スタジアムのニュージーランド:アイルランド戦は46:16と大差をつけてニュージーランドが圧勝する。ニュージーランドはW杯で過去3回の優勝を誇る最強豪国である。

 20日(日曜)、夕方から大分スタジアムでウェールズ:フランス戦があり、ウェールズが20:19の僅差で勝利する。決勝リーグは点差ではなく勝敗だけが問題となる一発勝負である。

 東京スタジアムでは、決勝リーグの第4戦として、日本:南アフリカ(南ア)が対戦する。南アは過去2回の優勝経験を持つ強豪国で、ナショナルチーム創設127年目、アパルトヘイトの時代を経て、今年はじめて黒人主将コリシが誕生した。

 この日は3年前に逝去した平尾誠二(1963~2016年)選手の命日にあたり、南アの地元紙は警戒して「平尾を弔うため…」チーム一丸となって南アを破りかねないと報じた。平尾はラグビーW杯の第1回(1987年)から3度出場、<ミスターラグビー>と呼ばれた。

 日本勢は<ONE TEAM>(団結)を標榜、それぞれの役割を自覚し、ワン・フォー・オール(みなのために献身)、オール・フォー・ワン(みながいてこそ自分)を体得した8カ月の強化合宿(宮崎市)を経ている。

 試合は前半3:5と双方の意地の張り合いで終わる。これまでも最初にトライを許しても、後の反撃による勝利があった。ボール支配率は日本が80%という数字も期待を高めた。

 試合中、テレビ画面に流れるテロップは、台風19号から1週間後の関東・東北の状況を伝えている。「住宅被災は5万6000戸」、「箱根の源泉供給が遮断…」、「入浴支援…」、「多摩川から東京湾に流れ出たゴミが25km離れた千葉県の富津港に漂着…」、「災害ごみ回収」…

 後半に入るや、南アの激しいタックルに押し返され、頭上を抜くパントキックにより自陣のゴール近くまで後退、次々とトライを許す。ラインアウトからのスローインも相手に取られる。3つのペナルティーゴール、2トライを許し、ついにノーサイドのホイッスルが鳴った。結果は3:26。日本はペナルティーゴールの3点のみ、1つのトライもできない完敗であった。

 日本チームは、この日をもって解散。翌21日(月曜)の11時過ぎから、ヘッドコーチのジョセフ・ジェイミー、リーチ・マイケル主将が最前列に並ぶ選手たちの記者会見があった。

 「…この悔しさをバネに4年後を目ざしたい」と、チーム一丸となって全力を出し切った表情。「チームの一員であったことを誇りに思う…」とは掛け値なしの本音であろう。

 これから舞台は横浜国際総合競技場に移る。26日(土曜)が準決勝の初日でイングランド:ニュージーランド戦、27日(日曜)が準決勝第2戦のウェールズ:南ア戦である。そして11月2日(土曜)の決勝戦、これら3試合すべてがここで行われる。なお11月1日(金曜)のブロンズファイナル(3位決定戦)は東京スタジアム開催。

 ラグビー観戦に横浜を来訪する内外の方々をもてなそうと、9月20日に始まった「三溪園 和音まつり2019~「音」故知新~」については、本ブログ2019年10月11日掲載の「10月初旬の三溪園」で述べたが、その盛況を受け、いよいよ、その後半が始まる。

 とくに外国人客にとって、三溪園で催される<和音(WAON)まつり2019>は、日本文化を堪能できる絶好の機会となろう。そのため開園時間を19時まで延長、16時半以降は入園無料とし、桜木町駅からのシャトルバスも手配。三溪園外苑のライトアップされた旧燈明寺本堂を舞台に、主に和楽器の演奏を中心に披露する(演奏は18時から30分間)。

 後半のもともとの予定は、10月25日、26日の2日と、28日から最後の11月1日まで連続5日、合わせて7日間の予定であった。ところが超大型台風19号接近で、前半の10月11日、12日、13日の3日分を中止としたため、その振替に27日(日曜)を充て、8日連続の上演となっている。
 
 プログラムは(敬称略)、10月25日(金曜)尺八の松村湧太、26日(土曜)チェロの海野幹雄、27日(日曜)は振替公演で、朝倉盛企+矢吹和仁による津軽三味線の競演とヴァイオリンの森田綾乃の2本立て(演奏時間を15分延長)、28日(月曜)筝の吉澤延隆、29日(火曜)ギター弾き語りのAnna、30日(水曜)ハープの藤本沙織、31日(木曜)篠笛の佐藤和哉、そして最終日の11月1日(金曜)はバンドネオンの平田耕治+永易理恵(ピアノ)。

 ラグビーW杯の感動、被災地への想いを胸に奏でる<和音(WAON>を、多くの方にお聴きいただきたい。

知の再武装の時代に向けて

 標題の「知の再武装の時代に向けて」とは、「丸善」創業150周年記念連続講演会第5回の寺島実郎さんの講演タイトルである。そのネーミングに惹かれて参加した。8月8日(木曜)の夕方6~8時、会場は日比谷図書文化館、3日つづきの猛暑日であった。

 同時に、「丸善」創業者の早矢仕有的(はやし ゆうてき、1837~1901年、岐阜県出身)の多方面にわたる活躍にも興味があった。明治2(1869)年に横浜で洋書及び薬品医療器の輸入販売の<丸善>(当初は<丸屋>または<丸屋善八>)を創業、元金社中(出資者)と働社中(従業員)の両者が構成する近代的会社組織の元祖と言われた。さらに明治4(1871)年、仮設の市民病院を現在の中区北仲通り六丁目付近で開業、これがのちに横浜共立病院、十全病院と名称を変え、私の勤務していた横浜市立大学の医学部(附属病院)の基礎となる。

 寺島さんは現在、一般財団法人日本総合研究所会長、多摩大学学長、一般社団法人寺島文庫代表理事で、元三井物産社員の経験を活かし、経済の諸指標を的確に使い、世界の中の日本について、あるいは世界から見た日本について、鋭い社会評論を行うことで知られている。メディアへの登場も多い。

 本日の講演資料として、(1)世界のGDPシェアの推移(円グラフ)、(2)Digital Dictatorship(デジタル専制)、(3)IМFの世界経済見通しの3つを挙げる。

 まず(1)では、世界のGDPシェアの推移を6つの年(①=1820年、②=1913年、③=1950年、④=1988年、⑤=2000年、⑥=2018年)に分け、推移を縦横に語りながら、日本のシェアを各国・地域と比較して分析する(資料はOEⅭDとIМFのデータ、江戸時代の①=1820(文政三)年は推計値)。

 そこから引き出す結論が興味深い。6つの年次のうち①~③までは日本のシェアが3%、④に16%と急増、⑤でも14%を堅持、それが⑥で6%に急減する。

 これは何を意味するか。戦後の高度成長以来、日本経済を主導してきた製造業が役割を終えつつあるということである。⑥の6%に急減した分を担うのが16%の中国と3%のインド。日本からこれら地域へ製造業が移転したと言える。

 これを受けて「(2)Digital Dictatorship(デジタル専制)」では、デジタル・エコノミーへの構造変化を2019年6月現在の各社の株式時価総額を通じて分析する。

 アメリカのIT5社(GAFA+M)が約450兆円(ドル表示を円換算)、中国のIT3社(Baido.Alibaba,Tencent)が98兆円であるのに対し、日本の東証一部上位5社(トヨタ自動車、ソフトバンクG、NTTドコモ、キーエンス、ソニー)は57兆円であり、第四次産業革命=データリズム(データを支配するものがすべてを支配)のデジタル・エコノミー時代に完全に遅れをとっている、とする。

 関連して、日本の株価時価総額上位10社の推移を1960年から10年ごとに掲げる。このデータからも、製造業からデジタル・エコノミーへの大きな流れが読み取れる。

 最後の「(3)IМFの世界経済見通し」では、実質GDPの過去10年における対前年比%(購買力平価ベース)の統計表を使い、新興国の高い成長率に比して、最近5年間では日本が世界で最下位にあることを明らかにする。

 こうした日本経済の現実を、日本も「まあまあ良くやっている」と流し、「不満は少ないが、不安はある」のが日本人の平均的な心情ではないかと指摘する。

 日本経済の<後退>と今後の見通しを予想する別の指標が、8月12日(月曜)の日本経済新聞(朝刊)の1面に載った。見出しは「ESG×収益力 欧米が先行 人材・投資呼び込む 企業の持続性重視へ新指標」。添付の棒グラフによれば地域別で欧州、北米、アジアが高く、日本がその約半分、ついで中国がその3分の1で、世界平均を大きく割り込む。

 「持続的に高収益を上げられると評価できる企業」として、株式時価総額300億ドル(約3・2兆円)以上、自己資本利益率(ROE=return on equity)が20%以上の263社を対象とし、資本効率を示すROEに企業価値の拡大を目指すESG(Environment=環境、Social=社会、Governance=企業統治)を乗じたものが、新たなROESG指標である。

 なお「企業のブランド力に寄与する」ESGとは、同紙<きょうのことば>によれば、以下の要素からなる。Eが二酸化炭素排出量の削減、再生可能エネルギーの利用、生産過程での廃棄物低減等、Sは供給網での人権問題の配慮、個人情報の保護や管理、製品の安全性の確保等、そしてGは取締役会の多様性確保、適切な納税、贈収賄等の汚職防止等を意味する。企業の質の評価を含み、説得力がある。

 経済面から見た世界と日本、あるいは世界の中の日本の行方を考えれば、このまま放置はできない。投資が逃げ、優秀な人材が流出すれば、将来への期待も後退する。

 ここから寺島さんの「知の再武装の時代に向けて」の提案が始まる。講演を補う詳細は、無料で配布された著書、寺島実郎『ジェロントロジー宣言 「知の再武装」で100歳人生を生き抜く』(2018年 NHK出版新書 560)の中にある。

 新刊本に付す帯には版元と筆者の狙いを要約して示すことが多い。著書の表紙側には「100年をどう生きるか。自分の生き方を見つめ直し教養をアップデートせよ!「ジェロントロジー」という新・学問のすすめ」とある。

 「ジェロントロジー」と括弧を付しているのは日本語にまだ馴染んでいないことを意識してのことであろう。英和辞典にGerontologyは老人学とある。寺島さんは、「健全で幸福な高齢化社会を創造するためには、より広範で体系的英知を結集する必要がある」という点から<高齢化社会工学>と訳すべきとする。

 ついで裏表紙のキャッチには、「体系的な学びを通して、個人と社会システムを変革する。私は<高齢化によって劣化する人間>という見方を共有しない。もちろん、老化による身体能力の衰えを直視する必要はある。だが、人間の知能の潜在能力は高い。心の底を見つめ、全体知に立ってこそ、美しい世界のあり方を見抜く力は進化しうる。<知の再武装>を志向する理由はここにある」と記す。

 高齢者が人口の7%以上を超えると高齢化社会、14%を超えると高齢社会、21%を超えると超高齢社会と呼ばれる。日本は1935年に4.7%で最低であったが、2007年に21.5%の超高齢社会となり、2050年代までは世界1位を堅持すると予測される。こうした時代だからこそ、日本人が<知の再武装>を提起することに大きな意義がある。

 講演の終了時間が迫るなかで、寺島さんは最大の課題が<都市郊外型の高齢化>にあるとし、国道16号線(都心の周囲を環状に結ぶ首都圏の道路、総延長は約250キロ)沿いに造られた団地群とその住民に触れる。この人びとは団塊世代を代表し、<金のたまご>として上京、製造業主導の戦後経済を牽引してきた。いま古稀を過ぎて70代に入った。

 「ニュータウンの問題は、将来の発展の前提となる世代の交代という図式が壊れていること」であり、「…団地やニュータウンというコンクリートのブロック空間に独居老人を閉じ込めたまま地域社会全体が高齢化しているのが、都市郊外型の高齢化の特質…」と指摘する(第2章)。

 最後が演題の本題である「知の再武装の時代に向けて」だが、時間切れで十分には語られなかったため、著書から論点を抜粋しておきたい。誰にも<中年の危機>は訪れる。「…自分は本当にこのような生き方でよいのだろうか」と自問自答を繰り返すうちに、深い心の闇に迷い込む人もいる。

 そうした危機から脱する方法として、一つは人生の使命に気づくこと、もう一つは人との出会い、と述べる。その後に展開する<江戸時代における知の基盤>、<戦前まで生きていた和漢洋の教養>、<戦後社会科学教育の欠落部分とは何か>、<生命科学がもたらす新しい人間観>等の記述は興味深い。そして最後の第5章「高齢者の社会参画への構想力 食と農、高度観光人材、NPO・NGO」には、多くの具体的な示唆が記されている。

<三訓>をめぐって

 本ブログを開くと大きく「月一古典」の文字、その下に「つきいち こてん」と振り仮名。なんとなく分かるような、分からないような題目である。意味を問われ、ごく簡単な説明をしたのが、本ブログを始めてすぐの2014年5月15日掲載の「月一古典 つきいち こてん」であった。

 アシコシ ツカエ(足腰使え)
 ツキイチ コテン(月一古典)
 セカイヲミスエ モチバデウゴカム(世界を見据え 持ち場で動かむ)

 これら3つは、横浜市立大学の学長(1998~2002年)として、また都留文科大学の学長(2010~2014年)として、計8年にわたり入学式や卒業式で学生たちに贈った、私のささやかなメッセージである。いつしか<三訓>と呼ぶようになった。

 本ブログのポータルに「月一古典 つきいち こてん」とあれば、読んでくださる方々の目に自然に入ってくる。開始して5年が経過、そろそろ200号にならんとしている。「月一古典」を含む<三訓>全体が何であり、なぜそれを伝えたかったか、これらの背景をふくめて述べてみたい。

 調べてみると、『横浜市立大学論叢 人文科学系列 第54巻1・2・3合併号「加藤祐三教授退官記念号」(2003年)』所収の「著作目録」(1~36ページ)と「史観と体験をめぐって」(37~88ページ)の末尾5ページにあり、これが式辞を文章にした最初だと思う。

 標題の「史観と体験をめぐって」が示すとおり、歴史学者として欠かせないのが<史観>であり、それは先達から学び取るものであると同時に、歴史学者個々人の<体験>を通じて得られるものと私は考えている。

 この論考では、(1)種々の<体験>から私自身の<史観>を築いた幼少期から学生・院生時代を回顧、ついで大学教員時代を (2)研究中心に気ままに生きた時代の<史観>の拡がり、そして(3)大学運営に関わり、そのなかで<史観>を磨いた時代へと進んだ経緯を述べている。ある種の自伝的な<回顧と展望>(『史学雑誌』が毎年組む特集の題名)である。

 学長退任にさいしての論考であるため、最後を学生へのメッセージで終えた。客観的な分析と記述に徹する学術論文らしからぬものであることは承知の上で、むしろそれゆえに私の心に残っている。

  「…親元を離れて入学した新入生たち、また大学を去る学生たちを激励しつつ、覚悟を持たせたいと考え、…自分の青春時代と重ねあわせた<思い入れ>もあるかもしれない。世代の違う学生たちに、果たしてどこまで通じるか不安はあるが、ここに平成14(2002)年度版卒業式の式辞の一部を引用して…」とある。

 そして次のように始まる。「…みなさんの活躍する時代は、先行き不透明であるからこそ、知恵と元気を存分に発揮する時代にほかなりません。いつの時代においても、現在と近未来は見えにくいものです。先が完全には読めない、これは人間に備わった能力であり、かつ能力の限界でもあります。大学生活で身につけた知性と感性のうち、これから知恵を発揮するときに大切なのは、知性よりむしろ感性のほうでしょう。」

 専門・専攻の多様な学生たちに伝えるべきものは、個別の学問領域への態度ではない、広く全学生に共通する何かがあるに違いない、と考えた。それも折に触れて口ずさむのに適した方法はないか。これが短歌や俳句の7音で構成した<三訓>である。大学の雑誌なので学外の方には読む機会が限られている。そこで以下に主要部分を抜粋する。

  「…まず歴史の長期的持続と短期的変化を把握し、現在と近未来とを考えてみましょう。千年前を振り返ってみると、日本は平安時代で、「源氏物語」や日本最古の医学書である「医心方」を生み、世界のなかでアジアがもっとも先進的な役割を担っていました。今は最先端の科学が時代を引っ張っています。そこに期待と同時に、不安と不透明さを内包しています。…」

  「…もう少し短いスパンで身近な歴史を振り返ってみましょう。私自身がみなさんと同年輩であった青春時代から、半世紀近くが経過しました。この間、社会も環境も教育も大きく変化しました。この変化をご両親や年配の方々に尋ねてみてください。食べ物や遊び場、塾通いの有無、アルバイトの種類や小遣い、就職や勤務に伴う苦労や喜びの経験を聞いてください。…その会話によって時代の変化を把握でき、また家族との新しい絆や思わぬ共通の話題が生まれるはずです。…」

  「…これからの新しい段階に向けて自分が何をしたいかという問題です。この漠然とした欲求の源泉を、私は敢えて内的な<衝動>と呼んでおきます。内面から湧きだす何かであり、なかなか他人には説明しにくいものです。これを大切にし、放棄しないでください。これこそが個々人にとって、かけがえのない個性的で本源的なエネルギー源だからです。」

  「…その衝動が、ある程度まで形をとったものを<夢>あるいは<志>と呼びましょう。その実現には大変な努力が必要です。<夢>や<志>を捨てて<現実>を選択するという言い方がありますが、私に言わせれば、<現実>のほうがはるかに耐えにくいものです。粘り強く<志>に向かい、3回ダウンしても4回目には実現するという気持ちでアタックして欲しい。<攻め>の姿勢、そして<待ち>の余裕を堅持してください。…」

 「この<志>と拮抗する内面的な要因が<不安>です。自分には<志>をかなえるだけの能力が備わっているのか、あるいは、この仕事は自分に向いていないのではないだろうか等々の<不安>です。この種の<不安>を持たない人はいません。誰にも<不安>があるのは当然、<不安>を持つこと自体を心配する必要はありません。<不安>は同時に大きなエネルギー源でもあります。

 「<衝動>と<志>と<不安>、この3者は自分の内面にあるものです。他人の意見を参考にすることは極めて大切ですが、それにもかかわらず最終的にはあくまで自分で決定する以外に手がありません。<衝動>と<夢>と<不安>-この3つを三角形として念頭に置いてください。これが極端な不等辺三角形になると大変です、三角形が極端に歪まないようにするには、どうしたら良いか。友人や家族や上司の意見を聞き、後輩たちの悩みに耳を傾けるのも良いでしょう。<不安>を積極的に前向きのエネルギーに転化する方法として人類の英知を吸収することも必要です。極端な不等辺三角形を回避するための示唆を、3つ進呈しましょう」

 いささか長い前置きの後に<三訓>がつづく。

 「第1が都会生活で軽視しがちな「心身の活動と休息のリズム」を身につけることです。<アシコシ ツカエ>…直立二足歩行は人類だけが獲得した能力です。健常者なら毎日1時間以上、できれば2時間を目標に体を動かしてほしい。心を休ませるには体を動かし、身体が病んだときは心の張りが支えになります。」

 「第2に、月に一度は意識的に古典に触れてください。時代を越えて感動を与えてくれるものが古典だと定義すれば、古典とは本、音楽、絵画などにとどまらず、神社仏閣、港湾、橋、船、また人為を越えた山・川・海、潮の香、樹木や巨石等も古典に入ります。<ツキイチ コテン>と覚えてください。…」

 「…自分にとって大切な<古典>を見つけるには、ただ待っているだけでは無理です。…自らの課題を表現する<発信行動>が必要です。文系の卒業生は、およそ400字×100枚もの卒業論文を完成しています。理系・医系の卒業生も卒業研究をしっかりとやり終えています。修士・博士課程の修了生は言うまでもありません。みなさんの持つこの高い能力は、社会に出て初めて実感するはずです。自信を持ってください。そしてこれからも<発信行動>を存分に発揮してください。<継続は力>です。」

 「第3で最後が、自分と世界との関係です。セカイヲミスエ モチバデウゴカム(世界を見据え 持ち場で動かむ)。最後の<ム>は決意の表明です。順調なときも、行き詰ったときも、あるいは通学や散策の途中で、折にふれて、小さな自分が大きな世界と結びついていることを感じ取ってほしい。…」

 「ここでいう世界とは必ずしも決まったものではなく、それぞれに選ぶ世界であり、大小さまざまです。家族、友人、部活やサークル、会社、学界、国レベル、国際レベル、地球環境など様々です。自分の生きる場と世界を関係づけると、視界が開け、勇気が湧いてくるでしょう。世界に<志>を同じくする人々がいると自覚すれば、自分の持ち場は、よりいっそう確かなものになります。…」

 以上が学生たちに贈った<三訓>であるが、同時に私への自戒でもある。<三訓>を励行しつつ、生涯、一学徒として精進していきたい。

イチョウ巡り

 今年は12月下旬になっても、横浜や東京では、多くのイチョウに黄色い葉が目立った。三溪園の紅葉(イチョウもモミジも)は通常12月上旬がピークだが、12月20日、内苑のイチョウの大樹2本のうち、春草廬そばの樹はまだ黄色い葉を半分も残していた。

 勤続30年を超えた三溪園の造園技士・鈴木正さんは、イチョウの葉が12月下旬にまで残るのは「今年が初めて。…ふだんなら掃き清めて地面が出ている頃…」と言う。改めて見上げると、幹に大きな空洞があった。

 この2本のイチョウを両腕で抱きかかえて測ってみた。約3周、すなわち3尋(ひろ)。私の場合、1尋が約180センチなので、概算で円周5メートル余であろうか。この「腕で抱える測定」を<腕測>(わんそく)と勝手に名づけた。目測、歩測からの思いつきである。

<腕測>はどこまで正確か。勤続60年の川幡留司参事と二人で三溪園の古いアルバムを見たが、樹齢の手がかりになる写真は見つからなかった。

 翌21日、庭園担当の羽田雄一郎主事からは、自身も鈴木さんも見当がつかないと返事が来る。イチョウは自生ではなく植樹であるため、<腕測>と文献資料を結合させて把握できるのではないか。

 文献と言えば、83年前の松永耳庵「三溪園茶会記」(昭和10年11月28日)を思い出した。本ブログ2018年11月1日掲載「三溪園と大師会茶会」のなかで一部を抜粋したが、この茶会記にイチョウの記述があった。イチョウは蓮華院のそばのものである。ただし蓮華院はのちに別の場所に移され、跡地に上記の春草盧を移した。

 「…老銀杏樹の梢を振うたる黄金の葉は地に散り敷いて黄毛氈(きもうせん)を踏む心地がする。主人は誰にも踏ませずに今日の珍客に歩かせるのだとの事。誠に心嬉しく是が眞の茶といふもの、御馳走といふものと感心した。」

 亭主の気遣いを述べる一文だが、「老銀杏樹」と「黄毛氈」の記述から、このイチョウはかなりの大樹である。このとき樹齢50~60年と仮定して、現在の樹齢は約130年以上になる。この地を先々代の原善三郎が入手したのが明治20年(1890年)代で約130年前、その時にイチョウの苗木を植えた可能性が高い。

 蓮華院は、1917(大正6)年、三溪の設計で完成した。三溪はイチョウを守り神として、この樹下を建立場所に選んだのではないか。神社仏閣にイチョウを植える慣習が各地にあったからである。

 翌21日、イチョウを大学のシンボルとする東京大学の、正門から安田講堂へ至るイチョウ並木を通った。まだ葉が残っている。文学部図書室3号館に入り、今日の調べの主題を放り出して、まず『東京大学百年史』を見た。その通史二(昭和60年刊)に「関東大震災による被害、法経教室、八角講堂」や「法文経一号館より見た二号館」の写真があり、イチョウ並木らしきものが写っている。

 本文には、「…明治45(1912)年、正門を建設し、銀杏並木で中央の道路を飾る」(415ページ)とある。1912年に植えたイチョウであれば、苗木の樹齢を加算して100年ほどであろう。なお安田講堂や総合図書館は、関東大震災(1923年)後に建てられたものである。

 そこで並木の、いちばん太いとみられるイチョウを<腕測>した。約2尋。100年で2尋であれば、三溪園の老木の3尋の樹齢が130年以上とする推計の傍証にもなる。文献と<腕測>で樹齢が分かる。大きな発見をしたようで嬉しかった。

 少し離れた工学部建築学科の前の広場には、太い独立樹のイチョウがある。3尋はゆうにあった。樹齢は約150年以上、東京大学以前の加賀藩の屋敷の時代からあったものであろう。

 イチョウは成長が速い上に燃えにくく耐火性が強い。江戸時代には火除け地に植えられた(防火用)。剪定にも強く(管理しやすい)、街路樹(並木)として普及、いま全国で57万本が植えられ、樹種別では最多である。

 イチョウ並木の先駆けは、開港横浜の外国人居留地と日本人町を区切る日本大通りの並木ではないか。これは1871(明治4)年、R・H・ブラントンの、横浜公園(いまのスタジアムをふくむ一帯)、下水道工事、掘割の拡幅と護岸、日本大通りを一体とする設計案に従い、植えられた。

 しかし半世紀後の1923(大正12)年、関東大震災により消失したため、新たに植樹されている。現在もっとも太い木は、本町通りと日本大通りが交差する横浜情報文化センター(旧商工奨励館)の脇にあり、幹回りは約2尋(樹齢100年)であった。

 横浜市立大学瀬戸キャンパスにも、正門からイチョウ並木がつづく。道の脇に「銀杏並木の由来」の銘板があり、「昭和23年(1948)に横浜医科大学予科(医学部の前身)の学生達が植えた」と記されている。翌1949年、新制大学としての横浜市立大学がこの地に設置された。

 このイチョウについて坂智広教授(市大木原生物学研究所)に尋ねたところ、22日(土曜)、写真付きの返信が届いた。太いもので幹回りが1尋半、すなわち樹齢70年前後である。また体育館背後の4本のイチョウは、「胸高周(幹周り)は3m近く」あり、ネット検索から昭和16年(1941)に建てられた海軍航空技術廠支廠の官舎に植えたものではないか、と追伸をくれた。

 さらに松江正彦ほかの報告書「公園樹木管理の高度化に関する研究」(国土交通省国土技術政策研究所の研究資料)を添付、これは北海道から近畿の公園緑地に植栽された1年〜109年生の樹齢が明らかな157本の成長量を調査したものであるが、坂さんはこれを基に胸高の幹周「1尋≒樹齢63年」と算出した。

 私の算出法と2割ほどの差がある。これについては、気温差等を平均化した「データに基づく樹齢推計よりも、記録や歴史的言い伝えの情報を加味した加藤先生の1尋≒50年をベースにした樹齢推計は、個々の樹の歴史を辿るのに的を射ていると考えています」とあった。

 また羽田さんが送ってくれたメジャー計測では、三溪園の覆堂近くのイチョウは幹周412㎝(高さ120㎝あたりでの計測値)と402㎝(高さ140㎝あたりでの計測値)で、春草廬近くのものは幹周422㎝(高さ120㎝または140㎝あたりの計測値)。私の3尋=5メートルとは、これまた2割ほどの差がある。

 メジャーでは幹にぴったり密着させて測ることができるが、<腕測>では幹と腕の間に空間ができ、大きい木ほど密着が難しい。それを念頭に<腕測>を使えば、樹齢の推計にはとても便利である。

 23日(祝日)、小石川植物園(正式名は東京大学大学院理学系研究科附属植物園)を訪れた。門を入るとすぐ大きなイチョウが2本、いまだ黄金色に輝く葉を誇っている。幹の太さは2本とも約2尋。受付で聞くと、樹齢の記録はないとの返答で残念だったが、大きな副産物があった。

 奥の方に遠目にもそれと分かる大イチョウがあり、案内板には、1896(明治29)年、平瀬作五郎による「精子発見のイチョウ」とある。地表近くで根が盛り上がっているため、目測で3尋超か。ほかに地上2~3メートル上から10数本に枝分かれしたイチョウ、これも3尋(樹齢150年)超あった。

 ふだん使うテニスコートの脇にもイチョウ並木がある。いな、正確に言うと、並木を残してテニスコートを作った。芽をふく頃と落葉の時期に、その進行具合が木々ごとに異なる。北東にある一本がまっ先に葉を落とし始めるが、そうなると我々は積もった落ち葉を掃き出す作業に追われる。22日の<腕測>で約1尋半、戦後に植えたものと見た。この太さだと抱きかかえやすい。私の奇妙な行動の訳を話すと「イチョウの方が加藤先生より若い!」と仲間の声。

 イチョウの人気はかなり高い。東京大学がイチョウを大学のシンボルとしていることは前述したが、東京都・神奈川県・大阪府が、また横浜市、国立市等がイチョウを市の木と定めている。特別区では東京都文京区の木でもある。

 はるか太古まで辿ると、イチョウ科の植物は中生代から新生代にかけて広く世界に分布したが、氷河期に絶滅し、イチョウだけが生き残ったため、生きている化石とも呼ばれる。イチョウの原産地・自生地は確認されていないが、日本には中国から伝来した。時期については諸説ある。鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏(神奈川県天然記念物)が著名で、樹齢800年とも言われたが、惜しくも2010年に強風で根元から倒れた。

 日比谷公園(1903年開園)には、とても見事なイチョウがある。移植が難しいと言われるなか、公園を設計した本多静六が近くの日比谷見附から自身の首を賭して移植を成功させたため、「首賭けイチョウ」と呼ばれる。

 神々しいほどの姿に合掌。近寄りがたく、目測により約6尋(≒樹齢300年)と推定した。江戸時代中期のものであろう。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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