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あれから9年

 2011年3月11日の東日本大震災発生から9年が経つ。この大震災を機に始めた私のブログも9年。当時の重苦しい空気が、新型コロナウィルスの世界的拡大に重なる。

3月8日(日曜)、テレビでは幾つかの特集番組が放映され、雨の一日、時間の許す限り観た。その1つが午後2時からのNHKテレビの特集「死者ゼロを目ざせ フジテレビ・ヤフーと共同企画▽連携を探る」である。

 題名の示す通り、フジテレビと検索大手ヤフーとの三者共同企画で、宮古の地域FМや地域TⅤ等が参加した1時間番組である。刻々と迫る事態をメディア(広域から局所にわたる各種)は、いかに連携して伝えるか。

 そこでは、あの大震災発生時に各種メディアがどのように協力できたか、できなかったかを論じ、その教訓を今後いつ起こるか分からない(必ず起きる)大災害発生時にどう生かすかを考えていた。題名の「死者ゼロを目ざせ」が示すように、メディア間の競争より、被災者・被災想定者に焦点を絞る。

 発災からの対応を、(1)発災から3日間(72時間)は被災者の生命にかかわる限界時間、(2)1週間後からは身元確認、避難所、救援物資、(3)1ヶ月経過後は復旧に向けた企画・組織づくり、の3つに分けて考え、それぞれの段階で各種メディアの協力関係も位相を換えることを伝える。

 一方、災害情報を一刻も速く得たい・伝えたいとする利用者側のツールも、この9年間、スマホの普及(機器の防水機能をふくめて)や情報発信機能(および意欲)の向上により大幅に進化した。デマ情報等の混入する危険も増えるが、<発信地情報>を投稿の必須要件とすれば、かなり防げるという。

 9年前のあの日、私は都留文科大学の学長室にいた。学長に就任して初年度が終わろうとする時であった。

 「3月11日午後2時半すぎ、学長室が揺れ始め、次第に大きくなり、立っていられないほどになった。外では多数の教職員や学生たちが、揺れのつづく建物を不安げに見ている。高田副学長が小型のラジオを持ってきた。震源地は東北地方の太平洋沖、マグニチュード8(8・5と言ったか。のち9と修正)、巨大地震と聞こえる。構内では建物の倒壊などはなさそうだ。
 そこに相川総務課長が飛んできて、災対本部と臨時避難所を図書館に置きたいと言う。すぐに毛布や寝袋、懐中電灯や石油ストーブ、水や非常食など必要物資を各所から集めにかかった。春休みのため学生は多くなく、中期日程入試の採点に当たる教員をふくめ、最大時には約150人が図書館に集まり、第二避難所(体育館等を想定)を置く必要はなかった。
翌朝早く電気が復旧し、テレビをつける。巨大津波による廃墟の映像にただ息を飲む。日本列島地図の東海岸が割れるような映像…。原子力発電所は大丈夫かとの思いが脳裏をかすめる。まさに古今未曾有の大災害である。」

 これは『(都留文科大学)学長ブログ 2011~2014』の最初の投稿(2011年3月12日12:30)から再録したもので、発生翌日の12時30分に掲載した記事である。この『学長ブログ』は、冊子版を2014年3月に編集・刊行(A4版2段組、179ページ)、デジタル版は本ブログ(加藤祐三ブログ「月一古典」)の右欄のリンクに再掲した。

 <記憶>は消えやすく、内容も変わることが多い。したがって一刻も早く<記録>に残せと学生に呼びかけると同時に、私自身も可能なかぎり記録してきた。言うなれば「<記憶>から<記録>へ」の勧めである。

 002(第2報)「学生のみなさんへ(再録)」は2日後の3月14日16:50に掲載した。「本学理事会では、被災地出身の学生たちをどう支援するかを協議、さまざまな具体策を議論して実行に移す準備をすすめた。一方、3月14日付けで学生に向けた学長メッセージ「学生のみなさんへ」をHPに載せた」。以下はその一部である。

 「被災された学生のみなさん及びご家族の方々へ、心からお見舞いを申し上げます。安否不明、寒さと不安、物資の不足等、災難はまだつづくと予想されます。歯をくいしばって持ちこたえましょう。被災状況や安否確認もまだ緒についたばかりです。春休みで帰省している学生も多く、学生課が電話連絡で安否確認を開始しました。本学学生の約15%にあたる437名が北海道、青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、長野県の出身者で、このうち13日(日曜)までに無事を確認できたのは283名と全体の64.8%に過ぎません。大学からの安否確認が届いていない方は、学生課へ連絡してください。大学では、被災した学生の授業料免除等を検討しています。授業どころでないと、うちひしがれている人も いるでしょう。心中は察するに余りあります。大学が、今も、これからも、みなさん一人一人を気づかい、応援しつづけることを忘れないでください。今後の安否情報や大学行事の変更等については、逐次お伝えします。被災を免れたみなさんも、未曾有の事態に立ちすくむ思いでしょう。大変でしょうが、できれば、今後の震災復興に自分がどのように寄与できるかを考え始めてください。英知と気力を結集し、文大生のできることを模索してください。みなが絶望の淵に立っている現在、若いみなさんにしかできないことがあるはずです。」

『学長ブログ』は大震災の翌日に立ち上げることができたが、その冒頭に次のような経緯を記した。「今年に入って本学ホームページが大幅に改良された。扉ページの左下には大学blogの欄ができ、その1つに「学長ブログ」が開設されているが、「ただいま準備中です。しばらくお待ちください」とある。…原稿の準備をしているところに、未曾有の大震災が起きた。テーマも字数も未定、定期的な掲載かどうかも未定のまま、始めることとした…」(001「はじめに」)。

 003「卒業式の中止(再録)」は、3月23日16:45の掲載。「3月22日に予定していた卒業式は実施できるのか、それとも中止すべきか、たいへん迷った。15日付けのHPに、予定通り実施する旨を伝えたが、翌16日には、やむなく中止の通知に変更した。東京電力による計画停電により、会場(800席のホールと300席の小ホール)の安全な運営が可能か否か、交通手段の確保はどうかが最大の焦点であった。…」

 これ以降、004「学生の安否確認」、005「被災学生の支援」、006「書きとめておこう-記憶から記録へ」、007「新学期のキャンパス」とつづく。
学生の不安を少しでも軽くしようと語りかけ、課外活動(文化の<桂川祭>やスポーツ<鶴鷹祭>等)の現状を伝え、現役学生を支援する卒業生の活動を紹介した。また卒業生の案内で岩手県の被災地を訪れ、知り得たことも掲載した。

 時が経つにつれて、009「大学の役割」、015「大学図書館を楽しむ」、018「大学教員の4つの仕事」、022「岩手県訪問」、024「防災委員会」、031「宮城県被災地支援 クリスマスコンサート」等へつながる。

 そして3年後、121「学長退任にあたって」(2014年3月14日掲載)に次ぎ、122「黒船来航と洋学」(2014年3月17日掲載)で『学長ブログ』を閉じた。

 翌月6日、『加藤祐三ブログ 月一古典』を始めた。その第1号が「花と新緑の競演」。以来、本稿が234番目にあたり、『学長ブログ』から数えて355番目となる。

 現在最大の懸案事項は新型コロナウィルス、前稿「人類最強の敵=新型コロナウィルス」(3月6日掲載)から数日間のうちにも、刻々と事態は変化している。そのなかから幾つかを記しておきたい。
 
 3月8日(日曜)から始まった大相撲春場所(大阪)は、感染拡大防止のため無観客でテレビ放映。湧き上がる歓声も拍手もなく、座布団が飛ぶこともない。進行も心なしか速い気がする。

 同じ日の日本経済新聞(日曜版)のトップ記事は、「チャートは語る」の1つで、主見出しが「都心の人出 大幅減」、つづく副見出しは「オフィス街2割少なく」、「夜の銀座半分」、「新型コロナ 業務改革加速も」の3つ。欧州で感染拡大、アメリカではニューヨーク州等8州で非常事態宣言が出された。

 9日(月曜)には、アジア・欧州の株安を引きついだニューヨーク株式市場で一時2000ドル超安(過去最大)となり取引が一時停止、同時に為替は円が急騰し、日本の製造業の減益要因が強まる。「最悪のシナリオ具現化」の小見出しも。原油価格も急落した。この日、プロ野球とサッカーJリーグが20日の開催を延期すると決めた。

 10日(火曜)は東京大空襲75周年。関東大震災(1923年)から97年、<スペインかぜ>(1918~19年)のパンデミックから102年(本ブログの前回「人類最強の敵=新型コロナウィルス」)が経った。

 11日(水曜)、各種メディアは東日本大震災の特集を組み、復興の現状や震災から得た教訓等を報じている。そのなかに福島県飯舘村長沼地区に入り汚染土の埋立に尽力している田中俊一さん(原子力規制委員会元委員長、同村復興アドバイザー)の姿があった。

 新型コロナウィルスに関連して、センバツ高校野球の中止を決めた。感染拡大防止のための休校措置・イベント等の自粛要請がもたらす実体経済への影響を見極めようとする報道・論調が並ぶ。感染防止と経済活動の萎縮阻止、それを両立させる難しい政治的判断が迫られている。
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シンポジウム「和食と健康」

 一般社団法人/和食文化国民会議と一般社団法人/キャノン財団の共催シンポジウム「和食と健康 2020春 長寿につながる和食を科学的に再発見する」が2月4日(火曜)、富士ソフト 秋葉プラザのアキバホールで開かれた。

 チラシには次のようにある。「<長寿につながる和食を科学的に再発見する> 高齢化社会となった今、いつまでも健康ですごすことは私たちの願いです。世界的に健康的な食事と評価されている和食は、私たちの健康にどのように役に立っているのでしょうか。健康的な長寿につながる和食について、科学的側面から最新の研究内容を報告します。」

 和食文化国民会議(略称 和食会議)は、「和食:日本人の伝統的な食文化-正月を例としてー」のユネスコ無形文化遺産登録申請を契機に、和食文化を次世代へ継承しようと、2015(平成27)年2月4日に設立、その価値を国民全体で共有する活動を展開している。

 具体的には、(1)「和食」の適切な保護・継承のために必要な情報収集に関する事業、(2)「和食」の調査・研究に関する事業、(3)「和食」の普及啓発に関する事業、(4)「和食」に関する技及び知恵の伝承に関する事業、(5)「和食」の情報発信に関する事業、(6)前各号に附帯又は関連する事業の6つである(ホームページより)。

 「和食」と「括弧」つきなのは新しい命名を意識したためか。今回のシンポジウムのなかでも「和食」ではなく「日本食」の用語が多用されていた。

 そこに4つの部会を置く。(1)調査・研究部会(大久保洋子部会長、(2)技・知恵部会(村田吉弘部会長)、(3)普及・啓発部会(後藤加寿子部会長)、(4)全国「和食」連絡会議(服部幸應議長)。今回のシンポジウムは(1)の活動の一部であり、大久保部会長が開会の挨拶を述べた。

 ついで共催の一般社団法人/キャノン財団の星野哲郎事務局長が挨拶、㈱キャノンとキャノン財団の活動を説明した。国産高級カメラ製造を目的に1937年に設立したキャノン株式会社が、創業70年を機に2008年に設置した一般社団法人がキャノン財団であり、これまでに科学技術の発展に貢献する研究への支援(研究助成)160件(28億円)を行ってきた。11年目の2019年からは「善き未来を切り開く科学技術」と「新産業を生む科学技術」の2つの研究助成に的を絞る。

 いよいよ次の2つの研究発表(各1時間)である。
 発表Ⅰは、石川県立大学生物資源環境学部の小栁喬準教授「伝統発酵食品が育んだ和食文化と、我々にもたらす健やかな未来」
 発表Ⅱは、東北大学大学院医学系研究科の辻一郎教授「和食が心身の健康に及ぼす影響について」
 これを受けて伏木亨/一般社団法人和食文化国民会議代表理事・会長(龍谷大学農学部教授)をコーディネータに、発表者お二人とのパネルディスカッションが行われる。

 シンポジウム・講演会等の情報はかなり多く、そのどれに参加するか。これまで9年近く書きついできた合計353本のブログ記事と関連がある。私のブログ第1号は2011年3月12日、東日本大震災発生の翌日で(『(都留文科大学)学長ブログ 2011~2014年』2014年刊所収)、これは本ブログのリンクにデジタル版を付した。それを継いで、新たに本ブログ『月一古典(つきいち こてん)』を始めて今日に至る。

 そのなかに食材や土地の特性について書いた記事が幾つかある。「都留の地場産業を訪ねる」(『学長ブログ』64 2012年9月29日掲載)は、清らかな湧水を利用したワサビ栽培や自然に生えるクレソン等の食材について書いた。

 和食を題名に入れた最初が「和食が消える?」(2014年8月13掲載)である。2013年末、「和食 日本人の伝統的食文化」がユネスコの会議で<無形文化遺産>への登録が決まったことに関連した記事である。<無形文化遺産>とはユネスコの主催する「世界遺産」(世界自然遺産と世界文化遺産)及び「記憶遺産」と並ぶ3つの登録遺産の1つであり、2006年4月発効の「無形文化遺産の保護に関する条約」に基づく。

 日本からの提案書は、和食(WASHOKU)を「<自然の尊重>という日本人の精神をあらわす、食に関する社会的習慣」と定義し、その特徴を「新鮮で多様な食材とその持ち味を尊重」し、「年中行事と密接な関連」を持つと述べている。

 登録を決めた背景として、世界的な和食の人気がある。米国の1万4000余軒の和食レストラン(この10年で倍増)や香港にある寿司屋・居酒屋等を入れた約900軒、フランスに1000軒、英国に600軒の和食レストランがある。

 この<無形文化遺産>への登録を日本国内ではどう受け止めているのか、ブログでは上野アメ横の乾物の名店<伊勢音>の店主に尋ねている。「…和食尊重は良いことだし、本物の出汁を広めるチャンスでは?」と私が切り出すと、「いや。人工調味料に押され、天然出汁の食材は売れなくなったねぇ。日本人の味覚がダメになってきた…」とこぼした。

 世界の流行や評価と国内のそれが相反する方向にあるのは珍しくない。とくに広義の文化に関するものでは、<自文化>を対象化するのが難しいだけ、<異文化>の眼からの指摘に教えられ、学ぶことも少なくない。

 また<異文化>への過度の憧れから、<自文化>を劣ったものと見る傾向もまだある。こうした過去の2つの傾向を背景とし、ユネスコ無形文化遺産の登録と伊勢音店主の発言を対比し、題名に「和食が消える?」と疑問形を付した。

 ついで「三溪園の正月行事」(2015年1月5日掲載)では、三溪園の正月行事の一つ<包丁式>“宝船の鯛”(ほうせんのたい)について述べた。これは室町時代の長享3(1489)年の奥書にある『四条流庖丁書』に依拠し、横浜萬屋心友会(会員約20名の料理人の会)による<港町横浜と初夢>の一つである。

 また幕末の1854年3月8日、横浜村において幕府代表の林大学頭とアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの、日米初の公式会談である日米和親条約の交渉が行われたが、その<ペリー饗応の膳>を請け負った料理店について「善四郎とペリー饗応の膳」(2018年3月26日掲載)を書いた。

 ほかにも和食をめぐる講演会、とくに熊倉㓛夫(日本文化史・茶道史、国立民族学博物館名誉教授)さんの縁で和食文化国民会議主催の講演を聴き、また仏教伝来に伴う肉食禁止の大義名分と実体との格差等について調べたこともあったが、まだ中途半端であり、それだけに今回のシンポジウム「和食と健康」に大きく期待した。

 発表Ⅰ「伝統発酵食品が育んだ和食文化と、我々にもたらす健やかな未来」(小栁喬準教授)は、図・表・グラフ・写真等のスライド63枚からなる行き届いた資料を配布、それをスクリーンに映し出して説明する。聴衆はスクリーンの映像と口頭説明を合わせて理解し、その確認として配布資料に戻れば良い。情報伝達の方法として視聴者に配慮がある。

 記録を基に世界の発酵食品の歴史をワイン(紀元前6000年頃~)、ビール(紀元前4000年頃~)、ヨーグルト(紀元前5000年頃~)と辿り、日本の神話(日本書紀、古事記等)に登場する酒や果実酒を述べ、さらに魚醤(紀元前5世紀~)や塩辛(鮨、紀元前3世紀~)に及ぶ。

 ついで食品を発酵させる微生物を<細菌>(バクテリア)と<真菌>(酵母、コウジカビ等)に2分類し、前者に①乳酸菌と②納豆菌を、後者に③アルコールをつくる<酵母>と④デンプンからブドウ糖をつくる<麹菌>を入れる。ここに登場するのが蒸した米に<麹菌>(黄コウジカビ)を生やした<米麹>である。

 「<麹菌>がいなければ…日本食はなくなる(存在しない)」ため、<麹菌>は<国菌>とも呼ばれる。大気中に生息するこの微生物<麹菌>(黄コウジカビ)を蒸した米に付着繁殖させる。これが日本酒、甘酒、味噌、醤油、酢をつくるすべての根源である。

 私は中国農業史を勉強するなかで「デンプンを糖化し、さらにアルコール化する2段階の発酵過程を担えるのは<麹菌>だけである。<麹菌>は日本や東アジア沿海部の一部にしか生息しない」と知ったときのことを思い出した。

 ここから石川県の「豊かな発酵食品」の紹介に入る。カブとブリと米麹甘酒でつくる<かぶらずし>、大根と身欠きニシンと米麹甘酒でつくる<だいこんずし>、猛毒の<フグの卵巣の粕漬け>は2年程で毒が消え珍味と化す。奥能登の<あじのなれずし>に及ぶ頃、小栁さんの楽しそうな語り口に誘われて、手間暇かけた滋味あふれる料理の数々が脳裏に浮かんだ。

 次に<米麹>が<乳酸菌>の繁殖を後押しする実態を明らかにし、これが東南アジアの発酵食品との違いとして微生物の世界へ導いていく。発酵食品を通じたタイ、カンボジアの学生たちとの交流も微笑ましい。そして最後を「伝統発酵食品の運命は……食文化が発達すれば発酵食品は……なくなる?」と問題提起、その元凶は料理に時間をかけたくない生活習慣ではないか、と結ぶ。

 15分の休憩を挟み、発表Ⅱ「和食が心身の健康に及ぼす影響について」(辻一郎教授)に入る。こちらも周到な64枚のスライドからなる資料を配布、(1)緑茶・ミカン・キノコと健康との関係、(2)食事パターンとは、(3)日本食パターンと健康との関係、(4)いつ頃の日本食が健康に有益なのか?(1975年説)の4つのテーマを語る。

 日本食の弱点(欠陥)は塩分摂取量の多いことである。そこでカリウム(野菜や果物)の積極的な摂取を勧める。

 日本食といっても一様ではなく、当然ながら時代の変遷がある。1975年の宮城県大崎市の約5万人の調査結果に見る<食事パターン>を世界の良質な<食事パターン>と比較、日本食の米飯、味噌汁、魚類、野菜、海藻、漬物、緑茶の食習慣を理想とする。

 また「和食の構成要素」として次の7点を挙げる。ア)米、大豆、野菜、果物、海藻、魚介類等の食品、イ)緑茶、ウ)味噌、醤油、納豆、漬物等の発酵食品、エ)一汁三菜等の影響バランス、オ)味噌、醤油、酢、みりん等の調味料、カ)椀、和、煮、焼、蒸、揚、酢、飯等の調理法、キ)四季、年中行事との関連等の文化的側面。

 休憩を挟み、パネルディスカッションに入る。伏木さんが聴衆を代表するかのように巧みに発表者お二人から補足説明を引き出す。<食>は楽しく、叡智の結晶、という実感が伝わってくる。

 小栁さんは、「…私は福岡出身ですが、赴任地の石川県や調査先の東南アジアで初めて知った数々の料理、とくに発酵食品に感激しています。…」と言う。和食の地域性と多様性、そして広く東南アジア諸国とつながる共通面も知ることができた。

 なお受付で販売していた渡邊智子・都築毅共著『和食と健康』(和食文化国民会議監修/ブックレット4、思文閣、2016年)は、多様な切り口や視点で<和食と健康>を語っており、興味深く読んだ。

木原均博士の魅力

  横浜市の最高顕彰である横浜文化賞の第68回(令和元年=2019年度)の受賞者6名と若手の奨励賞2名の贈呈式が、11月22日(金曜)、みなとみらい小ホールで行われた。林文子市長の心のこもった挨拶があり、受賞者たちがめいめい応える。つづいて前回の奨励賞を受賞したヴァイオリン大関万結さん、ピアノ入江一雄さんによる記念コンサートが開かれた。

  横浜文化賞は芸術・学術・文化・まちづくり等の部門からなり、その<社会貢献>の部の受賞者が木原ゆり子さん(横浜市立大学木原生物学研究所木原記念室名誉室長)である。受賞理由は次の通り。

  横浜における生命科学振興の推進者
ゲノムの概念を確立した遺伝学者・植物学者である父・木原均(ひとし)博士の研究理念を受け継ぎ、(財)木原生物学研究所入所(1978年)、その横浜市立大学移管後は木原記念横浜生命科学振興財団に勤務、以来、一貫して横浜における生命科学の振興に貢献。
 未来の科学者の芽を育むことを目的に、生きものの観察、調査、実験などの活動を奨励する木原記念こども科学賞の審査員を務め、横浜の子どもたちに対する生命科学の知識普及啓発に尽力。
2010年より木原記念室名誉室長として生命科学を学ぶ学生や市民に対する展示や講演会等の企画に従事。木原博士の研究姿勢や業績を伝え続けている。

 上記からキーワードを一つだけ挙げよと言われれば、末尾にある<研究姿勢>を挙げたい。換言すれば研究を支える情熱、着想を支える行動原理。

 木原博士は1893(明治26)年10月21日、東京の芝白金に生まれ、麻布中学から北海道大学予科(当時は東北帝国大学農科大学、以下、北大)へ進み、1920(大正9)年から京都大学(以下、京大)で長く研究教育に当たった。

 1984(昭和59)年、木原生物学研究所(以下、木原生研)が横浜市立大学(以下、市大)に移管される時、市大側の一人として40代後半の若造の私が、90歳を越える博士にお目にかかる機会を得た。まさに中国古典に言う「謦咳(けいがい)に接する」驚きと喜びである。打合せの場はご自宅、そして三女のゆり子さんの手料理をいただいた。

 それから30年。木原生研教授でテニス仲間の坂智広(ばん ともひろ)さん主催のシンポジウムで、ゆり子さんと再会する(本ブログ2015年12月23日掲載「コムギの里帰り」)。

 このシンポジウムは、「アフガニスタン復興支援に向けた人材の育成とコムギの里帰り-SATREPSアフガンプロジェクト市民フォーラム「カラコルム」(記録映画)DVD上映会とトークセッション」である。

 JST/JICA地球規模課題対応国際科学技術協力事業プロジェクト「コムギの里帰り-持続的食糧生産のためのコムギ育種素材開発」、すなわち厳しい自然環境下で内戦後の復興途上にあるアフガニスタンの「自国のコムギ品種改良を支える若手研究者の育成」を目的とする、5年間の共同研究の成果報告と、今後の国際協力について考える市民フォーラムである。

 そこで記録映画「カラコルム-カラコルム・ヒンズークシ学術探検の記録」(イーストマンカラー、東宝、1956年制作)の上映があった。この映画を私は19歳のとき、池袋の映画館で観て強烈な印象を受けた。

 外貨保有高が極端に少なく海外遠征が難しい1955年、京大が戦後初の総合的学術調査隊(植物・地質・人類の3分野、総勢12名)を編成、タルホコムギ(パンコムギの祖先種)を発見し、その発祥起原地を確認した。

 その総隊長の木原均(62歳、いずれも当時)、生態学者で登山家の今西錦司(53歳)、東洋史学の岩村忍(50歳)、植物学の中尾佐助(43歳)、民族学の梅棹忠夫(35歳)諸氏の元気な顔が映っている。

 砂漠の中のオアシス、バザール、標高3000メートル以上の台地でも栽培されるコムギ、そのコムギで作られるナンやチャパティ、羊肉料理、豊富な果物、6000メール超級の雪山連峰…等の生活・風俗や目を見張る自然景観がスクリーンに拡がる。この壮挙は若者たちに大きな夢を与えた。

 木原博士が植物遺伝学の研究、とりわけコムギ研究に入るきっかけは、ふとした偶然からだという。北大予科に進学してまもなく、先輩の坂村徹の講演「遺伝物質の運搬者(染色体)」に強い感銘を受ける。数年後、坂村さんが海外へ留学、後を託されたのが大学院生になっていた木原青年であった。

 北大にはクラーク博士以来の伝統である貴重な素材、コムギ・オオムギ・ライムギ・カラスムギ等が集積していた。染色体数の異なる種と種の雑種を作り、その子孫の染色体の変化を調べる。その研究の最初の成果が<五倍小麦雑種>の創出である。

 1920(大正9)年、北大の恩師・郡場寛(こおりば かん)博士が京大に新設された理学部植物学教室教授に異動すると、木原博士も京大の助手(現在の助教)に就く。1924年に助教授(准教授)、1927~56年教授。コムギ研究の世界的権威となり、ゲノムという概念を提唱。「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されてある」(1946年)という名言を残した。また高等植物(スイバ)の性染色体を発見、種なしスイカの開発者でもある。

 1942年に(財)木原生物学研究所(京都)を設立、戦後の1956(昭和31)年に横浜へ拠点を移す。1982(昭和57)年、財団設立40周年を機に市大への移管が決まり、1984(昭和59)年、植物系部門を中心とした市大の附置研究所となった。それから35年になる。

 市大への移管とその後の展開は、高井修道学長(1982~1990年在任)の下で草薙昭雄さん(生物学、ボクシングの四回戦ボーイ)が主導、彼の急逝後は小島謙一さん(物理学)が中心となり、細郷道一市長(第17代、在任1978~1990年)や市役所職員が積極的に進めた。私も文科系の一人として参加した。

 博士が偉大な植物遺伝学者であるとともに、戦後初の総合的学術調査の総隊長を務めたという、もう一つの顔に私は魅きつけられた。それは私が東洋史学を専攻する背景となり、大学院生時代の、世界35カ国をまわる「広島・アウシュビッツ平和行進」につながった(『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』(弘文堂 1965年、梶村慎吾と共著)を参照)。

 さらに拙著『紀行随想 東洋の近代』(朝日新聞社 1977年)にもつながる。欧米志向の強い時代に、アジアに関心を抱いた契機の一つが上掲の記録映画である。旅を通じてアジアの現場を肌で知り、そこで得たアイディアを基に史料を漁り、関連の研究から刺激を受けつつ次の展開を図ろうと試みた。

 博士の研究の発展過程を広く伝えようとするのが、木原ゆり子著「木原均先生小伝~研究と探検とスポーツと」(「北海道大学総合博物館 ボランティア ニュース」の<抜粋特集号>2015所収)である(以下、<小伝>)。この題名は同ニュースから抜粋特別号を作成した編集部が付したもの。ネット検索も可能である。

 <小伝>の記述は副題とは逆に<スポーツマンの顔>、<探検家の顔>、<研究者の顔>の順に、①北大時代、②スポーツマンの顔、③探検家の顔、④研究者の顔-その1、⑤研究者の顔-その2、⑥研究者の顔-その3、あとがき、とつづく。おかげで幼少期から世界の科学者へと歩む過程がよく分かる。

 <小伝>に付されたゆり子さんの略歴は、「立教大学文学部英米文学科卒、早稲田大学語学教育研究所、(財)木原生物学研究所、木原記念横浜生命科学振興財団勤務の傍ら、自然・いのち・食・環境をテーマに研究会や講座を主宰、また野生オオカミの生息地を訪ねて世界各地を旅する。現在(2015年)は横浜市立大学木原生物学研究所<木原記念室>名誉室長」。

 この<小伝>には、私が記録映画「カラコルム」で得た感動の背景をなす、木原博士の魅力がさまざまに描かれている。今回受賞されたのを機に再読した。いくつか引用したい。

 【引用1】「学生時代には学業半分・スポーツ半分の生活だったと本人は述懐しているが、スポーツは半分どころではなかったようである。夏は野球、冬はスキーに明け暮れながらも、ライフワークとなるコムギの遺伝学に出会えたのは幸運であった。」

 【引用2】「北大在学中に学び身につけたのは、植物を収集して標本を作ること、植物の名前を覚えること、労を惜しまずコツコツと努力すること、日々の観察を怠らず<自然>から学ぶこと、フィールドワークの重視、徹底的な実践・実証主義、非権威主義、チャレンジ精神等々…。いずれも北大の学風として今も脈々と受け継がれているものばかりである。」

 【引用3】北大野球部ではエース投手で三番、その運動部で得たものとは、「仲間との協調の精神と苦境にある時にも奮い立つ勇気、そして生涯変わらない友情こそ最大の収穫だったと誇らしげに語っている。…」

 博士の最初の著作作は『最新スキー術』(遠藤吉三郎との共著、1919年、博文館)で、木原記念室に展示されている。競技スキーにとどまらず、北海道の郵便配達員をはじめ全国の雪国生活者に向けたスキー指南書でもある。

 また全日本スキー連盟の技術委員長を8年、連盟副会長を6年、会長を10年間つとめ、その間の第8回冬季オリンピック(1960年、アメリカのスコーバレー)と第9回冬季オリンピック(1964年、オーストリアのインスブルック)の選手団長をつとめた。もはやサイドワークの域を越えている。科学的スポーツを提唱し、<根性論>と<メダル獲得競争>が支配するオリンピックへの警鐘を鳴らした。

 郡場博士が京大旅行部(学生の団体)の部長に就くと木原博士も旅行部に関わる。そこにヒマラヤ登山史と熱帯・極地史に名を残す錚々たる面々、今西錦司、西堀栄三郎、桑原武夫たちが集まり、世間では京都大学を<探検大学>と呼ぶようになる。

 1931(昭和6)年、旅行部の先輩と現役がヒマラヤ遠征の母体として京大学士山岳会を結成すると、木原博士は翌年、会長兼旅行部部長となる。人を得て、さらに人を呼び、5次にわたる探検を成し遂げた。

 すなわち、第①次1938年の内蒙古~動植物の生物学調査、第②次1955年のカラコルム・ヒンズークシ~コムギの祖先を尋ねて、第③次1966年のシッキム・アッサム~イネの起原を探る~、第④次1966年のコーカサス~コムギの起原を求めて~、第⑤次1973年の南北スリナム~カワゴケソウに惹かれて。

 1976(昭和51)年、北大創基100周年記念事業の一つ、国際学術講演会で、83歳の博士が「生命科学の現代的使命」と題する講演を行った。

 【引用4】「長年、遺伝学の基礎研究に従事してきたが、研究成果が応用面にまで発展することが重要だと常々考えていたので、1978(昭和53)年から再び北海道に拠点を置いて、北大、帯広畜産大学…等の協力でコムギの共同研究プロジェクトを立ち上げ、核と細胞質の間のヘテローシス(雑種強勢)が作物の品種改良に役立つかどうかの研究を始めています。……地球は人間だけのものではなく、全ての生物がここで生を営んでいること、人間は他の生物なしに生きることができないと述べ、医師が人類の病気を予防したり治療したりするように、生命科学(者)は地球の医師となって働いてほしいものです」。

 研究意欲はとどまることを知らず、90歳を過ぎてもチベット調査に情熱を燃やした。「近代品種がチベットに流入する前に調査したい。…ムギ類だけでなくイネについても調査が必要である。予備調査だけでも進めたい。奥地までは行けなくても、せめてラサまで出かけて、隊員からの吉報を待ちたい」。これにゆり子さんは、「父は過去を振り返らない人だった。今したいこと、これからしたいことだけが日々の関心事だった」と記す。

 <小伝>のあとがきで、「…家庭人としての父親については知っていても、…公人としての父親について知る機会が少なく、…身内が書くことの難しさが加わって立ち往生することもしばしばであった」と述懐している。

 このたび『一粒舎主人写真譜』(1985年、(財)木原生物学研究所)と、ゆり子さんが編集・監修した『木原均博士が見ていた世界‐「小さい実験」を中心に』(木原生物学研究所木原記念室 2016年)もいただいた。

 前者は、公私にわたる博士の生涯を写真で追う貴重な作品で、次女の田中ゑみ子さんと三女ゆり子さんが編纂したもの。ふだん日記をつけない博士が学会等で海外に出かけたときは備忘録をつけていた。40冊を越えるそれを「学術旅日記」として編集する過程で、写真そのものが語る豊富な世界をそのまま年譜として編むことに考えが変わった、と<はじめに>で書いている。

 後者は木原博士の研究所跡地にできた横浜市こども植物園で開催された展示を基に制作、ルーペとノートと鉛筆があればできる「小さい実験」を綴る。小麦の芽生えの観察をはじめ、身近な動植物の<左巻き>と<右巻き>の観察、雌雄の見分け方等々を伝える絵入りの冊子。<動植物の名前を覚えよう!>、<違うことってすばらしい!>、<驚きをカラダでたしかめよう!>、<木原均博士の足跡をたどる>(年譜)、<木原生物学研究所(京都)で掲示されていた「研究者・作業者の心得」>等の記述が含まれる。

 子どもたちに向け、身近にある多様な動植物に触れて欲しいと願う、ゆり子さんの想いが伝わってくる。これぞ木原博士の<研究姿勢>を彼女らしい形で、たゆまず推し進めている証左ではないか。

ラグビーW杯2019

 <ラグビー・ワールドカップ 日本大会 2019>が、9月20日(金曜)から始まり、日本各地で展開されている(以下、<ラグビーW杯2019>と略称)。ラグビーW杯は1987年に創立、4年に1回開催される。今回が第9回にあたり、初の日本開催となった。

 ラグビーW杯は、夏季オリンピック、サッカーFIFAワールドカップとともに、世界3大スポーツイベントの一つと言われるが、日本のラグビーは青少年からプロにいたる広範な選手層と広いファン層という点で、野球、サッカーに後れをとっていた。

 FIFA(国際サッカー連盟)の創設は1904年、日本サッカー協会(JFA)がFIFAに加盟したのは1929年である。FIFAワールドカップの初の日本開催は2002年で、それに向けて各地に競技場(スタジアム)が作られ、今回のラグビーW杯2019でも使われている。

 ラグビーは強豪国を見れば分かるように、その発祥の地イギリスと英連邦を中心に広がったスポーツである。過去にもいくつかの加盟国を持つラグビーW杯があったが、現在の世界20カ国・地域からなるラグビーW杯は、32年前の1987年に創設された。

 ラグビーの起源は遠くさかのぼる。約200年も前の1823年、イングランドの有名なパブリックスクール・ラグビー校でのフットボール(現在のサッカー)の試合中、選手がボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出したことにあると言われる。

 近代におけるスポーツ(原義は<気晴らし>)の誕生を歴史的に位置づけると、都市化のなかで自然から切り離され、肉体を駆使する機会を失った人びとのストレス解消ための<暴力の平和化>の装置と述べた(拙著『イギリスとアジア』1980年 岩波新書)。

 私にとってラグビーは青春時代の想い出とともにある。タックルやスクラムというコンタクト・プレー(肉体の衝突)でありながら、これを暴力沙汰としないのが相手へのリスペクト(敬意)とチームの結束(ONE TEAM)である。

 4年前のイギリス大会(ブライトン)で、日本は優勝候補だった南アフリカ(南ア)に勝利する<大金星>を挙げた。次の開催国が日本と決まると、さらに目標を高く掲げ、オーストラリア出身のエディー・ジョーンズをヘッドコーチ(その下にスクラムコーチ等がつく)に招いて強化、エディーがイングランドの監督に移った後は、ニュージーランド出身のジョセフ・ジェイミーが就く。

 両者の指導法の違いを強調する人は、<エディーからジョセフへの転換>と呼び、コーチ主導から選手の主体性強化への転換を指摘する。選手たちはいっそう<ONE TEAM>(団結)、<ハードワーク>(厳しい練習)を意識し、プライドを懸けて練習を重ねてきた。もちろん開催国ゆえの並々ならぬ声援も大きな力になる。

 参加国は20。プールAからDまでの4組に分かれ、それぞれに5カ国が属し、各プールから勝ち点で上位2カ国(計8カ国)が決勝リーグを戦う。日本は、アイルランド、サモア、スコットランド、ロシア(ABC順)とともにプールA(以下、A組という)に属す。

 ロシアとの初戦は9月20日(金曜)、調布市の東京スタジアム(2001年開場、5万人収容)で行われた。白地に赤のストライプのジャージー(左胸にサクラの花3輪のロゴ)。日本は30:10で大勝。オフロードパス(タックルを受けても倒れるまでボールを持ち後続にパスする)を受けたウィングの松島幸太郎が3トライの快挙を生む。

 リーチ主将は強い突進力を発揮しつつ、選手への声かけ、レフェリーとの折衝等々、そのリーダーぶりが頼もしい。

 試合開始前に台風被災者へ黙祷を捧げ、ついで国歌斉唱。<走る冷蔵庫>と言われる巨漢集団のなかに、小柄で俊敏な司令塔役の田中史朗、流大。古参のトンプソン・ルークや堀江翔太。果敢な若手。計31人の日本代表は多国籍、千差万別。<多様性>の共存である。

 日本の第2戦は9月28日(土曜)、世界2位(つい前まで首位)で優勝候補のアイルランドと静岡のエコパスタジアム(2001年開場、5万人収容)で行われた。日本は先制トライを許すも、田村優の正確なキックで反撃、スクラムでも押し勝ち、前半を僅差の9:12で折り返す。

 後半18分、途中出場の福岡堅樹のトライで逆転、そのまま押し切り、19:12で勝利、勝ち点を9に伸ばして、A組の首位に立った。「日本、大金星!」とメディアは大興奮。決勝リーグの8強入りに大きく近づいた。

 第3戦は、10月5日(土曜)、愛知県の豊田スタジアム(2001年開場、収容4万5000人)においてサモアと対戦。終始有利に進め、38:19で勝利した。スクラム内の混戦で、姫野和樹がボールを奪取し次の得点につなげた功績が目立つ。

 第4戦は強豪スコットランドを相手に10月13日(日曜)、横浜国際総合競技場(1998年開場、7万2000余人収容)で行われた。この前日の12日(土曜)夜、超巨大で強力な台風19号が日本列島を直撃する。横浜や東京では夜9時ころに強風が吹いたものの、想像より速く北へ去り、台風15号が強風被害を残した(2019年10月1日掲載の「台風被害と三溪園観月会」)のとは対照的な印象であった。

 ところが豪雨台風の19号は、広範囲にわたり河川の決壊、氾濫、浸水を招き、被害が日を追って増える。直後には長野県の千曲川等14河川の決壊が報じられたが、関東・東北でも河川の氾濫が次々と判明、1週間後の20日段階で71河川、130カ所が決壊したとの集計が発表された。

 東京・多摩川にまたがる多摩川(全長138km)の下流域では、高層マンションの地下浸水が電源盤を襲い停電、エレベーターが止まり、上下水道が使えず、照明も調理も不可能。オール電化の文明生活が瞬時に消失したとニュースが伝える。
 
 19号の去った翌13日(日曜)、横浜国際総合競技場の日本:スコットランド戦の開催決定にも影響が出た。雨天決行のラグビーだが、会場が使えなければ始まらない。会場近くを流れる鶴見川(全長42・5km)は昔から<暴れ川>と呼ばれている。川からの水をどう処理して氾濫を回避するか。

 スタジアム本体は7階建て。1000本以上の柱に支えられた人工基盤の上に立つ<高床式>であり、3階がフィールド(ピッチ)、4階より上が客席で、1階は駐車場になっている。したがって1階の駐車場が浸水しても、会場ゲートは2階に相当する高架式通路で遊水地外の道路と結ばれているため、徒歩なら出入りに支障はない。

 とはいえ、会場周辺が浸水している。12日(土曜)の朝8時50分、90万立方メートルの巨大な<遊水池>へ水を導き、そこで受けた水を午後に放流した結果、夜には翌13日の試合決行を公表することができた。ちなみに、この<遊水池>は、1998年、建設省=国土交通省により<鶴見川多目的遊水池>(<地下調節池>ともいう)として完成したもの。

 対スコットランド戦の最初はトライを取られるも、日本が反撃に転じ、28:21で勝利、4戦全勝で決勝リーグの8強入りを果たした。オフロードパスをつなげ、最後はスクラム最前列の稲垣啓太がゴール中央にトライ、試合後のインタビューで「…ぼくの人生初のトライです」とニコリともせず応じた。

 この頃からラグビー観戦は熱を帯び、瞬間視聴率が50%を超えた。<にわかさん>と呼ばれるファンが急増する。初めて聴くルール用語ランキングは、(1)<トライ>(相手陣地にボールをつけ、5点を獲得、その後のキックに成功すれば計7点)、(2)<ノックオン>(ボールを前方にこぼす反則)、(3)<モール>(ボールを持った選手を囲み密集して押す戦法)の順であるとか。

 4年前とは違い、いまさら<大金星>とは言わせない。4強入りは確かに悲願ではあったが、終点ではない。その先に向かって作戦を組み、焦点を合わせる。被災地を励ましたい。ファンを喜ばせたい。試合後の選手たちの冷静で力強い表情がそれをよく物語っていた。

 いよいよ決勝リーグである。初の準々決勝(4強を決める対戦)は、19日(土曜)、2つの会場で行われた。大分スタジアム(2001年開場、4万人収容)でのイングラント:オーストラリア戦は40:16でイングランドが圧勝した。イングランドはW杯で過去1回の優勝経験があり、対するオーストラリアは過去2回の優勝経験を持つ。

 東京スタジアムのニュージーランド:アイルランド戦は46:16と大差をつけてニュージーランドが圧勝する。ニュージーランドはW杯で過去3回の優勝を誇る最強豪国である。

 20日(日曜)、夕方から大分スタジアムでウェールズ:フランス戦があり、ウェールズが20:19の僅差で勝利する。決勝リーグは点差ではなく勝敗だけが問題となる一発勝負である。

 東京スタジアムでは、決勝リーグの第4戦として、日本:南アフリカ(南ア)が対戦する。南アは過去2回の優勝経験を持つ強豪国で、ナショナルチーム創設127年目、アパルトヘイトの時代を経て、今年はじめて黒人主将コリシが誕生した。

 この日は3年前に逝去した平尾誠二(1963~2016年)選手の命日にあたり、南アの地元紙は警戒して「平尾を弔うため…」チーム一丸となって南アを破りかねないと報じた。平尾はラグビーW杯の第1回(1987年)から3度出場、<ミスターラグビー>と呼ばれた。

 日本勢は<ONE TEAM>(団結)を標榜、それぞれの役割を自覚し、ワン・フォー・オール(みなのために献身)、オール・フォー・ワン(みながいてこそ自分)を体得した8カ月の強化合宿(宮崎市)を経ている。

 試合は前半3:5と双方の意地の張り合いで終わる。これまでも最初にトライを許しても、後の反撃による勝利があった。ボール支配率は日本が80%という数字も期待を高めた。

 試合中、テレビ画面に流れるテロップは、台風19号から1週間後の関東・東北の状況を伝えている。「住宅被災は5万6000戸」、「箱根の源泉供給が遮断…」、「入浴支援…」、「多摩川から東京湾に流れ出たゴミが25km離れた千葉県の富津港に漂着…」、「災害ごみ回収」…

 後半に入るや、南アの激しいタックルに押し返され、頭上を抜くパントキックにより自陣のゴール近くまで後退、次々とトライを許す。ラインアウトからのスローインも相手に取られる。3つのペナルティーゴール、2トライを許し、ついにノーサイドのホイッスルが鳴った。結果は3:26。日本はペナルティーゴールの3点のみ、1つのトライもできない完敗であった。

 日本チームは、この日をもって解散。翌21日(月曜)の11時過ぎから、ヘッドコーチのジョセフ・ジェイミー、リーチ・マイケル主将が最前列に並ぶ選手たちの記者会見があった。

 「…この悔しさをバネに4年後を目ざしたい」と、チーム一丸となって全力を出し切った表情。「チームの一員であったことを誇りに思う…」とは掛け値なしの本音であろう。

 これから舞台は横浜国際総合競技場に移る。26日(土曜)が準決勝の初日でイングランド:ニュージーランド戦、27日(日曜)が準決勝第2戦のウェールズ:南ア戦である。そして11月2日(土曜)の決勝戦、これら3試合すべてがここで行われる。なお11月1日(金曜)のブロンズファイナル(3位決定戦)は東京スタジアム開催。

 ラグビー観戦に横浜を来訪する内外の方々をもてなそうと、9月20日に始まった「三溪園 和音まつり2019~「音」故知新~」については、本ブログ2019年10月11日掲載の「10月初旬の三溪園」で述べたが、その盛況を受け、いよいよ、その後半が始まる。

 とくに外国人客にとって、三溪園で催される<和音(WAON)まつり2019>は、日本文化を堪能できる絶好の機会となろう。そのため開園時間を19時まで延長、16時半以降は入園無料とし、桜木町駅からのシャトルバスも手配。三溪園外苑のライトアップされた旧燈明寺本堂を舞台に、主に和楽器の演奏を中心に披露する(演奏は18時から30分間)。

 後半のもともとの予定は、10月25日、26日の2日と、28日から最後の11月1日まで連続5日、合わせて7日間の予定であった。ところが超大型台風19号接近で、前半の10月11日、12日、13日の3日分を中止としたため、その振替に27日(日曜)を充て、8日連続の上演となっている。
 
 プログラムは(敬称略)、10月25日(金曜)尺八の松村湧太、26日(土曜)チェロの海野幹雄、27日(日曜)は振替公演で、朝倉盛企+矢吹和仁による津軽三味線の競演とヴァイオリンの森田綾乃の2本立て(演奏時間を15分延長)、28日(月曜)筝の吉澤延隆、29日(火曜)ギター弾き語りのAnna、30日(水曜)ハープの藤本沙織、31日(木曜)篠笛の佐藤和哉、そして最終日の11月1日(金曜)はバンドネオンの平田耕治+永易理恵(ピアノ)。

 ラグビーW杯の感動、被災地への想いを胸に奏でる<和音(WAON>を、多くの方にお聴きいただきたい。

知の再武装の時代に向けて

 標題の「知の再武装の時代に向けて」とは、「丸善」創業150周年記念連続講演会第5回の寺島実郎さんの講演タイトルである。そのネーミングに惹かれて参加した。8月8日(木曜)の夕方6~8時、会場は日比谷図書文化館、3日つづきの猛暑日であった。

 同時に、「丸善」創業者の早矢仕有的(はやし ゆうてき、1837~1901年、岐阜県出身)の多方面にわたる活躍にも興味があった。明治2(1869)年に横浜で洋書及び薬品医療器の輸入販売の<丸善>(当初は<丸屋>または<丸屋善八>)を創業、元金社中(出資者)と働社中(従業員)の両者が構成する近代的会社組織の元祖と言われた。さらに明治4(1871)年、仮設の市民病院を現在の中区北仲通り六丁目付近で開業、これがのちに横浜共立病院、十全病院と名称を変え、私の勤務していた横浜市立大学の医学部(附属病院)の基礎となる。

 寺島さんは現在、一般財団法人日本総合研究所会長、多摩大学学長、一般社団法人寺島文庫代表理事で、元三井物産社員の経験を活かし、経済の諸指標を的確に使い、世界の中の日本について、あるいは世界から見た日本について、鋭い社会評論を行うことで知られている。メディアへの登場も多い。

 本日の講演資料として、(1)世界のGDPシェアの推移(円グラフ)、(2)Digital Dictatorship(デジタル専制)、(3)IМFの世界経済見通しの3つを挙げる。

 まず(1)では、世界のGDPシェアの推移を6つの年(①=1820年、②=1913年、③=1950年、④=1988年、⑤=2000年、⑥=2018年)に分け、推移を縦横に語りながら、日本のシェアを各国・地域と比較して分析する(資料はOEⅭDとIМFのデータ、江戸時代の①=1820(文政三)年は推計値)。

 そこから引き出す結論が興味深い。6つの年次のうち①~③までは日本のシェアが3%、④に16%と急増、⑤でも14%を堅持、それが⑥で6%に急減する。

 これは何を意味するか。戦後の高度成長以来、日本経済を主導してきた製造業が役割を終えつつあるということである。⑥の6%に急減した分を担うのが16%の中国と3%のインド。日本からこれら地域へ製造業が移転したと言える。

 これを受けて「(2)Digital Dictatorship(デジタル専制)」では、デジタル・エコノミーへの構造変化を2019年6月現在の各社の株式時価総額を通じて分析する。

 アメリカのIT5社(GAFA+M)が約450兆円(ドル表示を円換算)、中国のIT3社(Baido.Alibaba,Tencent)が98兆円であるのに対し、日本の東証一部上位5社(トヨタ自動車、ソフトバンクG、NTTドコモ、キーエンス、ソニー)は57兆円であり、第四次産業革命=データリズム(データを支配するものがすべてを支配)のデジタル・エコノミー時代に完全に遅れをとっている、とする。

 関連して、日本の株価時価総額上位10社の推移を1960年から10年ごとに掲げる。このデータからも、製造業からデジタル・エコノミーへの大きな流れが読み取れる。

 最後の「(3)IМFの世界経済見通し」では、実質GDPの過去10年における対前年比%(購買力平価ベース)の統計表を使い、新興国の高い成長率に比して、最近5年間では日本が世界で最下位にあることを明らかにする。

 こうした日本経済の現実を、日本も「まあまあ良くやっている」と流し、「不満は少ないが、不安はある」のが日本人の平均的な心情ではないかと指摘する。

 日本経済の<後退>と今後の見通しを予想する別の指標が、8月12日(月曜)の日本経済新聞(朝刊)の1面に載った。見出しは「ESG×収益力 欧米が先行 人材・投資呼び込む 企業の持続性重視へ新指標」。添付の棒グラフによれば地域別で欧州、北米、アジアが高く、日本がその約半分、ついで中国がその3分の1で、世界平均を大きく割り込む。

 「持続的に高収益を上げられると評価できる企業」として、株式時価総額300億ドル(約3・2兆円)以上、自己資本利益率(ROE=return on equity)が20%以上の263社を対象とし、資本効率を示すROEに企業価値の拡大を目指すESG(Environment=環境、Social=社会、Governance=企業統治)を乗じたものが、新たなROESG指標である。

 なお「企業のブランド力に寄与する」ESGとは、同紙<きょうのことば>によれば、以下の要素からなる。Eが二酸化炭素排出量の削減、再生可能エネルギーの利用、生産過程での廃棄物低減等、Sは供給網での人権問題の配慮、個人情報の保護や管理、製品の安全性の確保等、そしてGは取締役会の多様性確保、適切な納税、贈収賄等の汚職防止等を意味する。企業の質の評価を含み、説得力がある。

 経済面から見た世界と日本、あるいは世界の中の日本の行方を考えれば、このまま放置はできない。投資が逃げ、優秀な人材が流出すれば、将来への期待も後退する。

 ここから寺島さんの「知の再武装の時代に向けて」の提案が始まる。講演を補う詳細は、無料で配布された著書、寺島実郎『ジェロントロジー宣言 「知の再武装」で100歳人生を生き抜く』(2018年 NHK出版新書 560)の中にある。

 新刊本に付す帯には版元と筆者の狙いを要約して示すことが多い。著書の表紙側には「100年をどう生きるか。自分の生き方を見つめ直し教養をアップデートせよ!「ジェロントロジー」という新・学問のすすめ」とある。

 「ジェロントロジー」と括弧を付しているのは日本語にまだ馴染んでいないことを意識してのことであろう。英和辞典にGerontologyは老人学とある。寺島さんは、「健全で幸福な高齢化社会を創造するためには、より広範で体系的英知を結集する必要がある」という点から<高齢化社会工学>と訳すべきとする。

 ついで裏表紙のキャッチには、「体系的な学びを通して、個人と社会システムを変革する。私は<高齢化によって劣化する人間>という見方を共有しない。もちろん、老化による身体能力の衰えを直視する必要はある。だが、人間の知能の潜在能力は高い。心の底を見つめ、全体知に立ってこそ、美しい世界のあり方を見抜く力は進化しうる。<知の再武装>を志向する理由はここにある」と記す。

 高齢者が人口の7%以上を超えると高齢化社会、14%を超えると高齢社会、21%を超えると超高齢社会と呼ばれる。日本は1935年に4.7%で最低であったが、2007年に21.5%の超高齢社会となり、2050年代までは世界1位を堅持すると予測される。こうした時代だからこそ、日本人が<知の再武装>を提起することに大きな意義がある。

 講演の終了時間が迫るなかで、寺島さんは最大の課題が<都市郊外型の高齢化>にあるとし、国道16号線(都心の周囲を環状に結ぶ首都圏の道路、総延長は約250キロ)沿いに造られた団地群とその住民に触れる。この人びとは団塊世代を代表し、<金のたまご>として上京、製造業主導の戦後経済を牽引してきた。いま古稀を過ぎて70代に入った。

 「ニュータウンの問題は、将来の発展の前提となる世代の交代という図式が壊れていること」であり、「…団地やニュータウンというコンクリートのブロック空間に独居老人を閉じ込めたまま地域社会全体が高齢化しているのが、都市郊外型の高齢化の特質…」と指摘する(第2章)。

 最後が演題の本題である「知の再武装の時代に向けて」だが、時間切れで十分には語られなかったため、著書から論点を抜粋しておきたい。誰にも<中年の危機>は訪れる。「…自分は本当にこのような生き方でよいのだろうか」と自問自答を繰り返すうちに、深い心の闇に迷い込む人もいる。

 そうした危機から脱する方法として、一つは人生の使命に気づくこと、もう一つは人との出会い、と述べる。その後に展開する<江戸時代における知の基盤>、<戦前まで生きていた和漢洋の教養>、<戦後社会科学教育の欠落部分とは何か>、<生命科学がもたらす新しい人間観>等の記述は興味深い。そして最後の第5章「高齢者の社会参画への構想力 食と農、高度観光人材、NPO・NGO」には、多くの具体的な示唆が記されている。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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