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<三訓>をめぐって

 本ブログを開くと大きく「月一古典」の文字、その下に「つきいち こてん」と振り仮名。なんとなく分かるような、分からないような題目である。意味を問われ、ごく簡単な説明をしたのが、本ブログを始めてすぐの2014年5月15日掲載の「月一古典 つきいち こてん」であった。

 アシコシ ツカエ(足腰使え)
 ツキイチ コテン(月一古典)
 セカイヲミスエ モチバデウゴカム(世界を見据え 持ち場で動かむ)

 これら3つは、横浜市立大学の学長(1998~2002年)として、また都留文科大学の学長(2010~2014年)として、計8年にわたり入学式や卒業式で学生たちに贈った、私のささやかなメッセージである。いつしか<三訓>と呼ぶようになった。

 本ブログのポータルに「月一古典 つきいち こてん」とあれば、読んでくださる方々の目に自然に入ってくる。開始して5年が経過、そろそろ200号にならんとしている。「月一古典」を含む<三訓>全体が何であり、なぜそれを伝えたかったか、これらの背景をふくめて述べてみたい。

 調べてみると、『横浜市立大学論叢 人文科学系列 第54巻1・2・3合併号「加藤祐三教授退官記念号」(2003年)』所収の「著作目録」(1~36ページ)と「史観と体験をめぐって」(37~88ページ)の末尾5ページにあり、これが式辞を文章にした最初だと思う。

 標題の「史観と体験をめぐって」が示すとおり、歴史学者として欠かせないのが<史観>であり、それは先達から学び取るものであると同時に、歴史学者個々人の<体験>を通じて得られるものと私は考えている。

 この論考では、(1)種々の<体験>から私自身の<史観>を築いた幼少期から学生・院生時代を回顧、ついで大学教員時代を (2)研究中心に気ままに生きた時代の<史観>の拡がり、そして(3)大学運営に関わり、そのなかで<史観>を磨いた時代へと進んだ経緯を述べている。ある種の自伝的な<回顧と展望>(『史学雑誌』が毎年組む特集の題名)である。

 学長退任にさいしての論考であるため、最後を学生へのメッセージで終えた。客観的な分析と記述に徹する学術論文らしからぬものであることは承知の上で、むしろそれゆえに私の心に残っている。

  「…親元を離れて入学した新入生たち、また大学を去る学生たちを激励しつつ、覚悟を持たせたいと考え、…自分の青春時代と重ねあわせた<思い入れ>もあるかもしれない。世代の違う学生たちに、果たしてどこまで通じるか不安はあるが、ここに平成14(2002)年度版卒業式の式辞の一部を引用して…」とある。

 そして次のように始まる。「…みなさんの活躍する時代は、先行き不透明であるからこそ、知恵と元気を存分に発揮する時代にほかなりません。いつの時代においても、現在と近未来は見えにくいものです。先が完全には読めない、これは人間に備わった能力であり、かつ能力の限界でもあります。大学生活で身につけた知性と感性のうち、これから知恵を発揮するときに大切なのは、知性よりむしろ感性のほうでしょう。」

 専門・専攻の多様な学生たちに伝えるべきものは、個別の学問領域への態度ではない、広く全学生に共通する何かがあるに違いない、と考えた。それも折に触れて口ずさむのに適した方法はないか。これが短歌や俳句の7音で構成した<三訓>である。大学の雑誌なので学外の方には読む機会が限られている。そこで以下に主要部分を抜粋する。

  「…まず歴史の長期的持続と短期的変化を把握し、現在と近未来とを考えてみましょう。千年前を振り返ってみると、日本は平安時代で、「源氏物語」や日本最古の医学書である「医心方」を生み、世界のなかでアジアがもっとも先進的な役割を担っていました。今は最先端の科学が時代を引っ張っています。そこに期待と同時に、不安と不透明さを内包しています。…」

  「…もう少し短いスパンで身近な歴史を振り返ってみましょう。私自身がみなさんと同年輩であった青春時代から、半世紀近くが経過しました。この間、社会も環境も教育も大きく変化しました。この変化をご両親や年配の方々に尋ねてみてください。食べ物や遊び場、塾通いの有無、アルバイトの種類や小遣い、就職や勤務に伴う苦労や喜びの経験を聞いてください。…その会話によって時代の変化を把握でき、また家族との新しい絆や思わぬ共通の話題が生まれるはずです。…」

  「…これからの新しい段階に向けて自分が何をしたいかという問題です。この漠然とした欲求の源泉を、私は敢えて内的な<衝動>と呼んでおきます。内面から湧きだす何かであり、なかなか他人には説明しにくいものです。これを大切にし、放棄しないでください。これこそが個々人にとって、かけがえのない個性的で本源的なエネルギー源だからです。」

  「…その衝動が、ある程度まで形をとったものを<夢>あるいは<志>と呼びましょう。その実現には大変な努力が必要です。<夢>や<志>を捨てて<現実>を選択するという言い方がありますが、私に言わせれば、<現実>のほうがはるかに耐えにくいものです。粘り強く<志>に向かい、3回ダウンしても4回目には実現するという気持ちでアタックして欲しい。<攻め>の姿勢、そして<待ち>の余裕を堅持してください。…」

 「この<志>と拮抗する内面的な要因が<不安>です。自分には<志>をかなえるだけの能力が備わっているのか、あるいは、この仕事は自分に向いていないのではないだろうか等々の<不安>です。この種の<不安>を持たない人はいません。誰にも<不安>があるのは当然、<不安>を持つこと自体を心配する必要はありません。<不安>は同時に大きなエネルギー源でもあります。

 「<衝動>と<志>と<不安>、この3者は自分の内面にあるものです。他人の意見を参考にすることは極めて大切ですが、それにもかかわらず最終的にはあくまで自分で決定する以外に手がありません。<衝動>と<夢>と<不安>-この3つを三角形として念頭に置いてください。これが極端な不等辺三角形になると大変です、三角形が極端に歪まないようにするには、どうしたら良いか。友人や家族や上司の意見を聞き、後輩たちの悩みに耳を傾けるのも良いでしょう。<不安>を積極的に前向きのエネルギーに転化する方法として人類の英知を吸収することも必要です。極端な不等辺三角形を回避するための示唆を、3つ進呈しましょう」

 いささか長い前置きの後に<三訓>がつづく。

 「第1が都会生活で軽視しがちな「心身の活動と休息のリズム」を身につけることです。<アシコシ ツカエ>…直立二足歩行は人類だけが獲得した能力です。健常者なら毎日1時間以上、できれば2時間を目標に体を動かしてほしい。心を休ませるには体を動かし、身体が病んだときは心の張りが支えになります。」

 「第2に、月に一度は意識的に古典に触れてください。時代を越えて感動を与えてくれるものが古典だと定義すれば、古典とは本、音楽、絵画などにとどまらず、神社仏閣、港湾、橋、船、また人為を越えた山・川・海、潮の香、樹木や巨石等も古典に入ります。<ツキイチ コテン>と覚えてください。…」

 「…自分にとって大切な<古典>を見つけるには、ただ待っているだけでは無理です。…自らの課題を表現する<発信行動>が必要です。文系の卒業生は、およそ400字×100枚もの卒業論文を完成しています。理系・医系の卒業生も卒業研究をしっかりとやり終えています。修士・博士課程の修了生は言うまでもありません。みなさんの持つこの高い能力は、社会に出て初めて実感するはずです。自信を持ってください。そしてこれからも<発信行動>を存分に発揮してください。<継続は力>です。」

 「第3で最後が、自分と世界との関係です。セカイヲミスエ モチバデウゴカム(世界を見据え 持ち場で動かむ)。最後の<ム>は決意の表明です。順調なときも、行き詰ったときも、あるいは通学や散策の途中で、折にふれて、小さな自分が大きな世界と結びついていることを感じ取ってほしい。…」

 「ここでいう世界とは必ずしも決まったものではなく、それぞれに選ぶ世界であり、大小さまざまです。家族、友人、部活やサークル、会社、学界、国レベル、国際レベル、地球環境など様々です。自分の生きる場と世界を関係づけると、視界が開け、勇気が湧いてくるでしょう。世界に<志>を同じくする人々がいると自覚すれば、自分の持ち場は、よりいっそう確かなものになります。…」

 以上が学生たちに贈った<三訓>であるが、同時に私への自戒でもある。<三訓>を励行しつつ、生涯、一学徒として精進していきたい。
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イチョウ巡り

 今年は12月下旬になっても、横浜や東京では、多くのイチョウに黄色い葉が目立った。三溪園の紅葉(イチョウもモミジも)は通常12月上旬がピークだが、12月20日、内苑のイチョウの大樹2本のうち、春草廬そばの樹はまだ黄色い葉を半分も残していた。

 勤続30年を超えた三溪園の造園技士・鈴木正さんは、イチョウの葉が12月下旬にまで残るのは「今年が初めて。…ふだんなら掃き清めて地面が出ている頃…」と言う。改めて見上げると、幹に大きな空洞があった。

 この2本のイチョウを両腕で抱きかかえて測ってみた。約3周、すなわち3尋(ひろ)。私の場合、1尋が約180センチなので、概算で円周5メートル余であろうか。この「腕で抱える測定」を<腕測>(わんそく)と勝手に名づけた。目測、歩測からの思いつきである。

<腕測>はどこまで正確か。勤続60年の川幡留司参事と二人で三溪園の古いアルバムを見たが、樹齢の手がかりになる写真は見つからなかった。

 翌21日、庭園担当の羽田雄一郎主事からは、自身も鈴木さんも見当がつかないと返事が来る。イチョウは自生ではなく植樹であるため、<腕測>と文献資料を結合させて把握できるのではないか。

 文献と言えば、83年前の松永耳庵「三溪園茶会記」(昭和10年11月28日)を思い出した。本ブログ2018年11月1日掲載「三溪園と大師会茶会」のなかで一部を抜粋したが、この茶会記にイチョウの記述があった。イチョウは蓮華院のそばのものである。ただし蓮華院はのちに別の場所に移され、跡地に上記の春草盧を移した。

 「…老銀杏樹の梢を振うたる黄金の葉は地に散り敷いて黄毛氈(きもうせん)を踏む心地がする。主人は誰にも踏ませずに今日の珍客に歩かせるのだとの事。誠に心嬉しく是が眞の茶といふもの、御馳走といふものと感心した。」

 亭主の気遣いを述べる一文だが、「老銀杏樹」と「黄毛氈」の記述から、このイチョウはかなりの大樹である。このとき樹齢50~60年と仮定して、現在の樹齢は約130年以上になる。この地を先々代の原善三郎が入手したのが明治20年(1890年)代で約130年前、その時にイチョウの苗木を植えた可能性が高い。

 蓮華院は、1917(大正6)年、三溪の設計で完成した。三溪はイチョウを守り神として、この樹下を建立場所に選んだのではないか。神社仏閣にイチョウを植える慣習が各地にあったからである。

 翌21日、イチョウを大学のシンボルとする東京大学の、正門から安田講堂へ至るイチョウ並木を通った。まだ葉が残っている。文学部図書室3号館に入り、今日の調べの主題を放り出して、まず『東京大学百年史』を見た。その通史二(昭和60年刊)に「関東大震災による被害、法経教室、八角講堂」や「法文経一号館より見た二号館」の写真があり、イチョウ並木らしきものが写っている。

 本文には、「…明治45(1912)年、正門を建設し、銀杏並木で中央の道路を飾る」(415ページ)とある。1912年に植えたイチョウであれば、苗木の樹齢を加算して100年ほどであろう。なお安田講堂や総合図書館は、関東大震災(1923年)後に建てられたものである。

 そこで並木の、いちばん太いとみられるイチョウを<腕測>した。約2尋。100年で2尋であれば、三溪園の老木の3尋の樹齢が130年以上とする推計の傍証にもなる。文献と<腕測>で樹齢が分かる。大きな発見をしたようで嬉しかった。

 少し離れた工学部建築学科の前の広場には、太い独立樹のイチョウがある。3尋はゆうにあった。樹齢は約150年以上、東京大学以前の加賀藩の屋敷の時代からあったものであろう。

 イチョウは成長が速い上に燃えにくく耐火性が強い。江戸時代には火除け地に植えられた(防火用)。剪定にも強く(管理しやすい)、街路樹(並木)として普及、いま全国で57万本が植えられ、樹種別では最多である。

 イチョウ並木の先駆けは、開港横浜の外国人居留地と日本人町を区切る日本大通りの並木ではないか。これは1871(明治4)年、R・H・ブラントンの、横浜公園(いまのスタジアムをふくむ一帯)、下水道工事、掘割の拡幅と護岸、日本大通りを一体とする設計案に従い、植えられた。

 しかし半世紀後の1923(大正12)年、関東大震災により消失したため、新たに植樹されている。現在もっとも太い木は、本町通りと日本大通りが交差する横浜情報文化センター(旧商工奨励館)の脇にあり、幹回りは約2尋(樹齢100年)であった。

 横浜市立大学瀬戸キャンパスにも、正門からイチョウ並木がつづく。道の脇に「銀杏並木の由来」の銘板があり、「昭和23年(1948)に横浜医科大学予科(医学部の前身)の学生達が植えた」と記されている。翌1949年、新制大学としての横浜市立大学がこの地に設置された。

 このイチョウについて坂智広教授(市大木原生物学研究所)に尋ねたところ、22日(土曜)、写真付きの返信が届いた。太いもので幹回りが1尋半、すなわち樹齢70年前後である。また体育館背後の4本のイチョウは、「胸高周(幹周り)は3m近く」あり、ネット検索から昭和16年(1941)に建てられた海軍航空技術廠支廠の官舎に植えたものではないか、と追伸をくれた。

 さらに松江正彦ほかの報告書「公園樹木管理の高度化に関する研究」(国土交通省国土技術政策研究所の研究資料)を添付、これは北海道から近畿の公園緑地に植栽された1年〜109年生の樹齢が明らかな157本の成長量を調査したものであるが、坂さんはこれを基に胸高の幹周「1尋≒樹齢63年」と算出した。

 私の算出法と2割ほどの差がある。これについては、気温差等を平均化した「データに基づく樹齢推計よりも、記録や歴史的言い伝えの情報を加味した加藤先生の1尋≒50年をベースにした樹齢推計は、個々の樹の歴史を辿るのに的を射ていると考えています」とあった。

 また羽田さんが送ってくれたメジャー計測では、三溪園の覆堂近くのイチョウは幹周412㎝(高さ120㎝あたりでの計測値)と402㎝(高さ140㎝あたりでの計測値)で、春草廬近くのものは幹周422㎝(高さ120㎝または140㎝あたりの計測値)。私の3尋=5メートルとは、これまた2割ほどの差がある。

 メジャーでは幹にぴったり密着させて測ることができるが、<腕測>では幹と腕の間に空間ができ、大きい木ほど密着が難しい。それを念頭に<腕測>を使えば、樹齢の推計にはとても便利である。

 23日(祝日)、小石川植物園(正式名は東京大学大学院理学系研究科附属植物園)を訪れた。門を入るとすぐ大きなイチョウが2本、いまだ黄金色に輝く葉を誇っている。幹の太さは2本とも約2尋。受付で聞くと、樹齢の記録はないとの返答で残念だったが、大きな副産物があった。

 奥の方に遠目にもそれと分かる大イチョウがあり、案内板には、1896(明治29)年、平瀬作五郎による「精子発見のイチョウ」とある。地表近くで根が盛り上がっているため、目測で3尋超か。ほかに地上2~3メートル上から10数本に枝分かれしたイチョウ、これも3尋(樹齢150年)超あった。

 ふだん使うテニスコートの脇にもイチョウ並木がある。いな、正確に言うと、並木を残してテニスコートを作った。芽をふく頃と落葉の時期に、その進行具合が木々ごとに異なる。北東にある一本がまっ先に葉を落とし始めるが、そうなると我々は積もった落ち葉を掃き出す作業に追われる。22日の<腕測>で約1尋半、戦後に植えたものと見た。この太さだと抱きかかえやすい。私の奇妙な行動の訳を話すと「イチョウの方が加藤先生より若い!」と仲間の声。

 イチョウの人気はかなり高い。東京大学がイチョウを大学のシンボルとしていることは前述したが、東京都・神奈川県・大阪府が、また横浜市、国立市等がイチョウを市の木と定めている。特別区では東京都文京区の木でもある。

 はるか太古まで辿ると、イチョウ科の植物は中生代から新生代にかけて広く世界に分布したが、氷河期に絶滅し、イチョウだけが生き残ったため、生きている化石とも呼ばれる。イチョウの原産地・自生地は確認されていないが、日本には中国から伝来した。時期については諸説ある。鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏(神奈川県天然記念物)が著名で、樹齢800年とも言われたが、惜しくも2010年に強風で根元から倒れた。

 日比谷公園(1903年開園)には、とても見事なイチョウがある。移植が難しいと言われるなか、公園を設計した本多静六が近くの日比谷見附から自身の首を賭して移植を成功させたため、「首賭けイチョウ」と呼ばれる。

 神々しいほどの姿に合掌。近寄りがたく、目測により約6尋(≒樹齢300年)と推定した。江戸時代中期のものであろう。

IUCの卒業発表会

 IUCはアメリカ・カナダ大学連合日本研究センター(Inter-University Center for Japanese Language Studies)の略称である。本ブログのリンクで読める『都留文科大学学長ブログ2011~2014』の111号「IUC創立50周年を祝す」(2013年12月16日)でその概略を「…伝統ある世界で唯一の上級日本語教育機関、約1800人もの卒業生を輩出している。アメリカ等の大学で日本語を勉強した学生から約40名が選抜され、毎年、10か月間(40週=10週×4学期)、計700時間におよぶ日本語の集中特訓を受ける。その最終日に集大成として行われるのが、例年6月初旬の卒業発表会である。…」と記した。

 日本にはない素晴らしい機関である。若く優秀な日本理解者が一人でも増えればと、私もIUCの東京から横浜桜木町への誘致(1987年)、そして桜木町から現在のパシフィコ横浜への移転(1991年)の手伝いをした。とくにケネス・バトラー所長(故人)とは公私にわたり親しかった。現所長のブルース・L・バートンさんには、26年前にもお会いしている。青木惣一副所長は日本語教授法の柱で働き盛りである。

 その後、本ブログでも「2つの研究発表を聴く」(2014年6月12日)と「学生たちの三溪園印象記」(2017年10月24日)を載せた。とくに後者は来日して間もない10月2日の来園であったため、学生たちに新鮮な印象を書いてもらい、8名の文章を転載した。

 そして2018年6月4日(月曜)から6日(水曜)までの3日間、63名の卒業発表会が開かれた。以前は40名程度だったと記憶していたので青木副所長に尋ねると、これほどの人数は開校以来初めてで、教室を増やす等々「嬉しい悲鳴」を上げているという。

 発表は一人の持ち時間が15分(2問ほどの質疑応答をふくむ)、朝10時から夕方まで、3日間にわたった。私は最終日の午後の部、下記10名の発表に間に合った。

 ウォルター・ヘア「人形浄瑠璃の根本テーマ-心中-」。エリック・エステバン「俊成卿女の和歌に見る本歌取りへの態度」。ミョウレイ・セツ「句題和歌における漢詩受容-慈円と定家―」。スージー・キム「姿を変える女-江戸木版画における変身の記号学」。(休憩)

 ジェイソン・アレクサンダー「江戸時代の<被虜人>と対朝鮮観-朝鮮人捕虜の位置づけ-」。ブラッドフォード・ナップ「戦時の資源不足と環境問題の関係」。イクネイ・チン「婦人服と戦争-女性誌の表紙に現れるファッションショー(1930‐1945)」。ステファニー・佐久間「日韓の歴史認識の乖離」。ビーチェン・ファン「儀式化された領土問題-<竹島の日>と日本人の政治意識-」

 ほぼ毎年、私は聴きに来ているが、いつもA5版のプログラムに発表の概要(約300字)が準備されている。今年は63名分の発表概要とバートン所長の「ご挨拶に代えて」で全28ページである。

 テーマは多岐にわたる。パワーポイントを使い、ジョークも忘れない。彼らの的確な日本語、豊かな感性。ついつい引き込まれる。

 このなかに、三渓園印象記を寄せてくれた3名がいた。エリック・エステバンさんは、印象記で「…臨春閣の中の蟻壁には驚くことに和歌が見えます。その発見は古典文学を勉強している私にこの別荘をより楽しませてくれました。…」と記しており、彼の発表「俊成卿女の和歌に見る本歌取りへの態度」と繋がっていることが分かる。

 ショウレイ・セツさんは、句題和歌(漢詩の一部を題とする和歌)をめぐる論考で、慈円と定家は、白居易<凶宅詩>の政教性の世界から離れて「自然に対する独自な和歌世界を築いた」と述べた。比較文学は多くの関連項目をたぐる必要があるが、印象記に「…園内ではさまざまな和風建築が各地から移築されています。伝統的な風景が凝縮されている素敵な日本庭園です。…」と記していたことと関連があるように思える。

 イクネイ・チンさんは、『主婦の友』等の婦人雑誌の表紙絵は和装の女性の顔で通すが、記述は洋装や戦時中の国民服モンペを推奨しているという点に注目する。印象記では「…ガイドの吉野さんの説明を通して、日本伝統建築の巧みさを知り、造園の構想、そして「庭屋一如」という概念を理解できるようになった。…三渓園は個人的な庭園なだけではなく、地域及び伝統文化を保存するなどの意義も感じられた。」と述べていた。

 三溪園訪問の経験が卒業発表にどう影響しているか俄かには判じ難いが、ほとんどが大学院生であり、以前からの研究テーマと関心を背景に三溪園を観たのではないか。日本語集中研修や三溪園訪問等は、忘れ得ぬ経験となるだろう。来年度の学生がどのように三溪園の印象を書いてくれるか楽しみである。

 すべての発表が時間通り進み、青木副所長が閉会の辞を述べる。「ご来賓のみなさまにおかれましては、学生たちの発表に耳を傾けてくださり、ありがとうございます。…(学生に対して)みなさんは今日で解放されます(一斉の笑い)。…これから日本語で研究や仕事を進めていくみなさんにとって、日本語は単なる<道具>以上のものとなります。そのことを自覚し、日本語を更に磨き続けてください」のエールに、どの学生も深く頷いた。

大学のスポーツ

 5月26日(土曜)、古巣の横浜市立大学(市大)へ行く。キャンパスの北側一帯には横浜の地形の特徴である谷戸(やと)がそのまま残り、常緑広葉樹(照葉樹)の多い混合林に踏み入ると、夏でもひんやりとした爽やかな空気に包まれる。石段を9つ上ると「第2グランド 196段 5分」と手書きの小さな木製案内板。

 第2グランドにはテニスコートと多目的グランド(ホッケー、サッカー等)がある。この急坂の林をなんど往復したことか。思索のために、学生たちとのテニスのために、そして夕映えの富士山を見るために。

 関東学生テニス連盟は最強の1部から6部まで各6校が入り、それ以外の約60校が7部に属す。10年前(2008年)、5部にいた市大と6部で優勝した東大との入れ替え戦がここで行われ、雨のため2日にわたる熱戦の結果、市大が勝利(防衛)した。両校にはスポーツ推薦入試もなく、高校時代にテニスをした者も多くない。その二者の、今も心に残る大試合であった。

 階段を上り切って平らな道をすすみ、しばらく下って鉄製の急階段が第2グランドへとつづく地点で、木々の間から視界が開け、遠くに山並みが見える。その先は富士山だが、今日は見えない。下のテニスコートから、「おはようございま~す」と大声が響いた。手を振って答える。

 教職員テニス親睦会(以下、親睦会)と硬式庭球部員との、年に一度の親善交流試合の日である。階段を下り切ったところで、男子部主将(軒野秀則)と女子部主将(斉藤玲乃)が出迎えてくれた。部員は男子22名、女子10名、男子に1年生が多いとのこと。親睦会からは、仕事で出られない人もおり、男女合わせて9名が参加。

 椎の木の若葉がきらきら光り、薫風が吹き抜ける。曇りがちで少し蒸すが、絶好のテニス日和である。昨年の補修工事で、ハードコートからオムニコートとなり、足腰にかかる負担が減った。ありがたい。

 親睦会は創設が1980年頃なので、40年近く経っている。呼びかけの張本人が私で、初代の会長をつとめた。そのころ第2グランドのテニスコートが学生の部活専用として完成した。本キャンパスのコートは、私の記憶では今の図書館東側にあったクレーコート、ついで今のシーガルホール横の運動部部室あたりのコート、今の理科系研究棟あたりのコート(ここからオムニ)と移り、現在は谷戸の谷間にある弓道場の手前にある。

 現在の親睦会会長は随清遠さん(金融論)、学問に厳しく人に優しい。硬式庭球部の部長も兼ね、学生の信頼を集める。

 副会長の坂智広さん(農学)は左腕の剛速球。毎土曜の朝、季語や農暦を盛り込んだ、味わい深い名文の練習呼びかけメールをくれる。

 親睦会は会員の高齢化が進んで、20代から40代にかけての教職員がほとんどいない。子どもの頃の運動量(時間)が急減し、交通機関への依存度が高まった時代に育ち、運動習慣を持たない人が増えたのであろうか。

 「大学のスポーツ」と言えば、ふつうは学生スポーツを意味する。どの大学にも部活としてのスポーツがあり、スポーツ同好会も盛んである。部活は競技種目ごとに地域単位や全日本規模のリーグ戦、大学間の定期戦を行っている。

 学生生活におけるスポーツの役割を私は高く評価し、長く応援してきた。文章で表現したものは少ないが、ブログという新しい媒体が生まれてからは、『都留文科大学学長ブログ-2011~2014』(このブログのリンクにあり)等で折に触れて述べてきた。

 もともと「気晴らし」の意味であった英語のスポーツが、現在のようにラグビー、サッカー、野球、テニス等のゲームを意味する「近代スポーツ」として誕生したのは19世紀中頃である。近代スポーツの誕生は、都市化の進行と肉体労働の減少という近代史の特性と密接に関係している(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』岩波新書、1980年、第3章)。とくに高校・大学の若者たちが新生スポーツを先導してきた意義は大きい。

 そこに最近、忌わしい事件が起きた。関西学院大学(関学)と日本大学(日大)とのアメフトの定期戦(5月6日)で、日大の選手がボールを持たない関学の選手(QB)を後方からタックルして怪我を負わせた。

 それから2週間余の5月22日、危険(反則)タックルをした日大の選手が勇気ある謝罪会見をした。翌23日晩、雲隠れしていた日大の内田(元)監督と井上(元)コーチが記者会見を行ったが、反則タックルの指示はしていない等、選手と正反対の発言に批判が集中した。

 球技のなかでタックル等の接触プレーが多いのがアメフトで、次がラグビー。スポーツマンシップに基づくタックルは、かける方もかけられる方も爽快で、私もそれに魅せられてラグビーをした経験がある。だがタックルは取り返しのつかない怪我や死亡事故と紙一重であり、ルール厳守、フェアプレー精神(競技相手への敬意)の徹底が不可欠である。

 今回の事件は、スポーツ競技の例外的な不祥事にとどまらず、広く「大学のスポーツ」、「教育指導における主体性の尊重」等の問題を浮き彫りにし、日大執行部の体質等、根の深い課題をも露呈させた。

 この事件が念頭を去らぬまま、テニスコートまで来た。今回の交流試合は、1992年以来27回目であろうか。学生たちがプログラムを組み、審判やボーラーもつとめる。賑やかに声援が飛び交うなか、教職員と学生がペアを組み、4ゲームオール(第5ゲームあり)の試合を5セットこなした。

 歴代の庭球部部長が勢ぞろいしたのも嬉しい。年齢順に柴田梧一さん(経営学)、岡眞人さん(社会学)、随清遠さん(前掲)。柴田さんは今春に叙勲を受けた年齢だが、まだまだテニスは現役である。「若い」団塊世代の岡さんは、着実にテニスの腕を上げている。

 溌剌とプレーに打ち込む学生たちにつられ、私はいささか張り切りすぎた。学生が異世代と交流試合をする、これもまた「大学のスポーツ」の一つの姿であろう。

身近になった機械翻訳

 4月24日(月曜)の午後1時~4時半、東京駅近くの丸の内サピアタワー内ステーションコンフェレンス5階で、豊橋技術科学大学(1976年設立の国立大学)が主催する「機械翻訳シンポジウム AIで変わるグローバルコミュニケーション-身近になった機械翻訳」が開かれた。

 ホットな話題であり、その成否がグローバル化時代の日本と世界の未来を左右するほど大きなテーマである。メールで案内をくれたのが後述の藤原洋さん、本ブログでも何度か取り上げた(2014年10月1日の「地球環境とサイエンス」や2016年5月24日の「ありがたき耳学問」等)。

 まず原邦彦(豊橋技術科学大学副学長、以下、敬称略)の主催者挨拶で、昨年6月に始まった共同研究の経過と現在の課題についての概要説明があった。共同研究の相手は、この日の共催者である日本マイクロソフトとブロードバンドタワーの2社で、テーマは自然言語の機械翻訳、その活用範囲を主に日本語出版物の外国語訳とインバウンド(訪日外国人)向けの地域情報等の外国語訳(と対話)に絞る、としている。

 ついで共催者の日本マイクロソフトCTO榊原彰とブロードバンドタワー会長の藤原洋が挨拶、お二人は大学が機械翻訳の技術向上に邁進するのに対し、企業としてその支援体制と普及にどう取り組むかを語る。ここで「日本語文献の翻訳発信」と「訪日観光客対応」という2つの緊急需要に応えるための機械翻訳の社会的役割が明示された。

 基調講演は井佐原均(豊橋技術科学大学教授、情報メディア基盤センター長、本共同研究のリーダー)による「機械翻訳が広げるグローバルコミュニケーション」。今回の講演の前提となる氏の研究課題を知ろうと、同大学ホームページで見ると「人間の知的な活動の中核である言葉に関する研究を通して、コンピュータによる言語理解を実現」することとして3つの具体的テーマを掲げており、とくに下記の2つが深く関係している(「です、ます調」を改めた)。

 テーマ1:「人間の思考を模擬し、発想を支援する Creative Information Retrieval技術の研究」。その概要は「人間の発想を支援する創造的情報検索(Creative Information Retrieval)システムの研究。辞書やウェブの文書から言葉の意味関係を抽出し、人間の思考に合った概念ネットワークを作成、このネットワークを用いて、人間と同じように連想するシステムを作成する」こと。キーワードは、概念体系、語彙意味論、情報検索、発想支援。

 テーマ2:「国際競争力の強化のための産業文書の効率良い多言語化の研究」。その概要は、「自動車や楽器など東海地方の中核産業の企業文書を対象に、重要語句の抽出技術や後編集技術を確立することにより、文書の多言語化を支援する。機械翻訳の実用化に向けて、情報発信のための(機械)翻訳環境を実現する。具体的には、日本語の規格化(制限言語)、対訳用語辞書や対訳データベースの構築、集合知による後編集の研究を行う。」キーワードは機械翻訳、情報発信、サービス工学。

 プロジェクト進捗報告「実用化に向けて。研究からビジネスへ」(井佐原均+AIスクウェア)が示すのも、テーマ1と2に関連が深そうである。

 ついで長尾真(京都大学元総長)が特別講演「機械翻訳の次の課題」で研究の現段階と次の課題について述べた。ア)論文等のテキストの機械翻訳は語彙数の増加等により急速に向上するが、イ))対話文等の機械翻訳は文脈や発語場面の設定に課題が多く残り、ウ)文学作品等の機械翻訳は難しい、と。

 休憩をはさんで、クリス・ベント(マイクロソフト研究マネジャー)の招待講演「機械翻訳技術の最先端」が行われた。その講演内容にも、英語の講演がすぐ日本語に訳されスクリーンに映されるとの予告にも期待が膨らんだが、思わぬ伏兵(プロジェクターの不具合)によりスクリーンには写されなかった。だが各人のスマホには反映され、概要を把握するには十分な訳文であった。

 日本マイクロソフトは、本年4月7日、榊原彰(前掲)が次のように表明したばかりである(要約)。「Microsoft Translator アプリや Skype 翻訳(Skype Translator) など Microsoft Translator を活用したすべてのアプリとサービスにおいて、日本語をテキスト翻訳および音声翻訳の双方が可能な 10 番目のサポート言語として追加する。これにより日本語を話す人々は、既にサポートされている 9 言語(アラビア語、中国語(マンダリン)、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、ロシア語)を話す人々と、リアルタイムに対話ができるようになる。」と。このお披露目も兼ねていた。

 最後のパネル討論「機械翻訳がもたらす新しいコミュニティーへの期待」には、各分野から坂村健(東洋大学、元東京大学教授)、熊田順一(JTB総合研究所主任研究員)、溝口敦(メディアドゥ取締役)、藤原洋(前掲)、田丸健三郎(日本マイクロソフト業務執行役員NTO)の5氏が参加し、井佐原均(前掲)の司会で進められた。各分野の挑戦と経験を踏まえた発言はとても興味深く、堪能できたのは参加した聴衆の特権である。

 私の独断と偏見で、いくつかの発言を記しておきたい。①安価な機械翻訳ができれば、視聴覚障害にも応用が可能になる。②外国語の障壁が低くなる分、コミュニケーション力を増やす教育が望まれる。③翻訳は文章の「送り手」と「受け手」のどちらが適しているか、それぞれの利点は何か。④訪日観光客はいま世界で16位、目標値を高くし2020年までに4500万人を目ざしたい、経済効果は乗用車2台=訪日観光客3人に相当する。⑤旅マエ・旅ナカ・旅アトをつなげるには機械翻訳による情報提供は不可欠、それを通じて日本の「美しさ」と「楽しさ」の深淵へ誘うことができる。⑥機械翻訳により日本の膨大な書籍をデジタル出版して外国へ提供し、電子図書館も作りたい。⑦全訳ならぬ「要約の技術」も展開できないか。⑧機械翻訳の精度が95%に近づくと新たな難問が生じるのではないか。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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