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生命科学の行方

 清談会は夏と冬の年2回、定例の会合を重ねて13年目に入った。今回の8月9日が第26回目である(7月28日の開催予定が台風12号のため延期)。本ブログの「清談会の定例会」(2018年1月5日)で述べたが、横浜市立大学時代の教員仲間で今でも志を共有する6名。自他ともに認める幹事の小島謙一さん(以下、敬称略)のおかげで、長くつづいている。

 前回以来、小島の提案で新しい共通テーマを「各専門分野の10年後を予測する」とし、言い出しっぺの小島が「自然界の4つの力」を、穂坂正彦が「AI(Artificial Intelligence人工知能)と医療、その10年後」を発表した。学界トップクラスの専門家が分かりやすく語る。知らない世界の扉が開く。初歩的な質問も含め談論風発、次第に共通問題としてAI(人工知能)の占める役割が中心となった。

 今回は浅島誠「自然を知り、生き物に学び、ヒトの立ち位置を考える」である。浅島は発生生物学の研究で1988年、胚発生における分化誘導物質<アクチビン>を世界で初めて同定(ノーベル賞級の成果)、2001年に紫綬褒章を受けた。また大学運営・学務面でも積極的に活躍、東京大学教養学部長(2003~2005年)、東京大学副学長(2007~2008年)を務め、2017年に瑞宝重光章を受章した。市大在任中(1974~1993年)のニックネームは<青年将校>、いまも勢いはそのままの、我らが清談会の最年少である。

 パワーポイント用スライド計16枚を印刷・配布し、意見を開陳した。私が理解できた範囲では、(1)人口増と地球環境、(2)生命科学発展の経緯、(3)生命科学の行方、の3つに大括りできる。順に概要をまとめ、私見を述べたい。

人口増と地球環境
 生命(単細胞生物)の誕生から今日までを1日24時間とすると、人類の歴史はわずか30秒、ヒト(ホモサピエンス)の歴史は1秒に過ぎない。ヒトは地球上の新種である。19世紀以来の約200年、人口が幾何級数的に急増し、1950年の25億人が現在70億人を突破、2050年には91億人と推計され、炭酸ガスが平行して増加、地球の扶養力(自然の恵みであるエネルギー、資源、水、空気、食糧等の持続可能な水準)をすでに突破している。

 高齢化・少子化の進展も危険要因である。なかでも医療費の増大は財政負担を圧迫し経済発展を抑止している。日本の場合、国家予算98兆円(2017年)のうち半分の47兆円を医療費が占める。

生命科学の発展
 20世紀後半から21世紀にかけて、生命科学の発展は著しいとして、13の事例を挙げる。これが本論と思われる。すなわち、①遺伝子改変技術(1989、ノックアウトマウス)とゲノム編集技術、②タンパク質立体構造解析と医薬品設計、③哺乳類クローン胚作成技術と染色体工学、④脳高次機能解析技術の発達とAI(人工知能)、⑤ヒトゲノム解読完了(2003)と個別化医療、⑥バイオイメージングの進歩と可視化(学際的分野の進展)、⑦生体や特定の分子の可視化とシグナル伝達機構の解明、⑧RNA新機能発見と遺伝子制御、⑨再生医療と遺伝子治療技術、⑩次世代コンピュータによる多量な情報処理(バイオインフォマティクスの必要性とビッグデータとシミュレーション科学)、⑪遺伝子・細胞診断技術と生殖医療、⑫人工生命作成(2010、マイコプラズマ)、⑬炎症と免疫・アレルギーの新たな展開。下線部は最近約10年間の研究成果を指す。

 具体的な内容は私の理解を越えるが、門外漢には次の3分類が分かりやすいと思う。ア)基礎となる発明・発見が①、④、⑦等、イ)医療関係が②、⑤、⑨、⑪、⑬等であり、ウ)今後予想される多方面への展開がが④、⑩等である。

 このうちア)について次のように言う。ゲノム解読に7年かかり(1997年~2003年まで)、約800億円の経費がかかったが、現在は一人のゲノム解読が1時間、10万円で可能となった。その速度と費用の両面で500億倍以上の進化を遂げたことになる。それだけ安価に誰でも使えるようになったことの弊害、あるいはその悪用による被害をどう防止できるか(すべきか)。言い換えれば、生命科学の急激な進歩自体が生命倫理を忘れた<暴走>の結果という部分もあり、その延長上に生命科学の膨大な蓄積が生命(人類を含む)に対して牙を剥いている可能性がある。科学と倫理観の関係をどう再構築するか。

 つぎのイ)医療関係の②、⑤、⑨、⑪、⑬等については、AIが補助的ないし主体的に作動する、ないし活躍する。少子高齢化に突入して極端な人手不足が見込まれる日本では<救世主>とも見られる。生産過程や流通、司法や医者の分野では従来の仕事をAIが代替すると述べる。

 なかでも医療分野では<先制医療>(発症前の診断技術により、発症を遅延・防止すると同時に、発症前介入を行う医療)が癌治療の分野で進む可能性が高い。遺伝子と環境の与える影響、それが子孫に伝わる可能性を分析するエピジェネティックス解析が進んでいる。

 最期のウ)多方面への展開が今後予想される④、⑩等の分野では、科学の<独走><暴走>を抑止する現代の<倫理観>をいかに構築するかである。高速演算能力を高める量子コンピュータの発展により、生命科学はさらに進歩し、AIが自己創造力を発揮すればするほど<倫理観>の置き去りが危惧される。

生命科学の行方 
 浅島は「生命科学の発達が…人類の脅威になることは英智を持って避けなくてはならない。その英智とは何か。今こそ生命科学に問われている」と悲鳴をあげつつ、生命科学者としての一つの回答を、「生物がもつナチュラルヒストリーと多種多様性から学ぶことが必要」として次の4点を提起する。

 それぞれ数行の文章で述べられているが、私なりに整理すると、①地球上に存在する1000万種もの多様な生物の「美しい姿(構造と機能)」、②遺伝子等のように精緻な機械に似た「芸術品」、③4つの文字で表現される遺伝子から作られるアミノ酸は20種類だが、それで構成される蛋白質は数百万~数千万であり、生物は単純で複雑、④現代の科学技術は生物の形態や機能から得た生物モデル(ロボット、飛行機、創薬、AI等)の4つである。いずれも生き物(とくに彼の研究素材であるイモリ)への根源的な感動と畏敬の念を呼び起こす。

 ここまできて、演題「自然を知り、生き物に学び、ヒトの立ち位置を考える」の意味が鮮明になった。この根源的な感動と畏敬の念を共有する若手研究者を増やす活動こそ、これからの浅島に期待してやまない。
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加藤勝弥めぐり

 日本海を西に見て走る羽越本線の勝木(がつぎ)駅、そこから東へ約4キロ遡ったところに板屋沢という集落がある。新潟県岩船郡山北町板屋沢、いまは村上市板屋沢である。勝木駅は無人駅で、その次の府屋(ふや)には駅長がおり、その次の駅は山形県になる。越後の最北に位置する。

 板屋沢、この名前の由来は定かでないが、板葺きの家屋のある沢とすれば、風景の通りである。この清麗な沢は勝木川という。中学2年のとき、5歳年長の従姉妹、代々子さん(故人)に連れられて初めて訪れ、本家の<山守り>で親戚同様の加藤二蔵さんの巧みなアユ取りを見て感動した。

 勝木駅近くの浜は<碁石>と呼ばれ、白と黒の丸い石はまさに囲碁の石の如し。その暑い夏の日、<碁石>の海の素潜りを教えてもらった。ウニを取り、天草(トコロテンの原料となる海藻)を集めた。素足で岩の上を歩く。足の裏が痛いので、腰を引いて膝を曲げた奇妙な歩き方をした。忘れ得ぬ思い出である。

 こうした経験を夏休みの宿題の作文に書いた。担任は5歳ほどしか離れていない若い国語の山下政太郎先生、いまもお元気である。女子生徒に絶大な人気があり、軟式テニス部の顧問で、部活が楽しみだった。

山下先生がその作文を驚くほど褒めて下さった。何度も読み返し、どこが良いのか分からないものの、褒められたことが嬉しかった。そして先生が褒めてくれたのなら本当かもしれない、と少し自信がつき、文章を書くのが大好きになった。

 この板屋沢が私の祖父、加藤勝弥の生地である。嘉永七年正月五日(1854年2月5日)生まれで大正10(1921)年11月5日に68歳で没した。子宝にめぐまれた勝弥・久子の末っ子が七郎、そのまた末っ子が私である。写真で見る勝弥の顔には、ある種の風格がある。明治の人らしく髭をはやし、和服姿で子どもを膝に抱く姿が多いが、モーニング姿もある。

 勝弥は大庄屋(享保年間に任命)で造り酒屋の長男に生まれた。ペリー率いる黒船艦隊の2度目の来航の年に当たる。生誕の約2か月後、横浜村の応接所で日米和親条約が結ばれた。この日米交渉については拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)を参照されたい。また最近、岡倉天心市民研究会でペリー来航と老中首座、阿部正弘の果たした役割について講演、その概要を本ブログのリンクに「講演録 岡倉天心『日本の覚醒』を読む」として掲載したばかりである。勝弥の誕生日がペリー来航と一致するのは偶然だが、これを期に勝弥が私の中で再浮上した。

 私が板屋沢を初めて訪れたのが67年前の夏であった。そして今年、7月31日から2日間、孫と二人で訪れた。彼は奇しくも中学2年、私の初めての板屋沢と同じ年齢である。高祖父・勝弥は、どのような姿として孫に宿るのか。

 勝弥の一つ目の顔は、明治12年に始まる新潟県会議員に25歳の最年少で当選、その後の自由民権運動の若き闘士、そして新潟県議を8期、明治23年の第1期衆院議員に当選、3期つとめた政治家である。二つ目の顔は新潟の北越学館や東京の明治学院等の教育機関の創設や経営、三つ目が日本キリスト教会の長老としての活躍で、村上教会や東京市ヶ谷教会等に足跡が残る。

 私の勝弥への想いは第一の政治家としての顔にあり、祖父という関係を離れて、歴史家として彼の小伝をまとめたいとの思いはあったが、多忙に紛れ、そのままになっていた。

 羽越本線の府屋駅まで加藤優さんが迎えに来てくれる。優さんは上掲の二蔵さんの長男である。勝木川の清流は往時のままだが、板屋沢は田んぼが工場や駐車場になっており、時代の変化を思い知らされた。

 優さんの案内で山手側をすこし登ると、勝弥の洋風の屋敷があった平地に出る。草木に覆われ、かつての面影はまったくない。集落の墓地のいちばん奥に勝弥・久子の墓がある。

 その後、新潟市へ向かいホテルに一泊、翌朝、観光循環バスに乗り、白山神社前で下車、新潟憲政記念館を訪れた。勝弥の政治活動の場であった新潟県政の議事堂である。

 明治13(1880)年の大火で県庁舎内の議事堂も類焼、3代県令(1875~85年)の永山盛輝(1826~1902年)の発議により3万7000円の巨費を投じて明治16(1883)年に完成した2階建て。左右に透かし彫りの大破風の屋根、中央に八角の塔屋を持つ、堂々とした雄姿である。

 永山は薩摩藩士から明治政府に入り、戊辰戦争からの復興のため士族女子の救済施設「女紅場」の設置や、小学校の就学率の向上に尽力した。設計は、新橋駅舎や大阪駅舎を手がけた、県出身の大工の棟梁で新進建築家の星野総四郎(1845~1915年)である。

 立地場所は、信濃川と2本の堀(現在は暗渠)で三方を囲まれた、火災(類焼)の危険が小さい所が選ばれ、昭和7(1932)年、新設の県庁舎内に議場が移されるまで50年にわたり使われた。戦後の昭和44(1969)年、重要文化財「新潟県議会旧議事堂」に指定され、大規模解体修復工事を経て、昭和50(1975)年から「新潟憲政記念館」として公開されている。

 入口受付で所蔵資料等について尋ね、展示室を回った。一階左手の旧傍聴人室と研修室が現在は展示室で、種々の地図や写真が新潟市と県会議事堂の歴史を伝える。

 副館長の山崎雄さんが議場に案内してくださった。天井が高く、議員定数の54番まで立て札がある議席が長方形に並び、2階は傍聴席で500名ほどが入れる。年に1ヶ月開催される県議会には議員の10倍もの傍聴人が訪れ、ヤジも飛ばす熱気あふれる場であったという。

 今回の勝弥めぐりはここまで。当時の議場の議論や勝弥の演説を再現したいと思うが、十分な史料を得られるかは、これからである。

コックスの鎌倉・京都観光

 イギリス平戸商館長コックスの江戸参府は、1616年9月1日、二代将軍秀忠の拝謁を得て順調だった(本ブログ「コックス商館長が将軍秀忠に拝謁」2018年2月14日)。ところが特許状(朱印状)はなかなか得られず、手にしたのはやっと9月23日であった。それが従前のものではない不利な内容であることに気づいたのは約1ヶ月後の浦賀で、コックスは急ぎ江戸へ取って返す。

 そして10月3日、土井利勝(老中)には面会できず、本多正純(老中)も不在、4日にはアダムズを本多のもとへ派遣するも確たる返事は得られず、5日にも返事がない。6日、土井は多忙とのことで面会さえできない。苛立ちながら無為に過ごす。

 7日、板倉勝重(伊賀守、京都所司代)のもとへ、数種の羅紗(輸入品の毛織物)やロシア産の赤色の獣皮を持って出向いた。コックスは「この方は日本の首席裁判官であり、いまミアコ(京都)から帰着したばかりである」と記す。板倉は後に、優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行…と評価された人物である。

 コックスは記す。「私が江戸に戻ったのはミアコで我々の商品を売ってはならぬとの布告を受取ったためと言うと、板倉は皇帝が平戸以外での販売を禁じたのは事実だと語った。これに対して私は、この3年間、平戸では何も売ることができなかったため、新たな命令は我々を国外追放するのと同じと述べた」。

 板倉の言として「皇帝の意向には逆らえず、現在はすべてのことが老皇帝の時代とは別のやり方で行われている。大方のことは秘書たち(年寄、のちに老中と呼ばれる)の権限下にあり、自分もあまり役に立つことはできない。時が経てば、最善を尽くす」。本多正純については、「我々に姿を見せないようにしている…」と記す。翌8日、土井を訪ねたが、自分には権限がないので本多に頼むようにと、体よく断られた。

 さまざまな試みも効果なく、「…ひとたび決まったことは一日や二日で廃止できず、しばらく辛抱するよう」と言われる。江戸参府の所期の目的が達成できないまま、10月17日朝9時、コックスは江戸を発つ。

 Caningawa(神奈川)に一泊、18日にCamacora(鎌倉)に入る。「鎌倉は500年前、日本最大の都市であって、現在のミアコや江戸より四倍も大きかったと言われる。頼朝と名乗るこの地の将軍(皇帝)は釈迦の末裔である内裏から王権を奪った。だが今は都市ではなく、山々の間にある心地よい谷に家屋が散在、壮麗な堂塔や、剃髪した女性たちの住む尼寺(というより魔窟)が一つある」。

 この尼寺は東慶寺を指し、日記欄外の注に「フィディア(秀頼)様の幼い娘(天秀尼)は、救命のため髪を切って尼となり、この寺に住んでいる。ここは聖域でいかなる法官も連れ出すことができない…」とある。

 もっとも強い関心を示したのが大仏である。「…他の何ものにもまして私が感歎したのはDibotes(大仏)と呼ばれる、谷間にある巨大な黄銅の偶像で、480年以前に造られた。仏殿は完全に朽ち果てている」。

 実際の鋳造は1252年(建長4)に始まるので「360年以前」とするのが正しい。高さ11.31m(台座を含めると13.35m)、重量約121トン、高徳院の本尊の銅造阿弥陀如来坐像で、ほぼ造立当初の像容を保つ。古記録によると1334(建武元) 年と1369( 応安二) 年の大風、1498(明応七) 年の大地震で仏殿は損壊、露坐となる。なおコックスは鶴岡八幡宮、建長寺、円覚寺等には言及していない。

 東慶寺(1285年建立)は明治に至るまで尼寺、江戸幕府寺社奉行も承認する縁切寺として女性の離婚に関する家庭裁判所の役割を果たしたことで有名、その仏殿(1634年建造)は1907年に三溪園へ移築。また大仏は江戸中期、浅草の商人野島新左衛門(泰祐) の喜捨を得た祐天・養国(増上寺第36 世法主)の手で復興。現在は国宝。また最近の「健康診断」(2016~18年、「昭和の大修理」以来半世紀ぶり)の結果、「深刻な劣化はなく、状態は良好」と発表された(2018年4月23日、日本経済新聞)。大仏の胎内に入ることができるため、胎内各所に100個ほどガムがこびりつき…。佐藤孝雄住職は「胎内に触るのを禁止したほうが良いとの意見はあるが、信仰の対象でもあるので、過酷な環境に座している(大仏の)温度を手のひらで感じてほしいとも思う」と言う。

 鎌倉見物を終えたコックスは、10月18日、藤沢で一泊、翌19日は大磯で昼食、この後も昼食の地名と宿泊地を記すが、残念ながら街の様子は書いていない。江戸や京都についても同様。20日は箱根で昼食、沼津泊。21日は蒲原で昼食、由比でアダムズが落馬(飛んできた鳥に馬が驚いて立ちあがったため)、右肩の関節をはずす怪我を負い、江尻泊。22日に駿河の宿に彼を残して先発、23日は掛川で昼食、見附泊。24日は新居で昼食。25日は藤川で昼食、鳴海泊。26日に桑名、27日に庄野で昼食、関泊。28日は石部で昼食。29日、鎌倉を発し11日目に京都着、ウィッカムと再会し平戸からの手紙を受け取る。

 11月2日、京都の史跡巡りにくりだす。まずは方広寺の大仏。豊臣秀吉の発願により1591(天正17)年に完成した木造を、1612(慶兆17)年、家康の薦めで秀頼が金銅仏としたもの(なお1625年には鋳潰)をコックスは見ており、「…驚くばかりの大きさで、仏像は足を組んで座るも、頭は聖堂の天頂に届き、全身に鍍金、…聖堂(大仏殿)は私の見た建物のうち最大…」と記す。

 この聖堂は二条城、江戸城、名古屋城等を築城し、日光東照宮等の家康関連の建造物を建てた大工棟梁の中井藤右衛門正清の手になり、石垣のみが残る。

 ついで三十三間堂(蓮華王院の本堂)を訪れ、「中央の黄銅の大仏と両脇に3333体の像」(実際は木造の本尊千手千眼観音坐像と1001体の千手観音)と記し、「…人間そっくりの優れた形、…純金で鍍金された絢爛たる姿…風神雷神…」と具体例を挙げた後、「この聖堂は私が見たなかでもっとも嘆賞すべきもの…著名な世界の七不思議のいずれにもひけを取らない」と結ぶ。

 最後に訪れたのが豊国廟(豊臣秀吉の墓)。「…ただ感嘆させられるばかりで、言葉で言い表せない。…まことに巨大な建物で、内部も外部も見事な細工…他のいずれより優れている。…」と、豊臣家滅亡後に徳川家の命により廃絶される寸前の姿を描く。現在は明治天皇の勅命により再興された豊国神社。

 11月25日、大坂を出帆、瀬戸内海を通り12月2日に下関、翌3日に平戸に無事帰着。わずか9日ときわめて速い。2年後の1618年2月には倍の18日を要した事例を挙げている。季節風の関係であろう。(続く)

タケの開花(その7)

 三溪園のタケ・ササの花が終わりに近づいている、そう長くはあるまい、と想定しつつ書いたのが、本ブログの7月6日版「タケの開花(その6)」であった。

 これまでムギ研究(農学)の第一人者・坂智広さん(横浜市立大学木原生物学研究所教授)に科学的分析と見解の大部分を依存し、庭園担当の羽田雄一郎主事による日々の観察に頼り、私は主に三溪園のタケの花の推移を記録・公開すると同時に、文化的・歴史的背景を追って、昨年からブログ「タケの開花」を書いてきた。今回が(その7)になる。

前回の(その6)の末尾で、坂さんによる第12回「観察報告」(6月28日現在)の総括に触れたが、紙幅の余裕がなく掲載できなかった。それを最初に紹介したい。今回は写真や地図がないと分かりにくいため、本ブログで初めて画像入りとした。


【タイミンチク】
▶ 6月28日の観察で三溪園内のタイミンチクの分布域を把握し直した。分布エリア内部には大きな株が散在しており、そこから地下茎により子株、孫株とクモの巣状ネットワーク(Web)のように分布を広げている様子が見て取れる。

▶ 私の考えでは、昨年は尾根筋を中心としたタイミンチク分布域の中央で、数十年の周期で竹林全体が同調して開花する「一斉開花」が見られ、その勢いからすると竹林の全面で開花のピークを迎えた。

▶ 今年は一斉開花が継続。そのピークは三重塔や旧東慶寺仏殿方面の北東から東側の辺縁部に広がり、また昨年の咲き残りが竹林内部の株で部分的に引き継がれた、部分的な開花の様相を示したと考えます。

▶ この場合、一斉開花は一年で終わらず、それが昨年のピークの前後で数年続いていると思います。

▶ 竹林全体でも開花のエリアが移動しており、面積的に昨年が全面的な一斉開花(全面開花)とすると、今年は辺縁部分での開花(部分開花)あるいは部分的な全面開花であると考えます。花穂の枯れた様子を見ると、旧東慶寺仏殿付近が昨年から開花はあったものの、やはり今年の方が花は増えていると思われます。辺縁部が3〜4年に亘る一斉開花の終盤に当たるのか否か、予見は難しいと思います。
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タイミンチクの2017年/2018年開花観測地点比較


【オロシマササ】
 今年のオロシマササの開花は、昨年同様に事務所から見て向かって左側の生垣がほぼ全体にわたって全面開花し、右側の垣根でも部分開花をして、昨年よりも花の数は減ったが5月に開花のピークを迎えた。来年も部分開花は期待されるが、数と場所は限られると予想している。今後の刈り込み施肥管理の状況により、地下茎や株の生育具合によって出穂・開花の様相が左右される可能性がある。(その総括に至った考察を以下に述べる)

考察①:これまで(一昨年以前)にオロシマササが開花していたかどうか判断できないが、昨年タイミンチク同様に「一斉開花」が見られ、今年は部分的に継続した「一斉開花」が昨年も多くの花を付けた株で部分的に引き継がれた、部分的な開花の様相を示したと考えます。

考察②:管理事務所から見て向かって右手の垣根では、昨年も開花していた特定の株で今年も出穂・開花が見られたが、昨年同様に全体的に開花はしていない。また、6月に入り栄養成長が盛んになるにつれ垣根全体を通して葉に二型が顕著になった。出穂していない稈は幅広で長い葉をつけ、出穂しているものは小さい葉をつけており、a)遺伝的に均一な集団ではないかもしれない、b)刈り込み等の管理による生育状況、栄養状態により出穂開花が制御されているかもしれないなどの仮説が立てられる。来年の開花が長期周期により減少傾向に進むのか?あるいはこれからの刈り込み作業などで夏場の生育が来年の開花に影響するかは、今後実験的思考も含め検討する必要がある。

なお参考として「ササの開花と結実」(2014年、名古屋学芸大学 教養・学際編・研究紀要)、柴田昌三(京都大学地球環境学堂)「緑化植物としてのササ類」(2015年 『草と緑』7)、柴田昌三「緑化植物としてのササ類の特性とその利用」の添付あり。





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以上が坂さんによる2年間の観察の総括と見通しである。

 この間、私はタケ・ササの開花周期等に関して思いを巡らし、確かな記録が見つからない以上、他の方法で補正することができないかと、簡略なアンケート調査(主にメールによる)を実施した。お願いした対象はテニス仲間の3団体、構成員合計は約50名だが、よく参加する<常連>は30名~35名である。7月8日晩に次の質問事項をメールで発信した。

 つかぬことをお尋ねします(アンケート調査のお願い)。以下の6問にお答えください。
 Q1 タケ・ササの花を見たことがありますか? はい いいえ
 Q2 はいと答えた方に、いつごろ? どこで?
 Q3 タケ・ササが枯れた姿を見たことがありますか? はい いいえ
 Q4 はいと答えた方に、いつごろ? どこで?
 Q5 タケ・ササの花について話を聞いたことがありますか? はい いいえ
 Q6 どのような話ですか?
 実は私の関係する国指定名勝三溪園(横浜)でタケ・ササが咲いており、この何年に一度と言われる現象に関して調べている最中です。みなさんからの貴重な情報が役立ちます。サンプル数が多ければ多いほど確率が高くなりますので、ぜひご協力ください。よろしくお願いします。   加藤祐三

 その晩から回答が来始めて翌日に集中、コートで直接に訊いたものを含めると計26通。それを材料に集計、そこから得られた主な論点は以下の通りである。

 Q1とQ3については、「いいえ」が多かった。メール返答がない方々に口頭で尋ねると、Q1、Q3、Q5の全問に「いいえ」なので返信しなかったとのこと、これを加えると圧倒的多数派である。なお全問に「はい」は一人のみ。

 Q1に「はい」と答えた人も三溪園へ観に行った、テレビで観た等であり、唯一の例外が花を2度観たとの回答1件と「子どもころ周辺に多くの竹林があり、いつも花を観ていた」の1件である。

 Q3の枯れ死を見たとする回答は、花を見たとするものよりすこし多い。タケの花は小さく目立たないが、竹林の枯れ死は外からも異様な風景として印象が強いのであろう。静岡、成田等、見た場所を覚えているもの、曖昧とするものもあった。

 Q5については「はい」が意外に多かった(全体の約3分の1)。Q6の記述は2種に分けられる。第1のタイプが花の周期に関するもので、「100年周期で咲く」、「数10年に一度」、「めったに咲かない」等々である。なお「(戦禍を免れた)庭のマダケに白い花が咲くと母親から聞いていたが、自分はまだ観たことがない」と答えた83歳の仲間、タケの花の長い周期を知る実例の一つとなる。

 Q6の第2のタイプは、開花と枯れ死を関連づけた話である。「昔からよく聞いています。100年に一回、花が咲くとその竹藪は全体が枯れるというように」、「花が咲くと枯れ、数十年に一度ぐらい起こると聞いています」、「咲くことは咲くが、極めてまれである。花が咲いたタケ・ササは枯れてしまう」等である。

 花が咲くと枯れるとする説(噂、伝承、風説)は少なくないが、こう答えた人のうち「タケの花と枯れ死を見た」は、今回の調査では一人だけであり、それも同じ竹林ではない。「花が咲くと枯れる」とする説の根拠は、依然として不明のままである。

 またアンケート調査の波及効果も想定以上に大きく、「人生100歳時代」を唱えるテニス仲間の最長老(85歳)は、そのモットーに「<竹の花を観た>と加えたい」として、アンケートを見た翌日に即断即決、夫妻で三溪園へ行き、ギリギリの時期にタケの花に会えたと感激の報告をくれた。

 さらに坂さんがフェイスブックを使ってアンケートを10日に開始、対象は彼の授業を受けている学生で、20名の回答があった。回答の分布等は上掲のものと似ているが、Q6の内容に物語性(劇画性)が強い印象を抱く。

 Q1については「はい」が4名だが、ネットのニュースの写真で見たがふくまれ、実物を見たのは2名。Q3については「はい」と「いいえ」が半々で、「子どものころ通学路にあった竹やぶで」、「明確な記憶はないが、見たことがあるような気が…」とある。

 Q5についても「はい」と「いいえ」が半々で、Q6では「120年ぶりに咲いた笹の花のニュース。余りにも珍しいためか、大地震の予兆というはなしもあるらしい」、「なかなか咲くことはなく、100年に一度と言った周期で咲く。ただし、当たり年はピッタリ1年ではなくブレがあることも分かっている」と自信たっぷりの回答もある。また「咲くのは珍しく、咲くときは一斉に咲き、その後すべて枯れる」や「咲いたら枯れる」ともある。

 しかしタケの開花とその枯れ死を同じ竹林で見たとの回答はない。

 これらのアンケートから得たものが一般的に妥当するかどうかは定かでないが、一つの試みとしては有益だったと思う。

 昨年は、三溪園のタケの花がいつ終わったかの確認を迂闊にも行わなかったため、今年はしっかり見張ることとしている。羽田さんに頼むと同時に、彼に種々の連絡をくれる巡回警備の天野英士さんや清掃担当の鳥澤雅志さんにもお願いした。

 開花は気づきやすく、日にちも特定しやすいが、花の終わりとなるとまた別である。タケ・ササの花は花弁がなく(露出せず)、小さい黄色の雄しべが3個、雌しべの周囲についていて、風にゆれるのを頼りに判別する。終わりに近づくと黄色の雄しべが退色するが、どの段階が花の終焉なのか判別するのは難しく、おおよその判断しかできない。

 「本日7月9日、タケ・ササの花が少なくなり、花の所在を示す案内板を撤去しました。なお新しい開花も見られます」と羽田さんからメールが入った。撤去したのは丘の上のタイミンチクの案内板で、内苑入口のオロシマササの案内板は残してある。

 7月12日、羽田さんと一緒に園内を見て回った。オロシマササには新しい花がいくつか見られた。広域に繁茂するタイミンチクは、これまで咲いていた場所とその周辺を重点的に観察、いくつかの新しい花を見つけた。さらに周辺部と外延部も見て回ったが、こちらには新たな開花は見られなかった。

 15日、蓮の花を愛でる早朝観蓮会が始まって二日目、猛暑のなか坂さんと羽田さんが観察を行い、羽田さんが観察結果と見通しを送ってくれた。オロシマササもタイミンチクも12日の観察より花の数が増えているとあり、驚かされる。「…全体としては両種とも全面開花の盛期は終わり、栄養成長期(枝葉が伸長する時期)に入ったとことから一つの区切りをつけてもいい時期かと思いますが…、花の終焉という表現にふさわしい状態がいつ頃訪れるか予想は難しく、人間の都合通りにはいかない自然を観察し、伝えることの難しさを感じております」とあった。

 「人間の都合通りにはいかない自然を観察し、伝えることの難しさ」に、私も強く共感する。とりあえず、以上をもって急ぎ中間報告としたい。

タケの開花(その6)

 「今年も三溪園のタケの花が咲いた」と書いたのが4月17日のブログ「タケの花(その5)」である。その末尾で4月11日に坂智広さん(横浜市立大学木原研究所教授)から届いた論考「三溪園の竹の花 観察記録(1)」の一部を引いた。「…イネ科タケ亜科メダケ属(Pleioblastus)に分類される、オロシマササとタイミンチクが、どれくらいの開花周期で、開花後にどうなるのかは全く分かっていません。…植物が花をつけるのは、一生のうちで最も大きなイベントです。…」

 これから約2か月半になる。内苑の事務所前にある植え込みのオロシマササと三重塔近くに繁茂するタイミンチク、いずれも静かに咲いている。オロシマササは丈が低いためか、しゃがんでカメラを構える人の絶えることがない。

 昨年より1か月以上も早く開花した後の展開は、ゆっくりで目立たないが、終わってはいない。最近の記録から抜粋すると、「…オロシマササは開花株と開花穂が増えてきたという印象。出穂の仕方について、多くは根元の分げつから1本だけ出穂するタイプだが、昨年開花した株では高いところの節から分枝して出穂開花しているタイプも見られる。 地際から生える新枝についた穂も、昨年より大きめで色が濃いように感じた」(4月26日、坂)。

 「園内を一巡、タイミンチクの新たな開花は認められなかったがオロシマササの開花は見つけた」(5月1日、私)、「坂さんが来園、羽田雄一郎主事(庭園担当)と一緒にオロシマササ及びタイミンチクの観察を行う。印象では開花が進んだようには見えないが、一部に新しい花も発見した」(5月10日、私)、「今日はすこし蒸し暑い。オロシマササの開花が増えた印象あり」(5月17日、坂+私)とある。

 5月21日、斎藤淳一さんからメールが入った。本ブログの2018年3月26日「善四郎とペリー饗応の膳」で紹介した方で、2年連続で咲いたタイミンチクとオロシマササの写真を撮ってきた。「昨年(6月9日)も<一生に一度しかないチャンス>と蚊に刺されながら撮影してきましたが、その経験を活かして今年は準備万端、長袖シャツに虫よけスプレー、虫刺されのかゆみ止め、…去る16日に開園の午前9時を待って入園、撮影してきました」とある。

 これにつづく一文が、多くの人の気持ちを代弁しているのではないか。「生涯に一度、出会えるかどうかというタケの花を2年連続で、しかも同じ場所の同じ株(地下茎)で観られる<幸運>を喜んでいいのやら、<その分、宝くじ高額当選運が遠ざかった>と嘆くべきか、はたまた、何か(天変地異でも?)が起こる予兆なのか…と、この珍現象にひとりで興奮しています。」

 5月31日、三重塔の近くでタイミンチクを観察しつつ談笑している二人連れのご婦人に声をかけた。「…タケの花には花弁がないのが特徴、イネ科の植物で雄しべ・雌しべともにイネやムギに似ている。イネやムギは受粉して実をつけ、それを人が食べるが、タケは開花後に必ずしも結実しないこともあり、結実しても不稔のこともある。そもそも開花の目的が子孫を残すためか、あるいは地下茎による個体の再生産(クローンの形成)が何らかの要因で困難を来たし、死滅を回避する一つの方法として開花・受粉して実をつけるのか…いずれも分かっていません。」等々、これまで得た知識をすこしばかり披露した。

 お一人が、子どものころ川崎で、青桐の花は咲くと死滅する、開花が不吉の代名詞とされていた、また蓮の花は咲くときにポンと音がすると言われ、早朝に寺へ聴きに行ったが、和尚さんから「そんなことはありません」と教えられたと話してくれた。私が「ポンという音の噂に誘われて、お寺参りや早朝の観蓮会に人が集まるのでは?…」と言うと、「…あら。黙っている方が良いかしらね」の返事。たわいない、楽しい会話だった。

 この日の夕方、坂さんが固定カメラ3台を設置、タイミンチクの定点観測を開始した。

 6月14日、所用で来園できない坂さんに、私から「観察では一昨日及び先週と似ていて、新しい花もあれば、そのままの穂先が残ってもいる印象。全体として増えても減ってもいない。」と送った。羽田さんの観察は、「花数としては、先週よりもやや少ないと感じ…雄しべが垂れた状態の花数は、先週と同じくらいにも思えたが、開花したての花や先週の観察で…注目の新たなつぼみは減少しているようでした。出世観音の手前で新しいつぼみが見られた程度です。鈴なりの穂は新たに見つけられず…」と詳しい。

 19日、北九州市立大学の近藤倫明前学長がメールで、「竹の花は60年に一度枯れる前にとの説有。遠く離れても呼応して咲くと竹学者から聞いたことがあります。」と報せてくれた。開花周期説も開花後の枯れ死説も、全国規模で言われているようである。確かな記録に基づく説明が欲しい。

 後日、近藤さんから同僚の岩松文代さんの研究資料「日本語の視点からみた竹笹概念(その2)万葉集の「たけ」「しの」「ささ」概念」(Bamboo Journal no.30 2017)を受けとった。「万葉集で「たけ」は皇族を象徴する高貴な概念を持つ言葉で、人の美しい姿、さびしさ、苦しい恋などの比喩であり、「ささ」は人をおもう切なさの比喩…」とある。古代人の抱くイメージに、目前の花が重なる。

 <竹酔日>(ちくすいじつ)という言葉を思い出した。去年6月1日掲載の「タケの開花(その2)」に「…<竹酔日>の言葉が村松さんから出た。この日にタケを植えるとよく育つという中国の言い伝えで、陰暦5月13日、新暦で6月23日頃を指す。この頃がタケの個体更新や世代交代の最適期なのか。まずは竹酔日までの変化をしっかり観察していきたい。」と書いた。

 その<竹酔日>の6月23日が昨年の「タケの開花(その4)」の掲載日で、テレビ朝日の報道の顛末等を引用して終わっている。

 今年の<竹酔日>はとうに過ぎた。坂さんが地図を作り、6月28日、「…去年より開花地域がり…三重塔西側斜面から東慶寺お堂と滝の方向に向かった北東側でタイミンチクに多くの開花が見られる。…」と送ってくれた。今年初めて開花域が拡がったのか、あるいは今年初めてそれに気づいたのか。

 6月29日、気象庁はついに関東甲信の梅雨明けを宣言、6月中の梅雨明けは観測史上初とのことである。<異常気象>か<温暖化>か。

 4月4日にオロシマササが咲いたとの第一報が入ってから3か月も経過してしまった。7月4日、昨年と今年の開花地点を示した新しい地図と観察結果に関する壮大な仮説が坂さんから届いたが、今回は7月5日までの近況を急ぎお届けする。

 タイミンチクもオロシマササもまだ咲いている。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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