首都圏都留市会の設立

 都留市(山梨県)出身者、都留市にゆかりのある人、都留市民が手を携え、積極的に情報を交換し親睦と交流を図る「首都圏都留市会」を設立する、との案内を頂戴した。その代表発起人が西室陽一、武井正明のお二人。
 設立趣旨を読むまでもなく、西室さんのお名前だけで出席を決めた。私が都留文科大学長(2010~14年)のとき理事長が西室さんで、お世話になり苦楽を共にした、敬愛する大先輩が代表発起人であれば、何が何でも駆けつけたい。

 本ブログのリンクに『都留文科大学学長ブログ 2011~2014年』(以下、「学長ブログ」と略称)があり、その084号「西室理事長の退任によせて」(2013年3月31日)を載せたのは、ほぼ5年前。「都留市立の都留文科大学を公立大学法人都留文科大学に制度変更したのが、2009 年4月である。この法人化から4年間、初代理事長だった西室陽一さんが、みなに惜しまれつつ、3 月末で退任された」と始め、学長として私がご一緒した3年間弱の、理事長・学長の協働関係を記した。高田理孝・福田誠治の両副学長、椎廣行事務局長を加えた5人の常任理事は、会議の前後によく昼食を共にして親交を深めた。

 設立総会の2月18日(日曜)、会場の京王プラザホテルへ向かう。西室さんに初めてお目にかかったのもここで、2010年6月、大阪教育大学から都留文科大学法人化準備室に移った椎さんが引き合わせてくれた。

 11時開始。260名の賛同者のなかから役員として西室陽一(以下、敬称略)を名誉会長、武井正明(NPO法人福祉会希望の家理事長、元小金井市議会副議長)を会長に、そして副会長に川合修、志村政彦、原護の3名、理事8名、監査役2名、事務局長と会計、顧問として横内正明(都留文科大学理事長、元山梨県知事)、堀内富久(都留市長)をはじめ12名、相談役2名を選出、ついで武井会長、堀内市長、来賓の挨拶の後、趣旨・会則・議事が提案通り承認された。

 配布物には、次第として第1部設立総会、第2部懇親会とあり、設立趣旨、役員名簿、会則、予算(案)、事業計画(案)、会員名簿(法人会員13、個人会員247)、来賓31名の名簿、最後の2ページには、都留文科大学学生歌「花のかげ」、都留文科大学創立60周年記念愛唱歌「都留はuniverse」、市民愛唱歌として「今、生きています」と「翼をください」の歌詞がついている。

 設立趣旨に「…地方の活性化、人口減少や少子高齢化の進行など、地方の課題が山積する昨今、…」とある通り、これは現代日本の直面する普遍的課題である。
 以下の記述は、私の走り書きメモに基づいたもの故、各位のご発言の趣旨に添わない場合は、お詫びして修正いたします。

 武井会長は、(1)山梨県人会連合会の支援を受け、今回の首都圏都留市会の設立に至ったこと、(2)東京の地下鉄第1号(銀座線)建設のリーダー早川徳次(1881~1942年)は山梨県(現笛吹市)出身、1923年の関東大震災を乗り越えて、1927年、浅草=上野間を開通させたこと、(3)1997年、品川=名古屋間=大阪の中央新幹線リニアモーターカー(JR東海の超電導磁気浮上式高速鉄道)実験線が宮崎から都留市に移され、2027年開通を目指していることを合わせ、2つの鉄道の縁を語った。

 堀内市長は(1)昨日の平昌オリンピック(冬季)で羽生結弦がフィギュアスケートで66年ぶりの2連覇を達成したが、4年前の同じ2月17日、都留市は一晩で1メートル半もの豪雪に見舞われ(「学長ブログ」118号参照)、多数の車が立ち往生した時、自発的に炊き出しをした市民の心の優しさを称え、(2)人口3万余の都留市に3000名以上の文大生が全国から集まり、約3万人にのぼる卒業生が全国で活躍、2年前に誕生した「道の駅つる」のオープンには彼らが海なしの都留市に海産物の販売ルートを提供してくれた、(3)学術・文化・芸術が融合した知的風土を醸し出すまちに高齢者を招く、都留市版CCRC事業が全国先進七団体の1つに選ばれた、と語った。

 CCRC事業とはContinuing Care Retirement Community (継続的なケア付き高齢者共同体)の省略形。退職後の第二の人生を健康的に楽しむ街づくりの概念で、元気なうちに地方に移住し、必要な時に医療と介護のケアを受けて定住できる場所づくりを目指す。政府は2015年、有識者会議で、高齢者の地方移住を促すことで首都圏の人口集中の緩和と地方の活性化を目指す「日本版CCRC」構想をまとめた。
 都留市役所のホームーページに「生涯活躍のまち・つる構想(都留市版CCRC構想)」があり、下谷地区の単独型と田原地区文大隣接地の複合型プロジェクトに参入する事業者を公募中とある。

 来賓の山梨県人会連合会(1950年設立)会長の弦間明((株)資生堂特別顧問)は、全国の都道府県人会連合会(出身地外の東京等に事務局を置く)のうち、会員数の1位は北海道で会員6万人(正式名は北海道ふるさと会連合会)、2位が鹿児島県で4万人、そして3位が我が山梨県、会員数3万5000人…と切り出す。そして県人会は会員各自の自主的・自発的ボランティア活動が本旨であり、「互いの情報を積極的に交換し、親睦と交流を図ること」を通じて、まちの発展に寄与しよう、と結ぶ。

 第2部懇親会は会場を移して始まった。冒頭で西室さんが登壇、「この2月で90歳になりました…」に、万雷の拍手。
 乾杯、祝辞、歓談とつづき、アトラクションとしてトリマーズの演奏、ついで若き文大合唱団が登場した。宮城県から駆けつけた卒業生の鎌田光彦さんが、7年前の東日本大震災後、母校の合唱団の慰問(「学長ブログ」029、031参照)にどれだけ勇気づけられたかと話し、大きな拍手が沸いた。思えば「学長ブログ」は大震災の翌日2011年3月12日に書き始め、学長退任後に「加藤祐三ブログ」として承継、通して7年になろうとしている。

 合唱団の歌に会場の熱気も高まり、それが最高潮に達したところで最後のあいさつ。「つる大使」の一人、国井雅比古さん(元NHKアナウンサー)が「私自身ができることを自主的・自発的に進めたい」と力強く締めくくった。
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コックス商館長が将軍秀忠に拝謁

 本ブログの8月21日号に「400年前の英語」、10月4日号に「平戸イギリス商館」、12月5日号に「平戸のにぎわい」と3本の論考を載せた。いずれも平戸のイギリス商館長コックス(Richard Cocks 1566~1624年)の日記“Diary kept by the head of the English Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻刻し、訳文を付した『イギリス商館長日記』(『日本関係海外史料』)所収、以下、「コックス日記」とする)の豊富な史料に魅せられ、400年前の日本社会の一端を描こうと試みたものである。

 コックス日記の史料的特徴を挙げれば、次の点にあろう。(1)日本語の史料では記されることの少ない外国人の視点と体験から描かれた日本社会の諸相、(2)商館長として貿易取引に伴う商品・価格・売れ行き等々の業務記録(日記には概要のみ掲載、帳簿はなし)、(3)1600年に発足したイギリス東インド会社の仕組みと貿易業の現場の状況記録等々である。

 コックス日記を使った先行研究は、参照できた歴史学の分野では、(1)武田万里子「平戸イギリス商館日記」(永積洋子・武田万里子『平戸オランダ商館・イギリス商館日記:碧眼のみた近世の日本と鎖国への道』p245~、そしえて社、1981年)、(2)鍋本由徳「江戸時代初期における領主権力と<長崎奉行>の覚書」(日本大学通信教育部通信教育研究所「研究紀要」2015年)、(3)小林章夫「平戸イギリス商館の木綿販売」(『はた』日本織物文化研究会誌 19号 2012年)、(4)榎本宗次「近世初期銀貨考」(『史料館研究紀要』5、1972年)。

 歴史学以外では、(5)ろじゃめいちん『江戸時代を見た英国人』(PHP研究所 1984年)、(7)演劇史の分野からトマス・ライムス(Thomas Leims)「リチャード・コックスの日記-成立初期の歌舞伎研究におけるコックス日記の意義について」(早稲田大学演劇学会『演劇学』31号、1990年)がある。シェイクスピアと同時代の「コックス日記」を活用した英語史の研究は見つからなかった。

 コックスに関する同時代人の評価はどうか。上掲(1)武田によれば、サー・トーマス・ウィルソン(大蔵大臣ソルスベリー伯の秘書官)は「…学問があるわけではないが誠実で、年がいっており、判断力もある…」とし、これを受けて武田は「…商人としてきわめて敏腕とはいえないが、正直で公私をわきまえ、日本では人望があった…」と言う。
ついで直接の上司にあたるジャワ島バンタムの支店長ボールは、きわめて否定的に、「…情熱においてはきわめて激しいが、理性においては見るかげもない。…総合的な判断力や見通しに欠け、片意地で評価すべきものを評価せず、口先の美辞に惑わされる…」(上掲(1)武田)と厳しいが、関係がよくなかった上司の部下への人事評価であることも考慮すべきであろう。

 現代のイギリス人による評価は、上掲『江戸時代を見た英国人』の第2章「外国人観光客のはしり、コックス商館長」に詳しい。そこにコックスがイギリス出航前の1611年に遺言書を残していたこと、1563年1月10日~15日頃にスタフォード(製靴業で有名)で誕生したことが記されている。さらにコックスが商売には向いておらず、庭仕事(1615年6月9日の日記にサツマイモを栽培した記事あり)、金魚の飼育、観光に熱心であり、また11年間の任期を終えて帰国する彼への日本人による送別の宴に触れ、親善大使の役割は十分に果たしたと述べる。なおコックスの蔵書家・読書家の一面は特筆すべきであろう。

 今回はコックス日記をもとに、彼の第1回江戸参府(1616年と翌1617年の2回あり)を見ることにしたい。アダムズが同行したこの参府は、1616年7月30日から12月3日まで。船で平戸を発ち、下関から瀬戸内海に入り、5日目に砂州(大坂港外)着、その後は陸路を行く。10日、献上品や商品等を2隻の舟で堺から伏見へ運び、運搬費を節約した。

 12日、伏見で10人ほどの罪人の晒し首を目にし、「このような厳しい処罰がなければ、彼らのなかで(私たちは)生きていけない」(以下、引用は拙訳による)と記す。高価な物品を運ぶ旅でも、盗難に遭ったという記述はない。

 さらに東海道を進み、8月19日に浜松、24日に箱根を越えて小田原、26日に戸塚、そのつどの宿代の支払いや関係者への贈答品を記す。27日午後に江戸着、平戸を出て28日目である。この日はアダムズの家に泊まるが、江戸の定宿の三雲屋はイギリス商館の代理人も兼ねている。30日、激しい地震に恐怖を覚える。

 9月1日、「…皇帝ションゴ(将軍)様へ献上品を納め、快く受け取ってもらった。この件ではコジスキン(本多正純、年寄=老中)殿とションガ(向井忠勝、御船手奉行)殿の助けを得た」。長く待たされた後に登城。「城はすこぶる強固で、二重の堀で囲み、石垣を回らし、…皇帝(将軍)の宮殿は巨大な造りで、どの部屋の天井も壁面も金箔で覆われ、あるいは獅子・虎・豹・鷺等の鳥獣の絵が描かれ……絵の方が金箔より素晴らしい」。

 いよいよコックスとイートン、ウィルソンが皇帝(徳川秀忠、家康の三男)に拝謁する。「…皇帝ションゴ(将軍)様は、ひとり一段高い所に座り、目にも鮮やかな青色の絹の衣を羽織り、仕立屋がするように畳の上に足を組み、…誰もこの部屋に入ることは許されなかった。彼は二度ほど私に入るよう招いたが私は固辞した。これは良いことだったと後で評価された。束の間のお目見えだったが、会う時も別れる時も彼は頭を下げた。」

 ついで拝領品の一覧を記す。各種の羅紗(毛織物)、ロシア産の獣皮、硝子の姿見、珊瑚樹、琥珀玉、兎皮、鋼鉄棒、鷹狩用具、薬壺、水差、湯呑、牛乳酒鍋、金箔を貼ったインド産の獣皮、錫の棒、鉛80貫(重いため証書のみ)。

 「仲介の労を取ってくれた本多正純殿と向井忠勝殿を訪れて礼を言うはずのところ、通詞のゴレザノ(五郎左衛門)が訪ねもせずに、もう登城されたと私に嘘の報告をしたせいで、贈物は宿舎に持ち帰ることとなった」。

 翌日、「本多正純殿、土井利勝殿(老中)、酒井忠世殿(雅楽頭)という皇帝に次ぐ重要人物3人」に同じ物を贈る。すなわち種々の羅紗、硝子の姿見、黒い兎皮、薬壺等。さらに平戸の王の弟(松浦信清)を訪ね、羅紗、サラサ(更紗、捺染した綿布)、硝子の姿見、手帳等を贈った。

 贈物はいずれも軽量、希少、高価の特性を持つ貴重品であり、運搬にも適している。「贈物の交換」は古くから「信頼の交換」を意味した。信頼により次に何を得るか。半年ほど前の1616年4月に家康が逝去、二代将軍秀忠の進めるキリシタン禁制とイギリス・オランダ両商館への貿易制限の下、コックスは家康時代の特権の復活を請願しつづけるが、思うようにはならない。(続く)

【33】連載(四)東アジアにおける英米の存在

 連載「黒船前後の世界」の「(四)東アジアにおける英米の存在」は、『思想』誌(岩波書店)の1983年11月号に掲載した論考である。それまでの3回分(1983年7月、8月、9月号)は、ペリー艦隊の派遣とその目的等をテーマとして日米の史料を基に毎月掲載してきたが、対象を東アジア情勢や英米の存在等に移すと関連史料も多岐にわたり、準備にもう1か月かけた。その後も隔月の掲載とし、最終の(八)(1984年7月号)の完成まで約1年を要した。

 本稿は全体を9節に分け、英米の東アジアにおける在外公館の規模の英米比較、その役割、米英関係史の概略、英米の対中貿易の比較(扱い量と貿易商品の構成等)、東アジアにおける英米の軍事力比較(軍艦の配備等)を分析し、米国が東インド艦隊により日本に一番乗りした背景等を述べる。

 1節で述べたのは、米国の東アジア在外公館が無給の商人領事を主体としており、それも中国では1846年から上海に、1849年からアモイに各1名を任命したに過ぎないこと、また領事より格上の公使待遇の弁務官(駐在地はマカオ)は米清望厦条約(1844年)の締結に伴い翌1845年に初代A・H・エベレットを任命するも赴任途上の病で退き(のち客死)、代理に東インド艦隊司令長官J・ビッドルを任命、彼はコロンブス号で1846年に江戸湾に来航したこと、駐華弁務官の2代目は半年間の空白期を挟んでJ・W・デービス、さらに2年半の空白期を挟み3代目のH・マーシャルが1853年1月16日に着任したこと等である。

 2節。英国も軍人のスターリング司令長官が日英約定(1854年10月)を結び、ロシアもプチャーチン海軍中将が日露和親条約(1855年2月)を結んだが、当時は英露間のクリミア戦争の最中であり、両国とも戦争の一環として日本に寄港する必要性から日本との条約締結を急いだもので、その分だけ日本の主張が相対的に通りやすい情勢にあった。
 軍人による条約締結は、必ずしも強い軍事的恫喝を意味するものではない。幕府が相手の弱点をどこまで見抜いて交渉を進めたかが重要である。条約締結に至る意思決定・実行過程・条約内容(交渉結果)の3段階のうち、米国は実行過程の最初部分に取りかかったばかりである。任命をうけたペリーの念頭には、①相手国の日本、②列強とりわけ超大国たる英国、③米国政府(とくに海軍省と国務省の対抗関係)の3つが複雑にからみあっており、いずれも無視できない重要問題であった。使用史料は主に米国議会文書。

 3節は英米関係略史である。米国は旧宗主国の英国から独立し、1776年にアメリカ合衆国を樹立した。ペリーは日米和親条約締結の1854年、「米国独立78年目」とわざわざ表明し、超大国の英国に先んじて「もっとも若い国たる米国が、もっとも古い歴史を持つ日本と条約を結び、世界へ仲間入りさせる役割を自分が担っている」と誇らしげに記した。

 4節は主として英国の在外公館の強大な陣容を扱う。1834年の東インド会社カントン事務所の解体と貿易監督官制度の発足、ついでアヘン戦争中の1841年に香港を植民地として香港総督を置き、南京条約(1842年)以来、順次、五港の開港場に置いた領事館の陣容等を述べる。史料は主に英国議会文書。
 米国の東アジアにおける在外公館の貧弱さに比べ、英国のそれは10倍以上の陣容を誇り、規模や待遇等の面で、まさに超大国に相応しいものであった。1834年に始まる英国の貿易監督官は、その名の示す通り自国商人の監督を行う役目を持つが、駐華全権大使、さらに1841年から香港総督、加えて英国東インド艦隊司令長官と、併せて四職を兼務した。

 5節と6節では、対中貿易の英米比較を行う。1849~53年の貿易額から英国と米国の対中輸出を比較すると、英国が圧倒的に多く(約94%)、対中輸入の面でも79%を占め、およそ英国:米国=9:1となる。
 これを商品構成から見ると、英国はインド産アヘンの輸出と茶(主に紅茶)の輸入が高い比重を占め、米国は白綿布の輸出と茶(主に緑茶)の輸入の占める比重が高い。英国から中国へのインド産アヘンの輸出急増に関しては、すでに拙著『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)等の研究があり、本ブログでも【25】、【27】等で述べた。

 7節は、東アジアにおける英米の軍事力比較、具体的には配備された軍艦の英米比較である。この点に幕府は強い関心を払い、1853年8月の『和蘭別段風説書』にも記載がある。船数では英国が18(3)隻(()内は汽走軍艦)で首位、これに対して米国は7(2)隻で2位であり、総トン数でみると英国14,368トンに対して米国7,014トン。これから分かるように英国は小型船が多く、汽走軍艦では英国:米国=3隻:2隻となり、米国の汽走軍艦の比重が高い。

 8節。ペリーが12隻からなる「堂々たる艦隊」を海軍長官に要請したのは、日本に対するだけでなく、超大国英国に対して新興国の「意気と存在感」を示す意図もあった。当時の汽走軍艦の航行能力や英米双方から東アジアまでの距離を比較すると、米国西海岸オレゴン州から太平洋経由で上海までが5,000マイル、それに比べロンドンから上海までは14,400マイル。米国は英国より3分の1も近い隣国であり、航行時間や海底ケーブルの敷設等の面でも有利である。

 9節。ペリーは1837年に米海軍の蒸気船フルトン号の艦長、米墨戦争(1846~48年)では米国メキシコ湾艦隊司令長官、のち陸上勤務の郵船総監(1848~52年)として米国東部と西部(オレゴン州、カリフォルニア州)を蒸気郵船で結ぶ事業を主導した。これらの経歴から汽走軍艦の及ぼすデモンストレーション効果を熟知していた。
 ところが当時の大型汽走軍艦は石炭喰いで、補給線がなければ太平洋を横断できない。事実、ペリーの搭乗したミシシッピー号(1,690トン)は米国東海岸の軍港ノーフォークを出航、大西洋を横断して南下、喜望峰を回って北上した後は、英国の補給線から石炭・水・食糧等を買い、インド洋、中国海域、琉球(沖縄)を経由、地球の4分の3を経て、江戸湾にたどり着く。

 先発のサスケハナ号(2,450トン)とミシシッピー号、それに翌1854年ポーハタン号(2.415トン)が合流し、3隻の大型汽走軍艦が居並ぶ黒船艦隊は、英国のそれを凌駕、日本と英国をともに威圧する存在となった。(続く)

三溪園ボランティア

 2003(平成15)年の第1次募集に始まる三溪園ボランティアは、2017(平成29)年6月の第12次募集で、当初の85名から235名に増えた。線グラフにすると一目瞭然、波を打ちつつ着実に増えていることが分かる。

 三溪園ボランティアは、現在、ガイド・合掌造り・庭園の3つに分かれ、活動時間は10:00~15:30(12:00~13:00は昼休み)。235名の内訳をみると、ガイドが162名で曜日ごとに班に分属(うち1名は2つの曜日に登録)、平均すると1曜日あたり20数名となる。合掌造りが44名、こちらも曜日ごとに分属、平均して1曜日あたり6名。庭園が76名(ガイドまたは合掌造りと重複登録者あり)で、曜日にかかわらず年10回程度の庭園保守管理に参加する。

 年齢は31歳から89歳まで、男性162名に対して女性73名。みなそれぞれの領域で豊富な経験を重ねた方々で、三溪園とその創設者の原三溪(富太郎)に惚れ込み、ほとんどの方がその魅力を広く伝えたいとボランティアに志願された。居住地は横浜市内ほか神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県にまたがる。

 三溪園の休園日は12月29日から31日の3日間のみで、年に362日、活動している。運営主体は公益財団法人三溪園保勝会(内田弘保理事長)で、その活動の重要な一翼をボランティアが担っている。最前線で来園者にガイドすると同時に、合掌造りの維持管理や体験型ガイド役を担い、また庭園の維持管理という<後方支援>も行う。

 1月18日(木曜)、珍しく春のような陽気に恵まれた。10時から12時半まで「三溪園ボランティア連絡会」が園内の鶴翔閣(楽室棟)で開かれ、84名が参加、第2部の懇親会は予定を超え、熱気に包まれて3時までつづいた。昨年も同じ日に開催、その関連記事を本ブログに「三溪園ボランティア連絡会」として掲載(2017年1月30日)したので参照されたい。

 配付資料はA4×34頁の冊子、(1)ボランティア活動の説明、(2)ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(スピーチ)、(3)ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(寄稿)の3つに分かれ、大部分の時間を(2)のスピーチ(1人あたり3~4分)に当て、羽田雄一郎主事の司会で進んだ。

 ガイドボランティアの部は、①月曜班が飯島彰(以下、敬称略)、②火曜班が宇草圭司、③水曜班が中江実、④木曜班が古賀則介、⑤金曜班が橋本幸夫、⑥土曜班(急用のため欠席)、⑦日曜班が西村博夫の発表。ときに事実を淡々と、ときにユーモアを交え失敗や反省を語りつつ、有益な提案も行った。

 合掌造りの部は、①月曜班が藤波富次、②火曜班が矢野幸司、③水曜班が津田延子、④木曜班(急用のため欠席)、⑤金曜班が佐藤美奈子、⑥土曜班が松井正、⑦日曜班が鈴木彰文。古民家を今に生かすため囲炉裏に薪をくべて湯を沸かし、正月飾り、ひな人形、五月人形、軒菖蒲、七夕飾り、蚕の育成、月見団子、つるし柿、花餅飾り等々、季節の行事を披露し、その一部には来園者が参加する体験型の応対もあり、思いがけないエピソードに事欠かない。

 草取り、合掌造り用の薪割り、竹林伐採、流れの清掃、蓮池の施肥等々を担う庭園ボランティアについては畔上政男が、古建築公開に合わせて重要文化財のなかで開く「茶の湯の会」(「一日庵茶会」と呼ぶ)については吉野直美が、毎月10日に行っている自然観察会については竹内勲が、そして最後に「英語の会」については出口孝嗣がそれぞれ報告を行った。

 配布冊子の後半にある「ボランティアによる活動報告・エピソード紹介等(寄稿)」にも事前に目を通したが、貴重な内容を含む珠玉のエッセーが多く、感銘を受けた。紹介する紙幅がないので、12点の筆者名と題名を一覧する。①飯島彰「<三渓園グループ>ですか!」(これはガイド月曜班の報告で使われた)、②大野陽「池波正太郎と三溪園・隣花苑」、③吉野直美「国会図書館デジタルコレクションで見る臨春閣の前身<大坂春日出新田食氏庭>」(筆者は上掲「茶の湯の会」の報告者)、④吉川慎太郎「平成29年度新入生の徒然草」、⑤石井信行「三溪園は<生きる喜び> Joie de Vivre」、⑥玉田節雄「御門との朝の挨拶」、⑦福田克夫「フランス ベシュトワル家御一行の来園について」、⑧酒巻史朗「無題」、⑨志村忠夫「三溪園はすばらしい」、⑩崎豊「庭園ボランティア奮闘録」、⑪林哲夫「自然観察の会に期待します」。

 その後、10年以上のボランティア継続者6名の方々への感謝状を贈呈。石田良平、井脇音文、大川道子、久家孝之、高木宏介。10年と一言で言うが、週1回として500回余である。その献身ぶりに頭が下がる。(お名前は、ご承諾いただいた方のみ掲載)

 最後に私が挨拶。多方面にわたるボランティアなしに三溪園の魅力は世界に伝わらないと、その活動に謝辞を述べ、今日のこの場を話す機会が少ない曜日が違う方々との交流の場としてほしい、また今年は三溪生誕150年、明治改元150年、そしてほぼ30年に一度の古建築の大規模改修工事の初年次にあたるため、盆と暮れが一緒に来るような年となる、ボランティア活動も従来とは違う面が出てくるであろうと述べた。

 そして三溪園刊行の「小さい宝」である2種のリーフレットの積極活用をお願いした。正門からしばらく進むと視界が開け、その右側に地図板がある。そのあたりで園の概要を説明することが多いが、そのときリーフレット「三溪園」(日本語、英語、ハングル、簡体字と繁体字の中国語)を開いてもらい、地図板とリーフレットの地図が同じであることを説明、いま立っている位置と、左遠方の丘の上の三重塔、右奥の茅葺屋根の鶴翔閣の3点を結ぶ三角測量をしてもらう。
これだけで谷戸(やと)の地形を活かした空間の特性をイメージできる上に、リーフレットに書かれている個々の古建築の配置とその説明がより活かされ、来園者の記憶と感動の反復にも役立つ。要所要所で三重塔の位置を確認してもらえば三角測量の効果がいっそう高まる。

 もう1つのリーフレット「花と行事」には季節の花や各種の行事予定が記されている。これが次の来園の誘いとなり、リピータになってもらう鍵とならないか、と結んだ。

 ついで椅子とテーブルの位置をみなで変え、立食の懇親会が始まる。はじめは曜日の班ごとに集まり、やがて入り交じり、賑やかに盛り上がる。私も活発な意見交換に加わった。

三溪園所蔵の豪華な作品群

 昨年暮れに始まった三溪記念館の展示は、原三溪自筆の絵画、三溪園所蔵の名品から豪華な作品群を揃える。担当は新任学芸員の北泉剛史(35歳)さん。彼の二度目の展示であるが、企画展示はこれが実質的なデビュー作と言ってよく、その意気込みが感じられる。

 第1展示室は、三溪の作品から絵画を8点、三溪ゆかりの画家・横山大観の3点、それに三溪の書簡2点の構成である。
第2展示室は、臨春閣の障壁画(替え襖)・中島清之《鶴図》、祝いの調度として《竹図屏風》等、それに色漆や蒔絵の装飾を施した火桶や火鉢である。
 第3展示室は、三溪園所蔵の美術品から「紅児会の作家を中心に」として安田靫彦、今村紫紅、牛田雞村らの作品を展示する。
会期は、第1・2展示室が1月29日まで、第3展示室が1月30日まで。
 北泉さんに案内してもらい、主に彼の解説を活用して紹介したい。美術や音楽を言葉で紹介するのは至難の業であるが、この展示に足を運んでくださる契機になれば嬉しい。

 第1展示室の「冬の訪れ」は、「紅葉を終え…園内は賑わいがうすれ、一時の静けさに包まれます。新年を迎えるこの季節は、いよいよ本格的な寒さが近づくなか、透き通る空気に気持ちも改まってきます」と述べ、実業家であり、画家であり、美術の収集家でもあった三溪(1868~1939年)の作品8点と、ゆかりの画家として横山大観の3点、それに古美術商(奈良の法隆寺西門前町で楳林堂を営んでいた今村甚吉、~1907)宛書簡2通を展示する。

 まずは三溪の山水画。(1)近江八景の1つ、琵琶湖西岸の雪の比良山遠景《比良山》と(2)夜明けの富士山《黎明》。

 次に人物画。(3)中国東晋(4世紀)の名臣・謝安が、国家存亡の決戦に大勝した報せにも平然と客と囲碁を打っていたという故事を描く《謝公囲碁》。これに付された注「実はこのあと、謝安は部屋に入ってから小躍りして喜んだそうです」の一文に思わず頬がゆるむ。(4)平安時代の僧《丹霞和尚》では、厳冬に仏像を燃やして暖をとり咎められる僧の、苦渋の表情を対比的に描く。舎利(釈迦の骨)のない仏像は形に過ぎないと、偶像崇拝に陥りがちな考えを改めさせたものとも言われる。

 ついで各地の生活ぶりを描く「風俗画」が4点。(5)《雪暁》は、凛とした冬の夜明け、一面の雪。障子を開け放った農家の一家が囲炉裏を囲み、馬小屋では馬が餌を食む。(6)《佐倉義人旧宅の図》は、江戸初期の下総国佐倉藩(千葉県成田市)、歌舞伎の題材ともなった伝説的な百姓一揆指導者・木内宗吾の屋敷の正月風景。(7)《雪の朝》は、雪に覆われた川沿いの農家。庭先の鶏の真っ赤な鶏冠が映える。(8)出羽富士とも呼ばれる白装束の《鳥海山》。麓の村にはゆったりと進む馬上で言葉を交わす二人の男。 

 ゆかりの作家として横山大観(1868~1958年)の3点がつづく。解説は三溪と大観の間柄について紹介する。古美術収集に力を入れていた三溪は、明治の終わりごろから日本美術院を中心とした若手作家たちを、物心両面で支えた。近代日本画の巨匠である大観にも援助を申し出るが、金持ちに支援されるのは好まないと大観は辞退。そこで三溪は作品を買い上げ、間接的な支援を行った。三溪所蔵の近代絵画のなかで、最も多い買い上げが大観の作品と述べる。
 三溪と同い年の大観は、5歳年長で東京美術学校(現東京芸術大学)を創設、のち追われて日本美術院を作った岡倉天心(1863~1913年)と行動をともにした筆頭格で、水戸藩士の気風を引く。互いの生き方の接点が、いまに残る三溪園所蔵の大観の作品と言えるかもしれない。

 大観の作品の(1)《あけぼの》の解説、「手前に松原が広がり、茫洋とした春の夜明けを感じさせ、…やわらかな景色の中に、黒々とどっしりとした松はとても存在感がある」。(2)《赤壁》は、中国の詩人・蘇軾の「赤壁賦」のうち「前赤壁」に因むもの。三国志の戦場の赤壁に思いを馳せ、客と酒を酌み交わし舟遊びする穏やかな夜を描く。(3)《煙寺晩鐘》は、日暮れ時の松林を濃墨や深い緑色で描く。朦朧体の圧倒的な迫力、大観47歳の作品である。

 第2展示室には、「臨春閣の障壁画 中島清之《鶴図》」と、新年を祝う調度品の、寒中に暖をとる火鉢と火桶、それに《竹図屏風》を展示。
 紀州徳川家の別荘であった臨春閣には、狩野派を中心とした江戸時代の障壁画があるが、保存のため原画は収蔵庫に収め、順に記念館で展示している。三溪園では1979年代に日本画家・中島清之(1899~1989年)に依頼し、臨春閣の替え襖を制作、清之没後は三男の中島千波(1945~)が引き継ぎ、《不二に桃花図》(1988年)と《松林図》(1990年)を制作。

 この清之の替え襖5点(《鶴図》、《梅図》、《竹図》、《牡丹図》、《菖蒲図》)のうち、今回は最初に制作された《鶴図》(1976年)のお披露目である。26羽の大きな鶴が翔ぶ壮観。

 向かい側には、金箔を貼った和紙に太い孟宗竹を描く、圧巻の《竹図屏風》(江戸時代の作品)がある。竹の上部は金箔で、ぼかしを入れる手法をとり、空間のひろがりを感じさせる。

 新年を祝う調度品として、縁起の良い蓬莱山を描く《黒漆蓬莱蒔絵広蓋》、色漆や蒔絵の装飾を施した《黒漆桧扇唐草蒔絵火鉢》と《赤漆火桶》、それに《片輪車螺鈿蒔絵火鉢》。漆は縄文時代の遺跡からも出土する。漆芸品は耐水・耐熱性に優れ、手入れしやすく、その色合いと光沢に独特の美しさがある。

 第3展示室は、「三溪園の美術品-紅児会の作家を中心に-」と題し、計16点を展示する。紅児会(こうじかい)とは、明治後期に発足した美術団体。明治31年(1898)に小堀鞆音門下の安田靫彦らが紫紅会を立ち上げ、33年に松本楓湖門下の今村紫紅が加わり紅児会と改称、のち前田青邨、小林古径、速水御舟、荒井寛方、牛田雞村らが加わり、大正2年(1913)の19回展覧会を最後に解散、のち多くが再興美術院に参加した。
 年齢も画風も異なるが、「紅児会」で研鑽を重ね、三溪が支援した画家たちの作品である。靫彦と紫紅は、岡倉天心を通して明治末頃から、またのちに青邨、古径、御舟らも、三溪の支援を受けた。なお展示作品は紅児会の活動時期より後のもの。

 室内に足を踏み入れると、左手に《軍鶏(しゃも)》の絵が目に飛び込んでくる。手前右から順に小堀鞆音(1864~1931年)の《藤房卿》、安田靫彦(1884~1978年)の《甲斐黒駒》(聖徳太子が甲斐国産の駿馬「黒駒」にまたがり全国を駆け巡ったとされる故事)、《羽衣》、《驃騎》の3点、松本楓湖(1840~1923年)の《大塔宮護良親王》、今村紫紅(1880~1916年)の《秀吉詣白旗宮図》、《後赤壁》の2点、速水御舟(1894~1935年)の《松徑》(鮮麗な藍青の顔料を多用、鬱蒼とした松が強烈な印象)、《寺の径》の2点、荒井寛方(1878~1945年)の《孔雀妙音》、牛田雞村(1890~1976年、横浜生まれ)の《老松図》、《聖徳太子像》、《松に雉子図》、《三溪園全図》(関東大震災前の園内を描く。中央ガラスケース内)の4点、そして最後に小茂田青樹(1891~1933年)の《軍鶏》、《蒲田》の2点。

 楽しんで鑑賞していただければと思う。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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