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初代台湾巡撫・劉銘伝について

 劉銘伝(りゅう めいでん、1836年9月7日 - 1896年1月12日)は中国清末の軍人・政治家で、安徽省合肥西郷出身。内紛のため官を退いていたが、1884(光緒10=明治17)年、ベトナムの権益を巡り清仏戦争が勃発すると、再度任用されて台湾へ向かい、フランス軍の台湾上陸作戦を幾度となく阻止、滬尾(こび)の戦いで最終的にフランス軍を退けた。

 翌1885年、清仏戦争終結。中国南東部沿海地域における台湾の戦略的重要性と台湾統治の強化を痛感した清朝政府は、1885年10月、台湾を福建省より分離・独立させて台湾省を設置、劉を初代台湾巡撫(じゅんぶ)に任命した。元の福建省は新たに置いた閔浙総督(びんせつそうとく)が所管。

 巡撫とは、明の制度を踏襲した清代における省の長官である。総督(複数の省を管轄)とほぼ同格として皇帝に直属した。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有する。

 なお、同時期に広東省欽州出身の劉永福(1837~1917年)という軍人がいる。太平天国の敗退後、清朝政府に追われてトンキン(インドシナ半島)に逃れ、1867年、黒旗軍を組織、1873年以降、フランスのトンキン進出に対抗、その10年後の清仏戦争でも活躍するが、劉銘伝とは接点がない。

 劉銘伝について、原田繁さんからメールの取材要請が来た。「現在、中国安徽テレビ局が特別番組を制作しています。安徽省合肥西郷出身の劉銘伝という清末の軍人の特集です。先方は日本の専門家を取材したい意向があり、弊社社長の呉暁楽が安徽の出身なので、協力依頼を受けました」と。

 呉さんは、『人民日報日本月刊』誌(日本語の月刊誌)・新華僑新報紙(中国語の新聞)の編集長を務める蒋豊さんのビジネスパートナーである。蒋さんは中国を代表する知日派ジャーナリストで、1989年、横浜市立大学の私のもとで研究生となり、拙著の中国語訳を4冊刊行、その後、九州大学大学院で学んだ。永らく連絡の取れない歳月がつづいたが、ある日、都留文科大学を訪ねてきた。本ブログのリンク「(都留文科大学)学長ブログ」の077「20年ぶりの再会」(2013年1月31日掲載)に、その記述がある。

 原田さんは、同社の副編集長兼副社長である。できる限りのことをしたいと考えた。取材項目は次の3点である。
1 清仏戦争を当時の日本はどうみていたか。
2 劉銘伝の軍事的才能をどう評価しますか。
3 劉銘伝の台湾の近代化建設に対する貢献をどうみていますか。

 まず私は34年前に刊行した著書『東アジアの近代』(『ビジュアル版世界の歴史』17巻 講談社 1985年)と同書の蒋豊訳『東亜近代史』(東方出版社、2015年)を読み返した。20余年ぶりであろうか。その第4章「戦争と革命」の「4 清仏戦争と日本の朝鮮進出」のなかに「清朝のベトナム喪失」と「二つのヒント」の2節を設けて叙述している。

 「清朝のベトナム喪失」で述べたのは、インドシナの保護化・植民地化を進めるフランスと、ベトナムへの伝統的宋主権を主張する清朝との対立が清仏戦争(1884~85年)に発展、清朝が敗北して宋主権を失った経緯である。

 また「二つのヒント」では、明治政府の対応を中心に述べている。1884(明治17)年といえば、日本では自由民権運動の退潮期で、国権主義、対外膨張主義が強くなり、台湾等を射程に南へ進むべしと主張する<南進論>と、朝鮮から中国北部へ進めとする<北進論>の対立が明らかになる。明治政府が得た二つのヒントとは、第1がフランスをまねて、清朝の朝鮮に対する伝統的宋主権を奪い、日本の朝鮮に対する権益を主張すること、第2が清朝の敗北が福建海軍の敗北にありと見て、日本海軍の強化を図ることであった。

 これら2点は安徽テレビの質問項目には入っていないが、質問1「清仏戦争を当時の日本はどうみていたか」に答えるには、一定の回答になろう。しかし、これだけでは不十分である。そこで下記5点を見つけ、目を通した。

(1)坂本金次郎『絵本清仏戦争記』 明治17(1884)年  48ページ
(2)加藤寿編『清仏戦争記』 明治17(1884)年  30ページ
(3)小澤豁郎『清仏戦争見聞録』 明治24(1891)年  33ページ
(4)仁礼敬之『清仏海戦日記』 春陽堂 明治27(1894)年  92ページ
(5)伊能嘉矩編『台湾巡撫トシテノ劉銘傳』 新高堂 明治38(1905)年 131ページ
ほかに曽根俊虎『法越康交兵記』、引田利章『仏安関係始末』、三代目歌川国貞作の錦絵「清仏戦争図」等あり。また豊富な挿絵類を含む雑誌として『風俗画報』東陽堂(1889(明治22)年~1916年)と『太陽』博文館(1895年1月~1928年)が有名であるが、いずれも清仏戦争時には未刊である。

 刊行年から分かる通り、(1)と(2)は清仏戦争直後の刊行。うち(1)は48ページにわたる絵入り本である。最初にフランス大統領シュールグレビと清国西太后の肖像を掲げ、ついで上空から見た地図に「台湾と福建が海峡を挟み、わずか40里…」、また「…仏兵はまず此島を奪い、清国を伐たんと謀り…」等と要点を正確に押さえた筆致である。最後は台湾から撤退するフランス軍の記述で終わる。そのまま設問2の回答にもなろう。

 なぜ正確な情報が入手できたのか。主な情報源は(3)の筆者・小澤豁郎であろう。彼は陸軍工兵中尉で1884年に福州へ派遣(『対支回顧録』1936年下巻310ページ~)され、清仏戦争中、福州に滞在して、かなり精度の高い情報を得ていた。なお(4)の筆者・仁礼敬之は、小沢の偽名とも言われる。

 そして(5)伊能嘉矩編『台湾巡撫トシテノ劉銘傳』(新高堂 明治38(1905)年)は、設問3「劉銘伝の台湾の近代化建設に対する貢献をどうみていますか」に答える格好の書である。以下、その概要を記す。

 編著者の伊能嘉矩(いのう かのり、1867年6月11日(慶応3年5月9日)~1925(大正14)年9月30日)は、岩手県遠野の生まれの人類学者・民俗学者。台湾原住民の研究で多くの業績を残した。祖父から漢学・国学・国史などを学び、1885(明治18)年、上京して斯文黌に学ぶ。自由民権運動に参加、岩手県に戻り、岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ放校処分を受ける。その後、再び上京、新聞社・出版社勤務を経て、1893(明治26)年、東京帝国大学で坪井正五郎から人類学を学び、同門の鳥居龍蔵とともに週一回の人類学講習会を開催した。

 1895(明治28)年、日清戦争で日本に割譲された台湾に渡り、台湾総督府雇員として、全土にわたる人類学調査を行い、『台湾蕃人事情』(粟野伝之丞と共著)を刊行。1906(明治39)年、帰国。その後は郷里遠野を中心とした歴史・民俗・方言の調査・研究を行い、『岩手県史』『遠野夜話』等を刊行、遠野民俗学の先駆者と言われる。柳田國男と交流を持ち、『遠野物語』に影響を与え、柳田は伊能の遺稿『台湾文化志』(1928年)を刊行した。

 伊能嘉矩編『台湾巡撫トシテノ劉銘傳』の刊行年は1905(明治38)年。序文には「明治三十八年紀元節の日臺北客寓に於て 梅陰生識」とある。約10年にわたる台湾での調査研究の合間にまとめたことが分かる。全12章。第一章では、清仏戦争後に清朝政府が官制を改め、福建巡撫の所管を二分して台湾巡撫を設けた経過を述べる。

 第四章「交通機関の拡進」では、第1節「鉄道」、第2節「内外航通」、第3節「築港」、第4節「道路」、第5節「郵便及電信」等のインフラ整備に関する劉銘伝の功績を述べる。その第1節「鉄道」の冒頭で、「電信と鉄道とは、近き過去に於ける、物質文明を代表する二大動力たり、而して清国に於て、此動力を国家の経営に利用せし主導者は、電信に在りては李鴻章とし、鉄道に在りては、劉銘傳とす。…」と、劉を高く評価している。

 つづけて「劉銘傳は光緒6(1981)年の上奏において、<自強>(近代化を主張する洋務官僚のスローガン)のために中国大陸に南路と北路の2本の鉄道を開設すべしと提案し、ついで台湾巡撫に着任するやすぐ、光緒12(1886)年の上疏で台湾西部平原を南北に走る鉄道敷設を提案した。…」と記す。

 6年間の在任中、劉は他にも各種防衛設備を整備、軍備再編、台湾初の鉄道建設、台湾・福建間の電信ケーブル敷設、電報局、煤務局、鉄路局等のインフラ管理機構の整備等、後の台湾発展の基礎を築いた。一方、改革による財政負担増、汚職の蔓延が民衆の反発を呼び、1889(光緒15)年には彰化で施九緞の叛乱が起きている。1891(光緒17)年に退任して帰郷、1896(光緒22)年、病没。享年60。

 最終の第12章「余評」では「…(劉は)世界文明の模範を、此孤島(台湾)のなかに集めんと企てた。…」と述べ、ついで某氏の手記を引き、「…性行活発、痩せ形にして、普通清国官吏の肥満なるに似ず、眼光人を射るの趣ありて、目睫の周囲に黒色を帯び、頗る熱心家の相を有せり」と結ぶ。
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10連休中の三溪園

 本邦初の10連休中も三溪園は開園、「新緑の古建築公開と修復展」等の特別催事を組んだ(閉園するのは年末の3日間のみ)。連休前半の天気は不安定であったが、雨に濡れた新緑の風情もまた格別。後半は晴れが多く、まさに風薫る五月、かぐわしい風が木々の間を吹き抜ける。

 今年は例年の古建築の公開に加えて、旧燈明寺本堂を会場に「修復展―時を超えて伝える」が4月27日(土)から5月6日(月・振)まで開かれた。事業課(吉川利一課長)の企画・広報をうけて、職員がボランティアのみなさんとともに総力を挙げて取り組んだ。

 古建築公開は春草廬と聴秋閣(いずれも重要文化財)の2棟で、内苑の奥まった所にあり、モミジ、カエデ、イチョウの柔らかな緑がとり囲む。

 春草廬は9つの窓をもつ江戸時代初期の茶室で、織田信長の弟・有楽の作と伝えられ、かつては九窓亭とよばれた。三溪園の創設者・原三溪が京都から移築した当時は、隠居所であった白雲邸に隣接していたが、戦後に現在の位置に再建された。

 聴秋閣は江戸時代初期の楼閣建築で、非対称の外観や斜めに切られた付書院など、デザイン性に富む。三溪は大正11年(1922)、この建物の移築完了をもって三溪園を完成させ、それを祝う大師会茶会を開いた(本ブログ2018年11月1日「三溪園の大師会茶会」参照)。

 なお2棟とも小規模で繊細な建物のため、内部には入れないが、ガイド・ボランティアが丁寧な説明をしていた。

 聴秋閣の西背後に伸びる渓谷遊歩道も公開された。ここは年に2回、新緑と紅葉の時期にのみ公開される。渓谷を挟んで左側の道を登り、右側の道を下りてくると、聴秋閣越しに三重塔を望む絶景が拡がる。撮影ポイントは2か所ほどか。一幅の山水画を見る趣がある。

 一方、外苑では三重塔と同じく京都・燈明寺から移築された室町時代の重要文化財建造物である旧燈明寺本堂を会場に、NPO法人美術保存修復センター横浜との共催による「修復展―時を超えて伝える」を開催した。同センターが近年修復に携わった美術品の実物展示のほか、海外の修復事例、三溪園の歴史的建造物の移築や維持保存の取組みなどを紹介した。

 おもな展示作品は、(1)同センターによる文化財保存修復の紹介(油彩画、掛軸、仏像、羊皮紙等)、(2)旧燈明寺本堂(会場の建物)移築時に作成された縮尺模型、(3)昨年度から着手した臨春閣屋根葺替え工事の概要パネル。

 同センターのジェネラルマネジャー内藤朝子さんにNPO法人の活動状況を伺っているうちに、共通の知人、大滝正雄さんの名前が挙がり、FМ戸塚の話題(本ブログ本年4月18日「FМ戸塚の対談余録」)に至った。世間は狭いというべきか、横浜の文化活動にかかわる人びとが自然に結びつくというべきか。

 午後から若き彫刻家・中村恒克さん(<中村彫刻>主宰、中区山手在住)を迎える。大学で彫刻を学び、古代以来の日本の彫刻の9割以上が木彫、それも仏像が圧倒的に多いことに気づき、寺に納める仏像を彫るとともに、古仏の修復にも取り組んでいる。

 修復の実演は、高さ80センチほどの木彫の獅子の、腐食・虫食いの防止と破損の修理。もとの収蔵社寺は不明だが、ヒノキ材を組み合わせた鎌倉時代の作品。修復からヒントを得ることが多いと語る。

 会場の片隅に「未来へ、伝統の美を護る。三溪園の保存に向けた寄付のお願い」と大書したA4サイズ両面のチラシを置いた。村田和義副園長らが中心となり、令和元年五月の日付入りで作成した。頂いた寄付金は三溪園の各種の修理・保護等に充てられる。

 ついで三溪記念館の所蔵品展「万緑の景」(会期:4月19日~5月29日)を鑑賞した。三溪の書画9点を展示、シャガの花を背景に真っ白な母猫が子猫に乳を与えている《白猫》(昭和7(1932)年)。輪郭に線を用いず色面だけで表現する「没骨」という水墨画の技法(江戸時代に俵屋宗達や尾形光琳など琳派の画家が彩色画に用いた)で描く《白桃》(大正14(1925)年)等。

 また三溪園ゆかりの画家の作品、雄大な滝を描く下村観山《新緑》(大正12(1923)年頃)と牛田雞村《若葉》等、目を惹くものばかり。
 
 第2展示室には、臨春閣第一屋「瀟湘の間」に嵌められていた襖の障壁画、狩野常信筆《瀟湘八景図》(江戸時代前期)、「山市晴嵐」「漁村夕照」「遠浦帰帆」「瀟湘夜雨」「煙寺晩鐘」「洞庭秋月」「平沙落雁」「江天暮雪」の8点。瀟湘は中国湖南省洞庭湖の南にあり、多くの文人墨客が訪れた景勝地。<八景>は日本では鎌倉時代から室町時代にかけて水墨画の流行とともに広まり、<近江八景>や横浜の<金沢八景>等を生んだ。

 三溪園ゆかりの画家-塩出英雄-の描く2点の屏風絵は、今回の新緑古建築公開に合わせ、ひっそりと佇む春草廬を描く《浄廬》(昭和63(1988)年)と聴秋閣を描く《園閣》(昭和61(1986)年)。

 また臨春閣の替え襖、中島千波筆《不二に桃花図》(昭和63(1988)年)が異彩を放つ。屋根葺き替え修理工事中の臨春閣第二屋「住之江の間」の西側床壁貼付の狩野山楽筆《浜松図》は複製で、収蔵庫に保管している原本を順に記念館で展示している。昭和50 年代、三溪園が日本画家・中島清之(1899 ~ 1989)に制作を依頼し、清之没後、三男の千波(1945 ~)があとを継いだ。

 第3展示室の第43回俳句展を見た後、呈茶の望塔亭へ行く通路では原三溪市民研究会(以下、市民研)による「原三溪没後80年 クイズで学ぶ三溪園 原富太郎と横浜」(5月3日(金曜)~5日(日曜))に関するアンケート収集と説明会が開かれていた。今年が6回目。クイズ用紙3000枚を市内各所で配り、その半数が来園するとして3日間で1500人の計算となる。クイズに関する丁寧で簡潔な解説版(A4両面)も配られていた。

 クイズは計8問、すべての漢字にかなが振ってあり、小中学生を意識した活動である。市民研の廣島亨会長、猿渡紀代子顧問、久保いくこさん達が先頭に立って応対していた。市民研の最近の活動については本ブログ2018年11月19日掲載の「原三溪の生き方を考える」をご覧いただきたい。

 クイズに合わせて「原三溪が最もすごい、と感じる点は」のアンケートを取っていた。壁に張った大きなアンケート用紙(AからEまで以下の6項目)のどれかに赤丸のシールを張ってもらう形式。項目は「A:三溪園を創った、一般公開した」、「B:古美術品の収集家、文化財保護に尽力した」、「C:若手日本画家を育成支援した」、「D:絵・漢詩・茶など一流の趣味・教養人」、「E:震災復興・寄付など公共貢献に尽力した」、「F:実業家、生糸貿易のリーダー、横浜経済発展の牽引者」。集計結果は秋の原三溪市民研究会例会等で発表の予定という。

 中央広場のテント内では和服を帽子やバッグ等に再生する工房<和布瑠>が「着物と帯のリメイク展」を開いていた。2年前にチャンチャンコを買い、自宅でくつろぐときに重宝している。

 <和布瑠>の担い手で、ガイド・ボランティアでもある渡辺悦子さんと話しているうちに、何点かの作品に目が留まった。片面に富士山と大名行列(箱根の関あたりか)、反面は京都の三条大橋(東海道53次の西の起点)らしき図柄を縫い付けたウォーキング・ポシェットを購入。A4サイズ半裁の書類がゆうに入る。

 10連休最終日の5月6日、恒例のボランティアによる一日庵(いちじつあん)茶会が午前と午後の計8回、臨春閣の第三屋、天楽の間で開かれた。臨春閣は紀州徳川家初代藩主の頼宣(よりのぶ1602-1671年)が、和歌山・紀ノ川沿いに建てた別荘「巌出御殿(いわでごてん)」と伝えられる。

 その天楽の間は奥方の居室と伝えられ、名称は欄間に見られる笙(しょう)や篳篥(ひちりき)など雅楽の楽器に由来する。掛軸は、上原古年(うえはらこねん1877-1940年、東京浅草生まれの日本画家)の「兜図」(かぶとず)である。

10連休が明けると、次のイベントが始まる。

5月10日(金曜)、新緑の自然観察会(毎月10日定例開催)
5月11日(土曜)、臨春閣の檜皮葺屋根葺き替え工事の公開見学会
5月17日(金曜)~26日(日曜)、「蛍の夕べ」(日没から21時まで)
5月19日(日曜)~6月2日(日曜)、「さつき盆栽展」
6月10日(月曜)~16日(日曜)、「花しょうぶ展」。10日、自然観察会。
7月13日(土曜)~8月4日(日曜)までの土日祝日、「早朝観蓮会」(朝6時~8時)

<三訓>をめぐって

 本ブログを開くと大きく「月一古典」の文字、その下に「つきいち こてん」と振り仮名。なんとなく分かるような、分からないような題目である。意味を問われ、ごく簡単な説明をしたのが、本ブログを始めてすぐの2014年5月15日掲載の「月一古典 つきいち こてん」であった。

 アシコシ ツカエ(足腰使え)
 ツキイチ コテン(月一古典)
 セカイヲミスエ モチバデウゴカム(世界を見据え 持ち場で動かむ)

 これら3つは、横浜市立大学の学長(1998~2002年)として、また都留文科大学の学長(2010~2014年)として、計8年にわたり入学式や卒業式で学生たちに贈った、私のささやかなメッセージである。いつしか<三訓>と呼ぶようになった。

 本ブログのポータルに「月一古典 つきいち こてん」とあれば、読んでくださる方々の目に自然に入ってくる。開始して5年が経過、そろそろ200号にならんとしている。「月一古典」を含む<三訓>全体が何であり、なぜそれを伝えたかったか、これらの背景をふくめて述べてみたい。

 調べてみると、『横浜市立大学論叢 人文科学系列 第54巻1・2・3合併号「加藤祐三教授退官記念号」(2003年)』所収の「著作目録」(1~36ページ)と「史観と体験をめぐって」(37~88ページ)の末尾5ページにあり、これが式辞を文章にした最初だと思う。

 標題の「史観と体験をめぐって」が示すとおり、歴史学者として欠かせないのが<史観>であり、それは先達から学び取るものであると同時に、歴史学者個々人の<体験>を通じて得られるものと私は考えている。

 この論考では、(1)種々の<体験>から私自身の<史観>を築いた幼少期から学生・院生時代を回顧、ついで大学教員時代を (2)研究中心に気ままに生きた時代の<史観>の拡がり、そして(3)大学運営に関わり、そのなかで<史観>を磨いた時代へと進んだ経緯を述べている。ある種の自伝的な<回顧と展望>(『史学雑誌』が毎年組む特集の題名)である。

 学長退任にさいしての論考であるため、最後を学生へのメッセージで終えた。客観的な分析と記述に徹する学術論文らしからぬものであることは承知の上で、むしろそれゆえに私の心に残っている。

  「…親元を離れて入学した新入生たち、また大学を去る学生たちを激励しつつ、覚悟を持たせたいと考え、…自分の青春時代と重ねあわせた<思い入れ>もあるかもしれない。世代の違う学生たちに、果たしてどこまで通じるか不安はあるが、ここに平成14(2002)年度版卒業式の式辞の一部を引用して…」とある。

 そして次のように始まる。「…みなさんの活躍する時代は、先行き不透明であるからこそ、知恵と元気を存分に発揮する時代にほかなりません。いつの時代においても、現在と近未来は見えにくいものです。先が完全には読めない、これは人間に備わった能力であり、かつ能力の限界でもあります。大学生活で身につけた知性と感性のうち、これから知恵を発揮するときに大切なのは、知性よりむしろ感性のほうでしょう。」

 専門・専攻の多様な学生たちに伝えるべきものは、個別の学問領域への態度ではない、広く全学生に共通する何かがあるに違いない、と考えた。それも折に触れて口ずさむのに適した方法はないか。これが短歌や俳句の7音で構成した<三訓>である。大学の雑誌なので学外の方には読む機会が限られている。そこで以下に主要部分を抜粋する。

  「…まず歴史の長期的持続と短期的変化を把握し、現在と近未来とを考えてみましょう。千年前を振り返ってみると、日本は平安時代で、「源氏物語」や日本最古の医学書である「医心方」を生み、世界のなかでアジアがもっとも先進的な役割を担っていました。今は最先端の科学が時代を引っ張っています。そこに期待と同時に、不安と不透明さを内包しています。…」

  「…もう少し短いスパンで身近な歴史を振り返ってみましょう。私自身がみなさんと同年輩であった青春時代から、半世紀近くが経過しました。この間、社会も環境も教育も大きく変化しました。この変化をご両親や年配の方々に尋ねてみてください。食べ物や遊び場、塾通いの有無、アルバイトの種類や小遣い、就職や勤務に伴う苦労や喜びの経験を聞いてください。…その会話によって時代の変化を把握でき、また家族との新しい絆や思わぬ共通の話題が生まれるはずです。…」

  「…これからの新しい段階に向けて自分が何をしたいかという問題です。この漠然とした欲求の源泉を、私は敢えて内的な<衝動>と呼んでおきます。内面から湧きだす何かであり、なかなか他人には説明しにくいものです。これを大切にし、放棄しないでください。これこそが個々人にとって、かけがえのない個性的で本源的なエネルギー源だからです。」

  「…その衝動が、ある程度まで形をとったものを<夢>あるいは<志>と呼びましょう。その実現には大変な努力が必要です。<夢>や<志>を捨てて<現実>を選択するという言い方がありますが、私に言わせれば、<現実>のほうがはるかに耐えにくいものです。粘り強く<志>に向かい、3回ダウンしても4回目には実現するという気持ちでアタックして欲しい。<攻め>の姿勢、そして<待ち>の余裕を堅持してください。…」

 「この<志>と拮抗する内面的な要因が<不安>です。自分には<志>をかなえるだけの能力が備わっているのか、あるいは、この仕事は自分に向いていないのではないだろうか等々の<不安>です。この種の<不安>を持たない人はいません。誰にも<不安>があるのは当然、<不安>を持つこと自体を心配する必要はありません。<不安>は同時に大きなエネルギー源でもあります。

 「<衝動>と<志>と<不安>、この3者は自分の内面にあるものです。他人の意見を参考にすることは極めて大切ですが、それにもかかわらず最終的にはあくまで自分で決定する以外に手がありません。<衝動>と<夢>と<不安>-この3つを三角形として念頭に置いてください。これが極端な不等辺三角形になると大変です、三角形が極端に歪まないようにするには、どうしたら良いか。友人や家族や上司の意見を聞き、後輩たちの悩みに耳を傾けるのも良いでしょう。<不安>を積極的に前向きのエネルギーに転化する方法として人類の英知を吸収することも必要です。極端な不等辺三角形を回避するための示唆を、3つ進呈しましょう」

 いささか長い前置きの後に<三訓>がつづく。

 「第1が都会生活で軽視しがちな「心身の活動と休息のリズム」を身につけることです。<アシコシ ツカエ>…直立二足歩行は人類だけが獲得した能力です。健常者なら毎日1時間以上、できれば2時間を目標に体を動かしてほしい。心を休ませるには体を動かし、身体が病んだときは心の張りが支えになります。」

 「第2に、月に一度は意識的に古典に触れてください。時代を越えて感動を与えてくれるものが古典だと定義すれば、古典とは本、音楽、絵画などにとどまらず、神社仏閣、港湾、橋、船、また人為を越えた山・川・海、潮の香、樹木や巨石等も古典に入ります。<ツキイチ コテン>と覚えてください。…」

 「…自分にとって大切な<古典>を見つけるには、ただ待っているだけでは無理です。…自らの課題を表現する<発信行動>が必要です。文系の卒業生は、およそ400字×100枚もの卒業論文を完成しています。理系・医系の卒業生も卒業研究をしっかりとやり終えています。修士・博士課程の修了生は言うまでもありません。みなさんの持つこの高い能力は、社会に出て初めて実感するはずです。自信を持ってください。そしてこれからも<発信行動>を存分に発揮してください。<継続は力>です。」

 「第3で最後が、自分と世界との関係です。セカイヲミスエ モチバデウゴカム(世界を見据え 持ち場で動かむ)。最後の<ム>は決意の表明です。順調なときも、行き詰ったときも、あるいは通学や散策の途中で、折にふれて、小さな自分が大きな世界と結びついていることを感じ取ってほしい。…」

 「ここでいう世界とは必ずしも決まったものではなく、それぞれに選ぶ世界であり、大小さまざまです。家族、友人、部活やサークル、会社、学界、国レベル、国際レベル、地球環境など様々です。自分の生きる場と世界を関係づけると、視界が開け、勇気が湧いてくるでしょう。世界に<志>を同じくする人々がいると自覚すれば、自分の持ち場は、よりいっそう確かなものになります。…」

 以上が学生たちに贈った<三訓>であるが、同時に私への自戒でもある。<三訓>を励行しつつ、生涯、一学徒として精進していきたい。

FМ戸塚の対談余録

 横浜にあるFМ戸塚の番組「第24回シビックプライド・ダイアローグ」で「都市横浜の誕生」をめぐる対談をした。3月25日の放送後にアーカイブに入ったので、本ブログ右欄にあるリンクに付した。ここをクリックすれば音声が流れてくる。ただし間に3曲入る私推奨の音楽は、放送日だけ聞くことができたが、アーカイブ版では著作権の関係から削除している。
 
 収録にいたるまでパーソナリティの大滝正雄さんと事前の打ち合わせをメールで行い、一度だけ東京駅で待ち合わせ、昼食を共にしたあと、私の好きな散策コースの一つ、皇居東御苑(旧江戸城)に案内した。これを大滝さんが写真入りで「シビックプライド・ダイアローグ」専用のブログに掲載したと教えてくれた。

 ついで同欄に<シビックプライド・ダイアローグ余話>を掲載、次のように述べている。「<令和>という新元号が、国民に好感を持って受け入れられている事が、世論調査にも表れています。典拠が万葉集であったことがその一因かもしれません。本屋さんでは万葉集関連本が売れ、古典への関心もこの機会に高まる事は良いことです。
<月一古典>を以前紹介しました。加藤祐三先生がご自身のブログ、ポータルサイトに記している言葉です。「せめて月に一度は古典に触れたい」と、横浜市立大学の学長をされていた時、入卒式で学生たちに述べた「三訓」の一つ。あと二つは「足腰使え」と「世界を見すえ持ち場で動かむ」です。先生の古典の定義は、「長い歳月を経て現在に生き、深く心を動かすもの」。芸術や文学だけでなく日本の自然そのものも古典、という先生のお考えは、「令和」に通じると直感しました。英文表記が Beautiful harmony なら尚更です。」

 放送後、いくつかコメントいただいた。その一部を掲載したい。

 まずは茨城県に庵を構える尼僧の佐藤昭子さんから。2018年4月24日掲載の本ブログ「佐藤行通ジー逝去」以来の便りである。「桜開花宣言が聞かれる時期になり、鶯の初音も日増しに力強く上手になってきました。行通上人も早いもので1周忌がすぎました。ボンヤリ過しておりましたところに、お知らせを頂きました。ようやく放送局を探し当てて聞かせて頂きました。先生のお話を聞いていると、映画の画面で見ているような臨場感があり 、ラジオでのお話しということを一瞬忘れるおもいでした。…」

 次はテニス仲間の一人、読書家で文筆家の三輪美子さんの一文である。「歴史学者加藤先生のお話を今、お聞きし、司会者の言われるように、胸がすく思いでした。皆様も是非、お聞きになることをお勧めします。船戸与一の「蝦夷地別件」を読み終えたばかりで、加藤先生のお話をお聞きしたので、とても色々なことが分かりました。当時、危ない中で日本が植民地にならずに済んだのは幕府の中に有能な人がいたため、条約ゲームに勝つことができた。いかに戦を避けるかや、交渉条約、アヘン。私の読んだ本の北海道とアイヌとも、この交渉条約のような気持ちで、幕府は話し合い上手くいき、大きな戦を避け北海道も日本になったに違いない。ということが、加藤先生の横浜のなりたちのお話から理解できました…。」

 そして畏友・近藤倫明さん(北九州市立大学前学長、心理学)から。学際研究等についても切込みが鋭い。「…拝聴しました。江戸の先人の生きる力を今更ながらに感心しながら先生の語りを心地よく聴くことができました。それにつけても今日の政治、外交の体たらくを思わずにはおれません。また、原三渓のご縁を理解しました。ストーリーのある3曲も加藤先生らしさを感じることができました。日米和親条約について学問の専門領域、ディシプリンの違いが事実認識・解釈に及ぼす影響についてのご指摘は大変重要な研究者への戒めとして受け取りました。心理学でも、要素主義の分析と、ゲシュタルト理論ではしばしば理解が異なります。学際研究の意味を肝に銘じることが肝要でしょう。横浜学事始め、シビックプライド醸成に先見の明ありとうなずきました。今更ながら学生気分で、お話し楽しくまた様々に想像を掻き立てられる時間を持てました。無料講義いたみいります。…」

 近藤さんは、本ブログ2016年10月13日掲載の「江戸散策」に登場する。彼が学長に就任したのは2011年、その6年間後の任期満了時には定年前であったため、残る期間を新たな挑戦に尽くすとしていた。そこに今年度早々、「江戸散策の折、お話した北九大社会人大学(i-Design コミュニティカレッジ)のスタートです。30代から70代までのカレッジ生60人が入学しました。新たな大学文化へのささやかな挑戦を塾長として関わるつもりです。」と連絡をくれた。

 放送を聴き直して言葉足らずを痛感、伝え切れなかった点を以下に補足したい。

 幕末日本が<避戦論>に徹して戦争を回避し、積極的な話し合いを通じて日米和親条約を結んだ。これを<交渉条約>と呼び、アヘン戦争のような敗戦の結果の<敗戦条約>と区別した。図示すると第1図のようになる。タテ軸は<従属性>とヨコ軸は<対等性>を示す。持続年限を数字で入れたが、②植民地はインド、③敗戦条約は中国、④交渉条約は日本の事例である。

第1図 近代国際政治-4つの政体
第1図近代国際政治-4つの政体

 これを詳しく記したものが第2図「日中の条約比較」である(加藤祐三・川北稔著『アジアと欧米世界』(中央公論新社 1998年、中公文庫 2010年 437ページ)。初出は拙稿「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸条項を中心として」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1982年3月)。

このうち①から④までは、日本開国史研究の石井孝『日本開国史』(吉川弘文館 1972年)に示された論点である。それ以下の⑤~⑪が私の指摘で、従来の研究の視野に入っていなかった論点である。

とくに⑦~⑨、⑪が<交渉条約>と<敗戦条約>の大きな違いを示す。<交渉条約>は、幕府がアヘン戦争(1839~42年)情報を長崎で積極的に収集・分析・政策化し、<避戦>に徹した成果である。

また⑥<アヘン条項>は米英間の条約ゲームの結果としてハリス総領事が主張したものであり、幕府の提案ではない。その交渉過程については、拙稿「横浜の夜明け」(『横濱』誌の10回連載、本ブログのリンクに張った)の第6回と7回を参照されたい。この日米修好通商条約の<アヘン禁輸条項>は、その後もアヘン禍を防ぐ重要な鍵となった。
 
第2図  日中の条約比較
第2図日中の条約比較

共著『アジアと欧米世界』(中公文庫 2010年)より

なお「当時におけるアヘン禁止は世界的傾向」とする見解が日本史学界の一部にあるようなので、グラフ「インド産アヘンの140年」(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』岩波新書 1980年)を再掲する。参照ねがいたい。
 
インド産アヘンの140年


横浜市立大学の入学式

 横浜市立大学(以下、市大)入学式は従来通り4月5日、ソメイヨシノが満開を誇るなかで行われた。ちょうど4年に1度の市議会議員の選挙運動中(投票日は7日の日曜)であった。

 今年の入学式は格別の意味を持っている。昨年11月3日(文化の日)、横浜市立大学創立90周年記念式典が挙行され(本ブログ2018年11月7日掲載の「横浜市立大学 創立90周年記念式典」を参照)、そこで昨年度に発足したデータサイエンス学部、今年度から再編発足する国際教養学部、国際商学部、理学部の3学部、それに従来の医学部を合わせた、5学部体制が明らかにされた。

 私が学長を務めたのは1998年5月1日から2002年4月30日までの4年間であり、退任してから17年が経つ。私の退任後に公立大学は設置者(自治体)の<直営>から独立性を持つ公立大学法人へ移行できる制度変更がなされ、その制度設計に公立大学協会(全公立大学長が加盟)の相談役として私も参画した(『公立大学協会60年史』2010年)。

 公立大学法人への移行は、国立大学法人への移行が全大学一斉に行われたのとは異なり、各自治体とその公立大学が独自に決定し、また理事長と学長の<一体型>か<分離型>かをも選択できる制度設計であった。

 公立大学法人化は<法人化>、あるいは<独立行政法人化>を短縮して<独法化>とも呼ばれた。市大の法人化は2005年。理事長と学長の<分離型>を採用、学部編成も大きく変更して国際文化学部・理学部・商学部の3学部を1つの国際総合科学部に括り、医学部との2学部体制とした。

 国際総合科学部という学部名は、受験生・在校生にとって学ぶ対象が分かりにくい上に、教職員にとっても説明するのが難しい。この<合理化>による2学部体制を見直そうと、3年余の努力が重ねられ、紆余曲折の末、昨年秋、上掲「創立90周年記念式典」において新たに5学部体制を宣言した。

 この5学部体制の発足が今年の入学式である。新体制までの苦闘の軌跡を知る者にとっては大きな喜びである。先頭に立たれた二見良之理事長と窪田吉信学長の奮闘には敬服の念を禁じ得ない。

 式典は、森林太郎(森鴎外)作詞・南能衛作曲の横浜市歌の斉唱に始まる。「わが日の本は島国よ/朝日かがよう海に/連りそばだつ島々なれば/あらゆる国より舟こそ通(かよ)え」(一番)。私も思いを込めて歌う。市歌は横浜開港50周年を祝う1909年に作られた(本ブログ2016年6月9日掲載「開港記念日と横浜市歌」を参照)。今年は開港160年である。

 ついで窪田学長の式辞。自分の頭で考え、課題を発見して解決することが重要であり、多くの分野を持つ総合大学の利点を生かすも殺すも「みなさんの姿勢にかかっている」と語り、専門外の科目に学んだ自身の経験を披露した。

 林文子市長は、市大が横浜市とともに歩んできた長い歴史を持つことを強調したうえで、みなさんは我々の「夢と希望」と呼びかける。自分は母子家庭だったため大学進学を諦めて社会へ出たが、そこで男女の地位の格差に愕然とするも、目標に向かって邁進してきた。
 大学へ進むことができたら、もう少し理論的に考えることができたかもしれない。それがないだけに、人との意思疎通に心を砕いた。「…みなさんも相手の立場に立って思いを伝えるように努力して欲しい、私は大学が大好き」と熱く語る。

 新入生(学部990名と大学院修士・博士課程261名)を代表してデータサイエンス学部の渡辺武尊君が宣誓、混声合唱団(中村響指揮)が歓迎の歌を披露、ついで応援団(大薗拓未団長)とチアダンスがリードしての校歌斉唱へと進む。

 西条八十作詞・古関裕而作曲の校歌は3番まであり、「…世界の海港(みなと)に意気も高らか…」、「若き日みじかし真理は遥(はる)けし 究る情熱 鉄火もつらぬく」、「…民主と自由の紅さす曙 みどり明けゆく歴史の半島…」と謳い、それぞれの最後を同じ「ああ 浜大の俊英 われら」で結ぶ。

 私はじっと聴き入る新入生たちを見つめ、これからの学生生活が健やかで有意義であるよう心から願い、密かにエールを送った。

 顧みて、本ブログ「大学教員の仕事」(2019年3月5日号)で述べたように、教職員が分野を超えて、自由闊達に話し合う場を工夫できないものか。たとえば将来計画委員会やその全学組織である将来構想委員会といった、過去に一定の役割を果たした組織がある。創立100周年にむけて踏み出したのを機に、現状に甘んじることなく、将来構想会議のような組織を立ち上げられないか。これまで歩みを共にしてきた卒業生や元教職員の経験と知恵を結集する必要も出て来るように思う。そのきっかけを作るのは、執行部であろう。

 折しも小惑星りゅうぐうに向けた「はやぶさ2」のインパクタ発射が成功した。プロジェクトチームを束ねるJAXA(宇宙航空研究開発機構)の津田雄一プロジェクトマネージャは43歳。機体の設計に関わり、その知識をかわれて若くして先輩研究者からプロジェクトマネージャを引き継いだ。率いるのはJAXAのスタッフだけでなく、協力するメーカーや大学、海外の研究者など総勢600人を超えるチームだと言う(NHK NEWS WEB)。

 津田さんはメンバーの意見を聞きながらミッションを進めることを大事にし、「みんなそれぞれ役割があって、その役割を全員が、力いっぱい発揮できるようなチームにしようと心がけてやっています。必ずしも私の言う事を聞いてくれる訳ではなく、意見がたくさん出ます。その中でいい道をみんなで決めていくことができるのが今のチームです」と語る。

 市大にも、津田さんのような人材がいるに違いない。大学である以上、目的は多様であり、一つに絞ることはできないが、universe(存在するすべてのものとしての宇宙、森羅万象、学問の全領域…)から派生したuniversity(一つにまとまった集団、大学)こそ、大学の本来の使命である。

 人文・社会・自然等の諸科学を包括する市大の将来を自由闊達・縦横に議論する仕組みが欲しい。これこそ創立100周年を実質的に深める第一歩ではないか。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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