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三溪園ボランティア連絡会(2020年)

 3月なみの暖かさと言われる1月14日(火曜)、三溪園ボランティア連絡会が園内の鶴翔閣で開かれた。10時開会、受付と資料配布等を北泉剛史学芸員と滝田敦史主事(営業担当)が、司会を羽田雄一郎主事(庭園担当)が行う。入口でパンフレット「三溪園ボランティア連絡会資料」(A4×33ページ)が配られた。

 三溪園ボランティアは、2003(平成15)年9月に第1次募集を行い、今年で15年になる。昨年6月の第14次募集で、現在249名が登録(男性170名、女性79名)。年齢層は44歳から89歳。すっかり定着し、三溪園の魅力を外に発信する第一線の活動を担っている。

 三溪園は年末の3日間のみ閉園し、他の362日を開園している。ボランティアの活動はガイド、合掌造、庭園の3ジャンルに分かれ、曜日ごとの班に属し、互いに交流のない人も少なくない。そこで「ボランティア相互の活動を知り、お互いに認め合い、意識を高めていく場とする」ことを目的として、年に1回、連絡会・懇親会を始めた。

 過去4年分については、本ブログで紹介した。題名はそれぞれ微妙に異なるが、次の通りである。(1)「三溪園のボランティア」(2015年12月21日掲載)、(2)「三溪園ボランティア連絡会」(2017年1月30日掲載)、(3)「三溪園ボランティア」(2018年1月29日掲載)、(4)「三溪園ボランティアの活動」(2019年1月29日掲載)。

 以上4回の記録と重複する部分をなるべく省いて、今回の三溪園ボランティア連絡会・懇親会の記録を残しておきたい。

 配布のパンフレットには、羽田さん達の工夫で、次第を第1部「連絡会」、第2部「感謝状贈呈式」、第3部「懇親会」に大別、時間を把握しやすいよう各項目の開始時刻を細かく示した。

 私の開会の挨拶は7分。次の3つを話した。(1)重要文化財の大規模改修工事が臨春閣の屋根葺き替えに始まり、今後10余年にわたってつづくため来園者には不便をおかけするが、文化財に欠かせない<生命の再生>の事業であることをお客さまに伝えていただきたい。(2)三溪園のホームページの更新と記念館入り口に新設するサイネージ(電子広告)の件、(3)三溪園を象徴する土産品の開発等の現状。

 最後にお願いをした。本日の記録を例年通り私の個人ブログに掲載したい、このパンフレットに記載されたお名前と10年継続の感謝状贈呈者のお名前を出したいと思うが、困ると思われる方は早めにお知らせいただきたい、と。

 10:15からの吉川利一事業課長「2019年の活動ふりかえりと今後の予定-三溪園のボランティア活動概要について」では次の点を報告した。(1)アフリカ開発会議参加者の来園、(2)ラグビー・ワールドカップの関連イベント、(3)横浜美術館での特別展「原三溪の美術」(横浜美術館の開館30周年と原三溪生誕150年・没後80年記念)とその関連事業、(4)外国報道陣による横浜メディア・ツアー。

 ついで司会の羽田さんがパンフレットの概要を説明する。順に①ボランティアの歩み(2003年の第1次募集から2019年の第14次募集までの年表)、②現況(249名、うちガイド160名、合掌造53名、庭園(79名)、③ガイド・インフォメーション(ガイド・ボランティア)の概況、④英語による庭園ガイド(2019年から全ての曜日で対応可能となった)、⑤合掌造りの運営・管理と年中行事等の一覧、⑥庭園の保守・管理の一覧(今年度はとくに台風15号・19号の復旧作業に尽力)、⑦有志活動グループのうち<茶の湯の会>、<自然観察の会>、<英語の会>の概況。

 そして活動報告・エピソード紹介(寄稿)7本が並ぶ。所属班・氏名(敬称略)・題名を一覧したい。(1)ガイド・庭園月曜班の吉野直美「原家と岸田劉生」、(2)ガイド火曜班の前田弓子「ガイドデビューの年を振り返って」、(3)ガイド水曜班の滝川泰治「方言と三溪園案内」、(4)ガイド木曜班の太田泰司「三溪翁の遺徳の再認識を」、(5)ガイド・庭園金曜班の大西功「私の三溪園でのガイドのモットー!」、(6)ガイド・庭園日曜班の玉田節雄「東西南北配置の妙味」、(7)合掌造・庭園月曜班の酒巻史朗「食道がんとミニ門松」。

 いよいよボランティア活動報告・エピソード紹介等のスピーチに入る。ガイド・合掌造・庭園・有志活動(茶・自然観察・英語)・その他の順で、活動のふりかえりと今後の予定の報告である。司会の「…1名あたり最長で5分を割り当て、4分でベルを1回チンと鳴らし、5分になるとチンチンと鳴らします」に爆笑。学会では通常の方式だが、ここでは初の試み。

 ガイドボランティア活動報告(月~日曜日代表の順、計35分)は、トップの月曜班が髙橋敏生(敬称略、以下同じ)。司会の「3分50秒でした」にまた爆笑。つづく火曜班の甲元基、水曜班の鈴木康穂*、木曜班の松尾忠史、金曜班の福田克夫、土曜班の新中和男、日曜班の玉田節雄*(なお*印を付した報告はパンフレットに文章を寄せた方)も時間内にうまく収めた。

 合掌造ボランティア報告(月~日曜日の代表)は、月曜班が崎豊、火曜班が矢野幸司*、水曜班が鈴木克精*、金曜班が佐藤信子、土曜班が塩畑英成、日曜班が舟津紘一。

 庭園ボランティア報告は代表の畔上政男が昨年につづく登板である。

 有志グループ報告は、茶の湯の会について土屋潔子が、自然観察の会について竹内勲が、英語の会について須川美知子が行った。

 それぞれが各班の構成、運営の仕方、活動報告書の保存と参照、活動にあたっての注意事項、具体的な活動事例を挙げて説得力がある。さすがに多くの社会経験を積み、三溪園と創始者・三溪に魅かれて参加する方々ばかり。一つ一つに頷く姿がある。

 以上17名の活動報告が、なんと予定の5分前に終了、事前に文章にしたこと(上掲の*印のあるもの)が奏功したと思われる。

 すこしだけ余った時間を使い、吉川課長が最初の事業報告の補足をしたのち、閉会のあいさつに村田和義副園長が立った。

 「2年前の4月に着任、昨年は所用と重なり今回が初参加と前置き、市役所時代の経験等の自己紹介につづき、三溪園の魅力を発信する最前線に立つボランティアの活動に頭が下がる、その実態が本日の報告からもよく分かり、とても有意義な時間を過ごすことができた、三溪の生き方への共感が熱心な活動に結実しているのではないか、私たち職員も皆さんから学ぶところが多い」とまとめた。

 休憩を挟み、12時から第2部の感謝状贈呈式(司会は村田副園長)。2009年度にボランティア登録した方々27名に園長から渡された。

 受贈者のお名前を一覧する(五十音順、敬称略、掲載の承諾をいただいた方のみ)。飯島彰、石毛大地、伊藤嶢、井上克己、太田泰司、大貫博昭、大宅ミチ子、勝部暢之、加藤昌一、兼藤由紀美、河内洋治、児玉雄二、佐藤達、柴澤重四、高橋凉子、田中進、成田京子、新中和男、野村博次、萩原吉弘、廣島亨、福井けい子、堀浩侃、八木哲雄、吉村弘、綿貫照久。

 お一人ずつ1分程度の挨拶をされた。「…あっという間の10年…」、「…なによりも家内が喜んでくれる。…」、「…来るたびに新たな感動がある…」、「…案内後にお礼を言われて感激…」など、それぞれに笑みがこぼれる。

 第3部の懇親会は、椅子を片づけ、テーブルを寄せて島をつくり、飲み物やつまみの総菜、寿司、サンドイッチで、班ごとにテーブルを囲む。早くもビールを空けて始めている班があり、ややあって吉川課長の乾杯の音頭。

 宴のなかば、吉川課長が新任職員の紹介をした。原未織主事(今年度から就任、建築担当)と田代倫子主事(この1月から就任、経理担当)。二人の挨拶は溌剌堂々、勢いがある。

 他の班とも交流して賑わった懇親会、名残りを惜しみつつ、予定通り2時半に終了した。
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清談会(2019冬)

 清談会とは、横浜市立大学教員OBの団体で、夏と冬の2回、議論と懇親の会を開いている。最初が2005年12月、永年幹事の小島謙一(敬称略、以下同じ)が作成した「清談会の開催日時」によれば、毎年夏と冬に会合を持ち、今回の2019年12月29日開催が29回目になる。

 そのつど事前に話題提供者を決め、食事と酒の合間に耳を肥やし、やがて侃々諤々、時に脱線の議論がつづく。現在のメンバーは6名、年齢順に以下の通りである。

 穂坂正彦 医学・泌尿器科専門医、元医学部長、退職後に船医を10年つとめた。昭和11年東京生まれ。
 加藤祐三 歴史学・アジア史、元国際文化学部長、元学長、前都留文科大学長、現国指定名勝三溪園園長、昭和11年東京生まれ。
 丸山英氣 民法・区分所有法、千葉大学へ移籍、同大で学部長、のち中央大学法科大学院教授、2004年より弁護士、昭和13年長野県生まれ。
 小島謙一 物理学、元理学部長、現横浜創英大学学長、昭和16年群馬県生まれ。
 山本勇夫 医学・脳外科、元市民総合医療センター病院長、横浜市立脳卒中・神経脊椎センター院長を経て、現木病院長(名古屋)、昭和18年静岡県生まれ。
 浅島誠 生物学・発生学、1993年に東京大学教養学部へ移籍、同大で学部長・副学長、東京理科大学副学長を経て、帝京大学学術顧問・特任教授。昭和19年新潟県生まれ。

 全員が専門を異にする。共通するのは(1)専門分野にとどまらず広い知的関心を持っていること、(2)大学という学問の府をいかに自由闊達な知の展開の場にするかに情熱を持ちつづけ、(3)地域・国・人類と地球の未来に思いを馳せること、あたりであろうか。

 第25回からは新しいテーマ「各専門分野の10年後を予測する」を定めたので、これ以降は本ブログで欠かさず記録を掲載してきた(本ブログの2018年1月5日掲載「清談会の定例会」)。これからも<主観的議事録>をなるべく客観的に綴っていきたい。

 第25回の報告は、言い出しっぺの小島「自然界の4つの力」と穂坂「AI(Artificial Intelligence人工知能)と医療、その10年後」である。これ以来、第26回が「生命科学の行方」(2018年8月17日掲載、浅島報告)、第27回が「10年後の歴史学」(2019年1月7日掲載、加藤報告)、第28回が「医療の近未来」(2019年7月29日掲載、山本報告)とつづいた。

 今回が丸山英氣「マンション問題の現在と課題」である(明示的に書かれたテーマ名ではないが、内容から判断して私が命名した)。参考として資料(1)丸山英氣「マンションは生き残れるか!?-マンション問題を斬る-」(『Evaluation』誌No.70)、資料(2)神戸における丸山の講演レジメ「マンション法の現段階」の2点が配られた。

 資料(1)は、最近のマスコミ報道で都市、不動産、マンションの将来に関する不安の声を取り上げる。例えば日本経済新聞社編『限界都市-あなたの街が蝕まれる』(日本経済新聞社、2019年)、朝日新聞社取材班『負動産-マイナス価格となる家と土地』(朝日新聞社、2019年)等。

 都市住宅の代表であるマンションについて、いちはやく問題提起したのが米山秀俊『限界マンション-次に来る空き家問題』(日本経済新聞社、2015年)で、進む建物の老朽化、住民の高齢化、その放置によるスラム化を挙げる。

 具体的には二つの<老い>、すなわち①建物の老い、そこから生じる賃貸化、空室化と、②区分所有者の老い、そこから生じる管理の困難を指摘し、その先にはマンションにも空き家が増大し、<限界マンション>の状況に達し、建替えはできず、このまま放置すると区分所有という制度は崩壊すると述べる。

 さらに山岡淳一郎『生きのびるマンション-二つの老いを越えて』(岩波新書、2019年)を紹介し、所有者の所在不明、連絡先不通(空き家)、そして団塊の世代が75歳の後期高齢者となる<2025年問題>を取り上げる。ほかに浅見泰司・齊藤広子編『マンションの終活を考える』(プログレス、2019年)等を掲げる。

 こうした最近の<悲観論>的な論調に対して、丸山は言う。「マンションという仕組みは不合理で悲観につながるか、…マンションに代わる仕組みはあるのか、…マンションの将来は悲観に満ちているのか?」

 本稿「マンションは生き残れるか!?」は、上記の「1 問題の所在」についで、「2 マンションの誕生と生成、「3 建物の老い」、「4 区分所有者の老い」、「5 空き家の増加、「6 借地権マンション」、「7 小規模マンション」とつづく。

 このなかから重要と思われる点をいくつか取り出して掲げたい。
 (1) 我が国でマンション(集合分譲住宅)が出現した昭和25(1950)年ころ首都圏の人口は約1000万人であったが、その65年後の平成27(2015)年には3800万人と4倍近くに増えた(「土地はだれのものか」研究会編『土地はだれのものか-人口減少時代に問う』(白揚社、2019年)。その受け皿がマンションであり、1950年に住宅公団が設立され、当初は賃貸が主であったが、1960年からは分譲マンションが主体となった。
 (2) 1962年に区分所有法が制定され、1970年には住宅金融公庫による公的融資が利用できるようになる。ディベロッパー(民間分譲業者)も成長し、都市銀行等も住宅ローンに参加するようになる。2017年現在、マンションは644万戸、その居住人口は1500万人余。マンション居住者は全国民の約10%、首都圏では22%、東京では27%にあたる。
 (3) 区分所有という制度の核心は、建物の一部に所有権を附与し、そこに抵当権等の担保権をつけることができ、そこから金融を得られるということであり、公団の設立は、この視点から評価すべきとする。戦前までの借家制度に代わり、若い人たちの地方から都市への移住の受け皿となったのがマンションである。(ここから外国との比較が述べられるが、ここでは省略する)
 (4) 戦後に誕生したマンションの生成のなかで、問題の発生は次の4段階を踏んだ。①日照問題、②瑕疵問題、③管理問題、④建替え問題(敷地売却問題)。なかでも最近のマンション戸数644万戸のうち旧耐震基準に基づくものが104万戸、そして築40年超が73万戸で、20年後には約5倍になる。それにもかかわらず、今まで立替を実現したマンションはなんとわずか237件(戸数は不明)に過ぎない。
 (5) それには容積率の不足(既存不適格)、相続等による所有者の確定が困難、建替え議決(5分の4以上)の難しさが伴うからである。そこで建替えに代わって敷地売却制度があるが、特定行政庁による売却の必要性の確定(建替え円滑法の101条第1項)を受けなければならず、そのハードルは徐々に低くなるとはいえ、困難にはちがいない。

 だんだんに法律の専門性の方向へ入りこむ。法学者であり弁護士としては当然であろう。しかし素人にはかなり難しい。そこに医者の山本が一般には聞き慣れない<ジェントリフィケーション>という単語を使った。アメリカでよく見られる貧民街の高級住宅化(gentrification)を意味する。これは個々のマンションの建替えとは異なり、都市再開発の一形態で、貧しい人を追い出すことから大きな社会問題となっている。

 議論が迷路に入りこみそうになったと思い、私は単刀直入に尋ねた。標題が示す「マンションは生き残れるか!?」の結論は端的にイエスなのかノーなのか、と。丸山は答えた。「イエス、生き残れる。そのための手法を開発するよう知恵を働かせなければならない」。

 マンションが生き残るための具体策の一つとして丸山が提案するのは、マンション管理の仕方である。管理組合が管理するのが一般的な仕組みであるが、理事等の役員の高齢化により、なり手がなくなれば管理は危機に瀕する。それに総会出席率は平均で10%ほどときわめて低い。

 そこで丸山は提案する。「管理を専門家にまかせ、区分所有者はその監視をするということに切り替えたらどうであろうか。このことにより、管理は長期的視野に立ち、厳格に行うことができる」と。

 この提案は思いつきではなく、種々の法的根拠を挙げる。とくに丸山の講演レジメである「資料(2)マンション法の現段階」がそのために用意されたものだが、マンション法の変遷を整理し、①昭和37年区分所有法にはじまり、②昭和58年区分所有法、③昭和58年中高層共同住宅標準管理規約、④平成12年管理適正法、⑤平成14年区分所有法、⑥平成14年建替え円滑法、⑦平成27年建替え円滑法のそれぞれの特徴を掲げる。

 さらに<被災区分所有法>と<損害賠償請求>とつなげ、「5 管理組合による管理の反省」のなかで<第三者管理の導入>を提案する。いっそう深く法の森に迷い込みそうである。

 議論は「マンション問題の現在と課題」にとどまらず、第2部ともいうべき課題に入って行き、久しぶりに3時間を超え、9時過ぎに解散した。

 第2部の課題は大別して、(1)従前からの継続である「AIの進化とその暴走をいかに阻止するか」であり、(2)「日本の人口減少をどう考えるか」である。

 第1の「AIの進化とその暴走をいかに阻止するか」は、一筋縄では対処できない。清談会のメンバーだけでは限界があり、外から専門家を呼ぶ必要も出てくるかもしれない。あるいは従来のままの親睦会の性格を継承するか。

 第2の「日本の人口減少をどう考えるか」については、生命科学の浅島が日本の人口減少を嘆くばかりでなく、現在の総人口1億2615万人から、今後の目標値を8000万あたりに置くとする見解を示した。時間が足りず、その根拠を聞くことができなかったが、次回に期待しよう。

 私は浅島の発言から、石橋湛山(1884~1973年)の「小日本主義」(増田弘編『石橋湛山外交論集』草思社、1984年5月所収)を想起した。石橋は、戦前『東洋経済新報』により、一貫して日本の植民地政策を批判して台湾・朝鮮・満州の放棄とそれに代わる加工貿易立国論を唱え、大正デモクラシーを先導した。戦後直後に論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」において科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べている。その後も「日中米ソ平和同盟」を主張して政界で活躍した。1956(昭和31)年、保守合同後初めて本格的に実施された自民党総裁選挙を制して第55代総理大臣となった。

 ともあれ、<闘う法学者弁護士>の丸山。80歳を越えて意気天を衝くである。

原三溪市民研究会の10年

 美しい紅葉の残る12月14日(土曜)、三溪園の鶴翔閣の楽室棟で、「原三溪市民研究会創立10周年記念 第6回シンポジウム 原三溪のたたずまい」が開かれた。

 原三溪市民研究会(以下、市民研)のシンポジウムについては、これまで本ブログでも3回にわたり取りあげてきた。( )内は掲載年月日。
第3回「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年11月21日)
第4回「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」(2017年11月20日)
第5回「原三溪の生き方を考える」(2018年11月10日)
そして今回の第6回シンポジウムである。

 その標題から読みとれるように、第3、4回は<まちづくり>、第5回からは<三溪の生き方>、その延長上に横浜美術館アートギャラリーの展示「もっと知ろう! 原三溪 -原三溪市民研究会10年の足跡」(8月3日~9月1日)があった(本ブログ2019年9月9日掲載 展示「もっと知ろう! 原三溪」参照)。

 それから3か月、展示「もっと知ろう! 原三溪」のさらなる普及活動として、ほぼ同じ内容の展示パネルを三溪記念館の第3展示室で12月17日から開催している(3月11日まで)。このような一連の流れのなかで、今回の「第6回シンポジウム 原三溪のたたずまい」を位置づけたい。

 原三溪没後80年「原三溪のたたずまい」をめぐる座談会は、内田弘保理事長の市民研を紹介する挨拶、ついで尾関孝彦副会長の総合司会のもと、コーディネーターの内海孝さん(東京外国語大学名誉教授、顧問)が三溪に近かった方々の子孫5氏のパネリストから、三溪の<たたずまい>と人としての生き方(主にその内面)を聴き出そうとする試みである。

 五十音順に、(1)朝比奈恵温(あさひな えおん)さん(朝比奈宗源の孫、鎌倉浄智寺住職)、(2)久保泰朗(くぼ やすろう)さん(もと原合名会社社員、93歳)(3)佐藤善一(さとう よしかず)さん(神奈川学園創立者・佐藤善治郎のひ孫、朝日新聞宇都宮総局次長)、(4)根岸五百子(ねぎし いおこ)さん(原合名会社で原社長の私設秘書、のち製糸部勤務の鈴木政次の長女)、(5)野村弘光(のむら ひろみつ)さん(野村洋三の孫、原地所常務取締役)。

 いつもながら丁寧に作られた「関係年表」(三溪を縦軸に5氏の祖先たちの動きを含む)付のレジメ(A4×8ページ)の最後(裏表紙)には三溪作の画<鵜>(1925年、57歳)と画賛の漢詩(七言絶句、1917年、49歳の作)とその現代語訳を載せている。再掲したい。

 いつのまにか鬢の髪が白くなり 老いとともに俗世に染まってしまい 情けない これまでの四十九年は夢のようで 自分の思いとは裏腹である それでも今やりかけていることがある 風が吹こうが雨が降ろうが 蓑笠を着て あとひと踏ん張りしよう

 内海さんがパネリストたちから巧みに発言を引き出そうと努める。

 まず(4)佐藤さんは、1914年に創立した神奈川学園創立者・善治郎(1870~1957年、教育者、『実践倫理講義』1908年等)のひ孫なので善治郎の実感がなく、新聞記者として一次資料なしで話すのは心苦しいと前置きし、学園史を読むと、釈宗演(1860~1919年、32歳で鎌倉円覚寺派管長、慶応義塾大学で学ぶ)の紹介で三溪、野村洋三と知り合い、横浜の女子教育振興のためならと三溪から支援を頂いた。それがなければ今はないと話す。

 根岸さんは、鈴木政次(1908~1983年)の長女。鈴木政次は横浜市役所勤務、1923(大正12)年の関東大震災の復興で横浜市復興会に派遣され、1926年に原合名会社庶務部で社長(三溪)の私的秘書となる。長女の五百子(いおこ)さんが父から聞いた三溪の人柄を語る。なお五百子の命名は生糸の値段がやっと500円に戻したことの記念という。

 野村さんは野村洋三(1870~1965年)の孫。洋三は英語の修得に岐阜から横浜に出る。23歳で釈宗演(上掲)の通訳として渡米、翌年、横浜にサムライ商会開業。1907年に来日した米人フリーア(実業家で東洋古美術蒐集家)を三溪園へ案内、三溪に引き合わせる。1927年、ホテル、ニューグランド開業(井坂孝会長)、1938年に2代目会長。弘光さんはワシントンDCにあるフリーア美術館で門外不出の美術品を鑑賞した思い出等を語る。

 朝比奈さんは朝比奈宗源(1891~1979年)の孫で、鎌倉浄智寺住職。宗源は1934~1942年、横浜専門学校(現神奈川大学)で倫理学の教鞭を執る。1945年、円覚寺派管長。1951年、三溪の漢詩集『三溪集』の編集を任される。宗源の孫として、三溪について直接に語るだけの体験や記憶はごく少ないと言う。

 久保さん(93歳)は、原合名の社員章を誇らしげに胸に付けて登壇、存命の最古参の一人。

 同時代の関係者から可能なかぎり<三溪のたたずまい>を引き出そうと試みるが、その孫やひ孫の世代となればかなり難しい。それでも想像力を働かせて、その一端を浮かび上がらせることができた。

 最後に総合司会の尾関さんが1冊の本をかざし、今日、完成したばかりです、と紹介した。

 ついで隣室で、会員による第2部「市民研 10年の歩みの集い」が開かれ、私も来賓として案内された。始まる前に上記の本を開く。原三溪市民研究会編『原三溪市民研究会十周年記念誌 もっと知ろう! 原三溪』(A4版73ページ 2019年12月14日)とある(以下、『記念誌』とする)。編集委員は藤嶋峻會事務局長、速水美智子事務局次長、広報の久保いく子さん、事務局の南屋巳枝子さんと小林一彦さんの計5氏。
 
 猿渡紀代子顧問の「発刊にあたって」は、横浜美術館の開館30周年の今年は原三溪没後80年であり、「原三溪の美術 伝説の大コレクション展」記念開催に合わせ、横浜美術館アートギャラリー1でも連携事業として市民研の展示「もっと知ろう! 原三溪 -原三溪市民研究会10年の足跡」を開催したことの意義を述べる。

 『記念誌』は、展示「もっと知ろう! 原三溪」のパネルを中心とした<図録>と<資料編>からなる。本ブログ2019年9月9日掲載の展示「もっと知ろう! 原三溪」でも紹介したが、本書にはパネルそのもの、すなわちプロローグ、Ⅰ実業の人、Ⅱ愛市の人、Ⅲ文芸の人 漢詩人としての三溪、Ⅳ原三溪市民研究会10年の足跡、が収められている。

 このなかにある「三溪・富太郎年譜」(5ページ)は、次の<資料編>の「原三溪市民研究会活動記録年表」(8ページ)と相まって、緻密で確実な作業の成果である。

 第2部では、西郷建彦隣花苑取締役と上掲「原三溪の美術 伝説の大コレクション展」を統轄した横浜美術館柏木智雄副館長が挨拶、ついで広報の久保さんがスライドを放映して、市民研10年の歩みを語った。会員との応答により、数年前からの活動を回顧し、記憶を共有・確認しようと試みる。

 『記念誌』の資料編には、「原三溪市民研究会活動記録年表(2007年6月~2019年10月)」、「活動報告の抜粋」、「原三溪市民研究会会則」、「会員名簿・役員名簿」が入っている。

 このうち「活動報告の抜粋」(9ページ)には、会員の笑顔の写真とともに、(1)学ぶ、(2)スタディ・ツアー、(3)伝える、(4)「もっと知ろう 原三溪」展の経緯が示され、また過去5回のシンポジウムの記録とシンポジウム「原三溪の漢詩の世界」(基調講演は関東学院大学の鄧捷教授)の記録を載せている。

 これがスライドによる10年の足跡とほぼ同じで、折に触れて反復することができる。本書を参照しつつ三溪記念館第3展示室のパネルを見てまわれば、いっそう理解が深まる。貴重な『記念誌』である。

 第2部の締めは野村さん、閉会の辞は廣島亨会長、そのなかで数千にのぼるアンケート回答の分析結果(概要)を示してくれた。具体的には「原三溪が最もすごい、と感じる点は」のアンケートで、以下の5項目から1つを選び、壁に張ったアンケート用紙に赤丸のシールを張ってもらう形式。

「A:三溪園を創った、一般公開した」、「B:古美術品の収集家、文化財保護に尽力した」、「C:若手日本画家を育成支援した」、「D:絵・漢詩・茶など一流の趣味・教養人」、「E:震災復興・寄付など公共貢献に尽力した」、「F:実業家、生糸貿易のリーダー、横浜経済発展の牽引者」。

 これは今年5月にも行い(本ブログ2019年5月8日掲載「10連休中の三溪園」)、さらに横浜美術館のアートギャラリーでの展示のさいにも行ったが、アンケートの回答から単純に結論を出すのは難しいと廣島さんは述べる。

 市民研のみなさんが次の10年をどう踏み出すか、大いに期待している。

シェフ秀樹

 テニス仲間には様々な職業の人がいる。テニスをしていなければ出会えなかったに違いない人、その一人がシェフ秀樹、フレンチシェフの浅川秀樹さんである。

 いつも最後まで疲れ知らずのプレーをするので、<鉄人>の異名を持つ。合間にベンチで交わす会話も楽しみの一つ。相手かまわず自分のことだけをしゃべりまくる人もいるが、シェフ秀樹はボケもツッコミも秀逸、会話(対話)の達人である。

 テニスの鉄人、極上料理の創出人、加えて会話の達人、三拍子そろったシェフ秀樹は、テニス仲間にも多い団塊の世代である。私と干支でひと回り違う。大人になってのひと回りは大差ないが、私が大学生のころは、まだ6~7歳で、棒切れを持って走り回っていた。この年齢差は決定的である。

 彼は文京区本郷で育ち、東大構内を我が庭と心得、ワルをしては守衛さんに追い回されていた。ひょっとして私ともすれ違っていたかもしれない。

 2年前のテニス仲間の忘年会で、彼の開発したフランス料理の冷凍ダシが話題となった。とくにフォン・ド・ヴォー(Fond de Veau、子牛のダシ汁)の売れ行きが好調とのこと。ついでカナダ産オマールエビの頭(これまで廃棄されていた)から採るフォン・ド・オマール(Fond de homard)も売れ行きを伸ばしている。

 ダシは感性で創り出し、商品化は食品会社勤務の経験等を活かして材料の豊富なニュージーランドの工場を使い、販路はシェフ・ネットワークを駆使して日本各地をはじめドバイ、シンガポール、バンコック、上海、ニューヨーク、ロサンゼルスと拡げて、いよいよフランス本土を攻略中とか。

 いまや各料理店で時間と手間をかけてダシを作る時代は終わりつつあり、骨等の廃棄環境も厳しくなっている。彼の創ったダシの需要はいっそう高まるであろう。

 シェフ秀樹は、若くして料理人を志し、フレンチ・レストランの見習いから、ひょんなことでスイスへ留学、修業を重ねた。

 霞が関ビル(1968年にオープンした日本最初の超高層ビル、地上36階)のレストランで皿洗いをしている時、太ったオジサンがやって来て「坊主、大変そうだから手伝ってあげようか?」と言う。

 手伝ってもらったが、狭いのでそのうち「オジサン邪魔だからどいてくれない?」と言った。とたんに調理場の空気が凍りつき、料理長が青ざめて、「坊主、この方をどなただと思っている!」の顛末に。

 「その方は当時の天皇陛下の料理長で斎藤文次郎さんでした。水曜日になると私のところに来られる。なぜ来るのか聞いたところ、お前と話していると時代の流れが良く分かる」と言われた。

 なお斎藤氏は1965(昭和40)年に株式會社司厨士會館を設立、後継者養成に乗り出し、代表取締役に就任している。ちなみに<西洋料理>を専門にする料理人を、業界の方々は<司厨士>と呼んでいる。

 そうこうするうち、なぜお前はヨーロッパに修業に行かないのかと聞かれ、逆に「どうしたら行けるのですか?」と尋ねると、斎藤さんが「俺が推薦状を書けば行ける」。「それなら書いてください!」で、あっさりヨーロッパ行きが実現。

 当時、スイスには50人ほどが修業に行っていたが、うち45人はドイツ語圏のチューリッヒやベルンなどで、ドイツ語圏ではフレンチもドイツ風になる。「お前はフランス語圏に行けるようにしておいた」と言われ、スイス西部、レマン湖畔のモントルーに送り出された。モントルーで1年、モナコで1年ほど修行して、30歳目前に帰国。

 料理人を目指すつもりが、元の会社の総料理長から「料理ができて、いろいろなことを知っている人間を紹介してくれと、食品メーカーから頼まれている。面接だけでも良いから行って」と頼まれた。

 そこで自転車にノーネクタイで気楽に行ったら、いかめしく社長、役員などがずらりと待ち構えていた。話しているうち、製品開発のアイデアが尽きていると分かり、そこにあった白板を使って約1時間、時代の変化や今後に必要な製品の説明等をして帰ってきた。

 その後、すっかり忘れていたが、採用の電話が来た。入るつもりがないと伝えると、担当者は、今更そんな事を言われても困ると粘る。仕方がないので、ひとまず入社し、半年もしたら調理場に戻ろうと考えていた。

 ところが面接の時に話した新製品の材料買付などが始まり、辞めるに辞められなくなった。加えて、営業マンの教育、営業などに関わるうち、赤字会社は儲かる会社へと変わっていく。

 その後、別会社へ移り、ここでも赤字の黒字転換に成功。ついで食材輸入販売会社に転職。広くフランスの生産地、レストラン、ホテルなどを回り、実地で得た食の知識や情報を伝えながら販売しているうちに名前を知られるようになる。

 修業中の料理人は料理の勉強だけで精一杯で、近くに有名な産地などがあっても行く暇がない。そこで食材の背景や見分け方などを料理人に教えることを通じて、さらに人脈が拡がった。

 「料理人、食品メーカー、製品開発、業務食材営業、業務用食材の販売ルート作り等に精通するには総合的な知識が必要です。…」

 シェフ秀樹の熱弁にさらに熱が入る。「海外では、外資系企業や価値観の違う人たちと知り合う機会が多く、人間形成にも大きく影響する。また一人の力で時代の流れは変えられないにしても、いかに変化を感じ取り、先を読むかを忘れてはならないと思います。…」

 65歳を機に退職して5年、ダシの開発・生産・販路拡大・流通を軌道に乗せるまでになった。

 今年の忘年会もダシが話題になった。横浜の老舗ホテル、ニューグランドでも採用されたと朗報が入ったからである。そのホテル新館3階の大広間<ペリー来航の間>で、私は30年ぶりに横濱ロータリークラブの卓話(テーブルスピーチ)「横浜の夜明け-条約交渉と都市横浜の起源」を行ったが、それがなんと朗報が来た日と重なっていた。

 さて、テニスプレーヤーとしての彼は、トップクラスの実力。だが太ももの裏を痛めて、2年近く踏み出しが利かずにいたことがある。それを皇居周辺のマラソン等を根気強くつづけて、自力で修復。いまはサーブ&ボレーも平気なまでにした。

 テニスの区民大会をはじめ、広い人脈を活かして他流試合を企画、こまごまとした作業も厭わない。そんな時は、お手製のスイーツをお伴に連れて来る。

 また我々の使う何カ所かのテニスコートの一つは、折々の自主管理が必要で、夏はフェンスに伸びる蔓切りや草取り、秋にはコートに積もるイチョウの落葉掃きを全員総出で行う。

 そして冬の午後からの降雪には、コートが凍り付く前に雪かきをしなければならない。いつ出動するか、その判断はシェフ秀樹の経験と勘にかかっている。

外国人居留地研究会2019全国大会

 標題の全国大会が、12月7日(土曜)に神奈川大学で、翌8日(日曜)は波止場会館で開かれた。正式名称はもうすこし長く、「第12回 外国人居留地研究会2019全国大会 第2回横浜大会」である。2008年に神戸で初めて開催された外国人居留地研究会全国大会は、後に持ち回りにより各居留地で開催して今年が第12回、そして横浜開催が2014年に次ぐ2回目となった(後述パンフレット10ページに一覧あり)。

 もともとは10月12日(土曜)と13日(日曜)の開催予定だったが、かの豪雨被害をもたらした台風19号により中止、約2か月後に繰り延べられた。横浜大会の責任者・斎藤多喜夫さんの熱意に、会場の神奈川大学と波止場会館が応えてくれたと思われる。

 横浜開港や横浜外国人居留地といえば、まず斎藤多喜夫さんである。幕末から昭和初期に掛けての横浜の歴史や文化・港湾・経済などに関する資料約25万点を所蔵する横浜開港資料館で長く仕事をつづけ、その成果を早くから編著として世に出している。『横浜居留地と異文化交流』(山川出版社 1996年)、『図説 横浜外国人居留地』(有隣堂 1998年)、『横浜もののはじめ考』(横浜開港資料館 1988年、第3版が2010年)等。

 著書としては、『幕末明治 横浜写真館物語 (歴史文化ライブラリー)』(2004年)、『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂 2012年)、『横浜もののはじめ物語』(有隣堂、2017年)、『幕末・明治の横浜 西洋文化事始め』(明石書店、2017年)、『歴史主義とマルクス主義-歴史と神・人・自然』(明石書店 2018年)等がある。

 横浜開港資料館は昭和56(1981)年創設、初代館長が遠山茂樹さん(横浜市立大学名誉教授)であったこともあり、私も同館の研究会に早くから参加した。その1つが斎藤さんの担当した「横浜居留地研究会」で、以来、40年になろうとしている。

 また37年前に刊行された同館の『横浜開港資料館紀要』の第1号(1982年3月刊)に、私は「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸条項を中心として」を発表する機会があった。アジア近代史専攻の私が初めて発表した日本開国史に関する論文だったので良く覚えている。

 論文名に<アヘン禁輸条項>とあるのは、拙稿「19世紀のアジア三角貿易-統計による序論」(『横浜市立大学論叢』1979年)、拙著『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)、拙稿「植民地インドのアヘン生産-1773~1830年」(『(東京大学)東洋文化研究所紀要』第83冊、1981年)等を受けたものである。イギリス植民地インド産のアヘンが中国等に密輸されてアヘン戦争(1839~42年)を引き起こしたが、日本の開国開港にさいしてアヘン条項はどう扱われたかの疑問に答えようとした。

 次いで「黒船前後の世界」を『思想』誌(岩波書店)に1983年から1984年にかけ計8回連載、うち(四)「東アジアにおける英米の存在」、(五)「香港植民地の形成」、(六)「上海居留地の形成」において中国を中心に分析した。アヘン戦争(1839~42年)の結果の南京条約(1842年8月29日調印)が五港開港と香港植民地、<懲罰>としての巨額の賠償金を生み出す。

 一方、日本の対外令は4つの段階を踏む。1891年の寛政令(薪水供与令)、1806年の文化令(寛政令のいっそうの緩和)、1825年の文政令(異国船無二念打払令)、そして1842年の天保薪水令(文化令に復す)である。天保薪水令の公布は南京条約締結の1日前であった(同上連載(七)「経験と風説」1984年5月号所収)。

 幕府は長崎に入るオランダ商船と中国商船にアヘン戦争の戦況を提出させ、イギリス海軍の戦闘力と戦況を収集・分析していた。鎖国の<祖法>により外洋船(軍艦を含む)を持たない日本が異国船無二念打払令を続ければ敗北必至。天保薪水令に切り替え、戦争回避に徹して積極的に外交を進めた。

 この連載と関連論文を合わせて、『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)を刊行、さらに1994年には、ちくま学芸文庫版『黒船前後の世界』で約2割を増補、「Ⅹ 展望―開国から開港へ」の1章を加え、また20の補注を付したが、その4つは米総領事ハリス(のち公使)に関するものである。

 近代アジア史からアヘン問題を契機に日本開国史に踏み入った私にとって、斎藤さんの横浜に関する研究から多くを教えられ、「横浜居留地研究会」ではさまざまな研究者と知り合う機会を得た。斎藤さんの粘り強い史料探求力と<百科全書派>に匹敵する膨大な事項の記憶力に舌を巻いた。

 その成果物の横浜居留地研究会編『横浜居留地と異文化交流-19世紀後半の国際都市を読む』(山川出版社 1996年)に寄せた拙稿は、「アヘン密輸ハートレー事件-1877年の横浜税関の摘発、領事裁判、日英外交交渉」である。斎藤さんの個別具体的な史実把握から影響を受けたように思う。

 その後、かながわ検定協議会(テレビ神奈川、神奈川新聞、横浜商工会議所で構成)の「かながわ検定」(「横浜ライセンス」と「神奈川ライセンス」の2本立て)が発足、その作問委員会でご一緒したが、もっぱら斎藤さんの博識に依存して12年間(2007~2017年)を完遂することができた。

 今年5月、斎藤さんから今回の全国大会の案内メールを頂いた。追いかけて届いたパンフレットは、表紙と賛同企業の広告を含め、A4×24ページの丁寧な作り。冒頭の<ごあいさつ>では、兼子良夫さん(神奈川大学長)、水野佐知香さん(横浜音楽文化協会会長)、斎藤多喜夫さん(横浜外国人居留地研究会会長)の3氏が、2019全国大会の意義を語る。

 初日は午前に公開研究会「租界と居留地」、午後にヨコハマ・ワーグナー祭スペシャルコンサートがあり、2日目が会場を波止場会館に移して午前にシンポジウム「居留地の音楽・美術・文学」、午後にドーリング商会のオルガン演奏が予定されていた。全部に出たかったが、日程の変更にともない、12月7日(土曜)午前の「租界と居留地」にだけ参加できた。

 「租界と居留地」について、パンフレットに3氏の発表主旨が各1ページを割いて載せている。鶴田啓(東京大学史料編纂所教授)「前近代日本の<居留地>」、大里浩秋(神奈川大学名誉教授)「中国に置かれた租界について」、斎藤多喜夫「日本の開港場・開市場と居留地・雑居地」。

 会場ではパンフレットの補足としてめ、さらにA4×24ページの冊子「租界と居留地」が配られた。報告の詳細な補足と放映する図像・表等が掲載されている。パンフレットの原稿執筆が5月ころで、その補遺であると説明があったが、貴重な資料集である。

 鶴田啓「前近代日本の<居留地>」の概要は次の通り。古代には外国使節を滞在させた筑紫の<鴻臚館>、664年に設置された大宰府、さらに<難波館>があった。ついで中世の博多には唐人商人が居住していたが国家が制度として設定したものではない。近世になると家康は自由に貿易を認めていたが、1635年、中国商船の来航地を長崎に限定し、翌年、ポルトガル人を収容する埋立地(出島)を有力町人の出資で完成させる。ポルトガル人追放後はオランダ人用とした。また1689年、唐人屋敷を作った。

 斎藤多喜夫「日本の開港場・開市場と居留地・雑居地」の概要は次の通り。居留地の起源は「遠隔地貿易のためにやってくる異邦人を隔離し、混乱を避けるために現地社会とは別に管理した。…日本側の意識としては近代日本の居留地は中国の租界を移植したものではなく、長崎出島の制限を緩和したもの」であり、五港開港・2開市は同時ではなく段階的に進められたため、一律の内容ではない。そして各港市の居留地と雑居地(借家と借地の別)の有無については一覧表で示す。

 大里浩秋「中国に置かれた租界について」の概要は次の通り。「1840年代から1930年代にかけて日本を含む諸国が中国に置いた空間的利権として、租界・租借地・鉄道附属地などがあり、…うち租界はとは主権は中国に属しながらも、その中国側の行政権が行使されずに、他国政府に長期間貸与された地域」である。1842年の南京条約で五港開港、2年後にアメリカとフランスが条約を結び同等の権益を確保、ついで天津条約(1858年)、北京条約(1860年)、下関条約(1895年)と拡がることについて、また後の租借地と鉄道附属地について触れる。

 3つの報告はきわめて広い時代と内容をカバーしている。日本古代の<居留地>から、安政五カ国条約(1858年~)以降の開港五港(函館、新潟、神奈川、兵庫、長崎)と2開市場(東京の築地と大坂の川口)を中心とする日本各地の展開、そして中国の租界についてはアヘン戦争(1839~42年)に伴う南京条約(1842年)の五港開港から約90年に及ぶ租界・租借地・鉄道附属地の展開を網羅している。

 3氏の報告を受けて、孫安石さん(神奈川大学非文字資料研究センター研究員)と菊池敏夫さん(同研究員)によるコメントと質問があった。お二方の研究課題に基づく見解と質問が示され、充実した時間を味わうことができた。

 その一方で、それぞれに深く究明する熱意は伝わってくるものの、わずか一人の持ち時間が30分、コメントと質疑応答を含めて計2時間半の公開研究会で全体を貫くテーマが何か、なかなか把握しきれない。私はせっかくの貴重な資料を頂いて、それらをどう生かすべきか迷っている、と敢えて質問した。

 「租界と居留地」の後には、新井力夫さん(横浜音楽文化協会顧問、フルーティスト)の「ヨコハマ・ワーグナー祭スペシャルコンサートについて」と演奏プログラム(計3ページ)、神木哲男さん(外国人居留地研究会全国会議議長)の「外国人居留地研究会全国大会in横浜開催に寄せて」(ここに過去の全国大会の一覧がある)がつづく。

 2日目の「居留地の音楽・美術・文学」には計7本の論考。発表者名とタイトルだけを以下に一覧する。
(1)山田耕太(敬和学園大学学長)さんの「新潟の音楽・文学・美術の萌芽とその後」
(2) 角田拓朗(神奈川県立歴史博物館主任学芸員)さんの「横浜居留地と近代日本美術-ワーグマン、五姓田派、横浜絵…」
(3) 中村三佳(神戸外国人居留地研究会会員)さんの「居留地の文学-「INAKA」について」
(4) ブライアン・バークガフニ(長崎総合科学大学教授、代読:松田恵/姫野順一)さんの「長崎居留地と西洋音楽の普及」
(5) 佐々木茂(北海道教育大学名誉教授)さんの「洋楽受容の先進地函館-ハリストス正教会の日本語聖歌-」
(6) 玉置栄二(桃山学院史料室室員)さんの「大阪の洋楽受容と川口居留地:ジョージ・オルチンを中心に」
(7) 中島耕二(フェリス女学院資料室研究員)さんの「築地居留地と近代
音楽-讃美歌との出会い-」

 ついで斎藤さんの「横浜居留地豆知識」(3ページ分)があり、具体的で分かりやすく、ともすると混同しかねない事象・事実を明快に解き明かしている。「神奈川か?横浜か?」、「開港場とは?居留地とは?」、「開港場横浜の範囲は?」、「関内とは?」、「横浜居留地の範囲は?」、「治外法権とは?」、「居留地に日本人は住めたか?」の7点。

 締めくくりが「開港期の音がよみがえる」(ウィンダム/鈴木史子)である。横浜外国人居留地の楽器商人ドーリング商会が輸入した貴重なリードオルガンを、まわりまわって山本博士さん(眞葛焼きの研究・蒐集家)が入手、修理を施した。このオルガンで、中村英子さんがバッハの瞑想曲や讃美歌、唱歌等を演奏する。

 斎藤多喜夫さんは「12回を重ねるなかで、…研究の<深まり>と<広がり>があった」と記す。<深まり>とは「居留地の起源や実態を世界史的な視野で研究すること」であり、<広がり>とは「居留地をさまざまな側面から研究すること、…今回は<居留地の音楽・美術・音楽>というシンポジウムでこの課題に応えるつもり」と意気込みを示す。

 さらなる情報を得たい方は、横浜外国人居留地研究会ホームページにアクセスされたい。yokohama-fs.jimbo.com

 2019全国大会を終えたいま、12年の歩みを通じて、「外国人居留地研究」の<深まり>と<広がり>は、見事に目標の8割を達成したのではないかと、私は感じている。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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