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駐日外交官たちの写真展

 三溪園の鶴翔閣において「にっぽん-大使たちの視線2018」写真展が開かれ(2019年2月5日~11日まで)、多くの人が訪れている。副題は「外交官がとらえた明治維新から150年を迎える今のニッポン」(”Meiji 150 years, Japan Transforming –- through Diplomat’s Eyes 2018“)。日本の昔ながらの伝統や文化、近代的な風景など様々な視点の作品を観ることができる。

 この「にっぽん-大使たちの視線」写真展は1998年に始まり、今年で21回目となる。高円宮妃殿下名誉総裁、中曽根弘文参議院議員選考委員長、パンサーン・プンナーク駐日タイ王国大使実行委員長(今年度から)を中心に、各国駐日大使をはじめ外交官諸氏が日本の今を活写するユニークな取組である。今年は、45カ国67名の方々の出品があった。

 外交官は、その職業上、駐在する国の鋭敏な観察者であり、駐在国の各地を訪れて人々の生活に触れ、課題を共有する。その経験が写真に投影される。

 2月5日10時からオープニング・セレモニー。開催地を代表して林文子横浜市長が、「…横浜は商業写真発祥の地であり、伝統とモダンが共存する街並み、いたるところに残る豊かな自然など、魅力的な撮影スポットにあふれています。ここ横浜で、多くの方々に写真映像文化に親しんでいただくため、毎年1月から3月に<撮る・みる・楽しむ横浜写真月間フォト・ヨコハマ>を開催しており、このたびの写真展は、このフォト・ヨコハマとの共催…」と紹介した。

 <横浜写真月間フォト・ヨコハマ>の関連事業として、三溪園でも過去にエバレット・ブラウン展やトークショーを開いている。本ブログの2015年1月25日掲載「光画と写真」、2015年3月2日掲載の「湿板光画の思想」、2017年2月20日掲載の「湿板光画といけばな」をご覧いただきたい。

 そして林市長は会場の三溪園に触れ、「…明治時代末から大正時代にかけて製糸・生糸貿易で財をなした実業家・原三溪が造り上げた日本庭園であり、…この鶴翔閣は日本を代表する芸術家・文化人と広く交流し…こうした人々が集い、また画家たちが創作活動のため滞在した場所、…今回の写真展は自然と歴史が織りなす古建築の和の空間で、ゆっくりお楽しみください」と結んだ。

 名誉総裁高円宮妃殿下は、形式ばらず、にこやかに、写真展の意義を語られた。妃殿下は写真家としても著名であり、これまでフォト・ヨコハマの一環として、三溪園において2015年2月「写真展 鳥たちの煌き(きらめき)」(三溪園内の白雲邸)を開催、「バードウオッチャー」林文子市長と息の合った鑑賞トークが印象的であった(本ブログの2015年2月14日掲載)。以来3年連続で妃殿下の写真展が開催されている(会場を鶴翔閣へ移す)。今回は妃殿下のお力添えで林市長念願の「にっぽん-大使たちの視線」写真展が実現した。

 実行委員長のプンナーク駐日タイ王国大使は、キルシュ前駐日ルクセンブルグ大使から大役を引き継がれたが、その挨拶のなかで「日本と諸外国との文化交流と友好を深める役割を果たし、…明治という時代の魅力や何気ない日常の中で見つけられる日本の美しさなどを見事に切り取った45カ国67点の作品があり、たいへん難しい選考を経て…」と述べる。

 選考委員長の中曽根議員は挨拶文のなかで「…1848年に日本に写真機材が初めて輸入され、…幕末から明治にかけて激動の時代の人々や街が記録され…」、1998年に創設されて以来、「…外交官の洞察力は、この国に根ざしている文化、芸術、信条に関心を持つ多くの人々を時には驚愕させ、時には楽しませてきました」と述べる。

 河野太郎外務大臣は祝辞文を寄せている。「…明治期の変革の息吹をうけて生まれ、今日も変革を続ける日本の魅力・強みを日本人に再認識させる機会を与えてくれるでしょう。本写真展が外交官たちの日本への深い理解、共感、愛情を示すものとなることを期待します。…」

 テープカットの後、ゆっくり観覧に移る。会場の鶴翔閣は1902年完成の原三溪の旧宅の平屋で畳敷きが基本、板張りの廊下を含めてスリッパも禁止の純和風家屋である。この伝統的空間に写真と解説を載せたパネル(58cm×71cm)を畳の上に、見やすいように斜めに立てて設える。ガラス戸越しに入る光が写真を柔らかく照らし、目を上げると庭の景色が飛び込んでくる。

 高円宮妃殿下は「光あれ」の一点を出展された。明治記念館玄関の16弁菊花形の笠ほか4種の照明器具を配した、幻想的な写真である。その解説に「明治4年に横浜市に日本初のガス灯が設置され、明治15年に一般の人が見られる最初の電灯、アーク灯が銀座に灯された。…」とある。

 中曽根選考委員長の写真は「碓氷第三橋梁、日本の近代遺産」。新緑の青空の下の碓氷峠に掛かる鉄橋を上面に、その案内板(旧信越本線の碓氷第三アーチ、昭和45年1月1日)を下面に配した記録型の作品である。

 実行委員長プンナーク大使の写真は「歴史遺産と現代の大阪」、大使夫人は(新宿御苑と思われる)「日本庭園と高層ビル」である。

 ついで高円宮妃殿下メモリアル賞に選ばれた「池に浮かぶサクラ」。画面いっぱいに水面に浮かぶサクラ一輪。日本を代表するサクラを、意外な構図で表現している。

 グランプリには「伝統と携帯電話の調和」が選ばれた。米国フィラデルフィア製の大きなコーヒーミル?が展示されている脇で、和装の女性が携帯電話を操作している。アンバサダー賞には「母と子」が選ばれた。

 選考委員会スペシャル・メンションの作品は次の8点である。「献身-神聖な神輿を担ぐ信奉者」、「静かな雨粒、高野山」、「開港後、明治時代に著しく発展した横浜港」、「改革と進化、小樽」、「美しい日本の発見」、「和尚曰く、よく撮れているよ」、「あなたがランボルギーニを愛するなら」、「あなたの選択はどれですか」。題名は出品者が付したもの。

 さらに関心をお持ちの方には、『写真展図録』がある。「にっぽん-大使たちの視点写真展」実行委員会事務局、☎03-3543-0156またはファックス03-3543-0157までお問い合わせいただきたい。
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伊波洋之助さんを偲ぶ

 伊波洋之助さんが逝去されて5カ月になる。9月6日、三溪園の中島哲也総務課長と参列した斎場は長蛇の列であった。入口に伊波さんの笑顔の写真、傍らに大きなかわはぎの魚拓が添えられている。寸長34.7㎝、重量780g、昭和58年7月10日、剣崎沖、釣人伊波洋之助とあった。

 年が改まり、ご子息の俊之助さんが伊波洋之助著『平成に活きた市会議員 伊波洋之助小伝』を届けてくださった。奥様の宣子さんの「感謝」と題する一文が同封されている。「またたく間に月日は流れ、日に日に淋しさがつのります。葬儀の際は多くの方々に主人との別れを惜しんで頂き、心より感謝申し上げます。…」。

 横浜市会議員を引退されて2年後の、2017年9月25日刊行である。版元は株式会社リテラル、B5版、105ページ、販価1200円。カバーに大桟橋の遠景写真。最初のページには、旭日小授章を胸にモーニング姿の伊波さんと和装の奥様の写真が収められている。

 「<平成>に生き、燃焼した伊波洋之助です」と始まる。「私伊波洋之助は今からざっと三十年近く前の、平成元(1989)年1月28日、45歳のときに横浜市会議員に初めて当選させていただきました。中区の補欠選挙でした。平成になって全国で初めて公職選挙で当選して議員になったのが私でした」。

 文末に付されたプロフィールによれば、昭和18年、横浜市中区本牧三之谷(三溪園と同じ地名)出生とあり、私の7歳年少であることを初めて知った。拓殖大学商学部貿易学科スペイン語専攻に在学中、南米総合調査団団長として南米に1年滞在している。

 昭和45年、松村株式会社入社、市会議員の松村千賀雄の秘書を18年つとめ、平成元年の補欠選挙で初当選、以後7期28年勤続、市会の各種委員を歴任、平成17年に第40代横浜市議会議長となり、平成27年3月、議員を引退された。

 「地方議員の仕事とは」では「次の時代によりよい横浜を残すこと」に尽きると断言、また「市議は駅伝ランナー」とも言う。具体的には秘書時代に奔走した「本牧の米軍接収地の解除の前夜について」、市議時代の大気汚染に関する「<魚釣り>で見つけた石炭火力の横暴」、高齢者や身障者のため坂道の多い地区を走る「市バス222系統」の新設運動、「山手・石川町両駅のバリアフリー化の促進」等の業績から、浜っ子の心意気と<横浜愛>が伝わってくる。

 また「ガス燈」については、「日本におけるガス燈の発祥の地は横浜です。初めての点燈は、明治五年九月でした。東京では銀座が名誉あるガス燈第一号の地となりましたが、それも明治七年の話で、横浜のほうが二年早かったのです。安政六(1859)年に横浜村が世界に向けた開港の場に選ばれ、…さまざまな欧米の文化が横浜を玄関口として日本に入り、横浜から全国へと拡がっていきました。…」。ガス燈は伊波さんたちの奮闘のおかげで再建され、いま山下公園前の道路でほのかな光を放っている。

 「節目の年齢、そのとき私は」が本書の神髄であろうか。20歳、30歳、40歳、50歳、60歳、70歳の節目を振り返る。「…70代、長男俊之助に議員の仕事を委ね、…毎朝5時に起き、6時から新本牧公園に登り、ゴミを分別する<ゴミおじさん>をし、ついでラジオ体操…、一日10,000歩から13,000歩を歩き…」と近況報告で結ぶ。本書は市販されているので、ぜひお読みいただきたい。

 伊波さんと初めてお会いしたのは、平成4(1992)年頃である。伊波さんが市会の大学教育委員となられ、私が市大の高井修道学長の下、教養部長として市会に出席した時である。

 しばらくして伊波さんから、拙著をテキストに個人的な勉強会をしたいという要請をいただき、二つ返事でお受けした。最初は19世紀中頃の世界史を描いた『イギリスとアジア-近代史の原画』(1980年、岩波新書)を取り上げた。中国から英国への茶、英国植民地インドから中国へのアヘン、英国からインドへの産業革命の産物の機械製綿布、これら三大商品からなる「19世紀アジア三角貿易」を解明したもの。商学部貿易学科出身の伊波さんの得意分野で、議論が盛り上がり、多くの示唆を得た。

 次に取り上げたのが『黒船異変』(1988年、岩波新書)だったと思う。1853年7月8日、浦賀に来航したペリー艦隊と浦賀奉行所の、最初の接触に始まる日本開国を描いたもの。とくに横浜村における日米交渉に焦点を絞り、幕府代表の林大学頭とペリー提督との対話(1854年3月8日)から3月31日の条約調印までの過程を描いた。日米初の条約である日米和親条約(1854年)は、<避戦策>に徹した幕府と、ペリー側の漂流民相互救助・国交樹立の目的を合致させ、平和裏に結ばれた<交渉条約>であると述べた。

 それまで<不平等条約>説が過度に強調され、横浜は<不平等条約>の落し子という根拠のないイメージさえあったが、それを払拭し、都市横浜の起点が幕府外交の勝利の賜物であることを示した。これが市政公布100周年・開港130年を記念する大イベントである1989年の横浜博覧会(略称はyes’89)の「黒船館」の基本コンセプトに採用された。本書は絶版だが、後継本が『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)として市販されている。

 この横浜博覧会を機に、みなとみらい地区の開発が進み、はや30年が経った。桜木町駅から<汽車道>を通り、左手に日本丸、観覧車、聳え立つランドマークタワーからクィーンズ・パシフィコ横浜へと散策するたびに伊波さんを想う。

 また横浜博覧会の関連事業として、市大で横浜の歴史と現在を海外に伝える英文の本を編集・刊行することになった。書名を”YOKOHAMA Past and Present”とし、編集委員長に私が指名され、学内外56名の筆者による134編の論考(1編が見開き2ページ)、300ページの本が出来あがる。類書は東京都や京都市等にもなく横浜が一番乗りで、そのことを伊波さんは殊のほか喜んでくれた。さらに市会から、市民のために日本語版もとの要望が出て、『横浜 いま/むかし 日本語補助版』(1980年)も刊行した。

 伊波さんは横浜をなによりも愛する<市民派>の市議であるが、学生時代に南米調査団長をつとめたように、広く世界に関心を持つ<国際派>でもあった。私は日本史と世界史の双方から歴史を考えており、意気投合した。

 後年、伊波さんが2015年に市議を引退され、私が三溪園園長となって再会する。伊波さんは、戦後直後の三溪園の苦難の時代(古美術商のご尊父から伝えられたこと)や戦後の三溪園が腕白盛りの一番の遊び場だったこと等を語られた。その奥には、初代市会議長の原善三郎(三溪園の土地を取得し、別荘の松風閣を建てた三溪の義祖父)への敬愛の念が窺われた。

 『伊波洋之助小伝』は次の言葉で結ばれる。「皆さんどうもありがとう、そして大好きなヨコハマ‼ この街に、三溪園に、港に感謝して、この本を締めくくりたいと思います。皆さんどうもありがとう‼」 

 横浜をこよなく愛した人
伊波洋之助さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

三溪園ボランティアの活動

 三溪園ボランティアは、2003(平成15)年9月に第1次募集を行い、今年で14年になる。昨年6月の第13次募集で、現在233名が登録。すっかり定着し、三溪園の魅力を外に発信する第一線の活動を担っている。

 三溪園は年末の3日間のみ閉園し、他の362日間を開園、多くの来園者に対応するため、ボランティアは幾つかの班に属し、曜日ごとに分かれて活動している。これだけの数になると互いに交流のない人も少なくない。そこで「ボランティア相互の活動を知り、お互いに認め合い、仲間意識を高めていく場とする」ことを目的に、年に1回、三溪園ボランティア連絡会・懇親会が開かれてきた。

 私もブログで過去3回、2015年12月21日掲載の「三溪園のボランティア」、2017年1月30日掲載の「三溪園ボランティア連絡会」、2018年1月29日掲載の「三溪園ボランティア」で紹介したが、これらと重なる部分をなるべく省いて、今回の三溪園ボランティア連絡会・懇親会を記しておきたい。

 2019(平成29)年1月17日(木曜)、園内の鶴翔閣楽室棟に過去最多の約100名が参集した。日本海側の猛吹雪に反して、南関東は穏やかな晴天、ガラス戸ごしに陽がこぼれる。担当は事業課の岩本美津子主事、昨年まで担当の羽田雄一郎主事の支援で30ページの冊子を作り、司会も兼ねた。

 今年から内田弘保理事長と猿渡紀代子副理事長が参加して挨拶、三溪園との馴れ初めを含む自己紹介をし、ボランティアへの感謝と激励の言葉を述べて、喝采を浴びた。

 吉川利一事業課長が冊子の資料「ボランティアの歩み(年表)と「現況」を使い、短く「2018年の活動のふりかえりと今後の予定」を話したうえで、ガイドボランティアについて岩本主事、英語によるガイドツアーについて滝田敦史主事、合掌造りボランティアと庭園ボランティアについて羽田主事がそれぞれ冊子の資料をもとに説明する。

 ボランティア233名の内訳はガイド157名、合掌造46名、庭園74名。年齢は35歳~90歳だが、70歳前後の団塊世代が多い。男性166名、女性67名。居住地は横浜市内ほか、神奈川県下の川崎市・大和市・逗子市・鎌倉市・藤沢市・横須賀市・綾瀬市・茅ヶ崎市・海老名市・足柄下郡(湯河原町)に加え、東京都は世田谷区・大田区・町田市、埼玉県さいたま市、千葉県八千代市にも。

 ガイド登録後に三溪園主催の研修で最低限の共通事項を修得、さらに研鑽を重ね、どの人も得意分野を持っている。庭園、古建築、襖絵、茶室、花や樹木、石、苔、露地、野鳥、そして三溪園を作った原三溪の思想や生き方等、広範囲に及ぶ。三溪園の奥深さが、探求の喜びを与えてくれると言う。

 活動報告・エピソード紹介等のスピーチの筆頭は、ガイド月曜班の湯川幹夫さん(以下、敬称略)で、火曜班を甲本基、水曜班を鈴木康穂、木曜班を大宅ミチ子と太田泰司(ともに10年目のベテラン)、金曜班を細井茂邦、土曜班を石毛大地、日曜班を福居英三がそれぞれ個性豊かに話す。

 ガイドは、11時からと14時からの2回、各1時間の定時のほか、団体客のガイドにも当たる。曜日により違う来園者の数、団体と個人、日本人と外国人、天候の影響等を踏まえて、臨機応変に対応する。

 ひとたび門をくぐれば五感のすべてが解放される三溪園。四季の移ろい、一つとして同じではない動植物、重要文化財を含む17棟の古建築、記念館展示の美術品、これらの魅力を感受するにとどまらず、来園者にどう伝えるかに腐心する。この貴重な活動を担うのがボランティアである。

 熱がこもれば、話は長くなりがちになる。司会の岩本主事の「…時間が押していまして…」の悲鳴に「…ガイドの基本は喋り過ぎないこと…」と応える声があり、笑いが拡がる。

 合掌造ガイドは、月曜班が藤原昌子、火曜班が矢野幸司、水曜班が鈴木克精(よしあき)、木曜班は所用で欠席、金曜班が佐藤美奈子、土曜班が松井正、日曜班が鈴木彰文のみなさん。合掌造は、三溪園内の重要文化財のうち唯一、常時開放で民具等も展示、飛騨白川郷の年中行事の再現等を行い、囲炉裏の火を絶やさない。

 来園者からの質問に備えて、外国語セルフガイドシートを作ったとの報告もあった。在日歴20年余のアメリカ人、パメラさん作製の英語版(イラスト入り)から始めて、中国語版(簡体字と繁体字)、フランス語版、スペイン語版、韓国語版を揃え、入口の棚に置いている。

 合掌造りは飛騨白川郷で解体し、園で組み直した。建物のまま丸ごと空輸されたと思っていた来訪者が、この説明を聞いて、日本の木造建築の質と技術の高さに感銘を受けたと言ってくれたとの事例報告が印象に残る。

 植栽の手入れや路地の清掃等に当たる庭園班は畔上政男と宇佐美芳孝が、茶の湯の会は吉野直美が、自然観察会は竹内勲が、英語の会を野間昇がそれぞれ紹介した。事前にペーパーを準備して冊子に載せて話す人、メモなしに淀みなく話す人、スタイルもさまざまである。

 ほかに冊子には6本の活動報告・エピソード等が紹介されている。吉野直美(ガイド月曜班)「英語ガイドツアーに思うことーライスペーパーのお話―」、小野俊明(ガイド水曜班)「ガイド・ボランティア活動から感じたいくつかの提案」、大西功(ガイド金曜班)「私の忘れ掛けた10年位前のエピソードの想い出」、玉田節雄(ガイド日曜班)「春夏秋冬四季の調べ」、酒巻史朗(合掌造月曜班)「平成30年度三溪園ボランティア活動報告・エピソード」、志村忠夫(合掌造水曜班)「三溪園は国内留学? 外交官になったような気が!」。いずれも珠玉の短編ばかり。

 最後に私の閉会のあいさつ。

 つづく椅子とテーブルの位置を変えての立食懇親会は、班を越えた交流で賑やかに盛り上がった。その笑顔が、三溪園ボランティアの雰囲気を何よりもよく物語っている。

平成最後の年末年始

 この年末年始は、ふだんと少し違う感覚で日々を送った。平成が終わり、一世代=30年と言われる一つの時代が終わる。私にとっても働き盛りの50歳代から「消えゆく老兵」へと移る30年である。身辺の日常茶飯事の大切さにも想いが及ぶ。つれづれなるままに平成最後の年末年始を綴っておきたい。

 平成の30年間は、平成7(1995)年の阪神淡路大震災、平成23(2011)年3月11日の東日本大震災に加え、各地の地震、水害、噴火等々、激甚災害の記憶を拭い去れない時代であった。「行く末」を見つめると同時に、「来し方」の整理もと、従前以上にせわしない。

 この数年、年末の28日に清談会を開いている。今回は第27回目で私が「10年後の歴史学」と題して話題提供した。それを本ブログに掲載したのは、開けて1月7日(月曜)。

 翌29日は横浜市立大学教職員テニス親睦会の打ち納めと忘年会を楽しんだ。現役では50歳代が中心で、私のようなOBも参加、雑談しつつ30年前の自分と重ねあわせ、不思議な気持ちに陥った。このテニス親睦会を立ち上げたのは1980年(昭和55年)ころで平成以前、そろそろ40年になる。

 30日、中学生から「戦争体験の取材」があり、終戦(1945年)前後に記憶を戻した。東京大空襲(3月10日)後、群馬県の寺へ集団疎開(国民学校と呼ばれた小学校3年生で6年生と一緒)、3歳上の6年生には何をしてもかなわず、悔しい思いをした。ホームシック、空腹のあまり田の畔に生えるノビルを食べた口中のヒリヒリ感、8月15日の「玉音放送」にワッと泣き伏した男の先生…。

 秋、無蓋車に乗せられて帰宅、痩せこけた私を見て姉が「ガンジーみたい!」と思わず声をあげた。東京練馬あたりは昭和初期の新興住宅地と竹藪や農地の拡がる農村とが同居していた。食糧難対策に父が農地を借りた。私も農作業を手伝い、山羊や鶏を飼った(小屋も手製)。

 いよいよ平成31(2019)年元日。日の出を拝んでから、勤務先の三溪園で初詣をした。三溪園は暮れの三日間のみが休みで、あとは362日、元日から開園。「三溪園で過ごすお正月―横浜市指定有形文化財 鶴翔閣公開」に職員はシフトを組んで対応する。元日恒例の箏と尺八の演奏(アトリエ筝こだま)、「ちどり」や「春の海」等の聴きなれた曲に時を忘れる。

 穏やかな陽ざしの下、三溪園天満宮に詣でた。近くの高梨家の祖先が本牧の丘の中腹に建てた間門天神を、1977年、園内に移築したもの。振り返れば丘の上に三重塔が聳える。飛騨白川郷から移築した合掌造り、旧東慶寺仏殿等を経由して石段を登り、三重塔に参る。坂を下って海岸門から内苑へ。

 蓮華院わきを通り、2本のイチョウの巨樹に挨拶。前回ブログ「イチョウ巡り」(2018年12月28日掲載)の出発点となった樹である。まだ黄色い葉がわずかに地表に残る。ついで内苑の最高所にある天授院(原家の持仏堂)に参拝。

 職員や来訪の元職員とゆっくり歓談。幸先の良い元日であった。今年から臨春閣(重要文化財)を皮切りに30年に一度の大規模改修工事が始まる。気が抜けない。また三溪記念館は、3つの展示室と収蔵庫、情報案内、望塔亭(呈茶)、土産売り場、応接室と管理事務所を持つセンター施設であるが、平成元年生まれの30歳、経年劣化で水回り等の修理が必要になってきている。

 秋にはラグビー・ワールドカップの決勝戦等が市内で行われるため、選手たちが三溪園で英気を養い、日本文化に触れてもらうための工夫も要る。来夏は2020東京オリンピック・パラリンピック。屋根を葺きなおしたばかりの臨春閣が選手や観客を迎えることになる。

 正月3日は、数人で「若い都市横浜」の歴史散歩を試みた。案内人は私。谷戸橋で堀川を渡り山手の丘を登り、外国人墓地を経て元町を抜け、中華街の馴染みの店でテーブルを囲む。その後、関帝廟に詣で、ホテル、ニューグランド旧館から山下公園に出て、氷川丸を見た。

 山下公園は1935年に開園した全国初の臨海公園で、関東大震災(1923年)で廃墟と化した市街地の瓦礫を埋め立てて造った。それまでは開港(1859年)以来、幕府が整地して番号を振り外国人に賃貸、外国商館が並んでいた。

 中華街は、「中華街ガイドマップ」(無料)では整然とした碁盤目に描かれているが、いざJRの関内駅や石川町駅へ出ようとすると方向感覚を失う。ここは田んぼの高低(水の流れ)にそって整地され、海岸線に対して45度ほど斜めの街区だからである。

 ついで日米和親条約交渉(1854年)の応接所が設けられた大桟橋の付け根、開港広場、開港資料館から日本大通りを挟んで神奈川県庁にまたがる一帯を確認した。老中首座・阿部正弘が見事な外交で「避戦策」に徹し、近代日本への扉を開いた記念すべき場所である。

 日本大通りの右手、本町1丁目に開港記念会館の塔が見える。ここから西の本町6丁目へかけて、開港以来、日本人商人(売込商、引取商)の店が並ぶ<日本人町>が五筋造られた。この<日本人町>と外国人居留地を内外の商人が行き来して商取引をする、日本独特の<居留地貿易>が展開された。

 掘割で外部と遮断して作られた横浜居留地、要所に関所を設けて警備したため、関所の内側(海側)という意味で<関内>(かんない)と呼んだ。関内一帯が横浜開港以来の旧都心で、今年160周年を迎える。

 ついで<開港の道>と名づけた高架の散歩道に戻り、<象の鼻公園>から<赤レンガ倉庫>まで歩く。この新港埠頭一帯は、1909年の横浜開港50周年を機に造成された旧都心の第二世代である。

 さらに進んでパシフィコ、クイーンズ、ランドマークタワー、JR桜木町とつづく高層ビル一帯に至るが、ここは1989(平成元)年の<横浜博覧会>(市政100周年、開港130周年を記念する行事)後に生まれた新都心<みなとみらい地区>である。ここも誕生から30年になる。

 旧都心と新都心の交わるあたり、北仲通南地区、大岡川下流に架かる弁天橋からも近い中区本町6丁目に横浜の新市庁舎(31階建て)が2020年に完成する。明治22(1889)年の市政公布時から数えて8代目の建物。最寄り駅はみなとみらい線の馬車道駅とJR・市営地下鉄の桜木町駅。桜木町駅は横浜=新橋間の日本最初の鉄道(明治5、1872年)の初代横浜駅である。

 開港から急成長して160年、いま横浜は人口373万人の日本最大の政令市となった。他の都市と比べて、横浜はとても若い。それを示すために私がよく使う比喩が「都市年齢」である。平安京の成立が約1200年前、これを人間の80歳とすれば、鎌倉が53歳、東京が29歳、そして横浜はわずか10歳である。

 4日(金曜)、証券取引所の大発会。株価が急落し、金融市場は円高・ドル安に振れ、波乱の幕開けとなった。

 夜は、偶然見つけた「神々の木に会う~にっぽん巨樹の旅」(BSプレミアム)を観た。書いたばかりの「イチョウ巡り」(本ブログ2018年12月28日掲載)を補う番組で、そのタイミングに驚く。

 山梨県北杜市の桜(エドヒカン、樹齢2000年)に始まり、クス、日本一高齢のイチョウ(青森県深浦町「北金ヶ沢のイチョウ」)、縄文スギ(樹齢2000年超)、さらにカツラ、スダジイ等が映し出された。

 青森のイチョウは樹高31メートル、幹周22メートル、樹齢1000年超、国の天然記念物である。すぐ傍に住み、これを見守ってきた人が、30年ほど前に樹のすぐ横にアスファルト道路ができて以来、「イチョウの葉が小さく少なくなった、人間にとって良い環境は木にとっては大変な変化…本当に申し訳ない」と語る。

 6日(日曜)、麻布山善福寺(港区元麻布)を訪れた。日米修好通商条約に基づき安政5年(1859年)、当寺がハリス一行の宿舎となり、その一室は初代アメリカ合衆国公使館として使われたこと、また1861年にハリスの通訳ヒュースケンが襲撃され、ここに運ばれて死去したことから、現場を確かめるため、以前、来たことがある。

 門をくぐると、目視で1尋半ほどのイチョウの樹下にハリスを記念する石碑がある。そして墓地には親鸞像の近くに「逆さイチョウ」(「杖イチョウ」)と呼ばれる巨樹(雄)。
昭和20年(1945年)5月29日の空襲で被災、背丈は低くなったものの、都内最大で、国の天然記念物に指定されている。推定樹齢750年。根を広く張り、コブのような凹凸を持つ巨大な幹。孤高、圧倒的な存在感。

 そして7日(月曜)、この日までが松の内(松飾りのある期間)。今年は7日を仕事始めとした所が多いと聞く。年賀状を整理。今年で最後にする、と書いてきた方々に思いを馳せる。

 遡れば30年前の今日(昭和64年1月7日)、小渕恵三官房長官(当時)が「平成」と書かれた紙を示し、新元号を発表した(翌8日から平成)。巨樹を見たせいもあろう、30年という歳月が<瞬時>のようにも思える。

10年後の歴史学

 昨年の12月28日、第27回清談会が開かれ、私が「10年後の歴史学」の話題提供をした。この題名の由来は、前々回の会合で永年幹事の小島謙一(以下、敬称略)が提案し、新しい共通テーマを「各専門分野の10年後を予測する」と決めたことにある。

 前々回の第25回清談会では、「隗より始めよ」(戦国策)に則り、まず小島が「自然界の4つの力」について語り、ついで穂坂正彦が「AI(Artificial Intelligence人工知能)と医療、その10年後」について発表(本ブログ2018年1月5日掲載の「清談会の定例会」を参照)、のちの議論はAI(人工知能)の占める役割が中心となった。

 ついで8月9日開催(7月28日開催予定が台風12号襲来で延期)の第26回清談会では、浅島誠が「自然を知り、生き物に学び、ヒトの立ち位置を考える」を報告、その概要は本ブログの2018年8月17日「生命科学の行方」に掲載した。もともと私の「10年後の歴史学」と二本立ての予定だったが、浅島報告だけで時間切れとなり、半年後に延期されていた。

 なお聞き慣れない「清談会」の発足以来の経緯やメンバーの名前と専門等については以前に書いた。横浜市立大学で同じ釜の飯を食った教員たちで、現メンバーは年齢順に穂坂正彦(医学)、私(歴史学)、丸山英気(法学)、小島謙一(理学、物理学)、山本勇夫(医学)、浅島誠(理学、発生学)の6名。
 
 今回の報告「10年後の歴史学」は、前回からの議論の延長では「歴史学とAI」となろう。多くの人は「歴史学とAIは縁遠く」、それは10年後も変わらないが、「無縁」ではない、と感じているのではないか。配布したレジメを以下に再掲する。

(1)歴史学と他の学問分野との比較
ア)史観・方法(「比較と関係」)・実証(最適史料)・叙述・推敲の5段階
 ⇒ブログ連載「我が歴史研究の歩み」⇒#1【1】連載「新たな回顧」
イ) 哲・史・文≒真・善・美
ウ)過去の経験≠未来の可能性&蓋然性⇒#2【35】幕末期のアヘン問題」
エ)自然科学の反復可能性vs歴史の一回性&個別具体性
 AIの特性は、膨大な数量化されたデータ蓄積(ゲノム、投資信託等を基に特定の指令に短時間で回答を割り出すこと。歴史史料は数量化に馴染まず、かつ応用価値がないため、AIの出動機会はない?
オ)個別具体性と普遍妥当性

(2)歴史学にとっての記録(文字史料、図像、映像、録音等)の重要性
ア)歴史学は記録(史料)の最大の消費者
イ)史料集(翻刻+索引等)刊行の有難さ⇒公文書館でデジタル化展開
事例a)東京帝国大学文科大学史料編纂掛編纂『大日本古文書 幕末外交関係文書』 明治43(1910)年~刊行
事例b) イギリス議会文書とアメリカ議会文書⇒いずれも一年約100冊
事例c)イギリス平戸商館長リチャード・コックス(Richard Cocks 1566~1624年)の日記“Diary kept by the head of the English   Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻字・邦訳。
ウ)歴史家の記録(史料生産)の意義⇒#3「市大創立90周年記念式典」

(3)30年(一世代=平成の30年)の回顧と10年後の歴史学
ア)民主主義の変貌と経済変動⇒これ自体が同時代史の対象
イ)大学教育(の劣化)⇒批判を忌避、テーマを小さく設定する傾向
ウ)歴史書(歴史学の良き成果物)の有用性はいっそう高く評価される?
 ⇒「真の歴史学は古今東西森羅万象を対象とする」

 下線を引いた参考資料3点、すなわち#1【1】連載「新たな回顧」、#2【35】「幕末期のアヘン問題」、#3「市大創立90周年記念式典」は、私の以前のブログから選んだもの。私は都留文科大学学長時代に「(都留文科大学)学長ブログ」(本ブログのリンクからアクセスできる)を東日本大震災の翌日から始め、学長退任後も継続できるよう、「加藤祐三ブログ」として立ち上げてくれたのが情報センターの大輪知穂さんである。

 ブログ画面に大きな文字で「月一古典」(つきいて こてん)とあるのは、私が入学式・卒業式で話す「三訓」(三つの教訓)の第二訓。ちなみに第一訓は「足腰使え(あしこし つかえ)」、第三訓は「世界を見すえ 持ち場で動かむ」である。詳しくは本ブログ「月一古典」(2016年1月17日)参照。

 画面の構成は、左欄が略歴や掲載歴等、中央が本文、右欄がリンクやカテゴリ(5分類)である。本ブログの最初が2014年4月6日掲載の「桜と新緑の競演」で、それから4年10カ月、カテゴリの数字を加算すると185回になる。「(都留文科大学)学長ブログ」から数えて、早や8年になろうとしている。

 #1【1】連載「新たな回顧」は2015年6月30日掲載、私の研究対象を①中国近現代史、②近代アジア史、③日本開国史、④文明史、⑤横浜の歴史、の5種にわけて紹介したもの。分野の異なる方への簡単な自己紹介であるが、同じ歴史学の仲間には、さらに詳細な説明が必要となろう。

 #2【35】「幕末期のアヘン問題」は2018年9月7日掲載、19世紀中葉の国際政治とアヘン問題を示した論考である。拙著『イギリスとアジア』(1980年 岩波新書)のなかでイギリス議会文書所収の貿易統計を駆使し「19世紀アジア三角貿易」(紅茶、アヘン、機械製綿製品の3大商品による中国・イギリス植民地インド・イギリスを結ぶ)を明らかにし、うちグラフ「インド産アヘンの140年 1813~1914年」から19世紀中葉の貿易構造と政治構造の特徴を説明した。

 こうした状況下で日本におけるアヘン問題はどうであったか。最強の鎮痛剤であると同時に麻薬にもなるアヘン(主成分はモルヒネ)の国家的・社会的管理のあり方、さらに開国・開港の条約交渉でアヘン問題をどう処理したか。これが拙著『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店)につがるテーマであり、上掲「③日本開国史」に踏み込んだ最初の著作である。

 幕府は長崎に入るオランダ船と中国船から積極的に情報を蒐集・分析してアヘン戦争(1839~42年)の行方を把握、南京条約締結の一日前に穏健策の「天保薪水令」(1842年8月28日)に切り替えた。

 この情報収集・分析・政策化の流れを継承し、老中首座・阿部正弘はペリー来航に対して「避戦」外交に徹し、平和裏に「交渉条約」を締結した(詳細は拙著『幕末外交と開国』2012年、講談社学術文庫を参照)。

 「交渉条約」には「敗戦条約」と違い、懲罰としての賠償金支払いや領土割譲がない。中国がアヘン戦争に負けて強いられた「敗戦条約」とは対照的である。こうして世界に列強、植民地、「敗戦条約国」、「交渉条約国」からなる「近代国際政治―4つの政体」が成立した。19世紀中葉の、この大転換は、現在に至るまで大きな影響を及ぼしている。

 #3「市大創立90周年記念式典」(正式名は#3「横浜市大大学 創立90周年記念式典」)は2018年11月7日掲載で、市大の近況を伝えたもの(この式典に出席したのは小島と私)。上掲(2)-ウ)「歴史家の記録(史料生産)の意義」の最近の一例である。

 以上が配布したレジメと3通の参考資料の概略説明である。いつもの侃々諤々、熱い言葉が飛び交う展開となった。そのなかから私が答えた3つを挙げたい。

 第一がAIの成長に関すること、上掲レジメ(1)-エ)欄にある「AIの特性は、膨大な数量化されたデータ蓄積…」の「数量化された」について異議が出され、必ずしも数量化されていない膨大なデータを読み解くdeep thinkingが進んでいること、それにより人間がAIを利用する便利な状況から、やがてAIが人間を支配する危機(その想定時期から2040年問題とか2045年問題と呼ばれる)に話が進んだ。

 本ブログで以前に取り上げた藤原洋さん(株式会社ブロードバンドタワー代表取締役会長兼社長CEO)たちの講演「地球環境とサイエンス」(2014年10月1日掲載)や「ありがたき耳学問」(2016年5月24日掲載)を思い出した。AIがさらに進化して人間を支配する事態をなんとか回避できないか。

 第二が、幕末開国の外交について阿部正弘の主導する「避戦策」の意義を述べたのに対し、決定的なのはリーダーの存在ではないかとの意見が出た。確かに、どの時代、どの組織にも、大きな変革を成し遂げるには、リーダーが不可欠である。ただし、人が時代を作るのか、あるいは時代が人を生むのかは、判断が難しい。

 第三が、上述「近代国際政治―4つの政体」(19世紀中葉)の大転換以降の、世界史の大きな流れについてである。そこまでなかなか関心が及びにくい。日本人の歴史好きは「ある一点」に焦点を当てる一方、長い年月の流れのなかに「その一点」を位置づけるのが一般に苦手である。この点について、いずれは私見を述べてみたいと思う。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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