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原三溪-茶と美術へのまなざし

 10月6日(土曜)から12月16日(日曜)まで、畠山記念館(東京都港区白金台)において展示「生誕百五十年 原三溪-茶と美術へのまなざし」が開かれている。チラシには次のようにある。

 明治・大正そして戦前の日本美術コレクターであり、茶の湯も愛好した横浜の実業家・原三溪(1868~1939)。本年が生誕百五十年を迎えることを記念して、二十年ぶりに当館が所蔵する原三溪旧蔵の書画と工芸品約50点を一挙公開いたします。国宝「禅機図断簡 印陀羅筆 楚石梵琦賛」をはじめ重要文化財6件、重要美術品6件を含む三溪コレクションと関連資料を通して三溪のまなざしに迫ります。

 畠山記念館は旧薩摩藩主島津家の別邸で、明治に外務卿・寺島宗則の所有に移った崖地を、1937(昭和12)年、荏原製作所創業者の畠山一清(即翁、実業家で機械工学者、1881~1971年)が買い入れ、1964(昭和39)年、みずからの設計による美術館を建立、財団法人として設立したもの。庭園には沙那庵、翠庵等、複数の茶室が点在する。

 紅葉を始めた露地を抜けると美術館、その1階で、11月23日(祝日)、清水緑氏(松濤美術館学芸員、元三溪園学芸員)と水田(すいた)至摩子氏(畠山記念館学芸課長)のトークイベント「三溪のまなざしに迫る-三溪旧蔵の古美術から」が開かれた。聴講者(抽選)が熱心に耳を傾け、2時から3時半まで、またたく間に時が過ぎた。

 「三溪のまなざしに迫る」を大きく3つに分け、パワーポイントのスライドで図像や表・地図を放映して話を進める。(1)三溪の履歴と美術品購入歴から見るバックボーンを清水さん、(2)三溪が蒐集した古美術の絵画と書跡を清水さん、畠山記念館所蔵の三溪旧蔵の書画や茶道具について水田さんが語り、(3)近代数寄者の研究と鑑識眼についてはお二人の息の合ったトークが繰り広げられた。

 聞き入ってメモを取りそこなったものが多く、復元を試みるも、これが至難の業。とくに美術や音楽等を言葉で表現することは難しく、それでも敢えて記すのは、三溪生誕150年の種々の行事のうち、このお二人こそ、今、三溪の美術へのまなざしを語れる最適者と観たからである。

 清水さんは2003年から昨年までの15年にわたり、三溪園の学芸員として三溪蒐集の美術品を研究し、展示に活かして素晴らしい図録を残してきた。渋谷区の松濤美術館に移り、新しい経験を重ねて約一年、「…三溪および三溪園を外から見る余裕がでてきました」と話す。

 三溪の生い立ち、略歴をおさらいしてから、三溪の「美術品買入覚」(全5冊、三溪園蔵)を史料として、買入れた美術作品(点数と金額)に年代別の特徴が見られると述べる。①明治30年代後半(三溪の30歳代後半)は主に古美術や庭石等、②明治40年代から新進画家の作品(同40歳代)、③大正初年には墨跡(50歳代)、大正7・8年が購入金額最高潮、大正9(1920)年に生糸暴落、大正12(1923)年の関東大震災により購入中止、④昭和(60歳代)に入り茶道具となる。なお鹿島美術財団賞を受賞した清水緑「原三溪にみる作家と支援者の関係」(『鹿島美術研究』別冊15号 2007年)等では、より詳細に8期に分けて論じている。買入れた美術品は5000~8000件と言われる。

 多彩な買入品に古建築の移築を重ね合わせると、三溪の美術品の概念は書画等にとどまらず、庭作りや茶会をも含めたスケールの大きな<総合芸術>と言えるのではないかと指摘する。これこそ清水さんの三溪の美へのまなざしを理解するためのキーワードのようである。

 一方、私自身は歴史家が記録を使う(消費)ばかりでなく記録を残す(生産)ことも大きな仕事であると気づいて約10年、三溪園に関わるようになってからは、三溪園の種々の行事やボランティア活動の実態・役割等を私的ブログに掲載してきた。

 清水さんの三溪園時代の仕事を私が初めて本格的に紹介したのは、本ブログ2015年9月13日掲載の「白きものを描く」であったか。「三溪園の所蔵品展示が入れ替わった。書画を主とする所蔵品は、日本庭園・古建築(重要文化財)にならぶ三溪園の<三種の神器>…」と書き出し、初めて三溪園所蔵の書画に触れた。紹介するには一定の知識が必要で、分からないことは担当者に教えを乞う。清水さんは快く、細部にわたり点検してくれた。

 私は美術についてほとんど無知であるが、庭園にはひそかに関心を抱いている。清水さんが「総合芸術」の用語を使って「三溪のまなざし」を語ったとき、ふと掲載したばかりの2018年11月1日「三溪園と大師会茶会」を思い出した。私が歴史家の役割の一環(=記録の生産)として、また三溪園を庭造りの視点から書いたことが、清水さんの美術史からのアプローチと似ていると感じた。

 ついで三溪が蒐集した古美術品を絵画と書跡に分けて清水さんが語る。絵画は①孔雀明王図、②四季山水図(伝雪舟)、③老子出関図(三溪29歳で購入)、④花籠図、⑤光琳「浪に燕」を模した三溪の飛燕図。なお評価の定まっていなかった尾形光琳を三溪は早くから評価していたという。

 三溪は自らの蒐集美術品に解題を付した『三溪帖』(全7冊)を準備したが、刊行直前に関東大震災で被災、幻に終わる。残された草稿の一部によれば、歴史画の好きな三溪が、今村紫紅、前田青邨ら新進画家と鶴翔閣に集まり、長老の書家、田中親美(古筆家、画家、料紙装飾家)をまじえた「楽園的会合」(のちに安田靫彦が記した表現)を開いたという。

 水田さんは主に関東大震災後に三溪が蒐集した茶道具の、茶碗、釜、茶杓、茶入、水指、香合等について語る。畠山記念館が引継いだ三溪蒐集品の多くは重要文化財指定の貴重な作品群であり、2階の展示室で開陳されている。

 最後が(3)近代数寄者の研究と鑑識眼。清水さんは三溪の研究と高い鑑識眼に触れた後、三溪園の外苑は秋草生い茂る「野趣あふれる公園」がテーマではないか、内苑は桃山時代で統一しようとしていたのではないかとし、三溪の桃山美術、建築に関する言葉「鮮麗彩華でありながら、瀟洒閑寂の趣を忘れず」を挙げる。そして庭園も美術作品も、自然と同じように、みなが享受すべきもの、すなわち公共性と共有性を併せもつという強い思いがあったのではないかと結ぶ。

 これを受けて水田さんは、三溪が愛した桃山文化を代表する豊臣秀吉画像(伝狩野山楽、桃山時代、重要文化財)や「四季花木図屏風(渡辺始興筆、六曲一双、江戸時代、重要美術品)」等を示して解説したうえで、三溪旧蔵の名品50点を今回一挙公開する意味は大きいのではないかと結んだ。

 トークイベントが終わり、興奮さめやらぬまま2階の展示室へ行き、国宝「禅機図断簡 印陀羅筆 楚石梵琦賛」をはじめ重要文化財「雪村周継筆 竹林七賢人屏風」、それに三溪が購入するも一度も使わず即翁に渡った「古瀬戸肩衡茶入 銘 畠山(室町時代)」等、綺羅星のごとき列品に見入った。

 期間中に展示替えがあるため、ぜひとも観たかったものを求めて11月29日(木曜)に再訪、学芸員による列品解説も聴くことができた。挙げれば限りがないが、なかでもトークで水田さんが触れた豊臣秀吉画像の不思議な魅力が心に残った。

 また渡辺始興筆「四季花木図屏風」は、両端に太い幹を配し、右から左へと四季の花木45種を緻密に写生、本草学にも役立てようとしたのか、柔らかな輪郭線と金泥の葉脈を丹念に描いている。最後にもう一点。三溪38歳で入手した酒井抱一筆「月波草花図」(江戸時代)は、3幅の掛け軸からなり、自然の持つ勢いを感じさせ、私は浮世絵を連想した。

 そのほか【参考】として何点かの書簡の展示がある。三溪が鈍翁(三溪を茶の道に導いた20歳年長の恩人)に宛てたものは、うなぎを食べ過ぎて体をこわし、せっかくお招きの茶会に参れませんと述べ、病床に付す自分と目の上にうなぎの姿を描く。

 また森川如春への三溪書簡は、20歳も若い「親友」(前掲「三溪園の大師会茶会」参照)で、大師会茶会(1923年開催)の第十二席・蓮華院(三溪設計の茶室)の催主を任せた如春に宛てたもの。「如春老兄」と呼び、冒頭には「此手紙の事は小田原(鈍翁のこと)には絶対秘密に願度候」と冗談半分に大書している。

 これら三溪を軸に書簡でつなぐ【参考】出品は、展示「原三溪-茶と美術へのまなざし」の背後にある、生身の人間模様を垣間見せて面白い。

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原三溪の生き方を考える

 今年は原三溪が生誕して150年、三溪(青木富太郎)の生地岐阜市では10月6日(土曜)、「清流の国ぎふ列伝-原三溪を語る~香り高き音色とともに」が開かれ、尾関孝彦さん(三溪を大叔父にもつ)のトークと粥川愛さんのピアノ演奏が行われた。

 横浜では三溪園において、10月23日(火曜)、公益財団法人大師会主催の原三溪八十回忌追善茶会が催された(本ブログ2018年11月1日掲載の「三溪園の大師会茶会」を参照)。また三溪記念館では所蔵品展「生誕150周年 原三溪旧蔵品展」が11月8日から12月12日まで開かれている。

 こうしたなか、11月10日(土曜)、原三溪市民研究会(以下、市民研とする)と三溪園の共催で、公益信託ヨコハマ中区まちづくり本牧基金助成のシンポジウム「原三溪-その生き方を考える」が、三溪の居所(1902年~)であった園内の鶴翔閣で開かれた。開会前には三溪園ボランティアによる呈茶があった。

 市民研は9年前に発足、「三溪を学ぶ、三溪に学ぶ」を理念として、毎月の例会やゆかりの地の歴訪等の活動をつづけ、これまで4回にわたるシンポジウムを開いた。そのテーマは下記の通り、会場は横浜美術館の円形フォーラム。
 第1回「富岡製糸場と横浜の原三溪-36年間の経営と継承」(2014年)
 第2回「原三溪と矢代幸雄-二人は美術を通して何を実現しようとしたのか」(2015年)
 第3回「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年)
 第4回「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」(2017年)

 このうち第3回には私も参加する機会を得て、本ブログの2016年11月21日号に、第4回についても2017年11月20日号にそれぞれ掲載した。市民研の創立経緯と活動については、そちらを参照されたい。役員は昨年と同じく、廣島亨会長、藤嶋俊會副会長、尾関孝彦副会長(岐阜県)、速水美智子事務局次長、内海孝顧問、猿渡紀代子顧問である。

 今回は第5回目のシンポジウムであり、標題のとおり三溪の生き方と人間像に焦点をあてる。公益財団法人三溪園保勝会・内田弘保理事長の挨拶につづき、次の3つの発表(各30分)があった。

 市川春雄(原三溪・柳津文化の里構想実行委員会事務局長)「岐阜と富太郎-
郷里岐阜の資料に見る<富太郎、三溪へのステップ>」
 川幡留司(三溪園参事)「三溪園における三溪の生活」
 廣島亨(市民研会長)「『原三溪翁伝』から三溪の選択を考える」

 市民研シンポジウムは、配布するレジメが充実している(テーマに即した関連年表も丁寧)のが特徴の一つであり、それを受けて各講演者が独自のレジメを追加することが多い。上掲の演題は各自作成のレジメによる。なお掛軸等の図像史料を含むレジメを所望される方は市民研へ。連絡先:080-8708-5985

 三つの発表要旨を順に紹介したい。

 第一の市川春雄さんの発表は、岐阜に残る4幅の掛軸を史料とし、写真や解題を付すレジメを作成、「…青木富太郎が原三溪となっていった節目の資料を紹介する…」と課題を提起し、<予言>、<つぼみ・兆し>、<赤い糸>、<決意>の四段階を設定する。三溪は青木久衛(ひさもり)とこと(琴)の長男(9人兄弟)として、慶応四年=明治元年に生まれた。したがって下記の制作年は三溪の年齢(数え年)に該当する。

 <予言>は、明治15年春、文人で画家の高橋杏村(寿山、1804~1868年、母の長兄)筆「萬松草廬之図」のなかに「…向学心旺盛な富太郎を見て、上に立ち重責を果たす逸材となるであろう…」とある点を取り上げる。二つ目の<つぼみ・兆し>は、明治17年の富太郎の筆になる「乱牛図」で、旧加納藩主永井尚服の所望に応じて届けたもの。のちに書画を嗜む契機になった作品である。

 三つ目の<赤い糸>は明治19年の跡見花蹊筆「花蹊女史玉堂富貴図」で、花蹊が富太郎に跡見女学校の講師を委嘱した詩が付され、青木家の蔵に大切に収蔵されていたもの。のち花蹊を仲人として原善三郎の孫娘屋寿と結婚する重要な契機となる。四つ目の<決意>は、明治30年の原三溪筆「祥開黄道乾坤濶」で3メートル余の大きなもの。初めて原三溪と自署した掛軸である。この七言律詩の意味を庭園・三溪園を開くと解釈しており、これを先代善三郎に打ち明けたのか、密かに構想を練ったかについては不明と述べる。

 そして「…富太郎・三溪の根幹にあったものは、日本人を形成してきた日本の伝統文化(広義)の保存保護ではなかったか。在郷時から見聞きしてきた廃仏毀釈への憤りと、その裏返しの保存活動であった…」と結ぶ。

 第二の報告者の川幡留司さんは、三溪園勤務60年の「生き字引」であり、彼が蓄積した数多の聞書きや調査の宝庫から、30分の報告で何を引き出して伝えるかに苦労する様子が伝わってくる。A4×4ページのレジメに多彩な問題が詰めこまれており、その一つ一つが興味深い。

 私なりに分類すれば、(1)三溪と近しい矢代幸雄(美術評論)、村田徳治(執事)、西郷健一郎(三溪長女の長男、初孫)、小林古径・安田靫彦・前田青邨(いずれも日本画家)、益田鈍翁・松永耳庵(三溪とともに近代三茶人と呼ばれる)が語った三溪の人物像、(2)三溪自身の子どもの教育(多くが音楽)、(3)三溪園を舞台とした業績(三溪園の開放、美術品収集、日本画家の育成等)、(4)茶会の開催を通じた(近代)茶道の復興と女子教育への茶の湯の導入。

 このうち(1)から幾つか引用したい。①「…詩歌書画に至っては之を楽しむ事甚だしく、その高趣、素人離れの領域…」(矢代幸雄)、②「…徳富蘇峰と杯を酌み交わしながら歴史を語るのを楽しみにし…」(村田徳治)、③「…食事やお茶菓子を用意してお客様を招き、美術、歴史等を語り合うのを楽しみ、お客様が絶えず…」(西郷健一郎)、④「…三溪は美食が過ぎるのではと常々心配し、…美術についてなかなか偉いが、事業については美術以上に偉い…」(益田孝鈍翁)、⑤「…祖父は多才でしたが、歌を口ずさむのを一度も聞いたことがありませんでした。しかし子供の音楽等の教育には熱心でした…」(西郷健一郎)。

 廣島亨(市民研会長)さんの報告は、ご自身の会社勤務時代の苦労を背景に、三溪の事業主としての折々の<選択>を語る。(1)三溪の原家入籍と原商店での店員見習い、(2)事業主として原商店の原合名会社への組織改革に着手、<家督>と<家業>の分離・統合を目ざし、自らは<家業>を継ぎ、それを本分としたこと、(3)事業主の仕事と三溪園の造営、換言すれば生き馬の目を抜く現実の事業と、三溪園造営や書画の創作による<永遠の美>の創造という二つの価値の両立を模索したこと。

 16枚のスライドを放映しつつ、複雑な側面を分かりやすく語るとともに、三溪57歳の作品の五言絶句「敗荷」(60歳に描いた絵とともに掛軸に仕立てた。レジメの裏面に写真あり。なお「敗荷」とは秋になり風に吹きやぶられたハスの葉や茎)を廣島さん自ら詩吟で詠い、三溪の内面の一端を披露した。そして最後を「…どの道を選んだかではなく、選んだ道をどう歩んだか」と結ぶ。

 三つの講演を受けて休憩、その後、同会の久保いくこさんが「みんなの想う原三溪」の報告を行い、「くいずで学ぶ三溪」や各種のアンケート調査700余件の結果をまとめて、人びとの認知度は順に、三溪園(これが過半数)、三溪の人物、美術、震災復興、生糸であったと述べた。貴重な記録である。

 ついで報告者三氏によるパネルディスカッション、コーディネーターは猿渡顧問。各人の報告で述べ切れなかったことの補足をお願いするとして進めた。三氏と猿渡さんは、市民研のみなさんとともに、三溪が横浜と岐阜を足しげく往来していたように、横浜と岐阜を行き来しておられる。

 私自身も4年前に尾関さんと市川さんの案内で、現岐阜市の柳津佐波(やないづさば)を訪れ(本ブログ2014年10月22日「原三溪の故郷」)、また2年前には廣島さん達と、お二人に三溪ゆかりの地を案内していただいた(本ブログ2016年10月3日「三溪と横浜―その活躍の舞台」)。

 おかげで高橋杏村の神戸町(ごうどちょう)にある旧宅跡地や日吉神社等にまで足を伸ばす機会に恵まれた。そのとき幼少時の三溪の目に焼き付いた日枝神社の三重塔が、のちに三溪園に移築した三重塔(京都府の燈明寺から)と酷似していることに驚いた。

 岐阜から毎月の市民研例会に出席される尾関副会長の挨拶で、4時半過ぎに閉会。日の入の4時38分を境に、雨模様の空が急に暗くなった。

横浜市立大学 創立90周年記念式典

 秋晴れの11月3日(文化の日)、横浜市立大学創立90周年記念式典が体育館で挙行された。90年前の1928(昭和3)年に創立した横浜市立横浜商業専門学校(Y専)を横浜市立大学(以下、市大とする)の創立記念日としている。

 ちょうど大学祭(浜大祭)の最中で、構内は歩けないほどの人で埋め尽くされていた。正門を入ると右手に<いちょうの館>が見える。これは15年前の創立75周年記念事業として、私の学長在任時代(1998~2002年)に提案され、市大同窓会(馬場彰会長)が先導して募金に奔走し、2004年に竣工したものである。馬場さんの元気なお姿を控室で見つけ、しばし歓談することができた。

 10時、<横浜市歌>の斉唱から記念式典が始まる。入学式・卒業式等で必ず歌われる<横浜市歌>は、1909(明治42)年、横浜開港50周年・市政公布20周年の記念として制作された日本最初の市歌である。作詞は森林太郎(鴎外)、作曲は南能衛(よしえ)。開港に始まる若い都市横浜を描き、先人の苦労に想いを馳せる(本ブログ2016年6月9日掲載「開港記念日と横浜市歌」を参照)。

 最初に二見良之理事長が主催者挨拶に立つ。本日の創立90周年記念式典は、来たる創立100周年に向けた第一歩であり、同時に本年度発足したデータサイエンス学部、来年度から発足する国際教養学部、国際商学部、理学部の3学部、並びに医学部を合わせた、5学部体制となる画期である、と述べた。

 この5学部(+大学院)体制は、学生・受験生にとって専門性の所在、学びの内容が分かりやすい。国際教養学部、国際商学部、理学部は、2005年の法人化に伴い国際総合科学部に統合された学部の再編である。1995年の文理学部改組で生まれた国際文化学部・理学部へと復帰しつつ、国際社会を生きる人材育成に向け、さらなる進化をとげるべく再生した。大学の礎石である新しい5学部・大学院体制という箱を先行して作り上げたことを、心から祝福したい。

 2つの附属病院(福浦と浦舟)、木原生物学研究所(舞岡)、先端医科学研究センター(福浦)、理化学研究所横浜と生命科学系の連携大学院を組む鶴見キャンパスとともに、新たな総合力を発揮してほしい。

 ついで来賓の挨拶。林文子横浜市長は、1928年から90年を迎えた市大の、さらに前史・沿革から語る。実に148年前の1873(明治4)年、早矢仕有的(はやし ゆうてき、1837~1901年)が開設した<仮病院>と<十全病院>、また136年前の1882(明治15)年設立の横浜商法学校(Y校)に言及し、1859年の開港に始まる都市横浜とともに歩んできた市大の前身を忘れないとした。さらにiPS細胞により肝臓を再生させた市大の若き教授の功績や、初めて横浜市が人口減の局面に入った社会変化等を挙げ、大学は10年先を見据えてしっかり対応してほしい、と結ぶ。

 つづく松本研市会議長、古屋文雄進交会理事長、遠山慎一俱進会会長の来賓挨拶は、いずれも励ましの言葉に溢れる内容であった。

 次が重田諭吉副学長による「90年の歩み」。小冊子「伝統と革新の、その先へ 1928-2028」(YCU100 Concept Book 2018)にある「ヨコハマとともに歩むー受け継がれる伝統 国際性・進取性に富む学風」を参照しつつ説明。その年表の起点を1859年横浜開港とし、これに「1853年 ペリー来航」と記し、ペリー提督及び黒船の絵を添えて、世界史のなかに横浜の歴史160年と市大の歩み90年を位置づけようとしている。

 補足すれば、以下の二点を背景として持っておきたい。第一が都市横浜の起源である。幕府全権の林大学頭とアメリカ全権ペリーとの交渉が対等な日米和親条約(1854年、横浜村にて調印)を生み出し、それに基づいて来日したハリス総領事と日米修好通商条約(1858年)を結び、「神奈川開港」を決める。ハリスは神奈川宿を主張するが、台地に伸びる街道沿いに空地はほとんどない。幕府は、神奈川宿から直線で約4キロ離れた横浜村(現在の大桟橋の付け根から神奈川県庁の一帯)を主張して実行に移す。広い後背地を有し海に開かれた関内地区は、都市横浜の飛躍的成長を支える中核となった。拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫、2012年)や本ブログのリンクにある拙稿「横浜の夜明け」(『横濱』誌連載)等を参照されたい。

 第二は、1928年のY専創立に始まる市大90年の直接的な起源についてである。現在につながる国立・公立・私立という3つの設置形態の大学制度、その大きな流れのなかで公立大学たる市大が発足した。横浜にとどまらず、日本の高等教育制度の発展と世界の動向との関連を視野に入れることが、今後を展望するうえで大切であろう。

 ついで窪田吉信学長が4つの重点事業「100周年に向けて」を小冊子「YCU Vision 100」の「90周年から100周年までのロードマップ」に基づき語る。すなわち(1)教育=ヨコハマから世界へ羽ばたくグローバル人材の育成、(2)研究=世界をリードする研究成果の創出と市民への還元、(3)医療=医療の知の創生・発信、附属病院の機能強化・再整備、(4)拠点=国際交流と知的資源を還元する拠点形成である。(1)~(4)にそれぞれ2億円以上の募金を呼びかける。

 この工程表のなかで気になったのは、5年後(2023年)に市大『100年史』編纂に着手とある点である。歴史学者の老婆心から言えば、編纂事業は史料収集(文書、聞書き、映像、デジタルデータ等を含む)に始まる。本年度中に編纂委員会を置き、編集方針を立てることが望まれる。

 ついで新しい5学部代表によるパネルディスカッションに入る。司会は重田副学長で、石川義弘医学部長、叶谷由佳看護学科長、岩崎学データサイエンス学部長、佐藤響子国際教養学部長(予定者)、大澤正俊国際商学部長(予定者)、篠崎一英理学部長(予定者)が壇上に並び、それぞれの学部の内容と目標を語った。なかでも新しく発足したデータサイエンス学部の入試状況(昨年度と進行形の今年度)と学生の動向に関する報告が注目を引いた。

 こうして2時間にわたる挨拶、説明、意見交換が終わった。休憩後、チアダンスと応援団(OBもはっぴ姿で参加)の演舞があり、最後は全員起立、学生合唱団のリードと管弦楽団の伴奏に力をもらい、大音量の校歌斉唱となった。私も負けずに声を張る。「…ああ 浜大の俊英 われら…」。

 本日を起点に5学部体制という5つの箱が礎石となって動き出す。それぞれの箱にどのような魂を入れるか、これこそ10年後に向けた最大の課題であろう。

 大学とは教員・職員・学生の三者からなる稀有の組織であり、構成員の年齢差・役割差等を越えて、知(知識+知恵)の発展を担う唯一の組織である。教育・研究・社会貢献の現場を担う三者の自由闊達な意見交換を通じて、しなやかで強い真のアカデミアを目ざしてほしい。市大着任の1973(昭和48)年から45年、「消え行く老兵」の一人として、遠くから願うばかりである。

三溪園の大師会茶会

 三溪園を創始した原三溪(青木富太郎)は、慶応四年八月二十三日(1868年10月8日)、岐阜県佐波(現在の岐阜市柳津町)の青木家に誕生。東京専門学校(現早稲田大学)で学び、横浜の生糸売込商・原善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚。原姓となり、号を三溪とした(以下、三溪と略称する)。昭和14(1939)年8月16日、横浜で逝去。

 三溪は、善三郎から引き継いだ生糸売込原商店を原合名会社と改め、生糸輸出にとどまらず富岡製糸場等の経営を引き受け(1902~38年)、さらに金融・福祉等の分野でも活躍する実業家となった。その多忙な日々のなかで自らも書画の筆をとり、新進日本画家の育成や三溪園の造園(古建築の移築、茶室の設計等を含む)を進めた。三溪の伝記については、藤本實也『原三溪翁伝』(1945年擱筆、2009年に思文閣より刊行)、齋藤清『原三溪 偉大な茶人の知られざる真相』(淡交社 2014年)等を参照されたい。

 三溪を茶道に導いたのが益田孝(鈍翁、1848~1938年)である。鈍翁は三溪より20歳年長で、幕末期に新潟の佐渡から江戸に出て麻布にあったアメリカ公使館に勤務、ハリス公使から英語を学んだ。茶道をたしなむようになったのは明治中頃からとされる(『自叙益田孝翁伝』)。そして明治29(1896)年に大師会を創設、大名の庇護を失い衰退する茶道の復興を期した。

 公益財団法人大師会ホームページには、「大師会は(122年前の)明治29(1896)年、三井物産の創始者で茶人としても著名な益田孝(鈍翁)により開かれた歴史ある茶会で、弘法大師筆『崔子玉座右銘』の披露に、大師の縁日にあたる3月21日、各界の名士たちが集った」とある。

 ここに開催場所の記載がないが、三溪園事務局の川幡留司参事提供の野崎廣太(幻庵、げんあん、1859~1941年)「大師会茶会 於横浜郊外三溪園」(大正12年4月24日記)によれば、長く鈍翁の品川御殿山の碧雲台で晩春四月の年中行事として営まれた。幻庵は「日本経済新聞」の前身「内外物価新報」(のち「内外商業新報」と改題)や三越を経営した実業家で、鈍翁、松永安左エ門(耳庵)とともに「小田原三茶人」に数えられる。

 三溪の初茶会は、101年前の大正6(1917)年12月23日正午、三溪49歳の時。彼の「一槌庵茶会記」(三溪記念館の展示「秋の雅趣」に出品、会期は11月6日まで)に、三溪園内の蓮華院寄付き一槌庵(いっついあん)に、益田鈍翁、高橋箒庵、岩原謙庵、梅澤鶴叟を招いたことが記されている。

 そして三溪園で初の大師会茶会が開かれたのが、95年前の大正12(1923)年4月21日(土曜)と22日(日曜)の2日間である。幻庵によれば、鈍翁が「やうやく取る年浪に其行末を慮り」、弘法大師筆『崔子玉座右銘』を寄付して財団法人を創設、篤志家に順次預けることとした。これを引き受けたのが55歳の三溪で、聴秋閣移築をもって全園完成とした祝いを込めた。

 三溪園の大師会茶会では、広大な園内に実に18席が設けられた(「大師会会記」=会場で配る案内、色刷りの三溪園平面図付き=本稿末尾に掲載。三溪記念館展示中には「第十八席 食堂」とある)。その様子を詳しく記録したのが幻庵「大師会」(『茶会漫録』第11集、大正14年12月刊。内外商業新報社版では1923年の干支を冠し「癸亥大師会」、7~39ページ)である。

 もう一つ、高橋箒庵(そうあん、1861~1937年)が、箒庵高橋義雄の名で刊行した「三溪大師会」(『大正茶道記癸亥』大正13年、廣文堂書店所収、55~73ページ)がある。箒庵は、三井銀行、三井呉服店(三越)等、三井家の重役として活躍、50歳で引退して茶道三昧の生活に入り、護国寺の檀徒総代も務めた。

 箒庵は、三溪園における大師会茶会は財団法人として以降第二回目のものであり、第一回目は前例通り品川御殿山掃雲台で開催、今回「…場所・建物・庭園三拍子打揃った天下の名園が出来上がり、大師会は無比の好会場を得た…」と述べ、題名を<三溪大師会>とした。幻庵と箒庵の二つの記述をもとに、三溪園大師会茶会の模様を見たい。

 幻庵の記述は詳細である。なお茶席の位置と名称は現在と異なる所があるため、(括弧)内に注を付して再現した。本稿末尾に再掲した「三溪園平面図 大正十二年大師会茶会」の会記附図を参照されたい。

 第一席の展観室(桃山史料)と第二席の古美術展観室は、いまの臨春閣で三溪が出品、幻庵は「…満室燦然と宝物を陳列、整然と厳かに飾り、見るから我国仏教美術の精華生々活躍し…」と述べ、東寺、金剛峯寺からの出品に加え、鈍翁出品の「普賢菩薩画像」「金銅観世音立像」等を一覧する。第二席は「…大師の親筆にかかれる和州益田池の碑文」にとくに感嘆している。

 第三席が清風居(いまの白雲邸)で催主は服部集翠庵。第四席が白雲邸に接してあった春草廬で催主は鈍翁。第五席が聚楽遺構(いまの臨春閣)で三溪が雪舟「虎溪三笑」の大幅を床の間に飾り、番茶と水菓子を供す。第六席が天楽の間(いまの臨春閣三屋)で催主は鈍翁。第七席の桃山遺構月華殿は三溪が催主。第八席が楽只庵(いまの金毛窟)で、催主は戸田露朝(大阪の道具商)である。

 金毛窟の隣の天授院で初日の21日午前11時に大師の祭典が行われた。末尾に添付の地図の最初に号外として掲げる「卍天授院」である。この庭前に立った箒庵は、「目を東方に放てば(実際は南方で、天授庵とする誤記もある)、桃山遺構の前面には洋洋として紺碧の地水を湛え、谷を隔つる磯山には三重の髙塔兀立して三溪全園の中心標的となり、宛然雪舟筆山水図を目前に見るが如きは真に海内無比の勝地たるに背かず、更に此丘上よりダラダラ下りに山径を伝い行けば、泉石の結構布置、悉く園主の苦心惨憺を語りて感興盡る所を知らなかった。…」と述べ、眼前に拡がる自然の「山水画」と泉石を特筆して、三溪園の庭の姿を称賛する。

 第九席が聴秋閣で催主は根津青山(嘉一郎、1860~1940年、政治家、産業投資家で東武鉄道等を経営する<鉄道王>と呼ばれた。現大師会会長の祖父)、第十席が聴秋閣の脇を上った所にあった神代茶屋で催主は仰木魯堂(1863~1941年、数寄屋造りで知られる建築家)と伊丹秀水。

 第十一席は聴秋閣の下にあった山吹の茶屋で、催主は三溪である。ここで「…支那蕎麦店を開かれたのは大受けであったが、汁はなくて薬味だけ…」(これが<三溪そば>)と箒庵は記す。

 第十二席が春草廬の位置にあった蓮華院で、催主は森川如春(1887~1980年)である。如春は36歳と若く、三溪の{親友}(幻庵の表現)にして、愛知県一宮の茶人・美術品収集家であり、「…その状貌もまた大兵肥満にして、蕎麦の十杯や十五杯を平ぐるの敢えて不思議はなささうなる男なり」(幻庵)と記し、また「床の間に西行法師の詠草を掛け、光悦作赤楽乙御前茶碗…道具組は如春一代の傑作と謂ふべく、而して斯く言はるべく予期した如春の鼻は、向山の三重の塔をも凌ぐばかりであった」(箒庵)とある。

 ここから幻庵は「…三溪が園林の半ばを開放して、社会公衆の遊園に充つる丘陵(いまの外苑)」に向かう。第十三席が寒月庵で催主は吉田梅露(茶道具商、東京美術倶楽部社長)、第十四席が寒月庵広間で催主は梅澤松庵(古美術商)、第十五席が横笛庵(催主は第十席とおなじ仰木魯堂、伊丹秀水)、第十六席が合掌造りあたりにあった田舎家である。一方、箒庵は別ルートを取り、昼食後「…桃山遺構(いまの臨春閣)谷を隔てて相対する磯山に攀じ登り、最後の十七席となっている松風閣より逆に観覧…」したと記す。

 第十七席の松風閣について幻庵は「…此処は三溪旧住居、高爽奪塵の境にして満松参差の中にあり、…いながらにして湘山湘水は双眸の裡に集まり…景勝まことに称すべし」と称え、会記から茶碗・水注・火箸等21点を引用、「…あいにく之れが品質を試むるの眼識なきを奈何せむ」と嘆き、展観席の硯・筆・机、竹田筆の松溪聴泉の図等にも触れるが、中央アジア発掘の陶器を含む品々を漏らさず挙げることに専念する。

 十八席を一巡するだけでも数時間を要する広い庭園に展開される茶会。展観室の三溪愛蔵品の数々、鈍翁ほかが催主をつとめる個々の席の由来、掛軸、香合・釜・火箸、炉辺の水指・茶碗、菓子・菓子器等々を、幻庵は記述しつつ、「…三溪が趣味嗜好の多岐様に渉れるを知り…」と述べ、箒庵も「…これを細評するの勇気がでない」と、いささか諦め気味である。

 箒庵は末尾で「…本来大師会は一部茶人間の遊戯でなく好古家・歴史家・工芸家等に対して研究上無限の便益を与え…、今度の如く規模雄大になっては…世界各国に檄を飛ばし…本会の事業を世界的にすべし…それが実現するようならば園主には迷惑ながら今一回三溪園を拝借したい」とするが、この提案は現在まで日の目を見ていない。そして「…古建築物を保存して折々に之を公共用に供し、…奮って之を提供せられた其盛意に対しては、大師会会員のみならず国家もまた相当の敬意を払って然るべき…」と結ぶ。

 この茶会から約半年後の9月1日、関東大震災が発生。横浜全域が壊滅的打撃を受けた。三溪園は煉瓦造の松風閣が崩壊したものの、幸いに甚大な被害は免れる。三溪は横浜市復興会、横浜貿易復興会等の会長を務め、すべてを横浜の震災復興に捧げた。

 三溪自身が開いた茶会(大正6~昭和14年)についての記録「一槌庵茶会記」を分析した川幡参事「三溪主催茶会について」によれば、23年間にわたる計71回の茶会のうち、蓮華院や春草廬を主に一席だけの使用が多いという。

 川幡参事は「一槌庵茶会記」を3期に分けて分析、初期には鈍翁が10回中9回出席と筆頭、最晩年まで含めると合計14回にのぼる。昭和に入ると小田原住まいの鈍翁の健康を気づかい、三溪は箱根強羅の白雲堂で開いている。中期からは小林古径、速水御舟、前田青邨ほか院展系の若い画家や和辻哲郎、夏目漱石、阿部次郎、安倍能成たちが登場する。

 後期には、昭和10(1935)年6月、三溪より7歳若い松永安左エ門(耳庵、1875~1971年、当時東邦電力社長)が初めて顔を出し、以来、17回を重ねた。耳庵は鈍翁・三溪と並び、近代三茶人と称される。昭和10年11月28日、三溪園の茶会に招かれた耳庵は、銀杏の落葉の黄色い絨毯、各所に置かれた礎石、伽藍石、手洗石、石棺等に触れ、その「造庭術には一驚の他なく…」と感嘆、「…庵室の前の伽藍石、三溪先生、是れが道楽の端緒…」と述べた(「三溪園茶会記」(『茶道三年』(1938年、飯泉甚兵衛刊行)と書き残している。

 昭和11(1936)年8月6日、三溪の長男善一郎が45歳で急逝。「…善一郎突然他界す。十五日月華殿にて浄土飯の茶会を催す」と「一搥庵茶会記」は淡々と記すが、この種の理由を付すのは全編を通じてこの一つのみである。悲しみは、いかばかりであったか。

 8月15日、朝5時から寒月庵と金毛窟で善一郎の追善供養茶会が行われ、それは16日、18日、19日、22日、9月1日、4日と7日間にわたり続けられた。8月18日は朝5時に88歳の鈍翁と61歳の耳庵が駆けつけている。

 昭和14(1939)年4月14日、71歳の三溪は臨春閣広間で南京料理会食の茶会を開く。招待されたのが耳庵のほか、小林古径、安田靫彦、前田青邨らの日本画家や中村富次郎(好古堂)など古道具商たち11名。これが最後の茶会となった。その4カ月後の8月16日、三溪永眠。耳庵や画家たちへ最後の願いを託したとも読みとれる。

 そして戦後、大師会茶会は三溪園、畠山記念館、護国寺と会場を移しながら、昭和49(1974)年、根津美術館に引き継がれ、現在は公益財団法人大師会により毎春に開催されている(公益財団法人大師会ホームページ)。

 今年は三溪生誕150年、没後79年にあたり、三溪園では種々の記念行事を行っている。10月23日(火曜日)、公益財団法人大師会(根津公一会長)主催の「原三溪八十回忌追善茶会」が催された。その案内状に、大略つぎのようにある。

 …本年は当会にとって大恩人である原三溪翁の八十回忌にあたります。明治29年より益田鈍翁が始めた大師会を、原三溪翁が二代目会長として引継ぎ、財団法人組織として大正12年に初めて三溪園で大師会が開催されました。園内十七席を使用し二日間で六百人が出席した大盛況となりました。三溪園での大師会は昭和48年を最後に根津美術館に移りました。
この度、原三溪翁の遺徳を忍び久しぶりに三溪園にて大師会主催の「原三溪八十回忌追善茶会」を開催する運びとなりました。…

 法要は臨春閣(重要文化財)住之江間において10時より、真言宗豊山派僧侶により執り行われた。施主は大師会会長(根津美術館館長)の根津公一夫妻、原家当主信造夫妻、岡崎輝和夫妻、三溪園保勝会理事長・園長である。根津会長が挨拶に立ち、財団法人化という鈍翁の英断がなかったなら大師会は途絶えていたかもしれないと述懐された。

 臨春閣では、公益財団法人五島美術館が琴棋書画の間で展観「原三溪ゆかりの品々」をそろえ、とくに「鈍翁の一日」という巻物が鈍翁への想いをよく伝えていた。天楽の間には濃茶席を置いた。

 月華殿(重要文化財、大正7年に移築)と金毛窟(三溪構想の一畳台目の茶室)は、東京世話人瀬津勲氏の濃茶席で、月華殿には「断渓妙用墨跡 送別の偈」、金毛窟には「源実朝筆 日課観音」の軸が掛けられた。天授院では、やさしく微笑む阿弥陀如来坐像(平安時代)を開帳した。

 白雲邸(三溪の元隠居所、横浜市指定有形文化財)には点心席を設け、隣花苑製の折詰、三溪考案の三溪そば、善一郎ゆかりの浄土飯(蓮の実入りの汁飯)、清酒をふるまった。

 122年前の大師会創設、101年前に始まる三溪の一槌庵茶会、95年前の三溪園大師会茶会、80年前の三溪逝去、そして戦後の三溪園。数多の思いを偲ぶ原三溪八十回忌追善茶会であった。


附図【三溪園平面図 大正十二年大師会茶会】
三渓園平面図



IUC学生の三溪園印象記(2018年)

 去る10月1日(月曜)、台風24号が襲来した日の午後、IUC(アメリカ・カナダ大学連合日本研究センター)の学生が三溪園を訪れた。このことについては、本ブログの2018年10月4日号に「台風一過のIUC学生来園」で述べた。

 その時の私の歓迎挨拶のなかで、昨年の学生たちの印象記に触れて、本ブログ2017年10月24日「学生たちの三溪園印象記」に掲載したと伝え、「今回も印象記を期待しています」と希望を表明した。

 印象記を書いてくれる学生がいるか、いささか不安でいたところ、IUCの橋本佳子さんから「2018年10月1日 校外学習作文(三渓園、八聖殿)」14編が送られてきた。学生たちは、まず近くの八聖殿へ寄ってから三溪園に来るコースを取ったため、標題がそうなっている。以下にそのまま掲載する。学生たちの率直な印象がういういしい。



2018年10月1日 校外学習作文(三渓園、八聖殿)

★レーセン ハナ
 10月1日月曜日に三渓園で郊外学習をさせていただいた。三渓園を歩き回りながら、日本の美意識を見ることだけでなく、体験ができて素晴らしかった。
 三渓園は非常に和風の庭園だが、外国人によく「和風の庭園」として認められている枯山水とは違う。三渓園は極めて広く、一つの小さな世界に見える。そして、水はどこでもある。森の道のように曲がっている石の道を歩きながら、三渓園の様々な特徴についてガイドさんに教えていただいた。
 実はその石で作られた道を見ると、自分のギリシャの家の大きい庭にある石の道を思い出した。その道については、他の人に何回も「どうしてまっすぐにしませんか」と聞かれた。その理由は説明しにくいが、なぜか確かに、曲がっている道の方が美しい。三渓園はそう考えていた人によって作られたと思う。そして、自然にまかせた完璧でないもののように見えるかもしれないが、実際は非常に細かくデザインされていると思う。
 三渓園には建物(茶室や別荘など)が多くあったが、その建物も自然の一部になりうると思った。なぜかというと、建物は自然も考えて作られているからである。家の中に座っても、外の庭と庭の外にある山などが楽しめる。そのため、前にも書いたように、三渓園の中にいるとすっかり小さな世界に入った気がする。大変歴史的な所だが、自然はたえず変化し、新しく生まれ代わっているので、いつも新しく感じられる。各季節がそれぞれにきれいであるはずだと思うので、次回は紅葉の頃に行きたいと思う。


★ソー ウネ
 三渓園は歴史と自然が調和している公園だと思う。三渓園を作った原三渓氏は非常に多才であるのみならず、美に関する造詣も深い。公園のどこに立っても人工と自然の調和した景色が見られ、更に季節の変わりに伴い、楽しめる風景も違うそうだ。その上、屋内の装飾も自然に完璧に合い、部屋と自然の境界がまるでぼやけているように、内外が一体になるように作られている。臨春閣や聴秋閣を訪れると、三渓氏が至上の景色を眺めながら、風雅な歌を詠む場面が思い浮かぶ。秋が深まる頃、紅葉狩りに再び三渓園を訪ねたい。三渓園の新たな一面との出会いを楽しみにしている。


★アーロン スティール
 10月1日の三渓園のツアーに参加させてくださってありがとうございます。非常にいい勉強になりました。横浜で日本の伝統文化や様々な時代の伝統建築を体験させていただき、心より感謝いたします。ボランティアのツアーガイド、吉野さんも歴史や建物の情報を詳しく説明してくださって嬉しかったです。素敵な経験で、秋にも冬にもまた三渓園の美しい景色を見に行きたいと思います。
 三渓記念館の展示も興味深く、三渓が書いた漢字や展示された絵を見て、いつかそのような美しい字を書けたらいいと思いました。天井にあるステンドグラスの模様がきれいで、花のようなデザインを今でも覚えています。最も思い出に残るところといえば、春草盧です。なぜかというと、江戸時代の建築が好きで、屋根や黄色の壁が魅力的だったからです。聴秋閣と二条城の物語が面白く、秋の聴秋閣から必ず紅葉が楽しめるものと思いますので、秋が深まりましたらまた行きたいと思っています。
今回の三渓園のツアーに対し、重ねて心よりお礼を申し上げます。150年の歴史と三渓園の魅力がわかりましたが、次回は、外苑をゆっくり散歩したいと思います。


★エバン ターキントン
 台風24号が通り過ぎた次の日に、台風による被害にもかかわらず、三渓園の方々に暖かく受け入れていただきました。三渓記念館、内苑を案内していただき、原三渓が自分の手によって残した芸術品、それから彼の感性が生みだした庭園を見学することができました。初めて原三渓のことを知りましたが、趣味や才能の豊かさに驚きました。生糸貿易の実業家であり、美術や文学、日本の伝統文化に通暁した人です。英語で言うと、「Renaissance Man」にあたる人でしょう。
季節を満喫できるように設計された庭園に、また紅葉の時に行ってみたいと思います。


★サンピアス ウェスリー
 十月一日、私は三渓園に行った。前の日、台風が横浜に上陸したので、三渓園に行けるかどうかわからなかったが、台風が通り過ぎたので、行くことができた。行く前には雨が降るか風が強いかと心配したが、天気は非常によかった。風は強くなく、雨は降らなかった。天気が良かったので、三渓園はさらにきれいになった。
 三渓園にある建物は非常にきれいだと思う。一番面白かったのは扉に仏教の天国にいる人間が描かれた建物だ。体と頭は人間だが、脚は鳥の脚ので、人間とは言えないかもしれないが、非常に面白かった。どこかで見たようなきがするが、覚えていないので、あとで思い出そうと思う。他のお寺に行く時、このような描写を探すことにする。
 池の周りはきれいだったが、自然のもののほうがきれいだと思う。なぜなら、森のほうが本当の自然みたいで魅力的だからだ。池と池の周りは人間が作ったものだとすぐ分かる。それは残念だが、池と少し離れると、多くの木が生え、土地の上に苔が生えている。多くの木がある所は非常にきれいだ。三渓園は多くの木がある所もあるので、嬉しかった。
 私は三渓園が好きになった。またいつか行きたいと思うが、行くのが多少不便なので、いつ行けるか分からない。


★マット ミックレラン
 10月1日に学校の遠足で三渓園に行ってきた。最初のスケジュールには午前中に園内の見学をすると書いてあった。しかし9月30日に台風が上陸し、5本の木が倒れたそうだ。私達の安全のために午前中スタッフは倒れた木を処分したので、午後に変更されました。心遣いに感謝している。
 ボランティアの案内のかたは三溪園の歴史を詳しくご存じで、たくさんの興味深いことを教えてくれた。しかしガイドさんの声は小さかったので、微力な日本語能力である私は時々聞き取ることができなかった。
 私は二年間神戸に住んでいたので、たまに京都を観光した。横浜から京都は遠いので、京都の雰囲気を味わいしたい人には三溪園をおすすめする。私は景色を眺めたら京都に戻ったような気がした。公園は広いので、ゆっくり散歩することもできる。是非また行こうと思っている。


★チェン ジャン
 月曜日、IUCの学生と一緒に三渓園に行った。台風の直後、気温が急に高くなって、秋らしくはなかった。茶人である原富太郎によって明治期に作られた三渓園はとても綺麗な庭園であり、現在も人気の結婚式場所になったそうである。結婚記念写真を撮影していた新婚夫婦もいた。
 非常に豪華な着物を着ている花嫁はとても美しかったが、暑かったのではないかと思う。三渓園の一番面白い特徴は、茶室が多いということである。そして、建てられた茶室はほとんど他のところから三渓園に移築されたため、歴史的に非常に重要な茶室である。その上、三渓園の建物の内部が多くの美術品で飾られていたとガイドさんが説明してくれた。原富太郎が狩野探幽や海北友松など有名な絵師の作品を収蔵していたということが分かり、とても勉強になった。


★ビクトリア デービス
 IUCの宿題や勉強が多くなればなるほど、観光する時間が少なくなるので、今週の月曜日皆さんと一緒に八聖殿と三渓園に行くことができ、良かったです。とても独特な博物館で、八聖殿の館員の方は勾玉や漁業者が持っていた道具のような有形文化財だけではなく、祭りの振り付けのような無形文化財も説明してくださったので、珍しい経験だと思います。横浜市がどのように都市化してきたかも学んだから、面白かったです。
 三渓園は同じように文化財として高く評価されている所で、自然と建築の両方が綺麗でした。近くに立っていましたが、案内してくださったボランティアさんの声が聞こえなかったこともありましたが、英訳のプリントをいただいたので、知らなかった単語と聞こえなかった説明も簡単に理解できました。全体として、八聖殿と三渓園に行ってみる機会をいただいて、とてもありがたかったと思います。


★イアン ハッチクロフト
 先週の月曜日、八聖殿と三渓園を尋ねた。横浜に引っ越す前に、旅行ガイドブックで三渓園の写真を見たことがあったから、遠足のことを楽しみにしていた。八聖殿のことは詳しく分からなかったから、遠足の前に少しインターネットで少し調べた。当日の天気はよかったですが、前夜の台風のせいで、風が強かった。最初に、皆さんが桜木町駅前で集まった。そこで、八聖殿へ行くバスに乗った。
 八聖殿で、ネックレスを作った。そして、蚕と絹の貿易について習った。八聖殿では、像が八つある。聖徳太子、弘法大師、親鸞、日蓮、釈迦牟尼、孔子、ソクラテス、そしてイエスキリストの像が建てられていた。西洋と東洋の影響を経験できた。凄かったが、違和感を感じた。
 昼ご飯を食べてから、三渓園に行った。枯山水が好きですから、三渓園でいろいろ勉強になった。案内者が建築を詳しく説明してくれたり、サギと蓮をたくさん見たり、散歩したりしたから、嬉しかった。残念ながら、案内者の説明が全然分からなかった。専門的な言葉が分かるように、これから日本語を頑張ろうと思っている。総じて、普通の授業より楽しい経験ができた。皆さまに感謝を申し上げる。


★チョウ モウシ
 三渓園は思ったより大きくて自然が豊かです。園内で和服を着ているカップルはその美しい景色を背景に写真を撮らせてもらいました。季節によって違った景色を楽しむことができると思いましたが、残念ながら、今回、蓮は枯れて、紅葉はまだ見られませんでした。それでも、のんびりした時間が流れました。
 三渓園に国の重要文化財に指定されている建物が多いです。その中で京都や鎌倉などから横浜に移されたのがあります。たとえば、聴秋閣は京都で、臨春閣は和歌山県で建てられましたので、2つが同じ場所で見られるはずがありませんでした。しかし、今、聴秋閣から歩いて3分で臨春閣に着けます。空間だけではなく、時間も越えられます。聴秋閣は徳川家光によって建てられて、臨春閣は家光の甥徳川吉宗の子供の頃の遊ぶ場所です。散歩しながら徳川幕府の歴史を整理することもできます。
 横浜を出なくても歴史的価値が高い建物が見られることは便利ですが、古い建物を本来のコンテクストから離れて移築することはいいかどうかわかりません。聴秋閣は二条城の一部分として京都のほかの建物と立ち並んでいるはずだったが、お金をもっている三渓の集めるもののひとつになって自分の庭園に置いてありました。
 もちろん、元来の歴史的なつながりが壊れたと同時に、新しいのが作られてきました。以前、聴秋閣は幕府の場所なので、庶民は入れませんでした。今、それが横浜市民に限らず普通の人も近距離で見られます。日常生活の場所が観光地になってきます。年代や地域や状況によって、物の価値が変わります。


★ファトゥマ ムハメッド
 今週の月曜日、横浜の歴史について学びたいために八聖殿と三渓園に行った。(中略)
三渓園で働いている人たちが私たちのために台風で手折られた枝と木々を綺麗にしてくれて、感動した。織田信長の兄弟のために作られた茶室や京都から運ばれた門を見ることができてうれしかった。綺麗な庭の写真をたくさん撮った。歴史の教科書に描がかれている絵を見るより、昔の時代の建物、庭、茶室などを見ることの方が素晴らしい経験であった。


★メーガン マッカーシー
 10月1日にアメリカ・カナダ大学連合日本研究センターの人と一緒に校外学習をした。(中略) 八聖殿(はっせいでん)の勾玉体験をした後、三渓園に移動した。思ったより近かった。入ったら、ボランティアガイドと待ち合わせてツアーが始まった。晴れた日に行けて良かったと思う。ガイドさんが面白い話をしてくれて、特に遠いところから持ってきた建物や墓の話が非常に面白かった。特に墓のことについて、三渓園に運んできた時、中に入っていた体はもうなくなっていた。誰の墓か分からなかったそうだった。ちょっと変なことだと思った。
 ツアーが終わった後、学生3人とガイドさんにちょっと公園を案内していただいた。その時、三渓園の合掌作りの民家も見た。白川郷の方から運んできたことがすごいと思っている。聞くのを忘れたが、どうやって横浜まで来たのかを聞きたかった。そのままで運ばれてきたのか、それとも分解して建て直したのか。


★リリアン ハート
 先週の月曜日は初めての三溪園に行く体験だったが、横浜に引っ越してから携帯の地図に「行きたいところ」と保存していた。歴史が分からずに、行きたい気持ちだけ持っていた。(中略)
 三溪園に行った時に、大学で受けた日本の映画の授業を思い出した。違う地域だが、そういう風な茶屋は映画や博物館で建てられたモデルしか見たことなくて、千利休のことを考えた。授業で利休という映画を見て、京都の話だったが、茶屋を想像すると三溪園のような家を考える。案内してくださった人が「横浜はお金がなかった地域」と強調したが、お金がなかったら、どうやってこういう綺麗な建築デザインを作れたのだろう。
 案内してくださった人たちはすごく優しかったが、まだ私は使われている単語が全部分からなくて、残念だと思った。日本の歴史、特に横浜や関東の歴史をもう一回復習して、もっと学びたいと思う。博物館に行く前やこういう風な説明をしてもらう前に、自分でちゃんと読んだり、単語を復習したりしたいと思う。


★カサリン ジョプリン
 十月一日に私たちは八聖殿と三渓園を見に行った。前の夜の台風で、天気が晴れで少し蒸し暑かったが、非常に綺麗だった。 (中略)
 八聖殿を出た後で、三溪園を散歩しに行った。1906年に三渓園は原三溪というビジネスマンによって作られた。公園が広いし、美しいし、そして静かな場所なので、私たちは歩く時非常に平和を感じた。その他、三渓園の最も興味深い特徴は、多くの歴史的な建物があることだ。原三溪は歴史が大好きで、秀吉大名と茶道を特に評価していそうだった。その結果、三渓園には集められた日本全国の塔、茶室、その他の歴史的な建物が多い。
 三渓園を出る時、ミケの猫にびっくりさせられた。ツアー中に私は気づいていなかったが、多くの猫が三渓園の葦や林に住んでいるようだ。これらの猫はおそらくネズミの個体数を減らすのに役に立つだろう。
 全体として、横浜の歴史について習ったのが楽しかった。さらに、クラス外で日本の伝統や文化を静かに楽しむ機会に感謝している。教科書や講義から日本語を学ぶことは大事だが、時々私はドアの外で日本を楽しむことを忘れてしまう。センターで日本語を勉強するのに忙しいけれども、将来私はまた日本を探検したり、歴史的なスポットを尋ねたりする時間を見つけられることを希望する。

プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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