佐藤行通ジー逝去

 佐藤行通上人(俗名は弘)が白寿を迎え、お会いしたいと思っていた矢先、今年の3月1日、肺炎で亡くなられた。1918(大正7)年12月5日、秋田県生まれ、99歳と3か月。

 我々は佐藤上人(しょうにん)と呼ぶ代わりに、尊敬と愛情を込めて佐藤ジーないし、ただジーと呼んでいた。ジーはインド語(ヒンディー語)で、男性につける尊称であり、「爺」の意味ではない。

 すぐに梶村慎吾とニューヨーク在住の山崎友宏へメールを送った。後述の通り、56年前(1962年)、「広島アウシュビッツ平和行進」で33カ国を巡った仲間である。
 「慎吾兄 友宏兄
佐藤ジーとお会いしたかったですね。ただただナムミョウ~ホ~レンゲキョ~。良い季節に西方浄土へ旅立たれたと考えましょう。…」

 ナムミョウ~ホ~レンゲキョ~とは南無妙法蓮華経。ジーの属していた日本山妙法寺で私の耳に深く刻まれ、折々に信者ではない私の口をついて出てくる。

 ジーは陸軍航空士官学校を首席で卒業、訓練中に目に被災してパイロットの道を断念、陸軍航空通信学校に入り、のち東北帝国大学で学ぶ。1945年8月の終戦時に27歳、「降伏文書」の調印(9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号)を阻止せんと画策したが、失敗。茫然自失の日々のなか、藤井日達上人に出会い、出家したと言われる。

 日本山妙法寺の創設者・藤井日達上人(1885~1985年)は、にこにこと泰然自若。なお最近の新聞で旧知の山折哲雄さん(宗教学)の記事「…日蓮宗左派過激派のリーダー、藤井日達上人…は昭和6(1931)年、単身でインドに渡り、題目を唱える伝道をはじめて、ついにガンジーとの会見にこぎつけた破天荒の荒僧だった。近代の日本宗教史の上では、まさに異端中の異端児で…」(山折哲雄「私の履歴書」㉕(日本経済新聞2018年3月25日)を感慨深く読んだ。

 藤井上人やジーと初めてお会いしたのは1960年。安保反対闘争、原水禁運動、平和運動に邁進、カーキ色の法衣を纏い、団扇太鼓を叩きながら街頭行進する雄姿があった。

 そこで知り合った林達聲上人、渋谷保教上人、菊池行広庵主ほか、多様な背景・前歴を持つ僧尼たちの、大学や学者の世界にはない考え方や感性に触れたことも、私のかけがえのない財産となっている。

 安保闘争の敗北の中から「広島アウシュビッツ平和行進」が組織された。藤井上人の計らいにより、連絡事務局とした東京九段の日本山妙法寺に友人・知人が詰めて、連絡や広報活動に当たった。

 掲げたスローガンは、「広島は核戦争を阻止するための象徴であり、アウシュビッツは戦争による非人道的行為をくり返さないための象徴である。広島とアウシュビッツは平和への道標である。No more Hiroshima, never again Auschwitz」。

 アウシュビッツをめざす平和行進の団長がジーで、出発時(1962年)に44歳。他のメンバーは年齢順に、私(特定の宗教を持たない)が26歳、山崎友宏(カトリック)が24歳、梶村慎吾(プロテスタント)が23歳であった。終戦時は小学生と未就学児で、ジーとは親子ほどの年齢差である。この四人組は、父親と三人のドラ息子のような関係でもあったが、よく「三蔵法師と三匹の従者」に譬えられた。

 1962年2月6日に広島を出発、上掲のスローガンを掲げて、アジア・東欧を行進、翌1963年、1月27日のアウシュビッツ解放記念日に収容所跡地に到着した。その後、西ヨーロッパまで足を伸ばし、ソ連・中国、計33ヵ国を経て帰国したのは、16ヵ月後の1963年6月である。準備過程から出発、帰国までの約3年間、我々四人は文字通り寝食と苦楽を共にした。

 歴訪中、会計担当は山崎、写真撮影は梶村、記録をとり記事を書くのは主に私で、電送手段がなく、各地で印画した写真と記事を航空便で送り、これが連絡事務局経由で新聞社等に配信、掲載された。
帰国後、この体験の一部を加藤祐三・梶村慎吾『広島・アウシュビッツ-平和行進青年の記録』(弘文堂 フロンティアブックス 1965年)として公刊した。

 4月18日(水曜)、茨城県鉾田市のジーの庵で行われる四十九日の法要に梶村と共に参列した。あいにくの冷たい雨の中、最寄りの駅まで佐藤昭子庵主が迎えにきて下さり、到着すると、なんと酒迎(しゅげい)天信上人がおられる。あの56年前、インドの日本山妙法寺の仏舎利塔のある王舎城(ラージギール)でお会いし、コルコト(カルカッタ)を経て南インドへ向かう平和行進を共にした。

 祭壇中央の仏像のもとに「白寿 藤井日達 昭和59年」と記したジーの師の色紙と写真、立派な目鼻立ちのジーの遺影と位牌、そして酒迎上人の筆になる「佐藤行通院日弘上人位」の文字。

 法要は、酒迎上人と昭子庵主が執り行った。上人は別府道場(寺)を守りつつ全国を飛び回る、矍鑠たる92歳。この日も慌ただしく一人で札幌へ向かわれた。 

 庵主と梶村の三人で、ジーの社会的功績や人間的魅力を語り合った。奇しくも藤井上人と同じ数え百歳で逝ったジーの人生には、目ざす理想と揺るぎない信念があった。

 30余年にわたりジーと生活を共にし、最後を看取られた庵主の言葉が心に残る。「…慌ただしく旅立たれ、海外に出かけるときも同じでしたから、いまにも帰ってくるような気がします。…」
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タケの開花(その5)

 今年も三溪園のオロシマササが咲いた。4月4日の朝、驚きの朗報が庭園担当の羽田雄一郎主事から入る。

 今春の陽気は例年と異なるようだ。ソメイヨシノの開花と満開が例年より10日も早く、3月下旬には散ってしまった。4月4日には最高気温26℃と夏日を記録する一方、北海道では雪が降った。異常気象が三溪園の植物にも影響するだろうとは思っていたが、それが「タケの開花」とは。もとより、これが異常気象のせいとは言い切れないが。

 確認のため本ブログの昨年分を調べる。三溪園のオロシマササとタイミンチクの開花の第一報は5月5日、坂智広(ばん ともひろ、横浜市立大学木原生物学研究所教授)さんから来た。つづけて彼の5月14日、18日付けメールには花が大幅に増えたとあり、25日には岡山から駆け付けた村松幹夫岡山大学名誉教授、木原生物学研究所の木原ゆり子さん、坂さんとともに花を観た。村松さんは日本育種学会(3月29日)で坂さんに「タケの花」の不思議を語った方で、坂さんの旧木原生物学研究所(京都時代)の大先輩である。

 6月1日掲載のブログ「タケの開花」(その2)」に、坂さんの観察記録を引用した。
「…タイミンチクの花は、すっと伸びた花穂の先端に雌しべが包まれ、それを取り囲むように雄しべ(その葯は数ミリ)3個が垂れ下がっている。開花は、同じ株の各所に、そして他の株へと確実に拡がっていたが、村松さんによれば、これが<一斉開花>の前兆なのか、それとも<部分開花>なのかを確定するには、さらに2~3週間の観察を待つ必要があるとのことである。…タケの開花は60年、90年、120年と長い周期で1度だけ起きるとされるが事例報告は多くなく、周期の年限をめぐっても確実なデータはごく少なく…現象を的確に観察して記録に残すことが重要である。」

 ついで6月8日掲載のブログ(その3)では「一斉開花」と「部分開花」の区別、タケ(学術用語でbamboo表記)とササ(学術用語でsasaと表記)の区別等に触れ、23日のブログ(その4)では長い周期で1回咲き、開花後は死滅するか否かの議論等を紹介した。

 この開花は、5月31日の毎日新聞、6月3日の朝日新聞、7日の神奈川新聞、そしてテレビでも取り上げられ、話題となった。

 そして今春、ふたたびの開花。しかも一ヵ月も早い。すぐにメールで坂さんに現場観察を依頼する。さっそく4月5日の昼、坂さんが状況を知らせてくれた。管理事務所前のオロシマササについては、「数カ所で部分的に稈が伸びて出穂開花…、また垣根の後ろには昨年よりも数は少ないが、昨年同様に地下茎で伸びた新枝が地面か出ており、10cmくらいの高さで穂をつけて開花…」
また三重塔のある丘の上のタイミンチクは、「昨年開花していた多くの株の付近で、10箇所ほど出穂開花を認め、…今日出穂開花を認めた稈も、古い稈の節から分枝して出穂しているものか、地下茎をたどった先端で新梢として株立ちしているものが出穂している状況です。イメージとしては、オロシマササと同じように、昨年の咲き残りの稈が出穂開花している状況…」とある。

 4月9日、現場で坂さんから花の生育段階や開花の場所、花を持つ部位等の説明を聞く。花は若緑色の鞘に黄色い3つの雄しべを付け、ひっそりと咲いていた。先折れした2年目の稈の直下の節や、地下茎の先端から地面に顔を出した新梢に穂がついているのも見た。

 この貴重な情報を分かち合いたい。まず三溪園のホームページで羽田さんが公表することにする。翌10日号の「三溪園だより」欄に「今年も咲きました」の標題で、2枚の可憐な花の写真と解説文が載った。

 「昨年の5~6月頃、約90年ぶりの開花といわれる話題で沸いた三溪園の竹の花が今年も開花しました。2月上旬ころから開花し始め、3月下旬ころより花数が増えてきました。画像1枚目がタイミンチクの花、2枚目がオロシマササの花です。4月9日17時頃撮影」。

 11日には坂さんから「三溪園の竹の花 観察記録(1)」と題する論考が届いた。その一部を引用する。「…イネ科タケ亜科メダケ属(Pleioblastus)に分類される、オロシマチクとタイミンチクが、どれくらいの開花周期で、開花後にどうなるのか?は全く分かっていません。これまでにしっかり観察した人が、世界のどこにもいないからです。…三渓園の歴史とともに謎をとく、科学的に大変貴重なフィールド実験です。…植物が花をつけるのは、一生のうちで最も大きなイベントです。…初めは見つけるのが難しいかもしれません。…雄しべの数が何本なのか?雌しべがどんな形なのか?花粉はどうやって飛んでいくのか?などなど、みなさんも新しい凄い発見を楽しんでください」。

 この坂さんの論考の要約を付して、「今年も咲いた“竹の花”」と題する記者発表資料を作成し、12日午後、吉川利一事業課長名で公表した。これから新聞・テレビ等の報道がつづくと見られる。

 生涯に一度、出会えるかどうかというタケの花を見に来園する方が、今年はさらに増えるのではないか。

 本ブログでも適宜、この稀有な花の推移を追っていきたい。

新刊書の紹介

 ずっしりと重い本が届いた。陳雲蓮『近代上海の都市形成史-国際競争下の租界開発』(風響社 2018年)である。帯に「世界有数の港湾都市はいかにして生まれたのか。東アジア開港場の一つとして出発した上海は、列強の租界を包含しながら都市インフラ、そして港湾を建設していく。政治経済のうねりと生活空間形成の変転を見つめた建築史の新たな挑戦」とある。

 建築史の研究者が、「政治経済のうねりと生活空間形成の変転を見つめた建築史の新たな挑戦」とあるのに目が行く。建築史が個々の建造物やデザイン等の研究に傾くなか、本書はいささか違うようだ。

 本書のいう「生活空間」は、個々の建造物、都市の区画、さらに都市全体を包含する。したがって巨大資本や国際政治・経済がからんでくるのは当然である。その解析には貿易のための港湾建設を軸として「政治経済のうねり」を掌握しなければならない。

 著者の陳さんとお会いして3年ほどになる。本ブログの「若き学友との対話」(2014年12月23日)に登場する。彼女が面識のない私に、知人二人を介して日本文のメールを送ってきた。「昨年、ケンブリッジ大学の図書館で先生のご著書を何度も拝読し、日本に帰ってから、ぜひ加藤先生にお会いしたいと思って…」。

 ケンブリッジ大学図書館を懐かしく思い出す。40年も前になるが、在外研究でリーズ市を生活拠点としたが、史料収集にはリーズ大学図書館や地域の文書館だけでは足りず、ケンブリッジ大、ロンドンの公文書館、ロンドン大学SOAS校等にたいへん世話になった。

 その成果の一つ、『思想』誌(岩波書店)に「黒船前後の世界」を連載(1983年7月~1984年7月の計8回)、その他の論考を含めて『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年、増補版ちくま学芸文庫 1994年)を刊行した。陳さんがケンブリッジ大学図書館地階の書庫で出会ったのが本書である。

 ブログ「若き学友との対話」では彼女を次のように紹介した。「都市地図を経年的に比較する図面や設計図を収集し、建造物や都市のハード面をよく知っている。建築家・建築事務所の細かい作業にも精通しており、内外の都市・建造物の調査経験も豊富にある。…加えて素晴らしい歴史的センスの持ち主で、漢文、英文、日本文(明治期の古い文体が主)の史料を発掘・収集する卓越した勘を持ち、それらを解読、論文に組み立てる。…ケンブリッジ大への留学で英語に磨きをかけ、トリリンガルの能力を生かし、史書の翻訳も始め、…それにとどまらず、文学を愛し茶道の修行中、ジョギングも欠かさない。…日本語で研究発表をして11年目、専門書『近代の上海−国際競争が作り上げた都市』(仮題)にまとめる草稿の一部を受信、<磨けば玉になる逸材>と直感した」と。

 それから3年余、上記の専門書の刊行に至った。岡山大学の専任講師(特任)の職も得た。冒頭のグラビアや本文中にある多数の古地図、巻末の論文初出一覧、あとがき、引用文献一覧、索引、写真・地図・図表一覧と、専門書らしい要件をすべて備えた354ページの大著である。この若さで、それも母語ではない日本語で、よくここまで書き上げたと感嘆を禁じ得ない。

 前掲のブログで「最近の日本の歴史学界では、批判を避けようとするためか、課題を小さく設定する傾向が強いように感じる。歴史学の場合、若い頃にこの悪習に染まると、後々まで大きなマイナスになると痛感していた矢先に、陳さんは驚くほど貪欲に高い目標を設定し、一次資料を渉猟、独自の見解を論文の草稿の形で提示…」と書いたが、その成果が本書に見事に結実している。

 目次は、序論、1部に4章、Ⅱ部に4章の計8章と終章の構成で各章に3~4つの節と小項目、これで全体の流れを明示しており、部と章のタイトルだけでも本書の核心が分かる。

 「序論 上海ー近代東アジア開港場の起点」では先行研究を総括して本書の課題、視点、構成等を示す。以下、2部8章と終論を付す。

 「Ⅰ部 上海の建設とインフラストラクチャーは、「1章 都市整備制度と土地章程」、「2章 旧来の水路と集落」、「3章 水路と街路の複層化」、「4章 国際的港湾の造成」の4章。ここでは国際政治と土地章程という法的枠組を前提として、圧倒的に豊富な収集史料に基づき、インフラ整備(主に水路と港湾)の過程を解明する。その分析と叙述の展開には確かな臨場感がある。

 「Ⅱ部 上海都市空間の形成と英日中」は、「5章 外国租界の都市空間と居住形態」、「6章 日本郵船による虹口港の建設」、「7章 日本の上海進出と都市開発」、「8章 北四川路の日本人住宅地と英日中」の4章。ここの主要テーマは、虹口港、日本人住宅地等の「都市空間」の形成とその特質の分析である。文献史料にとどまらず、現地調査や聞き取り調査の結果も活かされている。

 「終論 上海から東アジアへ」の2「研究展望:支配制度と生活空間の形成」において、今後の課題として3つを挙げ、「支配制度の移植」、「西洋人による生活空間の移植」、「近代の都市と建築の研究には中世・近世のそれとの接点を探る必要」を指摘し、今後の研究対象と手法を暗示している。

 カバーデザインも良い。図書館に入るとカバーは外されるのが一般的だが、本書のハードカバー部分は書庫など暗い所でも映えるに違いない。出版社の心遣いが感じられる。

  「あとがき」には、著者を支えてきた豊富な人脈(主に年長者)への謝辞が描かれている。これまでの恵まれた研究生活と同時に、就職に苦闘してきたことも読み取れる。後につづく多くの若手研究者にとって、彼女の歩みは一つの希望にも指針にもなるであろう。陳さんのさらなる<挑戦>を期待したい。

善四郎とペリー饗応の膳

 日米最初の公式会談は、164年前の1854年3月8日(嘉永七年二月十日)に開かれた。幕府全権は林大学頭(復斎)、アメリカ側はペリー米東インド艦隊司令長官、場所は横浜村駒形に建てた仮設の横浜応接所、現在の横浜関内の、神奈川県庁と日本大通り突き当り一帯である。

 応接所へとペリー一行を先導するのは与力の香山栄左衛門、つづいてマスケット銃を持つアメリカ兵400余名が上陸、うち50余名が屋内に入った。ペリーや将校はサーベルに短銃の正装で椅子に座り、幕府側は台座上に正座して脇差を左脇に置き、大刀は後ろに構える家来が捧げ持つ。

 挨拶の後、双方の首脳各5名が隣室に移り、茶菓が出て会談となった。森山栄之助とポートマンによるオランダ語を介した二重通訳である。林が大統領国書への回答を述べると、ペリーは、まず病死した艦隊員の埋葬を要請した。そこで林が、この件を当方で協議する間に食事を、と勧める(「饗応の膳」)。ペリーは「食事を共にするのは友情の証」と快諾、ここで緊張が一気にほぐれた。

 この日米和親条約締結(1854年)に至る歴史は、拙著『幕末外交と開国』(ちくま新書、2004年1月、のち講談社学術文庫 2012年)及び拙著『開国史話』(2004年3月~2005年7月まで神奈川新聞連載、同社より2008年刊)に述べた。いずれも日米和親条約締結150周年の2004年前後に書いたものだが、後者は日常の情景や人々の動き等にも可能な限り言及した。

 幕府は300人前の「饗応の膳」(これに予備の200人前)を用意した。応接所の配置図には「御賄所御料理所」(2間×10間)が描かれている。料理の担い手は誰か。私は前掲の『開国史話』で、「…幕府御用達の百川(ももかわ、日本橋浮世小路)とする説と、百川で修行し後に浦賀宮ノ下で開業した岩井屋とする説がある。…与力のメモに浦賀奉行所御用達の(岩井屋の)富五郎と善四郎に請け負わせたとあり…」と書いた。

 本稿から十数年を経た昨年、齊藤淳一さんという方からの手紙が版元の神奈川新聞社から転送されてきた。上掲の「富五郎と善四郎に請け負わせた」の史料の出典を問う内容である。お手紙にあるメールアドレスへ、東京大学史料編纂所編『幕末外国関係文書』(『大日本古文書』シリーズのうち)の附録之一の史料番号八「(「亜米利加応接掛町奉行支配組与力)浦賀御用日記」(605ページ末)とお伝えした(2017年9月27日)。

 これが齊藤さんとの交流の始まりで、以来、幾度かのメール交換の後、10月29日、「ペリー黒船艦隊への饗応料理と『八百善』との関り研究(その後)」と題する一文をいただいた。私の挙げた史料を横浜市中央図書館で確認し、八百善の関りを示唆する「証拠」を得た。この「善四郎」の3文字は、江戸にあった八百善六代目栗山善四郎を示すもので、現在の当主・十代目善四郎氏(66歳)と嗣家・雄太郎氏(40歳)は「謎」の163年間に終止符を打てたと大変に喜んでおられる、ともあった。

 年が替わって2月12日、齊藤さんから招待状が届いた。創業301周年を迎えた江戸料理の老舗『割烹家 八百善』で、40年に渡り当主であられた十代目善四郎さんの引退と長男・雄太郎さんの十一代目栗山善四郎襲名披露宴、及びペリー提督饗応の膳(再現)への招待である。

 八百善の歴史は、享保2(1717)年、浅草山谷での創業に始まる。八百屋から寺への料理の仕出し屋、そして料理屋と業態を拡げ、将軍のお成り(来店)を得る一方、大田南畝(蜀山人)、谷文晁、葛飾北斎ら文人墨客を魅き寄せ、その協力を得て、四代目は『江戸流行料理通』を出版(文政5年=1822年)する。

 明治維新(1868年)後は新政府の政治家をはじめ各界の名士が来店、『海舟語録』等にもよく出てくるという。八代目(1905年に襲名)は茶道と古器物鑑定にも力を入れた。その後、関東大震災(1923年)で壊滅的打撃を受け、幾度もの波を乗り越えて300年、今なお和食の伝統を堅持する唯一の割烹である。

 暖かな花曇りの3月19日(月曜)、神奈川県鎌倉市十二所33-2(明王院境内)にある八百善へ向かう。この店は5年目という。鶯の鳴く明王院(真言宗)境内を散策後、門をくぐり庭石を踏んで、茶室に似た木造二階建て(大正14年築)の入り口に至る。板戸が開いて十代目善四郎さんが迎えてくださった。

 十代目善四郎さんは大学で国文学を学び、随筆・日記類にも精通する読書家で、昨年『江戸料理大全』(誠文堂新光社、2017年1月)を刊行した。また八代目(祖父)の影響か陶磁器等の目利きでもある。八代目から聞いたことを鮮明に記憶され、運ばれる料理の特徴や盛付けの器の由来、所蔵の貴重な古記録の一部を惜しげもなく披露、これは襲名の儀式でもあった。

 十代目によると、ペリー饗応の膳にかかわった六代目善四郎はそのとき26歳、若すぎて荷が重かったのでは、と。

 客は10名、テーブルは3つ、私は神戸から来られた常連のご夫妻と同席となり、同じ開港都市の横浜と神戸の比較論等を楽しんだ。祝い膳は、鰤、蛤、鮭、鰆、浅利、白子(シラス)に旬の野菜をふんだんに使った二汁五菜に、丼と汁、最後に抹茶。なかでも「ぶた煮」という葛粉の団子を油で揚げて豚肉に見立てた普茶料理が、この店ならではのものだと言う。舌と目と耳を肥やし、香りと手触りを楽しむ、瞬く間の4時間であった。

 宴の半ばで齊藤さんが挨拶に来られた。メールでは当日は厨房に入るとあり、お会いするのは初めてである。訊くとアメリカの大学で長く化学を教えておられたが、諸般の事情から帰国、八百善の料理教室で学ぶうちに、料理にはまり込んだとのこと。

 宴の終わりに、六尺豊かな偉丈夫の十一代目が挨拶に立った。趣味のロックバンドはしばらくお預けとし、八百善301年の伝統を守り発展させることに全力を注ぎたいと、覚悟のほどを述べる。談笑のさいに料理人としての齊藤さんはと尋ねると、「いまや私の右腕」とほほ笑んだ。

 齊藤さんは、六代目善四郎やペリー饗応の膳に関して解くべき「謎」がまだあり、店に残る大福帳や幕閣・政商・料理屋の関係、顧客記録やペリー側の英文史料等を使い、仮説の検証を進めると言う。日米の文化体験と理系の緻密な論理・実証法に料理人の勘を駆使した謎解きを、心から期待している。

女性駐日大使ご一行の三溪園案内

 2018年3月2日(金曜)午後、女性駐日大使13名(アジア、大洋州、中南米、欧州、中東、アフリカ)が、林文子横浜市長招待の懇談後、三溪園まで足を運ばれた。前日の春の嵐も収まり、観梅会の最中、馥郁(ふくいく)たる香の中で、花も枝ぶりも楽しんでいただき、三溪園の魅力をお伝えしたいと準備した。

 歓迎の挨拶で、通常は260人ものボランティアが、ガイド、庭園管理、合掌造りの運営等に尽力しているが、今回は吉川利一事業課長と私がご案内したいと述べる。英語の通訳はエクシム・インターナショナルの清原美保子さん。

 正門を入ると間もなく、一斉に歓声が上がる。私はここを密かに<展望所>と呼んでおり、多くの人が最初に感動する場所である。左側に外苑、右側に内苑を見て、外苑の三重塔(英文版リーフレットの2)と内苑の鶴翔閣(リーフレット8)の2つのシンボル的な建造物を視野に入れ、それらと現在の立地点を結ぶ「三角測量」により、東西南北と地形の高低、これから歩く園路が谷底にあることを確認してもらう。
 三溪園のホームページ(http://www.sankeien.or.jp/)に同じ地図がある。

以下は女性大使一行にお伝えした概要である。

 谷と丘から成る地形は、谷戸(やと)と呼ばれる。横浜の地形の特徴であり、市内に約3000あったが埋立により激減した。左手の大池側が1906年に一般公開した「外苑」で今年が開園112年となる。右手の南面する斜面が「内苑」。右手の蓮池の先に見える茅葺屋根の建物が鶴翔閣で1902年落成、原三溪が住まいとした(時に34歳)。4年後の1906年に外苑を公開、ついで内苑を造営し、約20年の歳月をかけて三溪園を造りあげる。

 原三溪(1868~1939年)は、岐阜県佐波柳津(現岐阜市)の庄屋青木家の長男に生まれ(富太郎)、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、跡見学校(明治8年創立、現跡見学園)で教鞭を取るなかで、埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎(1827~1899年、開港横浜の第一世代)の孫娘・屋寿(やす)と出会い結婚(24歳)、原富太郎となる。この教え子とのロマンスに、一行から華やかな声が上がった。なお三溪は原富太郎の号である。

 内苑入口で記念撮影を終え、左折して梅林へと向かう途上、横浜がとても若い都市であることを伝える。横浜の歴史はわずか150余年。奈良の1300年、京都1200年、鎌倉800年、江戸・東京400年に比べ、きわめて短い。都市横浜の起源は、日米和親条約(1854年)と日米修好通商条約(1858年)に基づく1859年の開港(5港開港場の1つ)にある。来年、横浜開港160周年を迎える。

 この若い都市へ「進取の気性」に富む人びとが全国から集まり、「三代住んで江戸っ子」に対し「三日住めば浜っ子」と言われた。諸外国からも貿易商を中心に渡来、幕府は外国人居留地を設定して賃貸する。日本人町には江戸の大店へ出店を促すが、関東一円の商人が積極的に進出し、主導権を握った。

 横浜は五港のうち最大の貿易量を誇り、筆頭輸出品の生糸が日本の外貨獲得に大きく貢献する。この生糸売込商の一人が原善三郎で、弁天通りに店を、野毛山に自宅を構え、本牧村三之谷の土地を入手、1880年頃、その丘(いまの三重塔隣接地)に煉瓦造の別荘・松風閣を建て、中国趣味の小さな庭園を造った。

 1898年、善三郎の逝去に伴い、三溪は生糸売込商原商店を承継して近代的な原合名会社に組織を一新、製糸業にも着手した(富岡製糸場等の経営は1902~38年)。

 三溪は、外苑の造営を先行させ、植栽と日本伝統の古建築移築や石(庭石、石塔、灯籠、礎石等)の配置を造園の基本に据えた。植栽は、平安時代から花の代表とされ果実を薬用・食用とした梅を中心とし、江戸時代初期(17世紀)に栽培が始まる東京の蒲田(現梅屋敷)、川崎の小向(多摩川河川敷)、横浜磯子の杉田から名木を集めた。1906年の開園当初から三溪園は梅の名所として知られる。

 初音茶屋(観梅会の時期には麦茶を供す)の近くの臥龍梅(がりょうばい)は、杉田梅林から移した100余年を経た古木。その名の通り、龍が臥すが如き佇まいである。一行は思い思いに写真を撮り、香りを愛おしみ、しばしの散策。
ここで下村観山(1873~1930年)の日本画「弱法師」(よろぼし)の話をした。観山は三溪が支援した画家の一人で、画題は能(謡曲)に因む。

 河内国(現大阪府)の通俊は,人の告げ口を信じて、わが子の俊徳丸を追出す。悲しみのあまり盲目となり乞食の弱法師と呼ばれた俊徳丸は,梅が咲く四天王寺(聖徳太子建立、6世紀、最古の仏教寺院)で施行(僧や貧しい人びとに物を施し与えること)を受ける。寺の縁起などを語るうち,父はわが子と気づき,日想観 (にっそうかん、西に没する日輪を観て、極楽浄土を想い浮かべる修行) を子にすすめる。弱法師は夕日に向かい、舞い狂う。

 この屏風絵「弱法師」は、高さ187センチ、幅8メートルもの大作と言うや、「私の背と同じ」と声が上った。川幡留司参与から借りた複写の「弱法師」を拡げる。画面左端に夕日、それに向かい合掌する右端の弱法師。弱法師をいざなうように、横長の画面いっぱい、夕日に枝をさし延べる臥龍梅。ここで撮影ラッシュとなった。市長公舎で下村観山の「富士山」を観てきたばかりの一行の印象はひとしおだったらしい。

 弱法師が描かれたころ、詩人のタゴール(Rabindranath Tagore 1861~1941年、アジア初のノーベル文学賞(1913年)を受賞)が三溪園に滞在しており、この絵に惚れ込み、インドにもと要望した。その模写を鶴翔閣で行ったのが画家の荒井寛方。タゴールは1916年、寛方をビチットラ美術学校の絵画教授として招聘、寛方はアジャンター石窟群の壁画などの模写にも当たり、日印交流に貢献した。

 来た道を戻り内苑へ向かう。内苑の造営は1914年の三重塔移築後に一挙に進んだ。古建築の移築は造園の美的観点にとどまらず、明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動の下、衰退する寺社や仏像等を護るべしとする岡倉天心(1863~1913年)の思想に共鳴した三溪が実践躬行した成果でもある。なお天心の想いは古社寺保存法(1898年)に結実し、戦後1950年の文化財保護法に継承された。

 1917年に臨春閣(リーフレット11)、1918年に月華殿(リーフレット13)、1922年に聴秋閣(リーフレット16)と春草廬(リーフレット17)を移築(それぞれの古建築の由来はリーフレットにある)、1923年、内苑の完成を祝う大師会茶会を開催する(三溪55歳)。

 その直後の9月、関東大震災で市内は壊滅的被害を受ける。三溪園の被害は倒壊した山上の煉瓦造のみで比較的小さかったが、以降、三溪は横浜の震災復興の先頭に立ち、1939年に没する。享年70。三溪は実業家、造園家、茶人、日本画家の支援者であり、自らも日本画を良くした。

 戦中・戦後の混乱期を経て、1953年、三溪園は原家から財団法人三溪園保勝会(理事長は横浜市長)に移され、復興の道を切り開いてきた。そして2007年、国指定名勝(文化財の1つで「景色の優れた地」)を受けると同時に組織替えし、公益財団法人三溪園保勝会として管理・保存・活用等の事業を担って現在に至る。

 名勝指定の理由は、「…近代横浜を代表する実業家である原富太郎(三溪)が明治時代後期から造営した自邸の庭園。起伏に富む広大な敷地に古建築を移築し、池や渓流を築造した自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・観賞上の価値は極めて高い」(平成19年2月6日の官報)とある。近世の石庭等の<象徴主義>に対する<自然主義>に基づく近代の風景式庭園である。

 内苑の御門(リーフレット9)をくぐり、右手に白雲邸(リーフレット10)を見て進む。臨春閣前の広場に出ると、眼前に広がる壮大な美しさに驚きの声が上がる。今回の来園が二度目の大使もおられるが、桜、新緑、花菖蒲、名月、紅葉、雪景色等、四季折々の来園に興味を持っていただいた。

 三溪記念館(リーフレット20)に入る。内田弘保理事長が挨拶を述べ、池を望む望塔亭でお抹茶を振る舞う。引率の関山誠国際局長によれば女性駐日大使はいま22名、その過半数が万障を繰り合わせて参加された。日ごろから互いに交流があるようで、打ち解けた会話と笑い声が絶えない。お点前の実演をする大使の姿にまた盛り上がる。最後に三溪園職員による手作りの紙雛の匂い袋「根岸~本牧 お雛さまめぐり」(観梅会催事用に特製)をプレゼントした。

 好天に恵まれ、楽しい一時を過ごしていただけたと思う。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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