400年前の英語

 2年半ほど前、このブログで「若き学友との対話」(2014年12月23日)を書いた。「ゼミを持たなくなって10余年…この間にデジタル化が一挙に進み、メールという通信手段が発達…、ICTを通じて知り合った若い研究者で、いずれも拙著を読んだのがきっかけと言う知人が増えた。」
 その一人が陳雲蓮さん。「ケンブリッジ大学の図書館で先生のご著書『黒船前後の世界』(岩波書店、1985年)を何度も拝読し、日本に帰ったら、ぜひ加藤先生にお会いしたいと思っていました。」と見事な日本文である。
 彼女は中国の西安外国語大学を卒業後、京都府立大学に留学して博士号を取得。専門は都市史、建築史。その後、名古屋大学で研究、日本学術振興会の若手研究者海外派遣事業で、2年間、ケンブリッジ大学に在籍していた。
 昨春、岡山大学の日本人学生と留学生に日本語と英語の授業を担当する専任特任講師となる。今年の6月、「ペリー来航と開国」の講義に学生が強い関心を示したとメールをくれた。東アジア都市史の授業で、三角貿易論、多角貿易論等、「黒船前後の世界」をいかに面白く英語で語るかが一つの挑戦だという。
 そして別件として、ケンブリッジ大学名誉教授のジョン・コーツ(John Coats )先生の来日に合わせ、3人で会いたい、彼から趣味(が高じて著名なコレクター)のイギリスのみに残る有田の青花の話を聴いてほしい、「…やっとジョン・コーツ先生を加藤先生に紹介できること、とても興奮しています」とあった。
 ジョン・コーツさんの名は聞いた覚えがあるが、記憶が定かでなく、陳さんに問い合わせた。「専門は数学、オーストラリア出身、ケンブリッジ大学で学位取得、ケンブリッジ大学のPure Mathematics教授、現在は名誉教授。…海外に流出した日本の陶磁器等の収集家です。彼が特に気にしているのは、17世紀有田焼の青花の製造と海外販売ルートです。九州焼物博物館の大橋という専門家の鑑定により、コーツ・コレクションの青花は、17世紀のものが多く、九州焼物博物館の所蔵品よりも古い。日本は、当時、海外輸出のノウハウが確立されておらず、青花は有田のどこの窯が、海外市場向けに生産したのか、そして、どういうディーラー(例えば中国商人)の手により、長崎港から輸出されたのか、謎が多いようです。…しかも、有田焼の青花は一瞬で消え、その後は朱色で絵付けされる柿右衛門がブランドになります。…加藤先生の想像力をお借りして、<失われた有田の青花>について答えが出るかもしれません。…彼はまたイギリスの東洋学者アーサー・ウェイリー(Arthur Waley)を崇拝し、Everybody needs Mathematics and historyと主張しています」とのこと。
 こうして7月17日(祝日)、神田学士会館で昼食を取りつつ歓談する機会を得た。穏やかな笑顔で、聞き慣れたイギリスの大学英語(街で耳にする英語とは違う)を話す。懐かしく、40年前の在外研究で招いてくれたリーズ大学、ロンドン大学SOAS校、ケンブリッジ大学ニーダム研究所、また講演に行ったオクスフォード大学セントアントニーズ校等における記憶が蘇る。
 コーツさんが崇拝するアーサー・ウェイリー(1889~1966年)は彼のケンブリッジ大学の大先輩でもあり、なによりも『万葉集・古今和歌集』の英訳(1919年)、『源氏物語』の英訳(全6巻、1921~33年)、『枕草子』の英訳(1928年)に加えて中国古典から『詩経』、『老子』、『西遊記』、『李白』等の英訳で広く知られる。これらの翻訳を通じて、コーツさんは日本文学にも造詣が深い。
 有田焼の青花(せいか)については、USBに入れた彼のコレクションと解説を貰ったので、後でゆっくり読むこととし、概要を聴くと、約30年かけて収集した青花について熱く語り、有田から、どのような経路を経てイギリスに運ばれ、いま自分の手にあるかを知りたい、と言う。
 コーツさんは長崎港輸出説であったが、青花がイギリスのみに残ることから、私は平戸に11年間(1613~23年)だけ置かれていたイギリス商館から直接イギリスへ運ばれた可能性もあると考え、ぜひとも調べたいと思った。
謹呈した加藤祐三・川北稔著『アジアと欧米世界』(『世界の歴史』第25巻、中公新書 2010年)には、過去500年にわたるアジアと欧米の貿易や関係史の記載がある。本書の地図、絵図、グラフ等とコーツさんの愛蔵品をからめた話や、陳さんの都市化と生活用具についての話題等で、大いに盛り上がった。
 後日、私は東京大学文学部図書室で平戸イギリス商館長リチャード・コックス(Richard Cocks 1566~1624年)の日記“Diary kept by the head of the English Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻刻した『イギリス商館長日記』(『日本関係海外史料』)のうち)という大著(1978~82年刊)を見つけた。
 1613年、イギリス東インド会社がコックスを日本へ派遣、その商館長日記である。英文版は3冊、1冊目は1615(元和元)年6月1日~1617年7月5日、2冊目は1617年7月6日~1619年1月14日、3冊目は1620年12月5日~1622(寛文4)年3月24日。和訳版は2冊で、附録が2冊。手書きの英文は読み難いが、翻刻と注付き和訳のおかげで、400年前の英語を楽しむことができる。
 コックスは、初期近代英語の祖で劇作家のシェイクスピア(William Shakespeare, 1564~ 1616年)より2歳若い同世代人である。コックス49歳の日記は次のように始まる。

June 1615, 1. This mornyng littell wind Noerly, fayre wether all day, but a fresh gale most p’rt of day as aboue said, but calme p’r night.
This day 9 carp’ers and 31 labo’rs, 1 matt maker. And we bought 5 greate square postes of the kings mastaer carp’ter: cost 2 mas 6 condrins p’r peece.

 1615年6月1日。朝、僅かの北風、一日快晴なるも、日中、かなりの強風。夜には鎮まる。
 今日、大工9人、人夫31人、畳職人1人。王の大工棟梁から大きな角材5本を買い入れる。価格は1本あたり二匁六分。(一部改訳、原文は縦書き)
 スペリングが現在と少し違うものもあるが、訳文を参照するとほぼ理解できる。単語の簡略記載も法則を知れば想像がつく。
 この記述につづけて、取引した商品や貨幣の種類、金額等の記載が出てくる。購入品には陶磁器も含まれ、かなりの高値である。読み進めるうちに、<幻の青花>に関連する記述に出会えるかもしれない。
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【29】連載「黒船前後の世界」

 前著『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)で書き残した幕末日本のアヘン問題は、石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』東京大学出版会 1982年)所収の報告四「中国の開港と日本の開港」や論考「幕末開国考」(1983年)で一応は明らかにしたが、まだ得心がいかなかった。
 19世紀アジア三角貿易から幕末日本のアヘン問題へ、そして開国・開港をめぐる条約交渉へ、さらに外交と戦争の国際政治へと関心が拡がるにつれて、これらを統合した歴史を描くことに思いが向かった。
 幕末の開国・開港を描いた日本史の先行研究で主に参照したのは、石井孝『日本開国史』(1972年)である。前回の本ブログ「【28】幕末開国考」でも条約の日中比較を具体的に論じる時、大いに活用した。

 しかし日本史の側からだけでは、使う史料の制約から、どうしても欠落する視点が出てくる。日本の開国・開港には相手国があり、最初の相手はアメリカである。それには、日米双方の史料を対等に使う必要がある。
 それに留まらない。「日本史のなかの開国・開港」を超えて、「世界史のなかの日本の開国・開港」に分け入るには、その前のアヘン戦争(1839~42年)や、その後も戦争を軸に進んだ中英関係を知る必要があり、それにはイギリス側や中国側の史料も必要となる。幕府の対外政策や日本人の世界観も、アヘン戦争を期に大きく変わっている。

 そのころ『思想』誌(岩波書店)に「<大正>と<民国>」(1981年11月号)を書いた縁で、編集長の合庭淳氏が雑誌連載を勧めてくれた。有り難い話であるが、連載を始めるには、全体像を持ち、ある程度の書き溜めが要る。
 模索する中で、題名が決まった。ヒントは日本史家・服部之総の『黒船前後』(1933年)である。本書は黒船到来により大きく変わる日本を描いている。それなら私は黒船前後で大きく変わる「世界」を描こうと思い、「黒船前後の世界」とした。その瞬間、全体のイメージもできた。

 連載の第1回は「ペリー艦隊の来航」とした。1853年7月8日、浦賀沖に姿を現した4隻のペリー艦隊との緊迫した初の接触、さまざまな要因が凝縮するこの時を、歴史の大きな転換点と考えたからである。
 日本側の動向を示す先行研究には田保橋潔『近代日本外国関係史』(1930年、増補版1943年)等もある。一次史料は、東京大学史料編纂所編『大日本古文書』シリーズ内の『幕末外交関係文書』にあり、1853年のペリー来航から翌年の日米和親条約の締結に関係する文書は、その一から五まで(1910~14年刊)に収められ、附録(1913年~)にも本編の補遺に当たる貴重な史料がある。
 ペリー艦隊来航以前の異国船到来については、幕府の『通航一覧』や『通航一覧続輯』等に詳細な記録がある。異国船とは、長崎への定期的な往来を認めたオランダ商船と中国商船以外の国の船を指す。異国船対応令は、4回発令されており、ペリー来航時は4回目の穏健な天保薪水令(1842年)下にあった。
 この天保薪水令は、オランダ船と中国船がもたらす2系統のアヘン戦争情報を、詳細に分析した結果の対外政策であり、鎖国下で外洋船を持たない幕府の現実的対応である。

 一方、ペリー艦隊の浦賀沖の動きを知るには、『ペリー提督日本遠征記』(アメリカ議会上院文書、1856年、以下『遠征記』と略称)がある。しかし、その背後の、ペリー派遣に到る諸事情については十分ではない。
 通常は国務省所管の条約締結を、なぜ海軍省所管のペリー東インド艦隊司令長官に担わせたのか、また太平洋横断の航路を取らず、大西洋から喜望峰を回り、インド洋、中国海域を経るという長い航路を取ったのはなぜか等々も明らかにしておきたい。

 アメリカ側のいちばんの基本史料は、膨大な量のアメリカ議会文書(上院と下院)である。『遠征記』以外の議会文書全体は、まだ日本の図書館に入っていなかった。さらに国務省や海軍省等の文書類は、ワシントンDCの国立公文書館所蔵である。
 アメリカへ行くしかない、と決めかけた頃、先輩の太田勝洪さん(国会図書館勤務、のち法政大学教授)から朗報が入った。国会図書館がアメリカ議会文書を一括購入し、閲覧に供するという。膨大な資料を検索するためのCISという索引(単行本)もアメリカでは刊行されていた。

 こうして国会図書館通いが始まった。ここは開架式ではなく、目録カードで番号を調べて借り出す方式である(現在はコンピューター端末から請求)。せっかく請求しても、「該当の巻号は棚にない」と冷たい返事が返ってくることもあった。膨大な量の議会文書を入れた直後で、まだ利用者も少なく、係員は書庫内の配列に慣れていなかったのであろう。
 史料を読み進めるうちに新たな世界が拡がる。大規模艦隊を組むはずの船が揃わず苛立つペリー、発砲厳禁の重い大統領命令、中国海域に到着後の海軍省管轄下のペリーと国務省管轄下のマーシャル弁務官との確執等、ペリー艦隊の行動を縛る諸事情も浮かび上がってきた。

 これらの新しいアメリカ側史料で、「(一)ペリー艦隊の来航」、「(二)ペリー派遣の背景」、「(三)ペリー周辺の人びと」と書き進め、アヘン戦争以降の東アジア情勢はイギリス側史料と中国側史料をつきあわせて「(四)香港植民地の形成」、「(五)上海居留地の成長」と展開、そして翌1854年の幕府とペリーとの交渉、その先に「日本開国」……ここまでの見通しをつけて連載に踏み出した。(続く)

【28】連載「幕末開国考」

 『現代中国を見る目』(講談社現代新書 1980年)を書き終えると、すぐ広域アジアの近代史研究に復帰、『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)、論考「植民地インドのアヘン生産」(1982年)の延長上の課題にエネルギーを注いだ。
 とりわけ『イギリスとアジア』の第9章「日本のアヘン問題」で書き残した課題が最大の関心事であったが、研究を進めるにつれて、課題はさらに拡大していった。

 1981年12月、コンファレンス「世界市場と幕末開港」が3日間にわたり開かれた。東京大学経済学部の経済史学者が中心となり企画、部外者の私も招かれた。著書や論文で、「19世紀アジア三角貿易」について述べていたからであろう。その報告書が石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』(東京大学出版会 1982年)であり、6本の報告とそれぞれのコメント・討論を収める。
 すなわち関口尚志「問題提起-開港の世界経済史」、毛利健三「報告一 イギリス資本主義と日本開国-1850、60年代におけるイギリス産業資本のアジア展開」、楠井敏朗「報告二 アメリカ資本主義と日本開港」、権上康男「報告三 フランス資本主義と日本開港」、加藤祐三「報告四 中国の開港と日本の開港」、石井寛治「報告五 幕末開港と外国資本」、芝原拓自「日本の開港=対応の世界史的意義」である。
 このコンファレンスは10年前の1971年5月に開かれたシンポジウム「世界資本主義と開港」(この書名で1972年に学生社から刊行)やその後の著書等を受けて、「いま必要なのは単なるアイディアの開陳ではなく、実証研究の推進に裏づけられた新たな問題点の指摘…」と狙いを定めている。

 私の「報告四 中国の開港と日本の開港」(193~223ページ)は原朗氏の司会で、加納啓良氏と竹内幹敏氏によるコメントと討論(~244ページ)がつく。報告内容は、①問題の所在、②アジア三角貿易にかんする従来の研究、③統計資料について、④インド財政とアヘン収入、⑤貿易統計、⑥日本開港時の東アジア市場の6項に、コメントで⑦アヘンの持つ意味、⑧通商条約への諸段階、⑨アジア三角貿易の諸相を補足して、計9点である。
 うち②は研究史の整理だが、とくに同時代人のK・マルクスが1858年に『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』紙に書いた4つの論文について、正確な現状分析であると同時に多くの事実誤認を含むと指摘し、それを正すためには何よりも統計を正確に把握することとして、③、④.⑤によりインドのアヘン生産・貿易とアジア三角貿易を詳論した。とくに表1「インド産アヘン-輸出量とそれに伴う植民地政府の財政収入」が行論に深く関連する。

 報告要旨を事前に渡してコメントを得たため、加納氏からは、植民地インドネシア政府がベンガル・アヘンを独占的に輸入して、特定の請負商人に売却、それがライセンス収入を含め税収の19%と高い比率を占め(1860年の事例)、その一部は本国へ送金されていた等の新しい知見を得ることができた。

 なお本書には次の4点の書評があり、関心の高さが伺える。石井孝(『日本史研究』 1983年7月)、中村哲(『歴史評論』 1983年7月)、杉山信也(『社会経済史学』1983年12月)、杉原薫(『土地制度史学』 1984年7月)である。

 もう1つ書いた論考が、「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸問題を中心として」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1983年)である。遠山茂樹館長は、本誌創刊によせて「…横浜という地域の考察にとどまらず…世界近代史と日本近代史との相互影響・相互対立の接触面を代表し…館外研究者の成果も本誌に反映させたい…」と述べる。拙稿がこの創刊号の巻頭論文となった。
 本稿では論点の中心をアジア三角貿易から政治・外交史へと拡大し、日本史の領域に本格的に踏み込んだ私の初の論考である。すなわちペリーとの日米和親条約(1854年)から1858年7月29日(安政五年六月十九日)の日米修好通商条約(「安政条約」と略称)に到る外交の経緯を整理したうえで、同時代にアジア諸国が結んだ各種の条約(とくに中国が1858年に結んだ天津条約と1860年の北京条約)と比較し、安政条約のもつ不平等性は「ゆるやかで限定的」として、とくにアヘン禁輸問題に焦点を当てた。
 これまで学界で話題に上らず、したがって先行論文が皆無の、幕末日本におけるアヘンをめぐる問題である。日米和親条約(1854年)以来4年間にわたる各国との外交交渉におけるアヘンについて分析した。なお最終の安政条約に盛り込まれたアヘン禁輸は、ハリス側からの強い要請であった。
 モルヒネを含有するアヘンは最強の鎮痛剤であり、同時に習慣性を持つ麻薬である。鎖国中の日本では三都(江戸・京都・大坂)の漢方医が前年の使用実績を長崎奉行に報告し、会所貿易により唐船(中国商船)と蘭船(オランダ商船)に発注するという、厳しいアヘン統制を敷いていた。

 石井孝『日本開国史』(1972年)は、同じ1858年に結ばれた安政条約(日米)と天津条約(中英)の比較のなかで、内地旅行権、関税行政への外国人の介入の有無等4点を挙げている。私は天津条約が第2次アヘン戦争の中途で結ばれたもので、この戦争の最終条約である北京条約(1860年)と一体のものと考えるべきとし、賠償金の有無、アヘン条項、開港場における外国人側の自治権の有無等4点を追加し、そのなかでアヘン条項の重要性を論じた。
 安政条約締結の直前、ハリス米総領事(のち公使)は、米国と通商条約を結べば多くの利点があるとする演説「日本の重大事件に就いて」(1857年12月12日)を江戸城で行い、その一つとしてアヘン禁輸を強調した。本稿13ページに掲載の「条約一覧」に示した通り、米シャム条約(1833年)、米中望廈条約(1844年)以来のアヘン禁輸策を踏襲した主張である。

 ハリスの主張に対して幕閣たちは、アヘン禁輸を当然とする、あるいは論点としては軽視という態度をとる。本稿の注170で「…(アヘン)戦争の原因がアヘン貿易にあるという点を(幕閣たちは)どこまで認識していたか、これは面白い課題…」と述べている。(続く)

【27】連載「植民地インドのアヘン専売制」

 拙稿「19世紀のアジア三角貿易」(『横浜市立大学論叢 1979年)及び拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)において、イギリス議会文書の貿易統計からインド産アヘンの輸出先や箱数・価格等を分析し、これが19世紀アジア三角貿易を構成する重要な商品であることを証明した。
 しかし、まだ課題があった。インド産アヘンの生産の仕組み、とくにベンガル産アヘンの専売制の問題である。専売制は日本でも戦後もしばらく塩やタバコ葉生産等で行われており、植民地台湾では樟脳生産等で採用されていた。政府が独占的に生産から販売までを行い、競争者を排除すると同時に、得られる利益を国家の税収に充てる制度である。

 イギリスから自宅へ膨大な資料コピーを送ったが、肝心のイギリス議会文書(BPP)の植民地インド関係文書がバラバラで困っていたところ、幸いにも復刻版が東京大学東洋文化研究所図書室にあることが判明した。
 久しぶりに古巣の書庫に入り、関連の巻を見つけては必要箇所をコピー、分析するにつれて他の関連個所も必要になるという作業を何週間かつづけた。こうした史料収集を通じて書いたのが、「植民地インドのアヘン生産-1773~1830年」(『東洋文化研究所紀要』第83冊 1981年)である。序文にあたる「問題の所在」をふくめ、全4章からなる。

 長めの第1章「問題の所在」では、アヘン生産・貿易が近代史のなかで軽視されがちな理由として次の4点を整理し、統計資料の活用が不可欠と述べた。
 1)アヘン戦争(1839~42年)は有名な事件ではあるが、その原因となったアヘンの生産・貿易の実態と仕組みが体系的に把握されておらず、1つの政治的事件の把握にとどまっていたこと、加えて近代化の先導者たるイギリスがいつまでもアヘン生産・貿易に従事してはいなかっただろうと思われていたこと。
 2)日本はアヘン被害をほとんど受けていないと思われ、日本近代史では取り上げられることがなく、世界史との関連でも考える想像力に欠けていたこと。
 3)資本主義発展とアヘン生産・貿易とのイメージがマッチしなかったこと、とくに資本主義分析の始祖とされるK・マルクスが『経済学批判への序説』等で対外貿易を省略せざるを得ないとして言及せず、それがマルクス史学の影響の強い日本の史学界に浸透していたこと。
 4)日本においてアヘン生産・貿易の統計資料がほとんどなく、その制約から問題意識が薄かったこと、しかしアヘン生産・貿易に関する膨大な史料があるイギリス等においても統計資料が十分に活用されなかったことを考慮すると、世界の史学界に広く資料を生かす問題意識と手法が欠けていたこと。
 以上のように先行研究全般を整理したうえで、H・B・モース、E・オーエン、M・グリーンバーグ等の個別の先行研究を点検し、長期にわたるインド産アヘンの生産と輸出を統計により包括的に捉えることの意義を述べた。

 第2章「19世紀アジア三角貿易の基本構造」は、上掲の拙稿を踏襲したうえで、次の3点を補足した。(ア)19世紀後半の中国の輸出入における輸入品の首位が、アヘンから綿製品に代わり、輸出品の首位が茶から絹へ代わったこと、(イ)減少するアヘン輸入に対して1887年から中国海関でアヘン釐金を課すこととしたこと(なお中国海関の総税務司はイギリス人の初代R・ハートが長く勤めた)、(ウ)インド産アヘンの輸出額と植民地インドの財政収入が平行関係にあり(とくに1858年の天津条約でアヘン輸入が合法化されて以降に顕著)、インド輸出総額に占めるアヘン輸出の比率とインド財政収入に占めるアヘン専売収入の比率は、ともにきわめて高いこと。

 第3章「ベンガル・アヘンの専売化(1773-1830)」は本稿の核心部分である。これを統計資料の関係から、①1773~1791年の18年間、②1792~1808年の16年間、③1809~1830年の21年間に分けて分析を進めた。ベンガル・アヘン専売化(ほかに塩も)が始まる1773年は初代総督ヘースティングス就任の年であり、彼の専売生産の狙いと効果を考察した。アヘン専売化により、三大管区(ベンガル、マドラス、ボンベイ)のなかでベンガル大管区の税収が飛躍的に伸びる。

 第4章「マルワ・アヘンの成長」は、中央インドの藩王国で作られるマルワ・アヘンが安値で好みに合うため中国市場で人気が高まり、輸出量は1821年を境にベンガル・アヘンを凌駕する。その脅威に対抗して取られたマルワ・アヘンへの通過税措置(輸出港に至る陸路で課す)について分析した。
 イギリス東インド会社の果たした役割(貿易、税収、軍隊等)が徐々に変わり、貿易業務からの撤退=インド貿易自由化(1834年)、インド統治改革法(1858年)によるイギリス東インド会社の解散とインド帝国(イギリスの直轄支配)の成立へと進む中で、専売制ベンガル・アヘンとマルワ・アヘンに対する通過税措置を両立させ、アヘン生産・貿易は安定して高い位置を占める。
 以上が本論考の主な内容である。

 同じころ私は違う角度からの論考を発表した。1つが「<大正>と<民国>」(『思想』誌 1981年11月号特集「1920年代:現代思想の源流」)で、同じ1912年に始まる<大正>と<民国>という元号に象徴される日中両国の歴史を、関係性と対比性の両面から把握しようと試みたものである。

 すこし毛色の変わった論考が「都市空間における線と面の意識」(『横浜市立大学総合研究』第1号 1982年)である。開港直後の横浜外国人居留地では区割した「面」(ロット)に番号を付して賃貸に出し、日本人町には通りという「線」に名前(中心となるのが本町通り)と番号を付したことに着目した。
 同時期のイギリスはリーズ市の事例を挙げつつ、農村の「面」に付した名前から、都市化に伴い徐々に「線」の名前(と左右に番号を付す)へと進化した過程と対比した。また外国人の紀行文には、神社等の描写で「奥」の思想への関心が強いことを挙げた。
この2つの論考は後に「文明史」や「横浜学」の分野を開拓していくなかで、新たな展開を迎える。(続く)

【26】連載「現代中国を見る眼」刊行

 イギリス滞在中の1978年、講談社現代新書担当の久保京子さんから執筆依頼が来た。書名案は『現代中国を見る眼』、1980年中には刊行したいとある。
 この新しいテーマは、『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)とも『紀行随想 東洋の近代』(朝日選書 1977年)とも接点がほとんどなく、8年前刊行の『中国の土地改革と農村社会』(アジア経済出版会 1972年)やW・ヒントン『翻身』の訳書(共訳 平凡社 1972年)等の延長上にある。
 書名案から推すと、「現代中国史」でもなければ「現代中国論」でもなく、「現代中国をどう見るか」らしい。言い換えれば、中国の長い歴史、広大な国土・膨大な人口をはじめ、現代中国の現状分析に至る「対象」の記述も必要だが、一方で日本人をふくむ外国人の中国観(中国を見る主体)とその歴史をたどることも必要となる。これは大変だぞと腹をくくった。

 折しも中国は1878年12月の鄧小平による「改革開放」政策宣言により急速に変化し始めており、その政策内容や今後の展開も見極めにくい状況下にあった。また文化大革命(1966~76年)の評価が大きく揺らいでいた。
 こうした時に「現代中国を見る目」をどう描くか。まず日本人の中国観を述べ、ついで長い中国史のなかの現代の位置を確かめ、中国の若者の動向を通じて現代中国の現状を総括、見えにくい将来展望を書こうと考えた。私にとって同時代まで含む歴史書の執筆は初めてである。
 刻々と変わる中国の現状を分析・意見交換する「二四の会」の末席に加わっていたのが幸いした。第一線のジャーナリスト(特派員経験者等)や学者・研究者が第二・第四土曜の午後に集まる。ここで多くの示唆と知識をいただいた。

 本書の冒頭は、新中国成立前後の新聞記事を参考にした。1949(昭和24)年1月31日の北京無血開城について、「中共軍は31日午後正式に北平に入城した(AP=共同)」(朝日新聞)と2行だけの報道である。今では想像もつかないが占領下の日本の新聞は朝刊だけで、それも1枚の2面のみである。約8か月後の10月1日、中華人民共和国の成立を伝える記事も小さい。トップ記事になるのは10月14日の「国府、広東を放棄、中共軍、三方面から包囲」である。
 この新聞報道から分かる通り、「…日本の敗戦時に約400万の日本人(軍人と民間人)がいた中国、親戚をふくめて誰かが中国滞在の経験をもつ身近な中国では、すっぽり抜け落ちたこの4年間(1945~49年)に大変革が進んでいた…」と述べ、日本人の中国観に大きな断絶があることを示した。

 第一章「中国―その時間と空間」には、「1 <歴史>の重み」、「2 中国は大きい」、「3 中国は小さい」の3節を設けた。20世紀イギリスの中国賛美論者の代表と言えるG・F・ハドソン『ヨーロッパと中国』を挙げ、中国に対する「優れた古典と遅れた現代」観を見る。とくに過去1300年にわたる科挙制度をイギリスが植民地インド統治のために導入、1855年(アヘン戦争勝利の13年後)にはイギリス本国の文官登用試験法のモデルとして導入したことを述べた。
 中国の国土面積は日本の約26倍、四川省だけでも日本より広いが、可耕地(農業適地)は国土の約10%に過ぎない。日本の約9倍の人口(10億と言われた)の約8割を農民が占める。彼らは省-県-人民公社-生産大隊-生産隊という行政組織の末端である生産隊(平均200人)で生きており、1つの生産隊の農地はわずか20ha(約450m四方)。農民の「中国は小さい」と言わざるを得ない。

 第二章「新中国、三つの<経験>」には、「1 耕す者に土地を」、「2 中華人民共和国の成立」、「3 文化大革命は何であったか」の3節を入れた。1945年以来、中国農民にとって切実かつ基本的な課題である<土地改革>を扱い、1945年からの国共内戦期に主に華北の解放区で行われた改革が、新中国を成立させる大きな政治的要因となったことを述べた。
 「2 中華人民共和国の成立」では、前述のボトムアップの華北解放区の政治勢力と、広範な統一戦線の形成による政治勢力の総和として、新中国が誕生したと述べ、ついで「3 文化大革命は何であったか」で新中国成立後の最大のイベントである文化大革命を取り上げ、これら<三大経験>を総括した。

 第三章「人間と組織をどう生かすか」では、現代中国の組織特性を見るため、「1 自力更生とモデルの是非」、「2 工作団方式」、「3 幹部と大衆-政治の三層構造」の3節を設けた。「工作団方式」は精選した幹部を中央から各地に派遣してモデル事業を実施する方式であり、とくに1948~52年の土地改革推進期と、1956~58年の農村合作化(人民公社建設)の時期に大きな役割を果たし、派遣幹部(全人口の約2%)と在地の幹部候補生(全人口の約10%)が共鳴したことの意義を述べた。
 文化大革命は都市部の青年を中心に展開され、ここで幹部と紅衛兵ら幹部候補生を結ぶ意見表明の媒体として壁新聞が大きな役割を果たしたが、ポスト文革期の1980年3月、壁新聞の自由を憲法から削除する決定がなされ、これにより若手を中心とした幹部候補生のエネルギーが遮断されたと述べた。

 第四章「若ものたちの現在と未来」は、こうした鬱積した状況下の若者たちの現状分析であり、「1 世代差-乞食をめぐる論争」、「2 迷信に走る青年」、「3 自信喪失と自覚」の3節を設けた。
 現状分析には新しい資料が不可欠だが、アンケート調査やインタビュー等の直接取材は難しい。そこで新たに日本に入り始めた中国の地方紙や『中国青年報』紙、『中国青年』誌等を材料とした拙稿「中国の新聞のおもしろさ」(『世界』誌1980年8月号の「論壇」所収)につづき、これら紙誌の投書欄に出てくる若者たちのホンネと大人の解説等を主な資料とした。個別の事例は本書に譲る。

 第五章「<四つの現代化>の課題」では、「1 なにが問題になっているのか」、「2 農業は遅れているか」、「3 工業は成長するか」の3節を設け、現状を分析したうえで現代中国の近未来を考えた。全国に35万の工業企業があり、その所有形態は国営工業、農村人民公社の社隊工業(公社と生産大隊の経営)、都市集団工業の3つに分かれるが、最大の国営工業は4分の1が赤字である。
 「展望-平等と競争の二重原理」では、国営工業の赤字改善を目ざす企業間競争と農村人民公社での「五定一奨」等を取り上げ、個人間平等と企業間競争による生産性向上という二重原理の相克を述べ、展望とした。(続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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