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知の再武装の時代に向けて

 標題の「知の再武装の時代に向けて」とは、「丸善」創業150周年記念連続講演会第5回の寺島実郎さんの講演タイトルである。そのネーミングに惹かれて参加した。8月8日(木曜)の夕方6~8時、会場は日比谷図書文化館、3日つづきの猛暑日であった。

 同時に、「丸善」創業者の早矢仕有的(はやし ゆうてき、1837~1901年、岐阜県出身)の多方面にわたる活躍にも興味があった。明治2(1869)年に横浜で洋書及び薬品医療器の輸入販売の<丸善>(当初は<丸屋>または<丸屋善八>)を創業、元金社中(出資者)と働社中(従業員)の両者が構成する近代的会社組織の元祖と言われた。さらに明治4(1871)年、仮設の市民病院を現在の中区北仲通り六丁目付近で開業、これがのちに横浜共立病院、十全病院と名称を変え、私の勤務していた横浜市立大学の医学部(附属病院)の基礎となる。

 寺島さんは現在、一般財団法人日本総合研究所会長、多摩大学学長、一般社団法人寺島文庫代表理事で、元三井物産社員の経験を活かし、経済の諸指標を的確に使い、世界の中の日本について、あるいは世界から見た日本について、鋭い社会評論を行うことで知られている。メディアへの登場も多い。

 本日の講演資料として、(1)世界のGDPシェアの推移(円グラフ)、(2)Digital Dictatorship(デジタル専制)、(3)IМFの世界経済見通しの3つを挙げる。

 まず(1)では、世界のGDPシェアの推移を6つの年(①=1820年、②=1913年、③=1950年、④=1988年、⑤=2000年、⑥=2018年)に分け、推移を縦横に語りながら、日本のシェアを各国・地域と比較して分析する(資料はOEⅭDとIМFのデータ、江戸時代の①=1820(文政三)年は推計値)。

 そこから引き出す結論が興味深い。6つの年次のうち①~③までは日本のシェアが3%、④に16%と急増、⑤でも14%を堅持、それが⑥で6%に急減する。

 これは何を意味するか。戦後の高度成長以来、日本経済を主導してきた製造業が役割を終えつつあるということである。⑥の6%に急減した分を担うのが16%の中国と3%のインド。日本からこれら地域へ製造業が移転したと言える。

 これを受けて「(2)Digital Dictatorship(デジタル専制)」では、デジタル・エコノミーへの構造変化を2019年6月現在の各社の株式時価総額を通じて分析する。

 アメリカのIT5社(GAFA+M)が約450兆円(ドル表示を円換算)、中国のIT3社(Baido.Alibaba,Tencent)が98兆円であるのに対し、日本の東証一部上位5社(トヨタ自動車、ソフトバンクG、NTTドコモ、キーエンス、ソニー)は57兆円であり、第四次産業革命=データリズム(データを支配するものがすべてを支配)のデジタル・エコノミー時代に完全に遅れをとっている、とする。

 関連して、日本の株価時価総額上位10社の推移を1960年から10年ごとに掲げる。このデータからも、製造業からデジタル・エコノミーへの大きな流れが読み取れる。

 最後の「(3)IМFの世界経済見通し」では、実質GDPの過去10年における対前年比%(購買力平価ベース)の統計表を使い、新興国の高い成長率に比して、最近5年間では日本が世界で最下位にあることを明らかにする。

 こうした日本経済の現実を、日本も「まあまあ良くやっている」と流し、「不満は少ないが、不安はある」のが日本人の平均的な心情ではないかと指摘する。

 日本経済の<後退>と今後の見通しを予想する別の指標が、8月12日(月曜)の日本経済新聞(朝刊)の1面に載った。見出しは「ESG×収益力 欧米が先行 人材・投資呼び込む 企業の持続性重視へ新指標」。添付の棒グラフによれば地域別で欧州、北米、アジアが高く、日本がその約半分、ついで中国がその3分の1で、世界平均を大きく割り込む。

 「持続的に高収益を上げられると評価できる企業」として、株式時価総額300億ドル(約3・2兆円)以上、自己資本利益率(ROE=return on equity)が20%以上の263社を対象とし、資本効率を示すROEに企業価値の拡大を目指すESG(Environment=環境、Social=社会、Governance=企業統治)を乗じたものが、新たなROESG指標である。

 なお「企業のブランド力に寄与する」ESGとは、同紙<きょうのことば>によれば、以下の要素からなる。Eが二酸化炭素排出量の削減、再生可能エネルギーの利用、生産過程での廃棄物低減等、Sは供給網での人権問題の配慮、個人情報の保護や管理、製品の安全性の確保等、そしてGは取締役会の多様性確保、適切な納税、贈収賄等の汚職防止等を意味する。企業の質の評価を含み、説得力がある。

 経済面から見た世界と日本、あるいは世界の中の日本の行方を考えれば、このまま放置はできない。投資が逃げ、優秀な人材が流出すれば、将来への期待も後退する。

 ここから寺島さんの「知の再武装の時代に向けて」の提案が始まる。講演を補う詳細は、無料で配布された著書、寺島実郎『ジェロントロジー宣言 「知の再武装」で100歳人生を生き抜く』(2018年 NHK出版新書 560)の中にある。

 新刊本に付す帯には版元と筆者の狙いを要約して示すことが多い。著書の表紙側には「100年をどう生きるか。自分の生き方を見つめ直し教養をアップデートせよ!「ジェロントロジー」という新・学問のすすめ」とある。

 「ジェロントロジー」と括弧を付しているのは日本語にまだ馴染んでいないことを意識してのことであろう。英和辞典にGerontologyは老人学とある。寺島さんは、「健全で幸福な高齢化社会を創造するためには、より広範で体系的英知を結集する必要がある」という点から<高齢化社会工学>と訳すべきとする。

 ついで裏表紙のキャッチには、「体系的な学びを通して、個人と社会システムを変革する。私は<高齢化によって劣化する人間>という見方を共有しない。もちろん、老化による身体能力の衰えを直視する必要はある。だが、人間の知能の潜在能力は高い。心の底を見つめ、全体知に立ってこそ、美しい世界のあり方を見抜く力は進化しうる。<知の再武装>を志向する理由はここにある」と記す。

 高齢者が人口の7%以上を超えると高齢化社会、14%を超えると高齢社会、21%を超えると超高齢社会と呼ばれる。日本は1935年に4.7%で最低であったが、2007年に21.5%の超高齢社会となり、2050年代までは世界1位を堅持すると予測される。こうした時代だからこそ、日本人が<知の再武装>を提起することに大きな意義がある。

 講演の終了時間が迫るなかで、寺島さんは最大の課題が<都市郊外型の高齢化>にあるとし、国道16号線(都心の周囲を環状に結ぶ首都圏の道路、総延長は約250キロ)沿いに造られた団地群とその住民に触れる。この人びとは団塊世代を代表し、<金のたまご>として上京、製造業主導の戦後経済を牽引してきた。いま古稀を過ぎて70代に入った。

 「ニュータウンの問題は、将来の発展の前提となる世代の交代という図式が壊れていること」であり、「…団地やニュータウンというコンクリートのブロック空間に独居老人を閉じ込めたまま地域社会全体が高齢化しているのが、都市郊外型の高齢化の特質…」と指摘する(第2章)。

 最後が演題の本題である「知の再武装の時代に向けて」だが、時間切れで十分には語られなかったため、著書から論点を抜粋しておきたい。誰にも<中年の危機>は訪れる。「…自分は本当にこのような生き方でよいのだろうか」と自問自答を繰り返すうちに、深い心の闇に迷い込む人もいる。

 そうした危機から脱する方法として、一つは人生の使命に気づくこと、もう一つは人との出会い、と述べる。その後に展開する<江戸時代における知の基盤>、<戦前まで生きていた和漢洋の教養>、<戦後社会科学教育の欠落部分とは何か>、<生命科学がもたらす新しい人間観>等の記述は興味深い。そして最後の第5章「高齢者の社会参画への構想力 食と農、高度観光人材、NPO・NGO」には、多くの具体的な示唆が記されている。
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三溪園と日本画の作家たち

 三溪園の創設者・原三溪(1868~1939年)の没後80年を記念して、三溪園では横浜美術大学と連携し、「三溪園と日本画の作家たち」を開いている。大別して次の3部構成である。

 (1)「三溪園 原三溪が支援した作家たち」(三溪園内の三溪記念館第1、第2展示室で開催中、担当は三溪園学芸員の北泉剛史)。会期は7月12日(金曜)から8月18日(日曜)まで。
 (2)「下村観山(四季草花図)復元画」(制作 越智波留香)ほか。三溪園記念館第3展示室。会期は7月12日(金曜)から10月1日(火曜)まで。
 (3)「景聴園+越智波留香」、恒例の夏の公開に合わせて三溪園内の鶴翔閣にて。会期は8月3日(土曜)~18日(日曜)。

 今回の企画意図について、三溪園と横浜美術大学の連名のあいさつの中で、次のように述べている。

 「今年は三溪園の創設者・原三溪の没後80年を迎えます。これを記念し横浜美術大学との連携による企画展「三溪園と日本画の作家たち」を開催します。
 三溪は明治期末から昭和期にかけて生糸貿易・製糸業で財をなし、日本・東洋の古美術品を蒐集する一方で、岡倉天心の依頼を受け、日本美術院を中心とした若い日本画家たちを支援しました。画家たちは制作に専念できるよう資金を援助されただけでなく、毎月行われたという古美術の鑑賞会で、三溪が蒐集した美術品から古典絵画の表現技法を深く学ぶことができました。なかでも下村観山は、狩野派の古典的素養に近代の新しい感覚を兼ね備えた高い画技を持っていたことから、三溪が最も愛し厚く支援した画家です。
 横浜美術大学で絵画研究室助手を務める越智波留香氏は、関東大震災で失われてしまった松風閣に観山が描いた障壁画《四季草花図》を綿密に研究し、このたび復元制作を行いました。本展では、当園が所蔵する観山の下図とあわせて、その成果を展示します。
 三溪園を舞台に新しい時代の日本画の表現を模索した作家たちの作品を通して、原三溪という芸術のパトロンが、その発展に来した歴史的意義をあらためて見直していただく機会となれば幸いです。」

 今回、横浜美術館で「原三溪の美術 伝説の大コレクション」展(会期は9月1日まで)が開かれるのを機に、三溪園の吉川利一事業課長を軸として、横浜美術大学、横浜美術館の三者を結ぶ大きな輪に拡げられないかとの協議が昨年夏から一挙に進み、このような企画が実現する運びとなった。

 2つの会場のうち三溪記念館は1989(平成元)年の建設、築30年で3つの展示室を持つ。もう一つの(3)の会場の鶴翔閣は1902(明治35)年建造で築117年の由緒ある建物で、横浜市指定有形文化財である。

 (1)の第1、第2展示室では、明治30年代以降の、日本美術院(岡倉天心たちが明治31(1898)年7月に創設)の伝説的な日本画家、すなわち下村観山、横山大観、今村紫紅、荒井寛方、速水御舟等の作品約30点を展示している。

 彼らは、生年から概ね10年ごとに三世代に分類できる。第一世代が横山大観、西郷孤月、下村観山、荒井寛方。第二世代は今村紫紅、小林古径(本展では出品なし)、安田靫彦、前田青邨。第三世代は牛田雞村、小茂田青樹、速水御舟。このうち荒井寛方(1878~1945年)は三溪が初めて支援した日本画家で、明治36(1903)年、寛方が美術雑誌『国華』(28歳の岡倉天心が1889(明治22)年に創刊)に掲載する《孔雀明王像》(国宝、東京国立博物館、三溪旧蔵)を模写するため三溪園に滞在したことが機縁となった。

 第2展示室の12点はすべて下村観山(1873~1930年)の、明治末から大正12(1923)年までの作品である。三溪は、明治41(1908)年の第1回国画玉成会展覧会に出品した観山筆《大原御幸》(東京国立近代美術館)を見て、その卓抜した画才に感じ入り、明治44(1911)年、天心を通じて観山に支援を働きかけ、大正元(1912)年には本牧和田山(現、本牧山頂公園)に屋敷を提供した。今回の展示品は絹本着色、絹本淡彩、紙本淡彩、紙本墨画から成る。大型紙本墨画の《老松》(192.6㎝×143.3㎝)がとりわけ目を惹く。

 一方、第2会場の鶴翔閣では、かつて倉の奥の<客間棟>で伝説の大画家たちが制作に打ち込み、また<楽室棟>では1910年代から第二世代を中心に三溪所蔵の名画をめぐる古美術鑑賞会が頻繁に開かれた。議論し、切磋琢磨する芸術家たちの熱気と気概あふれる場所であった。

 その同じ場所で、約百年を隔てた今日、次代を担う若き作家たち、すなわち「景聴園」(けいちょうえん、京都市立芸術大学で日本画を学んだ作家5名と企画者2名からなる)が、新たな日本画を模索する。

 この(1)と(3)を結ぶのが、記念館第3展示室の(2)「下村観山(四季草花図)復元画」(制作 越智波留香、横浜美術大学絵画研究室助手)である。原画は三溪園山上の松風閣にあった京間十畳和室の障壁画(1912年)であるが、関東大震災(1923年)で建物は倒壊、作品も消失した。残された小下図(下絵)や古写真等を手がかりに、観山の他の作品も参照し、可能な限りの推考を重ねて作り上げた大型(264.9㎝×781.5㎝)の作品である。

 どのように復元したかを示す数葉のパネルがある。下図や観山筆《白狐図屏風》の他、俵屋宗達たち琳派の作品を研究し、金銀泥に銅粉や墨で陰影を作る、また<たらし込み>という墨や絵の具の滲みや混ざり合いを活かす画法を取り入れる、さらに和紙を3回裏打ちする技法を再現等々、ひたむきな苦闘の結実は後につづく人の参考と励みになるにちがいない。

 ここには観山の下図のほか、実際に使っていた絵筆、スケッチブック等も展示している。

 8月3日(土曜)、第2会場の鶴翔閣において(3)「景聴園+越智波留香」が始まり、若き現代の作家たち「景聴園」の作品28点と越智さんの作品2点が披露された。

 大広間を小さく仕切り、ふだんの鶴翔閣を知る人には、あたかも異空間かと思わせるレイアウトである。柱や鴨居に傷をつけぬよう、三溪園建築担当の原未織が立ち会い、慎重に作業を進めた。

 見事にできあがった展示空間に込めた思いが、A3両面×1枚の配布リーフレット(文:乃村拓郎/景聴園)に書いてあった(裏面は作品の配置図と作者・作品名一覧)。その一部を引用したい。

 「…明治から大正にかけて日本画家達は、…西洋画法の導入を試み、かたや伝統的な線描や古典への回帰があり、奥行きを求める画面へ、または平面的な画面構成へと融合と回帰を繰り返し日本画の輪郭を探っていきます。…時代が進むと新しい画材の開発も行われ、作品のあり方も床の間に飾る作品から、展覧会で見る作品へと変化していきます。…今回の展示は、大学で日本画を学んだ現代の作家達によります。日本画が生まれて約百年が経った今、現代の作家はかつての日本画達が見た景色の中に立っているのでしょうか。そして彼らが鶴翔閣に集まった日本画家を振り返ったとき、どのような景色を描けるのでしょうか。
…今も昔も作家達の眼差しには、新たな地平を拓くという強い意思があります。…近代において日本画の興隆の舞台となった鶴翔閣で、時代の視線が交差する時、どのような景色が現れるのか、どうぞご高覧ください。」

 この日、越智さんを講師に迎え、11時、1時、3時からの3回、各回の定員15名程度で、ワークショップ「三溪園の画帖をつくろう!」が行われた。<茶の間棟>に机と画材等をならべ、「三溪園の風景をあしらった古い本の形式の一種である<画帖>を作り、今日の思い出を描きこんでみましょう」と呼びかける。猛暑日にもかかわらず、若いカップルや家族連れで賑わった。その奥の<書斎>にも越智さんの作品が2点。

 この前日、日本経済新聞の8月2日朝刊1面<春秋>欄の、埼玉県東松山市にある「原爆の図丸木美術館」についての記事が目に留まった。この美術館は画家の丸木位里・俊夫妻が1967年に設立したもので、共同制作<原爆の図>を展示している。1980年代は広島・長崎の修学旅行前に学習に来る団体が急増するが、やがて<原爆の図>は残酷だとして教科書への掲載が減り、美術館は活気を失う。しかし東日本大震災(2011年)後、社会問題と向き合う美術家を招くと、彼らが<原爆の図>に刺激されて新作を生み、その作品目当ての若い観客が丸木夫妻の<原爆の図>に共感するという。

 後世に残すべき作品を大切に保存・管理し、新しい発想で今に生きる人々に伝えていくことがいかに重要かを改めて心に刻む。

 それとともに、「下村観山《四季草花図》復元画」のように、失われた作品の復元も劣らず重要である。それはまた美術研究を深め、創作活動の可能性を拡げる。「景聴園」の作品群が及ぼすにちがいない今後の影響を見守りたい。

 三溪園という国指定名勝が、若い世代に活動の場や、他に類をみない収蔵品を提供して彼らの後押しができれば、そして彼らの作品をきっかけに若い観客や仲間が増えてくれればと思う。

 今後の予定は以下の通り。

 8月10日(土曜) 11~12時、越智波留香講演「<観山の間 四季草花図>の復元-三溪と観山が描いた理想空間」。ゲスト:荒井経(東京藝術大学大学院保存修復日本画研究室教授)。定員は30名。

 8月10日(土曜) 13~14時半、出展作家によるギャラリートーク。越智波留香、景聴園(上坂秀明、合田徹郎、服部しほり、松平莉奈、三橋卓)。聞き手:森山貴之(本展企画、横浜美術大学美術・デザイン学部准教授)。ゲスト:荒井経(東京藝術大学大学院保存修復日本画研究室教授)。定員は30名。

 8月11日(日曜) 10~16時の間に随時受付(一人30分程度) ワークショップ「みんなで大作に挑戦!~孔雀明王ぬり~」 講師:景聴園(上坂秀明、合田徹郎、服部しほり、松平莉奈)。「岩絵具を使って大作ぬりえに挑戦! 岩絵具に親しんでもらうとともに、三溪園で大作に挑んだ横山大観らの制作を体感してもらいます」と呼びかけている。

 なお、この展示「三溪園と日本画の作家たち」の会期は8月18日(日曜)までの予定であったが、三溪記念館の第3展示室(「下村観山(四季草花図)復元画」のある部屋)に限り、展示物を一部入れ替えて、10月1日(火曜)まで延期する。

横浜散策(その2)

 近藤さんと尽きぬ話をしながらの横浜散策は、「横浜山手テニス発祥記念館」の立寄りで第1ラウンドを終えた(本ブログ2019年6月4日掲載「横浜散策(その1)」を参照)が、夕方5時半を過ぎてもまだ明るい。カフェの屋外ベンチでコーヒーを手に話がつづいた。

 ここからは第2ラウンド「横浜散策(その2)」であるが、私がたまたま超過密スケジュールに追われて起稿できず、近藤さんに記憶の復元と記録化をお願いしたものである。すぐ届いた文章を基に草稿を作ったのが5月29日、それから2か月以上も経ってしまった。近藤さん、ご免なさい!

 急ぎ本題の「心理学で要素主義の分析と、ゲシュタルト理論ではしばしば理解が異なる」とする論点に入りたい。私の問いかけに近藤さんが答える。

 「…実験心理学の創成期19世紀後半、こころの機能や行動を構成要素に分析しその総和でこころの世界を理解しようとする立場、つまり要素主義がありました。当時の科学的方法論としては自然な流れでしょう。これに対して20世紀初頭、要素主義の考え方を否定するゲシュタルト理論が提唱されました。<ひとつの全体は要素に還元できない体制化された構造>であるとする立場です。」

 「…その<まとまり>、あるいは<全体性>、<形態>をゲシュタルトと呼び、英・仏・そして日本語でもうまく訳せない概念なので独語オリジンのゲシュタルト(Gestalt)が用いられています。例えば、仮現運動という現象があります。知覚心理学の分野での視覚による運動の知覚です。線路沿いに置かれた警報機の光の点滅をイメージしてください。2つの光が左右に離れて交互に点滅します。これを見ると2つの光が別の場所で交互に光っているという“正しい”知覚が生じます。この状況で2つの光が点滅する時間間隔(あるいは距離間隔)をうまく調整すると、1つの点が左右に運動するように見える知覚を生み出すことができます。視覚のイリュージョン、錯視が生じます。…」

 近藤さんは専門の<知覚心理学>の事例を挙げ、楽しげに話す。「…これは誰にでも体験できる現象であり、デモンストレーション、つまり証明可能です。この現象は、要素主義が主張する刺激要素と感覚要素の1対1対応の総和では理解できない心理現象です。つまりどんなに要素に分解して分析し、加算しても、この状況で私たちが実際に経験するひとつの点が左右に運動して見えることは予測できないのです。」

 異分野を専門とする私に対して、別の事例を挙げて迫ってきた。「…実証可能な科学とは違い、歴史学では実証的証明に限界がありそうなので、分野の枠を超えることは難しいのでしょうか。学際研究を可能とする知的プラットホームは学問を進める上で必然といえると思うのですが。…」

 「…先ほど公園で講義いただいた三角貿易に話を例えて見ますと、英国と中国、英国と印度、中国と印度をそれぞれ1本の線の両端に置きます。これが要素主義による三角形を構成要素の3本の直線に分解したものです。分解された要素1本ずつをいくら分析して加算しても三角貿易の真の意味は理解できないのではないでしょうか。」

 「…これに対してゲシュタルト理論では、ひとつの全体である体制化された構造として三角形の頂点に英国・中国・印度があるとすると、その場、つまり<まとまりのある構造>によって加藤理論の歴史学的意味が浮き上がる。ゲシュタルト思考の賜物かも知れませんね。少し強引ですが知的パズル遊びと思って笑ってください。三角形はグーテ・ゲシュタルト、<よいかたち>です。…」

 「…う~ん!?」と私は反応し、ゲシュタルト心理学により私の歴史理論を解明してくれたことに感謝しつつ、すぐ対応するまでにはいかず、歩きましょうと促した。来た道を戻るなかで、近藤さんが若い頃、スコットランドのダンディー大学客員研究員をしていた頃の(家族を連れて1年間)話をしてくれた。

 「…ゴルフで有名なセントアンドリュースの近く、ダンディー市から湾のような川幅をもつテイ川を挟んだ対岸の町、ニューポート・オン・テイの19世紀の石作りの頑強な建物。その1階に住む大家さんに2階を借り、家族の住まいとしていました。その門扉にあったのがFern Brae14(フェルン ブレイ)。フェルンは植物のシダ、ブレイはスコットランドの用語で「川岸に沿った丘の下りこう配」を意味します。確かにテイ川の川岸のシダが覆う斜面にその家は川を見おろすように建っていました。横浜の外国人居留地跡で見た看板は西洋文化に共通する匂いとして30年前の回想を惹き起こしたようです。」

 我々は港の見える丘公園から新緑の中を下り、谷戸橋を渡って山下公園へ向かう。関東大震災(1923年)で壊滅的打撃を受けた横浜は、原三溪を筆頭に震災復興に全力を尽くした。その結晶の一つが、倒壊した建物の瓦礫等を埋め立てて造った山下公園(1935年開園)である。ニューグランド(正式には<ホテル、ニューグランド>と表記)の旧館入口に「横浜開港160周年」の看板。その先の、イチョウの枝に架かる天空の月を写真に収める。

 道を渡って横浜港に接する山下公園へ。係留してある氷川丸は1925(昭和5)年、横浜船渠(ドック)で建造された。戦時には病院船として、戦後は客船・貨客船として役目を果たした。従兄弟の加藤敬二が船長を務めた時期があり、船内を案内してもらった懐かしい船である。

 山下公園を後にして、朝陽門から中華街に入る。関帝廟に参拝し、夕食。2人だけの中華料理には小皿料理が一番である。ここで近藤さんが北九州市立大学で塾長を務める社会人大学(i-Design コミュニティカレッジ)の話になった。近藤さんによる再現は、ほぼ以下の通りである。

 「…日本の大学における教養教育改革が声高に叫ばれて久しい。伝統的に科学教養・人文教養・社会教養が学士課程の3本立ての教養教育の内容としてカリキュラムに含まれています。教養科目は社会人となる学生にとって専攻する専門分野に関わらず身につけておくべき<生きる力となる基盤>です。当然大学では、初等・中等教育を経た二十歳前後の学生を受講者としての立て付けになっています。果たしてそれで十分か?…」

 「…人生100年時代、それぞれのステージで必要とする教養のあり方は変化するものでしょう。50代には50代の、60代には60代の。また人生経験の違いによっても変化するはずです。社会人大学は、自分の意思で学び、その教養を身につけます。そのためには設置の科目は個々の社会人学生の社会経験や要求に対応できるものが準備される必要があります。」

 「…事前のニーズ調査による科目の設定や教員側からの社会人の経験に応じた科目の提案など多様性をもった対応が新たな教育の可能性を拡げるものとして必要です。また、授業内容においても二十歳前後の学生とまったく違う反応があります。例えば、心理学で記憶の話をすると特に年齢の高い方は記憶術に高い関心を示します。社会経験が豊富で、年を重ねるごとに豊かなエピソード記憶をもつ方は、若者より有利に記憶術を使う可能性があります。」

 「また、この社会人大学は新任の教員にとっても、よい学びの場となる可能性があります。新任教員にとって通常受講学生は自分よりも若く、年齢差があまりありません。過去の自分が学生のころの経験、それが授業に役立ちます。しかし、自分より年齢の高い、しかも異なる社会経験を積む社会人学生を前に授業をする場合、同じ科目であっても理解を促し、伝えるためには、話す内容、取り上げ方を工夫する必要があります。創造性を持った授業準備の必要性です。ここに教員としての質の向上が期待できると思います。…」

 驚くべきは、これが単なる企画や計画ではなく、今年度から実施段階に入ったことである。近藤塾長の熱が伝わってくる。一方、私は書いたばかりの「大学教員の仕事」(本ブログ2019年3月5日)を思い出し、大学教員の多くが今、<気概>を失いつつあるのではないかと危惧していた。

 この点を近藤さんに伝えると、上掲の「大学教員の仕事」には、「後輩教員への温かな眼差しとバトンを託す思いとしての強い意志が感じられます。とりわけ最後の3点目は、大学を担う教員一人ひとりが自らの心得として軸にすべきものでしょう」と返ってきた。

 その<最後の3点目>を再掲する。「教員個々人の領域に引きこもらず、分野・職種・年齢等の異なる大学構成員(教員・職員・学生)との自由闊達な意見交換により、大学本来の役割である知(知識+知恵)の創造・継承・普及に寄与すること」。

 今回の横浜散策は予定していたコースの何分の一かに過ぎない。加えて、近藤さんから催促が来ている。「7、8年前の宿題、覚えていますか? 孔子の言葉をまとめた『論語』のことです。そこには人生訓として70歳(従心)まではありますが、80歳、90歳についての言はありません。先生に考えてもらう約束ですが…」

 難しい宿題を抱えつつ、いずれ「横浜散策(その3)」をお届けするつもりである。(続く)

医療の近未来

 これまでも本ブログで取り上げてきた<清談会>という名の、年2回の談笑の場がある。昨年12月28日開催の第27回清談会を記録したのが2019年1月7日掲載の「10年後の歴史学」で、私の報告とその後の議論をまとめた。

 清談会とは、横浜市立大学(以下、市大)で同じ釜の飯を食った元教員の集まりで、現メンバーは敬称略・年齢順に、穂坂正彦(医学)、私(歴史学)、丸山英気(法学、民法)、小島謙一(物理学)、山本勇夫(医学)、浅島誠(生物学、発生学)。

 今回は第28回。報告は山本勇夫「医療の近未来」である。山本さんが若い方から2番目、と言っても、メンバー全員が70歳を超えている。

 この日、私は会場直行ではなく、先に横浜美術館を訪れ、「原三溪の美術 伝説の大コレクション」展(9月1日まで)に出品中の、三溪17歳の作品「乱牛図」(らんぎゅうず)に改めて惹きこまれた。なだらかな山の裾野に60~70頭の牛が放たれている。子牛がおり、牧童たちの戯れるような姿も見える。のどやかで、どこか懐かしい。

 つづけて今回の展示のチームリーダーで主任学芸員の内山淳子さんが司会進行する2つの講演、清水緑(元三溪園学芸員、松涛美術館学芸員)「三溪の古美術収集と美術家支援」と、三上美和(京都造形大学)「原三溪と近代美術-資料から見えてきたこと」を堪能した。

 その贅沢な興奮のままに清談会の会場に着くと、すでに穂坂さんと小島さんが来ていて、物理学者の小島さんが縄文土器の話を始めた。中学生時代、先生が歴史は時代とともに進歩するから、土器も縄文より弥生の方が進んでいると説明したことに納得できず、「…この前、縄文土器展を見てきて、ある法則を見つけた…」と言う。

 専門外の趣味がどれだけ専門研究に寄与するか、どれだけ人生を豊かにするか、小島さんの嬉しそうな話しぶりに、私は「力強い美しさは確かに弥生より縄文が上だな~」と受けた。彼の見つけた法則については、ご当人がなんらかの形で公表するまで口外しないこととする。

 メンバーが揃い(丸山さんは欠席)、山本さんの「医療の近未来」が始まる。論旨明快、テンポよく、聴いていて心地良い。1992年から市大の脳外科教授、定年退職して名誉教授、現在は横浜市立脳卒中-神経脊椎センター名誉病院長と、名古屋の並木病院病院長を引き受け、毎週、横浜=名古屋を往復している。

 一人の臨床医として長い経験を持つと同時に、医師の相互研鑽の場である「日本脳卒中の外科学会」、「日本脊椎外科学会」、「日本頭蓋底外科学会」の会長を務め、医学の進歩に貢献してきた。また病院経営の難しい局面にも通じている。

 報告内容は次の5点と、A4×1枚のスッキリした配布レジメにある。大項目だけを再掲すると、以下の通り。これにそって概要をまとめたい。

1 医療ニーズの変化
2 診断
3 治療
4 疾病構造の変化
5 最悪のパターン

 1「医療ニーズの変化」の強調点は、「治す医療」から「支える医療」へと変わってきたとする点であり、言い換えれば「治療中心の医療から、治すだけでなく、病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療への変遷(移行)」、この現実をいかに認識して今後の医療に活かすか、ここに問題の焦点があると言う。

 「治す医療」から「支える医療」への「医療ニーズの変化」の背景として、ニューテクノロジーの導入がある。具体的にはAI(人工知能)、ゲノム編集、ナノテクノロジーの3つ。

 この点をめぐっては、本清談会の第25回(2017年12月28開催、本ブログ2018年1月5日掲載の穂坂報告「AIと医療、その10年後」)と、第26回(2018年8月8日開催、2018年8月17日掲載の浅島報告「生命科学の行方」)でも報告され、議論になった重要問題の一つである。

 3つのニューテクノロジーの急速な進歩により、診断の高度化・高速化はいちじるしく向上した。これに伴い、個々の医師、組織としての病院のあり方が大幅に変わり、我国の誇る国民皆保険制度の見直しさえ迫られている。

 さらに少子高齢化に合わせた医療従事者の育成や医療施設の見直しも必要になる。外科系、内科系等の分け方、脳外科、腎臓内科等の臓器別の専門医制度も通用しなくなりつつある。

 ついで「2 診断」では、ゲノム医療(遺伝子診断)やナノ診断機器の進化により、個々の患者レベルで最適な治療方針を選択、実施することが可能となった(precision medicineあるいは personalized medicineと呼ばれる)。言い換えれば医師は、これらの診断補助システムの恩恵を受け、正確なエビデンスに基づく医療行為が可能となる(医療行為の均霑化)。

 「3 治療」でも種々の進化が見られる。患者に合わせた治療法として、ゲノム医療(遺伝子治療)、免疫療法、再生医療、低侵襲手術(ロボット支援手術、薬を的確に届けるdrug delivery system等)が可能になりつつある。

 「4 疾病構造の変化」には「がん、循環器疾患、感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」が並ぶ。これは冒頭にある「治療中心の医療から、治すだけでなく、病を抱えて生きる辛さや痛みなどを癒し、看取りまでを地域全体で支える医療への移行」に伴う今後の重要問題である。

 言い換えれば、3つのニューテクノロジーの急速な進歩による診断の高度化・高速化のメリットと、それがもたらすデメリットの両面をどう考えるかの問題である。医師は上掲のメリットを活用し、その活用で得た時間を他の側面に力を注ぐべしとして、「…感染症の制御と克服、老化の制御、認知症の回復」を挙げたものと思われる。

 ここで前々回の報告者の浅島誠さんが発言する。「…AIの進歩が治療に役立つことは確かだが、そろそろAIに歯止めをかける議論が必要になってきたのではないか…」と。彼は生物の胚発生の分化誘導物質アクチビンを1988年、世界で初めて同定した。生命の本質解明技術の進化がもたらす否定的側面を無視できないのであろう。

 穂坂さんが「未知への挑戦が研究者の第一要件だが、その結果が悪用される危険性のいちばん大きい分野が今や生命科学ではないか」と受け、さらに「…物理学が核研究の果てに原子爆弾の開発にいたった悪夢の過去がある。次の悪夢こそ生命科学である」とつづける。

 浅島さんが「…技術進歩のもたらす生命の破滅の、より具体的なものは、人の目に見えない新たな感染症ではないか」と言う。そこに小島さんが「…その点が次の5に書いてある…」と。

 「5 最悪のパターン」は、深刻な課題ないし事態を明示する。巨大国家のエゴ、国連やWHOの機能低下が予測され、それが招来する環境悪化、すなわち感染症の増加が懸念される、と述べる。この結びの言葉は「医療の近未来」を技術の進化を基に明るく語る意見の対極にある。長く医療に従事し、いまなお新たな挑戦をする山本さんの危機感の表明である。

 「…感染症にはヒトは勝てない。現在の医療体制は既存の感染症には何とか対処できているが、自ら生み出す未知の感染症には対処できない。…」

 山本報告が一段落したところで、山本さんの著書『健康長寿の脳科学』(経営者新書 幻冬舎 2014年)に話題が移った。5年前の刊行だが斬新さを失っていない。

 本書の「はじめに」は「…80歳を過ぎても元気な方には、脳の刺激の仕方に共通点があることに思い至り、…脳の機能をいかに保ちつづけるか。…」と狙いを述べる。
 
 第1章は、長寿願望、健康願望は古今東西に共通するとして、貝原益軒が逝去前年の84歳に残した『養生訓』や、『解体新書』で著名な杉田玄白の「養生七不可」を語るとともに、健康に生き、過剰な医療を招来しないことが次世代の負担を減らし、社会の好循環に寄与すると述べる。

 第2章では「人は老いて当たり前、老いとは何かを知る」に始まり、皮膚や脳など各臓器の仕組み、<生理的老化>と<病的老化>の違いを述べる。

 つづけて第3章「健康長寿を実現する脳の活性法」、第4章「脳を活性化すれば、何歳になっても人は輝く」へと展開。好評により版を重ねているので、ぜひお読みいただきたい。

 そして現在、次の著書を構想中という。主なテーマは「忘れることの大切さ」=「忘却の効用」。半年後の第29回清談会までには刊行済、を期待している。

三溪と天心(その3)

 前号「三溪と天心(その2)」では、天心の生誕から1880(明治13)年7月、19歳で東京大学を卒業して文部省入省、社会人としての活動を開始、その2年後の1882(明治15)年8月に初めての論説「書ハ美術ナラスノ論ヲを読ム」を文学士岡倉覚三の名前で公刊するまでの略歴と思想形成を見た。

 これを受けて今回は、社会人としての第一期を扱う。すなわち文部官僚として古社寺調査を重ね、文部省内の図画教育調査会委員に就き、またフェノロサとともに約1ヵ年にわたる欧州視察(1886(明治19)年9月~翌年10月)を行い、そこで得た経験と思考の深化を日本の美術教育制度作りに反映させる、天心21歳から26歳までの略歴と思想形成を見たい。

 天心21歳の1882(明治15)年5月、フェノロサが龍池会(りゅうちかい 日本美術の海外流出を防ぐため3年前の明治12年設立、会頭は佐野常民)において美術に関する講演を行い、その通訳を務める。天心も2年後に入会、同会録事(書記)となる。同年6月、ビゲロウ(William S. Bigelow、アメリカ人医師で美術蒐集家)が来日、天心の理解者となる。

 同年9月、文部小輔(現在の文科省事務次官相当)の九鬼隆一(福沢諭吉門下で旧綾部藩士、2年後に特命全権駐米公使、明治29年に男爵)の学事巡視に随行、新潟県と石川県を回り、文部省中枢との関係を築く。帰路に京畿地方の古社寺調査を行う(2度目)。10月、上野公園で農商務省主催の第1回内国絵画共進会開催。日本画家の作品の発表・販売を促進する契機となる。

 22歳の1883(明治16)年の冬、狩野芳崖を訪問するフェノロサの通訳として同行。これを機に、親子ほども年齢差のある著名な日本画家、狩野芳崖(1828~1888年)や橋本雅邦(1835~1908年)らと親交を深め、後には東京美術学校創設に協力を求めた。天心による二人への想いは、後の「狩野芳崖」(芳崖への追悼文、『国華』第2号に掲載)および「橋本雅邦」(『太陽』誌1巻号、明治28年3月)によく表れている。

 23歳の1884(明治17)年4月開催の第2回内国絵画共進会に芳崖や雅邦らが出品。同年6月、京阪地方の古社寺調査を文部省から命じられ(3度目)、フェノロサ等が顧問として参加、このとき法隆寺の夢殿を開扉し、秘仏救世観音を拝した。

 同年11月、文部省に図画教育調査会が置かれる。委員は天心ほか前述の小山正太郎をふくめ9名、のちフェノロサが加わる。翌年には、文部省学務一局に美術学校創立準備の図画取調掛が置かれ、天心、フェノロサ、狩野芳崖、狩野友信が委員となる。一方、図画教育調査会では毛筆画採用論者の天心らと鉛筆画採用論者の小山らの意見が対立、天心らの主張が通る。

 24歳の1885(明治18)年1月、観画会(かんがかい 前掲の龍池会から離脱し明治17年創設)が改組され九鬼隆一が名誉会長に就く。このころ天心は種梅鋤夫のペンネームで『大日本美術新報』(天心と今泉雄作の企画により1883年創刊、鴻盟社)に3本の論説を矢継ぎ早に発表する(いずれも『全集』第3巻所収)。(1)「美術ノ奨励ヲ論ス」(第15号、明治18年1月31日)、(2)「絵画ハ配色ノ原理講究セサルヘカラズ」(第19号、明治18年5月)、(3)「日本美術ノ滅亡座シテ俟ツベケンヤ」(第24号、明治18年10月)である。いずれもカタカナ表記の漢文訓読(読み下し)文体で、とくに強調したい所には傍点を付している。なお以下の引用は原文を活かしつつ私が意訳した。

 論説(1)は、前年の1884(明治17)年のうちに絵画共進会、観古美術会、東洋画会、私立絵画共進会が誕生、観画会も組織改定があり、これを美術思想の一般社会への伝播の結果として歓迎するとした上で、日本では美術関係者を下等集団と見下しており、画家も自らを卑下して生気のない作品を作っていると嘆く。その上で美術の奨励は、①公平であるべき、②領域が広大であるべき、③真正であるべき、と大綱を掲げ、美術界各派の功罪を述べる。

 論説(2)は、冒頭に「美麗な彩色を好むのは人の天性」と掲げた上で、「絵画技術のなかで彩色が最も難しい」とし、それを線、濃淡、遠近、明暗、清濁等と比較し、「近世本邦の絵画で十分の着色をしたものはない」と述べる。その上で①「画道のうち水墨を上とする」伝統的思考に縛られている現状を批判、②その社会的背景として禅家・茶家・武家の影響により<黒服>が主流となり、彩色の原理究明がおろそかになったと指摘する。彩色は光線の分割により生まれるもので、その結合分配の法則は理学により証明できる。近年、欧州では<音律>の原理を追究して音楽教育に役立てており、この理学理論を美術にも応用している。したがって「…その粋を摘み、その精を採り、我が天賦の美術精神に加えるは畏れるに足りない」と、積極的採用を主張する。

 論説(3)は、1873(明治6)年のウィーン万博(1851年のロンドン万博から数えて6回目)で高い評価を獲得した日本美術が、以来10年で著しく下落したことを受け、「日本美術の滅亡は眼前にあり…」とする強い危機感を前提に対応策を展開する。「時勢に適合する者は生き残り、時勢に離反するものは滅びる、この自然淘汰の原則はみな知っており、…攘夷鎖港論や竹やり戦法は通じない。…国内の需求と外国の市場に向けて美術の販路を求めるべきである。…西洋美学の真理を適用し、真正着実に奨励するほかない。…これは西洋美術の輸入を指すのではなく、真理に依拠して本邦固有の性質を発達させるという意味である。行政、教育、法律等もっぱら泰西の方法を適用しても、皇国の皇国たることに影響がないとの同じである。美術家よ、美学明鏡を懸けて天魔の醜態を照らし出そう。真理の宝剣を掃いて美術の逆賊を誅戮しよう。躊躇することなかれ。」

 同年2月、学務一局(浜尾新局長)詰めの準判任官となり、地位・権限と責任が強まる。

 25歳の1886(明治19)年1月、図画取調掛の事務所が小石川植物園内に置かれ、天心が同掛主幹に任命される。このころ職務以外で重要なのは、同年5月、桜井敬徳(天台宗法明院)より受戒、<雪信>の戒号を授与されたことであろう。7月、古美術取調のため京阪へ出張(4度目)、古社寺調査の延長と思われる。

 同年9月、美術取調委員としてフェノロサとともにアメリカ経由で欧州へ出張、サンフランシスコ、ニューヨーク、リヨン、ジュネーブ、リバプール等をめぐり、再びアメリカを経由して翌年10月に横浜帰着。1年間にわたる欧州出張は、多くの示唆を得る貴重な体験となった。

 それを記した天心の「欧州視察日誌」(明治20年)が『全集』の第5巻にあり(初めての翻刻)、英文で書かれた箇所には高階秀爾が適宜訳註を付している。分厚い表紙(背と上下の角は布貼り)、縦23センチ、横18センチの横罫ノート。ペンで書き込み、題名はない。

 解題(「本巻の校訂および解題の執筆は木下長宏が当り…」とある)によれば、視察目的は「…日本における美術の教育を喚起し美術の発達を誘導するため…」とあり、その調査事項として次の9つを挙げる。(第一)美術学校の組織管理及学科教授法等、(第二)美術学会其他美術者公会の組織管理、(第三)美術博物館の組織管理及館中標品の陳列保存に関する方法、(第四)美術博物館建築の模様、(第五)公設美術博覧会の処置法、(第六)工芸美術の改良に関する諸要点、(第七)外国営造装飾術の特に日本美術を需要する件、(第八)美術作品を模製する方法、(第九)欧州美術発達の沿革及名作の評説。なお欧州滞在中は浜尾新(上掲学務一局長)を委員長とする、とある。

 文部省派遣の初の欧州視察旅行のため、広く網羅した9項目であるが、分類すると(第一)美術学校、(第二)美術学会、(第三)美術博物館(美術館という日本語はまだない)等の組織管理を学ぶこと、言い換えれば外形的な組織管理の把握が第一で、それに伴う学科教授法や標品の陳列保存法がつづき、さらに(第六)工芸美術の改良、(第七)日本美術の活用法、(第八)作品の模製法、そして(第九)が欧州美術発達史である。

 日誌は1886年3月2日のリヨン(フランス)での記述(281ページ~)に始まる。横浜を出てすでに半年を経過しているためか、初めての外国旅行の気負いは見られない。なぜリヨンの記述から始まるのか、それまでの日誌はないのか、現段階では不明である。

 リヨンは絹織物の集積地で養蚕地帯を背後に持ち、かつ日本産生糸の輸入港でもある。まず美術学校を訪問、工業デザインを中心として①絵画、②彫刻、③版画、④花の装飾的意匠のコースや必修科目等の記載がある。これに続けてフランスは絹織物の最大のライバルであるとし、その対抗策に関する政治経済的分析を含め、日本産生糸の改良や日本独自のデザイン強化等に言及する。

 翌日、リヨンを発ち、ヴォアロン等の職業学校や小学校等を訪れ、画家は二次元(平面)で彫刻家は三次元(立体)で捉えるため、両者の差異をしっかり教えるべしと批判する。ジュネーブでは時計工場や美術館を訪れ、ついでヴェニス、ヴァチカン、ナポリ、マドリード以降の記載はごく簡潔。次がイギリスのサウスケンジントンに飛び、8月7日のリバプールで美術に関する諸施設を一覧する記述(325ページ)で終わる。計44ページ。

 その3倍ちかくの119ページ(326~445ページ)分がプライベートな心覚えや断片であり、後に書き込んだもの(日付入りもある)。美術教育機構の構想、26歳の天心の煩悩の独白、出発時の漢詩、欧州画家の分類表、家の見取り図までを含み、広く旅行中の日記を基に後に加筆された備忘録と言える。

 帰国寸前の1887(明治20)年10月、文部省告示で図画取調掛(掛長が天心)を東京美術学校と改称、また2年前に準判任官になったばかりの天心が奏任官四等に昇進、これにより東京美術学校創設にむけて天心の役割と権限・責任が一挙に高まる。

 欧州視察成果に関する正式の報告書は不明であり(上掲の解題による)、わずかに天心の講演「観画会に於て」(『全集』第3巻、原載は1887(明治20)年11月6日の「大日本美術新報」終刊号の第50号)に一部が見られるのみである。それは帰国報告の形で<観画会>の主義を定めるべしとして、次のように言う。

 「…美術のことようやく世人の注意を惹起するにいたった今日、…世人の関心は東西両様の美術のうちどれを取るべきかにある。…」と述べ、現状の考え方を①純粋の西洋論者、②純粋の日本論者、③東西併設論者即ち折衷論者、④自然発達論者の4つに分け、それぞれの特徴を示して批判した後、観画会が実践する④に依拠せざるを得ないとし、「自然発達とは東西の区別を問わず美術の大道に基づき、理のある所は取り、美のある所は究め、過去の沿革に拠り現在の情勢に伴って開達するものである。…日本の美術家諸君よ、美術は天地の共有である。東西の区別をすべきではない。…上は皇国の光栄に関し、下は貿易の消長に係り、諸君の責任は重い。泰西理学の結果を軽視せず、勉めて精神を存養し、他日の大成を期していただきたい。自から信じ、疑うことなかれ」と結ぶ。

 欧州視察前の3本の論説を補強する2年後の論述であるが、天心26歳の意気込みが感じられる。表現にいささか力みもあるが、観画会という仲間への呼びかけであれば当然とも言えよう。(続く)
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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